史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治大帝の誕生」 島薗進著 春秋社

2019年08月31日 | 書評

先日著者島薗進氏によるトーク・イベントに参加したばかりであり、そこで著者の主張は概ね理解しているつもりであったが、本書を読み終わってもその時感じたモヤモヤ感は残ったままであった。

明治四十五年(1911)、明治天皇の危篤の報が流れると、大衆は競うようにして二重橋前に集まり皇居を遥拝して、明治天皇の病気平癒を祈った。天皇の大葬の日、乃木希典夫婦が殉死したことが、明治天皇の神聖化を加速させた。明治天皇の死の直後、時の東京市長阪谷芳郎から明治神宮の創建が発案された。当初は疑義を呈する意見もあったが、結局反対派の声は影を潜め、ほぼ「満場一致」で明治神宮創建は決められた。いつしか明治天皇は大帝と呼ばれるようになったが、史上このように呼ばれる天皇は明治天皇以外にいない。

本書の副題である「帝都の神道化」の根拠はここにあるわけであるが、明治神宮ができたからといって、直ちに「神道化」とまで言えるのかというのが私のモヤモヤ感の一因である。筆者は宗教学、日本宗教史が専門であり、私などより遥かに宗教に詳しい方である。この方がいうのだから間違いはないのだろうけど。

宗教というと、何だか難しい教義があり、それを信じる人は必ず従う儀礼があるといったイメージだが、明治の頃も現代も神道が我が国の国家宗教になっているとは思えないのである。

ただし、明治から昭和の敗戦までの五十年ほど、我が国では天皇を絶対視する「天皇教」(これは私の勝手な命名)とでも呼ぶべき「宗教」が支配していた。本書に登場する表現でいえば、「天皇道」「皇道」である。これらは一般的に神道と呼ばれるは宗教とは別物のように感じるが、広義の神道に該当するらしい。ただし、国家神道というのではなく、どちらかというと「下からの神道」である。

「天皇教」「天皇道」「皇道」の芽生えは、明治天皇在位中から見られた。その時期は日露戦争前後であるが、その画期となる事件が大逆事件(明治四十三年(1910))である。事件は、幸徳秋水とその内妻管野スガらが、明治天皇の暗殺を計画したというものである。それに関与したという疑いで三十人近くが逮捕され、短い裁判の後、二十四名が処刑された。彼らの罪名は「大逆罪」である。事件や裁判の経過は国民に知らされることもなかった。逮捕・処刑された社会主義者、無政府主義者のほとんどが暗殺計画に関与していなかった。この事件の全貌が明らかになったのは第二次世界大戦後のことである。

現代の我々は、平気で人権無視をおこなう中国や北朝鮮に対して「とんでもない国」という印象を抱いているが、実はわずか百年前の我が国は中国や北朝鮮にも劣らない非人道国家だったのである。残念ではあるが、国家というものは一度滅亡の渕にまで追いやられないと、その体質(国体)を変えることはできないのかもしれない。

我々は今、自由と民主主義を謳歌しており、あたかもこれが当然のようになっているが、これも百年前は自由とは程遠い非民主主義国家であった。明治政府は、明治八年(1875)の新聞紙条例、讒謗律以来、言論統制を続けてきた。「神聖天皇崇敬の強制に抵抗することが難しくなっていく一つの転機」となったのが、大逆事件であった。

こういう時代に批判めいた声をあげるのは勇気のいることである。本書では、大逆事件の弁護団の一人であった平出修や森鴎外、徳富蘆花らを紹介している。

翻って現代の日本では、言論の自由が保証されている。つくづく良い時代、良い場所に生まれたと思う。しかし、一部の報道番組や平日の昼間に放送されているワイドショーなどを視ていると、大衆の思考を一定の方向に導こうとか、反対意見を封じ込めようという意図を感じるのである。本書で紹介されているように、明治神宮創建の声が上がった際に、ジャーナリスト石橋湛山は一人そこに異様なものを感じ取り、批判の目を向けた。湛山は明治天皇の偉大な事績を否定しようというのではなく、「一地に固定してしまうようなけち臭い一木石造の神社など建てずと、「明治賞金」を作れ」と主張した。湛山の主張は、今になって冷静に聞くと説得力のあるものであるが、当時はマスコミも大衆も一体となって「明治神宮創建」という「挙国一致のお祭り騒ぎ」にあった。湛山の主張は一顧だにされずに押し流されたが、少数意見にこそ聞くべき意見がある。少数意見であっても聞く耳を持つ社会であって欲しい。

 

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「徳川斉昭 不確実な時代に生きて」 永井博著 山川出版社

2019年08月31日 | 書評

斉昭というと「頑迷な攘夷主義者」というイメージが強い。「攘夷の巨魁」となった斉昭に天下の攘夷主義者の期待が集まり、実行不能な攘夷であっても幕府首脳はそれを無視するわけにもいかず、頭痛のタネになった。

一方、幕末の水戸藩における斉昭の存在は絶対的であった。安政五年(1858)、斉昭が幕府によって謹慎を命じられると、憤激した藩士ら(激派とよばれる人たち)は、一斉に水戸街道を上り小金宿に集結した。藩士の中には、激昂の余り腹を斬る者まで現れた。この時、集結した中には農民や神官までも含まれていたという。

これまであまり斉昭の前半生については知らなかったため、斉昭が幕末の水戸藩において絶対的な存在となった理由が分かっていなかったが、本書は若き日の事績に至るまで丁寧に解説しており、大いに理解が深まった。

