史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「江戸無血開城」 岩下哲典著 吉川弘文館

2021年02月27日 | 書評

「勝海舟の罠」で「江戸無血開城の真の功労者は山岡鉄舟で、勝海舟は鉄舟の手柄を横取りしただけ」と喝破した水野靖夫氏は銀行を退職した後、講演や文筆に専念している方で、決して歴史家というわけではない。本書の筆者岩下哲典氏は、東洋大学文学部で教鞭をとるれっきとした学者先生である。本書の主旨は、江戸無血開城の一番槍は山岡鉄舟であり、二番手が泥舟を推薦した高橋泥舟、そして三番目が海舟というもので、歴史家の主張だけに説得力がある。

本書の主題は「江戸無血開城」であり、副題にあるとおり「本当の功労者は誰か?」を論じた本であるが、まず江戸開城に至る前史から説き起こしている。

個人的に興味深かったのは、大政奉還の下りである。大政奉還時の徳川慶喜の上表を要約すると

――― 朝権を一体に出なければ綱紀を立てることができず、従来の旧習を改めて政権を朝廷に還し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力して皇国を保護すれば必ず海外の万国と並ぶ国になる。臣下である慶喜が国家に尽くすところこれに過ぎることはない

と述べているに過ぎない。つまり政権を放棄するとは言っていないのである。慶喜は、あくまで朝廷の一員として皇国のために尽力するという決意を述べ、政権を一に帰すことを意図していただけで、引き続き政権を担う意欲は満々であった。そういう意味では、大久保忠寛(一翁)が文久二年(1862)に主張した大政奉還とは、似て非なるものだったのかもしれない。

筆者によれば「大政奉還」とは朝廷側の表現、或いは逆賊となった慶喜が恭順してから、みずからの維新への功績を主張した際の表現であり、敢えて仰々しく後から「大政奉還」と呼んだのではないかというのである。筆者は「検討の余地はあるとは思う」と断っているが、「大政奉還」という用語が何時から登場したのか、検証してみると面白いかもしれない。

岩下先生は学者先生の割に空想好きな方のようである。龍馬暗殺犯について「龍馬暗殺の黒幕が薩摩藩という可能性は全く否定できる状況でもなかろう。薩摩藩にとって龍馬は薩摩の内実を知りすぎた男である。」としているが、この部分は個人的には賛同できないところである。

筆者は「高橋泥舟関係史料集」の編纂に関わり、「高邁なる幕臣 高橋泥舟」などの著作もある方で、高橋泥舟への肩入れは一方ならぬものがある。やや肩入れが過ぎるのではないかという気もするくらいである。

「泥舟」という号は、土や泥でできた船だから、決して漕ぎ出さない、つまり世には出ないという自戒を込めた号だという。事実、廃藩置県で静岡藩が消滅した後、泥舟は一切の官職・役職に就かなかった。明治六年(1871)頃には茨城県令や福岡県令の話があったようだが、いずれも断っているという。

一方、山岡鉄舟は明治政府に請われて、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞などを歴任した。泥舟、鉄舟に共通していることは、過去の自らの功績を誇ることがなかったということである。泥舟に至っては、明治十四年(1881)に実施された勲功調査において一切文書を提出もせず、宮内省に出頭さえしなかった。

両名が黙して語らないことを良いことに、海舟は言いたい放題であった。いつしか江戸無血開城は勝海舟の手柄となり、世間にもそれが刷り込まれてしまった。そろそろ我々も見方を改めるべきではないだろうか。

 

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「鷹見泉石 開国を見通した蘭学家老」 片桐一男著 中公叢書

2021年02月27日 | 書評

鷹見泉石というと、まっさきに渡辺崋山筆「鷹見泉石像」が思い浮かぶ。肖像画の白眉にして、渡辺崋山の代表作とされ、国宝にも指定されている。鋭い眼光と凛とした佇まい。一見してただならぬ人物と分かる。しかし、鷹見泉石という人物がどのような業績を残し、どのような生涯を送ったのか、意外と知られていない。私もかつて古河市正麟寺の鷹見泉石の墓を訪ねたことはあるが、改めて事績を問われると正確に答えられる自信がない。

