史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「箱館奉行所始末 異人館の犯罪」 森真沙子著 二見時代小説文庫

2013年12月23日 | 書評
文庫に巻かれた帯の「凄腕の箱館奉行 小出大和守秀実を知っていますか」というキャッチフレーズに惹かれて、この本を手に取った。
「後書き」によれば、筆者森真沙子氏は、ほぼ二十年間を函館で過ごした函館人である。その筆者が「驚いたのは、江戸表から送り込まれる箱館奉行たちが、傑物揃いだったこと」という。これが本書(というか、新シリーズ)を執筆する動機だったようである。
主人公支倉幸四郎は創作された人物であるが、支倉の目を通して筆者が描こうとした小出秀実は実在の人物である。この小説に描かれているように、小出奉行は英国領事と対等に渡り合い、アイヌの人骨盗難事件を解決に導いた。大筋において史実通りである。
小出秀実といい、その跡を継いだ杉浦兵庫頭といい、いや箱館奉行にかかわらず、この時期の幕府には優秀な人材が数え切れないほど存在していた。それでも幕府は崩壊し、命運は尽きた。この事実は、トップマネジメントの舵取りが、組織の存続にとって如何に重要かということを物語っている。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新選組の謎と歴史を訪ねる」 山村竜也著 ベスト新書

2013年12月23日 | 書評
大河ドラマ「新選組!」「龍馬伝」「八重の桜」などで時代考証を担当する山村竜也氏の近著である。山村氏は現在新選組研究の第一人者の一人といってよいだろう。本書にも山村氏ならではの「新選組トリビア」がちりばめられている。
たとえば、若き日の土方歳三は商家での丁稚奉公がつとまらず、短期間で店を飛び出てしまったといわれるが、最近の史料によれば十四歳から二十三歳まで奉公をつとめ続けてきたことが判明したという。
本書で明らかにされた最大の新事実は、平成十六年(2004)に公開された山崎烝の手記「取調日記」によって、新選組の編成が明らかになったことであろう。「取調日記」によれば、慶応元年(1865)時点の在隊者は百四十七名。そのうち百三十人が八隊および諸士調役兼観察、小荷駄方、文学師範に分類されている。通説では新選組は十隊から構成されていることになっているが、これにより八隊編成であることが明らかになった。一隊は一人の組長と二人の伍長のもとに、十名の平隊士、計十三名から成る。
本書では最新の研究成果とともに、最新の史跡の状況も報告されている。といっても、史跡がコロコロと変化しているわけではなく、特段の目新しさがあるわけではないが、東日本大震災の影響で、福島県白河市の小峰城の石垣の一部は崩落しており復旧には数年かかる見込みという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「渋太夫自害 奥羽の戊辰戦争」 小山啓天著 日本文学館

2013年12月23日 | 書評
ブログのコメント欄に筆者ご自身より投稿があった。個人的に興味のある「奥羽における戊辰戦争」を描いたとあったので、早速取り寄せてみた。
著者プロフィールによれば、小山氏は実母の介護の傍ら、夜長をもてあまし六十七歳にて初めて小説を書いたという方である。
残念ながら素人の作品という臭いは拭えず、率直にいって文章は稚拙である。一つの文の中に主語が複数あったりして、(この本は八十ページ足らずの短いものであるが)おかげで読むのに少々苦労した。
また、最初の四章では桜田家や清河八郎のことが描かれているが、五章目から突然仙台藩の戊辰戦争の叙述が始まり、最後の十五ページくらいのところで再び清河八郎が登場する。仙台藩の戊辰戦争の下りはノンフィクションであるが、後段はフィクションとなる。読み通してみても、どうしてこういう構成になっているのか、理解できないままであった。
ということで、作品としては成功しているとは言い難いが、それでも七十歳に近い方が自力で作品を書きとおしたということには、素直に敬意を表したい。
新選組の山南敬助は比較的メジャーな存在である。しかし、その出自や経歴には謎が多い。仙台藩の出身といわれているが、仙台藩には「山南」という姓は存在しておらず、以前から偽名説も囁かれている。
本作品は、山南敬助の謎を題材にして、筆者なりの答えを出したものである。小説としてはOKかもしれない(つまり想像としては面白い)が、これが真実かどうかは新しい史料が発見されない限り誰も証明はできない性格のものである。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「剣」 綱淵謙錠著 中公文庫

