史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末武家の回想録」 柴田宵曲編 角川ソフィア文庫

2021年04月24日 | 書評

本書は明治二十年代から三十年代にかけて、当時まだ健在であった旧幕人からの談話を集めたものである。同種の書籍(編者によれば「姉妹編」ということになる)に「旧事諮問録」がある。「旧事諮問録」がその名のとおり諮問に答える形で進行するのに対し、本書は話し手が自ら気の向くまま語る点が両者の大きな違いといえる。

登場するのは、浅野長勲、村山鎮、内藤鳴雪、塚原渋柿、田辺太一、清水卯三郎、長岡護美、松本良順、赤松則良、沢太郎左衛門といった著名な人物のほか、市井の人も多数いる。

旧幕臣塚原渋柿(本名は靖、渋柿園とも)は、明治元年(1868)、徳川家に従って静岡に移住した一人であるが、その時の体験を語っている。この時、藩庁では移住者を輸送するために米国の飛脚船を借り入れた。渋柿園の記録によれば、総人数二千五六百という。男子だけでなく、多くは老人子供、婦女病人であった。渋柿園自身も父母、祖母、老僕の仁平を伴っていた。

船内は他人の足を枕にして、自分の足は他人の枕にされているほどの混雑であった。船が出ると、あっちこっちで船酔いのためげいげいと吐き出し、子供は泣く、病人はわめくという悲惨な状況となった。

便所は四斗樽を並べただけのものであった。男性はともかく、「然るべき御旗本御家人の奥様、御新造様、御嬢様、御隠居様」といわれた女性たちにはとてもそんな便所で用を足すことはできない。清水港に着くまで用便を耐えて、そのため船中で卒倒し、上陸後も病気になってしまった人もいた。渋柿園は「生きながらの地獄」と評している。船内の描写はまだまだ続く。数十年前の回顧談ではあるが、恐らく渋柿園の脳裏には鮮明に刻まれた記憶であろう。

「幕末外交談」という著書もある田辺太一も、本書で「幕末外交瑣談」という小編を寄せている。その中で、安藤対馬守(正睦)のことは「時務についてはなかなか精励した人」「精励恪勤の人」「談判応接に巧み」と評価している。「外交上に立派なる見識があったか否かは大いに疑うべき」としながらも、「幕末外交家中第一の人と称してもよかろう」と一定の評価を下している。

大老井伊直弼については、「大老をもって非常の偉人となし、開国の第一人者と称しているが、私の見聞するところでは、それほどの人物とは思えぬ」と辛口である。基本的には井伊は西洋嫌いであり、「開国とか鎖国とかいうことは殆ど分からなかった人」で「もし朝廷において開国説をお取りになれば、大老はあべこべに鎖国論をもって反対する人ではなかったか」とし、「開国の恩人視する如きは、甚だ無意味」と切り捨てる。同時代人の人物評だけに重みがある。

ほかにも清水卯三郎による薩英戦争の目撃談など貴重な証言が盛りだくさんである。言ってみれば、令和になって昭和の回顧談を収録したような本であり、史料的価値は低いかもしれないが、読み物としては興味が尽きない一冊である。

 

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「寫眞帳 小笠原 発見から戦前まで」 倉田洋二編 アボック社

2021年04月24日 | 書評

この本を父島に渡るおがさわら丸の売店「ドルフィン・ショップ」で見つけた。定価三千五百円と決して安くない。どうしようか迷ったが、売店には一冊しかなかったので、ここで躊躇して売り切れてしまったら後悔が残る。お土産だと思って購入した。

本書は返還十五周年を記念に、多くの島民から古い写真の提供を受けて、一冊の本にまとめたものである。明治初年から戦前までの写真が納められている。小笠原は今も自然に満ちているが、この写真を見ると昔はもっとありのままであった。

私がこの本を買おうと思ったのは、歴代島司・支庁長のリストが掲載されていたからである。初代の内務省小笠原島事務所長は小花作助。その後、内務省から東京府に移管され、小笠原島出張所となった。その初代所長は咸臨丸墓地に墓のある藤森図高であった。二代目は南貞助。十代目には二十年間に渡り島司を務めた阿利孝太郎がいる。思えばこれだけの情報のために三千五百円(税込みで三千八百五十円)は払い過ぎかもしれないが、子細に目を通すと、ほかにも貴重な情報が掲載されており、十分もとの取れる内容であった。

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「明治維新と西洋文明」 田中彰著 岩波新書

2021年04月24日 | 書評

本書も岩波新書「アンコール復刊」の一冊、往年の名著である。副題は「岩倉使節団は何を見たか」である。つまり岩倉使節団の公式な報告書である「米欧回覧実記」(以下、「実記」)を丹念に読み解きながら、近代日本が何を採用し、何を排除したのかを明らかにしようというものである。

筆者には同じ岩波新書に「小国主義」という著作がある。「実記」では、米英仏露独墺といった大国と並んで、ベルギー、オランダ、ザクセン、スイス、デンマークといった小国にも相当なページを割いている。筆者によれば、「実記」全巻のうち一割以上が小国に充てられているという。

明治政府の指導者は、イギリスをモデルにすべきか、はたまたドイツを目指すべきか、ということに頭をめぐらせたが、どういうわけだか国土の狭い我が国にとって、意外と適当なモデルとなりえる小国にはほとんど関心が向かなかった。

「実記」は大国にはまれた小国が、「自主の権を全うし」その「営業の力」が時に大国を越え、世界貿易にも大きな影響を与えていることを強調している。それを可能にしているのは、「人民の勉励和協」であり、愛国心教育だとしている。

「実記」はこれから近代化の道を歩もうしている明治日本にさまざまな選択肢を提示しているが、「小国への道」もその一つである。我が国が大国を選ばず小国を目指したら、その後の歴史はどうなったであろうか。軍備の増強に走らず、その挙句世界大戦に巻き込まれることもなかったかもしれないなどと空想が広がる。

使節団は、パリの下水道設備も見学している。「実記」は新しく街を作り、家を建てるにはインフラを整えることの重要性について言及しているが、あまりに壮大過ぎたのか、その後の日本の街造りにこれが活かされた形跡はない。筆者は「現在まで尾を引く日本の都市政策の貧弱さを示す、淵源の一つといってよい」と批判している。

「実記」はヨーロッパ文明を受容し、時に批判し、何を取り何を捨てるべきかという選択肢を提示したものと読むことができる。考察の対象は、政治・経済・宗教・思想・文化などあらゆる分野に及んでいる。白人を「慾深き人種」と呼び、「黄種」は「慾少なき人種」としている。あるいは西洋を「保護の政治」とし、東洋を「道徳の政治」と対比している。ヨーロッパの人々は、ひとたび家を建てると代々引き継いでこれを修繕し、ますます立派なものにする。中国人は建てる時は細心の留意をするものの、いったんできあがったあとは「掃修」もせず、「廃圮(はいひ=すたれくずれること)」しても「亦毀(こぼ)たず」という。日本人は建てる時には鋭意努力して、「其工を省き」、いったんできあがって、やがて壊れてしまうと、また「改立」する。建築と崩壊、そして改立の繰り返しだという。

ヨーロッパの動物園、植物園、博物館は、動物や鳥類の生態を追究し、体系的に人々に見せようというものである。我が国にも植木屋とか、禽獣観場と呼ばれる、似たような施設はあるが、所詮「珍獣奇木」によって人の目を驚かせる、いわば見世物に過ぎないと、その本質的な違いを指摘している。つまり、ヨーロッパの人々は合理的・体系的思考に立って理論を究めた上で実利を生み出そうとしているのに対し、アジアの人々は習慣的な方法から抜け出せないまま、目先の利益にのみこだわっているというのである。

「実記」の至るところに、このような西洋と東洋の違い、ヨーロッパとアジアの違いが的確に指摘されている。今から百五十年も前に書かれたものであるが、現代にも十分通じる鋭い観察眼に改めて感心させられる。