ひと言でいうと、鷹見泉石は老中を務めた土井利厚、利位(としつら)という二代にわたる古河藩主に仕えた家老である。土井利位は天保の改革で辣腕を振るった人で、泉石は長きにわたって利位の片腕として支えた。

若き家老鷹見泉石が直面した最初の難題が文化元年(1804)、レザノフの長崎来航であった。泉石は江戸にありながら情報収集に専念し、かつて松平定信が露使ラックスマンに対した基本方針にならって

一・江戸出府拝礼は許さない。

二・献貢物は受納しない。

三・交際、交易は断る。

つまり「ゼロ回答」で臨んだ。これにより文化二年(1805)三月、レザノフは失意のうちに帰国した。これだけを切り取れば上首尾ということになるだろうが、ロシアの報復措置として翌文化三年(1806)、フヴァストホフらが樺太で米穀を奪い、日本の営造物を焼いて日本人を連行する「文化露寇事件」が起きた。この事件を知った泉石の心境は複雑であっただろう。

文政年間、日本を揺るがした大事件がシーボルト事件であった。実は泉石は文政九年(1826)、出府してきたシーボルトと面会しており、自作の「日光駅路里数之表」などを贈っている。

本書によれば、事件の発端となった手紙は二人の人物に宛てたものであったことが判明している。通詞が名前を明記することに何等か憚る事情があったらしく名前は空欄となっているが、うち一人は間宮林蔵で、もう一人が筆者の推論によれば鷹見泉石だという。泉石は、シーボルトに何らかの不審の匂いを嗅ぎ取ったらしく、時を移さず贈った品々を取り戻すべく長崎の通詞に依頼状を出し、その控えまで作成していた。シーボルトと深い親交がありながら、事件に連座せずに済んだのは、泉石の地位が作用したこともあっただろうが、何よりも彼の危機管理能力がものをいったのであろう。

泉石が家老として歴史的事件に係ることになったのが、天保八年(1837)の大塩平八郎の乱であった。この時、藩主土井利位は大阪城代にあった。土井利位、泉石は乱の鎮圧に功があったとされるが、実態としては町奉行与力の出動により大塩父子は自害し、乱は終結した。泉石は日記に「抜かぬ太刀之高名」と書き残している。

利位、泉石が大塩平八郎の乱の鎮圧に奔走した天保八年(1837)という年は、モリソン号事件が起こった年として記録されている。漂流民を乗せて我が国に来航した米船モリソン号を一方的に砲撃したことを、渡辺崋山や高野長英ら蘭学者は批判した。いわゆる蛮社の獄のきっかけとなった事件である。

泉石は、若い頃から蘭学に傾倒し、ヤン・ヘンドリック・ダッペルというオランダ名まで持っていた。崋山や長英ともお互いに盟友と呼んで良いほどの深い交わりがあった。

恐らく泉石自身もモリソン号事件には何らかの私見があったに違いないが、本書には一切触れられていない。即ち泉石自身がモリソン号事件に関して何のコメントも感想も書簡も残さなかったということを意味しているのかもしれない。だとしたら、やはり相当な用心深さというべきであろう。ここにも泉石の危機管理能力が活かされているような気がしてならない。

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「対馬国志」 永留久恵著 交隣舎出版企画

2021年02月27日 | 書評

幕末に対馬藩で起こった勝井騒動、その反動としての尊攘派による勝井一派の粛清について知りたくて、対馬観光物産協会に問い合わせのメールを送った。例によって私の質問の大半は「墓が現存しているか」というもので、ある程度予想されたことであったが、確たる回答は得られなかった。観光物産協会から市の文化財課にも照会いただいたが、そちらでも「書籍以上の情報はない」「不明」という結論であった。

同じメールで書籍を二冊ご紹介いただいた。それが「新対馬島誌」「対馬国志」という二冊である。「新対馬島誌」は新刊では入手困難な上にネット上では古本が十万円という価格で取引されているような希少本なので、「対馬国志」を手に入れる方が現実的である。