斉昭が初めて藩主として水戸藩に帰った(「就藩」という)のは、天保四年(1833)の三月、三十三歳の時であった。藩主を継いだのが文政十二年(1829)であるから、それからほぼ四年後のことである。斉昭は熱心に領内を巡視し、暴風雨の後には資材高騰防止や復興のために資金を拠出するといった困民対策を実行した。

以下、斉昭の藩政改革を列挙すると、①江戸と水戸の藩士を交代制とし、江戸詰めの人員を大幅に削減した。②飢饉対応として常平倉を設置し、旱魃に備えて揚水機の図を出版、家臣を九州に派遣して米を買い付けさせた。③天保九年(1838)には領内総検地を断行し、藩収入の増加を実現した。④物産方をおき、従来の紙や蒟蒻、煙草のほか、馬産、陶器、製茶、硝子、蜜蜂、植林など新しい産業を興した。⑤藩士の知行所を指定し、そこから直接年貢を取り立てる方式に切り替えた(地方知行制)。⑥藩士の意識改革を狙った甲冑閲覧式を実施。神発流・大極陣といった砲術を創案。大砲の鋳造。家臣を地方に土着させ、有事に対応できる体制を整備(海防の強化)。⑦神仏分離政策。腐敗した僧侶を還俗させる等して僧侶を整理、寺院を統合整理する一方、梵鐘や仏具を供出させ大砲鋳造に充てた。一方で神道の振興策がとられた。⑧弘道館の設立(安政四年(1857))。医学館開設(天保十四年(1843))。郷校の設置。⑨牛痘の実施。⑩偕楽園の開園。偕楽園は、その名のとおり武士だけでなく、領内の庶民にも開放された。

斉昭が実行した改革や施策は、以上にとどまらない。地方知行制によって藩士を土着させ、海防を強化する等、それぞれの施策はお互いにリンクしたものであった。幕末の斉昭のイメージは、他人の忠告に耳を貸さない、言い出したら止まらない、悪く言うと「暴君」であるが、若き斉昭は領民のことを思って「仁政」を実行し、「言路洞開」を実践して改革派・門閥派両派の意見もよく聞く名君であった。

斉昭の改革は概ね善政と評価できるだろう。しかし、神仏分離策は後年の廃仏棄釈の前例となるファナテッィクな政策であった。この頃、僧侶の間では、法号を金次第で乱発し、布施が少ないと葬式を日延べするといった目に余る腐敗が横行していた。彼らに対する懲罰という意味合いがあったとしても、行き過ぎの観を否めない。当然ながら神社にはこの施策は歓迎された。雪冤のため続々と江戸に上った民衆の中に神官の姿があったのも、故の無いことではない。のちに桜田門外の変に参加した「桜田烈士」の中にも神官がいた。

幕閣は何を言い出すか分からない斉昭を恐れたが、同時に幕府への批判勢力である攘夷派の支持を集める斉昭を(適度に)幕府に取り込むことにも腐心した。

斉昭は「副将軍」としての意識から、幕府への建言を繰りかえした。天保五年(1834)には松前拝領と蝦夷地の防備強化を申し入れた。幕府は適当に受け流したが、天保九年(1838)には蝦夷地を「北海道」と定めて日本の国土であることを明確にし、家臣ともども移住して、築城、番所の設置、人数武士の配置、諸士の土着からアイヌの教化に至る精密な計画を考案していた。天保十年(1839)には「戊戌封事」と呼ばれる文書を新将軍家慶に提出している。ここでも斉昭は蝦夷地開拓を水戸家に任せてもらいたいと請願している。異国との交易を禁じ、異国船を直ちに撃ち払えと主張し、そのために堅固な大船を建造せよと説く。対外危機への対処から内政問題までに至る壮大な提案であったが、「現実的な切迫感に乏しく、総じて観念的な感じが強い」ものでもあった。

しかし、藩政改革の成功を背景に斉昭の声望は高まっており、幕府としても無視するわけにはいかなかった。幕府は斉昭を江戸に呼び、太刀、鞍鐙、黄金を授けて慰労した。

しかし、天保十五年(1844)には藩政に不審があるとして、斉昭に致仕・謹慎を申し渡した。これには領民たちによる猛烈な雪冤運動もありその年の内に解除された。弘化三年(1846)頃からは老中阿部正弘へ頻繁に書状を送り、海防強化について提言した。幕府が、斉昭の実子慶喜に一橋家を相続させ、有力な将軍候補としたのも、斉昭を幕府に取り込むための政略という側面もあった。

嘉永六年(1853)ペリーが来航すると、幕閣は斉昭を頼った。斉昭の回答は「衆議のうえお決めになるほかなかろう」という拍子抜けしたものであった。常日頃は強硬論を吐く斉昭であったが、、国家存亡の危機に瀕して常識的な意見しか思いつかなかったということかもしれない。折しも、将軍家慶は危篤の病床にあり、世子家祥(のちの家定)は心身薄弱で指揮をとれる状況になかった。自ずと斉昭に期待が高まった。斉昭は海防参与として幕政に直接関与することになった。ようやく長年の希望が叶ったのである。

斉昭は何が何でも攘夷を主張したわけではなく、内には和睦のことは封印して決戦の構えを号令し、外に対しては避戦の交渉を進めるという「内戦外和論」を唱えた。しかし、回答延引で固めていた幕府には受け入れがたいものであった。アメリカから和親条約締結を迫られると、斉昭は石炭の補給については長崎に限定、交易については三年間試験的に交易することを提案した。「攘夷の巨魁」として名声が確立していた斉昭には妥協的な提案ができなかったのである。日米和親条約が締結されると、斉昭は辞職を申し出た。

