職場の同僚が外部のセミナーに参加して、本書を土産としてもらって戻ってきた。
「私は読みませんけど、良かったらどうぞ」
と、無料(ただ)で手に入れることができた。
2024年発行予定の新一万円札に渋澤栄一の肖像が採用されることが発表されて以来、渋澤栄一がちょっとしたブームになっており、渋澤栄一関連本が矢継ぎ早に発刊されている。本書がブームに乗っかったそこいらの本と異なるのは、栄一の実子の手によるもので、昭和四十年(1965)に刊行された本の新装版なのである。身近で生活していたからこそ描けるエピソードがふんだんに盛り込まれており、人間渋澤栄一の実像が伝わってくる。
栄一は一橋慶喜に仕え、幕臣として維新を迎えたため、佐幕派とみられがちであるが、一橋家に仕えるまでは過激な攘夷派であった。文久三年(1863)には、従兄の尾高新五郎や渋沢喜作らと高崎城を乗っ取る計画を立て、そのために武器などを密かに収集した。
その折、従兄の尾高長七郎が人を斬って投獄されたという凶報が京都にいる栄一と喜作のもとに届いた。長七郎は、栄一や喜作からの書状を所持していたといい、いずれ二人の身にも捕吏の手が及ぶ恐れが高くなった。
その時、平岡円四郎から一橋家の家来にならないかと誘いを受けた。喜作は「幕府を倒そうという我々が、命惜しさに一橋家に仕えるというのは変節としか見えない。だから仕官を断ろう」と考えた。これに対して栄一は、節を屈しないというのはただの自己満足に過ぎない。牢に入れられたのでは倒幕も何もあったものではない。思い切って仕官しようと主張した。結局、栄一の説得が上回り二人は一橋家に仕えることになるのだが、この辺りの現実的で柔軟な思考が、いかにも栄一らしい。
これは想像に過ぎないが、一時の損得よりも、政権に近い場所で己の手腕を試せるという舞台に栄一は魅力を感じたのではないか。もっと平たくいえば、一橋家にお世話になる方が「面白い」と考えたのかもしれない。確かに、ここで一橋家に飛び込んだことが、その後の大きな飛躍につながったのである。
維新後の渋澤栄一は、実業家として成功した。実業家としての栄一の姿勢を端的に物語っているのが、三菱に対抗して設立した共同運輸会社設立である。
事業は才腕ある人物が独占的に経営しないとうまくいかないという「独占主義」を主張する岩崎弥太郎と事業は国利民福を目標とすべきであり、大衆の資金を集めて賢明に運営し、利益を大衆に戻さなくてはならないとする「共栄論」を掲げる栄一とは、真っ向から衝突した。
当時、三菱汽船会社が独占していた近海航路に、共同運輸はなぐりこみをかけた。二大汽船会社の競争は、三菱と親密な関係をもつ大隈重信率いる改進党と自由党との政争に発展して激しさを増した。
その争いの中、一時岩崎弥太郎は体調を崩したが、そこから回復するや、共同運輸の株式を買い占め、三菱と共同の合併を画策し、両社の争いはここに決着がついた。明治十八年(1885)、両社は合併し日本郵船会社となった。
このような手痛い失敗もあったが、栄一の「道徳経済合一」論は生涯を通じて変わらなかった。今でこそCSRだのESG投資だのと、企業活動における社会貢献が当たり前のように語られるようになったが、渋澤栄一は百年も前からそれを実践していたのである。このタイミングで新しいお札の顔に栄一が選ばれたのも必然性があったということかもしれない。
著者秀雄は栄一の四男。栄一五十二歳のときの子供である。東京帝国大学法科在学中、嫌いな法律の勉強をやめて、文科に移り、フランス文学を専攻したいと訴えたそうである。ところが、栄一に「拝み倒され」母に泣きつかれて思いとどまった。著者は「ふだん尊敬している父の文学的無理解、無知識に唖然とした」と告白している。全編を通じて父への敬愛が感じられる中で、唯一批判的なことが書かれている部分である。
ちょうど今、我が息子娘も就職活動中である。親として「こちらの道に」と口を出したくなるのはやまやまであるが、決して介入しないように自ら戒めている。親に言われたコースを進んで、後悔するのは本人である。自分で選んだ道であれば、自己責任と納得することもできよう。
著者は、日本興行銀行を皮切りに田園都市株式会社の役員として高級住宅街の宅地開発などにも活躍した。戦後は実業の世界とは距離をおき、随筆に注力した。さすがに若い頃に文学を志しただけあって、氏の文章は、分かりやすくて面白い。文学の世界に進んでも一流だったであろう。昭和五十九年(1984)、父栄一と同じ九十一歳で死去した。