観光物産協会のメールに「対馬国志」を刊行している交隣舎出版企画のHPも付けていただいていたので、早速そこにアクセスして注文した。「対馬国志」は一~三巻から成る大作で全巻セットを購入すると税込み九千四百円である。第一巻は原始・古代編、第三巻は近代・現代編となっており、私は勝井騒動が記載されている第二巻のみを購入することにした。注文すると数日で手元に届いた。第二巻のみで四百ページに迫るもので、鎌倉時代から幕末までを記述する。

筆者永留久恵氏(故人)は、対馬の御出身で、長く教職にあるとともに対馬歴史民俗資料館の研究員などを勤めた方である。本書は交隣舎から自費出版されたものらしい。平成二十二年(2010)に日本自費出版文化賞大賞を受賞している。「対馬国志」はいわば郷土史である。ただし、よくある市史や町史と異なるのは、一人の著者が古代から現代まで執筆しているということである。自費出版大賞に相応しい力作といえる。

とても四百ページを丸ごと読む時間と気力がないので、個人的に興味のある第十六章「幕末期の藩政の乱れ」だけを読むことにした。勝井騒動については、通常の郷土史とは違い「痛恨の勝井騒動」と極めて主観的な形容詞を使っている。ところどころ著者の感情が表出した表現があって、郷土史とは異なる味わいがある。

さて、勝井騒動を理解するには対馬藩の特殊性や騒動に至る背景を抑えておく必要がある。一つは朝鮮通信使の饗応や海防の強化が積み重なり、対馬藩は慢性的な財政難に陥っていた。そのため元禄以来、幾度となく幕府からの財政支援を受けていた。宗氏は中世から続く家で、徳川家の親藩譜代ではないが、幕府に恩義を感じている家臣が一定数いたのも事実である。

一方で海を隔てて長州藩とは地政学的にも近い関係にあった。対馬藩の主席家老古川図書以下の尊攘派は、長州藩の正義派周布政之助、佐久間佐兵衛、桂小五郎、浦靱負らと交流があり、元治元年(1864)には真木和泉と佐久間佐兵衛が対馬を訪れ、その際藩主宗義達も引見している。

長州藩ではペリー来航以前より、改革派の村田清風と保守派の坪井九右衛門の確執があり、幕末には両派の流れをくむ正義派と俗論派の対立が激化したが、対馬藩でもまるで長州藩の相似形のように保守派と改革派の対立が存在した。即ち代々家老を務める保守派杉村直記・杉村但馬と改革派大森繁右衛門との対立が源流にあり、幕末期には「この党争が取り返しのつかない惨事」を招いたのである。

勝井五八郎は、藩主義達の外戚(義達の母が五八郎の妹)という血縁を利用して側用人から大勘定役へと昇った。もとは義党(尊攘派)であったが、次第に義党と衝突するようになり、家老大浦教之助(のりのすけ)と対立し、明確に佐幕を主張するようになった。

元治元年(1864)、佐久間佐兵衛らが対馬を訪れた際、藩では彼らを来賓として迎え新学館日新館を開校した。尊攘派が優勢を占めた対馬藩であったが、しかし同年七月、長州藩が禁門の変に敗れたとの報が入ると、田代代官所(現・佐賀県鳥栖市)に遠ざけられていた勝井五八郎は、二十六名の藩士を率いて対馬に武装上陸し、大浦党に対する暴虐非道な弾圧を始めた。

この時、暗殺、追い詰められて自決、断首絞首された者は百八名に上った。中には二歳、五歳、六歳、十一歳といった子供もいた。この年の暮、長州藩では高杉晋作の功山寺決起により形勢が逆転するが、対馬藩で尊攘派が反撃に動いたのは、明けて慶應元年(1865)四月末のことであった。勝井五八郎には切腹が申し付けられたが、納得しない五八郎は夜陰に城中を脱出し、自邸に戻って屋敷内の祠に隠れた。最後は追手に囲まれて殺されたという。