安政二年(1855)、安政の大地震により、それまで斉昭を輔翼し、「水戸の両田」と称された藤田東湖と戸田蓬軒(忠敞)が亡くなった。斉昭の傍若無人は、両田を失って以降、加速したともいわれる。

安政三年(1856)、ハリスが総領事として着任し、通商条約の締結の交渉が始まると斉昭の反対にかかわらず、幕閣は通商是認、ハリスの出府是認で固まっており、斉昭はまたしても参与辞任を申し入れることになった。

斉昭はそれで収まらなかった。幕府に「自分をアメリカに派遣しろ」と申し入れたかと思うと「老中に腹を切らせ、ハリスの首を刎ねるべし」と暴言を吐いた。この時分から斉昭は我がままな老人と化し、幕府首脳をてこずらせた。積年の鬱憤がたまっていたのかもしれない。両田を失って、斉昭を諫める側近がいなくなったともいわれる。ここには藩政改革に取り組んでいた当時の溌剌とした若き日の斉昭の姿はない。人は年齢を増すにつれて短気となり、権力を手に入れるに従って頑固になるものである。人間は時間の経過とともに変わることは避けられないが、できることなら良い方に変わりたいものである。

斉昭は、万延元年(1860)、蟄居処分が解けぬまま六十歳で世を去った。死後、「烈公」という諡号を贈られた。「公、夙に忠誠を秉り、深く夷狄之患たりことを慮り、威武を震耀し、以って英烈を揚ぐ」から引用されたものである。「英烈」というのは「すぐれたいさお」という意味らしいが、むしろ「はげしい」という意味で、斉昭に相応しい命名といえよう。

 

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「維新政府の密偵たち」 大日向純夫著 吉川弘文館

2019年08月31日 | 書評

密偵の存在は、まさに我が国の裏の歴史における暗部である。徳川幕府や大名は、忍者や隠密、御庭番と呼ばれる諜報員を駆使して情報戦を展開したが、この体質は確実に明治政府に引き継がれたのである。

明治新政府が成立すると、密偵は弾正台という組織下に置かれた。廃藩置県の際、弾正台が廃止されると、正院監部に移された。概ね明治十年(1877)頃までその体制が続いたという。

徳川将軍以来、権力者は西欧のキリスト教国が宣教師を送り込み、それを起点に次第に信者を増やし、やがて武力によってその国を乗っ取るのではないかと恐れていた。その恐怖心は、そのまま明治新政府にも引き継がれた。

密偵という、当人にしてみれば多少後ろめたさのある仕事を迷いなく遂行するには、それを上回る使命感と堅固な信念が必要であろう。大阪の宣教師ウィリアムズのもとに潜入した異宗徒掛諜者伊沢道一の報告書には随所にキリスト教への強烈な警戒感を見ることができる。通商を行う場所七カ所に英仏二人ずつの宣教師がいて、一年に十二人の信徒を勧誘したら、信徒は一年で三百六十四人になり、五年後には九百二十一万二千八百十二人になり、やがて「天祖の赤子」は尽きてしまう。「このままだと、数十年後には必ず全国に広がって、撮り返しがつなかいことになってしまうだろう。」と警鐘を鳴らしている。

伊沢は「大道の仇敵」「人民の楚毒」と言葉を尽くしてキリスト教を罵倒するが、一方で宣教師が布教に身命を擲つ姿を間近に見て「その志は金石のようだ」と感心している。

このようにして諜者が活動を展開している頃、欧米諸国との交渉の中で、新政府はキリスト教禁止を撤回せざるを得なくなる。明治六年(1873)二月、ついに切支丹禁制高札の撤去を布告することになる。活動の意義を喪失した諜者たちは辞職を嘆願した。筆者によれば、ただちにキリト教関係の諜者が廃止されたわけではなく、辞職申請書が提出された八か月後にようやく異宗徒掛諜者は全員が免職となっている。

関信三こと安藤劉太郎も、キリスト教の動静を捜索する密偵の一人であった。安藤劉太郎の実家は三河安休寺で、僧名を「猶龍」という本願寺派の僧侶であった。明治二年(1869)、大阪の洋学校に入り、翌年横浜に移ってアメリカ人宣教師ブラウン、ゴーブル、ヘボン、バラ、イギリス人宣教師のベヤリンのほか、ギダー、ブラインなど、後世にも名が伝わる著名な宣教師のもとに出没した。明治五年(1872)にはバラによって洗礼を受け、以降は晩餐・祈祷など、すべてキリスト教の方式に従って生活を送り、キリスト教宣教師に親炙することになった。

もちろん安藤劉太郎の受洗は監部の指示を得た上での「偽装入信」であったが、彼の真情はどうだったのだろう。

抜群の英語力を買われた安藤劉太郎は、関信三と名を変え、ヨーロッパに渡航した。帰国した関信三は、女子師範学校幼稚園の初代監事(今でいう園長)に就き、欧州で学んだ幼児教育を実践した。「幼稚園記」「幼稚園創立法」などの著書を残し、明治十三年(1880)、三十八歳で死去している。谷中宗善寺の墓は、積み木を重ねたユニークな形をしているが、これは幼児教育の先駆者であるフレーベルの墓を模したものだという。密偵安藤劉太郎と教育者関信三という一見すると真逆の道を生きたことになったが、彼の中では矛盾もせずに一貫した人生だったのかもしれない。

