史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「澁澤榮一」 澁澤秀雄著 時事通信社

2020年02月29日 | 書評

職場の同僚が外部のセミナーに参加して、本書を土産としてもらって戻ってきた。

「私は読みませんけど、良かったらどうぞ」

と、無料(ただ)で手に入れることができた。

2024年発行予定の新一万円札に渋澤栄一の肖像が採用されることが発表されて以来、渋澤栄一がちょっとしたブームになっており、渋澤栄一関連本が矢継ぎ早に発刊されている。本書がブームに乗っかったそこいらの本と異なるのは、栄一の実子の手によるもので、昭和四十年(1965)に刊行された本の新装版なのである。身近で生活していたからこそ描けるエピソードがふんだんに盛り込まれており、人間渋澤栄一の実像が伝わってくる。

栄一は一橋慶喜に仕え、幕臣として維新を迎えたため、佐幕派とみられがちであるが、一橋家に仕えるまでは過激な攘夷派であった。文久三年(1863)には、従兄の尾高新五郎や渋沢喜作らと高崎城を乗っ取る計画を立て、そのために武器などを密かに収集した。

その折、従兄の尾高長七郎が人を斬って投獄されたという凶報が京都にいる栄一と喜作のもとに届いた。長七郎は、栄一や喜作からの書状を所持していたといい、いずれ二人の身にも捕吏の手が及ぶ恐れが高くなった。

その時、平岡円四郎から一橋家の家来にならないかと誘いを受けた。喜作は「幕府を倒そうという我々が、命惜しさに一橋家に仕えるというのは変節としか見えない。だから仕官を断ろう」と考えた。これに対して栄一は、節を屈しないというのはただの自己満足に過ぎない。牢に入れられたのでは倒幕も何もあったものではない。思い切って仕官しようと主張した。結局、栄一の説得が上回り二人は一橋家に仕えることになるのだが、この辺りの現実的で柔軟な思考が、いかにも栄一らしい。

これは想像に過ぎないが、一時の損得よりも、政権に近い場所で己の手腕を試せるという舞台に栄一は魅力を感じたのではないか。もっと平たくいえば、一橋家にお世話になる方が「面白い」と考えたのかもしれない。確かに、ここで一橋家に飛び込んだことが、その後の大きな飛躍につながったのである。

維新後の渋澤栄一は、実業家として成功した。実業家としての栄一の姿勢を端的に物語っているのが、三菱に対抗して設立した共同運輸会社設立である。

事業は才腕ある人物が独占的に経営しないとうまくいかないという「独占主義」を主張する岩崎弥太郎と事業は国利民福を目標とすべきであり、大衆の資金を集めて賢明に運営し、利益を大衆に戻さなくてはならないとする「共栄論」を掲げる栄一とは、真っ向から衝突した。

当時、三菱汽船会社が独占していた近海航路に、共同運輸はなぐりこみをかけた。二大汽船会社の競争は、三菱と親密な関係をもつ大隈重信率いる改進党と自由党との政争に発展して激しさを増した。

その争いの中、一時岩崎弥太郎は体調を崩したが、そこから回復するや、共同運輸の株式を買い占め、三菱と共同の合併を画策し、両社の争いはここに決着がついた。明治十八年(1885)、両社は合併し日本郵船会社となった。

このような手痛い失敗もあったが、栄一の「道徳経済合一」論は生涯を通じて変わらなかった。今でこそCSRだのESG投資だのと、企業活動における社会貢献が当たり前のように語られるようになったが、渋澤栄一は百年も前からそれを実践していたのである。このタイミングで新しいお札の顔に栄一が選ばれたのも必然性があったということかもしれない。

著者秀雄は栄一の四男。栄一五十二歳のときの子供である。東京帝国大学法科在学中、嫌いな法律の勉強をやめて、文科に移り、フランス文学を専攻したいと訴えたそうである。ところが、栄一に「拝み倒され」母に泣きつかれて思いとどまった。著者は「ふだん尊敬している父の文学的無理解、無知識に唖然とした」と告白している。全編を通じて父への敬愛が感じられる中で、唯一批判的なことが書かれている部分である。

ちょうど今、我が息子娘も就職活動中である。親として「こちらの道に」と口を出したくなるのはやまやまであるが、決して介入しないように自ら戒めている。親に言われたコースを進んで、後悔するのは本人である。自分で選んだ道であれば、自己責任と納得することもできよう。

