史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「開国の先覚者 小栗上野介」 蜷川新著 批評社

2021年01月30日 | 書評

著者蜷川新博士は、明治六年(1873)に生まれ、昭和三十四年(1959)に八十六歳で亡くなった。つまり小栗上野介が没して五年後に生まれ、私が生まれる数年前に亡くなったということになる。本書は昭和二十八年(1953)に発刊された書籍の復刻版である。

蜷川新の母は、林田藩主建部政醇の娘はつ子である。はつ子は小栗上野介忠順の妻道子の妹にあたり、すなわち蜷川新は小栗上野介と甥・叔父の関係にある。面識はないにしろ、近い血縁で結ばれており、小栗上野介への思いは極めて強い。因みに小栗上野介が官軍に処刑された烏川河畔に建てられた慰霊碑には蜷川新の書で「偉人小栗上野介 罪無くして此処に斬らる」と刻まれている。

歴史を公正中立に裁くにはある程度の時間距離が必要といわれる。蜷川氏は、非常に近い血縁関係にあり、小栗上野介の処刑からあまり時間も経っていない時代を生きた人である。既に小栗上野介はこの世にいなかったとはいえ、未亡人である道子夫人や遺子国子は存命中であった。さらにいえば、旧幕時代に活躍した生き証人もこの世に生きていた時代であった。本書でも大隈重信、三野村利左衛門、三宅雪嶺、石黒忠悳、山川健次郎、福地源一郎(桜痴)、島田三郎、田口卯吉といった人たちが登場する。

ということを考え合わせれば、蜷川博士に公正かつ冷静な小栗上野介論を求めることは土台無理な相談であろう。公正中立どころか、極めて主観的な小栗上野介論となっている。

特に維新の英雄とされた西郷隆盛、政敵勝海舟になると激しくヒートアップする。勝海舟のことを「卑怯」「売国奴」「まごころをもっていない」「責任感がない」「無恥・無骨頂」「下劣極まる」「唾棄すべき人間」「無識の人」「策士」「喰えない人間「世渡り上手な人間であったが、尊ぶべき人物ではない」と言葉を極めて罵っている。私もどちらかといえば、海舟より小栗派であるが、こうまで罵詈雑言を並べ立てられると、ちと海舟が気の毒なくらいである。

同じように西郷隆盛も「無智」「無能」「暴力のみを頼る人間」とばっさり切り捨てる。同時代人である大隈重信も西郷のことを少しも評価していないが、それと通じるものがある。

鳥羽伏見に敗れて江戸に帰還した慶喜に対し、主戦論を主張したのが小栗上野介であった。小栗は、幕府艦隊をもって駿河湾において隘路を進軍する官軍を砲撃するとともに退路を遮断する。その上で箱根を越えて小田原まで来た官軍を「袋の中の鼠」として壊滅させる。海軍の一部を神戸・兵庫方面に回航させ薩長軍の通路を砲撃し西方との連絡を遮断し、九州の親幕藩の挙兵を待つというものである。

これを聞いた大村益次郎が「この小栗の献策が用いられていれば、我々の首はつながっていなかっただろう」と語ったと伝わる。

確かに官軍の主力東征大総督東海道軍(兵力約五千)は小田原で阻止できたかもしれないが、東山軍(約三千)や北陸軍(約千五百)も並行して江戸を目指していた。東山軍は三月十三日には江戸に達しているし、北陸軍はやや遅れて四月上旬に江戸に到着した。結局、小田原で戦闘が行われれば旧幕軍は邀撃されることになったのではないか。仮に東海道軍が勝利し東上しようとしても、小田原から藤沢辺りまで東海道は海岸線近くを走っている。相模湾からの艦砲射撃を避けられない(当時の洋式砲の射程は二~三千メートル)。東海道軍が江戸に行き着くまでかなりの損耗を強いられたであろう。その時は江戸に残留する旧幕軍と東山軍・北陸軍とも激戦になるに違いない。さらに東北諸藩が旧幕府に味方し、江戸に攻め上るようなことになれば、江戸の街が焦土と化すのは避けられない。いずれにせよ戦争の勝敗は簡単に決するものではなかったと思う。

 

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「江戸東京に遺る勝海舟の足跡」 三澤敏博著 日本橋出版

2021年01月30日 | 書評

昨年末、三澤様より「新著出版のお知らせ」が届いた。「『江戸東京に遺る勝海舟の足跡』という書籍を上梓しましたのでご案内申し上げます」とあった。早速、書店で探してみたが見つけられなかったので、Amazonで取り寄せた。三百ページを超える分厚い本である。

