史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

土居 Ⅱ

2022年07月02日 | 愛媛県

(暁雨館)

 暁雨館は、入野村の庄屋第十代当主山中時風が自らの住居に名付けた住居号である。寛政七年(1795)には、伊予を訪ねた小林一茶も暁雨館に立ち寄ったと記録されている。

 伊予土居は、寛政の三博士と称された尾藤二洲に学んだ近藤篤山が生まれた場所である。近藤篤山は「伊予聖人」と称された儒者、教育者であるが、その門下から尾埼星山(山人)が生まれ、星山は私塾松菊者を開いて、この地で多くの人材を育てた。星山の門下に合田福太郎や安藤正楽がいる。合田福太郎は中央政界で活躍し、郷土の発展にも尽くした政治家である。安藤正楽は非戦・反差別を主張した政治家であり、思想家でもある。

 暁雨館における展示を見ていると、尾藤二洲以来の思想・学問の流れが脈々と受け継がれたことを理解することができる。

 

暁雨館

 

暁雨館の展示

 

暁雨館の庭園

 

 暁雨館の庭園は、庄屋山中家の築造したものがそのまま受け継がれている。庭は枯山水式の庭園で、多くの飛び石が配され、五葉松をはじめ赤松、シラカシ、イヌマキといった古木が見事である。

 

(井守神社)

 

井守神社

 

日清戦争記念碑

 

 井守神社境内の日清戦争記念碑は、尾埼星山の筆。どういう文字で、何が書かれているのかよく分からない。

 尾埼星山は勤王の志厚い人で、文久三年(1863)、生野の変に敗れて四国に逃れた澤宣嘉を匿い、のちに長州に送り届けた。明治元年(1868)には西条藩学教授となり、学頭に進み、兼ねて藩政参与となり権少参事、文武館総督となったが、明治四年(1871)退官。爾来、私塾を開いて地方青少年の教育に努めた。明治三十六年(1903)、年七十八で没。

 

 

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大洲 Ⅲ

2022年01月22日 | 愛媛県

(寿永寺つづき)

 

大洲藩故大参事源朝臣山本尚徳之墓

 

 山本尚徳の墓も、寿永寺の裏山にある。見つけた時はちょっとした感動であったが、後から思えばこれは序の口であった。この後、前回(十七年前)に果たせなかった国島六左衛門の墓を探して寿永寺の裏山を歩き回った。ほとんど道らしい道はなく、少し歩けば蜘蛛の巣が顔面を襲い、全身汗でびっしょりとなりながら一時間ほど山中を彷徨した。どこをどう歩いたのか分からないが、気が付けば大禅寺の墓地に出てしまった。結局、国島六左衛門の墓には出会うことができないまま、十七年ぶり二度目の撤収となった。

 

(曹渓院)

 

曹渓院

 

 大洲藩主加藤家の墓所は、龍護山曹渓院と如法寺に分かれている。曹渓院は、藩祖加藤光泰の菩提を弔うために初代藩主貞泰によって創建されて寺院で、以後、六代泰衑(やすみち)、八代泰行、十代泰済、十一代泰幹、十三代泰秋の七名が祀られている。

 

加藤光泰霊廟並びに大洲藩加藤家墓所

 

 奥の藩祖加藤光泰の廟所は、覆屋が朱色に塗られており、他の藩主と区別されている。

 十三代泰秋の墓は、その光泰の霊廟に隣接している。加藤泰秋は、弘化三年(1846)、十一代藩主泰幹(やすとも)の子に生まれた。元治元年(1864)十一月、兄泰祉(やすとみ)の急逝を受けて、十九歳で襲封。幕末多難の藩政に当たった。慶應三年(1867)、摂津西宮を警備し、慶應四年(1868)、大阪親征のときは先鋒供奉に当たった。ついで甲府警備につき、奥羽征討にも藩兵を送って功があった。戦後、慰労金二千円を賜った。同年九月、明治天皇東幸の際には藩兵二百を率いて供奉、護衛に当たった。明治二年(1869)、藩学制を改正して、錦絅舎(卒学校)と明倫堂(藩士学校)を合併し、平民の入学も許した。大洲藩知事となったが、明治四年(1871)六月、廃藩により退官した。大正十五年(1926)、年八十一にて没。

 

少年中江藤樹当山天梁に学ぶ

 

 曹渓院境内に「少年中江藤樹当山天梁に学ぶ」と記された石碑がたっている。十歳で大洲に移住した藤樹は、元和七年(1621)、十四歳のとき、曹渓院天梁和尚に書道や漢詩を学んだ。

 

