著者蜷川新博士は、明治六年(1873)に生まれ、昭和三十四年(1959)に八十六歳で亡くなった。つまり小栗上野介が没して五年後に生まれ、私が生まれる数年前に亡くなったということになる。本書は昭和二十八年(1953)に発刊された書籍の復刻版である。
蜷川新の母は、林田藩主建部政醇の娘はつ子である。はつ子は小栗上野介忠順の妻道子の妹にあたり、すなわち蜷川新は小栗上野介と甥・叔父の関係にある。面識はないにしろ、近い血縁で結ばれており、小栗上野介への思いは極めて強い。因みに小栗上野介が官軍に処刑された烏川河畔に建てられた慰霊碑には蜷川新の書で「偉人小栗上野介 罪無くして此処に斬らる」と刻まれている。
歴史を公正中立に裁くにはある程度の時間距離が必要といわれる。蜷川氏は、非常に近い血縁関係にあり、小栗上野介の処刑からあまり時間も経っていない時代を生きた人である。既に小栗上野介はこの世にいなかったとはいえ、未亡人である道子夫人や遺子国子は存命中であった。さらにいえば、旧幕時代に活躍した生き証人もこの世に生きていた時代であった。本書でも大隈重信、三野村利左衛門、三宅雪嶺、石黒忠悳、山川健次郎、福地源一郎(桜痴)、島田三郎、田口卯吉といった人たちが登場する。
ということを考え合わせれば、蜷川博士に公正かつ冷静な小栗上野介論を求めることは土台無理な相談であろう。公正中立どころか、極めて主観的な小栗上野介論となっている。
特に維新の英雄とされた西郷隆盛、政敵勝海舟になると激しくヒートアップする。勝海舟のことを「卑怯」「売国奴」「まごころをもっていない」「責任感がない」「無恥・無骨頂」「下劣極まる」「唾棄すべき人間」「無識の人」「策士」「喰えない人間「世渡り上手な人間であったが、尊ぶべき人物ではない」と言葉を極めて罵っている。私もどちらかといえば、海舟より小栗派であるが、こうまで罵詈雑言を並べ立てられると、ちと海舟が気の毒なくらいである。
同じように西郷隆盛も「無智」「無能」「暴力のみを頼る人間」とばっさり切り捨てる。同時代人である大隈重信も西郷のことを少しも評価していないが、それと通じるものがある。
鳥羽伏見に敗れて江戸に帰還した慶喜に対し、主戦論を主張したのが小栗上野介であった。小栗は、幕府艦隊をもって駿河湾において隘路を進軍する官軍を砲撃するとともに退路を遮断する。その上で箱根を越えて小田原まで来た官軍を「袋の中の鼠」として壊滅させる。海軍の一部を神戸・兵庫方面に回航させ薩長軍の通路を砲撃し西方との連絡を遮断し、九州の親幕藩の挙兵を待つというものである。
これを聞いた大村益次郎が「この小栗の献策が用いられていれば、我々の首はつながっていなかっただろう」と語ったと伝わる。
確かに官軍の主力東征大総督東海道軍(兵力約五千)は小田原で阻止できたかもしれないが、東山軍(約三千)や北陸軍(約千五百)も並行して江戸を目指していた。東山軍は三月十三日には江戸に達しているし、北陸軍はやや遅れて四月上旬に江戸に到着した。結局、小田原で戦闘が行われれば旧幕軍は邀撃されることになったのではないか。仮に東海道軍が勝利し東上しようとしても、小田原から藤沢辺りまで東海道は海岸線近くを走っている。相模湾からの艦砲射撃を避けられない(当時の洋式砲の射程は二~三千メートル)。東海道軍が江戸に行き着くまでかなりの損耗を強いられたであろう。その時は江戸に残留する旧幕軍と東山軍・北陸軍とも激戦になるに違いない。さらに東北諸藩が旧幕府に味方し、江戸に攻め上るようなことになれば、江戸の街が焦土と化すのは避けられない。いずれにせよ戦争の勝敗は簡単に決するものではなかったと思う。