史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「龍馬暗殺の謎」 木村幸比古著 PHP新書

2009年04月29日 | 書評
 幕末史最大のミステリーといわれる龍馬暗殺の謎を手がけた著作である。
 とはいえ、今井信郎の証言から、実行犯は幕府の治安維持組織である見廻組というのが定説となっており、そのことについてはほぼ疑いがないだろう。
 この本では、当時から囁かれていた新選組犯行説、薩摩藩陰謀説、伊東甲子太郎実行犯説、更には本当の狙いは巻き添えを食った中岡慎太郎だったという説まで取り上げ徹底的に検証を重ねている。
 中でも多くの頁を割いているのが、薩摩藩の陰謀説である。薩摩藩を黒幕とする主張の論拠は、藩閥で新体制を主導しようという薩摩にとって、公議政体によって民の声を政治に活かすことを主張していた龍馬の存在が、邪魔だったというものである。しかし、これは歴史を結果から見た判断であって、龍馬が暗殺された慶応三年(1867)十一月時点では、王政復古のクーデターが成功するかどうかも不透明であったし、戊辰戦争の勝利も約束されていなかったのである。そんなときに暗殺など考えている余裕もないだろう。加えて、①薩摩藩が政治的に対立している幕府の組織を使って暗殺を実行するのはどう考えても不自然である。②幕末史は暗殺劇の連続である(本書の巻末にも暗殺事件を列挙してあるので参考にされたい)。その中でも薩摩藩が計画的に暗殺を命じたケースは皆無である(偶発的に発生した生麦事件や、赤松小三郎の暗殺事件があるが、いずれも組織的犯行とは言い難い)。以上の理由からも、薩摩藩陰謀説はどう考えてもあり得ない。
 現代でこそ、龍馬は幕末を代表するヒーローであるが、その当時はそれほど名の知られた存在ではなかった。伏見寺田屋で幕府の捕吏を銃殺した龍馬は、以来お尋ね者となっていた。それが故に幕府に抹殺されたというのが自然な見方ではないか。また本著ではほとんど触れられていないが、いろは丸事件の報復として紀州藩が龍馬暗殺を指示したという風説は当時から囁かれていた。紀州藩復讐説が取り上げられていないのはちょっと残念である。
 「龍馬ファン」としてはできるだけ龍馬を偉大な存在として祀り上げたいという気持ちが働く。単なる殺人犯や怨恨の報復措置として暗殺されたというのでは「納得がいかない」というファン心理が、龍馬暗殺をミステリー化している最大の理由かもしれない。

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馬来田

2009年04月26日 | 千葉県
(真如寺)


真如寺

 久留里線馬来田駅から真如寺まで、約一時間(往復二時間)のハイキングである。駅には駅周辺のハイキングコースを案内したパンフレットが置かれており、それを片手に真如寺を目指した。ハイキングコースは途中から里山に入っていく。カエルの大合唱を聴くのは久し振りのことであった。
 慶応四年(1868)の戊辰戦争は、この鄙びた田舎にまで及んでいた。旧幕軍撤兵隊はここに本営を置いたのである。ただし、撤兵隊は戦闘に至る前に敗走したため、官軍がここに来たときには既に姿がなかった。にもかかわらず、官軍は真如寺に火をかけ、伽藍を全て焼き尽くしてしまった。以後百余年、仮本堂のままであった。本堂が再建されたのは、平成三年(1991)のことである。


真如寺にて

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久留里

2009年04月26日 | 千葉県
(久留里城)


