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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末外交事始 文久遣欧使節竹内保徳」 佐藤明子著 宮帯出版社

2011年03月19日 | 書評
私は幕末の遣欧米使節団のことが大好きである。初めて目にする西欧の圧倒的近代文明に圧倒されながらも、表情一つ変えず堂々と欧米人と渡り会う使節団の姿に日本人としての誇りを感じる。
この本は、文久二年(1862)にヨーロッパに初めて派遣された使節団の正使竹内保徳を題材に、竹内保徳の子孫に当たる佐藤明子氏が著したものである。予て遣欧使節に興味のあった私は、書店でこの本を見つけて迷わず購入した。
結論からいえば、大いに失望することになった。竹内保徳や遣欧使節についての叙述は数章に過ぎず、あとは武士道とかイギリス流とか、キリスト教などに関する著者の見解が長々と述べられているばかりで、そんなこと知りたいとも思っていない歴史フアンにとっては、退屈極まりない。遣欧使節団に関する記述は、宮永孝氏の論説やオールコックの「大君の都」あるいは萩原延壽氏が訳したアーネスト・サトウの「遠い崖」などに拠っており、目新しいものは無い。
巻末の著者紹介によれば、著者は「出版社勤務を経て情報誌などに執筆」とあるので、相当筆の立つ方なのであろう。返ってそのことが仇となって、歴史ものとしては面白みが削がれてしまった感が強い。

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「慶喜の捨て身」 野口武彦著 新潮新書

2011年03月19日 | 書評
“幕末バトル・ロワイヤル”シリーズの第三弾。恐らくこれが完結編ということだろう。この本では江戸時代最後の年号となった慶応年間の出来事を取り上げる。
高杉晋作の功山寺挙兵から、第二次長州征伐の失敗、薩長同盟、将軍家茂と孝明天皇の相次ぐ死、そして王政復古のクーデターに至るまでの「正史」を紹介するとともに、民衆による米騒動や「ええじゃないか運動」にまで及んでいる。
著者は、「藤岡屋日記」という、当時の一種の情報誌からいくつかのエピソードを引用している。「藤岡屋日誌」とは、
――― 歴史政治を揺るがす政治的事件と、天下の大勢にはみごとにカンケイのない出来事とが、まったく無差別に、堂々と等価格で並んでいるのである。
というものらしいが、それはまさに著者が「幕末バトル・ロワイヤル」シリーズで描きたかったものなのではないか。
よく知られた正史に加えて、物価高に激怒した民衆が徒党を組んで打ち毀しに走った事情とか、人気俳優市川小団次が「鋳掛松」を演じてお咎めを受け怒りのあまりその年のうちに亡くなってしまったエピソードとか、甲州の博徒黒駒の勝蔵を捕えようと石和代官が踏み込んだら黒駒一家の姿は雲のように消えてしまったとか、そういった所謂裏面史を紹介することで、幕末史がより立体的になる。薩長だけでなく、世の中全てが倒幕に向かって動いていたように見て取れるのである。

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河津

2011年03月12日 | 静岡県
東北地方太平洋沖地震では、東京都内でも震度5を記録し、かなりの揺れを体験した。交通機関は麻痺し、同僚の中には歩いて帰宅する者もいたが、自宅まで50㎞以上離れている私は早々に帰宅を諦め、新橋にある会社で一夜を過ごすことになった。地下鉄と私鉄が運転を再開したので、翌朝には何とか自宅に帰りつくことができた。車内は大混雑だったし、普段の倍近く時間がかかったが、地震や津波の被害をまともに受けた各地の皆さまの苦しみと比べれば、これくらいどうというほどのことではない。昨夏、宮古や陸前高田、釜石の史跡を巡ったが、そのとき目にした美しい風景が目に焼き付いている。テレビに映し出されるあまりに対照的な光景が胸をつく。被災した地域の方々に心よりお見舞い申し上げるとともに、一日も早い復興を祈る。