以前から近々東京における勝海舟関係史跡をまとめた本を出すということは伺っていた。その数は二百以上と聞いていたが、正直に申し上げて、勝海舟の関係史跡だけでそのような数になるとは到底思えなかった。私も都内の史跡に関しては相当数足を運んでいて、当然その中には海舟の関係史跡も含まれているが、その数は精々十分の一程度にとどまっている。

本書に掲載されている関係史跡は実に二百三十六か所にも及んでいる。ページを開いて最初に口をついて出たのが「マジか!」というひと言であった。それにしても凄まじい「勝海舟愛」である。途轍もない執念を感じる。一人の歴史的人物に惚れ込むとはどういうことか考えさせてくれる一冊である。著者の愛や執念は、「幕末軍艦咸臨丸」(中公文庫)を読んだときに感じた著者文倉平次郎の情熱にも通じるものがある。

勝海舟は膨大な日記を残している。明治以降、海軍卿や元老院議官などの高官に就いた時期もあったが、いずれも短期間で辞任して、特にこれといった事績はない。むしろ、徳川家や亡友西郷隆盛の復権や顕彰に努めたほか、生活に困窮する旧幕臣の救済に尽力した程度で、いうならば歴史に残るような仕事は一切していない。知人の葬式に列席したり、会食に出席したり、写真を撮りに行ったりといった、ほとんど隠居生活のような毎日である。

筆者は、日記から海舟の行動を克明に読み取り、訪問先を特定し、それを現代の地図に当てはめるといった地道で気が遠くなるような作業をやり遂げた。その結果、石碑が建っているわけでなければ、説明板があるわけでもない、「尾崎三良麻布邸跡」だとか「向山黄村邸跡」などといった超マニアックな史跡を本書では数多く紹介している。

この本で初めて知った史跡も多い。早速都内に出かけて…といきたいところであるが、年明け早々緊急事態宣言が発せられ、在宅勤務に逆戻りしてしまった。その上、テニスのレッスン中に左脚ふくらはぎに肉離れを負ってしまい、歩くのもやっとという状態である。またしばらく史跡の旅はお預けである。ストレスのたまる日が続く。

本書でも矢田堀鴻の「矢」が抜けていたり(P.177)、旧津山藩主松平確堂(斉民)を旧松山藩主としたり(P.209)、木母寺を木文寺と表記したり(P.275)、誤字脱字が少々目に付いた。粗探しみたいで申し訳ないが、校正はしっかりお願いしたい。

 

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「小栗上野介(主戦派)VS勝海舟(恭順派)」 島添芳実著 創英社/三省堂書店

2021年01月30日 | 書評

タイトルに惹かれて以前より読んでみたいと思っていたが、Amazonで取り寄せてみたら評論や歴史書ではなく小説であった。

筆者は、サラリーマンの傍ら小説や随筆などを手掛けている方である。水野忠徳を老中としたり、桜田門外の変に参加した薩摩藩士を有馬治左衛門(正しくは有村次左衛門)としたり、所々誤記がある。生麦事件の被害者が駆け込んだのは米国領事館であって大使館ではないし、ほかにも引っかかる部分がないわけではないが、基本的には両者の確執を写実的に描いている。

筆者「あとがき」によれば、海音寺潮五郎の「西郷と大久保」に触発されて本書を着想したそうだが、西郷と大久保があたかも車の両輪のように共同して幕末の政局を推し進めたのに対し、小栗と勝はどちらかというと幕府にあって反目しあい、最後まで噛み合うことはなかった。根底には両者の政権構想の違いがあった。小栗は飽くまで徳川家を頂点とした郡県制度を構想していたが、勝は徳川家にこだわりはなかった。歴史が語るとおり、徳川政権は崩壊し、天皇をいただく明治政府が政権を握った。そういう意味では勝の構想の方が正しかったというべきであろう。しかし、仮にも勝は幕臣であった。小栗のように三河以来の譜代ではないにしろ、幕府の禄を食むものが、幕府を否定するような思想をもち、薩長に対して討幕をそそのかすような話をするというのは道義的に如何なものだろうか。徳川家に執着せずに外国から侵略されない国を作るという構想は、この時代の誰も持ちえなかった先見性の高いものであった。本来、勝は幕府の外の組織にいるべき人間だったのかもしれない。