著者は、日本興行銀行を皮切りに田園都市株式会社の役員として高級住宅街の宅地開発などにも活躍した。戦後は実業の世界とは距離をおき、随筆に注力した。さすがに若い頃に文学を志しただけあって、氏の文章は、分かりやすくて面白い。文学の世界に進んでも一流だったであろう。昭和五十九年(1984)、父栄一と同じ九十一歳で死去した。

 

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「水戸藩・戊辰の戦跡をゆく」 鈴木茂之夫著 暁印書館

2020年02月29日 | 書評

またまた古本。昨秋から買い込んだ古本を読んできたが、これで一段落。

本書の奥付によれば、筆者は水戸在住、元学校の先生で郷土史家。本書は昭和六十一年(1986)の発刊なので、今からざっと三十五年も前の本ということになる。何か未踏の史跡情報を入手したいと思ってこの本を購入した。しかし、本書で紹介されている史跡も時間の経過とともに残念ながら消失してしまっているものも多い。

たとえば出雲崎の吉田松陰滞留宿所。これは発刊当時、建物も残されていたようだが、今や跡かたもない。

幕艦順動丸のシャフトもかつて寺泊(現・新潟県長岡市)に展示されていたようだが、今となってはどこに保管されているのか、どうすれば見ることができるのか不明である。順動丸というのは、幕府がイギリスから購入した蒸気軍艦である。文久二年(1862)には将軍家茂の摂海沿岸視察にも使用された。このとき海舟の案内で急進的攘夷派といわれた姉小路公知も乗船した。これを契機に姉小路は攘夷論を捨て、これが直後の姉小路の暗殺(朔平門外の変)に繋がったとされている。

順動丸は、その後軍艦というより輸送船として活躍し、慶応四年(1868)五月、新政府海軍の攻撃を受けて寺泊沖で座礁・自爆した。

もちろん、本書を通じて新たに知った戊辰戦跡も少なからずあった。

なお、どうでもよいことながら、本書二十六ページに「(岩倉)具視は、かつて過激な尊攘派が受難した文久三年(1863)の「八月十八日の政変」で蟄居となり、しばらく洛外に退去していた」と記載されているが、これは明らかな誤り。岩倉は和宮降嫁を積極的に推進したが、このことが尊攘派から佐幕的とみなされた。蟄居処分を受けたのは八一八政変の一年前、文久二年(1862)のことで、追い打ちをかけるように辞官、出家を命じられた。

読み進めているうちに、筆者が諸生党贔屓だということは何となく伝わってくる。「結び」に至って「落ち目になっている者を、居丈高になって突き飛ばすような姿勢には、どうしても判官びいきにならざるを得ない」「権威をバックにしてかかる強者の、弱者に対するみにくい態度が、戊辰戦争の中には、数多く見受けられる」「もし、薩・長側が、おごることなくこの場に対処したなら、この戦争はかくも悲惨な状況を各地に拡散させることはなかったであろう」と、薩長の態度を批判している。確かに錦の御旗のもとに、時に西軍は成り上がり者特有の傲慢さを隠せなかった。

人間は、勝ち馬に乗ったとき、あたかも自分が偉くなったような錯覚を覚えてしまうものである。そのとき、自分の姿を客観的に見ることは、相当難しいが、端からみて醜悪な人間にはなりたくないものである。

 

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「幕末長州藩の攘夷戦争」 古川薫著 中公新書

2020年02月29日 | 書評

も一つ古本。

本書の著者は下関出身の作家で、一昨年九十二歳でなくなった古川薫氏。下関攘夷戦争や四か国連合艦隊によるその報復戦の経緯をリアルに描く手腕は、作家ならではのものであろう。

元治元年(1864)、関門海峡を通過する外国の船舶をいきなり砲撃した長州藩の行為は、後世から見ればとんでもない暴挙といえるかもしれない。当然ながら、いわれなき攻撃を受けた仏・米・蘭の怒りは心頭に達した。

翌年、長州は四か国連合艦隊の砲撃を受け、下関沿岸に設けられた砲台は完膚なきまでに破壊された。これを機に長州藩は攘夷の無謀を知り、開国討幕に転じた。筆者によれば、長州藩の攘夷戦争は藩論を転換させる重要な転機となった。ペリー来航と並んで、我が国近代外交史の原点をなす歴史的事件と位置付けている。