「実記」は「非常なる」「模擬の精神」こそ日本人の特質だと説く。いわゆる日本人論の走りかもしれない。日本では古(いにしえ)より発明に乏しい。建築、鉄冶(鉄鉱のふき分け)、磁陶、縫織は、いずれも朝鮮や支那から移入され、我が国で工夫を加え、今ではいずれもオリジナルを越えるものにしている。「物まね」だと揶揄されることもあるが、「非常なる」模擬の中に創造性があるという日本人の特質は、少なくとも戦後の高度成長期までは世界に通用したが、二十一世紀を迎えた今、それだけでは勝てなくなっている。これからどう戦うか、その答えは「実記」の中には書かれていないのか。あるいは熟読すれば何かヒントが隠されているのだろうか。

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母島 Ⅱ

2021年04月17日 | 東京都

(乳房山)

 竹芝桟橋などで無料で配られている「母島ガイドマップ」によれば、乳房山には遊歩道が整備されているが、「所要時間4~6時間(健脚向き)」と記載されている。登山口にたどりついたときには既に十時二十分。四時間もかかったら、十四時出航の母島丸に乗れないことになる。母島に宿もとっていないし、途中で引き返してでも母島丸に乗らなければならない。

 

乳房山登山口

 

 登山口から山頂まで二・三キロメートル。平地であれば、三十~四十分というところだが、場所によっては急勾配もある。私はもともと健脚でもないし、登山が不得意な方である。どれくらいで山頂に到達できるのか全く読めない。

 

 この日は、雨こそ降らなかったが、母島上空には厚い雲が漂い、母島最高峰(標高463メートル)の乳房山山頂は下から見ても雲で覆われていた。前夜の雨で遊歩道はぬかるみ、油断すると足を滑らせてしまう。特にロース石製の階段は滑るので要注意である。

 幕府が派遣した水野忠徳ら巡検隊一行は、文久二年(1862)二月十日、咸臨丸で母島に到着した。ただし、咸臨丸が着けられる入江がないため、上陸した一行はかがり火を焚いて野宿した。夜になって咸臨丸艦長小野友五郎が上陸して、十五日後に迎えにくることを約束して帰船した。

 作次郎の日記によると、この当時の母島には外国人ばかりで十七人が居住していた。男より女の方が多くて、彼らはアメリカ人で、六年前からここで生活しているという。

 二月十一日から、一行は異人を案内にたてて、「母島で一番高い山」に登った。すなわち乳房山である。

 

剣先山

 

 作次郎の日記によると、「水の涸れた滝にかかったところで、小花作之助様が一丈四~五尺(約四~四・五メートル)も落下した。」作次郎は即死だと思ったらしいが、諸薬を用いて介抱した結果、半時(一時間)ほどで息を吹き返したという。巡検隊はこの場所を「小花ころび」と名付けたというが、今となってはどの辺りなのか分からないのはちょっと残念である。

 遊歩道の両側はずっと密林である。ちょうど中間点辺りにガジュマルのトンネルがある。ガジュマルはもともと母島にはなく、移植したものが野生化したらしい。

 

ガジュマル

 

乳房山山頂

 

 登山開始から一時間十分で山頂に到着した。山頂付近の道は狭くなり、倒木で頭を打つ場面もあった。汗でティーシャツはびっしょりとなった。天気が良ければ、山頂から母島列島(妹島、鰹鳥島、丸島、二子島、姉島、平島、向島)を見渡すことができるというが、さっぱり何も見えない。

 山頂で持参したアンパンを食べていると、男女老人八人のグループが上がってきて、狭い空間は人でいっぱいになった。押し出されるように下山を開始した。帰りは一時間ほどで登山口にたどりついた。まだ出航の時間まで一時間もあった。

 

(母島小中学校)

 

御臨幸紀念

 

 剣先山へ登る遊歩道などもあったが、もはや私にはこれ以上山道を歩く体力も気力も残っていなかった。

 母島小中学校と村役場の前に行幸紀念碑が建てられている(小笠原村母島元地)。昭和二年(1927)、即位間もない昭和天皇が小笠原諸島を視察したときのものである。母島には、同年七月三十一日の昼前に上陸し、沖村を視察、午後には南京浜にて海の生物を採取された。南京浜の一部を御幸浜と呼び、そこにも行幸記念碑が建てられているが、やはりそこまで歩く気力がわかなかった。

 

行幸紀念

 

(母島のカタツムリ)

 

 

 

外来種アフリカマイマイ

 

 

 

 清見寺の墓地や乳房山遊歩道で見かけたカタツムリである。母島には母島固有種のカタツムリが棲息しているらしいが、どれが何だか分からない。一見して分かるのはアフリカマイマイだけである。

 

(母島丸)

 

母島丸

 

 帰りの母島丸に乗って三十分くらいしたところで「右手前方にクジラが見えます」と船内放送があった。母島はクジラが有名で、ホエール・ウォッチングのツアーも人気が高い。急いで甲板に上がって写真を撮ったが、うまくいかなかった。

 その後もずっと海を眺めていたら、遠くでクジラ(おそらくザトウクジラであろう)が泳いでいるのを発見した。小さいながら写真に収めることができた。

 

クジラ

 捕鯨が組織的に行われるようになったのは約一千年前といわれている。当時は沿岸まで接近したクジラに小舟で近づき、手投げ銛で仕留めて海岸に引き揚げていた。その後、沖合まで出て、数隻の船でクジラを沿岸に追い込み、網をかけて手投げ銛で仕留めるという方法に変化した。我が国でもこうした古式捕鯨が明治中頃まで行われていた。

 近代的捕鯨の最初の黄金期は十七~十八世紀、北極海でホッキョククジラの捕獲が中心であった。しかし、英・独・蘭の捕鯨競争による乱獲によりほどなく衰微した。

 第二の黄金期がアメリカ式捕鯨の時代で、マッコウクジラとセミクジラをターゲットとして、十九世紀の中期を中心に最盛期を迎えた。この頃のアメリカ式捕鯨は、三百~五百トンの大型三檣式帆船に五~六雙のボートを積み、クジラの群れを発見すると、ボートで接近して大型の銛を何本も打ち込んだ。仕留めたクジラは船上で解体し、鯨油だけを樽に詰め込んで持ち帰った。鯨油は主に灯火用に使用された。安政六年(1859)にアメリカが石油の採掘に成功して、石油が灯火用として普及するまで、アメリカ式捕鯨は続いた。昨今、欧米人はフカヒレ漁を「残酷」だと批判するが、今から百五十年前彼らは同じようなことをしていたのである。

 大西洋のクジラを取り尽くした後、十九世紀には太平洋が捕鯨の舞台となり、文政三年(1820)以降、日本近海に向かった。文政七年(1824)にアメリカ人コフィンが小笠原諸島を発見したのはある程度の必然性があったのである。コフィンの小笠原来航以来、各国の捕鯨船や軍艦が次々に父島・母島に来航するようになった。文政十年(1827)に来航したイギリス人ビーチーは父島をピール島、兄島をバックランド、弟島をステープルトン、母島諸島をベイリー諸島と命名している。文政十三年(1830)に父島に移住したセボレーらは寄港した捕鯨船に飲料水や野菜、果実、海亀等を供給して生計を立てていた。

 我が国で捕鯨砲を備えた近代的捕鯨が始まったのは、明治三十二年(1899)のことで、欧米と比べれば周回遅れといっても良い。現在、クジラが絶滅の危機に瀕しているとすれば、その責の大半は十九世紀に乱獲した欧米に帰するのは間違いないだろう。

 

クジラ

おがさわら丸船上より

 

弟島

(ステープルトン)

 

 母島丸船上からクジラを見ることができたのは幸運だったと思うが、翌日おがさわら丸で東京に戻る際にも、クジラがおがさわら丸と並走してくれた。この海域でクジラを発見するのはさほど難しいことではないのかもしれない。

 