文久三年(1863)に木村摂津守や井上清直、小野友五郎らが中心となって提言した海軍増強計画に対し、当時軍艦奉行並であった勝は「五百年かかる」と反対して、この構想をつぶした(ただし、木村の書き残したところによれば、「百年かかる」といって反対したとなっている)。現実には我が国は五十年で列強に伍することのできる海軍を育て、日露戦争にも勝利したのである。要するに、「五百年」という反対理由は根拠があるものではなく、単に自分の気に入らない連中の提案だから、たたき潰したというだけである(惜しむらくは、木村や井上、小野にしてみれば、事前に根回しが不足していたということだろう)。小栗がフランスと接近して横須賀に造船所をつくったのは良く知られている。このとき幕府の命運が長くないことを感じとっていた小栗は、たとえ幕府が滅びることがあってもこれで「土蔵付き売家」にはなるだろうと語ったといわれる。勝の構想は大局をみているが、一方で彼の器量は狭い。小栗と比べればそのコントラストは明確である。明治後、勝は小栗のことを「度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった」と評しているが、度量が狭いのは勝の方であろう。

予てより疑問に思っているのが、上州権田村に隠棲していた小栗を、何故東山道軍はそのことを察知して、尋問もせずに斬首してしまったのかということである。一般には官軍にも小栗の偉名は届いており、危険人物として抹殺を急いだといわれている。本書でも薩長土三藩の将兵間には「第二次長州征討の首謀者」「薩摩藩邸砲撃の命令者」「薩長討滅後の郡県制創設の首謀者」である小栗への憎悪の感情が充満していたと記述されているが、総督岩倉具定や参謀板垣退助以下に幕府の内部事情にそれほど通じた人物がいたとも思えない。この辺りの事情はもう少し調べてみることにしたい。

 

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「坂本龍馬と高杉晋作」 一坂太郎著 朝日新書

2021年01月30日 | 書評

「坂本龍馬と高杉晋作」を一冊にまとめた一冊である。「坂本龍馬と高杉晋作の等身大の二人が動乱の中をどのように考え、生きたか」を取り上げようというのは大学生の頃の著者の処女企画だったらしいが、正直に告白すると、読み終わってもどうしてこの二人を一冊に詰め込まなくてはいけないのか、ピンとこなかった。

西郷隆盛と並んで両雄は幕末の英雄として人気が高い。しかし、両者に濃密な交流があったかというと、さほどでもない。龍馬は筆まめなことでも知られるが、「龍馬・晋作の間を往復した書簡類は、現在のところ一点も確認されていない」という。

両者が酒を酌み交わしてゆっくりと話し合ったのは、慶応元年(1865)十二月のことであった。この時、龍馬の求めに応じて晋作は扇に五言絶句と脇文をしたため贈っている。よく知られているように、慶応二年(1866)一月二十三日、伏見寺田屋で龍馬は捕吏に襲われた。その時、晋作から贈られた短銃で応戦してこの危機を脱したが、おそらくこの短銃は前年末に長州で会ったときに晋作から贈られたものであろう。

慶應二年(1866)六月十四日の夜、晋作が下関の龍馬の旅宿を訪ね、参戦を要請した。これに応じた龍馬は乙丑丸(薩摩藩では桜島丸)に乗って小倉口の戦いに参加した。この時の様子を龍馬は故郷の家族に宛てた手紙にイラスト入りで詳しく報じている。

こうして両者の交流を見ていると、龍馬と晋作の間には相応の信頼関係と同志意識が確立していたのだろうと想像される。

しかし、一方で慶應三年(1867)二月以降、龍馬は下関に滞在していたが、死の床にあった晋作を見舞ったという記録がない。この頃、龍馬が長府藩の同志に宛てた書簡を見ても、晋作の名前は出てこないというし、りょうの回顧談でも晋作の話題は一切触れていない。「無論、史料がないからといって、見舞っていない、気にかけていないとは言い切れない」と筆者はいうが、この事実を見る限り、両者の信頼関係、同志意識というのもこちらが期待するほど濃厚なものでもなかったのかもしれない。

龍馬と晋作というと、自由奔放な「志士」という共通したイメージがある。「艱難を楽しみ、突破することに生きがいを求めるタイプの人間だった」という点も両者に共通する性質かもしれない。尊王攘夷を唱えながら海外に目を向け、経済を重んじ広く人材を求めたという姿勢にも似たところがある。筆者によれば「龍馬は本来政治に係れない草莽で、晋作は根っから政治に係らねばならない官僚・政治家」であり、そこに両者の本質的な違いがある。特に晋作は最後まで長州藩を背負っていた。では、龍馬は脱藩した故郷土佐藩を意識することなく、コスモポリタンとして振舞っていたかというと、どうも最後は土佐藩のことも気にかけていたような気配が濃い。この辺りが後世から見て坂本龍馬の頭の中が見えにくい要因ともなっている。

