史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

東松島

2022年12月17日 | 宮城県

(赤井)

 

大槻俊斎先生誕生の地

 

 東松島市内で県道16号線を走っていて偶然この石碑を発見した。竹さんにお願いして百メートルほど逆戻りして、石碑を写真に収めた。

 大槻俊斎は、文化元年(1804)、父武治、母おこしの次男に生まれた。医を志し、十八歳のとき江戸に出、医術を修め、さらに天保八年(1837)より三年間長崎で西洋医学を専攻した。三十七歳で江戸に戻り、町医者を開業。高野長英と親交があった。四十六歳のとき、牛痘による種痘に初めて成功した。五十三歳で仙台藩医に登用され、兄竜之進もまた仙台本藩に召出された。安政五年(1858)、世情騒然とする中で「お玉が池種痘所」を設立した。五十七歳で御番医並びに種痘所頭取に任じられ、のちに種痘所を西洋医学所と改称し(東京大学医学部の前身)、引き続き頭取となった。文久二年(1862)、四月十日、病篤く、没した。享年五十九。

 

(清厳寺)

 清厳寺の裏山には広大な霊園が広がっている。「かたかごの里公園墓地」と名付けられた一画に辺見家の墓が三つくらい並んでいる。その中に辺見鷹治の墓がある。

 

清厳寺

 

廣維院義邦雄戦居士(邊見鷹治の墓)

 

 辺見鷹治は、銃士。登米伊達筑前家来。慶應四年(1868)七月十六日、岩代浅川にて戦死。二十八歳。

 

(如月庵墓地)

 

如月庵

 

戊辰之役戦死 安久津源左衛門之墓

 

 安久津源左衛門は、明治元年(1868)九月十日、磐城鬼石にて戦死。

 

 

 この日は強い日差しに襲われたかと思えば、突然土砂降りの雨が降るといった、目まぐるしい天気であったが、如月庵墓地を訪ねた時には、爽快に晴れた。この日の史跡の旅はここまで。JR仙石線本塩釜駅まで送ってもらって、ここで竹さんご夫妻と分かれた。この次に宮城県を訪ねることができるのが何年後になるか分からないが、その日が来るのを楽しみにしておきたい。

 

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石巻 Ⅳ

2022年12月17日 | 宮城県

(龍谷院)

 

龍谷院

 

 東日本大震災は宮城県沿岸部、ことに石巻市に甚大な被害をもたらしたが、もっとも広く知られているのが大川小学校の悲劇であろう。龍谷院はその大川小学校の近くにある寺院である。この寺も津波に襲われ本堂は流失して、現在は小さな仮本堂が建てられている。また墓地入口には震災の鎮魂碑がある。その近くに羽生玄栄の顕彰碑が建つ。

 

東日本大震災鎮魂碑

 

羽生玄栄翁碑

 

 以下、竹さんの「戊辰掃苔録」より。

 羽生玄栄は、登米伊達家御次医師筆頭。桑名藩士大沢因幡の子で、十七歳の時、江戸へ出て西洋医学を学び、天保十五年(1844)に登米伊達家医師の羽生玄探の養子となり、翌年登米領主の藩医に迎えられた。文久二年(1862)、京都探索方を命じられ、八月ひそかに京に発ち、諸藩の士と交流し情報を得て、藩主慶邦に仙台藩の歩むべき道、攘夷の節を建言した。戊辰戦争では、仙台藩の会津攻めに反対で、征討に踏み切ったことに驚いたが、但木土佐には攻撃を始めることで会津に恭順を示させる意図があった。維新後は新政府の逮捕から逃れ、桃生郡十五濱村長面浜に身を隠し、文墨に独り楽しみ、また長面の青少年を指導し種々の面で指導的立場にあった。明治三十三年(1900)没。七十八歳。

 

(多福院)

 

多福院

 

真橙院徳巖栄傳居士(勝又要七の墓)

 

 勝又要七は、銃士。中村丹宮指揮。慶應四年(1868)七月十八日、岩代高宮にて戦死。

 

(慈恩院)

 

慈恩院

 

長谷平直道之墓

 