この事件が外国側にもたらしたものの一つが賠償金三百万ドルという「切札」だったという指摘は慧眼といえよう。当時の三百万ドルとは、「五百トン程度の蒸気船なら百隻近く、もっと上等なものでも五十隻は買い得る」という莫大な金額であった。外国側は到底支払い不能と思われる賠償金要求を梃にして、幕府に開国政策(条約勅許と兵庫開港)を認めさせよう魂胆であった。ところが意外なことに、幕府はしぶしぶながら三百万ドルの賠償金支払いを約束したのであった。下関戦争の結果は、長州藩が予期しなかった方向に向かって、幕末の政局を大きく揺さぶることになったのである。

なお、三百万ドルの賠償金のうち、百万ドルは幕府が支払ったが、残りは明治政府が引き継ぎ、明治七年(8174)になってようやく全額を償了した。

本書では「余聞」という形で、筆者が四か国連合艦隊に鹵獲されてそれぞれ本国に持ち去られた長州藩の青銅砲の行方をレポートしている。この執念というのは、筆者が下関出身だという以外どこからきているのだろう。

四か国連合艦隊の講和といえば、高杉晋作がいきなり宍戸刑部という変名を用いて乗り出し、外国代表と丁々発止やりあったという逸話が有名である。特に彦島の割譲を求められた際には、日本書紀の講釈を滔々と語りだし、まるめこんだというエピソードはいかにも高杉晋作がやりそうなことで、歴史の名場面の一つとなっている。筆者はそもそもイギリスが彦島割譲を要求したのか否かということを検証している。「イギリスが独自に彦島租借を要求することはあり得ない」としながらも「彦島かどこかを租借したいというイギリス側の意向らしいものが漂っていたことは…疑いのないところ」としている。高杉晋作の大芝居が史実かどうかは確認できないが、仮にイギリスが租借のことを持ち出していたとしても、断固として拒絶したことは間違いなかろう。

「余聞」でもっとも面白かったのは、「奇兵隊日記」の元治元年(1864)八月五日から九日までの五日間が欠落になっている「謎」についてであった。おそらくこの部分には、赤根武人の活躍が詳しく記録されていたはずであるが、赤根の贈位に強硬に反対した山県有朋が破り捨てたのではないか、と筆者は「邪推」している。今となっては「暗部にしまいこまれた謎」としか言いようがないが、赤根のことになると一方的に非難し、憎悪を燃やす山県の異常な執念がことの背後にあるという「邪推」には説得力がある。

 

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「天皇親政」 笠原英彦著 中公新書

2020年02月29日 | 書評

またまた古本。

有名な五箇条の御誓文が発せられたのは、慶応四年(1868)三月十四日。とりわけ第一条「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」とした第一条は有名である。天皇親政という一種の独裁制と公議世論とは概念上相互に矛盾し、衝突するものであった。明治新政府は、矛盾を抱えたまま船出したのである。

本書には「佐々木高行日記にみる明治政府と宮廷」という少々長ったらしい副題が付されている。佐々木高行は「その風貌も手伝ってか、保守的で頑迷固陋な政治家であるとの印象がつきまとう」が、筆者によれば、彼の目は意外にも「早くから海外に開かれていた」という。佐々木は明治四年(1871)の岩倉使節団にも随行して外遊を経験し、各国の司法施設をこまめに視察している。その中で、やみくもに守旧的態度を固持したのではなく、「日本古来の伝統に根ざした政治の発展に」思いを馳せるようになった。彼自身も自嘲的に自らの思想を「頑固論」と称しているが、「漸進改革論」と呼ぶのが妥当であろう。生涯を通じて「漸進改革」は佐々木の変わらぬ主張であった。

長く明治天皇の君側にあって輔導に功績があったと言われるのが、熊本藩出身の儒学者元田永孚である。元田は佐々木の思想形成にも多大な影響を与えたし、天皇親政運動の理念的支柱でもあった。

明治十年(1877)十月、天皇の側近に陪侍する役職として新たに侍補の職が設けられた。この時、任官されたのが徳大寺実則、吉井友実、土方久元、元田、高崎正風、米田虎雄、鍋島直彬(なおよし)、山口正定ら。遅れて佐々木高行、建野郷三が任命された。天皇親政に向けて侍補らは次第に結束を固めていった。

翌明治十一年(1877)三月、佐々木は一等侍補に就任した。侍補の中でも、次第に元田と佐々木が指導的立場を占めるようになっていく。大久保利通を宮内卿に就けることにより天皇親政の実を挙げようという運動が、大久保暗殺によって頓挫すると、佐々木らは天皇に「馬術のみならず政治に関心を持つように」直訴した。侍補らの必死の上奏に天皇は涙ながらに改心を約束したという。