(如法寺)

 

如法寺

 

 大洲藩主加藤家のもう一つの菩提寺である如法寺は、曹渓院が大洲市街地に位置しているのに対し、市街から離れた山の中にある。如法寺は、二代藩主加藤泰興が寛文九年(1669)に最興した寺院で、山内には二代泰興のほか、三代泰恒、四代泰統(やすむね)、五代泰温(やすあつ)、七代泰武、九代泰候(やすとき)、十二代泰祉(やすとみ)の七名が祀られている。

 

洪徳院殿仁岳宗温大居士

(加藤泰祉(やすとみ)の墓)

 

 泰祉の墓は雑草に被われ、ほとんど手入れがされていない。仮にも市指定の史跡とされている藩主の墓所であるし、もう少し保存には気を使って欲しいものである。

 泰祉は、天保十五年(1844)、十一代藩主加藤泰幹の三男として大洲に生まれ、嘉永六年(1853)、十歳で家督を相続した。農業に必要となる資金を調達するための基金制度を整備し、その基金の利子を活用して村々へ融資を行う勧農銀制度を発足させるなど農業振興のほか、連年の災害や不作によって困窮した村を救済するために郡中港波止場(現・伊予市)の砂堀工事などの公共事業を行い、困窮者の救済に努めた。朝廷を尊び、尊王攘夷を掲げた泰祉は、元治元年(1864)、宮廷守衛や勤王活動の功から歴代大洲藩主の中で唯一従四位下に叙されたが、同年大洲において二十一歳で没した。

 

(法眼寺)

 新谷の法眼寺は、新谷藩主加藤家の墓所である。山内には六代加藤泰賢(やすまさ)の墓所のほか、中江藤樹の門人で、邸内に祠堂を建てるなどして藤樹を崇敬した新谷藩家老徳田季一、寄一、寄隆の墓もある。

 

日蓮宗普妙山 法眼寺

 

正七位香渡晋奥城

 

 本堂のすぐ近くに香渡晋(こうどすすむ)の墓がある。

 香渡晋は天保元年(1830)の生まれ。安政五年(1858)、江戸に出て藤森天山、大橋訥庵らに師事して尊攘思想を抱き、文久二年(1862)、上京以来、実践的運動に乗り出し、志士たちと交わり、ついで高松保実を介して三条実美以下の諸卿と結んで活躍した。維新後、新谷藩大参事となり藩政に当たった。明治七年(1874)、岩倉具視の招きに応じて上京し、その顧問となって補佐し、伊藤博文ら明治政府首脳と交わり、新政の展開に陰の力となった。のち欽定憲法草案を岩倉に提出し、明治憲法制定に一役を演じた。明治三十五年(1902)、年七十三で没。

 

(興覚寺)

 大洲市八多喜の興覚寺は、大村益次郎暗殺の黒幕と疑われた巣内(すのうち)式部が帰郷して謹慎した寺である。巣内式部は謹慎中興覚寺にて五十五歳で没した。式部の墓も本堂裏手の墓地にある。参道入口には、「巣内式部信善先生墓参道」「巣内式部幽居地並墓」と記された日本の石碑が立っている。

 

興覚寺

 

巣内式部信善先生墓参道

巣内式部幽居地並墓

 

巣内式部先生頌徳碑

 

贈従五位巣内式部墓

 

 巣内式部は、文政元年(1818)、大洲の町人松井八郎兵衛の子に生まれた。長じて須内宇兵衛の養子となった。大洲の国学者常磐井厳戈について尊王思想を身に付け、万延元年(1860)、四十三歳のとき上京し、公卿の高松、西四辻家に仕え、その間、在京の志士たちと交わった。元治元年(1864)、長州在の七卿との連絡、中国諸藩の勤王勧請等の要務を帯びて西国に密行したが、そのために慶應元年(1865)から三カ年京都守護職に禁獄された。王政復古後釈放されると、近江国での挙兵に参加し、やがて第二親兵隊の取締となって、北越方面に転戦し功があった。明治二年(1869)九月、大村益次郎が暗殺されると、下手人処刑後の首級埋葬方を申し出てそのため嫌疑を受けて、翌三年(1870)六月、帰郷して禁固され、興覚寺にて没した。

 

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城川 Ⅱ

2022年01月22日 | 愛媛県

(古市公民館)