 長谷平直道は、戊辰戦争で刑死。長谷和の子で平と称した。この墓は、もと湊小学校の裏にあったが、昭和四十四年(1969)、没後百年を機に所縁の深い慈恩院の平塚家の墓域に移された。

 

(久円寺)

 

久円寺

 

武藤家累世墓(武藤利直の墓)

 

 武藤利直(通称鬼一)は、天保九年(1838)の生まれ。慶應元年(1865)、川俣陣屋支配地取締役。子弟を集めて文武を教授した。戊辰戦争では、細谷十太夫の編成した烏組に属して奮闘した。明治七年(1874)、水沢県一等出仕。翌明治八年(1875)には聴訟課属となったが致仕。のちに試験に合格して公証人となった。明治三十五年(1902)、病を得て没した。七十一歳。

 

(西光寺)

 震災の前から念願であった西光寺の真田喜平次の墓をようやく訪ねることができた。以前は納経塔の裏、竹垣との間の狭い空間に建てられていたらしいが、この寺も東日本大震災で大きな被害を受け、現在は参道に面した開けた空間に移設されている。

 

西光寺

 

西光寺

 

舊仙臺藩真田君碑

 

 真田喜平太は、文政七年(1824)の生まれ。諱は幸歓。真田幸村の後裔と伝えられる。藩主伊達斉邦、慶邦の小姓として出仕。下曽根金三郎について西洋砲術を考究し、安政三年(1856)、講武所ができると、砲術および西洋流調練の指南役となった。文久三年(1863)、藩主に滞京を説いたが容れられず、元治元年(1864)、脇番頭になり、慶応二年(1866)には近習目付となった。軍制改革にあたったが貫徹しないまま、戊辰戦争を迎え、軍目付として会津土湯口に戦った。奥羽越列藩同盟には反対の立場であったが、命によって参謀となった。戦後藩内で最も早く版籍の奉還と郡県制を主唱したが容れられず退隠した。明治二十年(1887)、年六十四で没。

 

真田幸歓妻齋藤氏墓

 

真田昌棟墓

 

 傍らには真田喜平太の妻や息の墓も置かれている。

 

(青葉神社)

 石巻市門脇青葉の青葉神社は、明治十四年(1881)の旧仙台藩士による大街道開拓の際に、藩祖への感謝と開拓の西郊を祈願して、仙台市内北山の青葉神社を分祀して開かれた。大正十一年(1922)には、青葉神社の社殿改築の時に余材をもらい受けて社殿を改築したものが現在も社殿として使われている。

 

青葉神社

 

僊臺藩牡鹿原開墾記念碑

 

 境内に建てられている仙台藩士牡鹿原開墾記念碑は大正九年(1920)の建立。碑文に開墾に従事した細谷十太夫の名前を見ることができる。

 

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石巻 Ⅲ

2022年12月17日 | 宮城県

(耕徳院)

 

耕徳院

 

 耕徳院は、明暦元年(1655)、武田左馬之介貞信の子武田五郎左衛門充信が和渕に屋敷を構えた頃、現在地に移された。その縁で、以来武田家の菩提寺となっている。武田家の祖は、武田信玄の父信虎の十男信次とされ、大阪冬の陣の頃から伊達政宗と接触を持ち、信次の子の重次が政宗に仕え、貞信の時、二代藩主忠宗より拝領した。武田家邸は、和渕入ノ沢山におかれ、その跡地は今でも「お邸(やしき)」と呼ばれている。墓所は耕徳院墓地の一番上に位置している。

 

武田安之助信昌墓

智昭院殿真學道雄大居士

 

 武田家墓所内に武田安之助の墓がある。

 武田安之助は、千八百石。桃生郡和渕住。二番座召出格。小隊長として奇功があった。慶應四年(1868)七月二十八日、磐城熊川にて戦死。三十歳。

 

大智院殿義学道英大居士(武田杢介の墓)

 

武田家墓所からの眺望

 

 眼下一面に水田が広がっている。

 

(林昌院)

 

林昌院

 

戦没勇士慰霊碑

 

 林昌院の門前に戦没勇士慰霊碑が建てられている。この石碑は戊辰戦争から大東亜戦争までの戦死者の記念碑。昭和四十五年(1970)三月に建立された、比較的新しいものである。背面に桃生郡より戊辰戦争に出征した五名の名前が刻まれている。

