史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「お雇い外国人」 梅溪昇著 講談社学術文庫

2015年09月27日 | 書評
我が国における第二次世界大戦後の復興と高度成長は、世界から驚嘆の目で見られた。明治政府による近代化についても、驚異的なスピードで進行した。もちろんそれは、政府の富国強兵策や民間の努力、国民性などをもって説明は可能かもしれないが、いわゆる「お雇い外国人」と呼ばれた人たちの貢献が絶大であった。明治の近代化は、我が国の独力で成ったのではなく、数多くのお雇い外国人の存在があって成し遂げられたという事実を忘れてはならない。
同時に著者が指摘するように、彼らは飽くまで助力者・助言者の域を出ず、政策決定の主導権は明治政府の指導者が堅く維持していたことも強調すべき特徴である。
本書では、フルベッキ、ボアソナード、ロエスレル、ジュ・ブスケ、ドゥグラス、デニソン、キンドル、シャンド、ワグネル、ダイエル、モルレー、モース、フェノロサら、政治、法制、軍事、外交、経済、産業、教育、学術など、幅広い分野において功績を残した外国人を紹介している。彼らはいずれもその分野の深い専門性を有し、超人的な情熱と指導力で黎明期の我が国にその基礎を植え込んだ。困難も多かったとは思うが、同時に極めて遣り甲斐の大きな仕事でもあったであろう。
著者は、彼らが必ずしも本国で成功した者とは限らない。むしろ失意の境遇にあったとき、日本からの誘いがあり、そこに情熱を注いだものが多かったということを指摘する。そういう「後がない」状況だったからこそ、彼らも日本という極東の新興国に骨を埋めてまでも、仕事に没頭したという側面もあるのかもしれない。
この時期に来日した外国人の中には、本国で食い詰めた者やいかさま者が紛れ込むこともあったらしい。大学南校(東京大学の前身の一つ)でも専門的素養のない「商店員、ビール醸造人、薬剤師、百姓、船員、曲馬団の道化役者」がまじり、在留外国人らがこの学校のことを「無宿者の収容所」と酷評したという。とはいえ、我が国にとって幸いなことに、この時期のお雇い外国人の質は概ね良好であったといえよう。
本書は、昭和四十年(1965)に世に出たもので、平成十八年(2006)に、約四十年振りに講談社学術文庫から復刊したものである。今なお価値のある良書といえる。

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池上 Ⅳ

2015年09月17日 | 東京都
(馬頭観音堂)


馬頭観音堂

 大田区池上3‐20‐4の馬頭観音堂に刈谷藩出身で彰義隊士の渡邉健蔵の墓と供養塔がある。渡邉健蔵は、慶応四年(1867)四月、官軍が江戸に進攻すると、密偵として新政府軍の本営に忍び込もうとして捕えられ、この地で斬首された人物である。渡邉健造が斬首された地にのちに馬頭観音堂が建てられた。野良猫が屯するちょっと不気味な空間である。伝承によれば、健蔵(廉蔵とも)は、霊山橋付近で斬首され、その付近の馬捨て場に葬られたという。


不徹子之墓(渡邉健蔵墓)

 この墓は、昭和初期まで胴殻(どんがら)様と称され、祈れば病気が治るといわれた。なお、渡邉健蔵の墓は、鈴ヶ森刑場跡の大経寺にもあり、こちらは御首様と呼ばれて、首から上の病気が治るとされた。

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田町 Ⅴ

2015年09月17日 | 東京都
(薬王寺)


天下一閑人(中林梧竹墓)

