史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末勤王志士と神葬」 村上繁樹 編著 ミネルヴァ書房

2023年03月25日 | 書評

編著者である村上繁樹氏は、山口県萩市出身。洛東の霊明社の八世神主である。霊明社は、幕末からいわゆる勤王志士の神葬地となり、維新直後に次々と西南各藩により招魂社を建立された。明治元年(1868)五月には「今般東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ」「此度東山ニ於テ新ニ一社ヲ御建立」という太政官布告により霊山招魂社が設けられ、祭祀を行うことになった。今日の霊山護国神社の端緒である。木戸孝允や坂本龍馬、中岡慎太郎らが眠る聖地となっている。

霊明社は、志士の墳墓と霊山歴史博物館の間の「維新の道」をさらに南下し、正法寺の向かう国阿坂(最近「幕末の志士葬送の道」と呼ばれている)の途中にある。小さな祠なのでうっかりすると見逃してしまいそうになるが、この霊明社は初世村上日向目源都愷(くにやす)が正法寺の塔頭の一つ清林庵より用地を買い受け創建したものである。村上都愷は、彦根藩士の子として宝暦二年(1752)に生まれ、建仁寺の西、博多町に住む長谷川半兵衛夫妻の養子となり京都に移った。長じるにつれ尊王思想をもって神道を世に広めようと諸国を巡り門人を集めたという。神職となって名声も高くなり朝廷に召し出され、主殿寮史生、日向目(さかん)に任じられた。

霊明社は二世村上美平(よしひら)。三世村上都平(くにひら)、と引き継がれ、その間神葬地を広げていった。

幕末、最初に志士がこの地に埋葬されたのは、文久二年(1862)、長州藩の松浦亀太郎(松洞)とされる。松浦亀太郎は航海遠略説を唱えた長井雅楽を暗殺しようとしたが果たせず、粟田山上にて屠腹して果てた人物である。松下村塾に学び、吉田松陰の肖像画を描いたことでも知られる。筆者は、久坂玄瑞が「霊明社を弔祭の地としたのは、公に扱うことが憚られ、ひっそりと弔祭出来る地として選ばれたのだろうか」としている。

続いて、この地で招魂祭が開かれたのは、長州清末藩の船越清蔵である。船越清蔵という人物はあまり知られていないが、当時の京都では勤王有志の士として名を知られた存在であった。

清蔵は文化二年(1805)に清末藩岡枝村(現・下関市菊川町)に生まれた。京都では一時小出勝雄という変名を用いたとされる。藩校育英館に学び、その後は豊後に遊学して、帆足万里や広瀬淡窓の門で学んだ。文政十一年(1828)、二十四歳の時に諸国遊歴に旅立ち、長崎で西洋医学を修め、豊後で毛利空桑の塾で学んだ後、江戸に出て奥州や蝦夷の探索を開始した。天保十四年(1843)頃には京都に移り、塾を開いて子弟を教える傍ら、蝦夷、山陰、近畿、北陸などを遊歴した。やがて国事に関する建言書をいくつも書き上げ、朝廷から注目される存在となる。安政元年(1854)には建言書が三条実万の目にとまり、以後三条実万、中山忠能、岩倉具視といった公家、さらには上京してきた久坂玄瑞、入江九一、中谷正亮といった長州藩士たちも教えを乞うた。当時京都において梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎らと並ぶ雄として重きをなした。

安政の大獄が始まると、清蔵の身にも危険が及び、京都を退去して萩へくだった。長州では吉田松陰とも交わったとされる。藩政改革や海防強化について清末藩校育英館や長州藩校明倫館で講義を行った。

文久二年(1862)四月、伏見義挙に参加しようとしたが、寺田屋事件により再び萩へ退去を余儀なくされた。萩に戻った清蔵は、藩主毛利敬親に講義を行うなど精力的に活動したが、その講義の帰途突然倒れて死亡した。一説には藩主の前で藩祖大江広元を批判したことを不敬として毒殺されたともいわれるが、その真相は謎に包まれている。

当時在京中であった久坂玄瑞は船越清蔵の死を悼み建墓を発起した。これが国事殉難志士の霊山における招魂の嚆矢とされる。因みに清蔵の墓に刻まれた「精勇船越守愚之墓」の文字は沢宣嘉の筆により、「精勇」の二文字は三条実万から賜った号である。この時の招魂祭は村上都平が執行し、祭主は吉田玄蕃なる人物が務めた。

吉田玄蕃は雲華院宮家の家士。文政五年(1822)、近江の生まれで、通称玄蕃、のちに嘿(もく)と称した。富岡鉄斎や西川耕蔵とともに梅田雲浜の門下で学んだ。大原重徳の家臣でもあり、大原重徳を通じて多くの公家と通じていたことから、船橋清蔵を初めとして上京してきた志士と公家のパイプ役を果たした。安政五年(1858)の廷臣八十八卿列参事件や戊午の密勅降下などに関与したといわれる。

明治になって政界から退き、明治十年(1877)以降、白峯神宮(京都市上京区)、龍田神社(生駒郡斑鳩町)、大和神社(奈良県天理市)の宮司を務めている。明治二十四年(1891)、大津事件が起き、畠山勇子が京都府庁前で自決すると、玄蕃はその義烈に感激し、墓参りと顕彰に熱心に取り組んだ。明治三十一年(1898)、七十七歳で没した。霊明神社南墓地に墓が設けられている。

松浦亀太郎や船越清蔵の神道祭祀に深く関わったのが久坂玄瑞である。国事に殉難した志士が霊明神社における招魂祭、神葬祭により葬られることになったのは久坂玄瑞の発案によるところが大きい。神道を崇敬していた玄瑞は、自らも国事に殉じたら霊山に葬ら得ることを切望していた。元治元年(1864)の禁門の変で自刃した玄瑞は、一度は詩仙堂に葬られたが、のち小田村伊之助(楫取素彦)の指示で霊山に改葬されている。

文久二年(1862)、安政五年(1858)以降、国事に殉じた者を赦免し、彼らを霊山に葬ることが勅旨により示された。具体的には、密勅返還を巡って分裂した水戸浪士が水戸街道長岡宿で衝突した事件で落命した者、安政の大獄の犠牲となった者、井伊大老襲撃事件の関係者、イギリス公使館を襲撃した東禅寺事件の関係者、老中安藤信正襲撃事件の関係者などである。

本書に登録されている「霊明神社神名帳」を見ると、寺田屋事件、天誅組の変、生野の変、池田屋事件、福岡藩乙丑事変の犠牲者や鳥羽伏見戦争、戊辰戦争の戦死者なども葬られている。

やや異質に感じるのが、慶應四年(1868)二月、英国公使パークスを襲撃した林田衛太郎(朱雀操)と三枝蓊の両名が霊山に葬られていることである。林田はその場で後藤象二郎に斃され、三枝は生け捕りにされて数日後に斬首された。

筆者村上繁樹氏は、「都平(くにひら)も明治維新を迎え入れる立場であり、新政策には心境は複雑であり、矛盾を抱く心持ちではなかったか」と推測しているが、彼らが霊明社に葬られた経緯は記載されていない。ただし、明治二十一年(1888)に林田の従弟喜多千穎(ちかい)が、林田の佩刀を霊明神社に奉納したという記録が残っていることから、彼らの遺族の強い希望があって実現したのかもしれない。

少々マニアックな本であったが、霊明社の歩みを本書で学んでから霊山の墳墓を歩くと、また違った風景を見ることが出来るかもしれない。

 

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