 西予市城川町古市は、市村敏麿を生んだ街である。古市公民館の前に「市村敏麿生誕之地」と刻んだ石碑が建てられている。

 市村敏麿は、天保十年(1839)、この地に生まれた。父は古市村庄屋市村芝治左衛門。土佐街道の要地に育った関係で、土佐藩浪士西春松に師事し、同藩の吉村寅太郎、那須信吾らと交友があった。文久三年(1863)、庄屋役を売って脱藩し、長州三田尻の忠勇隊に通じた。慶應年間、伊達宗城の人材登用に応じ、機密掛、時勢見聞方として、長州再征の動きの中で松山藩の動静を探索した。のち宇和島藩庁の役人となり、明治三年(1870)の野村農民騒動に当たっては、首謀者の説得を命じられた。明治十年(1877)以降は、南予農民の無役地事件を闘った。大正七年(1918)、年八十で没。宇和島駅近くの龍光院に墓があるらしいが、見逃してしまった。次回、宇和島を訪ねるときには探してみたい。

 

古市公民館

 

維新の先覚 市村敏麿誕生之地

 

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宇和島 Ⅳ

2022年01月22日 | 愛媛県

(大超寺つづき)

 本堂前には宇和島市教育委員会が昭和三十五年に建てた「末広鉄腸の墓」碑もある。

 

末広鉄腸の墓

 

伊能八代永憲夫婦之墓

(伊能友鷗(吉見左膳)の墓)

 

 伊能友鷗は文化十四年(1817)の生まれ。宇和島藩参政中井筑後の弟で、のち吉見長左衛門の養子となり、安政六年(1859)までは吉見左膳、あるいは吉見長左衛門と称した。友鷗は隠居後の雅号である。天保十二年(1841)、伊達宗紀の近習となり、天保十四年(1843)には目付兼軍使として藩政改革に当たった。弘化元年(1844)、伊達宗城襲封後、その信任を受け、側近として藩政の枢機に当り、安政三年(1856)、参政として財政整理、海防強化に努めた。安政五年(1858)、出府して、一橋派の立場に立つ宗城の片腕として活躍したため、翌年重追放処分を受けて帰国した。以後、宗城は「伊達家忠能之臣」を意味する「伊能」と改姓させた。明治元年(1868)、執政となり、明治三年(1870)、引退。幕末維新期の宇和島藩政の中心人物であった。明治八年(1875)、年五十九で没。

 

 墓地の一番奥まった場所に山村家の墓がある。山村家は、高野長英や大村益次郎に学んだ大野昌三郎の家系を継ぐ家である。

 

山村累代之墓(大野昌三郎の末裔の墓)

 

 大野昌三郎は、嘉永年間、来藩した高野長英に蘭学を学び、シーボルト、楠本イネとも昵懇の仲であった。嘉永六年(1853)には、長州の大村益次郎が来宇し、宇和島在住中、世話をした。明治十三年(1880)、没。大野昌三郎の長男が山村姓を名乗り、以来山村姓を引き継いでいる。

 

(選仏寺)

 

選仏寺

 

振洋上甲先生墓

 

 選仏寺は宇和島市内の山の斜面に立っている。墓地からは宇和島城や市内を見渡すことができる。斜面にある墓地の一番高いところに上甲振洋の墓がある。

 上甲振洋は、文化十四年(1817)の生まれ。天保九年(1838)からその翌年まで伊予小松藩儒近藤篤山に学び、天保十一年(1840)から弘化元年(1844)まで江戸昌平黌にて朱子学を研鑽。弘化三年(1846)帰郷し、宇和島藩儒に任命され、やがて藩校明倫館の督学として藩士教育に尽力した。安政元年(1854)、辞職。藩領八幡浜、横浦で私塾青石洞書院を開いて三千人の門弟に朱子学を教授した。明治初年、藩学制の改正に当り、藩学の教頭となったが、間もなく辞職した。以後、再び八幡浜で私塾を開いて地方育英事業に専念した。明治二十一年(1888)、年六十二で没。

 

選仏寺墓地から宇和島城を臨む

 

(大隆寺)

 大隆寺は、宇和島藩主伊達家の墓所で、初代藩主伊達秀宗の夫人亀の墓のほか、五代村候(むらとき)、七代宗紀(むねただ)、九代宗徳(むねえ)らの墓がある。

 

大隆寺

 

正二位侯爵伊達宗徳墓

 

 九代藩主伊達宗徳は、天保元年(1830)の生まれ。父は、七代藩主伊達宗紀。宗城の弟である。天保八年(1837)、伊達宗城の養嗣子となり、安政五年(1858)、宗城の隠居により襲封し、遠江守となった。幕末維新期、宗城が国事に奔走することができたのは、宗徳の藩治が前二代の間に育成された側近上士層補佐のもとに、軍事・生産・教育の各方面にわたって強力に推進されていたことによる。特に富国強兵策を打ち出した慶應の藩政改革、明治二年(1869)から三年(1870)の藩制改革は注目される。明治二年(1869)、藩知事に任命されたが、廃藩置県により免官。明治三十九年(1906)、年七十七で没。