佐賀の乱以降、世情が騒々しくなってくると、政府は各地に盛んに密偵を派遣した。九州に派遣された木下真弘(梅里)は臨時雇諜者として白川県士族隈部楯蔵と宮崎八郎を使っている。宮崎八郎といえば、過激な反政府活動家である。このとき宮崎八郎がどういう活動や報告をしたのか不明であるが、現代風にいえば「二重スパイ」だったのかもしれない。

密偵といえば、個人的に直ぐに連想されるのは西南戦争前夜、川路利良が鹿児島に送り込んだ「西郷刺殺団」のことであるが、本書ではこのことは触れられていない。因みに、川路の建言により警察ができると、その警察が密偵機能を担うことになった。その後も組織や形を変えながら、我が国の密偵機能は脈々と受け継がれた。時代によって、政治結社、衆会、新聞、雑誌、その他出版物、さらには社会運動、社会主義、共産主義運動とそのターゲットを変えつつ、戦後の公安警察へと引き継がれた。

当然、闇の世界の証拠は隠滅される。彼らの足跡を追った筆者の苦労は並大抵ではなかっただろう。これで密偵の全てが明るみに出たというわけではないだろうが、筆者の労苦に敬意を表したい。

 

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日暮里 ⅢⅩ

2019年08月24日 | 東京都

(宗善寺)

 宗禅寺(台東区谷中1‐7‐31)の最寄り駅は地下鉄根津となる。コンクリート造りの本堂の西側に広い墓地が広がるが、お目当ての関信三の墓は、本堂の裏にある。

 

宗善寺

 

 

関信三之墓

 

 関信三の墓である。

 墓誌によれば、関信三は三河一色(現・西尾市)の安休寺に生まれ、僧猶龍と号した。京都高倉学寮に関係し、文久二年(1862)、東本願寺より長崎への派遣を命じられ、耶蘇教探索に従事した。その後、横浜弾正台諜者として明治五年(1872)まで活躍。墓誌には「謀者」と記載されているが、正しくは「諜者」。即ち密偵、現代風にいえばスパイである。

その頃、安藤劉太郎という変名を用いた。日本基督公会第一回受洗者として横浜海岸教会に名を連ねた(我が国二人目の受洗者という)。その後、現如上人に随行して欧州に留学し明治七年(1874)帰朝。以来、婦人教育者、幼児教育者として活躍した。明治九年(1876)、東京女子師範学校に我が国最初の公立幼稚園を創立して、その初代監事(園長)となり、「幼稚園記」「幼稚園法二十遊嬉」などを翻訳し、初期の幼稚園界に貢献した。明治十二年(1879)十一月四日、没。立方体の上に円球を乗せた墓石は幼稚園の創始者フレーベルと同型のもので、宇宙の完全な姿と人工の秩序との調和と表しているといわれる。

前半生は政府の密偵として活動したが、その中で宣教師と触れ合い、欧州での留学体験とも相まって、幼児教育に目覚めたのであろうか。明治七年(1874)以降の後半生は、前半生とは打って変わって幼児教育に貢献するものであった。まるで別人のような二つの人生を歩んだ人物である。

 

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国立 Ⅱ

2019年08月24日 | 東京都

(一橋大学)

 

                       

一橋大学

 

 この年になると身体のあちらこちらに悪いところが出てくる。心臓の不整脈は手術によって収まったが、持病である腰椎ヘルニアが再発し、歩くのにも難渋している。一方で腎臓にも異常値が見つかり定期的に通院を余儀なくされている。この日は腎臓内科での診療であった。二時間も待たされた上に、診察時間はわずかに五~六分。いつもながら、病院では時間を浪費する。

 ようやく病院から解放されたので、国立の一橋大学(国立市中2‐1)に渋沢栄一の胸像を見に行くことにした。

 一橋大学の図書館に入るには、入館標に閲覧する図書名を記入しなくてはならない。そのためパソコンで図書を検索する必要がある。少々面倒である。

 渋沢栄一の胸像は、大閲覧室に置かれていた。渋沢栄一が笑っている珍しい胸像である。大閲覧室は学生以外進入禁止であり、さらに撮影も禁止なので、さすがにオッサンがそこでシャッターを切るのは憚られた。場所を確認して撤退することになった。

 前庭にはいくつかの銅像がある。中には一橋大学の前身である東京商法講習所の所長を務めた矢野二郎の銅像がある。

 

 

矢野二郎先生像

 

 矢野二郎は弘化二年(1845)の生まれ。幕臣。英語を学んで外国方訳官となり、文久三年(1863)、遣欧使節団に随行した。帰国後、横浜に翻訳所を開いた。維新後、森有礼の推薦で外務省に入り渡米。一時駐米代理公使となった。明治八年(1875)、帰国すると外務省を辞し、森有礼が開設した商法講習所の初代所長となった。その後、商法講習所を継承した東京商業学校、高等商業学校(現・一橋大学)の校長を明治二十六年(1893)までつとめ、日本の商業教育の基礎を築いた。明治三十七年(1903)貴族院議員に勅選。明治三十九年(1906)、死去。

 

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南大沢

2019年08月24日 | 東京都

(首都大学東京)

 かつて都立大学と呼ばれていた首都大学東京は、平成三年(1991)に南大沢に移転し、平成十七年(2005)に改称した。先日、来年(令和二年(2020))には再び東京都立大学に戻すことが発表された。この改称には賛否両論あるようだが、一つ言えるのは名称の変更には慎重の上にも慎重さが求められるということであろう。他人事ながら再々変更などというみっともないことにならないよう願うばかりである。