大久保宮内卿構想辺りから、侍補らの政治運動の主導権は、元田から佐々木に移行していた。所詮元田は学者であり政治力は高くなかった。そこに佐々木という政治力に富む人材を得て、彼に政治的な調整を委ねたというのが実態かもしれない。筆者が佐々木に注目した所以である。

伊藤博文が大久保のあとを継いで内務卿に就くと、侍補グループは有司専制批判を強めた。侍補らが人事にまで容喙したことで鮮明に対立するようになった。それは、欧化主義を進める伊藤と漸進主義の佐々木との対決でもあった。結局、政府は侍補職の廃止を決めた。それでも佐々木は、天皇からの厚い信任を背景に元老院や武官とも結んで政府を批判し続けた。佐々木の思想の根底にあったのは、薩長藩閥政治への反発であるが、それと同じくらい重みをもっていたのが民情安定であった。何よりも佐々木の政治運動に私利私欲を満たすことや自己の権力拡大といった要素がほとんど感じられず、それが彼の言動の説得力の背景にあるのかもしれない。

明治十四年(1881)十月、佐々木は参議兼工部卿に就任する。一連の佐々木の政治活動を猟官運動とする見方もあるが、筆者は「政府内部から改革を推進しようとしたに違いない」と好意的に見ている。佐々木らの「天皇親政論は、結果としてその後も明治国家体制の形成の上に深い痕跡をとどめることになった」と高く評価している。佐々木高行という、あまり目立たない人物の功績を浮き彫りにした一冊である。

 

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甲賀 Ⅱ

2020年02月22日 | 滋賀県

(水口宿)

 

水口宿本陣跡

 

明治天皇聖蹟

 

 水口は、城下町として発展したが、交通体系の整備に取り掛かった幕府は、東海道を整備してその要所の町や集落を宿駅に指定した。直轄地であった水口もこの時宿駅に指定され、東海道五十番目の宿場町として、明治初年まで賑わった。

 水口宿は、甲賀郡内の三宿中、最大規模を誇り、天保十四年(1843)の記録によれば、戸数六九二(うち旅籠四一)を数えた。旧街道を歩くと、今も往時の雰囲気を味わうことができる。

 

(常明寺)

 常明寺墓地に、森鴎外の祖父森白仙の供養塔が建てられている。

 森白仙は、津和野藩主の参勤交代に従って江戸にでたが、帰国の際に発病し、遅れて国もとへ戻る途中、土山にて病死した。万延元年(1860)十一月七日のことであった。亡骸は常明寺の墓地に葬られた。

 

常明寺

 

 森鴎外は、小倉在勤中の明治三十三年(1900)、軍医部長会議に出席するために上京の途中、土山に立ち寄り、常明寺で荒れ果てた祖父の墓を探し出し、時の住職に願って墓を境内に修した。その後、祖母きよが明治三十九年(1906)に、母ミネが大正五年(1916)に亡くなると、遺言により常明寺に葬られた。昭和二十八年(1948)、三人の墓は津和野の永明寺に移されたが、昭和六十三年(1988)に鴎外の子孫の手により常明寺に供養塔が建立された。

 

森白仙供養塔

 

(土山宿)

 土山は宿場町であると同時に幕府直轄地であり、勘定奉行配下の代官が陣屋を置いて統治していた。陣屋は、天和三年(1683)、当時の代官鵜飼次郎兵衛の時に建造された。その後、代官は多羅尾氏、岩出氏、そして天明二年(1782)には再び多羅尾氏に引き継がれた。寛政十二年(1800)の土山宿の大火災で屋敷は全焼し、以後再建されることはなかった。以来、陣屋は信楽に移って多羅尾氏の子孫が世襲して維新を迎えた。

 

土山陣屋跡

 

大黒屋本陣跡 土山宿問屋場跡

 

 土山宿の本陣は土山氏と豪商大黒屋(立岡氏)の両家が務めていた。土山本陣だけでは宿泊者を収容しきれなくなり、豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。大黒屋本陣の設立年代についてははっきりと分からないらしいが、もともと旅籠屋として繁盛していたようである。古地図によれば、大黒屋本陣は、土山本陣と同じように門玄関、大広間、上段間などをはじめ多数の部屋を備えた壮大な屋敷であった。

 

明治天皇聖蹟

 