久留里城天守閣

 木更津から久留里線に乗り換えて三十分ほど揺られると久留里の駅に行き着く。久留里線は、ディーゼル車両が単線を走る典型的なローカル線である。車窓にはずっと田園風景が続く。
 久留里城へは、約2㎞の道のりである。次の下り電車が来るまでの五十三分の間に天守閣まで往復するのはかなり厳しかったが、半ば駆けるようにして頂上を目指した。
 三の丸跡は駐車場となっており、自動車で久留里城を訪れた人もここからは徒歩である。ここから天守閣まで高度差がまだ百m近くある。
 久留里城は、築城直後に三日に一度雨が降ったことから「雨城」の異名を持つが、この日は雲一つない快晴であった。天守閣に到着したときは息が上がり、汗が噴き出した。
 久留里城は戦国期に里見氏が築城したことがその起源であるが、その後江戸時代には、大須賀、土屋、黒田の各大名に引き継がれた。黒田氏が廃城となっていた久留里城に入城したのは寛保二年(1742)のことで、以来明治維新まで九代に渡って黒田氏の居城となった。
 幕末の藩主は、黒田直養。黒田氏は小藩であったが譜代の名門であった。しかし早々に勤王に決し新政府への恭順を表明していた。ところが、慶応四年(1868)四月、旧幕軍(撤兵隊)が領地に近づき威嚇を受けると、藩内は動揺した。幸いにして撤兵隊内部の乱れによって事なきを得た。

 土屋氏が城主だった時代、のちに幕政改革に手腕を発揮した新井白石、その父新井正済が仕えている。そのことを記念して、二ノ丸跡に建てられた久留里城址資料館の前に新井白石の像が建てられている。


新井白石像


天守閣より

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「幕末の将軍」 久住真也 講談社選書メチエ

2009年04月18日 | 書評
 ひと言で「徳川将軍」といっても、十五代それぞれ個性的である。
 この本では、幕末の将軍の対極にある存在として、十一代家斉の「大御所時代」から説き起こす。家斉は在職年数五十年、更に大御所として四年権力の座にあり、その治世において何か功績があったというわけではないが、輝かしい「権威の将軍」の時代として同時代の人々の記憶に刻まれた。
 家斉の第四子、十二代将軍家慶の治世は、まさに「内憂外患」の時代であった。天保の改革とその失敗、そして水戸斉昭との確執、外国船の出没による開国圧力の高まり…。家斉と比べると、苦悩に満ちた将軍であった。「しかし、従来の将軍と同じく、定められた伝統的な政務をこなしさえいれば、御威光と権威の中に安住できたという点では、やはり「権威の将軍」であった」という。
 次の十三代家定というと、暗愚で無能な君主というイメージが定着している。しかし、狂言などの遊興に耽溺した家慶と比べても、将軍としての繁多な政務も精力的にこなし、(英明とはいえないまでも)問題のない君主だったという。
 さて、この本の大半は、十四代将軍家茂に割かれている。家茂は二十一歳という若さで世を去っており、どちらかというと将軍に祭り上げられただけのお飾りと思われがちである。しかし、激動の政局はこの若者に平穏な日常を許さなかった。
 家茂は武芸や馬術を好み、記憶力が良くて早口の、活発な青年であったという。家茂は、上洛して国事に奔走することになった。それまでの徳川将軍は見えない「権威の将軍」であったが、上洛を機に「見せる将軍」へと劇的に転換したのである。
 筆者は、歴代の徳川将軍と比べて、十五代慶喜の特異性を指摘する。まず終始「在京将軍」であったこと。ほかの将軍が持ち得なかった政治的経験を有していたこと(その結果、将軍就任時に既に政治的敵対勢力を生んでいた)。将軍の居城である二条城に入らず、若州屋敷にとどまり続けたこと(筆者はこれを臨機応変の政治活動のためと解析する)。確かに将軍自ら摂政の邸宅に乗り込み、時の摂政に対して恫喝に近い言葉を吐くなどということは、それまでの将軍には考えられないことであった。家茂の時代に「権威の将軍」から「国事の将軍」へと変容を始めた将軍は、慶喜の時代に至って、完全に「国事の将軍」へと変貌を遂げた。と同時に徳川将軍は一気に消滅へと向かったのである。