翌朝、五八郎の死肉を切り取り、亡夫と息子の墓前に供えた一夫人があった。五八郎は松水寺に葬られたが、その墓は倒され破壊されたという。

幕末、藩内抗争はどの藩でもあった。しかし、子供の命まで奪うという非道な弾圧は、水戸藩と対馬藩以外に聞かない。勝井騒動は、対馬藩に深刻な禍根を残すことになった。

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「江戸幕府の感染症対策」 安藤優一郎著 集英社新書

2021年02月27日 | 書評

医学も科学も発展していない時代のことである。治療薬もワクチンもない当時、風疹やインフルエンザ、コレラといった病気が広がると、幕府も医者も庶民も、文字通り座して死を待つしかなかった。精々、神様に頼んでひたすら災禍が通り過ぎるのを祈った。事実、加持祈祷に走る者は多かったし、祭礼でもないのに神輿を渡御させたり、軒下に注連縄を結わえたり、提灯を灯す事例もあった。節分のように豆を撒いたり、正月のように門松を飾り立てたり、様々な厄除けや病祓いの手が使われたが、残念ながらいずれも効果はなかった。現代においてもアマビエなる妖怪がもてはやされているのは、その名残かもしれない。

幕府が医療対策に本腰を入れ始めたのは、八代将軍吉宗の時代であった。吉宗が取り組んだ改革は、「享保の改革」として名高い。吉宗は医療分野にも積極的に改革の手を入れた。薬草の調査・収集、朝鮮人参の国産化などに取り組んだが、特に注目したいのが小石川養生所の開設であった。

享保の改革といえば、目安箱である。享保七年(1722)一月、町医者小川笙船なる人物が、施薬院の設置を求める意見書を目安箱に投書した。笙船は、一人暮らしで身寄りがなく、その上貧しい暮らしを強いられている者が病気にかかった場合の悲惨さを訴えた。

吉宗は、この投書に強い関心を示した。吉宗は「病気から人々の生命を守るのは将軍の責務と考えていた」という。笙船の提言は、早速実現に向けて動き出し、その年の十二月には小石川養生所における診療が開始された。

無料で貧しい人たちが診療を受けられる機関の設置は、現代の我々の目から見ても善政・仁政である。庶民から諸手をあげて大歓迎されたと思いきや、蓋を開けてみると希望者は予想を遥かに下回った。原因は、小石川薬園で栽培する薬草の効果を試す人体実験場なのではないかという悪評が江戸市中に広がっていたことにあった。メールもSNSもない時代であったが、悪い噂ほど人々に拡散していくものだということを物語っている。

幕府は、名主を集めて現地見学会を開いて風評を否定するとともに、入所手続きを簡略化するなどの措置をとり、ようやく小石川養生所は軌道に乗った。

幕府は、感染症の拡大、地震や火災の発生時、飢饉あるいは米価高騰が発生すると、その都度貧民救済に意を尽くした。具体的にはその日の生活に窮した者を対象に御救米や御救金の支給を繰り返した。こうした経済的支援は、近代的な社会保障制度や徴税による富の再配分制度が確立していない時代、重要な役割を果たしたといえる。

ただし、幕府の御救金・御救米は、格差是正のための政策ではなく、都市崩壊を未然に防ぐための施策であった。都市崩壊というのは、米問屋などの打ち毀しが連鎖的に発生し、いわば無政府状態に陥ってしまうことを意味している。

幕末に至るまで臨時御救金制度はある程度有効に機能していたといえる。幕末、開国とほぼ同時にコレラが上陸した。また幕末は米価高騰の時代でもあった。慶應二年(1866)には、江戸で天明期以来の打ち毀しが発生し、幕府はその一年半後に倒壊した。結果的に町会所の救済事業は後手に回ってしまっていたのかもしれない。

享和二年(1802)の流行性感冒(インフルエンザ)大流行の際には、町会所による御救金の支給は極めて迅速であった。名主に該当者の調査が命じられたのが三月十七日、翌十八日には名主から「其の日稼ぎの者」の名前が報告され、即日銭が給付されたという。当時、名主を長とする役場が二百六十ほどあり、江戸の町人人口が五十万人、すなわち名主一人当たりの町人は二千人超となるが、名主制度が機能していた証左であろう。人口の規模が当時とは随分と異なるとはいえ、現代の我々にも何か学ぶものがあるかもしれない。

