史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

町屋

2011年02月20日 | 東京都
(泊船軒)


泊船軒

 京成線町屋駅のそばに泊船軒という寺がある。寺なのに「寺」も「院」も付いていないのは珍しい。私も全国数多の寺院を回ってきたが、寺院の付いていない寺院は多分初めてではないか。


武田成章家墓

 泊船軒の墓地に武田斐三郎の墓がある。
 武田斐三郎は、文政十年(1827)伊予大洲に生まれた。緒方洪庵の適塾、佐久間象山の洋式兵学塾に学び、象山の推挙により幕府に登用された。長崎や蝦夷に派遣されて、プゥチャーチンやペリーとの折衝に当たった。安政三年(1856)以降、蝦夷地警備のために箱館に赴き、弁天崎砲台、五稜郭や役所の建設に従事した。その間、諸術調所を開いて洋式砲術などを教授した。門下から前島密らを出した。元治元年(1864)江戸の開成所兵学教授に抜擢された。維新後は兵部省に出仕、兵学寮教授、士官学校主任教授、幼年学校長などを歴任し、士官教育に尽力した。明治十三年(1880)五十四歳で没。

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真鶴

2011年02月12日 | 神奈川県
(真鶴半島 ケープ真鶴)
 JR真鶴駅からバスで二十分。終点のケープ真鶴バス停で下車すると、真鶴半島の突端である。


幕末の台場の遺跡

 幕末、幕府の命を受けた小田原藩では、城下の海岸線の三カ所を含む五ヵ所に砲台を設けた。そのうちの一つが真鶴の砲台である。ケープ真鶴の建物の裏手、太平洋を見下ろす展望台の一角に石碑が残されている。


番場浦方面

 岬の南側の“番場裏”という地名は、砲台に因むものという。

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城里 Ⅱ

2011年02月06日 | 茨城県
(大畠家墓地)


故 桜田烈士 大畠誠三郎増子君墓
大畠婦人理遠媖
(増子金八の墓)

 前回果たせなかった増子金ハの墓にたどりつくことができ、ようやく桜田烈士二十人の墓を全て参ることができた。かつて私は、所謂“七卿”の墓を巡ったことがあるが、桜田烈士については、それ以上に困難を極めた。桜田門外の変から百五十年目である平成二十二年(2010)にそれを達成できなかったのはちょっぴり残念であるが、それでも増子金八の墓の前で一人満足感に浸った。

 増子金八は、桜田門外の変に参加した烈士のうち、海後磋磯之介とともに維新後まで生き残った人物である。変のあと各所に潜伏し、明治後に故郷石塚に帰って、地元の青年に漢学を教えながら、狩猟と読書に余生を過ごしたという。明治十四年(1881)六十歳で死去。石塚の大畠家に養子に入り、大畠誠三郎と改名し、墓は大畠家墓地にある。


石塚稲荷神社

 大畠家墓地は、石塚稲荷神社から北に約二百㍍。桜田門外の変ののち、増子金八はこの石塚稲荷神社にも二日間潜伏したという。

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常陸大宮 Ⅱ

2011年02月06日 | 茨城県
(蒼泉寺)


蒼泉寺

 常陸大宮の蒼泉寺本堂脇には、結城寅寿(朝道)の墓がある。
 結城寅寿の墓がこの寺にあるのは、嘉永二年(1849)、斉昭が藩政に復帰し改革派が政権を握るようになると、同六年(1853)門伐派に対する処分が発せられた。寅寿は、「改革を取り壊して不義不忠が多い」ことを理由に、水戸家の支族松平家の長倉陣屋に拘禁された。安政三年(1856)四月、一度の取り調べも無く斬罪に処された。蒼泉寺は、松平家の菩提寺である。


結城朝道(寅寿)之墓

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常陸太田 Ⅱ

2011年02月06日 | 茨城県
(賀美小学校)