 

伊達正宗長子秀宗十七世

正二位藤原朝臣宗紀墓

 

 伊達宗紀は、寛政四年(1792)の生まれ。父は、六代藩主伊達村寿(むらなが)。文政七年(1824)、襲封すると、人材を登用し藩主権力を強化した上、藩政改革に着手した。文政八年(1825)以降の厳略、質素倹約、文武の奨励、さらに文政十二年(1829)、大阪商人からの負債の無利息二百ヵ年賦償還、民間の貸借の引き捨て、天保六年(1835)の融通会所の設置、天保十一年(1840)以降の内扮検地実施、農村再建のための救恤策、灌漑施設の整備など、矢継ぎ早の富国策は成功して、藩庫は充実し、幕末宇和島藩活動の基礎を作った。弘化元年(1844)致仕。長生し明治二十二年(1889)、年九十八で没。

 

靖簡院殿悠翁三楽居士(松根図書の墓)

 

 伊達家の墓所に至る途中に松根家の墓所がある。同じ墓所に俳人松根東洋城の墓もある。松根図書は、文政三年(1820)の生まれ。宇和島藩主伊達宗城を補佐画策し、藩内きっての有能な人物として信頼された。嘉永四年(1851)九月、家督を継ぎ、財政・民政をつかさどる家老として、慶応三年(1868)三月、退隠するまで、海産物、蝋、茶などの生産増強、専売制の強化を図るとともに、藩内商人に長崎貿易を経営させるなど富国策をとった。また高野長英、大村益次郎らを招いて、西洋兵学の教授、洋式砲台の建設に当たらせるなど強兵策を推進した。慶應元年(1865)~慶應二年(1866)、イギリス公使パークスが来藩して、宗城らと会談したのも松根図書の画策によるもので、幕末維新の際の宇和島藩活動の源泉を涵養する上で功があった。明治二十七年(1894)、年七十五で没。

 

 大隆寺は伊達家の菩提寺であるとともに松根家ゆかりの寺でもある。境内には松根首塚がある。豪勇で知られた松根家の先祖松根新八郞が諸国を修行中、侍の幽霊から頼まれ、仇討ちの助力をしてやった。その礼にと数日後、幽霊が血の滴る生首を置いて消えた。松根家ではこれを邸内の竹薮に懇ろに葬った。以来、生首を家の旗印として、兜の前立ての飾りにもした。この生首は大隆寺に移され、松根首塚として供養が続けられている。

 

松根首塚

 

韜谷大和尚塔

 

 韜谷(とうこく)和尚は、文化九年(182)の生まれ。父は高松藩士小西七兵衛。幼少のころから仏門に入り、武蔵国宝林寺で伽陵老師について修行。天保六年(1835)、宇和島大隆寺で晦巌和尚の許に入門した。安政二年(1855)、晦巌和尚隠居に当たって、首座高弟であった韜谷は、その跡を継いで第六代住職となり、師が幕末伊達宗城の命を受けて国事に奔走している間、内外これを補佐して遺憾のないようにした。博学多才にして書芸にも通じた傑僧であった。明治十九年(1886)、年七十五で没。歴代住職の墓地の中に墓がある。

 

(仏海寺)

 富沢礼中の墓を探して、仏海寺の墓地を歩いたが、富沢姓の墓石すら発見できない。ほとんど諦めかけたその時、本堂のすぐ裏、墓地の入口付近に富沢礼中、賀古朴庵らの事績を紹介する説明板を発見した。富沢礼中、賀古朴庵の墓は、この説明板のすぐ横に集められている。どうしてこれを見逃してしまったのだろう。

 

仏海寺

 

五世賀古朴庵知質(ちかただ)墓

 

 賀古朴庵は、文政元年(1818)の生まれ。諱は知質、通称は宣春、朴庵と号した。弘化三年(1846)、家督を十五人分薬種料十俵にて相続し、藩医となった。嘉永三年(1850)、江戸で大槻俊斎の門に入り、蘭学を学んだ。嘉永五年(1852)、宇和島城下に種痘所が設立され、富沢礼中、砂沢杏雲が主任となり、さらに嘉永六年(1853)には賀古朴庵、谷快堂が追加されて協力した。朴庵は幕末、宇和島で初めて飛行機を考えた人としても知られる。安政六年(1859)、没。