二見港に入港する母島丸

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母島 Ⅰ

2021年04月17日 | 東京都

 小笠原滞在三日目は、母島まで往復することにした。当初は最終日、すなわちおがさわら丸で帰京する日の午前中に母島に渡り、午後父島に戻ってその一時間後に出航するおがさわら丸に乗る計画を立てていた。ところが旅行会社の方から「それじゃ母島に一時間半しか滞在できませんよ」と諭され、日程を変更することにした。母島では月ヶ岡神社とモットレー夫妻とロースの墓、ロース記念館を回るだけだったので、一時間半もあれば十分だったのだが…

 母島は父島の南約五十キロメートル(東京‐青梅間くらいの距離感である)に浮かぶ島である。母島列島というときは向島、平島、二子島、姉島、姪島、妹島などから構成される群島を呼ぶ。母島丸で片道二時間(料金は片道四三一〇円 季節によって変動する)。

 滞在時間が四時間半になったので、乳房山登頂にも挑戦することにした。結果的に体力を激しく消耗することになった。

 

(月ヶ岡神社)

 月ヶ岡神社は、母島丸が接岸する沖港のすぐ近くにある。境内には菊池虎太郎の顕彰碑が建てられている(小笠原村母島元地)。

 

月ヶ岡神社

 

菊池翁功徳碑

 

 菊池虎太郎は旧仙台藩士で、天保七年(1836)に生まれ、元治元年(1864)に蝦夷地を経て樺太に渡っている。明治二十年(1887)、母島の西浦に居住し、甘藷の栽培と砂糖の生産を行った。明治三十三年(1900)二月に六十四歳で死去した。

 母島の功徳碑は、菊池が亡くなった年の十一月に建立された。篆額は当時の東京府知事千家尊福、碑文は友人の富田鉄之助(仙台藩士、第二代日銀総裁)が撰文、樋田魯一の書。

 

沖港

母島丸が停泊している

 

 現在母島の人口は約五百。そのほとんどが沖港を囲む元村や静沢集落に集中している。戦前は北港や東港にも住民がいたが、戦時中の強制疎開以降、住民が戻ることはなかった。

 

(清見寺)

 港から徒歩五分足らずのところに清見寺がある。おそらく母島唯一の寺院であろう(小笠原村母島静沢)。そういえば父島には教会はあったが、寺院は見なかった。お寺がなくても困らないのだろうか。心配になって翌日観光案内所の方に質問したところ、父島にも扇浦に行行寺という寺が一つだけ存在しているそうである。観光案内所の方は「特に由緒がある寺ではありません」と何度も念押しされた。

 

清見寺

 

蟲塚(むしづか)

 

 清見寺墓地にある蟲塚である。母島では明治十年代からサトウキビ栽培、昭和以降は冬季野菜栽培が盛んに行われたが、バッタ(イナゴ)の大発生によってサトウキビが被害を受け、その駆除に苦慮した。農家にとって害虫の駆除は必要な作業であったが、殺生した虫の供養のためにこの蟲塚が建てられたと言われている。この蟲塚は母島における農業が戦前最も盛んだった昭和十年(1935)八月に建てられたもので、ロース石でできている。

 蟲塚のところで右折してさらに墓地を上がっていくとその突き当りにロースとモットレー夫妻の墓がある。

 

ゼイムス・モットレイ

ケテー・モットレイ 墓

 

 文久二年(1862)二月、幕府の外国奉行水野忠徳が母島に至り、住民代表ジェームス・モットレーと会見。日本領土であることを通告し協力することに同意を得た。ジェームスはイギリス人で、妻ケテーはカナダ人であった。

 菊池作次郎の日記には「母島の首長チーモウレン」として登場する。作次郎によれば「外国の男伊達風の者」という。モットレーは一族を引き連れてあちらに三年、こちらに五年と移住し、母島に来てから約六年になっていた。いずれ他に移ると語っていたようだが、結局母島に骨を埋めることになった。

 

良志羅留普墓(ロルフス・ラルフの墓)

 

 ロルフスはドイツ人で、モットレーの遺産相続人になっている。ロース石を発見したことでも知られる。

 

(ロース記念館)

 小笠原村郷土資料館は通称をロース記念館といい、ロース石製品などを展示している(小笠原村母島元地)。

 建物は、大正二年(1913)に砂糖倉庫として沖港突堤前に建てられたロース石製のもので、小笠原諸島返還後は農業組合と簡易郵便局として使用された。昭和五十七年(1982)、解体保存され、昭和六十年(1985)に現在地に移築復元された。屋根はオガサワラビロウを用いたシュロッ葉葺きとなっている。

 

ロース記念館

 

ロース石製品の展示

 

ロース石

 

ロースから小花作助に差し出した書簡

 

 明治二十九年(1896)、ロルフスが上京し、小花作助に面会した際に写真を撮った。その御礼を伝えるために代筆して出したものである。

 ロース記念館の前にロルフスの胸像があるが、この時撮影した肖像写真をもとに作製されたものである。

 

ロルフスラルフ 良志羅留普之像

 

 フレデリック・ロルフス(1823~1898)通称ロースは、ドイツのブレーメン生まれで、捕鯨船の船員であった。明治二年(1869)、母島に来島し、先に住んでいたジェームス・モットレー夫妻とともに沖村に居住した。明治十一年(1878)、日本に帰化し、良志羅留普と改名した。ロースは、モットレー等と母島の開拓に力を尽くし、石材を発見し、その利用法を島民に伝えたことから、その石は「ロース石」と呼ばれることになった。

 

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父島 Ⅴ

2021年04月17日 | 東京都

(南島)

 延宝三年(1675)の嶋谷市左衛門の巡検の際に南島と名付けられ、幕末の巡検隊もその名前を踏襲している。文字とおり、父島の南西にある。

 南島にはガイド付きのツアーに申し込まないと渡ることができない。一説には「小笠原で最も美しい」とも言われ、それを想うと非常に心が動いたが、ツアーだと行動が制約されるし、興味のないところで長々と解説を聞かされるのも苦痛である。今回の小笠原滞在中、私は自転車か徒歩で動いたが、そういう人間は希であろう。何等かのツアーを申し込むのが一般的と思われる。

 

南島

 

 コペペ海岸まで自転車で往復したというと、地元の人は「よく頑張りましたね」と誉めてくれたが、かなり坂もきついし(電動自転車であっても上れないほど)、時間もかかるので、余程体力に自信のある方でなければ、あまりお勧めはしない。

 

(釣浜海岸)

 

釣浜海岸

 

 釣浜海岸も幕府巡検隊による命名。小笠原高校の前の坂を上ると入口がある(小笠原村父島釣浜)。

 

(宮の浜海岸)

 宮の浜という地名は、延宝三年(1675)の嶋谷市左衛門による命名という。近辺に神社があったからというが、誰が建てた神社だろうか。湾を出ると兄島との間を兄島の瀬戸と呼ばれる速い海流が流れているので、湾の外に出るのは大変危険である(小笠原村父島宮之浜)。

 

宮の浜海岸

 

ヤマブキベラ

 

咸臨丸で来島した幕末巡検隊で絵図を担当した宮本元道(大垣藩医)は「小笠原魚鱗介図」や父島、母島の「真景図」を残した。ヤマブキベラは熱帯から亜熱帯の海では普通に見られる魚であるが、宮本元道の絵図では「ゑいぞう」という名称で紹介されている。ゑいぞうという名前の人物がいつも釣っていたことからこのように名付けられたという。

 

ヤリカタギ

 

フエヤガラ

 

スジクロハギ

 

ロクセンスズメダイ

 

 最終日は特にすることがなかったので、宮の浜でシュノーケリングをすることにした。自転車も貸し出している小笠原観光でシュノーケリング道具も貸してくれる。

 コペペ海岸よりも魚は多かったが、特に珍しい魚や大物がいるわけではない。十五分も泳いでいると体が冷えてきて一旦休憩。しかし、この時期、ティーシャツと海水パンツだけではやはり寒い。結局、続けて海に入る気にならないまま撤収することになった。

 