 天気に恵まれたこの日、伊豆急行線~伊東線沿線の史跡を歩くこととした。“黒船電車”に乗って河津に向かう。満員の乗客の九割はこの駅で下車した。当然、構内や出口は大混雑であった。全くノー・ケアであったが、この日は「河津桜まつり」が開かれており、そのため周辺道路は大渋滞、公衆トイレにも長い行列ができるほどであった。事前に祭が開かれているらしいという情報は得ていたが、「この時期に桜はないだろう」と高を括っていた私には想定外の事態であった。
 河津桜というのは、早い年では1月下旬から開花し、花期が約一か月に渡るという桜の一種で、ソメイヨシノと比べると花色は濃い。何の予備知識も興味もない私にとって、この大混雑は迷惑以外の何物でもなかった。人をかきわけるようにして観光交流館に向かい、そこでレンタル自転車を借りる。料金は千円と高いが、変速機付き自転車なので、坂道を上るには有り難い。ここから目的地である慈眼院まで五㎞以上、約四十分の道のりである。


河津桜

 頸椎ヘルニアから復帰して初めての自転車であったが、さすがに腕や肩に痛みが走り、ほとんどの行程で片手運転を余儀なくされた。最後の坂は自転車を押して歩くことになった。

(慈眼院)


慈眼院


ハリス公使舊蹟碑

 初代駐日公使タウンゼント・ハリスは、安政四年(1857)十月、将軍に謁見するため、江戸へ出府することになった。下田を出たハリス一行は、天城峠を超える途次、慈眼院に立ち寄りここで宿泊したとされる。門前にハリス公使舊蹟碑が建てられている。

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伊豆高原

2011年03月12日 | 静岡県
(八幡宮来宮神社)


八幡宮来宮神社

 伊豆高原駅を降りて国道135号線八幡野の交差点を山側に進むと、鬱蒼とした自然林に囲まれた八幡宮来宮神社に行き着く。


八幡宮来宮神社

この神社の神官を代々務めた肥田家から、幕末に人材が生まれた。十代当主肥田春安は韮山代官江川太郎左衛門(坦庵)の侍医を務め、伊豆、武蔵、相模、駿河などで種痘を広めたことでも知られる。
春安の子、肥田浜五郎は、伊東玄朴に学び、のちに長崎海軍伝習所で機関学を修めた。万延元年(1860)には咸臨丸の機関長に選ばれて渡米している。慶応元年(1865)にはオランダにも渡航した。維新後、明治新政府に出仕し、工部省、海軍省などで活躍した。明治二十二年(1889)、藤枝にて動き出した列車に飛び乗ろうとして転落して、事故死した。六十九歳。

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宇佐美

2011年03月12日 | 静岡県
(中村敬宇顕彰碑)


中村敬宇顕彰碑
「天は自ら助くる者を助く」

 宇佐美駅を降りて、駅から伸びる道を海岸に出ると、交差点近くに中村敬宇(正直)顕彰碑がある。中村敬宇は、「西国立志編」や「自由之理」を翻訳したことで知られる啓蒙家であるが、父武兵衛は宇佐美村の百姓の出で、その関係でこの地に顕彰碑が建てられたものである。「西国立志編」から有名な「天は自ら助くる者を助く」という一節が、川端康成の書で刻まれている。