 たまたま新聞で、首都大学東京南大沢キャンパスで「水野忠邦の江戸日記」という展示会を開催していることを知った。腰椎ヘルニアの痛みはあったが、「南大沢くらいなら」ということで出かけることにした(八王子市南大沢1‐1)。

 

首都大学東京

 

 首都大学東京には、牧野標本館という建物があり、植物学者牧野富太郎が収集した植物標本の整理と保存にあてている。標本数は実に十六万点にも上り、牧野標本館ではその一部を展示している。標本には、シーボルトが収集した標本の一部で、ロシアのコマロフ植物研究所から寄贈されたものも含まれ、本館入口で展示されている。

 

牧野標本本館別館

 

 「水野忠邦の江戸日記」展は、牧野標本館の向いにある別館で開かれていた。入場無料。

 首都大学東京では、水野家の膨大な文書を保管している。昭和二十七年(1952)、当時の付属図書館長故松平齊光氏(津山松平家)の友人である水野家当主水野忠款(ただまさ)氏より寄贈されたもので、その中から幕府老中として天保の改革を推進した水野忠邦関係の史料を展示するものである。

 忠邦の残した日記等を見ると、この人の極めて几帳面でストイックな人柄が伝わってくる。忠邦が老中に就任された文政十一年(1828)から弘化二年(1845)までの日記である「辛丑日簿」、天保の改革の最中に当たる公用日記である「壬寅日簿」は、いずれも一定の厚さで綴じられ、美しい崩し文字が連なる。得てして手書きの日記というのは、最初は丁寧に書き出すが、次第に字が乱れてしまいがちであるが、忠邦の文字は、まるで印刷したかのように乱れがない。天保の改革では、華美を禁じ、倹約を徹底したため、庶民に嫌われたが、いかにも忠邦らしい施策ともいえる。

 弘化二年(1845)、忠邦が引退すると家督は嫡子忠精(幕末に老中を務めた)が継いだ。同時に水野家は五万石から二万石に減封され、浜松から山形へ移った。このとき浜松では領民が酒を飲み、踊り明かして大喜びしたという。おそらく忠邦は領地では厳格な統制を敷き、領民は息の詰まるような生活を強いられていたのであろう。さらに水野家の転封に際し、御用金、無尽講をそのままにして山形に移ろうとしたため、これに激怒した農民らが打ち毀しを起こした。水野忠邦は、領地で相当怨嗟を集めていたと思われる。

 今回「水野忠邦の江戸日記」展を見て痛切に感じたのは、やはり崩し文字を読めないと史料がさっぱり理解できないということである。一度はギブアップしたが、もう一度勉強してみようと思いました。

 

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能代 Ⅱ

2019年08月17日 | 秋田県

(八幡神社)

 

八幡神社 

 

 

水門龍神社 

 

史蹟 末社龍神社拝殿明治元年戊辰奥羽鎮撫副總督澤三位為量卿参謀大山格之助桂太郎多賀谷家知勤王密議之所

 

 水門龍神社は、慶応四年(1868)、奥羽鎮撫副総督澤三位為量卿と参謀大山格之助、隊長桂太郎(後の内閣総理大臣)、能代檜山の多賀谷家知ら勤王の人たちが密議を交わした場である。

 

(萩の台墓地公園)

 八幡神社からさらに歩いて十分。寺院が集中する萩の台町に至る。この辺りの寺院の墓地は萩の台墓地公園に集約されている。この広大な墓地から戊辰戦死者の墓を見つけ出すのは、予想以上に大変な作業であった。約三十分歩き回って(しかもキャリーバックを引きずりながら)ようやく出会うことができた。

 

 

萩の台墓地公園

戊辰殉難者の墓

 

 右から瀧田喜蔵、吉田順吉、川崎庫之助、腰山兵治、濵名東吉の五名。

 瀧田喜蔵は、農兵隊長。明治元年(1868)九月二十日、羽後薬師森にて戦死。三十四歳。

 吉田順吉は、町兵隊長。明治元年(1868)九月二十日、羽後薬師森にて戦死。二十七歳。

 川崎庫之助は、卒。能代足軽。明治元年(1868)九月二十九日、羽後薬師森にて戦死。四十七歳。

 越山兵治は、卒。慶応四年(1868)八月十八日、羽後三哲山にて負傷。帰営後、十月十日、死亡。四十歳。

 濱名東吉(藤吉とも)は、能代足軽。明治元年(1868)九月十九日、羽後薬師森にて負傷。十月六日、死亡。十九歳。

 

(大森共同墓地)

 

 

官軍 松山與七郎之墓

 

 この墓のことも、竹さんの「戊辰掃苔録」に教えてもらった。竹さんは、どうやってこの僻地の共同墓地の墓を発見したのだろうか。墓地には松山家の墓が立ち並ぶが、その中の一つ、新しい墓石の影に隠れるように松山與七郎の墓がある。

 松山與七郎は、第一大隊夫卒。領内大森村の農。慶応四年(1868)四月二十三日、羽後塩越村にて戦死。五十三歳。

 

(楞嚴院)

 

 

楞嚴院

 

 煤田文八は、多賀谷長門家人。慶応四年(1868)八月十二日、羽後柄沢台にて戦死。

 

 

官軍秋田藩 煤田文八

 

