史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末史の最前線」 町田明広著 インターナショナル新書

2024年04月27日 | 書評

「はじめに」において町田先生の見解が提示される。

「人物の叙述においても、執筆者それぞれの研究成果から導き出された「解釈」を基に叙述される。人物から歴史を叙述する機会は数多いが、その際にはさらなる配慮が必要であろう。そもそも、執筆者は自らが選定する人物に対して、何らかの興味関心があるはずであり、その人物に対するイメージは、プラスに傾いていることは否めない。人物を通して歴史を叙述する場合、その人物の好悪や先入観をできるだけ遠ざけ、客観的にその人物をとらえることが必要である。人物顕彰に陥ってはならず、マイナス部分にも目配りすべきである」

という筆者の姿勢にはまったく同感であり、この姿勢の上に書かれている故に町田先生の著述はいずれも安心感がある。

本書では、井伊直弼、吉田松陰、マシュー・ペリー、徳川慶喜、平岡円四郎、島津久光、渋沢栄一、松平容保、佐久間象山、坂本龍馬、五代友厚といった、いずれも幕末維新期に活躍した十一人を取り上げている。

最初に取り上げられるのが井伊直弼である。この人ほど評価が分かれる人物はいない。難局における責任を一身に背負い、通商条約を結び我が国を開国に導いた英雄と称される。一方で安政の大獄における苛烈極まりない処断から、血も涙もない専制的な悪人のイメージも付きまとう。どちら側に立つかによって評価が左右される人物の典型である。

安政五年(1858)六月十八日、ハリスとの交渉を終えた岩瀬忠震、井上清直は江戸城での評議に臨み、その場で大老井伊直弼から「窮した場合は調印をしても良い」との言質を得たため、岩瀬らはそのまま翌日日米修好通商条約に調印してしまう。

この時、直弼は「勅許を待たざる重罪は、甘んじて我等壱人に受候決意につき、また云う事なかれ」と言い残した(「公用方秘録」写本「開国始末」)。直弼の剛毅果断の性格により、欧米列強の植民地から日本を救った偉人というイメージは、ここから生まれている。

ところが、昭和六〇年代になって彦根藩の公式記録「公用方秘録」は改竄されていることが判明したという。公開されたオリジナルの写しによれば側近宇津木六之丞に勅許を待たずに調印したことを責められると「無念の至り、身分伺いするより致し方ない」と後悔の言葉を口にした。つまり「その点に気が付かなかったことは残念である」と言って大老職の辞任すらほのめかしたのである。この様子に剛毅果断さを感じることは難しい。筆者は「直弼の人間臭さが感じられる」と遠慮がちに評しているが、彼が日本の植民地化を救おうとか前向きの理由で条約調印に踏み切ったとは思えない。筆者がいうように本来開国の恩人は、むしろ「歴史から忘れられている岩瀬忠震」という指摘は的を射ているといえよう。

「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社、2009年)で島津久光に焦点を当て、従来一種のピエロとして取り扱われてきた久光の実像を浮かびあがらせた町田先生の筆は、本書でも健在である。

「「久光―小松―西郷・大久保」という意思命令系統によって、中央政局における薩摩藩の周旋は図られた。維新は、西郷と大久保だけでなされたわけではない。」「久光は史上稀に見る剛腕の君主であり、かつ政治家であったことは間違いなく、もっと評価されるべき偉人」という筆者の主張に異論はないが、我々のような一般読者を納得させるためには、証拠の一つでも提示してもらえると有り難い。つまり久光が小松帯刀や西郷・大久保に重要な政局において明確に指示しているような書簡や藩の公式記録を見せてもらえると、説得力が増すと思うのである。

勝手に想像するに、藩主(あるいはその父)の反幕・抗幕的な発言を証拠として残る形で作成することは、藩のリスク管理上避けるべきことだったと思われる。従って「そのような証拠を見せて欲しい」と言ったところで、基本的には残っていないというのが実際であろう。従って町田先生の主張は、「状況証拠を積み上げる」という手法に拠らざるを得ない。それは坂本龍馬の章で「龍馬は薩摩藩士であった」という主張においても同様である。状況証拠はそろっているが、決定的証拠がない。仮に龍馬が薩摩藩士だったとして、彼が幕長戦争に参戦したのは何故なのだろう。これも薩摩藩の指示によるものなのか。薩摩藩としては表立って長州を支援するわけにいかなかったので、「薩摩藩士のようで薩摩藩士ではない」龍馬に参戦させたということだろうか。

「あとがきにかえて」では「大河ドラマ」の功罪について触れている。「史実と違うことが事実のように受け止められて、一人歩きしてしまう危うさ」を指摘する。一方で「扱われる対象に関心が高まり、研究や史料の発見が進む」という「功」もあるという。

筆者は先年放映された「青天を衝け」について「きめ細やかな時代考証に基づき、脚本が史実を丁寧に扱っている」「史実ほど劇的で物語性に富んでいるものはありえない」と評しているが、まったく同感である。「青天を衝け」では、廃嫡された渋沢篤ニの物語、つまり偉人渋沢栄一の「負の側面」もありのまま描いており、非常に好感を持てた。

本書はJBpressというビジネスマンを対象としたウェブメディアに連載したものを改稿してまとめたものである。一般人にも分かりやすく書かれており、幕末史に馴染みのない人にも読みやすく、歴史の解釈の面白さを感じることができる。入門書としてもお勧めの一冊である。

 

 