 

(欠山墓地)

 

岩淵家代々之奥津城(岩淵泰輔の墓)

 

 岩淵泰輔は、瀬上主膳家来。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

鈴木鶴之輔藤信親墓

 

 無縁墓石の中に鈴木鶴之助の墓がある。瀬上主膳家来。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。

 

(梅木屋敷)

 瀬上主膳の墓のある統禅寺が所在する梅木屋敷に戊辰戦争の戦没者慰霊碑が建てられている。令和元年(2019)、戊辰戦争終結百五十年を記念して建てられた比較的新しいものである。

 

戊辰の役全殉難者 慰霊の碑

 

近代の夜明けに礎となった

先人たちの御霊安らかに

令和元年五月十八日

戊辰の役終結百五十年記念

慰霊碑建立奉賛者一同

 

 この立派な石碑が建っているのは、岩淵家の敷地内である。竹さんご夫妻は、ここを訪れて、岩淵家の方に声をかけられ、欠山墓地に岩淵泰輔の墓のことを教えてもらったという。

 

(高徳寺)

 

高徳寺

 

小関直之進の墓

 

 小関直之進は、慶応四年(1868)八月十一日、磐城駒ヶ峰にて戦死。

 

(千照寺墓地)

 

津田家之奥城(鹿又貫之進の墓)

 

 鹿又(しかまた)貫之進は、桃生郡大立目家中。慶應四年(1868)七月十一日、羽前金山にて戦死。

 鹿又貫之進の名前を、津田家の墓碑銘に見ることができる。津田家に生まれ、鹿又家を継いだ人らしいが、墓碑銘を確認しないと、ここに貫之進が葬られていることは分からない。竹さんの執念を感じる。墓標によれば、八月十一日、戦死。二十四歳とある。

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涌谷 Ⅱ

2022年12月17日 | 宮城県

(清浄院)

 

清浄院

 

廣雲軒大澤靈光禅居士(栗山辰三郎の墓)

 

 栗山辰三郎は、伊達安芸家来。遠田郡元涌谷の人。慶應四年(1868)、八月二十九日、羽後六郷鶴田川原にて戦死。

 

白岩家之墓(白岩杢右衛門の墓)

 

 白岩杢右衛門は、伊達安芸家来。遠田郡涌谷の人。慶應四年(1868)七月二十九日、岩代二本松にて捕らえられ斬。

 

(見龍寺)

 

見龍寺

 

 見龍寺には、涌谷伊達家の墓所「見龍廟」がある。中には伊達騒動で有名な伊達安芸宗重の墓もある。

 

栗軒十文字先生之墓

 

 十文字龍介(栗軒)は、仙台藩出入司三好監物や近習安田竹乃輔と親しく、奉行但木土佐の信任も厚く、藩内開国派の中心人物であった。維新後は北海道開拓に従事し、開拓使判官島義勇のもとで勤務した。明治二十四年(1891)、没。

 

頌徳碑

 

 涌谷伊達家家臣森亮三郎の頌徳碑である。以下、竹さんの「戊辰掃苔録」より。

 十一歳で郷学月将館に学び、さらに剣を磨いて西洋流兵術、砲術、弾薬の製作技法等を習得した。戊辰戦争では仙台藩軍本部の副監亘理善右衛門の下で作戦の中枢部員となる。涌谷勢は四月、中山口に会津藩を攻め、急旋回して白河口で西軍と交戦、七月には秋田に兵を進め、参謀長を務めた。八月十四日に六郷町を出て大曲に進んだ時、三方から秋田勢の攻撃を受け、涌谷勢は応戦したが大敗した。この時、亮三郎は止まってなおも指揮中、足に銃弾を受け倒れた。明治二年(1869)、主君亘理元太郎の侍講にあげられ仙台屋敷に伺候した。明治四年(1871)、廃藩置県とともに遠田南方二七ヶ村の郡長となり、以降宮城県一五等出仕、遠田郡小学校取締、三等郵便局事務取扱役、涌谷村戸長を歴任し、明治二十二年(1889)、初代小牛田村長に当選した。明治四十三年(1910)、年八十一にて没。