 山内香雪の墓に向い合って、香雪を師と仰いだ中林梧竹の墓がある。この墓は梧竹が生前に建てられた寿塔で、側面には「肥前國小城 俗名彦四郎隆経 梧竹堂鳳栖五雲居士 大正二年八月四日卒」と刻まれている。
 中林梧竹は、小城藩出身の書家で、文政十年(1827)の生まれ。藩校興譲館に学び、草場佩川に師事した。のちに江戸に出て、書を山内香雪に学んだ。二十八歳で帰藩し、興譲館指南役を務めた。維新後は役職に就かず、書に専念した。明治十年(1877)頃、長崎に移り住み、清国領事の余元眉と知り合う。明治十五年(1882)、清国に渡り、潘存に師事した。明治十七年(1884)帰国後は、東京銀座の伊勢幸に住み、以来二十九年間をそこで過ごした。明治二十四年(1891)、副島種臣の勧めに従って、王義之の「十七帖」の臨書を明治天皇に献上し、白羽二重の御衣を賜った。明治三十年(1897)、再度清国に渡った。明治三十一年(1898)、富士山頂に「鎮國之山」銅碑を建立した。大正元年(1912)、中風を発症し、翌大正二年(1913)、帰郷したが同年八月病没。行年八十四。

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所沢

2015年09月12日 | 埼玉県
(早稲田大学所沢キャンパス)
 早稲田大学は、所沢にもキャンパスを所有している。スポーツ関係の学部である。ここにも大隈重信の胸像が置かれている。西早稲田の理工学部キャンパスにあるものと同じものである。


大隈重信胸像

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関宿 Ⅱ

2015年09月12日 | 千葉県
(宗英寺)
 宗英寺は、慶長元年(1596)創建の禅宗の寺である。山門の柱の葉彫は、創建当時のものである。境内には、足利晴氏(古河公方)や松平康元(初代関宿藩主・徳川家康の異父兄弟)の墓などがある。


宗英寺


舩橋瑞庵之墓

 今回、わざわざ関宿の宗英寺を訪ねたのは、船橋瑞庵の墓を掃苔するためであった。
 船橋瑞庵の墓は、裏手の墓地ではなく、本堂の前にある。
 瑞庵は、寛政七年(1795)、関宿に生まれる。本名は船橋穀信といい、瑞庵は隠居後の名である。壮年より藩の用人となり、嘉永元年(1848)には中老に進んだ。その頃、今でも瑞庵堀と呼ばれる水路の治水工事(関宿から野田まで)を数年の歳月をかけて完成させた。この治水工事により当地における水害はほとんどなくなり、作物の収穫高も飛躍的に伸長したという。明治五年(1872)四月、七十八歳にて死去。

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下野

2015年09月12日 | 栃木県
(甲田家墓地)


河野家由緒碑

 下野市本吉田の県道44号線沿い、鬼怒川を渡る大道泉橋の手前に、河野家墓地がある。ここに河野顕三ら一族の墓がある。


贈従五位甲田(河野)顕三墓

 墓地にある河野家由緒碑によれば、河野家の本姓は甲田といい、河野顕三の墓石にも本姓である甲田顕三と刻まれている。
 甲田家が何時どういう経緯でこの地に定着したのかは詳らかではないが、本家の庄兵衛の時、彦右衛門が分家を立てて独立したのに始まる。彦右衛門は長崎に遊学して医学を修め、帰郷後、摂生亭と名乗って開業した。嗣子貞文も家業を継いで徐嘯と号して、父子ともに令名が高かった。その後、弘雄、民雄、顕雄と続く。顕雄の妻は、「下野国誌」十二巻を著した河野守弘という人の一人娘で千世といった。この二人の間に生まれたのが、顕二、顕三の兄弟で、いずれも医学を学び、父子とも勤王の志が厚かった。顕二は万延元年(1860)、松前で客死。顕三は文久元年(1861)の坂下門外の変に参加して斃れた。河野家は断絶の危機に瀕したが、顕三の妹、テルが婿を迎えて家系を継いだ。


甲田顕二釋戒忍居士墓


贈正五位河野守弘墓

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宇都宮 Ⅵ

2015年09月12日 | 栃木県
(東刑部)


良眞禅定門
(増渕仙吉墓)


 増渕仙吉の墓である。墓地とも呼べないような藪の中にある。玉垣で囲まれており、官修墓地のようでもあるが、はっきりとは分からない。墓も半ば雑草で覆われている。
増渕仙吉は仙助とも。軍夫。慶応四年(1868)九月一日、会津火玉峠で負傷。十一月六日死亡。二十二歳(六十六歳とも)。以上、「幕末維新全殉難者名鑑」による。