 

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「長州ファイブ」 桜井俊彰著 集英社新書

2021年01月30日 | 書評

筆者の本職は歴史家ではなくてエッセイストである。歴史家の文章と比べればずっと読みやすくて、あっという間に読み終えることができた。それにしても、井上勝がイギリスの鉱山で汗だくになって採鉱作業をしたときの写真を終生手元に置き、困難に直面したときはこれを見て自身を奮い立たせたという逸話を紹介した後、「いい話だ」と付け加えるのは余計だろう。いい話かどうか判断するのは読者なのだから。これが筆者得意の文体かもしれないが、どうしても違和感がつきまとった。

長州ファイブの物語は、これまでも関係書籍を読んでいたし、冒頭で紹介されている映画「長州ファイブ」も観ているので、さほど目新しさはなかったが、彼らが学んだUCL(University College London)について詳しく解説してくれているのは大変参考になった。UCLは筆者の留学先でもあり、筆者と長州ファイブを結びつけたのもUCLだと言って良い。

UCLができるまでは、イギリスにはオックスフォードとケンブリッジの二つの大学しかなく、しかも両校に入学できるのはアングリカン(英国国教徒)に限られていたという。そうした中、非アングリカンにも、外国人にも門戸を開き、自由・反骨・無宗教を掲げて1826年に創立されたのがUCLだったのである。長州ファイブが密航する三十七年前のことであった。筆者がいうように、UCLという大学が無かったら五人は渡航しても近代工学を学ぶこともできなかっただろうし、そもそも渡航計画そのものも存在していなかったかもしれない。そう考えると、この時UCLが存在していた絶妙さに我々はもっと感謝しないといけない。

UCLは草創期に日本から留学生を迎え入れたことを今も誇りにしていて、2013年には「長州ファイブ来英一五〇周年」記念式典が開かれたそうである。キャンパスには、薩長留学生の記念碑が建てられている。UCLが留学生を受け入れ、しかも彼らの中から初代総理大臣を初め、明治日本の近代化に尽くした人材を輩出したことはUCLにとっても非常な栄誉なのであろう。

筆者の留学体験から「イギリス人は性格的に日本人どこか似ているところがある」という。「割合遠慮深く、謙虚なところがあり、基本的に質素で忍耐心もある」「個人主義が強く自己主張の固まりのような気質のフランス人と比べれば、イギリス人は確かに口下手」「アングロサクソン戦士社会より受け継ぐ尚武の心があり、日本の剣道や弓道にリスペクトを払う人は少なくない」のだそうだ。

あまりイギリス人と深く関わったことはないが、言われてみれば(アメリカ人と比べれば)日本人に親切な人が多いかもしれない。長州ファイブがアメリカでもフランスでもなく、イギリスを目指したのはある程度の必然性もあったのだが、結果的に彼らにとっても、我が国にとっても幸運だったと思う。

 

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2021年01月23日 | 千葉県

(柏駅東口駐輪場)

 

明治天皇柏御小休所

 

 柏駅を東側に出てサンサン通りを東に進み、旧水戸街道(現・県道51号)と交わった辺りの植え込みの中に明治天皇柏御小休所碑がある(柏市柏4‐5)。明治十三年(1880)、寺嶋家に行幸したことを記念したものである。

 

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松戸 小金 Ⅱ

2021年01月23日 | 千葉県

(梅澤邸)

 東漸寺の前の道をさらに南に行くと、右手に梅澤邸がある。住宅の前に明治天皇小金御小休所碑が建てられている。明治十七年(1884)、茨城県女化原(現・牛久市)で行われた近衛兵演習天覧のため、小金宿を通過した際に休憩をとった記念碑である。

 

明治天皇小金御小休所

 

 塀越しに写真を撮影していると、中から老婦人が現れ、ご主人を呼びに行かれた。すっかり警察にでも通報されるのかと観念していたところ、ご主人から「どうぞ中に入って撮影してください」と思わぬ言葉をいただいた。実は塀越しだと庭木が邪魔をしてうまく撮れなかったのである。