 宮の浜近くで北米原産のグリーンアノールトカゲを発見した。どうやら島中のあちこちに生息しているらしい。グリーンアノールは強靭な生命力を持つ外来種で、ここで繁殖したのである。これを駆逐するのは簡単なことではないだろう。

 人はグリーンアノールやアフリカマイマイを外来種として敵視するが、無人島であった小笠原諸島においては人間こそが外来種であることを忘れてはならない。

 

 父島はおがさわら丸が停泊している四日間は一時的に人口が増え、街が活気づく。その間、観光客目当てのお土産屋さんや飲食店は営業時間を延長している。夏場の観光シーズンになると、海水浴場などは人であふれかえるだろうが、その時期地元の人は息をひそめるようにして生活しているのだろう。人口二千人強という父島において、定員約九百人というおがさわら丸が運んでくる観光客のインパクトは大きい。一定の周期で陰と陽が訪れるという奇妙な土地なのである。

 

アノールトカゲ

 

小笠原諸島は、太平洋戦争後、米軍の軍政下に置かれ、内地に疎開していた島民は長らく帰島が許されなかった。小笠原島の日本復帰が実現したのは、昭和四十三年(1968)六月二十六日のことである。

NHKの天気予報を注意深く見ていると、毎度小笠原島の天気を報じている。あまり内地に住んでいる者からすれば、小笠原の存在を意識する場面は少ないが、小笠原諸島が我が国の領土でなければ、今日我が国の領海(排他的経済水域)と称しているエリアはざっと三割も縮小することになる。実は小笠原諸島の存在は非常に重い意味を持っているのである。水野忠徳や小花作助といった先人たちの努力が、今こうした形で私たちの生活と結び付いているのである。日本人として忘れてはならない史実であろう。

 

 私がシュノーケリングを試したのは、コペペ海岸と宮の浜の二か所だけであったが、その他のシュノーケリング・スポットも紹介しておこう。

 製氷海岸は、その名のとおりかつてここにあった製氷工場の目の前のビーチである。枝サンゴが群生しているそうである。二見港から徒歩で三十分足らず。私は最終日、出航までの時間をここで海を眺めてぼんやりと過ごした(小笠原村父島奥村)。

 

製氷海岸

 

 大村海岸は、宿の目の前の海岸で、サンゴダストで埋められている(小笠原村父島西町)。

 

大村海岸

 

境浦海岸

 

 境浦には濱江丸という沈船がある。沈船が漁礁となり、そこに小さな魚が集まっているという(小笠原村父島境浦)。

 

見送りの人々

 

 おがさわら丸が出港する日には、大勢の見送りの人が港に集まる。ちょうど人事異動や進学の時期でもあり、別れを惜しむ人たちが出発まで挨拶や抱擁を交わしていた。出港直前には太鼓が演奏され、大勢の島民が「また、来てね~」「頑張ってね~」と声を張り上げているのを聞くと、自分に向けられたものではないのは承知だが、胸が熱くなる。

 見送りの儀式はこれだけではない。海岸に集まった子供たちが次から次への海へ飛び込むのである。さらにおがさわら丸を追うように、ダイビング船や漁船が並走し、船の上から人々がいつまでも手を振ってくれる。このような儀式が毎回繰り返されているのだろうか。

 

見送りの船

 

 旅程は五泊六日であるが、島での宿泊は三泊。振り返れば短い滞在であったが、私の大好きな歴史と海とあたたかい人のあふれる魅力ある島であった。気が付いたら人前に出るのが恥ずかしいほど顔面が日焼けしていた。

 

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父島 Ⅳ

2021年04月17日 | 東京都

(旭山)

 

旭山

 

 旭山は標高二百六十七メートル。二見港から見ると屏風のように聳え立っている。父島二日目の最初の目的地は旭山山頂である。電動自転車を借りて一路旭山を目指した。

 奥村から夜明道路に入る。ほどなく自転車で旭山を目指したことを後悔した。急な坂の連続で電動自転車がほとんど役に立たなかった。

 途中長崎展望台で休憩。兄島を一望することができる。文政十年(1827)に小笠原諸島に至ったイギリス人ビーチーは、兄島をバックランドと名付けている。

 

長崎展望台より兄島を一望する

 

 さらに坂道を進むと、右手に旭山山頂に通じる遊歩道の入り口がある。ここから山頂まで八百メートル余り。遊歩道の両側は密林となっており、亜熱帯の植物が群生している。中には小笠原の固有種もあって、植物に興味のある人にとってはとても面白い場所かもしれない。

 山頂から眺望はとにかく素晴らしい。まさに絶景である。文久二年(1862)、幕府の巡検使は旭山山頂に日章旗を建てたといわれる。八丈島の地役人菊池作次郎の日記には「ふらふ山」と記載されている。「ふらふ」とはオランダ語で「旗」を意味している(小笠原村父島旭山16)。

 

旭山山頂

 

大村の先の大根崎と烏帽子岩

 

旭山山頂より二見方面を見下ろす

 

旭平展望台

 

旭平展望台より 兄島

 

(初寝浦)

 

初寝浦展望台のモニュメント

 

 菊池作次郎の日記では「初音浦」と表記されている。この地名も幕府巡検隊が名付けたものの一つである。どうして初寝浦と命名したのかは不明である。

 夜明道路を南下していると左手にモニュメントが現れる。これが展望台への目印である。ここから五分くらい海岸に向けて進むと、初寝浦を見下ろす展望台に至る。

 

初寝浦

 

 この日は東からの強烈な風が吹き付け、初寝浦に押し寄せる波は高かった。東風は、水蒸気を含んだ空気を運んできて、見通しも悪かった。初寝浦へは遊歩道が通じていて、海岸まで下りることは可能であるが、天気を考えて諦めた。

 

首のない二宮金次郎像

 

 先ほどのモニュメントのある場所から道を挟んだ向い側に首のない二宮金次郎像がある。

 太平洋戦争中、夜明山一帯に旧日本海軍の通信施設が建設された。昭和十九年(1944)、戦争の激化により島民の本土への強制送還が行われ、小学校も閉鎖された。その際、旧軍により大村尋常高等小学校にあった二宮尊徳像が通信施設に移設された。戦後、米軍兵士が頭部を切り取って持ち帰ったとされている。平成九年(1997)、台風6号により頭部のない尊徳像は台座から転落、翌年、道路向い側から門柱とともに現在地に移設され、補修を受けた。

 父島や硫黄島を始めとする小笠原諸島は、太平洋戦争で激戦地となり、日本軍の前線基地にもなった。今も島のあちこちに戦跡が残されている。初寝浦展望台でも通信施設の不気味な廃墟を見ることができる。

 

(小港海岸)

 

小港海岸

 

 小港という地名も幕府巡検隊が付けたものである。ここからコペペ海岸まで遊歩道が通じている。九百メートルというから、歩いても知れているだろう思って遊歩道を進んだところ、急な坂を二つほど乗り越えねばならなかった。コペペ海岸に行き着いたときには息も絶え絶えであった(小笠原村父島北袋澤)。

 

コペペ海岸

 

 コペペ海岸は先住民のコペペという人に因んでそのように呼ばれていて、シュノーケリング・スポットとして知られている。実は自宅からシュノーケリング・セットを運んできたので、ここでシュノーケリングにトライすることにした。子供ができて以来、すっかりご無沙汰なので、ざっと四半世紀ぶりである。

 ところがフィンを取り出して唖然とすることになった。足を留めるストラップが切れていたのである。仕方なくフィン無しで海に入った。

 残念ながら魚影は薄く、期待したほどではなかった。

 

コペペ海岸にて

スジクロハギ

 

シマハギ

 

シャコガイ

 

オオヤドカリ

 

 コペペ海岸付近には、オオヤドカリがたくさん生息している。注意していないと踏んでしまいそうなくらいである。

 

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父島 Ⅲ

2021年04月10日 | 東京都

(小笠原神社)