江戸時代から百五十年以上もの時間が経過し、その間、医学や科学は長足の進歩を遂げた。感染症の原因や拡大なども科学的に解析できる時代になった。IT技術も進み、新聞やテレビといったマスコミュニケーションの手段も進展した。江戸時代と比べれば感染症と戦う環境はずっと整っているように思えるが、それでも現在、人類は感染症との戦いに苦戦している。何時の時代も経済と感染抑制の両立は容易ではないということだろう。

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板橋 Ⅴ

2021年02月20日 | 東京都

(加賀公園)

 

加賀前田家下屋敷跡

 

 加賀公園は、加賀前田藩の下屋敷跡であり、築山の麓にそのことを示す石碑が建てられている(板橋区加賀1‐8)。

 延宝八年(1680)、加賀前田家は本郷(現・東京大学周辺)に上屋敷、駒込(現・本駒込6丁目周辺)に中屋敷、さらに下屋敷は、板橋宿に面する平尾邸に定めた。平尾邸は、約二十一万八千坪に及ぶ広大な敷地を有し、尾張・紀伊・水戸の御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷であった。邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が置かれ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が設けられた。その規模は、本国金沢にある兼六園の約七倍の広さを誇った。

 平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、彼らが保養や散策のために訪れ、時には鷹狩りや花火などが行われた。幕末には園遊会が開かれ、その場に招かれた松平容保をはじめとする会津藩の人びとは邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現している。

 当邸は中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用された。また、その家族や家臣により送迎の場にもなっていた。

 邸内には与力を筆頭に五十人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していた。彼らは代々平尾邸に在籍し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などと娘と婚姻関係を結ぶ人もいた。なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られる。

 幕末には加賀藩も世情の影響を受け、邸内でオランダ式ゲベール銃を使った訓練を実施した。また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っている。明治以降は、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用して火薬を製造する、板橋火薬製造所(のちに東京第二陸軍造兵廠)となった。

 

板橋区と金沢市との

友好交流都市協定締結記念碑

 

 加賀前田家下屋敷跡碑の傍らには、ステンドグラスをはめ込んだ板橋区と金沢市との友好交流都市協定締結記念碑が置かれている。この特徴的な記念碑は、金沢市にある尾山神社神門第三層のステンドグラスをイメージしたものである。

 

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前橋 Ⅵ

2021年02月20日 | 群馬県

(前橋プラザ元気21)

 前橋市は、JR前橋駅周辺より、北へ1キロメートルほどの本町界隈の方が賑やかである。前橋こども図書館やまえばしシティエフエムなどが入る前橋プラザ元気21は、かつて前橋藩の本陣があった場所で、目立たないが千代田通り側に明治天皇行在所跡碑がある。

 

明治天皇行在所跡

 

舊前橋藩本陣跡

 

(孝顕寺)

 前橋駅北口を西へ百メートルほど行った駐輪場でレンタサイクルをやっている(普通自転車に百円、電動自転車三百円)。自転車を調達して、早速朝日町の孝顕寺を目指した。

 

 孝顕寺は、結城松平大和家の菩提寺で、初代直基のとき越前勝山で開山された。初代から八代までの藩主像のほか、松平大和家の先祖となる戦国武将結城政勝の画像などが保存されている。

 

孝顕寺

 

 私が孝顕寺を訪ねた目的は、松平直克(なおかつ)の墓であった。直克の墓石は、長らく教学院(東京都練馬区)に保存されていたが、前橋城再興から百五十年を記念して、平成二十九年(2017)に里帰りを果たした。長らく孝顕寺を訪ねたいと思っていたが、ようやく今回実現することができた。

 

正三位松平直克墓

 