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大館 Ⅲ

2019年08月17日 | 秋田県

(岩瀬 杉子沢)

 

岩瀬山戊辰戦争激戦跡                       

 

 岩瀬山付近も戊辰戦争では激戦地となった。

 慶応四年(1868)九月二日午前四時、楢山佐渡率いる盛岡藩兵は宿営地川口を出発し、羽州街道を西進して岩瀬付近に達し、ここで官軍と遭遇した。大山柏「戊辰役戦史」によれば、「岩瀬は低地に在って、その西端、即ち敵側(官軍)の鼻先に立派な高地がある。而して西から来た官軍に逸早くこの高地を占領されてしまったのである」。官軍側には、秋田藩兵のみならず、優良兵装の西国兵もいたため、形勢は官軍優勢で進んだ。盛岡兵は必死に反撃したが、正午近くには大勢は決定的になり、盛岡兵は撤退を開始した。

 

(外川原)

 外川原付近も岩瀬山同様、九月二日の戦闘で激戦地となった。

 

 

外川原

 

(早口)

 

 

高陣馬 戊辰戦争激戦跡

 

 高陣馬も戊辰戦争の激戦地となった。佐竹勢(久保田藩)は、佐賀藩と小城藩の援軍を受け、本道、板沢間道、中仕田間道の三道に分れて進撃した。慶応四年(1868)九月二日、本道山手の大館佐竹勢(佐竹大和隊、小城藩兵、佐賀藩兵など)は岩瀬山で楢山佐渡が指揮する南部(盛岡藩)軍と激戦となり(岩瀬会戦)、戦場は高陣馬山にも広がった。米代川の河畔を進んだ本道右翼勢は南部軍の貝吹長根からの攻撃に苦戦したが、板沢間道勢がこの南部軍を破ると、本道勢が優勢に転じ、岩瀬山の南部軍は敗走。戦闘は正午に終了した。

 

 この日の史跡探訪は以上で終了。腰椎ヘルニアの悪化で、腰から右脚にかけて激しい痛みがあったが、気が付いたら万歩計は二万六千をカウントしていた。これでまた腰椎ヘルニアが悪化してしまったかもしれない。

 

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大館 Ⅱ

2019年08月17日 | 秋田県

(石田ローズガーデン)

 

 

石田ローズガーデン

狩野良知・亨吉父子生家之跡

 

 大館市は忠犬ハチ公の故郷であり、市街の中心地には秋田犬会館がある。そのすぐ近くに石田ローズガーデンがある。この場所は、大館市初の名誉市民である故石田博英氏の私庭であったが遺族から大館市へバラが寄贈され、平成七年(1995)から市で管理することになった。ここには約五百種類ものバラが植えられている。私が訪れたとき、既にバラのシーズンは過ぎていたようだが、それでも目をひくような鮮やかな花を幾つか見ることができた。

 

 

バラ

 

 石田ローズガーデンの場所は、狩野良知、狩野亨吉父子の生家である。門の壁に「狩野良知・亨吉父子生家之跡」と書かれたプレートが嵌め込まれているほか、ローズガーデンの中にも「狩野良知・亨吉生家の跡」木柱が建てられている。

 

 

狩野良知・亨吉生家の跡

 

(大館市立栗盛記念図書館)

 かつて大館市立中央図書館と呼ばれていたが、現在は栗盛記念図書館と改名されている。図書館の前に狩野父子の顕彰碑が建てられている。

 


大館市立栗盛記念図書館 

 

狩野父子顕彰碑

 

 狩野良知は、文政十二年(1829)出羽国秋田郡大館町に生まれた。経世論「三策」は吉田松陰の心を動かし、松下村塾で刊行された。「三策」は儒教的王道政治の理想を当代に発揚した論策であった。明治二年(1869)、一家を挙げて本藩久保田(秋田)に移り、藩家老職軍事取調掛となり、藩政改革に参与した。廃藩後、秋田県の教育政務に従事し、明治七年(1874)、上京して内務省地方局事務取扱に務め、戸籍親族民籍の諸条例を立案した。明治十七年(1884)には、内務権少書記官となり、退官後は秋田育英会のために奔走した。明治二十四年(1891)に刊行された「支那教学史綱」は、四年後上海で翻刻された。明治三十一年(1898)、「宇内平和策英和両文」を発表。明治三十九年(1906)没。

 狩野亨吉は、良知の二男として慶應元年(1865)、大館に生まれた。明治九年(1876)、出京して大学予備門に入学。当時聞いた米人教師モースの進化論は、彼の生涯の思想方向を決めることになった。東大理学部にて数学、文学部で哲学を修め、四高(金沢)、五高(熊本)の教授を歴任した。明治三十一年(1898)には三十四歳にして第一高等学校校長に抜擢された。明治三十九年(1906)には京大教授に任じられ、文学部長として倫理学を講じた。二年後、東北大学総長より東宮御教育係に推薦されたが辞退し、自ら古本屋と称して古書を漁り、東北大に図書を売却した。志筑忠雄の星気説、関孝和の和算、安藤昌益の「自然真営道」等、邦人独自の学説を発見紹介した。終生、独身を貫いた。昭和十七年(1942)末、東京雑司ヶ谷にて没した。

 

吉田松陰歌碑 

 

 図書館の裏手には、吉田松陰の歌碑が建てられ、模築された松下村塾が移されている。

 歌碑には、松陰の有名な絶唱「親思う心にまさる親こころ 今日のおとずれ何ときくらん」が刻まれている。

 