 

清観院竹簷幻露居士(富沢礼中の墓)

 

 富沢礼中は、文化九年(1812)の生まれ。宇和島藩医の家に生まれた。天保四年(1833)、江戸で医学を修業。弘化三年(1846)、藩主伊達宗城の命により蘭医伊東玄朴に入門。療治方格別上達を賞与された。嘉永元年(1848)、藩主の命を受け、高野長英を宇和島に伴い、藩の蘭学振興策を助けた。嘉永二年(1849)には玄朴より中痘痂、種痘針を贈与され、種痘経過について教示された。これに力を得て、同志と協力して、城下に種痘所を設立して診療に努めた。以後、宇和島領民を天然痘から解放した功績は大きい。嘉永六年(1853)、大村益次郎が来宇した際、弟子二人を入門させ、自らも安政二年(1855)、子の松庵を同伴して江戸に再遊学した。明治六年(1873)、年六十二で没。

 

(泰平寺)

 泰平寺には都築温、得能亜斯登という幕末維新期の宇和島藩を代表する二人の藩士の墓がある。

 

泰平寺

 

贈従五位鶴洲都築先生之墓

 

 都築温(あつし)は、弘化二年(1845)の生まれ。父は宇和島藩士末廣雙竹。のち都築燧洋の養子となった。雅号は鶴洲。藩校明倫館に学び、元治元年(1864)、周旋方見習となり、京阪に赴いた。翌慶應元年(1865)帰郷。慶應二年(1866)の第二次征長には広島に出張した。慶應三年(1867)十月、徳川慶喜が薩・土など四十余の藩主、藩臣を二条城に集め、老中をして大政返上の草案を示し、その意見を問い、さらに土佐藩士福岡、後藤と並んで、当時二十三歳の宇和島藩士都築温ら六人から、大政奉還必至の強硬な意見を聞いて、奉還を決意したという。明治元年(1868)、外国官権判事に任じられ、戊辰戦争後の箱館では内外の交渉事務を処理したが、ほどなく退官。帰藩後私塾を開き、部落民の教育を行い、南予中学校長、宇和郡長を歴任した。明治十八年(1885)、年四十一で没。

 

得聖院殿能覚斯登居士

贈従四位得能亜斯登之墓(林玖十郎の墓)

 

 得能亜斯登(とくのうあすと)は、天保八年(1837)の生まれ。維新前は林玖十郎と称した。諱は通顕。安政五年(1858)、伊達宗城の股肱の臣、伊能友鷗が重追放に処されて以降、その小姓として登用されて枢機に与り、慶応三年(1867)までに京阪、防長に使して主君の活躍を援けた。慶應四年(1868)、太政官にて下参与海陸軍務掛を命じられ、有栖川総督宮の下に西郷隆盛、広沢真臣らとともに東征軍の参謀となり、さらに甲斐鎮撫使の下に参謀兼監軍として鎮撫に従い、さらに同年五月には民政をつかさどった。総督より会津藩および松平容保の処分を問われた際に、徹底殲滅を進言したといわれる。明治二年(1869)には箱館府判事に任じられたが、明治四年(1871)、病のため退官帰国した。明治二十九年(1896)、年六十で没。

 

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松山 Ⅳ

2022年01月15日 | 愛媛県

(日尾八幡神社つづき)

 

権少教正三輪田元綱墓

 

 三輪田元綱の墓を求めて、再度日尾八幡神社を訪問した。浄土寺で三輪田米山の墓を発見したが、そこに元綱の墓はなく、ほとんど諦めかけていた時、日尾八幡神社に戻ろうとしたら、その傍らに元綱の墓があった。このところ、空振りが続いていたが、ここで元綱の墓に出会うことができたのは、何かの御褒美なのだろう。

 

(浄土寺)

 浄土寺は、四国八十八ヶ所第四十九番札所。本堂裏手の墓地に三輪田米山の墓がある。

 

浄土寺

 

米山三輪田先生墓

 

 三輪田米山は、文政四年(1821)、日尾八幡神社の神官三輪田清敏の長男として生まれ、名を常貞、号を米山と称した。十七歳の頃、書を学んだが、二十五~六歳の頃、習っていた明月上人の書が王義之に基づくことを知り、王義之の法帖を深く学び、ついに独自の書法を窮めた。六十歳で日尾八幡神社の注連縄石に書いた「鳥舞、魚躍」の字が絶賛を集め、以後数多くの書作を残した。その書風は豪放でエネルギーに満ち、とらわれのない造形美を現出している。米山は万葉集を始めとする古典和歌にも通じ、自ら作った歌数は五万首ともいわれる。明治四十一年(1908)、伊予で没した。墓標の文字は、生前自ら筆をふるったものである。