2013年12月23日 | 書評
綱淵謙錠といえばお馴染みの漢字一文字題の作品を集めた短編集である。漢字一文字で鋭く作品の本質を表している。本書には十編が収められているが、後半の五作「斃」「龍」「難」「憎」「瞬」が幕末から明治初年を舞台にした作品である。昭和六十三年(1988)に発刊された文庫であるが、やはり現在絶版となっており、古本屋でなければ入手は難しい。
綱淵謙錠氏の歴史小説は「史伝文学」とも称されているが、無用な脚色や作り話を盛り込まず、贅肉をそぎ落としたような作風が特徴である。こういう重厚な作風は、今の世には受け入れられにくいのかもしれない。
「斃」は吉岡艮太夫(維新前は勇平)という幕臣を描いた短編である。吉岡艮太夫は幕府海軍草創期に関わった人で、咸臨丸でアメリカに渡った経験もある。彰義隊とは一線を画し上野では戦わなかったが、徳川家の処分が発表されたとき、あまりの石高の低さに激昂したといわれる。やがて上野の敗残兵や旧幕臣などが彼の名を慕って集まってくる。反政府分子として追われる身となった吉岡艮太夫は僧に身をやつして逃亡する。しかし、明治三年(1870)東光院に潜伏しているところを捕えられ、処刑されてしまう。
「龍」は坂本龍馬の暗殺を生々しく描いた作品。「後藤象二郎という、いわば二流政治家が(中略)その実力以上の才能を発揮して一流政治家並みの大事業を成し、陸離たる光彩にいろどられるのは、坂本龍馬という人間を影の演出家としていたわずか一年足らずの期間であった」という指摘は、慧眼というべきであろう。
続く「難」は、幕府海軍に属し銚子沖で遭難した美賀保丸に乗り合わせた山田昌邦(静五郎)を語り手に置いた作品。山田昌邦は明治二十年(1888)東京製綱(スティール製のワイヤーロープのメーカー。本作では東洋製鋼となっている)の創立に尽力した人であるが、遭難時に美賀保丸を牽引するロープに翻弄され、このときワイヤーの重要性を身をもって実感したという逸話が面白い。因みに東京製綱株式会社は、今も高品質なワイヤーロープを供給している。
「憎」は、会津藩の束松事件を描いた作品である。私も今年のGWに会津坂下を旅したとき、束松峠を訪ねた。今は整備された走りやすい道になっているが、決して車両は多くなかった。当時は主要街道沿いにあり人馬の往来も多かったと思われる。会津藩士伴百悦と高津仲三郎(維新後、中原成業と変名し思案橋事件にて処刑)の二人は、束松峠で越前藩士久保文四郎を待ち伏せし、討ち果たした。ここに至るまで会津藩士たちの久保村に対する憎悪は積もり積もっていた。官軍の権威をかさにきて、戦死者の埋葬を許さない久保村。遺体埋葬に奔走する伴百悦は、当然久保村と衝突したであろう。暗殺は決して感心する行為ではないが、久保村のような人情を理解しない為政者の末路としては、これも「已む無し」と思ってしまう。
「瞬」は幕末の剣客榊原鍵吉を主人公としたものである。榊原鍵吉は講武所の剣術師範に選ばれるなど、この時代を代表する剣客であったが、この剣客にして生涯一度も人を斬ったことがなかったという。綱淵謙錠は榊原鍵吉の生涯をさまざまなエピソードを交えつつ描くが、その向こうに見えるのは一剣客の崇高な人柄である。維新後は決して経済的に恵まれなかった。周囲の勧めに応じて一度だけ撃剣会を開き、大成功を収めたが、その後二度と撃剣会という〈見世物〉には手を染めなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山国隊」 仲村研著 中公文庫