ボニン・アイランズ(無人島)と呼ばれた南海の島々が、小笠原島と呼ばれるようになったのは、一つの伝説がからんでいる。

江戸時代の中頃、享保十二年(1727)に小笠原宮内貞任なる浪人が、「この島は自分の先祖である小笠原貞頼が発見した島であるから、先祖の偉業を継ぐために渡島の許可を得たい。」と幕府に願い出たのである。この時、貞任が奉行所に提出した「巽無人島記」によれば、文禄二年(1593)、信州深志(現・長野県松本市)の城主小笠原民部少輔貞頼が、秀吉の朝鮮出兵の際、肥前名護屋にて徳川家康から「しかるべき島山があれば、見つけ次第取らす」との証文を下され、早速南海に船出して三つの無人島を発見して家康に報告した。秀吉からもこれらの島々を「小笠原島」と名付け所領を安堵されたというのである。これを受けて奉行所で調査したところいくつか不審な点が発覚した。

まず小笠原貞頼なる人物の存在が確認できない。さらには貞頼が小笠原島を発見したという記録は「巽無人島記」以外の文書以外に確認できない。貞頼が実在する小笠原長頼(当時四十歳)の孫とすれば、その当時幼児に過ぎない。朝鮮出兵のさ中に武将が探検航海を企てるとは考えられない…等々、数々の疑惑が浮上し、取り調べの結果、貞任は小笠原家とは何の関係もない人物であり、古文書も贋作と断定された。貞任は重追放という重い刑を課された。

つまり小笠原貞頼による無人島発見伝説は完全に否定されたわけであるが、どういうわけだか十六世紀に我が国がこの島々を先占していたことの証拠としてこの伝説が取り上げられ、小笠原島という呼称まで定着してしまったのである。

小笠原貞頼は実在したともいわれる。貞頼は長時の子ではなく、長時の子長隆の子だという。とはいえ、小笠原貞頼なる人物が小笠原諸島を発見したという記述は「巽無人島記」でしか確認できず、結局のところ貞頼が本当に小笠原諸島を発見したかどうかは定かではなく、そこは謎のままである。

 文久二年(1862)二月、幕府から派遣された水野忠徳らは欧米系住民に対し、以降この島々を小笠原諸島と呼ぶことを宣言している。幕府としては先占権を主張するために、我が国がこの島を発見したできるだけ古い史実に依拠する必要があったのであろう。そこで幕府自身が過去に否定した小笠原貞頼伝説を持ち出したのである。

 小笠原神社は、貞頼を祀った神社で、社殿は返還後に再建されたものである。明治政府による開拓初期には、この地(扇浦)に役所が置かれていた。

 

小笠原神社

 

無人島発見之碑

 

 社殿の横に無人島発見の碑が建てられている。碑の上部では貞頼が小笠原諸島を発見した「伝説」を解説するとともに、林子平が残した「無人嶋大小八十余山之図」の写しが掲載されている。「無人嶋大小八十余山之図」は林子平が著わした「三国通覧図説」に添付された地図である。林子平は「海国兵談」で海防の重要性を主張したことで知られるが、この著書で小笠原島という名称は自分がこの著書で初めて採用した名称であることを言及している。子平は、小笠原諸島は決して不毛の土地ではなく、土地を耕して作物を栽培し、定期船を運航してそれを本土に持ち帰れば通商を振興できると熱心に説いている。

 

 小笠原神社は納涼山(標高六十三メートル)という丘の中腹にあり、神社の境内から山頂まで登ることができる。山頂からは扇浦の海岸や二見港方面まで望むことができる。扇浦は静かな海水浴場である。

 

扇浦

 

二見港方面

おがさわら丸が停泊しているのが見える

 

 小笠原神社参道には注目すべき石碑がいくつか建立されている。

 

開拓小笠原島之碑

 

 とりわけ立派な石碑が開拓小笠原之碑である。明治十三年(1880)十二月、小笠原島開拓再開を記念し建立されたものである。碑文は時の内務卿大久保利通の撰文、日下部東作の書である。建立された時、既に大久保は暗殺されてこの世の人ではなかった。

 

にほへ碑

 

 にほへの碑は、八丈島からの移民の子供九名に読み書きや習字を教えたときの古筆を埋めてその上に建てられたものである。徳川幕府が送り込んだ八丈島からの開拓者三十八名のうち男女の子供が九名いた。この子供たちには寺子屋での教育が施された。石碑は、文久二年(1862)閏八月に来航した朝陽丸が運んできたものである。

 

小笠原島新はり乃記碑

 

 文久元年(1861)十二月十九日、小笠原巡検のために派遣された咸臨丸が二見港に到着し、翌文久二年(1862)三月八日まで滞在して、小笠原開拓の準備と各島の探検調査を行った。文久二年(1862)一月、開拓の開始を記念し、扇浦仮役所の後丘(納涼山)に「大神宮」を勧請し、そこに小笠原島新はり乃記を刻した石碑を建立した。この碑文は「やまとことば」で書かれていて、変体仮名の草書体で刻されている。この石碑は咸臨丸で小笠原開拓の巡検調査のために出航するにあたり、小笠原島が日本領であることを示す目的で、予め幕府が準備していたものである。

 

藤森圖高碑

 

 開拓小笠原島之碑や小笠原島新はり乃記碑のある場所から三十メートルほど歩いた藪の中に藤森圖高の顕彰碑が建てられている。藪というよりジャングルといった方が良いだろう。小笠原の固有種であるカラスバトと出会ったが、ぐずぐずしていて写真に収めることはできなかった。

 明治十六年(1883)の建立。田辺太一の篆額、小花作助の撰文および書。

 

(小花作助の碑)

 

小花作助之碑

 

 小花作助は、文政十二年(1829)、幕府小普請方手代小花咲右衛門の嫡子として信州木曽で生まれた。幼名は作太郎といい、十七歳で家督を継いで作之助と改名し、維新後作助と改めた。高野長英を尊敬し、榎本武揚と親交もあり、開明派の開国論者であった。幕府には定役として出仕し、欧州使節柴田剛中に随行して、帰国後は調役に昇進した。

 文久元年(1861)の咸臨丸の小笠原島派遣では定役取締佐として同行した。水野忠徳らは約八十日間滞在して、父島をあとにした。小花作助は咸臨丸帰航後も小笠原島に島長として残った。小花作助は、維新後も旧幕時代の経験を買われて明治九年(1876)、再度小笠原島に渡って小笠原出張所長に就いている。小花は帰国後、従六位を賜った。明治三十四年(1901)一月十七日、病のため旅先の熱海で没した。享年七十三。墓は東京谷中霊園にある。

 

小花橋

 

 扇浦の小花作助之碑から少し南下すると、海沿いに小花橋がある。小花作助の功績に敬意を表して橋の名前につけられたものである。

 

 明治維新にあたり政府は国内外の諸問題に追われ、小笠原諸島の統治問題は放置された。明治二年(1869)七月、外務省が設置されると、外務権少丞宮本守成は早くも小笠原開拓の建議書を外務卿に提出している。また民間にあった谷暘卿も小笠原開拓の建言書を再三提出した。政府は、小笠原の管轄を琉球藩や海軍省にすることを検討したが、結論は得られなかった。その間、藤川三渓は小笠原開拓と捕鯨を建白(明治六年(1873))し、後に許され開洋社を創立した。明治六年(1873)十二月、寺島宗徳が外務卿に就任すると、小笠原諸島の帰属について評議を求めた。これを受けて右大臣岩倉具視は、大蔵省、海軍省と協力の上、着手順序を取り調べるよう外務省に指示した。その結果、田辺太一らを小笠原に派遣することになった。明治八年(1875)十一月、官船明治丸は横浜を出帆。同月のうちに父島の二見港に入港した。この時、田辺太一のほか、林正明、小花作助、根津勢吉、藤森図高、京極高典らが乗船していた。田辺は即日島民を船中に招き、日本再治を諭告し、島民は日本政府の保護を受け、管理に属すことを誓わせた。当時の住民数は十四戸七十一人だったという。なお、ナサニエル・セボレーは既に前年四月病没している。

 明治九年(1876)一月、小笠原島着手方略見込書が提出され、その後、内務省所管が決まり、諸規則が定められた。同年十月、諸外国に日本の管治が通告され、これにより日本の領土主権が確立したのである。

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父島 Ⅱ

2021年04月10日 | 東京都

(大神山公園)

 海岸沿いの大神山公園には二つの行幸記念碑がある。

 

行幸啓記念

 

行幸紀念碑

 

 行幸記念碑は昭和二年(1927)の昭和天皇の行幸を記念したもの。

 行幸啓記念碑の方は、平成天皇の来島を記念したものである。

 明治天皇の行幸碑は日本全国の各地に残されているが、昭和天皇や平成天皇になると有り難味が低いのか、あまり石碑を見ない。小笠原まで天皇がやってきたということは、大スターが来日するくらいのインパクトがあったのであろう。

 

ADMIRAL RADFORD

ELEMENTARY SCHOOL

CHICHIJIMA B.I.