賀美小学校

 常陸太田市小菅の賀美小学校の校庭に豊田天功(松岡)の胸像が建てられている。豊田天功は文化二年(1805)坂野上村(現・常陸太田市上深萩町)の庄屋豊田清三郎の次男に生まれた。十四歳で藤田幽谷に入門。翌年には藤田東湖とともに江戸に出て、亀田鵬斎と太田錦城に儒学を、岡田十松に剣術を学んだ。水戸に帰った天功は、「大日本史」の編纂促進を訴え、これが聞き入れられ国史志表編修頭取に任じられた。斉昭の失脚とともに一時職を失うが、嘉永六年(1853)復職して、彰考館総裁に就任。「大日本史」編纂に尽力するとともに、西欧列強の脅威と海防の重要性を説き、諸藩の有志に多大な影響を与えた。元治元年(1864)六十歳で死去。


豊田天功胸像

(小菅郷校跡)


小菅郷校跡です

 斉昭は藩政改革の一環として藩内に郷校(藩校弘道館の分校的存在)設立を進めた。小菅郷校が開設されたのは、安政四年(1856)三月。周囲は土塁で囲われ、本館のほか、練兵場、矢場が設けられていた。
 元治元年(1864)、天狗党の挙兵に始まり、藩内の抗争が激化すると、郷校はその機能を失い、諸生派が実権を握ると郷校は廃止されるに至った。明治四年(1871)、天狗党が復権すると郷校も再建されたが、翌年学制発布と同時に閉校を余儀なくされた。
 現在、小菅郷校跡は昼間でも太陽の光が届かないほど、密集した杉林と化しており、「小菅郷校跡です」という看板がないと、それと分からないほどになっている。

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筑波 Ⅱ

2011年02月06日 | 茨城県
(普門寺)


普門寺


流芳碑
(田中愿蔵鎮魂碑)

 元治元年(1864)三月、筑波山に挙兵した天狗党は、同年五月、幕府追討軍を邀撃するために再び筑波山に帰陣した。田中愿蔵隊が普門寺に布陣したのは、同年六月中旬という。普門寺赤門の前に、田中愿蔵隊の陣営跡を記念し、併せて鎮魂を込めて、平成三年(1991)石碑が建てられた。

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水戸 加倉井町

2011年02月06日 | 茨城県
(妙徳寺)


妙徳寺

 加倉井町の妙徳寺は、加倉井砂山の位牌を納めている。
 加倉井氏は、甲斐の波木井氏から出たといわれ、水戸の加倉井に所領を与えられた。戦国期には、現在妙徳寺の場所付近に館を建て、土塁や堀を築いた(加倉井館と称す)。その後、成沢村に移って庄屋を務めた。


加倉井館跡

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水戸 成沢町

2011年02月06日 | 茨城県
(加倉井砂山墓地)


加倉井砂山夫妻の墓
(砂山先生加倉井君墓)

 加倉井砂山は、水戸成沢村に文化二年(1805)に生まれ、十六歳で家督を継いだ。天保十一年(1840)斉昭が成沢村に来た際に、漢詩を献上し、これに対して斉昭が詩書を与えるなど、交流を深めた。天保十三年(1842)には偕楽園好文亭に招かれ、そこで砂山の詩歌が大勢の家臣の前で紹介されたこともあった。天保十四年(1843)の藩主斉昭の江戸登りや日光廟予参にも扈従した。一方、砂山は家塾日新塾を経営して、多くの門人を育てた。門下に桜田門外の変に参加した斎藤監物、鯉渕要人、天狗党の首魁藤田小四郎、川崎財閥の祖川崎八右衛門などがいる。安政二年(1855)、五十一歳で亡くなった。

(鹿嶋神社)


鹿嶋神社

 加倉井砂山の墓の近くにある鹿嶋神社は、徳川斉昭が自ら揮毫した扁額や藤田東湖筆の幟一対が奉納されている。一縷の望みを抱いて神社まで行ってみたが、残念ながら奉納の品々を見ることはできなかった。

(日新館跡)


日新館跡

 成沢の交差点を数百㍍北に行くと、日新塾の標識がある。それに従って左に折れると、右手に水戸市教育委員会の建てた日新塾の説明板のある広場に至る。日新塾の建物は、平成十六年(2004)に取り壊され、現在はほぼ更地になっている。