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「徳川将軍家 十五代のカルテ」 篠田達明 新潮新書

2009年04月18日 | 書評
 たまたま「徳川将軍家 十五代のカルテ」と「幕末の将軍」という二つの本を並行して読んだ。両著に共通するのは、我々が徳川将軍に抱いている固定観念に対する鋭い指摘である。
 例えば三代将軍家光といえば、時代劇の世界では男前のりりしい将軍と相場が決まっているが、「その実像は貧相な小男であった」という。虚像が独り歩きしたのは、「権現(家康)の再来のごとし」という幕府の喧伝効果であろう。
 増上寺の徳川歴代将軍の墓は、昭和三十三年(1958)に改修工事がおこなわれ、全身の骨格が発掘された。また三河の大樹寺には、歴代将軍の等身大の位牌が安置されているという。これらの資料から推定された歴代将軍の身長がこの本に紹介されているが、二代将軍秀忠の160㎝が最高で、ほかは全てそれ以下である。無論、この時代の日本人の身長はそれが平均的な水準で、徳川将軍家だけがちっちゃかったというわけではない。その中にあってひと際目を引くのが五代将軍綱吉である。綱吉の身長はわずか124㎝というから現代でいえば小学校生低学年並みである。犬公方と称され天下の民衆を苦しめた張本人が、実はこんなちっぽけな男だったとは、何だか拍子抜けするほどである。
 京都の霊山歴史館で、等身大の徳川慶喜肖像が展示されていたのを見たことがある。慶喜といえば、フランス式の軍装に身をつつんだ騎乗の凛々しい写真が残されている。時代劇で役者が演じる慶喜は、長身で男前と相場が決まっているが、実際は150㎝そこそこの小男であった。といっても幕末における慶喜の存在を損なうものではないが、ドラマとは異なる現実を知っておくことも歴史の実像を正確にイメージするには必要なことかもしれない。

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靖国神社 遊就館

2009年04月12日 | 東京都
(遊就館)


遊就館

 靖国神社の境内に遊就館と称する博物館がある。遊就館には、我が国の近代以降の歴史が数々の資料とともに展示されている。勿論、大東亜戦争に関する展示が圧倒的に多いが、幕末から維新、西南戦争、日清日露戦争関係の展示も充実している。

 遊就館の正面に青銅百五十封度陸用加農砲(150ポンド陸用キャノン砲)が二基置かれている。この砲は嘉永二年(1849)、薩摩藩で鋳造され、天保山砲台に据え付けられていたものである。


青銅百五十封度陸用加農砲

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山科 毘沙門堂

2009年04月11日 | 京都府
(毘沙門堂)


毘沙門堂

 山科の毘沙門堂は、古高俊太郎ゆかりの寺である。古高家は、俊太郎の父周蔵の代から毘沙門堂門跡の家臣となり、その縁で京都に移り住むようになったと考えられる。


毘沙門堂の桜

 この日は、境内にある桜が満開で、大勢の人で賑わっていた。

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嵯峨野 二尊院

2009年04月11日 | 京都府
(二尊院)
 この日は、四条大宮で末慶寺の畠山勇子の墓に詣でたあと、祇園からバスで岡崎に移動。若王子神社の新島襄、山本覚馬の墓を訪問し、さらに南禅寺天授庵で横井小楠、梁川星巌・紅蘭の墓を訪ね、続いて南禅寺境内にある水路閣を見学したあと、疎水記念館、無隣庵を経由して、東大路から再びバスに乗って千本丸太町へ移動。華光寺の宇喜多一慧、長遠禅寺の人見寧の墓をそれぞれお参りしてきた。ここからバスで西大路三条に移動して、嵐山電車に乗車。嵯峨駅で下車して徒歩で二十分。ようやく二尊院に行き着いた。このころには足の指のマメがつぶれ、引きずるように歩いた。それにしても春爛漫のこの季節、京都はどこに行っても凄い人出である。特に観光地、嵐山は大変な人の多さであった。人が集まるから色んな店が出て、ますます観光客が増える。しかし、どう見ても嵐山や嵯峨野とは関係の無い店が増えすぎて、いささか行き過ぎているような気がしてならない。


