(港の見える公園 フランス山)
フランス山の風車
この場所は、元治元年(1864)以来、フランスに租借され、明治二十九年(1896)にはフランス領事館が設置され、人々はいつの頃からか「フランス山」と呼ぶようになった。領事館が建設された時、井戸水を汲み上げるための風車も合わせて建造された。フランス山に公園を整備するに当たって、往時を偲ぶモニュメントとして風車が再現されている。
文久三年(1863)には、自国民の保護と居留民の防衛を目的にフランス海兵隊が当地に駐屯した。海兵隊は、明治八年(1875)まで約十二年にわたって駐留を続けた。
横浜ボウリング発祥の碑
元治元年(1864)、横浜外国人居留地に、長崎に次いでボーリング場が開場されたという記録がある。実は私は神戸三宮でも「ボウリング発祥の地」に遭遇したが、それによれば神戸居留地の外国人がボーリングを始めたのは、明治二年(1869)という。単純に年号を比較すれば、横浜の方に軍配が上がりそうである。

クリーニング業発祥の地
我が国において西洋式のクリーニング業が始められたのは、安政六年(1859)、神奈川宿青木屋忠七が横浜本町で開業したのが最初という。
その後、岡澤直次郎が横浜元町で清水屋を開き、慶應三年(1866)、脇澤金次郎がこれを継承した。この間、フランス人ドンハルが技術指導し、事業の普及発展に寄与した。
(山手迎賓館)
機械製氷発祥の地
開港から明治初年にかけて、横浜では箱館やボストンから切り出された天然氷を扱う会社がいくつも設立された。明治十二年(1879)には我が国最初の機械製氷会社ジャパン・アイス・カンパニーが設立された。大正十二年(1923)の関東大震災で建物は倒壊したが、翌年には再建されて平成十一年(1999)まで稼働を続けていたという。
(ヘボン博士山手居住地)
山手ヘボン博士居住地
山手245番の門扉に、ヘボン博士の肖像が彫られている。明治二十二年(1889)から三年間、ヘボンは当地に居住していた。
(キリン公園)
麒麟麦酒開源記念碑
文化遺跡 日本最初の麦酒工場
一見するとどこにでもある普通の公園であるが、キリン公園はかつて我が国初のビール工場のあった場所である。当地にビール工場が開設されたのは、明治三年(1870)のこと。米国人コープランドが開いたスプリング・バレー・ブリュワリー醸造所は、その後曲折を経てキリン・ビールに引き継がれた。公園には、巨大な麒麟麦酒開源記念碑が建立されている。
現在、日本のビールといえば、アサヒとキリンとサッポロが寡占しているが、それぞれ生い立ちに特徴がある。アサヒは、灘の酒造業を背景に設立された。つまり「技術」があった。キリンが横浜で事業を始めたのは、居留地の外国人という「市場」があったためである。これに対してサッポロが北の大地を基地にビール造りを始めたのは、北海道が原料であるホップの製造に適していたから、つまり「原料」を理由とした立地である。そういった歴史を知ると、それぞれのビールが味わい深い。
(妙香寺)
妙香寺
妙香寺は、「国家君代発祥の地」と「日本吹奏楽発祥の地」というちょっと珍しい言われのある寺である。

国歌君代発祥之地
薩摩藩軍楽隊に対し、イギリス人フェントン(イギリス大使館護衛隊歩兵大隊軍楽隊長)が、国歌の必要性を進言し、これを受けた大山巌(当時は薩摩藩歩兵隊長)の愛唱歌である薩摩琵琶歌「蓬莱山」から歌詞が採用され、明治二年(1869)フェントンが妙香寺にて作曲したのが「君が代」の原型といわれる。ただし、この歌は西洋風であったため日本人に馴染めず廃止された。その約十年後の明治十三年(1880)、日本人やドイツ人海軍軍楽教師エッケルトらの手によって現在の国歌「君が代」が誕生した。
日本吹奏楽発祥の地
明治二年(1869)、薩摩の軍楽生三十名がフェントンに軍楽の指導を妙香寺にて受けた。これが我が国における吹奏楽の嚆矢という。
(山手公園)
日本庭球発祥之地
テニス発祥記念館
今やテニスは、我々日本人にとって最も身近なスポーツの一つとなった。実はうちの嫁さんもテニス部の出身だし、長女も次女もテニス部に所属している。テニスが我が国に入ってきたのは、明治十一年(1878)。やはり横浜がその窓口となった。現在、山手公園(横浜市中区山手町230)のある高台には、我が国最初のテニスクラブが創設されたことから、日本庭球発祥の地碑が建てられている。その名に相応しく、山手公園には見渡す限りテニスコートが広がる。
公園内には、テニス発祥記念館(入場無料)も併設されている。昔懐かしい木製のラケットなどが展示されている。ステンドグラスは、山手公園でテニスを楽しむ人たちの様子を描いたものである。
日本最初の洋式公園
山手公園は、我が国における最初の洋式公園でもある。横浜居留地の外国人の要求を受けて、明治三年(1870)に開園したという。
(元町公園)
ジェラール水屋敷地下貯水槽
幕末に来日したフランス人実業家、アルフレッド・ジェラールは、この地の豊富な湧水を利用して、横浜に寄港する船舶に対する給水事業を始めた。そのためジェラールの家は、「水屋敷」と呼ばれた。ジェラールは、さらに敷地内に蒸気機関を導入した工場を建設し、煉瓦、土管、タイルなどの建設資材を製造販売した。元町公園がほぼ当時の工場の敷地に匹敵し、現在貯水槽が再現されている辺りが工場入口だったという。
我国塗装発祥之地記念碑
元町公園には、塗装業発祥の地を記念した見上げるほど背の高い石碑がある。我が国における近代塗装は、嘉永六年(1853)、米艦来航の折、神奈川宿に交易談判所が急造され、江戸の渋塗り職町田辰五郎がアメリカ人の援助の下、洋風塗装したのに始まるという。開港により横浜に外国人が居住するようになると、建物のペンキ塗装が必要となり、横浜から全国に塗装業が広がった。

山手80番館遺跡
元町公園には、関東大震災で倒壊した異人館80番館の遺跡が残されている。
(元町・中華街駅)

横浜天主堂跡
文久元年(1861)十ニ月、横浜居留地80番地にて開国後最初のカトリック教会の聖堂の献堂式が開かれた。正式名称を「聖心聖堂」というが、建物に「天主堂」という文字があったため、天主堂と呼ばれた。聖堂はその後山手44番地に移転したが、昭和三十七年(1962)に天主堂百周年を記念して石碑が建立された。
日本洋裁業発祥顕彰碑
文久三年(1863)、イギリス人女性ピアソンがドレス・メーカーを開業したのが、洋裁業の始まりである。居留地の外国人女性は、日本人の足袋職人や和服仕立職人を使って裁縫をさせた。ここから横浜で婦人洋服仕立諸君が育ったという。
元町・中華街駅3番出入口
元町・中華街駅3番出入口周辺には、婦人衣服裁縫所ビンセンド商会があった。出入り口の構造物は、ビンセント商会の建物外観を模して造られている。