 砂山は、二十歳のときに日新塾を引き継ぎ、以後教育に専念した。門人の数は千人を下らないと言われ、塾舎を新築して三楽楼と名付け、さらに有隣館や不知老斎、行伍塾、万甫楼、日新舎など、塾舎、書斎、寄宿舎を順次増築したと見られる。日新塾では、文武両道の教育方針が採られ、読書、算数、歴史、理科、乗馬、砲術、練兵、撃剣、詩文などの学科があった。砂山は日々講義の席に立ち、学生の質問に答えた。輪講や輪読があり、特定のテーマについて、二組に分かれて討論することもあった。砂山は江戸で高島流砲術を修め、これを日新塾に導入している。

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笠間 Ⅳ

2011年02月06日 | 茨城県
(笠間城跡)
 笠間市の中心部に位置する佐白山(標高百八十二㍍)に、笠間城が築かれたのは鎌倉時代のことである。城郭などは残っていないが、かつて山頂には二層の天守が偉容を誇っていた。現在、天守跡には佐志能神社が建てられている。
 江戸時代、この山城の主はめまぐるしく変わった。延享七年(1747)から廃藩まで、牧野氏の居城となった。牧野氏は、長岡藩主牧野氏を本家に持つ名門譜代大名である。石高は八万石というが、実収は六万石程度しかなかったといわれ、常に藩財政は厳しかった。
 牧野氏は、代々寺社奉行、大阪城代、京都所司代、老中など、幕府の要職を務めた。典型的な佐幕藩であり、天狗党の反乱では藩主牧野貞直は幕府軍として鎮圧に努めた。戊辰戦争では藩論が分裂し紛糾したが、宇都宮攻城戦を前に新政府軍が結城に入城したことを受けて、藩論も恭順に傾いた。


笠間城天守跡


笠間城跡

(笠間小学校)


笠間藩校時習館跡

 笠間小学校の場所に、かつて藩校時習館があった。正門の前に笠間小学校創立の沿革を記した「敬信愛」碑が建てられている。時習館の設立は、文化年間、笠間牧野氏三代藩主貞喜の時代である。

(御旗前)


御旗前

 笠間小学校からJR笠間駅に通じる住宅街の中に御旗前と書かれた石碑が建てられている。石碑には、この地に加藤有隣の十三山書楼があったこと、高杉晋作が二度ここを訪れたことなどが記載されている。
 一坂太郎著「高杉晋作の革命日記」(朝日新書)によれば、高杉晋作は万延元年(1860)九月二日、笠間に立ち寄り、加藤有隣(桜老)を訪ねている。有隣は晋作を歓待した。晋作の「試撃行日譜」によれば、周囲三面がみな山で、山峰が十三あったことから「十三山書楼」と名付けられたという。晋作は、朝から晩まで有隣と議論を交わし、さらに詩文集を借りて宿に戻って徹夜でそれを読んだ。翌日も有隣は晋作を引き留め、食事をご馳走になっている。

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「いろは丸事件と竜馬」 鈴木邦裕著 海文社

2011年02月05日 | 書評
1月末に頸椎ヘルニアを発し、首から左上腕にかけて激しい痛みに襲われ、夜も寝られぬ状態に陥った。医者に行っても痛み止めの薬と湿布を処方されるだけで、なかなか良くならない。立って歩くこともできず、本を読むこともできず、ただひたすら痛みと戦う日が続いた。「人生のリモコン」があれば早送りしたいような十日間であった。まだ快癒とはいえないが、ようやくパソコンに向かえるようになった。ブログも再開することとしたい。