 ご主人によれば、明治天皇が梅澤家で休息をとったのは、百三十年以上も前のことで、建物も建て替えられている。「明治天皇が使われた建物ではないんです」と申し訳なさそうにご説明いただいた。その上、帰り際に「ちょうど今日獲ったばかりだから」と庭でとれたミカンを四つもいただいた。史跡の旅を続けていると、厄介払いされるのが常だが、この日はとても良心温まる一日となった。(松戸市小金316)

 

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松戸 Ⅳ

2021年01月23日 | 千葉県

(相模第一マンション)

 JR松戸駅の西側数百メートルを流山街道(現・県道5号線)が走っている。その道を南進して春雨橋を渡ったところにあるマンションの奥に明治天皇松戸行在所碑がある。(松戸市松戸1779)

 

明治天皇松戸行在所

 

 明治十七年(1884)、牛久での近衛兵演習天覧の途中、明治天皇が脇本陣羽生家で昼食をとったことを記念したものである。

 

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田町 Ⅹ

2021年01月16日 | 東京都

(正山寺)

 

正山寺

 

 竹様より「秋田の全良寺に何気なくあった旗本仁賀保家家臣の細矢源三について調べてみたら、三田の正山寺にお墓があるようです。そこは仁賀保家の菩提寺みたいですね。ぜひいってみてください!」と連絡があった。早速、翌週末正山寺まで出かけて、墓地を歩いてみた。

 さして広くない墓地であり、二周三周してみたが、細矢(もしくは細谷)姓の墓石は見つけられなかった。

 その代わりと言っては何だが、墓地の片隅に古い墓石を集めた一画があり、そこで新田貞時の墓を発見した。

 

源阿曾美新田貞時墓

 

 新田貞時は、文政三年(1820)、赤穂藩主森忠敬の三男に生まれ、旗本由良貞靖の養子となって由良家を継いだ。慶應四年(1868)、貞靖とともに新田姓に復し、官軍に従って戊辰戦争に参戦した。維新後、自らが新田義貞の嫡流であることを主張し、同じく新田氏嫡流を名乗る岩松氏(新田俊純)と激しく争った。新田義貞を祀る旧金山城址新田神社や新田義貞最期の地藤島神社の建立に尽くした。明治六年(1873)没。五十四歳。

 

従四位上前侍従兼播磨守源貞靖朝臣墓

(新田貞靖の墓)

 

 帰宅して正山寺にメールで問い合わせたところ「細谷源蔵の墓地は墓地を入って左側奥の塀側にあります。お参りなさるのであれば、お気を付けてお参りください。」と返信をいただいた。翌週末、再度正山寺を訪ねた。和尚さんが連れて行ってくれた先は、先週新田貞靖、貞時父子の墓を見つけた一画であった。和尚さんによれば、昔は壁際に一線に並べられていたそうだが、その際に墓石と笠が入違ってしまったようである。和尚さんは「あとは良く見てください」といい残して立ち去ってしまわれたが、ここにある墓石はいずれも明暦、元禄、安政、嘉永という元号か、大姉、童子といった法名で、細矢源蔵墓と特定するに至らず。残念ではあるが、細矢源蔵の墓は逸失したものと断じざるを得ない。

 

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加須 Ⅲ

2021年01月16日 | 埼玉県

(旗井)

 

明治天皇行幸記念碑

 

 東海道線に続き、上野―高崎間が明治十七年(1884)六月に開通し、続いて東北本線の建設が計画された。この時、高崎線のどこで分岐させるかが課題となった。当時の鉄道局長官は、大宮案と熊谷案で費用・期間などを検討し、最終的には大宮分岐で起工すべき旨を日本鉄道会社に通達した。これを受けて明治十八年(1885)、大宮、蓮田、久喜、栗橋に停車場が開設され、同年内に宇都宮まで開通した。しかし、利根川を渡る鉄橋が未完成であり、列車は栗橋止まりで、乗客は伝馬船で利根川を渡り、中田停車場で乗り継いだ。鉄橋は遅れて明治十九年(1886)に完成した。約472メートルは当時、国内最長であった。

 明治天皇は、明治十九年(1886)七月九日の竣工式に出席し、徒歩で鉄橋を渡り、船からも御覧になった。八坂神社の神輿を中洲に船で運び、水泳大会では鉄橋から川に飛び込む余興も御覧になったという。

 現在、旗井地区に建つ明治天皇行幸記念碑は、この際の明治天皇の訪問を記念して、東村青年団が昭和六年(1931)に建立したものである。

 もとは利根川の土手沿いにあったものが、土手強化工事により、所在地が変わっている。栗橋駅から徒歩で15分。久喜市ではなく加須市である。

 

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