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「天狗黨の跡を行く」 鈴木茂乃夫著 暁印書館

2011年03月07日 | 書評
本が切れると、大きな書店の日本史コーナーの前に立つ。たくさんの本の中から自分が手に取るものが、その時点で自分が一番興味を持っているカテゴリーということである。昨年来、水戸藩に惹かれている。今回も自然と「天狗党」の本に手が伸びた。
天狗党の騒乱をどう評価するか。人によって随分と評価が分かれるだろう。著者は水戸出身であるが、代々宍戸藩の御典医を勤める家系の出である。曽祖父は、戊午の密勅返納で藩内が揺れているとき、上洛して同志と画策していたという。そういう縁もあってか、天狗党には同情的である。あの悪評高き田中愿蔵に関しても、かなり好意的な書き方をしている。藤田小四郎らの思想が「尊王敬幕」であったのに対し、田中愿蔵の思想は「尊王倒幕」であり、むしろ長州に近かったという。そうだとしても、田中愿蔵の所業は、統制の取れた行動を目指した武田耕雲斎ら天狗党幹部には受け入れられないものであった。
天狗党の挙兵により「維新が早まった」とか「幕府の倒壊が加速した」という評価もあるが、どうだろう。歴史に果たした役割を冷静に評価すれば、この騒乱が水戸藩の地位転落の転機となったということは間違いない。それまで幕末の政局を主導していた水戸藩が、この騒乱以降、そのエネルギーは専ら内部の権力抗争に費やされ、中央政局にはほとんど影響力を発揮できないまま、維新を迎えている。
天狗党の末路は、維新史において会津戦争と並ぶ悲劇である。会津戦争が戦争という名を借りた虐殺とすれば、天狗党の最期は処刑という名のであった。人間はここまで残虐になることができるものかと、暗澹たる気持ちになる。
この本が書かれたのは、昭和五十八年(1983)というから、三十年近くも前である。幸いにして、天狗党関係の史跡は茨城県、福井県、岐阜県などに現存している。この本を手がかりに、また天狗党の跡を追ってみたいという意欲が高まった。

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「代表的日本人」 内村鑑三著 鈴木範久訳 岩波文庫

2011年03月07日 | 書評
キリスト教に入信した内村鑑三が、日露戦争直後に英語で日本の偉人を西欧に紹介する意図で著された古典的名著。代表的日本人として、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人を取り上げる。
西郷隆盛の項では、薩英戦争でイギリス艦隊を迎え撃ったのを島津斉彬としており、上杉鷹山の項では鷹山が開いた興譲館を我が国最古の藩校とするなど(多分、岡山の藩校の方が古い)、明らかに史実と異なる記述もあり、やや信憑性を欠くところもあるが、内村鑑三は、この国が東洋の異教の国でありながら、いかに素晴らしい人材を生んだかを懸命に説いている。内村が賞賛する「素晴らしさ」とは、西郷の超人的無私無欲さであり、鷹山が領民のために人生を捧げる姿勢であり、尊徳の誠実一途さである。中江藤樹は、生活を正すことを人生の目的において、まさにその通りの人生を送った。日蓮は、自分の信ずるところを布教するのに如何なる迫害にも怯まなかった。日本はキリスト教国ではないし、無宗教の国と言われるが、歴史上にはこのような誇らしい人物がいたということを訴えたかったに違いない。この本はデンマーク語、ドイツ語にも訳されるなど、大きな反響を呼んだ。実際には海外での反響以上に日本人に共感をもって受け止められたようである。
本書で最初に取り上げられている西郷隆盛は、「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である」という言葉が有名である。西郷自身がまさにそのような生き方を目指した。全ての「私欲」を捨て去り、自らを真空状態にして世を覆うほどの人望を一身に集めることになった。このような人物は、あとにも先にも西郷隆盛しか存在しない。本書の題名は「代表的日本人」であるが、西郷隆盛の存在は「代表的」というより「例外的」といった方が適切である。ただし、これは西郷の人格的特徴であって、政治家としての思想や手腕は別物である。内村鑑三の叙述の大半は、西郷の人格的部分に費やされ、政治的功績について触れるところは少ない。倒幕の立役者でありながら、最期は賊軍の将として亡くなった西郷隆盛という人物は、実は日本人にも分かりにくい存在である。これを英語で西欧人に紹介しようという試みは十分成功したとはいえないように思える。

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鮫洲 Ⅱ

2011年03月06日 | 東京都
(大井公園)


仙台藩下屋敷跡

 大井公園一帯には仙台藩の下屋敷があった。万治元年(1658)仙台藩伊達家では麻布にあった下屋敷を返上して新たに大井村に拝領した。その後、元文二年(1737)鯖江藩間部家では大崎の屋敷の一部を伊達家の屋敷と交換し、この地に下屋敷を置いた。鯖江藩は五万石という家禄であったが、老中を出す家柄で、幕末には安政の大獄で辣腕を振るった間部詮勝を生んでいる。

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