まだまだ若いつもりでいたが、この三月で還暦を迎えた。一旦定年退職をして、四月からは再雇用という身分になる。
思えばここ数年、腰椎ヘルニアで入院し、不整脈のアブレーション手術を受け、昨年は右脚ふくらはぎの肉離れを負い、つい先日は左脚を肉離れしてしまった。まさによれよれになりながらゴールテープを切ったというところである。
当社には定年を迎えて再雇用で働き始めるタイミングで一週間のリスタート休暇を取得できるという特典がある。せっかくなのでこれを利用して小笠原諸島への旅を計画した。
当初、息子を相棒に選んだ。鉄ちゃんだった息子が小学生から中学生の頃は、よく二人で旅をしたものである。その息子もこの春大学を卒業して、社会人となる。息子と二人で旅に行けるのもひょっとしたらこれが最後のチャンスかもしれない。
ところが、息子から卒業旅行や引っ越しで忙しくて行けそうもないという連絡が入った。嫁さんにも声をかけたが、「一週間も家を空けられない」「コロナがこわい」と乗り気ではないので、結局一人で行くことになった。
小笠原諸島は、東京の南約千キロメートルに浮かぶ絶海の孤島である。島に空港はなく、片道二十四時間をかけて船で往復するしか方法はない。東京都下に在りながら、日本一遠い場所である。空港建設という計画もあったらしいが、旅をする側からいうと、船でしか行けない、飛行機を使えば地球の裏側にだって行ける時代に、往復するだけで四十八時間もかかるという時間的距離の遠さが、さらに小笠原の価値を高めていると言える。
フェリーを運航している小笠原海運のホームページから予約しようとしたが、何度試しても途中から先に進めない。これは予約が殺到しているのかもしれない。
慌てて翌日小笠原海運に電話して、同社が「おがまるパック」として販売しているツアーを申し込んだ。拍子抜けするほどあっさりと予約できた。一本の電話で往復のおがさわら丸だけでなく、現地での宿泊まで予約できてしまうので非常に効率的である。
もちろん足もとのコロナ感染拡大状況次第では、島へ渡ること自体が禁止されてしまうかもしれない。小笠原海運の説明によれば、渡航一週間ほど前に検査キットが自宅に届き、旅行前日にそれに唾液を入れて竹芝桟橋に持参せねばならない。その結果、陽性であれば、当然ながら小笠原行きは断念せねばならない。強制的にキャンセルされる旅行代金は返金されないという過酷な終幕が待っている。結果が出るまで気が気でない。
島に行く人は全員PCR検査の結果、陰性の人ばかりであり、考えようによれば日本国内で最も安全な場所といえるかもしれない。
これまで東京都の島嶼部(伊豆大島、新島、三宅島、御蔵島、八丈島)を旅してきた私にとっては、シリーズ仕上げの旅である。
島の歴史はいずこも独特で面白い。日本そのものが島国であり、しかも長らく鎖国政策をとっていたことから、独自の文化が発展し、どこにもないユニークな歴史が刻まれたが、その中にあって、さらに離島は独特であった。小笠原諸島では遠く離れた場所でありながら、世界史や日本史とも接点のある独特な歴史が育まれた。小笠原諸島といえば、マリンスポーツやホエール・ウォッチングが有名であるが、その歴史にも注目してもらいたいと思っているのである。

竹芝桟橋
定刻の11:00に出港
旅行が近づくにつれて心配なのは現地の天候である。当初の週間天気予報では、私が滞在している間、天気は良さそうだったのに、直前になって初日から二日も「一時雨」が続く予報に変わった。己の強烈な「雨男」性を恨むことになった。かくなる上は祈るしかない。結果的に父島滞在四日のうち、晴と曇りが半々で、雨に祟られることはなかった。
おがさわら丸は往路復路とも、ジョン万次郎が漂着した鳥島の近くを航行する。鳥島はもちろん無人島で、おがさわら丸が寄港することはないが、せめて島影だけでもと思ったが、残念ながら鳥島の近くを通行するのは深夜のため、見ることはできなかった。
東京湾を出て外洋に入るとおがさわら丸は速度を上げた。高波に襲われて船体は大きく揺れた。船酔いにはめっぽう弱い私は、所定の量の倍の酔い止め薬を飲んで、何とか乗り切ることができた。おがさわら丸の売店「ショップ ドルフィン」の方によるとここまで揺れるのは珍しいという。この激しい波浪のため到着が一時間以上遅れることになった。
ところが帰路も同じように荒波に揉まれ、おがさわら丸は大きく動揺した。結局、竹芝には一時間以上遅れて到着した。これくらいの波浪と遅れは日常茶飯事なのかもしれない。

おがさわら丸後部デッキからの眺め
おがさわら丸は定員八百九十二名。まだピークシーズンではないので、乗客は定員の半分か六割くらいだろうか。これくらいであれば、レストランも好きな時間に利用できるし、シャワー室も混雑することはない。因みにそば、うどんは八百円、あんかけ焼きそばは千百円と少々高めである。
船内で過ごす片道二十四時間は、想像以上に退屈であった。外洋では基本的に携帯電話も使えない。酔い止めを服用しているとはいえ、船内の読書は禁物である。どうやって時間を潰すのか、予め考えて準備しておくことをお勧めする。