 

 大神山公園はラドフォード提督初等学校跡地でもある。ラドフォード提督学校は、太平洋戦争後の米軍による統治下時代につくられた九年制の学校で、創設の中心となったラドフォード提督に因んで命名された。学校では英語のみが使用され、日本語を使うと注意を受けた。昭和四十三年(1968)、小笠原諸島が日本に返還されると学校教育は一転して日本式となった。戦後はいわゆる欧米系の住民のみが帰島を許されたが、彼らは激しい生活の変化に直面することになったのである。中公新書クラレ「小笠原クロニクル 国境の揺れた島」(山口遼子著)に詳しい。

 

(清瀬交差点)

 

阿利孝太郎紀功碑

 

 阿利孝太郎は、初代藤森図高から数えて十代目の小笠原島庁島司である。それ以前の島司が概ね一年から二年で交代したのに比して、在任期間が二十年(明治二十九年(1896)十月~大正五年(1916)四月)に及んでいる。小笠原島の開拓への貢献も大きかったとは思うが、実はこの紀功碑は、阿利自身が在職中に建立したものである。如何に立派な功績があろうとも自画自賛はいただけない。

 建碑は明治三十九年(1906)。篆額は東久世通禧、書は金井之恭。

 

(咸臨丸墓地)

 小笠原観光で自転車を調達し(三時間で千円。ちょっと高い)、父島訪問の最大の目的地である咸臨丸墓地を目指す。旭山や夜明山へ通じる夜明道路の途中にある。

 

咸臨丸墓地

 

 長らく無人の島であった小笠原諸島に入植団が移住したのは、天保元年(1830)のことであった。在ハワイのイギリス領事の指導のもと、五名の欧米人と二十名のハワイ人から成る一団が結成された。この中には島で一生を終えることになるアメリカ人ナサニエル・セボレーも含まれていた。普通に考えれば、小笠原諸島はこのまま英米の領有となってもおかしくなかったが、幕府が小笠原島回収に成功した背景にはいくつかの幸運が重なった。

幕府がこの島の存在に気が付いたのは、「ペリー提督日本遠征記」から得た情報だったという。

文久元年(1862)十二月、外国奉行水野忠徳の一行を小笠原島に派遣することになった。この派遣を決定したのは井伊直弼が斃れた跡を引き継いだ久世・安藤政権である。一般的には久世広周、安藤信睦政権を評価する声は高くないが、開国後の新たな時代に順応しようとする積極的開明性を備えていた。

当然ながら英米が小笠原島の領有権を主張することが予想されたが、イギリスはアヘン戦争を経て香港を手に入れており、敢えて中国大陸から遠く離れた小笠原諸島に魅力を感じなくなっていたのであろう。またこの時期、イギリスと幕府の関係は極めて良好であった。敢えて波風を立てることもなかった。一方、アメリカは小笠原島の領有を主張できるだけの歴史的実績に乏しく、むしろ英領化されることを恐れた。また当時小笠原島に定住していた欧米人およびハワイ人は、三十八名を数えていた。彼らは外からの襲撃に無防備なことに不安を抱いていた。また財産の相続の問題などにも直面しており、秩序と安定をもたらず公権力の存在は彼らにとっても歓迎すべきものであった。そういう微妙なバランスの上に小笠原島回収が実行されたのである。

この時、派遣されたのは、万延元年(1860)には遣米使節団を乗せてアメリカにも渡った咸臨丸である。水野忠徳のほか、服部帰一(常純)、小野友五郎、田辺太一、松岡磐吉、小花作助、益田鷹之助、西川倍太郎、松波権之丞、中浜万次郎ら、幕府を代表する能吏が名を連ねていた。

 

 中央の三角形の墓石は、「冥福の碑」と呼ばれるもので、文久二年(1862)一月、これまでに小笠原に漂着し死亡したとみられる人々の霊を慰めるため、奥村の渓流の畔に建立されたものである。表面中央に「冥福」と書かれ、下部には阿州浅川浦の船頭勘左衛門、船頭左大夫、水主善三、喜三良、八大夫。遠州荒井の権五良、善太良。豆州岩地村の八兵衛、権次良。奥州南部便船人孫四良。不審生国水主七助。不審名者六人、と刻まれている。

 

西川倍太郎(ますたろう)墓

 

 咸臨丸墓地と呼ばれているが、咸臨丸の乗船者でこの墓地に葬られているのは、西川倍太郎唯一人である。

 西川倍太郎は、咸臨丸の測量方(航海士)として来島したが、文久二年(1862)一月二十七日、縊死した。鬱病を発した末の自死と見られる。墓石側面には「大日本官艦咸臨丸乗組 越前國大野藩」と刻まれている。

 個人的には越前大野(現・福井県大野市)の西川倍太郎の墓を数年前に掃苔しており、以来小笠原の墓を参ることが宿願であった。これを果たすことができて感無量であった。

 

曾田醇蔵之墓

 

 曾田醇蔵は平野船一番丸の所有者平野廉蔵の弟で、旧姓平野呂市とされる。文久二年(1862)四月、貨物輸送のために千秋丸で来航したが、同年六月七日死亡。

 

朝陽丸水夫の墓

 

 朝陽丸水夫の墓である。朝陽丸は文久二年(1862)八月に八丈島からの開拓移民等三十八名を乗せて来島。その時、死亡したとされる塩飽島出身の水主三名の名前が刻まれている。「八月二十五日 松石嶋 俗名三代吉。同二十七日、高見嶋 俗名金右衛門。佐柳嶋 俗名忠蔵」とある。いずれも航海中にコレラに罹患して死亡したものである。

 

離念道帰信士(浅野兼五郎の墓)

 

 「小笠原島ゆかりの人々」(田畑道夫著 平成五年)によれば、墓石側面に俗名兼五郎とあることから、明治十年(1877)十一月十一日、千年丸で着港し翌年死去した船大工浅野兼五郎の墓と推定している。

 

柳生久丘之墓

 

 柳生久丘は、小花作助の「小笠原島要録…第三篇」の百四十六「渡島人名簿」、明治十一年(1878)十一月五日に着港した中にその名前がある。勧農局農夫とあり、明治十二年(1879)五月二十八日死去とされている。

 

藤森圖高之墓

 

 藤森図高(とこう)は、明治八年(1875)十一月二十四日、田辺太一らが明治丸で小笠原開拓探査のため来航した際に、大蔵省租税十等出仕として同行した。同年十二月二十七日には、小笠原島内務省出張所長の小花作助とともに、内務省九等出仕として太平丸で来島し、明治十一年(1878)七月に一旦帰京したが、同年十一月五日、家族を同行して社寮丸で再来島した。小笠原島初代事務所長小花作助を補佐して小笠原開拓を推進した。明治十三年(1880)十一月、小笠原島が東京都に移管されると、初代小笠原東京府出張所長となり、引き続き小笠原の発展に尽くしたが、明治十四年(1881)六月十八日、父島にて没した。享年三十六という若さであった。