 

 ここに来てにわか雨に襲われた。傘を自動車に残していたので走って戻ったが、わずかな時間でびっしょりになってしまった。

 

(中野三墓地)

 

桜井家之墓(桜井熊蔵の墓)

 

 桜井熊蔵は、遠田郡黒岡の人。坂本雅樂之介指揮。卒。慶應四年(1868)、六月十二日、白河にて戦死。

 

(猪岡共葬墓地)

 大平与一は、遠田郡小塚の人。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷にて戦死。

 

旭容院泰参心利居士(大平與市の墓)

 

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美里 Ⅲ

2022年12月17日 | 宮城県

(二郷砂押墓地)

 この日は、竹さんご夫妻の案内で、宮城県の美里、涌谷、石巻、東松島を回った。自力では数日かかるコースを一日で回ることができた。前日は豪雨に襲われたが、この日は時々雨に遭ったものの基本的には天気に恵まれた。

 

門間家代々之墓(門間菊三郎の墓)

 

 門間菊三郎は、遠田郡南郷、門間託治の長男。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷で戦死。十九歳。

 

(東光寺)

 

東光寺

 

大〇院浄照成忠清居士(引地幸治の墓)

 

 引地幸治は、伊達安芸家来。遠田郡涌谷二郷住。病床の兄甚吉に代わって従軍。慶應四年(1868)、八月十四日、羽後六郷にて戦死。二十歳。

 

(練牛共葬墓地)

 

木村家之墓(木村五左衛門の墓)

 

 木村五左衛門は、伊達安芸家来。十文字八郎手。涌谷伊達重臣儀兵衛希尚の長男。慶應四年(1868)七月十五日、磐城七曲坂にて戦死。二十八歳。

 

(平針共葬墓地)

 

今野家之墓(今野俊治の墓)

 

 何の変哲もない墓石だが、傍らの法名碑の先頭にただ「清治」とだけ記されているのが、今野清治である。

 今野清治は、銃士。遠田郡涌谷の人。慶應四年(1868)七月十五日、白河にて戦死。

 

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仙台 Ⅻ

2022年12月17日 | 宮城県

(名掛丁藤村広場)

 仙台駅の東口に名掛丁藤村広場がある。島崎藤村が下宿した「三浦屋」の跡地である。広場を見渡す場所に植えられたミヤギノハギは、島崎藤村の生家跡に植えられていたもので、木曽馬籠の藤村記念館から寄贈されたものである。

 

ミヤギノハギ

 

日本近代詩発祥の地

 

藤村の詩碑「潮音」

 

 失恋の痛手から各地を放浪した藤村に生きる希望と感動を与えたといわれるのが、荒浜の海であった。平成二十三年(2011)の東日本大震災では、荒浜の海を巨大な津波が襲い、多大な犠牲を出し、この地も廃墟と化した。この地に建てられていた「潮音」詩碑も傷ついたまま現地に置かれていたが、平成二十七年(2015)、藤村が「潮音」を書いた三浦屋跡に移設された。碑の表面には、震災の時の傷がそのまま残されている。

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仙台 Ⅺ

2022年04月02日 | 宮城県

(大林寺)

 仙台出張の日、例によって早朝から活動を開始し、市内の孝勝寺、大林寺、真福寺を訪問した。本当は自転車を借りる予定であったが、生憎の雨で、自転車は断念した。傘をさして歩くことになった。

 孝勝寺では、戊辰戦争では参謀を務め、戦後は一関県参事や水沢県権令等を歴任した増田歴治(繁幸)の墓を探したが、増田姓の墓すら発見できず。

 次いで大林寺で石母田但馬の墓を探した。石母田家の墓は二か所あり、そのうちの一つに石母田忍先生の墓があったが、これは石母田但馬頼至とは別人と思われる。

 雨は強くなってきたし、これ以上墓地を歩く気力が萎えてしまった。次回以降の宿題である。

 

大林寺

 

石母田忍先生之墓

 