二等寝台
いつもは二等和室、つまり床に雑魚寝スペースであったが、今回は長旅でもあり二等寝台をとった。それなりにプライバシーも守られる。しかし寝床が固いのは二等和室と大差なく、腰痛持ちには辛い時間を過ごすことになった。
二日目の昼前、ようやく父島が姿を現す。雨は降っていなかったが、島全体が厚い雲で覆われていた。タラップを降りると、たくさんの出迎えの人達が待ち受けている。その中から、予約した宿の人を探さなくてはいけない。
(二見港)
すんなり宿の方と出会えたが、ほかの宿泊客を待っているわずかな待ち時間で最初の史跡を回ってきた。二見港の横にコミュニティ広場と名付けられた公園があり、その傍らにペリー提督来航記念碑が建てられている。

二見港

ペリー提督来航記念碑
浦賀に現れたペリーがその直前、小笠原の父島を訪れていたという事実はあまり知られていない。
ペリーの率いる艦隊は、嘉永六年(1853)五月二十六日、琉球の那覇港に到達し、そこで約十五日を滞在した。その後、サスケハナ号に搭乗したペリーは、サラトガ号を随伴して小笠原へ向かった。同年六月十四日、二見港に入港した。因みに文政七年(1824)、米国人コフィンが捕鯨船で太平洋上に無人の島々を発見し、その時に父島をピール島、二見港をロイド港と名付けた。ペリーの手記では、この呼称を採用している。
ペリーが小笠原島に来航したのは、米国西海岸と中国との間に汽船航路を結んだとき、中継停泊地として小笠原諸島を考えていたからである。ペリーの試算によれば、イギリスがマルセーユ経由で上海に到達するのに五十二日から五十五日を要しているが、サンフランシスコからサンドウィッチ諸島とピール島(父島)を経由して上海に至る日数は三十日であり、ニューヨークからサンフランシスコまでの陸路による十二日を加えてもイギリスより短い日数で到達できるとしている。

ペリー提督肖像
(小笠原水産センター)
現在、小笠原水産センターから東京電力パワーグリッド株式会社のある一帯が、ペリーが倉庫や石炭貯蔵所等の用地としてセボレーから購入した場所と推定されている。

小笠原水産センター
水産センターでは、「小さな水族館」で近海に生息する生物の飼育・展示を行っている。これもコロナの影響だと思われるが、当面休館ということであった。屋外でウミガメやツチボセリ、ロウニンアジ、アカバ、アオリイカ等を飼育しているのを自由に見ることができる。
ペリーはセボレーとの間に「ピール島コロニー議定書」を取り交わし、そのまま琉球に引き返した。その後、幕府と交渉し、和親条約を締結したことは広く知られるところである。ペリーは小笠原諸島の領有に並々ならぬ意欲を持っていたが、日本が開国したため相対的に小笠原の存在価値は低下した。済んでのところで米国領となるのを免れたのであった。
(大根山墓地)
父島での宿泊は、西町バス停前のゲストハウス やすおん家という宿である。ここに三泊したが、毎晩食べきれないくらいの御馳走であった。二人部屋を一人で占有できる贅沢もさることながら、島で一番の繁華街である大村へのアクセスも良い。この前の道をまっすぐ進むと大根山公園の方面に行くことができる。宿に荷物を降ろして、早速、最初の目的地である大根山墓地公園に向かった。

ゲストハウス やすおん家
ところがいくら探しても目的のナサニエル・セボレーの墓が見つからない。一旦諦めて下山。小笠原観光案内所で場所を再確認したところ、「墓地公園ではなく、もっと奥の方」という漠然とした情報しか得られなかった。その後、自転車を調達して、扇浦方面を回った後、再度大根山墓地に挑戦した。言われたとおり、大根山墓地公園と情報センターの間の舗装道路をひたすら進むと、その突き当りに古い墓地がある。そこにセボレーの墓がある。

ナサニエル・セボレーの墓
アメリカ人セボレーは、文政十三年(1830)六月二十六日、オルディン・ビー・チャンピン、リチャード・マイルドチャンプ(イギリス人)、チャールス・ジョンソン(デンマーク人)、マテオ・マザロ(英国籍ジェノア出身)とともに、サンドウィチ諸島の原住民十五名を伴って父島に移住した。小笠原諸島における定住者の最初である。
セボレーは、アメリカのマサチューセッツ州に生まれ、船員としてイギリス商船に乗り、ハワイ諸島(サンドウィッチ諸島)に至った。マザロが企画した小笠原移民隊に加わり、父島扇浦に居を構えた。嘉永元年(1848)にマザロが病死した後は、父島移民隊のリーダーとなった。嘉永六年(1853)、ペリーが来航し、「ピール島植民政府構成法」により島長官に選出された。文久二年(1862)、咸臨丸にて外国奉行水野忠徳に対し、日本国民となることを承諾し、手続きをとった。
板状の墓碑は、アメリカ本土から運ばれてきたと伝えられており、高さ一一二・三センチ。セボレーの死後、まもなく建てられたと推定されている。当初、父島奥村のセボレー家の前に建っていたが、昭和初年、大根山に移された。