 

(常信寺)

 常信寺は持統天皇四年(690)、勅令により建立された神宮寺が起源である。寛永十二年(1635)、松山藩主となった松平定行が現在地に移転し、寺号を常信寺と改めた。境内には松平定行の霊廟がある。

 幕末の松山藩主久松定昭は、鳥羽伏見に藩兵を率いて幕軍に加わったため、戦後朝敵として追討を受けた。定昭は、慶応四年(1868)五月、藩主を辞して勝成に譲り、自らは常信寺に謹慎した。ようやく咎を許され、蟄居を命じられた。

 

常信寺

 

 常信寺墓地では、藤野正啓の墓を探したが、代わりに正啓の実弟にして養子となった藤野漸の墓を発見した。正啓の墓は、東京谷中にあるので、そちらに改葬もしくは集約されたのであろう。

 

久松家(松平定行)霊廟

 

藤野漸之墓

 

 藤野漸は天保十三年(1842)生まれ。能楽師。五十二銀行(現・伊予銀行)の創立・経営にも関わり、のち二代目頭取にも就いた。妻十重は、正岡子規の母八重の妹で、子規とは叔父・甥の関係である。子に俳人藤野古白がいる。大正四年(1915)没。

 

(寶塔寺)

 寶塔寺には、奥平貞幹、三上是庵の墓がある。

 

寶塔寺

 

奥平君諱貞幹墓表

 

 奥平貞幹は、松山藩士で、江戸末期の農政家。通称は三左衛門、月窓と号した。藩校明教館で学んだ後、周桑、久万山、和気郡の代官を歴任し、大きな業績を残したが、特筆されるのは、和気郡における大可賀新田の開発といわれる。嘉永四年(1851)、温泉郡の税収減少に対処するため、同郡別府、吉田両村の海岸地域の干潟に着目し、山西村庄屋の一色義十郎に干拓工事を担当させ、安政五年(1858)には約五十町歩の大可賀新田を開いた。また、第二次長州征討の事後処理にあたり、慶応二年(1866)、周防屋代島で長州の林半七と和議交渉を行った。この時の記録は「月窓之巻」として残されている。明治十五年(1882)、年六十五で没。

 

是庵三上先生墓

 

 三上是庵(ぜあん)は松山藩士。崎門派儒者である。文政元年(1818)に生まれ、十八歳、二十六歳の二度、江戸に遊学して崎門学を学んだ。二十六歳の時、梅田雲浜、吉田松陰と往来して時局を論じた。のち綾部藩の九鬼氏、田辺藩の牧野氏に仕えたが、慶応三年(1867)に松山に帰り、藩主松平定昭の顧問となった。王政復古後の戊辰の役では、恭順論を唱え、それに従った藩主父子は城を出て謹慎したので、土佐藩兵が松山藩領に進駐した時に、何の変事も起きなかった。明治四年(1871)、三上学寮という私塾を開き、後進の指導に当たった。明治九年(1876)、病のため没した。

 

(龍泰寺)

 

龍泰寺

 

 龍泰寺周辺は寺院が密集する松山市の寺町である。龍泰寺は、近藤名洲らを生んだ近藤一族の菩提寺である。

 

近藤名洲先生之墓

 

南洋近藤先生墓

 

南崧近藤先生墓

 

 近藤名洲は寛政十二年(1800)の生まれ。文政二年(1819)、松山城下の心学者田中一如に入門。のち江戸の大島有鄰について石門心学を学んだ。文政十二年(1829)以降、松山藩の藩主、家中、郷、町一円にわたって道話を行ったばかりではなく、遠江、播磨、備後、周防、伊予大洲、新谷など他藩にも招かれて出講した。弘化元年(1844)、師の没後、松山心学の六行舎教授を継いで、幕末混乱期の庶民教育にも尽くした。長子南洋、三子南州ともに藩校教授となった。二子南崧(なんすう)は家学を継いで地方教育に貢献した。明治元年(1868)、年六十九で没。

 

(龍穏寺)

 

龍穏寺

 

厳正鈴木府君之墓(鈴木重遠の墓)

 

 龍穏寺はロシア人墓地の向かい側にある。墓地には新しい墓石が並ぶが、その中の鈴木家墓地内に鈴木重遠の墓がある。

 