増渕家之墓

 近くの墓地にある増渕家の墓の傍らにある墓標によれば、増渕仙助は明治元年十一月六日、二十一歳にて死去したと記されている。「幕末維新全殉難者名鑑」の記載と合致しているところと、異なっている部分がある。

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那須塩原 Ⅳ

2015年09月12日 | 栃木県
(烏森公園)


烏森神社

 明治十二年(1879)、印南丈作、矢板武らの要請に応えて、伊藤博文、松方正義が烏ヶ森から那須野が原を視察し、明治十四年(1881)の明治天皇の東北・北海道巡幸の際には、名代として有栖川宮熾仁親王が訪れた。さらに明治十八年(1885)には那須疎水起工式、明治二十七年(1894)には那須開墾社成業式が開かれる等、那須野ヶ原開墾、那須疎水開削にゆかりの深い場所である。丘の上の烏森神社は、社伝によれば、その前身である烏ヶ森稲荷神社の創建は延喜二年(902)とされるが、明治二十一年(1888)に現在の社殿が完成し、以来「開拓のおやしろ」として崇敬を集めてきた。


印南丈助頌徳碑

 印南丈作の頌徳碑である。建立は明治二十九年(1896)とあるが、「那須開拓史」には明治三十一年(1898)に建てられたと記載されている。撰文は佐々木高行。書は明治三大書家の一人と称される金井之恭による。
 印南丈作は、天保二年(1831)、日光で生まれ、佐久山宿(現・大田原市)の印南家の養子となった。戸長、県の勧業課付属、産馬協同会社社長を歴任後、明治十三年(1880)、同志とともに那須開墾社を設立し、翌年社長となった。明治十八年(1885)には矢板武とともに那須疏水の開通を実現するなど、那須野ヶ原の開拓に尽力した。明治二十一年(1888)、五十七歳にて死去。


有栖川宮碑

 有栖川宮熾仁親王の撰文および書による碑で、明治十四年(1881)八月、那須野ヶ原を視察したときのことを漢文で記録したものである。建立は明治十五年(1882)。

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那須 Ⅱ

2015年09月12日 | 栃木県
(大沢)
 前日、嫁さんから「明日は自動車を使っても良いよ」と言われたので、急遽栃木県への日帰り史跡旅行の計画を立てた。朝、五時半に出立して、第一目的地である那須町大沢に到着したのは八時半を過ぎていた。天気予報とおり、梅雨前線の影響で午前中はずっと雨であった。当たらなくてもよい予報ほどピタリと当たる。


高根沢新助墓

 高根沢新助は、大沢村出身の農。軍夫。明治元年(1868)九月五日、若松城下で負傷。十八日、死亡。三十一歳。


(小島)


平山忠蔵墓

 平山忠蔵は、小島村出身の農。夫卒。慶応四年(1868)五月一日、岩代白川郡西原堀田にて戦死。五十五歳。

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グリニッジ

2015年09月06日 | 海外
(グリニッジ公園)


グリニッジ公園

グリニッジへは地下鉄を乗り継いで、ドックランズ・ライト・レールウェイ(Docklands Light Railway)のカティーサーク駅で下車すればよい。駅の近くはグリニッジ公園という広大な公園になっており、その中にグリニッジ天文台がある。天文台を探していると、公園をジョギングしていた女性が場所を教えてくれた。
私がグリニッジ天文台を訪ねたのは、例によって早朝六時過ぎであったので、当然ながら施設内に入ることはできなかった。


グリニッジ天文台

 文久二年(1862)四月十六日、遣欧使節団の三使節は博覧会場を訪ねたと記録されているが、同じ日、福沢諭吉はグリニッジ天文台や王立海軍学校を訪問している。

(海軍博物館)
 グリニッジ天文台は高台に位置しており、海軍博物館や旧王立海軍学校を見下ろすことができる。さらにその向こうにはテムズ川、そしてロンドン・シティのビル群が鮮明に見渡せる。


海軍博物館
その向こうに王立海軍学校

(カティーサーク号)


カティーサーク号

カティーサーク号は、1869年に建造され、当時最速を誇った大型帆船である。中国の紅茶やオーストラリアの羊毛を運ぶ運搬船として、インド航路で活躍し、1954年に引退。現在は展示場として活用されている。


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