「勝海舟の罠」で「江戸無血開城の真の功労者は山岡鉄舟で、勝海舟は鉄舟の手柄を横取りしただけ」と喝破した水野靖夫氏は銀行を退職した後、講演や文筆に専念している方で、決して歴史家というわけではない。本書の筆者岩下哲典氏は、東洋大学文学部で教鞭をとるれっきとした学者先生である。本書の主旨は、江戸無血開城の一番槍は山岡鉄舟であり、二番手が泥舟を推薦した高橋泥舟、そして三番目が海舟というもので、歴史家の主張だけに説得力がある。
本書の主題は「江戸無血開城」であり、副題にあるとおり「本当の功労者は誰か?」を論じた本であるが、まず江戸開城に至る前史から説き起こしている。
個人的に興味深かったのは、大政奉還の下りである。大政奉還時の徳川慶喜の上表を要約すると
――― 朝権を一体に出なければ綱紀を立てることができず、従来の旧習を改めて政権を朝廷に還し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力して皇国を保護すれば必ず海外の万国と並ぶ国になる。臣下である慶喜が国家に尽くすところこれに過ぎることはない
と述べているに過ぎない。つまり政権を放棄するとは言っていないのである。慶喜は、あくまで朝廷の一員として皇国のために尽力するという決意を述べ、政権を一に帰すことを意図していただけで、引き続き政権を担う意欲は満々であった。そういう意味では、大久保忠寛(一翁)が文久二年(1862)に主張した大政奉還とは、似て非なるものだったのかもしれない。
筆者によれば「大政奉還」とは朝廷側の表現、或いは逆賊となった慶喜が恭順してから、みずからの維新への功績を主張した際の表現であり、敢えて仰々しく後から「大政奉還」と呼んだのではないかというのである。筆者は「検討の余地はあるとは思う」と断っているが、「大政奉還」という用語が何時から登場したのか、検証してみると面白いかもしれない。
岩下先生は学者先生の割に空想好きな方のようである。龍馬暗殺犯について「龍馬暗殺の黒幕が薩摩藩という可能性は全く否定できる状況でもなかろう。薩摩藩にとって龍馬は薩摩の内実を知りすぎた男である。」としているが、この部分は個人的には賛同できないところである。
筆者は「高橋泥舟関係史料集」の編纂に関わり、「高邁なる幕臣 高橋泥舟」などの著作もある方で、高橋泥舟への肩入れは一方ならぬものがある。やや肩入れが過ぎるのではないかという気もするくらいである。
「泥舟」という号は、土や泥でできた船だから、決して漕ぎ出さない、つまり世には出ないという自戒を込めた号だという。事実、廃藩置県で静岡藩が消滅した後、泥舟は一切の官職・役職に就かなかった。明治六年(1871)頃には茨城県令や福岡県令の話があったようだが、いずれも断っているという。
一方、山岡鉄舟は明治政府に請われて、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞などを歴任した。泥舟、鉄舟に共通していることは、過去の自らの功績を誇ることがなかったということである。泥舟に至っては、明治十四年(1881)に実施された勲功調査において一切文書を提出もせず、宮内省に出頭さえしなかった。
両名が黙して語らないことを良いことに、海舟は言いたい放題であった。いつしか江戸無血開城は勝海舟の手柄となり、世間にもそれが刷り込まれてしまった。そろそろ我々も見方を改めるべきではないだろうか。