 藤森図高が亡くなった後、その二か月後に第二代小笠原島出張所長として着任したのが、南貞助であった。南貞助は長州藩士で、高杉晋作の従弟である。世継ぎが晋作しかいないことに不安を覚えた晋作の父小忠太が高杉家の養子に迎えた。慶應元年(1865)から慶應三年(1867)までロンドンに密留学し、そこでイギリス人女性ライザと結婚した。我が国における国際結婚第一号といわれる。ただし、明治十四年(1881)に小笠原に赴任したときには既に離婚していた。

 

(海軍墓地)

 咸臨丸墓地のほぼ向かい側に海軍墓地がある。第二次世界大戦における小笠原諸島近辺における海軍の戦死者を葬った墓地である。

 

海軍墓地

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父島 Ⅰ

2021年04月10日 | 東京都

 まだまだ若いつもりでいたが、この三月で還暦を迎えた。一旦定年退職をして、四月からは再雇用という身分になる。

 思えばここ数年、腰椎ヘルニアで入院し、不整脈のアブレーション手術を受け、昨年は右脚ふくらはぎの肉離れを負い、つい先日は左脚を肉離れしてしまった。まさによれよれになりながらゴールテープを切ったというところである。

 当社には定年を迎えて再雇用で働き始めるタイミングで一週間のリスタート休暇を取得できるという特典がある。せっかくなのでこれを利用して小笠原諸島への旅を計画した。

 当初、息子を相棒に選んだ。鉄ちゃんだった息子が小学生から中学生の頃は、よく二人で旅をしたものである。その息子もこの春大学を卒業して、社会人となる。息子と二人で旅に行けるのもひょっとしたらこれが最後のチャンスかもしれない。

 ところが、息子から卒業旅行や引っ越しで忙しくて行けそうもないという連絡が入った。嫁さんにも声をかけたが、「一週間も家を空けられない」「コロナがこわい」と乗り気ではないので、結局一人で行くことになった。

 小笠原諸島は、東京の南約千キロメートルに浮かぶ絶海の孤島である。島に空港はなく、片道二十四時間をかけて船で往復するしか方法はない。東京都下に在りながら、日本一遠い場所である。空港建設という計画もあったらしいが、旅をする側からいうと、船でしか行けない、飛行機を使えば地球の裏側にだって行ける時代に、往復するだけで四十八時間もかかるという時間的距離の遠さが、さらに小笠原の価値を高めていると言える。

フェリーを運航している小笠原海運のホームページから予約しようとしたが、何度試しても途中から先に進めない。これは予約が殺到しているのかもしれない。

 慌てて翌日小笠原海運に電話して、同社が「おがまるパック」として販売しているツアーを申し込んだ。拍子抜けするほどあっさりと予約できた。一本の電話で往復のおがさわら丸だけでなく、現地での宿泊まで予約できてしまうので非常に効率的である。

 もちろん足もとのコロナ感染拡大状況次第では、島へ渡ること自体が禁止されてしまうかもしれない。小笠原海運の説明によれば、渡航一週間ほど前に検査キットが自宅に届き、旅行前日にそれに唾液を入れて竹芝桟橋に持参せねばならない。その結果、陽性であれば、当然ながら小笠原行きは断念せねばならない。強制的にキャンセルされる旅行代金は返金されないという過酷な終幕が待っている。結果が出るまで気が気でない。

 島に行く人は全員PCR検査の結果、陰性の人ばかりであり、考えようによれば日本国内で最も安全な場所といえるかもしれない。

 

 これまで東京都の島嶼部(伊豆大島、新島、三宅島、御蔵島、八丈島)を旅してきた私にとっては、シリーズ仕上げの旅である。

 島の歴史はいずこも独特で面白い。日本そのものが島国であり、しかも長らく鎖国政策をとっていたことから、独自の文化が発展し、どこにもないユニークな歴史が刻まれたが、その中にあって、さらに離島は独特であった。小笠原諸島では遠く離れた場所でありながら、世界史や日本史とも接点のある独特な歴史が育まれた。小笠原諸島といえば、マリンスポーツやホエール・ウォッチングが有名であるが、その歴史にも注目してもらいたいと思っているのである。

 

竹芝桟橋

定刻の11:00に出港

 

 旅行が近づくにつれて心配なのは現地の天候である。当初の週間天気予報では、私が滞在している間、天気は良さそうだったのに、直前になって初日から二日も「一時雨」が続く予報に変わった。己の強烈な「雨男」性を恨むことになった。かくなる上は祈るしかない。結果的に父島滞在四日のうち、晴と曇りが半々で、雨に祟られることはなかった。

 おがさわら丸は往路復路とも、ジョン万次郎が漂着した鳥島の近くを航行する。鳥島はもちろん無人島で、おがさわら丸が寄港することはないが、せめて島影だけでもと思ったが、残念ながら鳥島の近くを通行するのは深夜のため、見ることはできなかった。

 東京湾を出て外洋に入るとおがさわら丸は速度を上げた。高波に襲われて船体は大きく揺れた。船酔いにはめっぽう弱い私は、所定の量の倍の酔い止め薬を飲んで、何とか乗り切ることができた。おがさわら丸の売店「ショップ ドルフィン」の方によるとここまで揺れるのは珍しいという。この激しい波浪のため到着が一時間以上遅れることになった。

 ところが帰路も同じように荒波に揉まれ、おがさわら丸は大きく動揺した。結局、竹芝には一時間以上遅れて到着した。これくらいの波浪と遅れは日常茶飯事なのかもしれない。

 

おがさわら丸後部デッキからの眺め

 

 おがさわら丸は定員八百九十二名。まだピークシーズンではないので、乗客は定員の半分か六割くらいだろうか。これくらいであれば、レストランも好きな時間に利用できるし、シャワー室も混雑することはない。因みにそば、うどんは八百円、あんかけ焼きそばは千百円と少々高めである。

 船内で過ごす片道二十四時間は、想像以上に退屈であった。外洋では基本的に携帯電話も使えない。酔い止めを服用しているとはいえ、船内の読書は禁物である。どうやって時間を潰すのか、予め考えて準備しておくことをお勧めする。

 

二等寝台

 

 いつもは二等和室、つまり床に雑魚寝スペースであったが、今回は長旅でもあり二等寝台をとった。それなりにプライバシーも守られる。しかし寝床が固いのは二等和室と大差なく、腰痛持ちには辛い時間を過ごすことになった。

 二日目の昼前、ようやく父島が姿を現す。雨は降っていなかったが、島全体が厚い雲で覆われていた。タラップを降りると、たくさんの出迎えの人達が待ち受けている。その中から、予約した宿の人を探さなくてはいけない。

 

(二見港)

すんなり宿の方と出会えたが、ほかの宿泊客を待っているわずかな待ち時間で最初の史跡を回ってきた。二見港の横にコミュニティ広場と名付けられた公園があり、その傍らにペリー提督来航記念碑が建てられている。

 

二見港

 

ペリー提督来航記念碑

 

 浦賀に現れたペリーがその直前、小笠原の父島を訪れていたという事実はあまり知られていない。

 ペリーの率いる艦隊は、嘉永六年(1853)五月二十六日、琉球の那覇港に到達し、そこで約十五日を滞在した。その後、サスケハナ号に搭乗したペリーは、サラトガ号を随伴して小笠原へ向かった。同年六月十四日、二見港に入港した。因みに文政七年(1824)、米国人コフィンが捕鯨船で太平洋上に無人の島々を発見し、その時に父島をピール島、二見港をロイド港と名付けた。ペリーの手記では、この呼称を採用している。

 ペリーが小笠原島に来航したのは、米国西海岸と中国との間に汽船航路を結んだとき、中継停泊地として小笠原諸島を考えていたからである。ペリーの試算によれば、イギリスがマルセーユ経由で上海に到達するのに五十二日から五十五日を要しているが、サンフランシスコからサンドウィッチ諸島とピール島(父島)を経由して上海に至る日数は三十日であり、ニューヨークからサンフランシスコまでの陸路による十二日を加えてもイギリスより短い日数で到達できるとしている。