二尊院本堂

 本堂に阿弥陀如来と釈迦如来の二尊を祀っているため、二尊院と称されているが、正しくは「小倉山二尊教院華台寺」という。
 二尊院墓地には、四条家、儒者伊藤仁斎一族、角倉了以一族、三条家、三条西家、嵯峨(正親町三条)家、二条家の墓が所狭しと並んでいる。墓マニアには堪らない場所である。まず四条家の墓を手始めに墓地を散策することにした。


伊藤仁斎の墓


内大臣正一位大勲位三條公瘞髪塔
(三条実美の遺髪を埋めた墓)

 三条実美の墓は東京護国寺にあるが、二尊院の三条家墓地には父実万の墓と並んで、遺髪を収めた墓碑が建てられている。

 三条実万(さねつむ)は、高格、仁孝、孝明の三代の天皇に仕え、人格円満にして才識の誉れが高く、「今天神」と称された。天保二年に議奏に挙げられ、嘉永元年には武家伝奏に転じて、更に内大臣に任じられ、常に朝議に参画し重きを成した。安政五年、日米通商条約勅許問題が起きると、勅許反対の立場に立ち、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立を支持した。水戸藩に下された「戊牛の密勅」にも関与し、そのため安政の大獄が起きると、幕府の追及するところとなり、洛外の上津屋村の別邸に隠棲を余儀なくされる。それでも幕府の追及を避けられず、翌年には落飾、慎を命ぜられ、洛北一乗寺村に幽居した。その年の十月、病を得て危篤に瀕し謹慎を解かれ従一位を授かったが、年五十八で世を去った。死後、右大臣を贈られ、明治二年(1869)、謚を忠成と賜り、二尊院の墓には、「贈右大臣従一位藤原忠成公墓」と刻まれている。


贈右大臣従一位藤原忠成公(三条実万)墓


嵯峨家の墓


従一位二條斉敬公墓

 二条斉敬の名は、中川宮とともに幕末朝廷の政局によく現れる。やはり安政の大獄に連座して一時謹慎を命じられたが、復帰して内大臣、継いで右大臣に任じられた。文久三年(1863)の八月十八日の政変では、中川宮、近衛忠煕らと相議して尊攘派の一掃に成功し、その後の公武合体派公家による朝権掌握に参画した。以後、孝明天皇の側に仕えてよく補佐し信任を得た。しかし慶応二年(1866)十二月、孝明天皇が崩御し、翌年王政復古が宣言されると、ほかの公武合体派公卿とともに参朝を停止され、以後、再び政治に関与することはなかった。明治十一年(1878)年六十三にて死去。


従一位勲一等伯爵壬生基修之墓

 いわゆる「七卿」の一人、壬生基修は、条約勅許問題の発生とともに八十八公卿列参に加わった。文久二年(1862)には、和宮降嫁に尽力した、いわゆる四奸二嬪を弾劾し朝政からの排除に成功し、急進派尊攘派公卿の一人として名を馳せた。しかし八一八の政変で失脚して京都を追われた。王政復古が宣言されると、参与として国政に参画し、会津征討越後口総督参謀として東国を転戦した。東北が鎮定されると、越後府知事継いで東京府知事、山形県権令に任じられた。明治八年(1875)に元老院議官に任じられたが、明治後は目立った活躍は見られなかった。明治三十九年(1906)年七十二にて没。

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円町 華光寺 長遠禅寺

2009年04月11日 | 京都府
(華光寺)


華光寺


宇喜多一蕙の墓

 宇喜多一蕙は、画家として活躍したが、嘉永六年(1853)に江戸に出て、時勢を風刺する絵を描くようになった。尊攘志士と交わり、国事に奔走するようになった。その結果、安政五年(1858)の大獄に連座し、子の宇喜多可成(松庵)とともに獄に繋がれ、江戸に護送された。出獄後、京都に戻ったが、獄中に得た病により年六十五で没した。

(長遠禅寺)