土山宿本陣跡

 

 土山家本陣は、三代将軍家光が上洛する際、寛永十一年(1634)に設けられた。

 明治元年(1686)九月の明治天皇の行幸の際には、この本陣で満十六歳の誕生日を迎えられたため、ここで天長節が祝われた。土山宿の住民に神酒と鯣(するめ)が下賜された。

 幕末期に参勤交代が中止され、明治三年(1870)に本陣制度が廃止されたため、土山家本陣は十代目喜左衛門の時にその役割を終えた。

 

旅籠平野屋

 

 平野屋は、明治三十三年(1900)、森鴎外が祖父白仙の墓参のために宿泊した旅籠である。

 

森白仙終焉の地 井筒屋

 

 文久元年(1861)十一月、鴎外の祖父森白仙は井筒屋にて病死した。白仙は江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師であった。

 なお、森鴎外が明治三十三年(1900)に土山を訪れた時、既に井筒屋は廃業していた。

 

東海道伝馬館

 

 東海道伝馬館は、江戸時代の街道や宿場、宿駅伝馬制を論考する展示のほか、東海道土山宿の観光案内も手掛ける施設として、平成十三年(2001)にオープンした。私が訪れた年末は休館。門前に文豪森鴎外の土山来訪を記念した石碑がある。

 

文豪森鴎外来訪の地

 

(多羅尾代官屋敷跡)

 土山からたぬきの置物で有名な信楽の「陶芸の里」を抜けて、三重県、京都府との境に近い辺境にあるのが多羅尾である。かつてここは京都から伊賀へ抜ける「京街道」など主要道が通る要衝の地であった。

 多羅尾氏は、甲賀の武士で、本能寺の変の直後の「神君伊賀越え」の際、家康を警護した功績から、徳川幕府成立後に信楽四千石を与えられた。それから明治維新に至るまで信楽代官を十代にわたって務めた。

 

多羅尾代官屋敷跡

 

 陣屋跡は、私有地となっており、春と秋の年に二回に限り公開されているそうだが、無論私が訪れたときは立入禁止で、外から様子を伺うしかなかった。

 私事であるが、中学生の同級生に多羅尾君という姓の男がいて、「どうも彼は忍者の子孫らしい」という噂もあったが、彼自身が否定も肯定もしなかったものだから、今もって真実は不明である。

 この日は、湖南や草津の史跡も見て回ろうという欲張りな計画を立てていたが、雨は降りやまないし、カメラは忘れてしまったし、ここまで南下したら草津まで北上するのは億劫だし、ラジオの交通情報によれば草津インターは渋滞しているというし、すっかりくじけてしまった私は、国道307号線経由で宇治に抜けて、久御山に立ち寄ってそのまま京都に戻ってしまった。いつになく早く実家に戻ることになった。

 母が夕食の仕度をしていると、電話が入った。入院中の叔父(母の長兄)が逝去したという。九十四歳の大往生であった。直ぐに、母の実家に弔問に行くことになった。結果的には、史跡訪問を早く切り上げて正解であった。

 

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甲賀 Ⅰ

2020年02月22日 | 滋賀県

(真徳寺)

 

真徳寺

 

表門

 

 真徳寺の表門は、もと水口城内に所在した家老屋敷の長屋門だったものである。石高八〇~六〇石程度の中士の格式を表すもので、一部に改造が見られるものの、旧城下に残る数少ない遺構となっている。

 

(水口城)

 水口(みなくち)城は、寛永十一年(1634)、将軍徳川家光が上洛するのに伴い、宿館として築城されたものである。工事は小堀遠州ら作事奉行のもと、幕府直営で行われた。構造は平城で、堀に囲まれた本丸とその北側の二の丸から成る。本丸殿舎の建物構成は京都の二条城の類似している。堀には注水坑がないことから、別名碧水城と呼ばれる。

 家光上洛以後、番城として幕府の管理下に行かれ、天和二年(1682)に加藤明友が入封して水口藩が成立し、その居城となった。

 王政復古後、公卿邸の警衛を命じられ、反幕的気運の中で維新を迎えた。

 

史跡 水口城跡

 

 維新後、廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されたが、本丸の敷地のみは保存された。現在は水口高校のグラウンドが広がっている。平成三年(1991)、出丸に矢倉が復元され、水口城資料館として開館した。

 

水口城

 

(蓮華寺)

 蓮華寺には水口城の客殿玄関が移築されている。

 

蓮華寺

 