2013年12月23日 | 書評
これも古本屋でたまたま見つけた本である。文庫本としては平成六年(1994)に発刊されたものであるが、著者(故人)が初めて世に問うたのは、山国隊結成から百年目の昭和四十三年(1968)というから、半世紀近くも前ということになる。山国隊のこと、山国隊を生んだ山国の歴史、山国隊が直属した因州藩のこと、因州の河田左久馬のこと、著者の先祖と同姓の景山龍造のことなど、話題は広範にわたるが、手抜きの無い調査の手が及んでいる。改めてこの時期の中公文庫には見るべき書籍が多いことを再認識した。
昨今、毎日のように新刊本が出版され、その大半が泡沫のように消えていく。売れなければ、絶版になってしまうのは商売の原則からすれば当たり前のことかもしれない。しかし、売れなくても価値のある作品も少なくない。こうした良書については細々とでも良いので、出版し続けて欲しい。
山国隊は、鳥羽伏見における新政府と旧幕府軍の衝突を契機に農兵が組織化されたものである。戊辰戦争の戦場にはかなり広範に出征している。彼らが体験した最激戦が、宇都宮攻城戦とその前哨戦である安塚における戦いである。山国隊はこの戦闘で死傷者を出しながら、戦功を挙げた。今も宇都宮市内や近郊には山国隊士を葬った墓が残されている。
その後の足跡は、甲州勝沼、上野、小田原、いわき平、仙台にまで及ぶ。いずれも新政府軍と旧幕軍との間で激戦が交わされた場所である。戊辰戦争を通じて、山国隊士三十五名のうち、戦病死者は七名であった。
彼らは決して軍事的に教練を受けた部隊ではなかった(出陣前にわずかに訓練を受けたようである)が、それでも各戦場で活躍できた根底には、千年来天皇の御信任の厚い勤王の地の部隊であるという誇りがあったのかもしれない。
本書の第九章は「山国隊の栄光と悲劇」と名付けられているが、まさに光と影は表裏一体であった。本書では山国隊の活躍を描くとともに、背後に潜む名主層と従士層の軋轢にも言及する。このため一時、山国隊は分裂し仙台まで従軍したのはわずかに三名に過ぎなかった。
晴れがましい凱旋帰郷の裏でも、組頭藤野斎(我が国映画黎明期の映画監督、プロデューサーである牧野省三の父)は金策に走り回らねばならなかった。小田原では隊士が放歌散財する騒ぎがあって、藤野はその対応にも奔走する。華々しい戦功を挙げた山国隊であったが、その裏では人知れぬ「影」の歴史があったのである。
現在、毎年十月に行われる京都の時代祭では、その行列の先頭には常に山国隊の姿がある。本書を一読すれば、一味違う時代祭を楽しむことができるだろう(実は私は京都出身でありながら、時代祭を見たことがないのですが…)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山県有朋の「奇兵隊戦記」」 一坂太郎著 洋泉社歴史新書