「龍馬イヤー」となった平成二十二年(2010)年末になって発刊された龍馬本であるが、龍馬を手放しに礼賛する風潮に真っ向から逆行する内容となっている。やや言葉が過ぎるところがあるものの、昨今の美化され過ぎた龍馬を見飽きた目には、こちらの龍馬像の方が真実に近いのではないかと見える。
著者は、海事補佐人として現実に海上で起きている紛争をいくつも裁いた経験を有するその道のプロである。著者も指摘しているように、現在の法をもって百五十年も前の事件を裁くのは全くのナンセンスであるが、法を持ち出すまでもなく、海の常識をもってしても紀州藩明光丸側には何の非もなく、土佐藩に多額の賠償金を払う理由はないと断言する。にもかかわらず、土佐が勝利した背景には脅迫と巧みな世論操作があった。
著者は司馬先生の名作「竜馬がゆく」に描かれるいろは丸事件についても、一章を割いて、丁寧に、実にねちっこく反証を試みる。項目だけ挙げると、以下十八項目にわたる。①大洲藩は竜馬の勧めで伊呂波丸を購入したとのこと②二隻の西洋船を持っているのは海援隊しかいないであろうということ③伊呂波丸の船名は竜馬が命名したということ④伊呂波丸の売主がボードインであるということ⑤竜馬が船長であったということ⑥坂本ら土州側が日本有数の万国公法に実務的な知識をもっていたということ⑦事故当時は霧中であったということ⑧佐柳が航海長で水戸浪士だということ⑨航海日誌のこと⑩鉄砲、弾薬を数多く積んでいたということ⑪高柳明光丸船長の経歴のこと⑫衝突時、明光丸に当直士官がいなかったとの非難のこと⑬沈没前に在船していた伊呂波丸の乗組員が汽笛を鳴らしたということ⑭伊呂波丸沈没時、讃岐箱崎の岬の上に片鎌の月がのぼっているということ⑮沈没時に伊呂波丸の乗組員が海に飛び込み明光丸に泳いできたということ⑯英国艦長が「残念ながら、紀州藩は有利ではない。」といったということ⑰岡本覚十郎、竜馬襲撃のこと⑱賠償金のこと。著者は一つ一つ証拠を挙げて、「竜馬がゆく」の記述は史実とは異なる、笑止千万な法螺話である、埒もない竜馬伝説だと切り捨てる。
「竜馬がゆく」は、いうまでもなく坂本龍馬をスーパーヒーローとして描いた小説である。龍馬を英雄に仕立て上げるために、司馬遼太郎先生が手管を尽くして書き上げたものである。龍馬の前半生については事実がはっきりしない部分が多いが、司馬先生は架空の人物を登場させ、想像力を駆使して若き龍馬の姿を描き出した。「竜馬がゆく」は司馬先生が作り上げた虚構であり、史実と異なるのは当たり前のことである。改めて検証すれば、史実と異なる部分など(いろは丸事件の下り以外でも)いくつでも指摘はできるだろう。小説とはそういうものである。ただし、「竜馬がゆく」はあまりにも多くの人に読まれた。結果的に、これが日本における龍馬像のスタンダードになってしまったのである。著者はこれが真の姿とは異なるという意味で警鐘を鳴らしたかったに違いない。伊呂波丸は鉄砲、弾薬を積んでいなかったとしか思えないし、それを理由に紀州藩から多額の賠償金を取った龍馬は決して小説や大河ドラマに描かれているような颯爽とした好男子ではない。
ただひと言付け加えれば、史実と異なるからといって、そのことで「竜馬がゆく」の価値を一つも減じるものではないということである。これほど長きにわたって日本人を鼓舞し続けた小説はほかに無いだろう。
著者の論調は核心を衝いており、小気味が良い。ただ第三章の末尾(P.50)で、平尾道雄の「海援隊始末」を
――― 「竜馬の妻女鞆子と書いているが、通説によれば妻女の名は「お龍」(おりょう)、旧姓楢崎龍だろうに。
と批判するが、これは著者の勇み足というべきであろう。「海援隊始末」でも「ここで龍馬は、あらためて小松帯刀や西郷隆盛らに彼女を妻女として披露し、名を『鞆』とあらためさせた」と書いてある。龍馬がお龍のことを「鞆」と呼んでいたことは、龍馬通の間では、常識である。この本は世の竜馬ファンの多くを敵に回す内容となっているが、揚げ足を取られぬようご用心を。

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