模築 松下村塾 

 

 この松下村塾は、昭和五十九年(1984)、大館出身の実業家で熱烈な松陰フアンである竹原吉右衛門の財政的援助を受けて、財団法人大館鳳鳴高校振興会が建てたものであり、かつてJR東大館駅に近い竹村記念公園内にあったが、平成二十九年(2017)四月、当地に移築したものである。海原徹著「松陰の歩いた道」(ミネルヴァ書房)によれば、全国に六つある模築松下村塾のうちの一つで、五番目に建築されたものだそうである。

 

(一心院つづき)

 一心院の墓地を歩いていると次第に雨脚が激しくなってきた。傘もない私は濡れるに任せて、歩くよりなかった。墓地をほぼ一周したときに気が付いた。ここは以前に訪れたことがあったことを。三十分という貴重な時間をロスってしまった。しかし、前回は発見できなかった根本源三郎、松岡政蔵、下遠来助らの墓に出会うことができたので、「良し」とするしかない。

 

                       

根本源三郎為成君墓

 

 

官軍 秋藩 根本源三郎為成君墓(旧墓)

 

 根本源三郎は佐竹大和組下組頭。慶応四年(1868)九月二日(四日とも)、羽後岩瀬村にて戦死。三十一歳。「官軍 秋藩」と記された墓石の横に、遺族によって建てられた旧墓も置かれている。

 

 

官軍 秋藩 松岡政蔵墓

 

 松岡政蔵は、根本弥三郎下男。慶応四年(1868)八月二十四日、羽後岩瀬村にて戦死。十八歳。

 

 

官軍 秋藩 下遠来助墓

 

 下遠(下藤とも)来助は、佐竹大和家人。狩野徳蔵組。慶應四年(1868)八月十二日、羽後東岱にて戦死。四十九歳。

 

(遍照院)

 

 

遍照院 

 

 遍照院の無縁墓石の中に戊辰戦争戦死者の佐川伊太郎の墓がある。

 

 佐川伊太郎は、大館給士。小林準太組。慶応四年(1868)九月二日、羽後岩瀬村にて戦死。三十六歳。

 

 

官軍 秋藩 佐川伊太郎墓

 

(玉林寺)

 

 

玉林寺 

 

官軍 秋藩 根本兵右衛門墓

 

 根本兵右衛門は、経直とも。大館給士。慶応四年(1868)、八月十一日、羽後鬼ヶ城にて戦死。三十八歳。

 

 

官軍 秋藩 石田政治墓

官軍 秋藩 石田正方墓(旧墓)

 

 石田政治は、大砲隊。明治元年(1868)九月二十日、羽後薬師森にて戦死。二十歳。

 見慣れた「官軍 秋藩」と記された墓石の背後にもう一つ石田政治の墓が置かれている。恐らくこちらが、もともと家族によって建てられた旧墓であろう。「官軍 秋藩」と記された墓石の方は、いずれも建てられたのが大正五年(1916)となっており、戊辰から五十年近くが経ったこの時、県から一律に下賜された墓石と推定される。

 

 

官軍 秋藩 秋元多吉墓

 

 秋元(秋本とも)多吉は、佐竹大和附歩行士。二階堂鵜之助組。慶応四年(1868)九月二日、羽後岩瀬村にて戦死。三十一歳。

 

 

官軍 秋藩 岸慶治墓

 

 岸慶治(敬治とも)は、銃士。慶応四年(1868)九月二日、羽後片山野にて戦死。四十歳。

 

(浄應寺)

 

浄應寺   

 

 工藤金兵衛は、能代足軽。慶応四年(1868)八月二十日、羽後東岱にて戦死。二十七歳。

 

 

官軍 秋藩 工藤金兵衛墓

 

(餅田)

 

 

官軍 秋藩 滝口定之助墓

 

 餅田の共同墓地に戊辰殉難者滝口定之助の墓がある。

 

 滝口定之助は、卒。慶応四年(1868)九月四日?、羽後下根戸にて戦死。二十六歳。

 

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大館 矢立峠

2019年08月17日 | 秋田県

(矢立峠遊歩道)

 

                       

矢立峠遊歩道入口

 

 腰椎ヘルニアを二年半ぶりに再発してしまった。座っていれば痛みはないが、立ち上がって歩くと、途端に腰に錐をもみ込まれるような痛みが走り、右脚に痺れが伝わる。病院で痛み止めの薬を処方してもらったが、ほとんど効き目はない。昨秋から一日も欠かさず、毎日一万歩を目標に歩いてきたが、とても継続できる状態ではなくなった。

本来であれば、自宅で休んでいないといけないのかもしれないが、何もせずにゴロゴロしているのが苦手な性分で、これが腰椎ヘルニアを悪化させる原因なのかもしれない。

この日もどうしても矢立峠を歩きたくて、無理をしてしまった。

 

 

伊能忠敬測量隊記念標柱

 

 矢立峠遊歩道への入口が分からず、付近を歩き回ってしまった。結局、道の駅矢立峠で聞いてやっと行き着くことができた。道の駅から少し坂を下って、最初の橋の手前に入口がある。

 

 入口から遊歩道に入ると、たちまち深い森に包まれる。天然の秋田杉の巨木も見ることができる。最初に出会うのが、伊能忠敬測量隊記念標柱である。

 享和二年(1802)、伊能忠敬は平山郡蔵、伊藤秀蔵ら六人から成る第三次測量隊を率いて、東北日本海沿岸を測量した。能代を経由して、同年八月六日に綴子から大館に宿泊。翌七日、下内川を何度も渡り、険しい山道を登って、矢立峠を越えて碇ヶ関に出た。忠敬はこのとき「測量日記」を残しているが、そこに矢立杉が出羽と陸奥の境に立っていることを記録している。