2013年12月23日 | 書評
 山県有朋というと、権力志向が強く、庶民の人気が極めて低い。陰気で執念深いこの男が、どうして明治の世で異例の出世を遂げることができたのだろうか。本書は維新前、主に奇兵隊軍監として活躍した山県有朋の姿を活写したものである。
 著者がベースにしたのは、山県有朋自身が書き残した「回顧録」である。本人が晩年になって書いたものであるから、記憶違いも多いし、本人の自慢話が鼻につく。その点は割り引いて読む必要があるが、それでも維新後の陰気臭い印象と違って、この時代の山県は溌剌としている。慎重居士といった側面もあるが、一方で同僚や藩政府幹部に対し堂々と自説を主張する。時に怒鳴り散らし、時に悲嘆の涙を流す姿は人間味にあふれている。
 必ずしも自慢話だけでない証左に、戊辰戦争後、山県は箱館戦争で戦功のあった前原一誠、山田市之允(のちの顕義)らと並ぶ永世禄六百石を得ている。時に命懸けの活躍があったからこそ、明治政府でも重用され、いつしか絶大な権力を手に入れるに至ったのであろう。
 著者一坂太郎氏の曽祖父一坂俊太郎は、徳島市長を務めた人で、山県有朋に近い人だったようである。そういう縁もあって、著者は比較的好意的に山県有朋を描いている。とかく悪者として扱われることの多い山県であるが、著者の距離感は新鮮であった。
 あまり取り上げられることはないが、維新後、奇兵隊は悲劇的な最期を迎える。藩内抗争や対幕戦争で重要な役割を果たした奇兵隊であったが、特に農民や商人層出身者は反抗的であり、次第に藩の手に負えなくなっていた。しかも、戊辰戦争が終結すると、彼らの軍事力は無用のものとなっていたのである。明治二年(1869)十二月、藩政府が命じた帰郷命令に反発した奇兵隊士は大挙して藩政府に押し掛けた。世に「脱隊騒動」と呼ばれる。藩政府(中央政府から木戸孝允も乗り出していた)は武力弾圧で応じ、奇兵隊幹部百名余りを処刑した。
奇兵隊を足掛かりに新政府高官となった山県有朋は、あたかも奇兵隊の混乱には無関心を装い、そのとき欧州を視察旅行中であった。山県に好意的な一坂氏であるが、さすがにこの場面については(明言はしていないが)山県の姿勢を批判的に描いている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「名古屋名家墓地録(全)」 日比野猛著

2013年12月23日 | 書評
 このところ幕末の尾張藩に起きた青松葉事件にはまっている。慶応四年(1868)一月、佐幕派の十四名が斬首、二十名が永蟄居や隠居・減知という処分を受けた事件である。
 かつて私は七卿落ちの七人の公家の墓だとか、桜田門外の変の実行犯十八人の墓など、「シリーズもの」の掃苔を成し遂げたが、今回青松葉事件で処刑された十四名の掃苔に挑むことにした。
 手始めに名古屋市内の図書館の郷土史コーナーで下調べをした。意外なことに青松葉事件を取り上げた書籍は、市内の図書館でも決して多くない。地元でも忘れられた事件となっているのかもしれない。諦めきれずに書棚を漁っているうちに見つけたのが本書である。
 本書は小牧市在住の日比野猛氏が、大正時代に発刊されていた「名古屋市名家墓地録」(全四巻)をもとに情報を更新し、活字化した労作である。時間の経過とともに、墓碑は苔むし、時に移葬され、人々の記憶から消え去る。名古屋に関係する千人余りの人物の膨大な数の墓を一つずつ当たり、記録を修正するのは気が遠くなるような作業であったろう。本書は著者の汗の結晶である。
 本書には、青松葉事件の犠牲者十四名の墓の在り処が記載されているだけでなく、その法名まで併記されている。名古屋の古い墓は、正面に法名が刻まれているものが多いので、これが大変役に立つ。
 早速、必要なところを写し取って平和公園を歩いたが、半日歩き回って、出会ったのは四名の墓に過ぎない。前途多難を予感させた。
 残る十名の墓を訪ね当てるためには、本書を片手に回らねば極めて効率が悪い。本書は自費出版に近い形で発行されたものらしく、古本サイトやAMAZONなどで検索してもひっかからない。そこで、不躾ながら著者ご本人にハガキを送り、本書を手に入れたい旨伝えた。すると数日で本書が届いた。
 手元に届いた書籍には、著者が手書きで情報を更新・修正したあとが残されていた。わずかな法名の間違いや没年月日の違いなど、細かく修正されているところに著者の執念と几帳面な性格が伝わってくる。
 我が家から名古屋は決して近くない。これまで関西・四国方面に出張や帰省の都度、途中下車して市内の史跡を訪ねていたが、この次はこの本を頼りに時間をかけてじっくり歩いてみたい。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡 Ⅳ

2013年12月21日 | 静岡県
(宝泰寺)