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「五代友厚」 楠木俊詔著 平凡社新書

2024年04月27日 | 書評

五代友厚という人は、薩摩藩出身でありながら、武力倒幕にも公武合体にも加担せず、いわば独自の路線を歩んだという意味で異色の人である。明治維新という革命は武力倒幕だけで成立したわけでもないし、政権が交代した以上に経済、文化、風俗等様々な分野で大きな地殻変動が起こった時期であった。その時、たまたま政治ではなく、経済分野に渋沢栄一や五代友厚といった海外通のリーダーが存在していた。渋沢や五代がいなければ、ほかの経済通の人物がその肩代わりをしたかもしれないが、結果的にこの二人は東京と大阪という二大商業圏の経済を確立する上で重要な役割を果した。

五代友厚が経済人として活躍するに至った経緯は、本書で詳しく述べられている。

藩校造士館に学んで頭角を現すと、幕府が長崎に開いた海軍伝習所に派遣された。この中には税所四郎左衛門(篤)や川村与十郎(純義)らがいた。一旦薩摩に戻されるも、藩命により1862年(文久二年)に再び長崎に赴任した。ここで彼は商社マンのように軍艦や船舶、武器弾薬などを購入した。本書にはこの時期、薩摩藩が海外から調達した艦船を一覧表にして掲載しているが、想像を超える数である。おそらく五代友厚はこの取引の大半に関与していたであろう。この経験を通じて、彼は外国との交渉術や海外の商習慣などへの理解を深め、グラバーらとの人脈を築いた。外国語を習得するとともに、西欧列強の文明や産業、経済、軍事力をリアルに理解することができた。この先、経済人として生きていくにあたって、長崎での経験が大きな財産になったことは想像に難くない。

五代友厚の人生において、二つ目の転機となったのが、薩英戦争であった。戦争の砲火が交わされる直前に、薩摩藩の商船三隻がイギリスに拿捕された。それに乗っていた五代友厚と寺島宗則(当時は松木弘安)が捕虜としてとらえられた。作家加治将一氏の推論によれば、真偽のほどは不明ながら、五代と寺島はイギリスと示し合わせて、生麦事件の賠償金の担保として、戦争を回避するために独断で商船を引き渡したという。

「西洋かぶれ」の二人がイギリスの捕虜となったことは、薩摩では極めて評判が悪かった。藩内には「不利な条件で勝手に講和に持ち込もうとしている」「藩の実情や軍隊の情報をイギリスに流している」といった噂が流され、二人への反感は一層強まった。五代が藩の中枢と距離を置くようになったのは(もともと政治や軍事に興味がなかったのもあるだろうが)薩英戦争が一つの契機となっている。

五代友厚といえば「大阪経済の父」とか「関西経済の生みの親」「大阪市立大学開学の祖」と称えられるが、同時に北海道開拓使官有物の払い下げ事件で、巨万の富を得た(正確には「得ようとした」)政商として、三菱の岩崎弥太郎と並んで悪評が高い。どうやら高校の日本史の教科書にもそのように記載されているらしく、「悪徳商人」のイメージがぬぐい難い。

現在、五代友厚の名誉挽回に熱心に活動されているのが、大阪市立大学を卒業され一般財団法人大阪教育文化振興財団評議員などを務められている八木孝昌氏である。私は残念ながら「新・五代友厚伝」(八木孝昌著 PHP研究所)を読んでいないが、本書でも概略が触れられているので、八木氏の主張はだいたい理解できた。つまり、事実としては、五代は官有物のうち二つの小さな事業である岩内炭鉱と厚岸官林を引き受けようとしたに過ぎない。これに対し「東京横浜毎日新聞」などが払い下げを一手に引き受け、巨万の富を得ようとしたと批判したが、八木氏はこれを「誤報」と結論付けた。筆者は、「歴史家でもない筆者は、八木孝昌の分析が100%正しいと判断する資格はない。とはいえ、当時の政治状況や言論界の姿を考慮すると、裏話を隠す気風のある点を暴露した八木の執筆は、素人ながら大まかに信頼できると判断する」と、八木氏の主張を控えめに支持している。

筆者には同じ平凡社新書に「渋沢栄一」という書籍もあり、本書最終章では東西の両巨頭を対比させて批評している。両者は共通するところもあれば、相反しているところもあって、とても面白い比較論になっている。

幕末に海外に渡航して現地で西欧の経済を見聞したというのは共通の体験である。渋沢は銀行や株式市場といった市場のインフラに興味をもった。これに対し五代は金融業にはほとんど関心を示さず、彼の関心は製造業とくに鉱山業や造幣、繊維、貿易、鉄道事業等に向かった。筆者の解釈によれば、渋沢は徳川慶喜の下で、その後は大蔵官僚として日本国全体の政治、経済、社会をみる眼を養ったが、五代にはそのような「全国的なことに関心を持つ野心」はなかったとする。

一方で両者ともに東西で商法会議所(のちの商工会議所)の開設に関与し、人材育成の必要性から商法講習所(後の一橋大学もしくは大阪市立大学(現・大阪公立大学))の創立に尽力したという共通点もある。渋沢が九〇歳を超えるほど長生きしたのに対し、五代は明治十八年(1885)四十九歳という若さで世を去っている。五代が渋沢栄一ほどの会社の設立に関与できず、しかも地域としては大阪に限定的であり、社会貢献事業や民間外交にまで手を広げることができず、知名度の点では渋沢の後塵を拝することになっている。その最大の理由は、寿命の差にあるのかもしれない。

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