水口城御殿玄関

 

(大岡寺)

 

大岡寺

 

栗園中邨先生壽蔵碑

 

 中村栗園は、文化三年(1806)の生まれ、父は中津藩画員片山東籬。初め帆足万里について学び、ついで亀井昭陽の門に入った。弘化初年、篠崎小竹の推薦によって水口藩の儒員となり、藩儒中村介石の養子となった。藩校において学を講ずるも、腐儒たるに甘んぜず、時務を論じ志士と交わった。米艦来航後は、藩論沸騰したが、藩主は栗園を抜擢して政治に参与せしめたので、水口藩は幕末維新に際し藩論統一して向途を誤らなかった。明治元年(1868)、藩主加藤明実に召されて上京するや、率先東征の議を主張し、岩倉具視に頼って意見を大総督府に献言した。明治二年(1869)、版籍奉還によって明実が知藩事となると、大参事として藩政の改革を助けたが、翌年老を理由に致仕、自適に生活に入った。明治十四年(1881)、年七十六で没。

 

確堂中村先生之碑

 

 中村鼎五は天保三年(1832)の生まれ。確堂は雅号。十五歳で中村家に入り、十七歳で養父栗園に代わって学校および藩庁で書を講じた。同志の城多董、豊田謙次と往来し、栗園の命により天下の形勢を探り、藩内俗論党の巨魁を斬らしめた。また「靖康伝信録」を校訂翻刻して尊王教育に努めた。征長の役あるいは戊辰戦役では常に先鋒で活躍した。明治二年(1869)六月、藩制改正に当たり、学校督学となり、明治六年(1873)、太政官正院(修史館)に奉職した。明治十二年(1879)以来、埼玉県、滋賀県の学校にて教鞭をとり、明治十九年(1886)、京都に寓居した。明治三十年(1897)、年六十六で没。

 

従三位巖谷君之碑

 

 この碑は、水口出身で明治時代を代表する諸家、巖谷一六の業績を称えて、明治四十四年(1911)に建てられたものである。

 撰文は漢学者三島中洲、揮毫は一六とともに近代書道の確立に邁進した日下部鳴鶴、題額は一六らに大きな影響を与えた清国の金石学者楊守敬の手になる。

 

 

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日野

2020年02月22日 | 滋賀県

(西大路藩陣屋跡)

 

藩主市橋家邸趾

 

 日野町西大路の何もない空間が、かつての西大路藩の陣屋跡である。元和六年(1620)、越後三条から移封された大名市橋長政は、蒲生氏の旧城であるこの場所に藩庁を設け、仁正寺藩一万八千石を立藩した。文久二年(1862)、藩名を西大路に改称した。明治維新後の廃藩によって藩主や重臣は東京に移住し、御殿と呼ばれた藩庁は西大路村の朝陽学校などとなったが、大正五年(1916)、京都相国寺塔頭林光院に売却され、現在もそこに残されている。

 近江最大の彦根藩が長州再征に消極的であったため、西大路藩も慎重にその去就をはかり、戊辰戦争が起こると、新政府への恭順を決した。

 

(経王寺)

 

経王寺山門

 

廃藩後、陣屋の門を経王寺の山門として移築したものである。市橋家の家紋である割菱を屋根瓦に刻んでいる。

 

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東近江 Ⅱ

2020年02月22日 | 滋賀県

(御代参街道岡本宿)

 

御代参街道岡本宿 本陣跡

 

 東海道土山宿から中山道小幡(五箇荘町)までの九里(三十六キロメートル)の道のりを御代参街道と呼ぶ。江戸時代中頃より、天皇の大参として公家が、毎年正月と五月、九月に京都から伊勢神宮と多賀大社に詣でた。それにならって、宮家や諸国の大名小名やその家臣たちが参詣のためにこの道を通ったことから、このように呼ばれるようになった。

 岡本には、彦根藩主も利用した本陣のほか、問屋場、高札場なども整備され、現在は跡地にそれぞれ石碑が建てられている。

 

高札跡

 

醫者玄東(中島嘉兵衛宅)

 

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近江八幡 Ⅱ

2020年02月22日 | 滋賀県

(伊庭貞剛墓所)

 この日はレンタカーで滋賀県東部の史跡を回ることにしていた。事故による渋滞を抜けてやっとのことで第一目的地である伊庭貞剛の墓所に到着した。いつものようにカメラを持って墓の前に立ったとき、初めてバッテリーを置き忘れていたことに気が付いた。前夜、京都の実家で充電させてもらって、そのままにしていたのだ。