伊能忠敬の記念標柱から二百メートルほど進むと、吉田松陰の漢詩碑があり、それを通り過ぎると、明治天皇御駐輦の地の石碑がある。

 

 

明治天皇御駐輦之地碑

 

 明治天皇が矢立峠を通過したのは、明治十四年(1881)のことである。秋田・山形両県視察がこのときの主目的であった。矢立峠への道は五年がかりで開削された新道であったが、なおも道は険しく、明治天皇は北麓の折橋(青森県側)で白馬にお召し替えになり、秋田杉の美林の眺望を楽しんだ後、この場所で地元代表者からお祝いの挨拶を受けたと伝わる。この後、一キロメートル先の陣馬台までは馬、そこから再び輿に乗り換えて、白沢へ向かった。

 石碑が立つこの場所は、明治新道との交差点に当たる。ここには大正四年(1915)、地元有志により記念碑が建てられたが、台座だけが残る状態であった。最近になって台座上に石碑が再建されたものである。

 そこから吉田松陰漢詩碑のある場所まで引き返し、そこから分岐点を古羽州街道へ進む。矢立峠一里塚碑を経由して、矢立峠の名前の由来となった矢立杉の株跡に出会う。

 

 

矢立峠一里塚跡碑

 

 

矢立杉の碑

 

 

矢立杉株跡

 

 ここにあった矢立杉は、元禄年間に空洞ができ、大嵐によって倒れた。延享三年(1746)巨大な杉株跡に囲いをし、宝暦六年(1756)に若杉を植えた。この時植えられた矢立杉は、菅江真澄「外ヶ浜風」、高山彦九郎「北行日記」、伊能忠敬「沿海日記」、吉田松陰「東北遊日記」さらに時代は下ってイザベラ・バードの「日本奥地紀行」などにも登場している。

 二代目の矢立杉は、樹齢二百年に近かったが、太平洋戦争前夜に伐採され、現在は株跡が残されているのみとなっている。

 

 

吉田松陰の漢詩   

 

 文政三年(1820)、津軽藩主が侍従職に昇任されるという噂が流れた。南部藩主が津軽藩主の下位になることになり、それを聞いた南部藩主が憤死した。そのため、南部藩士下斗米秀之進は相馬大作と改名し、津軽藩主を狙撃しようとこの矢立峠に隠れ、その機会を待ったとわれる。この時、津軽藩主は海岸沿いに弘前に帰城し難を逃れた。相馬大作は、文政四年(1821)十月、江戸で捕えられ、翌年八月処刑された。享年三十四。

 吉田松陰は、相馬大作事件を聞いて感激し、矢立峠に至ると、漢詩を残した。

 

 

東北遊日記 

 

 両山屹立(きつりつ)して屏風の如く、

 一渓屈曲して其の中を流る。

 山窮(つ)き水極まり路なからんと欲し、

 矢立(やたて)の嶺其の衝(しょう)に当たる。

 杉檜(さんくわい)天を掩ひて昼また暗く、

 天絶険(ぜっけん)を以て二邦を疆(かぎ)る。

 聞くならく文政辛巳の歳、

 津軽、藩に就かんとし此の際(きは)を過ぐ

 南部の逋臣(ほしん)米将真(べいしゃうしん)、

 徒を糾(あつ)め過輿(くわよ)の衛を要せんと欲す。

 幾日の徘徊人視(じんし)を驚かし、

 敗露忽ち空し数年の計。

 地の利人の和両つながら之れを得、

 自ら謂(おも)ふ籌角(ちうくわく)万遺すところなしと。

 言ふを休めよ奇変は意外に出づと、

 一恃むはつねに百禍と随ふ。

 君聞かずや韜鈐(たうけん)の上乗(じょうじょう)一句に存す、

 初めは処女の如く後には脱兎(だっと)と、

 

 ここまで歩くこと四十分。普段であれば、どうってことのないハイキングであったが、腰椎ヘルニアを患い、足腰に痛みを抱える身には難業以外の何ものでもなかった。右脚を引きずるようにして歩いて、何とか駐車場に戻った。

 

(矢立中学校)

 

 

明治天皇御膳水

 

 

明治天皇御膳水

 

 明治十四年(1881)の明治天皇の東北巡幸の際、矢立峠を越えて秋田県側に入った際、白沢にて昼食休憩の際にこの水が献上された。矢立中学校の校庭から豊富な水が湧き出ている。ここで野菜を洗っているオジサンにこの辺りで吉田松陰関係の石碑を知らないか聞いてみたが、ご存知なかった。仕方なく、付近をしらみつぶしに歩いてみることにした。

 

(山内儀兵衛宅跡)

 

 

明治天皇矢立行在所碑

 

 嘉永五年(1852)閏二月二十八日、長木川を渡り、羽州街道を釈迦内から白沢に進んだ吉田松陰らは、この地の山内儀兵衛の家に泊った。後年、明治天皇の行在所として使われたという豪壮な屋敷は、既に消滅して存在していないが、往時の繁栄をしのばせる立派な庭園が一部残されており、その一角に吉田松陰先生遊歴記念碑が建てられている。白沢郵便局の裏側辺りである。

 

 

吉田松陰先生遊歴記念碑

 

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