 鈴木重遠は、文政十一年(1828)、江戸の松山藩邸に生まれた。諱は重遠。法名は「厳正院温故重遠居士」。嘉永六年(1853)以降、蘭学を修め、開国論を唱えた。安政四年(1857)、奉行に挙げられ、藩財政を管理し、神奈川砲台築造に功があり、文久三年(1863)、家老に抜擢された。以来、藩主久松勝昭、定昭のもとで、危機に直面した藩政の企画運営に当たった。慶應四年(1868)、朝敵となった藩内で主戦論を唱え、免職閑居の処罰を受けた。のち赦され藩の執政・大参事に挙げられ、藩政改革に功をたてた。明治四年(1871)、廃藩と同時に免官。明治十一年(1878)から明治二十年(1887)まで、海軍省属官として横須賀造船所に勤務。明治二十一年(1888)からは改進党員として、愛媛県内の大同団結運動を指導した。明治二十三年(1890)以降、愛媛県より四回にわたって代議士に選出され、明治二十五年(1892)には全院委員長に推された。晩年、神鞭知常らと対露同志会を結成した。明治三十九年(1906)、七十九歳で没。

 

(蓮福寺)

 粟井河原の蓮福寺に久米駿公の墓を探したが、本堂裏手の墓地は、比較的新しい墓石ばかりで完全に空振りであった。

 

蓮福寺

 

 久米駿公は文政十一年(1828)の生まれ。諱は政声、駿公は字である。父は松山藩士籾山資敬。のちに久米政寛の養子となった。幼時より聡明で学識非凡であったため、嘉永四年(1851)以降、松山藩世子久松勝成の小姓となった。嘉永六年(1853)の米艦渡来の際、世界の大勢を説き。近隣と相往来すべきとする「隣交論」を著わして、ひとり平和外交を主張した。雅号「知彼斎」を称したが、彼の進取的気分を表している。藩から長崎遊学の特命を受け、素志を果たす機会を与えられたが、安政二年(1855)、果たせず病死した。年二十八。

 

(高縄神社)

 松山市宮内は、旧北条市に属するが、平成の大合併で松山市に吸収された。

 

高縄神社

 

縣社高縄神社

 

 松山市宮内の高縄神社の鳥居前に建つ「縣社高輪神社」の石碑は西園寺公望の筆。西園寺が文部大臣兼外務大臣の時、明治二十九年(1896)の揮毫。西園寺の揮毫は、松山出身の加藤拓川(恒忠 正岡子規の妹リツの養子となり、正岡家を継いだ人)の尽力によるといわれる。

 

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今治 Ⅱ

2022年01月15日 | 愛媛県

(観音寺)

 

観音寺

 

 観音寺で菅周庵の墓を探したが、発見に至らず。菅家の墓は三~四つ見つけたのだが…。

 

 管周庵は文化六年(1809)、今治藩医の家に生まれた。幼少の頃から貫名海屋について儒学を学び、弘化年間には上坂して緒方洪庵について蘭学を、高橋執洲について医術を修めた。このころ洋医が来朝して種痘の術を伝えたので、周庵も長崎に遊学し、親しくその術に習熟して帰藩した。嘉永二年(1849)から藩民に施術した。これがこの地方における種痘の初めであり、以降種痘は藩内一円に普及して明治に及んだ。明治二十六年(1893)、年八十五で没。

 

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小松 Ⅱ

2022年01月15日 | 愛媛県

(仏心寺)

 

仏心寺

 

 仏心寺は、小松藩の二代藩主一柳直治により、その父初代藩主直頼の七回忌にあたる慶安三年(1650)に、一柳家代々の菩提寺として建立された。江戸時代を通じて境内の拡充が図られ、明治以降も小松藩ゆかりの建物が移築されている。

一時間近く墓地を歩き回った。仏心寺墓地には、中央の参道のほか、東西にも道があって、念のため三つの道を全て歩いたが、ついに一柳家の墓所を発見できなかった。汗だくになって、その上、蜘蛛の巣まみれになったが、空しく引き上げることになってしまった。多分、墓の行き当りをさらに奥に行かなくてはいけないのだろうが、背の丈ほど伸びた雑草に行く手を阻まれて途中で断念してしまった。この季節はこの雑草の壁を乗り越えるのは困難である。この先に間違いなく一柳家の墓所があることが分かっていれば、頑張る気力もわいたのだが…。来訪者のためにせめて何らかの案内を出しておいて欲しいものである。

 

山門

 

 山門も小松藩陣屋の遺構である。正面の「圓覚山」の扁額は、一柳直卿(頼徳)の御真筆の奉納額である。

 

御霊屋門

 