 仕方なくスマホで撮影することになった。普段、スマホを使って写真を撮ることがないので、ズームや明るさの調整の仕方が分からない。雨は降りやまないし、非常にストレスのたまる史跡探訪となった。

 

伊庭貞剛之墓

 

 伊庭貞剛の墓所は、西宿町の田んぼのなかにある。貞剛の墓は、夫人梅子の墓と並んでいる。

 

(いばecoひろば)

 西宿町に旧中山道沿いに伊庭貞剛の屋敷跡がある。伊庭家は近江守護職佐々木家の流れをくむ名家で、かつてこの場所に長屋門を構え、広大な屋敷を有していたが、現在建物は全て解体され、残された楠の巨木のみが往時を偲ばせてくれる。

 

伊庭貞剛翁生誕の地

 

伊庭貞剛屋敷跡

 

 伊庭貞剛は、弘化四年(1847)一月にこの地に生まれ、文久元年(1861)、十五歳のときに八幡町児島一郎の道場に通って剣を学び、二十一歳で免許皆伝を許されている。文久三年(1863)、尊王家西川吉輔の門に入った。明治元年(1868)二十二歳のとき、西川吉輔に招かれて上京し、京都御所警備隊士となった。さらに明治七年(1874)、北海道函館裁判所に勤務、明治十年(1877)には大阪上等裁判所に判事として転任したが、明治政府の方針に期待を持てず裁判所を辞した。明治十二年(1879)、大阪住友にいた叔父廣瀬宰平の薦めにより住友家に入社し、明治十三年(1880)には大阪本店支配人となった。

 明治二十七年(1894)、煙害問題解決のため、別子銅山支配人として新居浜に赴任。製錬所を沖合の四阪島に移転する計画を進める一方、荒廃した別子銅山周辺の山々に一大植林計画を立てて実行に移し、着任五年目の明治三十二年(1899)、製錬所の移転や植林に目途をつけて新居浜を離れた。明治三十三年(1900)、住友家総理事に就任したが、五十八歳にして全ての職を辞して石山の活機園に隠退した。大正十五年(1926)十月、八十歳の生涯を閉じた。

 

(武佐宿)

 伊庭貞剛の屋敷跡前の旧中山道を東に進むと宿場町武佐(むさ)に行き着く。湖東と八日市から伊勢を結ぶ、八風街道の分岐点に開かれた宿場町で、北に観音正寺、西に長命寺の観音霊場を控え、参詣客の往来も頻繁で、近江商人の通行も多かった。

 

武佐宿本陣下川家

 

武佐宿旅籠中村家

 

 文久元年(1861)十月二十二日、和宮は武佐宿で昼食をとった。

 本陣跡には昔の門と土蔵が残り、旅籠中村家は今も料理旅館を営んでいる。滋賀県下を走っていると、古い町並みをよく保存していることに感心する。保存度でいえば、京都を遥かに凌いでいる。観光客は競って京都に向かうが、もっと滋賀の史跡に目を向けても良いのではないか。

 

(根来陣屋跡)

 

 

根来陣屋跡

 

 中山道沿いの東老蘇(おいそ)公民館前の小路は古くから「陣屋小路」と呼ばれている。その突き当りに江戸時代根来陣屋があった。

 根来といえば、「鉄砲の根来衆」が有名であるが、根来衆は数々の戦功をあげて大和、近江、関東に領地を拝領し、三千四百五十石の大旗本となった。寛永十年(1633)には、東老蘇六百八十六石、西老蘇に十三石を与えられた。元禄十年(1698)、領地替えにより関東の千五百石と愛知郡上中野、野洲郡五条、安治、富波沢とを交換し、この時、当地に陣屋を設置し代官を置いた。東老蘇には、代々坪田恒右衛門家が在地代官を務めた。

 

(福生寺)

 

福生寺

 

福生寺の本堂は根来陣屋の書院を移築したものと伝わる。

 

(洞覚院)

 

洞覚院

 

大信院誓譽素琴弘宣禅定門(高田義甫の墓)

 

 高田義甫は、弘化三年(1846)の生まれ。伊庭貞剛と同じく西川吉輔の帰正館の門下生であった。幕末には尊王攘夷派として活動し、佐幕派の家老暗殺に関与した。維新後は実業家として活躍した。明治二十六年(1893)、年四十八にて没。

 

