(泊船軒)
泊船軒
京成線町屋駅のそばに泊船軒という寺がある。寺なのに「寺」も「院」も付いていないのは珍しい。私も全国数多の寺院を回ってきたが、寺院の付いていない寺院は多分初めてではないか。
武田成章家墓
泊船軒の墓地に武田斐三郎の墓がある。
武田斐三郎は、文政十年(1827)伊予大洲に生まれた。緒方洪庵の適塾、佐久間象山の洋式兵学塾に学び、象山の推挙により幕府に登用された。長崎や蝦夷に派遣されて、プゥチャーチンやペリーとの折衝に当たった。安政三年(1856)以降、蝦夷地警備のために箱館に赴き、弁天崎砲台、五稜郭や役所の建設に従事した。その間、諸術調所を開いて洋式砲術などを教授した。門下から前島密らを出した。元治元年(1864)江戸の開成所兵学教授に抜擢された。維新後は兵部省に出仕、兵学寮教授、士官学校主任教授、幼年学校長などを歴任し、士官教育に尽力した。明治十三年(1880)五十四歳で没。
泊船軒
京成線町屋駅のそばに泊船軒という寺がある。寺なのに「寺」も「院」も付いていないのは珍しい。私も全国数多の寺院を回ってきたが、寺院の付いていない寺院は多分初めてではないか。
武田成章家墓
泊船軒の墓地に武田斐三郎の墓がある。
武田斐三郎は、文政十年(1827)伊予大洲に生まれた。緒方洪庵の適塾、佐久間象山の洋式兵学塾に学び、象山の推挙により幕府に登用された。長崎や蝦夷に派遣されて、プゥチャーチンやペリーとの折衝に当たった。安政三年(1856)以降、蝦夷地警備のために箱館に赴き、弁天崎砲台、五稜郭や役所の建設に従事した。その間、諸術調所を開いて洋式砲術などを教授した。門下から前島密らを出した。元治元年(1864)江戸の開成所兵学教授に抜擢された。維新後は兵部省に出仕、兵学寮教授、士官学校主任教授、幼年学校長などを歴任し、士官教育に尽力した。明治十三年(1880)五十四歳で没。