 御霊屋門は、元藩主墓所に通じる参道に建てられていたもので、やはり明治になって仏心寺に移された。鴨居には、小松藩主の御紋「丸之中二重釘抜紋」がはめ込まれている。

 

桜門

 

元山源太墓

 

 中央の墓地参道入口を入ったところに、元山元太の墓がある。元山源太は慶應四年(1868)、奥羽に出陣して戦死。十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、小松藩唯一の戦死者で、慶応四年(1868)八月二十八日、羽越境高畑越で戦死、十九歳とある。

 墓石の前に献香石には、北越に出兵した同僚二十一名の名前が刻まれている。

 

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新居浜 Ⅲ

2020年12月05日 | 愛媛県

(瑞応寺)

 瑞応寺は、住友家や別子銅山と所縁の深い曹洞宗の禅寺である。別子で発生した火災や水害の犠牲者の墓などがある。本堂左手の長泉堂には、別子銅山の殉難者を祀っている。

 

瑞応寺

 

別子銅山殉難流亡者碑

 

 この石碑を求めて瑞応寺を訪ねること少なくとも四回、ひょっとしたら五回に及んだ。この日は朝一番で新居浜駅まで行って、そこでレンタサイクルを調達して、汗だくになって訪問してやはり行き当らず。夕刻、仕事を終えて出直し、お寺の受付にいた女性に尋ねて、女性が「詳しい人」に電話をして確認してくれて、ようやく場所が分かった。瑞応寺に隣接するひかり幼稚園の西側から山に入ると、その西側に住友金属鉱山㈱別子事業所が管理する墓地が広がっている。宝篋印塔の右側から登っていくと、そこに鉱山殉難者の墓地があり、そこに建っている。ようやく行き着くことができて感無量であった。

 

 この碑は、明治三十二年(1899)の台風で別子銅山関係者が五百人以上も亡くなった慰霊の碑である。その三周忌に建立され、法要が営まれた。住友別子工業所はこの大災害を受けて、新居浜に移転した。撰文は西園寺公望の実弟住友吉左衛門。西園寺公望筆。明治三十四年(1901)八月建立。

 

(正法寺)

 有り難いことに新居浜駅前の駐輪場でレンタサイクルが始まった。朝六時半にホテルの近くのバス停からバスで駅に移動する。貸し切りであった。

 仕事を終えて、正法寺に向かった。ホテルから大生院の正法寺まで距離にして七・五キロメートルもあり、しかも緩やかな上りとなる。自転車で正法寺に到達したときには、汗がしたたり落ちた。

 

石鉄山正法寺

 

近藤篤山詩碑

 

 新居浜市大生院にある正法寺は、「小松聖人」とも称される近藤篤山が訪れた寺院である。寺の駐車場に近藤篤山の詩碑が建てられている。

 

大生院山下偶成

 

 渓水清如玉

 鏘々咽石鳴

 不妨只濯足

 山客無冠桜

 

 

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川之江 Ⅱ

2020年01月11日 | 愛媛県

(かわのえ西川ふれあい塾)

 JR川之江駅から七~八分北上すると、国道11号線の手前に旧讃岐街道が走っている。郵便局の隣が本陣跡である。

 門には「謹敕之風」という文字が掲げられている。「謹敕之風」は尾藤二洲が近藤篤山の開いた塾のことを評価した言葉で、つつしみ深く自らを戒める良風という意味である。

 

かわのえ西川ふれあい塾

 

「謹敕之風」 篤山塾

 

御本陣跡

 

 実際の近藤篤山塾の位置は、本陣跡から西に二十メートルほど行った場所である。

 

(近藤篤山塾跡)

 

 

近藤篤山塾跡

 

 天明八年(1788)、大阪に出た近藤篤山は、同郷の尾藤二洲から儒学を学び、二洲が江戸に移った後、大阪で塾を開いた。寛政六年(1794)、江戸に移って再び二洲の下で学んだ。寛政九年(1797)、江戸での修学を終えて別子山に戻り、翌寛政十年(1798)、川之江で塾を開いた。川之江の塾は、篤山が伊予小松藩に招かれるまで五年間続いた。

 

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土居

2020年01月11日 | 愛媛県

(近藤篤山生家跡)

 JR予讃線伊予土居駅から十分ほど東に歩くと、近藤篤山生家跡がある。

 近藤篤山は、明和三年(1766)、この地に生まれた。父は高橋甚内。近藤家の元の姓は高橋で、先祖は北九州岩屋城主だったというが、信長・秀吉の時代、島津家に滅ぼされ、この地に流れて定住したと伝えられる。

 

                       

近藤篤山先生生誕之地

 

 

近藤篤山の生家

 

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