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膳所 Ⅲ

2020年02月15日 | 滋賀県

(茶臼山公園つづき)

 

芭蕉会館(膳所城本丸)

 

 茶臼山公園の一角に建てられている芭蕉会館は、膳所城の本丸隅櫓を移築したものである。この建物は、一旦料亭に移されたが、その後現在地に再移築されたという。幾度か改造の手が入っており、あまり城郭らしい雰囲気はないが、屋根の上に鯱が乗っているのはその名残である。

 

(別保墓地)

 別保の共同墓地に杉浦重剛とその父杉浦重文(蕉亭)の墓がある。墓地にはたくさんの墓が密集しているが、重文、重剛父子の墓は、頭一つ高くなっているので、すぐに発見できる。

 

蕉亭杉浦先生之墓(杉浦重文の墓)

 

 杉浦重文は、膳所藩の儒者。蕉亭と号した。

 

杉浦重剛之墓

 

(膳所城勢田口総門跡)

 御殿浜の住宅の前に膳所城瀬田口総門跡を示す小さな石碑がある。

 

膳所城勢田口総門跡

 

(若宮八幡神社)

 

若宮八幡神社

 

膳所城犬走門

 

 膳所城は明治三年(1870)に取り壊されたが、その際に建物の一部は市内各所に移築された。

 若宮八幡神社には犬走門が移築されている。大棟の背面に切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、正面向かって右側に脇門を設けている。門の規模としては普通であるが、各部材の木割も大きい堂々とした建造物である。屋根は本瓦葺き、大棟の両端に鯱と鬼瓦をあげ、軒丸瓦には旧膳所藩主の本多家の立葵紋が見られる。

 

(晴好雨竒亭址)

 

晴好雨竒亭址

 

 膳所の名金工師初代管次(奥村管次寿景)は、湖東目川出身。湖を一望するこの地に居を構え、金銀銅鉄器類をはじめ櫓時計、鉄砲などを製作した。頼山陽、貫名海屋などもしばしば来遊し、山陽により晴好雨竒亭と名付けられた。天保十一年(1840)、五十三にて病没。

 

(篠津神社)

 

篠津神社

 

 篠津(しのづ)神社の表門も、明治五年(1872)に旧膳所城の北大手門を移築再建したものである。門は高麗門形式で、屋根は本瓦葺きとなっており、瓦には本多家の家紋立葵が見られる。扉は内開きで、堅格子、腰部横板張りとなっており、脇門を備えている。

 高麗門は桃山時代の城門の特徴を備えており、この門もその時代のものと考えられている。

 

膳所城北大手門

 

(膳所神社)

 膳所高校の近くにある膳所神社にも、膳所城の城門が移築されている。この表門は、旧膳所城の二の丸から本丸への入り口にあったもので、明治三年(1870)の膳所城取り壊しの際に移築された。この門は、棟筋と扉筋が同一の垂直面にない薬医門である。脇に潜り戸を付けた頑丈なもので、城門として貫禄のあるものとなっている。

 

膳所神社

 

 膳所神社の祭神は豊受比売命(とようけひめのみこと)で、奈良時代の創祀と伝えられている。中世には諸武将の崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や秀吉夫人の北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っている。

 

膳所城二の丸門

 

(膳所城中大手門跡)

 

膳所城中大手門跡

 

 膳所神社から五~六十メートルほど東に行った交差点の角に「中大手門趾」と刻んだ小さな石碑がある。

 

(六体地蔵尊)

 

六体地蔵尊

 

 六体地蔵は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六道を絶えず錫杖をついて巡り歩き、衆生の憂慮を取り除くという役割を果たしている。墓地の入り口に建てられたもので、宝永三年(1709)建立とされている。

 

膳所城お椀倉

 

 六体地蔵を安置する建物は、藩に依頼して解体された城内お椀倉を下げ渡してもらったもので、方三間、屋根瓦には立葵の家紋を備えている。

 

(和田神社)

 

和田神社

 

 和田神社は、白鳳四年(664)の創祀というから、千三百年以上もの歴史を有する古社である。境内の大イチョウには、関ヶ原の大戦後、捕らえられた石田光成が繋がれたという言い伝えが残されている。

 表門は、藩校遵義堂の門を移築したもの。

 

藩校遵義堂門

 

(膳所城北総門跡)

 

膳所城北総門跡

 

 西の庄町の住宅前の膳所城の北総門があったことを示す石碑である。この日の自転車での大津市内探索はここまでである。

 

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