 

ペリー提督肖像

 

(小笠原水産センター)

 現在、小笠原水産センターから東京電力パワーグリッド株式会社のある一帯が、ペリーが倉庫や石炭貯蔵所等の用地としてセボレーから購入した場所と推定されている。

 

小笠原水産センター

 

 水産センターでは、「小さな水族館」で近海に生息する生物の飼育・展示を行っている。これもコロナの影響だと思われるが、当面休館ということであった。屋外でウミガメやツチボセリ、ロウニンアジ、アカバ、アオリイカ等を飼育しているのを自由に見ることができる。

 ペリーはセボレーとの間に「ピール島コロニー議定書」を取り交わし、そのまま琉球に引き返した。その後、幕府と交渉し、和親条約を締結したことは広く知られるところである。ペリーは小笠原諸島の領有に並々ならぬ意欲を持っていたが、日本が開国したため相対的に小笠原の存在価値は低下した。済んでのところで米国領となるのを免れたのであった。

 

(大根山墓地)

 父島での宿泊は、西町バス停前のゲストハウス やすおん家という宿である。ここに三泊したが、毎晩食べきれないくらいの御馳走であった。二人部屋を一人で占有できる贅沢もさることながら、島で一番の繁華街である大村へのアクセスも良い。この前の道をまっすぐ進むと大根山公園の方面に行くことができる。宿に荷物を降ろして、早速、最初の目的地である大根山墓地公園に向かった。

 

ゲストハウス やすおん家

 

 ところがいくら探しても目的のナサニエル・セボレーの墓が見つからない。一旦諦めて下山。小笠原観光案内所で場所を再確認したところ、「墓地公園ではなく、もっと奥の方」という漠然とした情報しか得られなかった。その後、自転車を調達して、扇浦方面を回った後、再度大根山墓地に挑戦した。言われたとおり、大根山墓地公園と情報センターの間の舗装道路をひたすら進むと、その突き当りに古い墓地がある。そこにセボレーの墓がある。

 

ナサニエル・セボレーの墓

 

 アメリカ人セボレーは、文政十三年(1830)六月二十六日、オルディン・ビー・チャンピン、リチャード・マイルドチャンプ(イギリス人)、チャールス・ジョンソン(デンマーク人)、マテオ・マザロ(英国籍ジェノア出身)とともに、サンドウィチ諸島の原住民十五名を伴って父島に移住した。小笠原諸島における定住者の最初である。

 セボレーは、アメリカのマサチューセッツ州に生まれ、船員としてイギリス商船に乗り、ハワイ諸島(サンドウィッチ諸島)に至った。マザロが企画した小笠原移民隊に加わり、父島扇浦に居を構えた。嘉永元年(1848)にマザロが病死した後は、父島移民隊のリーダーとなった。嘉永六年(1853)、ペリーが来航し、「ピール島植民政府構成法」により島長官に選出された。文久二年(1862)、咸臨丸にて外国奉行水野忠徳に対し、日本国民となることを承諾し、手続きをとった。

 板状の墓碑は、アメリカ本土から運ばれてきたと伝えられており、高さ一一二・三センチ。セボレーの死後、まもなく建てられたと推定されている。当初、父島奥村のセボレー家の前に建っていたが、昭和初年、大根山に移された。

 

大根山墓地

 

 大根山墓地には、セボレーの墓のほかにも十字型や板状の欧米風の墓石が多い。なお、セボレー家は苗字を「瀬堀」と変えて、今も父島に続いている。ほかにもウェブ家は「上部」、ゴンザレス家は「岸」、ワシントン家は「大平」と改姓した。

 

(三日月山)

 

三日月山

 

 写真中央の一番高い峰が三日月山である。幕末の巡検隊は小笠原諸島各地の地名を命名したが、三日月山もその一つである。

 三日月山の頂上には展望台が設けられており、夕日の撮影スポットとして知られているが、私が父島に滞在した四日間で夕日が見られる日はなかった。

 

(大神山神社)

 

大神山神社

 

 小笠原諸島が現在のように父島、母島、兄島、弟島、姉島、妹島、東島、南島、西島といった名称で呼ばれるようになったのは、延宝三年(1675)の富国寿丸による巡検の時であった。洲崎、奥村、宮の浜といった地名もその時に命名されたという。今や忘れ去られたようになっている延宝三年の巡検であるが、歴史的には大きな意味を持つものであった。

 その七年前、幕府は長崎代官末次平蔵に外洋の航海にも耐えうる帆船の建造を命じた。幕府は長崎から江戸に物資を回漕するのに大型の専用船を必要としていたのである。

 末次平蔵は当時来航していた清国船をモデルとして、約五百石積の帆船を、九か月を費やして完成させた。これが富国寿丸である。

 延宝二年(1674)、幕府は嶋谷市左衛門に富国寿丸をもって八丈島の辰巳の遥かな大洋上にある無人島の巡検を命じる。航海按針術に精通した市左衛門は、総員三十八名で南を目指し、延宝三年(1675)五月一日、目指す無人島に上陸を果たした。

 嶋谷市左衛門が来島した際に宮の浜に守護神社を創建したのが大神山神社の起源である。明治になって小笠原諸島が日本領であることが認められると、大根山に社殿を造築して大神宮と称した。明治二十八年(1895)に社殿を移し、社名も大神山神社と改称した。数少ない嶋谷市左衛門ゆかりの史跡である。

 

野牛山

 

 大神山神社から展望台への道が通じている。展望台からは二見港や二見港を取り囲む山々を一望することができる。

 二見港の入り口にあるのが野羊山(やぎゅうさん)である。かつては島であったが、戦前洲崎との間に海軍飛行場が造られ、陸続きになった。放牧していた山羊が野生化したため、この名前が付けられたという。事前に問い合わせたところ現在野羊山には規制がかかっていて入山はできないという。ほかにも幕末の巡検隊が訪れた場所でいうと、時雨の滝にも行ってみたかったのだが、ここも規制されていてガイド付きでも入山できないそうである。

 

野生化したヤギ

 

 確かに父島を散策していると、野生化した山羊を見かけることがある。文久元年(1861)十二月、セボレーは水野忠徳ら幕府巡検団に対し、「島には牛や鹿はいないが、山羊がいる。この山羊は私が放したものである」と語っている。幕府側は、「其の方が放したものでも、日本の土地と日本の草で育ったのだから、自由に処分してはいけない。既に開拓した土地は無税だが、これから開拓する場合は役人に申し出るように」と通達している。この山羊の先祖もセボレーらが持ってきたものかもしれない。

 

丸山

 

 山頂の展望台からの見晴らしは素晴らしい。電信山、乳頭山、旭山、夜明山、傘山、中央山、丸山、吹割山と連なる山々を見渡すことができる。丸山も幕末の巡検隊が命名したもので山頂が「丸いから」だという。夜明山とか初寝浦とか、詩情を感じる命名が多い幕末巡検隊であるが、丸山だけは何故か即物的である。

 

鏑木余三男之碑

 

 社務所前に二基の石碑が建てられている。

 鏑木余三男は、加賀藩士。内務省勧業局員となり、明治三十五年(1902)に小笠原に赴任し、漁業振興を担当した。遠洋漁業船を建造して民間に貸与したり、漁業生産販売組合を設立するなど遠洋漁業の奨励に努めた。また鰹節伝習会を開催して技術者を養成し、マグロのはえ縄試験を行った。鰹節とマグロのはえ縄は小笠原漁業の二大柱となり、小笠原に大きな利益をもたらした。アカウミガメの研究にも注力し、孵化放流の基礎を作った。鏑木余三男はまさに小笠原水産業確立の恩人ともいえる人物である。明治四十一年(1908)一月、五十四歳で没。大正二年(1913)、故人の業績を称えて島民がこの石碑を建てた。

 

遭難者冥福の碑

 

 明治三十九年(1906)三月十一日、母島で遭難した人の冥福を祈念して建てられたものである。遭難の原因は時化といわれるが、詳細は分かっていない。

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