 松平直克は、天保十年(1839)の生まれ。父は久留米藩主有馬頼徳。嘉永二年(1849)、江戸から国もと久留米に移って教育を受け、文久元年(1861)十二月、川越藩主松平直侯の養嗣子となって襲封し、従四位下侍従に叙せられ、大和守を称した。以後、藩の経営に努め、文久二年(1862)十一月藩政改革に着手した。特に兵制を改めて銃隊を創設した。川越城が手狭で藩士の居住、軍事訓練にもこと欠くことを理由に旧前橋城の修築を嘆願した。文久三年(1863)、将軍家茂の上洛中における江戸留守居役を命じられ、生麦事件についてイギリスの幕府に対する賠償要求に際しては、品川砲台守備の任を兼ねて高輪陣営に駐在した。同年十月、松平春嶽の辞任以降空席となっていた政事総裁職に挙げられ、幕政の中枢に参画した。家茂に従って上洛し、元治元年(1864)攘夷の勅旨を受けて帰京。横浜鎖港を建策したが、たまたま水戸武田耕雲斎の叛乱が起こり、幕論が鎖港よりも反乱鎮圧を先にする意見に傾いたのに反発し、飽くまで鎖港を先にすべきと主張。ついに徳川(水戸)慶篤と意見対立して、同年六月、政治総裁職を免職され、八月には再び品川台場警備を命じられた。その後、幕府より再度政治総裁職への就任要請があったが、受けることはなかった。慶應三年(1867)正月、前橋城竣工のため移転し、川越城を幕府に引き渡した。将軍慶喜の大政奉還後は去就に苦しんだが、慶応四年(1868)二月、急ぎ上洛して慶喜の免罪および徳川家継嗣に関して奏上、ついで関東における徳川軍脱走者蠢動を鎮圧するため帰国、以後大総督府に属して各地の警備に従事した。明治二年(1869)、版籍奉還後、前橋藩知事となったが、同年八月、富山藩知事前田利同の弟栄之助(のちの直方)を養子に迎えて致仕、以来政治を避けて東京下谷茅町に寓居した。明治三十年(1897)、年五十九にて没。法名は「直指院殿見性良山大居士」。

 

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高崎 Ⅶ

2021年02月20日 | 群馬県

(行在所公園)

 

行在所公園

 

明治天皇新町行在所

 

 最寄り駅は高崎線新町駅となる。徒歩八分程度で行在所公園に到着する。

 明治十一年(1878)八月から十一月にかけて、明治天皇は北陸・東海地域の巡幸を行った。その道中の九月二日、新町(現・高崎市新町)に宿泊した。当時は、木造瓦葺き平屋建ての本屋と付属家の二棟で、旧中山道に面して誓文を設け、周囲は高さ九尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松が植えられていた。今も公園の一角に当時の建物が保存されている。

 

 

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稲毛

2021年02月13日 | 千葉県

(稲毛)

 

御野立所

 

 JR稲毛駅を出て北西に三分ほど歩いた県道133号線沿いに明治天皇野立所跡碑が建てられている(千葉市稲家区稲毛東3‐17‐12)。

 明治十五年(1882)五月一日、明治天皇は、伏見宮、北白川宮と大山巌とともに赤坂仮御所を出発し、江戸川軍橋を渡って市川、船橋、幕張、稲毛を経て、千葉女子師範学校(現・千葉市中央消防署付近)に宿泊し、翌五月二日、丹尾台および大塚において近衛師団の機動演習を展覧した。翌日には四谷ヶ原にて演習を統監し、前日と同じく千葉女子師範学校に宿泊した。ここはその際に休息をとった場所とされている。

 

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幕張

2021年02月13日 | 千葉県

(幕張三丁目公園)

 

幕張三丁目公園

 

 幕張駅近くの住宅街の中に幕張三丁目公園と名付けられた小さな公園がある。この場所は、江戸時代北町奉行所の配下にあった天領幕張町の代官所(大須賀家)のあったところである。当時の建物は、昭和四十三年(1968)、千葉市に寄贈され、現在加曽利貝塚公園に保存されているという。公園内に明治天皇駐蹕之所碑が建てられている(千葉市幕張3‐1096-15)。

 

明治天皇駐蹕之所

 

 明治十五年(1882)、明治天皇が市内中野町方面における陸軍対抗演習統監の際、この場所を休息所に当てたことを記念したものである。

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八千代 Ⅱ

2021年02月13日 | 千葉県

(大和田)

 

明治天皇行在之處

 

 明治六年(1873)、大和田原で行われた近衛兵の演習を閲兵するために明治天皇が立ち寄ったことを記念した碑で、この場所には習志野原陸軍操練場、大和田宿本陣があったとされる。建立されたのは大正十一年(1922)。

 

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