 石母田但馬の父は、石母田勇記。一家格高清水邑主石母田氏の支族である。性温順で、兵学、和漢学に通じ、藩内では尊王攘夷派に属した。安政元年(1854)、建白におよび、以後再三尊攘の趣意を藩主伊達慶邦に建言したが、観念的な域を脱することができなかった。明治元年(1868)の戊辰戦争の終結に活躍した。藩論を降伏に導き、自ら使者となって相馬口の交渉にあたった。のち仙台藩権大参事に任じられ、東京邸庁にあって中央との交渉にあたり、儀部寮、軍部寮の事務を総轄した。

 

 帰宅後、仙台在住の竹さんに調べていただいた結果、石母田但馬の墓は、現在大林寺にはないのではないか、とのことである。さらに孝勝寺の増田歴治の墓も存在していないとの情報をいただいたので付記しておく。

 さらに竹さんに調べていただいた結果、石母田忍とは、漢学者で、号は耐庵。斉藤鹿水(真典)の弟。明治二十三年(1890)、六十二歳で没したという人物で、石母田但馬とは血縁関係はないようである。

 

(真福寺)

 真福寺の道を挟んで向かい側に広い墓地がある。中央を貫く道の行き当りに富田家の墓があり、そこに富田鉄之助、小五郎兄弟の墓がある。

 

真福寺

 

龍勝院倫阿慧光居士(富田小五郎の墓)

 

 富田小五郎は鉄之助の兄。遠藤文七郎、塩森左馬介、大松沢掃部輔とともに仙台藩四天王と称された。戊辰戦争では、岩城口小名浜大隊長となり転戦した。藩が降伏したのを不満とし、小五郎等の勇義第一大隊は徹底抗戦すべく、茂ヶ崎大年寺に屯在し戦闘に備えたが、結局戦わずに解散した。戦後は家禄没収され、禁固に服した。明治二十五年(1892)、年五十八歳で没。

 

鐵畊居士瘞髪之塔(富田鉄之助の墓)

 

 富田鉄之助の墓である。

 富田鉄之助は、天保六年(1835)の生まれ。父は仙台藩着座格で三千石を禄する富田壱岐。安政三年(1855)、二十二歳で江戸に出て、勝海舟の塾に入り、蘭学、航海術、砲術を習得した。慶應三年(1867)、アメリカに渡り、翌明治元年(1868)、帰国した。その後、ニューヨーク総領事、清国上海総領事、イギリス公使館一等書記官、大蔵大書記官を歴任し、明治二十一年(1888)、日本銀行総裁になった。翌年、松方正義大蔵大臣と議合わず職を去ったが、明治二十三年(1890)、貴族院議員に勅選され、その翌年には東京府知事となった。明治二十七年(1894)、知事を辞した後は、富士紡績会社、横浜火災保険会社の創設などに貢献した。大正五年(1916)、年八十二歳にて没。

 かつて東京の護国寺にあるとされている富田鉄之助の墓を、墓地を歩き回って探したが、特定することができなかった。今回、ようやく出会うことができて感無量であった。

 

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加美

2021年01月02日 | 宮城県

(正眼庵霊園)

 手元の「明治維新人名辞典」には芝多民部の墓は市内の善導寺にあるとされている。善導寺の墓地は、ほとんどが葛岡霊園に移されており、そちらにあるものと推定された。竹さんが調べてくれて、葛岡霊園の善導寺墓地ではなく、加美町の正眼庵霊園にあるらしいという情報を寄せてくれた。さらに実際に足を運んで、芝多民部の墓を発見してくれたのである。今回の旅の最大の目的は芝多民部の墓を詣でることにあった。

 芝多家の墓は、二代から十一代まで仙台の善導寺にあったが、昭和四十八年(1973)市の計画により墓碑を移転したということである。正眼庵の墓地も荒廃するに任されていたが、昭和五十九年(1984)、区画整理が竣工し、現況のように整備されたということである。

 

芝多民部常則墓

 

 芝多民部は文政五年(1822)の生まれ。父は芝多対馬。諱は常則。安政二年(1855)九月、仙台藩奉行職につき、殖産興業、富国強兵策を打ち出し、城下町近江商人中井新三郎を蔵元に任じて全面的な専売仕法を試みる一方、改正手形と称し領内流用の金券を発行させるなど、果断な改革政策を推進した。三浦乾也に命じて軍艦を造らせるなどしたが、物価高騰による不穏の責を負い、安政五年(1858)、退職。青年武士による担ぎ出しの動きが政争化したため、慶応元年(1865)十二月、御預け、減封、所替えを命じられ、翌慶應二年(1866)二月、絶食の末、亡くなった。年四十五。

