教科書に必ず載っている大塩平八郎の乱だが、意外とその実態は知られていない。本書は大塩平八郎の乱を最新の研究成果を踏まえて詳述したものである。
本書の末尾には六ページに渡って大塩平八郎の檄文現代語訳が掲載されている。大塩は第一に「上に立つ者が贅沢を極め、大切な政治に携わる諸役人が公然と賄賂を授受あるいは贈答し」「縁故を利用して卑しい身分の者が出世し」「おのが一家のみを肥す工夫のみに頭を使い」「民百姓の負担は増えるばかりで世界全体が困窮し、人々が公儀を怨まざるを得ないありさま」と政情を痛烈に批判する。
彼の怒りに火を着けたのは「大阪の米不足をよそに江戸に米を回し、天皇の御在所である京都には回さないばかりか、近郷から五升一斗ほどの少量の米を市中に買い出しに来た者を逮捕するなどしている」事実である。これは東町奉行跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)が、西組与力の内山彦次郎と結託して行ったものである。
さらに大塩の批判の矛先は、大阪の金持ちに向かう。彼らは諸大名に貸し付けた金銀の利殖と扶持米の支給で莫大な利益を得ている。「町人身分のまま大名の家来、用人格などに採用され」「この時節、天災・天罰を見ても畏れもせず、餓死した貧窮者や物乞いする民を救おうともせず」「美食を常とし、妾宅などへも入り込み」「遊里の揚屋、茶屋へ大名の家来を招き、高価な酒を湯水のように飲」んでいる。
大塩の反乱は、民百姓を悩まし苦しめている諸役人(具体的には跡部と内山)を誅伐し、大阪市内の金持ち町人どもを誅殺することが目的であった。
筆者の見立てによれば、東町奉行の跡部良弼が、西組の与力内山彦次郎を使って江戸回米を企てたことによる「私憤」が乱の背後にあるという。さらには、奉行所の東西対立があり、いつの間にか西が優勢で東が劣勢に回っていた。大塩の主催する洗人洞の門人の多くは東組に所属しており、大塩はその利益代表になっていたというのである。
高邁な理想に裏付けられた檄文は人家の多い神社の殿舎などに貼り付けられて、民衆に広く読まれた。この檄文が奏功したのか、民衆の間で平八郎の人気は高かった。焼け出された者でも少しも怨まず、「大塩様」と尊敬した。戦後、市中に潜伏した大塩平八郎を捕らえれば「銀百枚の褒美が下される」との触れが出たが、「たとえ銀の百枚が千枚になろうとも、大塩さんを訴人されようか」と言っていた。
檄文は周到に用意されたように見える。これに反して乱に加担したのはわずかに総人数三百とされる。相次ぐ密訴によって決起の予定が八時間以上早められることになったという誤算もあったであろう。相蘇一弘氏の研究によれば、初動の人数は七十五人前後、最盛期でも一五〇人から二〇〇人程度としている(「大塩の乱関係者一覧とその考察」。幕府を震撼させた大事変にしては、拍子抜けするほどである。
戦闘は天保八年(1837)二月十九日の早朝に始まり、その日の午後四時頃に終結した。半日程度で鎮圧されてしまったのである。しかし、大塩平八郎をはじめ主な人物は、その後も逃亡を続けた。首謀者である大塩平八郎に至っては一か月以上潜伏を続けた。大塩は敗走後早々同志たちに「自死する」と言いながら、いったん大和への逃走を試み、単独行となったところで、縁戚の美吉屋五郎兵衛宅に駆け込んでいる。
大塩の逃避行の裏には、密かに江戸に送った「建議書」があった。建議書は老中への建策でありながら、水戸斉昭の存在が前提となっていると同時に、学問所総裁である林述斎への諫言となっている。
実は大塩平八郎は、佐藤一斎を介して大阪から水戸に米を送ることで水戸藩とは強い繋がりを有していた。また林述斎にも金銭を融資して、分割返済を受けるという関係にあった。
建議書において、大塩は現職老中の過去の汚職と、勘定奉行内藤矩佳、西町奉行矢部定謙、そして与力内山彦次郎の悪行を訴えている。林述斎と水戸斉昭が動いてくれるのを、大塩は大阪で潜伏しながら期待していたのである。
しかし、建議書は斉昭の側近藤田東湖には渡ったが、東湖はそれを斉昭には渡していない。江川英龍の上司である内藤矩佳が手を回したと推測されている。
大塩がいわば命かけで告発した「侫人」は、皮肉にもそれぞれ栄達を遂げている。
矢部定謙はその後江戸南町奉行に昇進したが、老中水野忠邦と対立し罷免。それを不服として絶食し、天保十三年(1842)、死去した。
跡部良弼はその後も江戸南町奉行や講武所総裁、江戸北町奉行などの重職を歴任。最後は若年寄まで昇ったが、明治元年(1868)、七十歳で死去。
内山彦次郎は与力の最上位職である諸御用調役を務め、さらに譜代御家人まで取り立てられた。しかし元治元年(1864)五月、大阪天神橋にて何者かに暗殺された。犯人は新選組説、攘夷志士による天誅説があるが、今も真相は闇の中である。