大根山墓地
大根山墓地には、セボレーの墓のほかにも十字型や板状の欧米風の墓石が多い。なお、セボレー家は苗字を「瀬堀」と変えて、今も父島に続いている。ほかにもウェブ家は「上部」、ゴンザレス家は「岸」、ワシントン家は「大平」と改姓した。
(三日月山)

三日月山
写真中央の一番高い峰が三日月山である。幕末の巡検隊は小笠原諸島各地の地名を命名したが、三日月山もその一つである。
三日月山の頂上には展望台が設けられており、夕日の撮影スポットとして知られているが、私が父島に滞在した四日間で夕日が見られる日はなかった。
(大神山神社)

大神山神社
小笠原諸島が現在のように父島、母島、兄島、弟島、姉島、妹島、東島、南島、西島といった名称で呼ばれるようになったのは、延宝三年(1675)の富国寿丸による巡検の時であった。洲崎、奥村、宮の浜といった地名もその時に命名されたという。今や忘れ去られたようになっている延宝三年の巡検であるが、歴史的には大きな意味を持つものであった。
その七年前、幕府は長崎代官末次平蔵に外洋の航海にも耐えうる帆船の建造を命じた。幕府は長崎から江戸に物資を回漕するのに大型の専用船を必要としていたのである。
末次平蔵は当時来航していた清国船をモデルとして、約五百石積の帆船を、九か月を費やして完成させた。これが富国寿丸である。
延宝二年(1674)、幕府は嶋谷市左衛門に富国寿丸をもって八丈島の辰巳の遥かな大洋上にある無人島の巡検を命じる。航海按針術に精通した市左衛門は、総員三十八名で南を目指し、延宝三年(1675)五月一日、目指す無人島に上陸を果たした。
嶋谷市左衛門が来島した際に宮の浜に守護神社を創建したのが大神山神社の起源である。明治になって小笠原諸島が日本領であることが認められると、大根山に社殿を造築して大神宮と称した。明治二十八年(1895)に社殿を移し、社名も大神山神社と改称した。数少ない嶋谷市左衛門ゆかりの史跡である。

野牛山
大神山神社から展望台への道が通じている。展望台からは二見港や二見港を取り囲む山々を一望することができる。
二見港の入り口にあるのが野羊山(やぎゅうさん)である。かつては島であったが、戦前洲崎との間に海軍飛行場が造られ、陸続きになった。放牧していた山羊が野生化したため、この名前が付けられたという。事前に問い合わせたところ現在野羊山には規制がかかっていて入山はできないという。ほかにも幕末の巡検隊が訪れた場所でいうと、時雨の滝にも行ってみたかったのだが、ここも規制されていてガイド付きでも入山できないそうである。

野生化したヤギ
確かに父島を散策していると、野生化した山羊を見かけることがある。文久元年(1861)十二月、セボレーは水野忠徳ら幕府巡検団に対し、「島には牛や鹿はいないが、山羊がいる。この山羊は私が放したものである」と語っている。幕府側は、「其の方が放したものでも、日本の土地と日本の草で育ったのだから、自由に処分してはいけない。既に開拓した土地は無税だが、これから開拓する場合は役人に申し出るように」と通達している。この山羊の先祖もセボレーらが持ってきたものかもしれない。

丸山
山頂の展望台からの見晴らしは素晴らしい。電信山、乳頭山、旭山、夜明山、傘山、中央山、丸山、吹割山と連なる山々を見渡すことができる。丸山も幕末の巡検隊が命名したもので山頂が「丸いから」だという。夜明山とか初寝浦とか、詩情を感じる命名が多い幕末巡検隊であるが、丸山だけは何故か即物的である。

鏑木余三男之碑
社務所前に二基の石碑が建てられている。
鏑木余三男は、加賀藩士。内務省勧業局員となり、明治三十五年(1902)に小笠原に赴任し、漁業振興を担当した。遠洋漁業船を建造して民間に貸与したり、漁業生産販売組合を設立するなど遠洋漁業の奨励に努めた。また鰹節伝習会を開催して技術者を養成し、マグロのはえ縄試験を行った。鰹節とマグロのはえ縄は小笠原漁業の二大柱となり、小笠原に大きな利益をもたらした。アカウミガメの研究にも注力し、孵化放流の基礎を作った。鏑木余三男はまさに小笠原水産業確立の恩人ともいえる人物である。明治四十一年(1908)一月、五十四歳で没。大正二年(1913)、故人の業績を称えて島民がこの石碑を建てた。

遭難者冥福の碑
明治三十九年(1906)三月十一日、母島で遭難した人の冥福を祈念して建てられたものである。遭難の原因は時化といわれるが、詳細は分かっていない。