宝泰寺

 静岡駅からほど近い繁華街の中に宝泰寺がある。墓地に入ると、すぐ左手に古い墓石が集められている。


壮士之墓

 壮士之墓には、美賀保丸の遭難者を弔うために建立されたものである。美賀保丸は、幕府艦隊に属し、榎本武揚が品川を脱して箱館を目指した折、暴風雨に遭遇して座礁沈没。乗組員のうち十三人が水死した。


柳斎戸家先生墓(右) 
従七位戸塚積斎先生之墓

 戸塚柳斎は、幕末の儒医。戸塚静海は実弟である。詩人としても名を成した。隣の戸塚積斎は、柳斎の養子で、海軍医となった。

(久能山東照宮)


久能山東照宮拝殿

 静岡市駿河区と清水区の境界辺りに久能山がある。久能山は標高二百十六メートル。山という割には大きな隆起とはいえないが、実際に千百五十九段の急峻な階段を昇り切ると息が上がる。
 久能山東照宮は、家康の遺言に従って遺体がこの地に葬られ、秀忠によって東照宮が造営された。
 明治後、松平健雄(容保の次男)が久能山東照宮の宮司を務めたとき、外国からイチゴ苗を入手し、それが今日の「石垣イチゴ」の起源となったという。

(宝台院別院)
 久能山麓の宝台院別院は、かつて照久寺と呼ばれる榊原氏(徳川四天王の一人、榊原康政の兄、清政の家系)ゆかりの寺院であった。今も墓地の片隅に榊原氏の墓地がある。
 榊原家墓地の中に「戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑」と説明の加えられた墓石がある。横長の長方形の墓石自体は、文字がほとんど読み取れない。


宝台院別院


戊辰戦争旧幕府歩兵隊戦没者慰霊碑

(臨済寺)
臨済寺山門の「大龍山」の扁額は、徳川慶喜の筆である。


大龍山


永峰彌吉墓
 永峰(旧姓高橋)彌吉は幕臣出身で、箱館の榎本政権では、榎本対馬、川村録四郎のもとで会計奉行頭取を務めた。維新後は宮崎県知事、佐賀県知事などを歴任した。


東軍招魂之碑

 山門をくぐって右手に東軍招魂之碑が建てられている。建立は明治十八年(1885)。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清水 Ⅱ

2013年12月21日 | 静岡県
(萬象寺)


萬象寺


窪田備前権守源鎮章之墓

 幕臣窪田泉太郎の墓である。備前守。諱は鎮章。神奈川奉行所定番役頭取から歩兵頭。慶応四年(1868)一月四日、鳥羽にて戦死。大阪で火葬され、清水の萬象寺に埋葬された。


克斎蒲池先生(治部右衛門)之墓

 泉太郎の墓に並んで葬られているのが、泉太郎の父、窪田治部右衛門である。晩年、本姓である蒲池姓に改め、号を克斎と称した。父は肥後熊本藩の柔術師範江口秀種で、秀種の父は高橋誠種という幕臣であった。因みに江口秀種の姉の夫が、川路聖謨、井上清直の父、内藤吉兵衛である。内藤吉兵衛の斡旋により窪田家を継いだという。窪田治部右衛門は、清河八郎の策動によって設立された浪士組の取締役に任じられたほか、神奈川奉行所定番役頭取、西国郡代などを務めた。維新後は静岡に移住し、七十歳で死去した。

(三保第一小学校)


太田健太郎藤原忠徳墓

 三保第一小学校の正門向いに小さな墓所があり、その中に太田健太郎の墓がある。
 太田健太郎は、弘化二年(1845)の生まれ。実穂神社の神主である。慶応四年(1868)二月、東征軍が近づくと、遠州報国隊の結成に呼応して、富士重本、森元温、鈴木楯雄らとともに赤心隊の結成に奔走した。赤心隊の従軍に当たっては留守部隊を担当し、三保海岸の警備や清水湊米蔵の警備を担った。幕兵を乗せた咸臨丸が清水湊に漂着すると、赤心隊は乗組員を次々と捕えて殺害した。しかも彼らの遺体は埋葬されることなく、放置された。恐らくこのことで赤心隊は旧幕軍の恨みを買ったのであろう。江戸城開城ののち、徳川家の駿府移住が決まると、明治元年(1868)十二月十八日、太田健太郎は兇徒に襲われて斬殺された。二十四歳であった。犯人は、徳川方の久能山警衛の士族ともいわれる。同じ頃、森元温(草薙神社神官)も襲われており、報国隊員、赤心隊員にとって駿遠は危険であることが明らかとなり、彼らは大村益次郎の計らいにより、一時靖国神社の社司に登用されることになった。