長遠禅寺


人見止尞墓

 人見勝太郎(維新後は寧)の墓である。
 人見勝太郎は、京都出身の幕臣。幕府軍が敗退して江戸に退いたあとも徹底抗戦を主張し、林忠崇率いる請西藩軍に合流して箱根方面に出兵するも敗走した。その後も東北各地を転戦したが、仙台にて榎本艦隊に合流し蝦夷に渡ると、五稜郭に入って抵抗を続けた。蝦夷共和国では松前奉行を務めた。降伏したのちは新政府に出仕し、茨城県令などを務めた。大正十一年(1922)八十歳にて死去。

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岡崎

2009年04月11日 | 京都府
(無鄰庵)
 山県有朋の別荘無鄰庵は、岡崎動物園の向かい側と木屋町高瀬川沿いに各一つずつある。山県は庭造りの名手で、東京の椿山荘、小田原の小陶庵などを残している。東山の無鄰庵は、明治二十七年(1894)に着工、二年後に完成した。明治三十六年(1903)四月、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎と山県が日露戦争に踏み切る無鄰庵会議をここで開いた。


無隣庵庭園


洋館


無隣庵会議が開催された部屋

(南禅寺)
 二度目のアタックで天授庵墓地に進入することができた。広大な墓地には、細川幽斎夫妻を初めとした細川家の墓、それに梁川星巌・紅蘭夫妻、横井小楠の墓がある。


沼山横井先生墓


紅蘭張氏之墓・星巌梁川先生之墓

 南禅寺の境内に、琵琶湖疎水の水路橋(水路閣)が走っている。レンガ製の近代建築は、やや南禅寺の建物とは異質であるが、今から百年以上前に建造された琵琶湖疎水の一部が今もここに息づいていると思うと、感慨深いものがある。レンガは百年の風雪を経て、深沈とした色合いを醸し出している。


水路閣

(順正)
 南禅寺門前の順正は、かの間部詮勝が命名したという老舗である。


順正

(琵琶湖疎水)


琵琶湖疎水記念館


北垣国道書「意気如雲」(上)と河田小龍による「琵琶湖疎水路線全景」

 琵琶湖疎水記念館は、平成元年(1989)に琵琶湖疎水百周年を記念して創設された資料館である。疎水の完工に向けた当時の関係者の熱い想いが伝わる展示品の数々に、心が揺さぶられる。是非、多くの人に見てもらいたい。琵琶湖疎水は、完工から百年を経た今日も京都市民の生活に欠かせぬ資産となっている。将に「国家百年の計」を具現化したものと言える。足もとの景気を刺激する公共投資も結構であるが、百年後の市民に感謝されるほどのインフラ建設がどれほどあろうか。為政者にはそれくらいの長期的視野が必要とされているのである。

(若王子神社)
 銀閣寺の前から疎水分流に沿って「哲学の道」が通じている。「哲学の道」の南側の終点が若王子神社である。若王子神社は、京都ではごくありふれた神社に過ぎないが、「哲学の道」のおかげで桜の季節になると、その前を大勢の観光客が行き交うことになる。
 若王子神社の人込みを抜けて、鬱蒼とした杉木立の中を登っていくと、小高い丘の上に同志社墓地が広がる。前夜の雨が残っていてぬかるんだ坂道に足を取られる。その一番奥まった場所に新島襄と八重子夫人の墓、それに新島とともに同志社設立に尽力した会津藩士山本覚馬の墓がある。


若王子神社


新島襄之墓


山本覚馬の墓

 山本覚馬は会津藩士。九才のとき藩校日新館に入った。嘉永六年(1853)、二十五歳のとき江戸に出て佐久間象山の門下となった。のちに会津に戻って日新館教授、軍事取調役兼大砲頭取を歴任した。元治元年、京都守護職に任じられた藩主松平容保に従って上洛、禁門の変で殊功を立てた。鳥羽伏見の戦いのあと、捕えられて入獄したが、「管見録」を薩摩藩主に提出してその識見を認められ釈放された。明治三年(1870)京都府顧問となり府政に尽力し、その後は初代府会議長、商工会議所会頭などを歴任した。明治二十五年(1892)六十五歳にて没。

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