 

芝多家之墓(芝多贇三郎の墓)

 

 民部の嫡子、贇三郎常質は代々の忠勤により加美郡谷地森において知行地一千石を下され、慶応二年(1866)、一同を率いてこの地に移住した。慶應四年(1868)、戊辰戦争にも従軍し、白河口に戦って負傷。九月に至り藩が帰順するに至り、帰郷して一切を整理し一族は家来に土地を分配し、それぞれ農に帰せしめた。領地および人民の処置が終わると、上京して吏に職を求めたが果たせず、明治八年(1875)十一月。東京で没した。二十九歳。

 

寛岳義(大沼寛左衛門の墓)

 

 大沼寛左衛門(勘左衛門とも)は、芝多贇三郎家来。銃士。加美郡加賀石村谷地森の人。慶應四年(1868)五月二十六日、白河金勝寺山にて戦死。

 

(洞雲寺)

 

洞雲寺

 

額兵隊副隊長 武藤勝作墓

 

武藤家之墓

 

 武藤勝作は額兵隊差図役頭取。加美郡宮崎村上小路、栄吉の子。明治二年(1869)四月二十日、木古内にて勇戦の後、死亡。二十一歳。

 法名碑によれば、明治元年(1868)十月二十日死去。二十三歳。

 明治元年(1868)十月二十日というと、徳川脱走軍が蝦夷地で鷲ノ木に到着した日であり、武藤勝作が戦死したとすれば、この日ではないように思われる。

 

如幻院殿 古内實廣墓(古内可守の墓)

 

 これも竹さんの「戊辰掃苔録」から転載。古内可守は宮崎邑主。着座。三千二百八十三石。明治元年(1868)七月六日、奉行に任ぜられ、十二日手勢一小隊と宮床勢一小隊を率いて相馬口へ出陣。熊川の戦いで中村藩の動きが怪しく感じられ、八月三日可守と遠藤主税、木村又作が使者として中村藩主に説くが、言を左右にするだけで、六日ついに同盟を離脱した。その後役命により金山に出て岩谷堂伊達の軍を援けたが、戦況不利となり退却した。明治二年(1869)六月、仙台騒擾で永禁固を申し渡され平士に降格した。申立書には「国政を全権する職として好党贋金を鋳造するを知りながら厳禁せざるの罪なり」とあり、旧勤王派から難癖としか言いようのない理由によるものであった。明治四年(1871)三月に赦され、寺子屋の師匠を務め、宮崎小学校長となる。明治十四年(1881)四月二十四日没。享年五十。

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大崎 岩出山 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(松窓寺)

 

松窓寺

 

 前回、大崎岩出山を訪ねた際にも松窓寺で戊辰殉難者吉岡今之助、曽根忠右衛門の墓を探したが、いくら歩き回っても見つけることができなかった。今回、竹さんに案内してもらって、両名の墓にようやく出会うことができた。曽根家の墓は墓地のほぼ最前列に近い場所にあるが、表面に地蔵が刻まれているだけで、なかなか見つけにくい。対して吉岡家の墓は墓地の最上段に近い。前回も近くまで来ていたが、もう一歩の執念が足らなかった。

 

曽根忠右衛門の墓

 

 曽根忠右衛門(忠左衛門とも)は、岩出山町裏小路の人。慶應四年(1868)、七月十一日、羽前金山にて戦死。二十歳。

 この小さな墓石側面には、忠右衛門の法名と俗名、没年月日が刻まれている。

 

吉岡家之墓(吉岡今之助の墓)

 

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、吉岡今之助は、玉造郡岩出山大学の士。慶應四年(1868)羽前蟻谷口にて戦死。三十六歳。

 墓石背面には先頭に今之助の名前が見える。それによれば没日は七月十一日。二十六歳。法名は「智高良勇居士」と読める。

 

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栗原 Ⅱ

2021年01月02日 | 宮城県

(タクロン公園)

 

五日市憲法草案者

千葉卓三郎出生之地

 

タクロン公園

 

 栗原市志波姫の千葉卓三郎出生地は、整備されて公園となっている。千葉卓三郎が自称したタクロン・チーバーという名前に因んでタクロン公園と名付けられている。

 公園には明治十九年(1886)十二月、千葉家が石巻に転居し廃家となった家屋の礎石が再現されている。千葉家は、宅地のほか、田が七反六畝二十六歩、畑が三反八畝十三歩を有していた。

 

 私擬「五日市憲法草案」の起草者として知られる千葉卓三郎は、嘉永五年(1852)六月十七日、仙台藩御不断組千葉宅之丞の子として、刈敷村大西十五番地に生まれた。故あって養母貞二度だてられ、十一歳にして仙台藩校養賢堂学頭大槻磐渓に師事し、儒学、蘭学を学び、十六歳で戊辰戦争に参加したが、敗れて郷里に帰農した。その後、新生の道を求め、医学、皇学、浄土真宗などを学んだが、満たされぬまま懊悩の日々を送った。明治五年(1872)、刈敷教会にて酒井篤礼(イヲアン)よりハリストス正教の啓蒙伝道を受け、入信を決意。明治六年(1873)、上京してニコライより洗礼を受け、洗礼名ペートル(白徳)と称した。のちイヲアン酒井とともに伊豆野教会、若柳教会、若柳十文字教会、佐沼顕栄会など仙北地方の布教に奔走した。明治七年(1874)、「神仏に対する不敬の罪あり」と、神官や僧侶の告訴にあい、水沢県庁(登米町)の獄に百余日繋がれた。出獄後、ニコライのもとに走ったが、一転して儒学者であり、耶蘇教排撃論者の安井息軒の門に入った。継いでカトリック、洋算学、プロテスタント等多くの師に学び、求道と精神遍歴の推江、明治十三年(1880)、神奈川県西多摩郡五日市町勧能学校(現・東京都あきる野市五日市小学校)の教師に招かれ、後に二代目校長となった。三多摩地方における自由民権運動の高まりの中で、民権結社学芸講談会を主催し、深沢権八ら同志と研鑽論議を重ね、自らを「自由権下不羈郡浩然気村貴重番智」の不平民「ジャパネス國法学大博士タクロン・チーバー氏」を自認しつつ、明治十四年(1881)に五日市憲法草案を起草した。この草案は全文二百四条からなり、学習運動の結晶として情熱を傾け、心血を注いで、風土・時勢・道理にかない、民情を考慮する「法の精神」を参酌して起草されたもので、極めて民主的で日本國憲法につながる思想を包含したものといわれる。しかしながら、草案者の悲願であった君民共治の実現を見ないまま、病に倒れ、明治十六年(1883)、三十一歳の若さで生涯を閉じた。当初、東京谷中天王寺のキリスト教共同墓地に葬られたが、現在は仙台市内の資福寺に改葬されている。

 

 タクロン・チーバーとは、この時代にしては洒落た名前を付けたものであるが、実は日本人の名前は外国人には非常に発音しにくい。私の苗字「うえむら」は、なかなかその通り読んでもらえず、大概の外国人は「ゆいむら」と発音する。特に母音が連続する名前は発音が難しいらしい。一々訂正するのも面倒なので、私はそのまま呼ばせていて、自己紹介するときもわざわざ「ゆいむら」と称しているほどなのである。

 

(志波姫総合支所)

 

千葉卓三郎顕彰碑

 

 志和姫総合支所にある千葉卓三郎顕彰碑には、五日市憲法草案から六条を抜粋して刻んだものである。同様の顕彰碑は、東京あきる野市五日市と仙台市資福寺にある。これで私は三箇所にある千葉卓三郎顕彰碑をコンプリートすることができた。

 

 この後立ち寄ったコンビニで出会った子供は、胸に「千葉」という名札を付けていた。さすが卓三郎の地元だけある、と人知れず感動していたが、そのことを竹さんに話すと「宮城県は千葉だらけです。クラスに七~八人、千葉がいることもあります」のだそうである。

 

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