(御穂神社)


御穂神社

 太田健太郎が神官を務めた御穂神社である。鳥居の向い側から、「神の道」と称される松並木が真っ直ぐに伸びている。その先に有名な「羽衣の松」がある。


松の並木

(小島陣屋)


小島陣屋跡

 小島陣屋跡である。小島陣屋は、小島藩一万石の藩主松平(瀧脇)氏が宝永元年(1704)に構築した陣屋で、以来百六十年にわたって藩政の中心であった。現在、周囲は畑と民家に囲まれており、陣屋跡も半ば自然に返りつつある。石垣などが往時のまま残されており、わずかに昔日の姿を偲ぶことができる。陣屋は維新後、藩の学問所の後身である包蒙舎小学校の校舎として利用されたが、昭和三年(1928)、移転により取り壊された。


大手門付近の石垣

 幕末の藩主は、松平信敏(高遠内藤家の出身)といった。明治元年(1868)、徳川家が駿府に移されて静岡藩が成立すると、強制的に上総桜井に転封させられた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富士宮

2013年12月21日 | 静岡県
(富士山富士宮口五合目)


サー・ラザフォード・オールコック
富士登山記念碑

 富士山への登山口は、静岡県側から三ルート、山梨県側から一ルート、合わせて四ルートが存在する。このうち富士宮ルートは最も標高の高い二三八〇メートル地点まで自動車で昇ることができる。山頂までは五時間余りと最短ルートとなる。
 私が訪れた目的は、もちろん登山ではなくて、登山口にあるオールコックの記念碑を見ることにあった。登山客でごった返す夏場が過ぎ、秋が深まるのを待った。しかし、五合目にはこの日も多くの登山客が集まっていた。テレビの報道によれば、この日富士山は今季初冠雪が確認されたという。五合目から山頂を望むと、雪化粧した様子が見て取れる。五合目付近は小雨であった。私がオールコックの記念碑の写真を撮影している横を、次々と重装備した登山客が山頂を目指して通り過ぎて行った。
 オールコックが富士山を登ったのは、万延元年(1860)九月のことであった。オールコックは外交官が国内を自由に旅行できる権利を主張し、富士山の登山を強く要求した。旅行であれば特に富士山に固執する必然性はなかったと思うが、これまで外国人が富士山を登頂したことはなく、一番乗りの功名心もあったのであろう。
 オールコックは念願の富士登山を果たしたが、その反動は東禅寺襲撃事件として顕在化する。神聖なる富士山を外国人が穢したことは、攘夷派浪士を刺激したのである。オールコックの富士登山は、書記官オリファント、領事モリソンの負傷、さらに襲撃側、警護側双方に多くの死傷者を出した。結果的にオールコックの富士登山は多くの犠牲を伴うことになった。


富士宮登山口五合目からの眺め
静岡市方面を望む

(村山浅間神社)
 現在、五合目から山頂を目指すのが一般的となっているが、かつて富士登山といえば、当り前のことながら麓から歩いて昇るしかなかった。登山口の一つが村山口であり、村山浅間神社が起点であった。登山者は、神社で水垢離をして身を清め、道中の無事を祈った。さすがに現在ここで水垢離を行う人は見当たらないが、境内に水垢離場が残されている。


村山浅間神社


水垢離場


ラザフォード・オールコック
富士登山150周年記念碑

 村山浅間神社には、平成二十二年(2010)、オールコックの富士登山百五十年を記念して、記念碑が建てられた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする