昨年は明治維新から百五十年目となるメモリアルイヤーで、各地で記念イベントが開催された。明治政府により「文明開化」「殖産興業」「富国強兵」といったスローガンが発せられ、急速に近代化が推し進められた。明治維新に対して批判的な意見もあるが、昨年来開かれている記念イベントでは、明治維新を肯定的にとらえるものが大半であった。
その陰にあって、あまり語られることのない「負の歴史」があった。それが本書で取り上げられている廃仏棄釈である。
明治新政府は廃仏棄釈を命じたのではなく、きっかけとなったのは神仏分離令であった。今も各所に寺院と神社が併存している場所があるが、神道と仏教が混在しているのが我が国の宗教の特徴である。現代日本においても、クリスマスにはキリスト教の行事を楽しむかと思えば、年明けには神社に初詣にでかけ、人が死ねば坊さんを呼んで葬式を行う。こうして外国から都合よく異文化を吸収して自分のものにしてしまう柔軟性が我が国の特徴であったはずである。
ところが、神仏分離令が発せられると、場所によってはヒステリックに仏像や梵鐘が破却され、僧侶は強制的に還俗させられた。石仏や地蔵は首を斬り落とされ、寺院は徹底的に破壊された。
廃仏棄釈による最大の禍根は、貴重な文化財の散失であろう。本書によれば、「哲学者の梅原猛氏は、廃仏棄釈がなければ国宝の数はゆうに三倍はあった」と指摘している。返す返すも悔やまれる蛮行であった。
廃仏棄釈は全国一律に拡散したわけではない。本書で紹介されている水戸、佐渡、松本、苗木、伊勢、土佐、隠岐、宮崎、鹿児島は特に激しかった地域である。筆者は丹念に各地を回り、廃仏棄釈の痕跡を追っている。
廃仏棄釈が行われた理由も、場所によってまちまちであった。たとえば、廃仏棄釈の火の手があがったとされる比叡山の麓、日吉大社では延暦寺に対する積年の恨みがあったとされる。地域によっては堕落した僧侶に対する反感もあったようである。
水戸では、仏像や梵鐘から金属を回収して、大砲に鋳込み直した。廃寺となった寺院の本堂や庫裏が、当時明治政府が進めていた学校に転用されるケースもあった。
松本や苗木では、時の知藩事が、新政府に忠誠を示すために先頭に立って廃仏棄釈を進めた。両藩は旧藩主が戊辰戦争に際して恭順を表明するのに遅れをとったことから、それを挽回するためにより厳正に廃仏棄釈を推し進めたというわけである。
佐渡では、長州出身の越後府権判事奥平謙輔が先頭にたって徹底的に寺院を廃し、仏教的な習俗まで禁じた。奥平謙輔は過激な尊攘思想を有していたが、それにしてもどうして廃仏棄釈にそこまで執心したのか理解に苦しむ。いずれにせよ、一部のリーダーによって強力に進められた廃仏棄釈は、そのリーダーが交替すると同時に鎮静化していく。
我々はタリバンによるバーミヤンの磨崖仏の破壊行為を見て憤慨したが、ほとんどそれと変わらない蛮行を百五十年前の日本でも行われていたのである。これに勇気をもって反抗した人もいたようだが、民衆の多くは蛮行に加担した。その根底には、熱狂に飲まれやすい、日本人独特の国民性がある。
「それは昔の日本の話」と片づけてしまうこともできるかもしれないが、現在にもその国民性は続いているのではないか。将来第二の廃仏棄釈が発生する危険性をはらんでいる。
筆者は京都市右京区の正覚寺の副住職でもある。第八章では奈良、京都の廃仏棄釈を紹介している。京都は、現在でも日本を代表する「寺の町」である。維新後にこの町にも激しい廃仏棄釈の嵐が吹き荒れていたとは驚きであった。現在、八坂神社と呼ばれる神社には、維新前祇園社感神院という名称の寺が併存していた。感神院の薬師如来像と十一面観音像、夜叉神明王立像は大蓮寺に移され、廃寺となったという。この大蓮寺は、当家の墓がある寺で、いわれてみれば本堂に古い仏像が安置されている。よもや自分の身近なところに廃仏棄釈の痕跡が残されていたとは…。百五十年前の出来事が、俄かに現実味をもって実感できた。
かつて刑部芳則著「三条実美 孤独の宰相とその一族」を読んで、三条実美について分かった気になっていたが、本書を読んで改めて気付きを得ることがあった。
その一つが大宰府に流された五卿の役割である。薩長同盟といえば、あたかも坂本龍馬が一人で成し遂げたかのように世間では言われているが、そんなはずはないのである。
慶應元年(1865)正月、三条以下の五卿は関門海峡を渡り、筑前黒崎に上陸、赤間を経て、二月十三日に大宰府に入った。大宰府には従士や各藩から送られた警衛の武士たちが集まり、彼らとの交流を求めて次々と各地からの藩士、浪人、草莽と呼ばれる人たちが集い、情報を交換した。筆者の表現を借りれば「勤王攘夷を象徴する場として、ある種の政治的磁場が形成された」のである。
薩長両藩の連携を最初に唱えたのは、真木和泉守といわれる。真木による連合構想は、禁門の変によって雲散したが、この頃、福岡藩の勤王派月形洗蔵、早川養敬らにより新たな模索が始められた。この動きに最初に共鳴したのが中岡慎太郎であった。中岡は密かに小倉に渡り、そこで西郷隆盛と対面し、その学識胆略に服し、これを機に熱心な薩長提携論者となった。中岡からの復命を聴取した三条も薩長提携を決意した。四月には三条家士の森寺常徳と中岡を長州へ派遣した。その後、中岡は京都、鹿児島、長州間を奔走し、薩長同盟に大きな役割を果たした。太宰府は「維新の策源地」とも称されるが、この地で果たした三条の功績も決して小さくはない。
維新後の記述で新鮮だったのは、「明治八年の政変」である。明治六年の政変(いわゆる征韓論政変)は、テレビドラマでも取り上げられ、比較的よく知られているが、明治八年の政変とは聞きなれない言葉である。
明治政府の開明政策に批判的な島津久光を召命し、政府に取り込むことが当時の政府には差し迫った課題であった。明治七年(1874)四月、久光は左大臣として起用された。しかし、このことが政府の安定をもたらすどころか、結果的には内部に巨大な爆弾を抱えることになった。
左大臣に就任した久光は、礼服、税制、兵制を旧に復すことや不要の土木工事の停止、京都御所の例によって皇居を造営すること、参議兼大蔵卿大隈重信の罷免、参議兼外務卿寺島宗則の免官ないし格下げ、参議兼工部卿伊藤博文の格下げ、西郷、板垣の参議復帰など十四ヶ条を要求した。三条は慰撫に努めたが、同年八月には旧大名の松平春嶽、伊達宗城、池田慶徳、旧公家の中山忠能、嵯峨(正親町三条)実愛、大原重徳ら華族十四名が久光建言の採用を求める書面を三条・岩倉に提出した。三条・岩倉は再三久光を説得し、さらには天皇まで使って説得したが、容易に引き下がらない。やがて久光の攻撃の矛先は、三条弾劾へと向う。
久光は、板垣参議や有栖川宮熾仁親王らを自陣にとりこみ、「三条太上大臣には百官を統括する能力に乏しい」とする弾劾上書を提出した。ぎりぎりの攻防戦の末、三条の弾劾上書は却下され、久光、板垣両名は免官となった。明治六年の政変では失態を演じた三条であったが、明治八年の政変では果断に富んだ姿勢を見せた。
従来の三条実美のイメージというと「政治力に乏しい」「お飾り的存在」「ひらすら状況に振り回される無能な人物」「好人物だが無能」といった評価が定着しているが、筆者は「いわば北極星のような存在」「開明的で近代化路線への適応力をそなえ」「無私で高潔な人格、いわゆる徳望でもって大臣職をつとめ」「群臣の上に立つという、ほかの誰にもできない能力をそなえた」「余人をもって代えがたい存在」とする。
どちらの評価が間違っているとか、正しいというものではなく、一人の人物を、悪意をもって評価すれば前者になり、好意的にみれば後者の評価となるということだろう。
その一つが大宰府に流された五卿の役割である。薩長同盟といえば、あたかも坂本龍馬が一人で成し遂げたかのように世間では言われているが、そんなはずはないのである。
慶應元年(1865)正月、三条以下の五卿は関門海峡を渡り、筑前黒崎に上陸、赤間を経て、二月十三日に大宰府に入った。大宰府には従士や各藩から送られた警衛の武士たちが集まり、彼らとの交流を求めて次々と各地からの藩士、浪人、草莽と呼ばれる人たちが集い、情報を交換した。筆者の表現を借りれば「勤王攘夷を象徴する場として、ある種の政治的磁場が形成された」のである。
薩長両藩の連携を最初に唱えたのは、真木和泉守といわれる。真木による連合構想は、禁門の変によって雲散したが、この頃、福岡藩の勤王派月形洗蔵、早川養敬らにより新たな模索が始められた。この動きに最初に共鳴したのが中岡慎太郎であった。中岡は密かに小倉に渡り、そこで西郷隆盛と対面し、その学識胆略に服し、これを機に熱心な薩長提携論者となった。中岡からの復命を聴取した三条も薩長提携を決意した。四月には三条家士の森寺常徳と中岡を長州へ派遣した。その後、中岡は京都、鹿児島、長州間を奔走し、薩長同盟に大きな役割を果たした。太宰府は「維新の策源地」とも称されるが、この地で果たした三条の功績も決して小さくはない。
維新後の記述で新鮮だったのは、「明治八年の政変」である。明治六年の政変(いわゆる征韓論政変)は、テレビドラマでも取り上げられ、比較的よく知られているが、明治八年の政変とは聞きなれない言葉である。
明治政府の開明政策に批判的な島津久光を召命し、政府に取り込むことが当時の政府には差し迫った課題であった。明治七年(1874)四月、久光は左大臣として起用された。しかし、このことが政府の安定をもたらすどころか、結果的には内部に巨大な爆弾を抱えることになった。
左大臣に就任した久光は、礼服、税制、兵制を旧に復すことや不要の土木工事の停止、京都御所の例によって皇居を造営すること、参議兼大蔵卿大隈重信の罷免、参議兼外務卿寺島宗則の免官ないし格下げ、参議兼工部卿伊藤博文の格下げ、西郷、板垣の参議復帰など十四ヶ条を要求した。三条は慰撫に努めたが、同年八月には旧大名の松平春嶽、伊達宗城、池田慶徳、旧公家の中山忠能、嵯峨(正親町三条)実愛、大原重徳ら華族十四名が久光建言の採用を求める書面を三条・岩倉に提出した。三条・岩倉は再三久光を説得し、さらには天皇まで使って説得したが、容易に引き下がらない。やがて久光の攻撃の矛先は、三条弾劾へと向う。
久光は、板垣参議や有栖川宮熾仁親王らを自陣にとりこみ、「三条太上大臣には百官を統括する能力に乏しい」とする弾劾上書を提出した。ぎりぎりの攻防戦の末、三条の弾劾上書は却下され、久光、板垣両名は免官となった。明治六年の政変では失態を演じた三条であったが、明治八年の政変では果断に富んだ姿勢を見せた。
従来の三条実美のイメージというと「政治力に乏しい」「お飾り的存在」「ひらすら状況に振り回される無能な人物」「好人物だが無能」といった評価が定着しているが、筆者は「いわば北極星のような存在」「開明的で近代化路線への適応力をそなえ」「無私で高潔な人格、いわゆる徳望でもって大臣職をつとめ」「群臣の上に立つという、ほかの誰にもできない能力をそなえた」「余人をもって代えがたい存在」とする。
どちらの評価が間違っているとか、正しいというものではなく、一人の人物を、悪意をもって評価すれば前者になり、好意的にみれば後者の評価となるということだろう。
本書は、僧月性生誕二百年と明治維新一五〇年を記念して、公益財団法人僧月性顕彰会が企画・主催し、僧月性の出身地である柳井市で開催された連続講演会の記録である。一冊に七つの講演を詰め込んだお買い得の一冊となっている。
最初に登場するのは、三谷博氏。東京大学名誉教授で、一昨年「維新史再考」(NHKブックス)を上梓されている。「幕末維新の、ここが面白い」と題して、幕末史をマクロな視点から解説してみせる。
三谷氏によれば、幕末維新期の政治的犠牲者は、およそ三万人。戊辰戦争、西南戦争の両戦乱の犠牲者を加えても、三万人を少し超える程度と推定される。現代の感覚では、一つの政治的大事件で三万人も犠牲者が出たら超大事件であるが、十九世紀の常識では、「そうではない。」フランス革命で約二百万人が殺されていることと比べれば奇跡的に少ないといえるのである。
では、何故そういうことが可能だったのか。三谷氏は、いきなり廃藩置県に進んだのではなく、いったん版籍奉還をやるという「間接戦略」を意図的にとったからだとタネ明かしをする。
では、同じように列強からの外圧を受けながら、何故、日本は隣国の中国や韓国に先んじて近代化を実現できたのだろうか。三谷氏は「日本人は生まれながらに非常に優秀」だからといった単純な理由ではなく、「早く問題に気付いて改革した方が先に進んだ」というだけだという。だとすると、我が国の戦後の経済発展についても日本民族が優秀だから実現できたとか、日本民族の国民性の問題ではなく、単に「早く進んだ」というだけなのかもしれない。
二人目の講演は奈良勝司氏。まだ四十歳そこそこという、比較的若い研究者である。テーマは「積極開国論か、攘夷論か」。奈良氏は、どちらかというと「幕府側」の研究者であり、この連続講演会が単に月性や尊王攘夷派を賞揚するだけのものではないことがよく分かる。
徳川政権内には、「積極開国派」と呼ぶべき一群がいた。積極開国論を理解するには、我が国の近世社会(江戸時代)は武家政権であり、「武威」によって成立し、「武威」によって統治する政権であった。しかし、ペリーの来航により武威は危機にさらされる。征夷大将軍とは名ばかりで、徳川政権はひたすら外国との戦争を避けることに徹した。
こういう時代の空気の中で、昌平黌で学んだエリートたちが「武威」から離れて積極開国論を唱えることになる。奈良氏がここで紹介する古賀侗庵は、古賀精里から続く儒者の家系に生まれ、息子は古賀謹一郎という、続けて優秀な儒学者を輩出した名門の出である。
儒学というのは、秩序を重んじ、確固たる体系をもった学問であるが、洞庵は儒学を離れ、現実的な国家論や軍事強化を構想し、その上で国家が信義にもとづき対等に外国と交際することを主張した。侗庵門下つまり昌平黌エリートと呼ばれる人たち(戸田氏栄・水野忠徳・井戸弘道・中村正直・栗本鋤雲ら)の言動を見れば、侗庵の思想も想像がつくだろう。
奈良氏によれば、「古賀侗庵やその弟子たちの思想や政治路線を、最終的に否定したところに明治維新が成し遂げられ」、明治政府は徳川政権の「武威」を引き継いだ。だから、欧米列強と同化し、対外膨張を急き立てられるように進めて行ったとする。
第三章は、維新史の泰斗青山忠正先生による「「攘夷」とは何か」と題した講演で、攘夷の総本山、山口県にぴったりの演題である。
「攘夷」とは、単純に外国船打払いのことを指しているのではない。あの周布政之助ですら「攘夷して後、国開くべし」といっている。いったん「攘夷」をした上で、さらに海外と交わりを結んでいくという、いわゆる「大攘夷」である。これが長州藩の目指していた攘夷である。しかし、幕末という時代を生きた人たちが全て攘夷とはそういうものだと理解していたかは別である。恐らく大勢の人は、攘夷=外国人を撃払うことと信じて疑わなかったであろう。攘夷という言葉のもつ幅広さとか、曖昧さ、それに起因する誤解が幕末の混乱を生んだのかもしれない。
第四章は、「忘れられた黒船」(講談社選書メチエ)等の著書のある後藤敦史氏という若い研究者である。
何故、ペリーが日本に来たのか。結論からいえば、ペリーの目的は北太平洋航路を開いて石炭補給基地として利用することにあった。那覇でも小笠原でもなかったのは、日本では石炭が採れたのである。これが実現すれば、イギリスよりも迅速に東アジア市場に達することができ覇権を確立することができた。二番目の目的は捕鯨船の避難港としての価値。日本市場は三つ目の目的であり、優先順位は低かった。
ペリーは初期の目的を達し、日本開国に成功した。では、アメリカは構想とおりイギリスに先んじて覇権を確立したかというと、答えはノーである。1861年に南北戦争が勃発すると、アメリカの世界進出はしばし停滞することになった。
しかし、ペリーの来航を機に、日本では幕末の動乱が興り、大混乱の末、徳川幕府が倒壊するという結末を迎えることになった。ペリーもアメリカも予期しない余波であった。
第五章は、「尊王とは何か」について前田勉氏(現・愛知教育大学教授)が語る。前田氏の専攻は日本思想史。まず取り上げるのは、国学者本居宣長である。
幕末、天皇を絶対的な権威と位置付ける尊王論が時代の思想となった。この思想の上流には本居宣長によって大成された国学があった。前田氏によると「本居宣長は江戸思想史のなかでひときわ高い山」なのだそうだ。宣長というと
――― しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山さくら花
という歌が有名である。我が国において現代まで続く「大和心=桜」だと決定付けたのがこの歌であり、本居宣長だという。一方で宣長は「善因善果・悪因悪果」(善人は必ず報われ幸福になる。悪人は罰を受けて不幸になる)という考え方は「漢意(からごころ)」だとする。悪人であっても富めば幸福になり、貧しい者はますます貧しくなるという不条理な世の中にあって、我が国には天皇というゆるぎのない存在があるではないか。天皇の御心と一体となって暮らして行く、これが日本人本来の生き方だと説くのである。
幕末の国学者、佐久良東雄も宣長の思想の影響を色濃く受けて「天皇の大御心」を心とする生き方を志向したが、自分一人であっても天皇に忠誠を尽くすという強烈な矜持と孤独な意識が感じられる。
国学とならび尊王思想の大きな流れとなっているのが水戸学である。連続講演の主役である僧月性も水戸学の影響を受けている。月性の尊王は、決して孤独なものではなく、同志との連携や結束があった。月性の思想には「尊王攘夷」だけでなく「公議輿論」という二つの理念があったというのが前田氏の主張である。
第六章と第七章では、いよいよ月性が主題に取り上げられる。月性といえば、浄土真宗の僧であると同時に国事を論じる志士でもある。しかし、何といっても彼の名を不動のものとしたのは、漢詩人としての月性であろう。「男児志を立てて郷関(きょうかん)を出ず」「人間(じんかん)到る処青山(せいざん)あり」で有名な「題壁」の詩は月性二十七歳の作である。
月性は、恒遠醒窓や広瀬旭荘、坂井虎山、篠崎小竹、後藤松陰、齋藤拙堂といった当代きっての文人や学者に批評を仰ぎ、漢詩の腕に磨きをかげた。月性のユニークなところは、あらゆる伝手を使いあちこちの有名人に依頼して「清狂草堂図巻跋」に詩や文章を書いてもらっているところにある。「清狂草堂図巻跋」に並べられた多くの知識人・文化人の墨蹟は、いつしか「清狂」を名乗る月性に対する賛同、共鳴と解され、月性の自己宣伝のためのブランディングが構築されていったのである。当人が意図していたのかどうかは分からないが、今から百五十年以上も前に強かに「ブランディング」に成功していた人物がいたとは、全くの驚きである。
最初に登場するのは、三谷博氏。東京大学名誉教授で、一昨年「維新史再考」(NHKブックス)を上梓されている。「幕末維新の、ここが面白い」と題して、幕末史をマクロな視点から解説してみせる。
三谷氏によれば、幕末維新期の政治的犠牲者は、およそ三万人。戊辰戦争、西南戦争の両戦乱の犠牲者を加えても、三万人を少し超える程度と推定される。現代の感覚では、一つの政治的大事件で三万人も犠牲者が出たら超大事件であるが、十九世紀の常識では、「そうではない。」フランス革命で約二百万人が殺されていることと比べれば奇跡的に少ないといえるのである。
では、何故そういうことが可能だったのか。三谷氏は、いきなり廃藩置県に進んだのではなく、いったん版籍奉還をやるという「間接戦略」を意図的にとったからだとタネ明かしをする。
では、同じように列強からの外圧を受けながら、何故、日本は隣国の中国や韓国に先んじて近代化を実現できたのだろうか。三谷氏は「日本人は生まれながらに非常に優秀」だからといった単純な理由ではなく、「早く問題に気付いて改革した方が先に進んだ」というだけだという。だとすると、我が国の戦後の経済発展についても日本民族が優秀だから実現できたとか、日本民族の国民性の問題ではなく、単に「早く進んだ」というだけなのかもしれない。
二人目の講演は奈良勝司氏。まだ四十歳そこそこという、比較的若い研究者である。テーマは「積極開国論か、攘夷論か」。奈良氏は、どちらかというと「幕府側」の研究者であり、この連続講演会が単に月性や尊王攘夷派を賞揚するだけのものではないことがよく分かる。
徳川政権内には、「積極開国派」と呼ぶべき一群がいた。積極開国論を理解するには、我が国の近世社会(江戸時代)は武家政権であり、「武威」によって成立し、「武威」によって統治する政権であった。しかし、ペリーの来航により武威は危機にさらされる。征夷大将軍とは名ばかりで、徳川政権はひたすら外国との戦争を避けることに徹した。
こういう時代の空気の中で、昌平黌で学んだエリートたちが「武威」から離れて積極開国論を唱えることになる。奈良氏がここで紹介する古賀侗庵は、古賀精里から続く儒者の家系に生まれ、息子は古賀謹一郎という、続けて優秀な儒学者を輩出した名門の出である。
儒学というのは、秩序を重んじ、確固たる体系をもった学問であるが、洞庵は儒学を離れ、現実的な国家論や軍事強化を構想し、その上で国家が信義にもとづき対等に外国と交際することを主張した。侗庵門下つまり昌平黌エリートと呼ばれる人たち(戸田氏栄・水野忠徳・井戸弘道・中村正直・栗本鋤雲ら)の言動を見れば、侗庵の思想も想像がつくだろう。
奈良氏によれば、「古賀侗庵やその弟子たちの思想や政治路線を、最終的に否定したところに明治維新が成し遂げられ」、明治政府は徳川政権の「武威」を引き継いだ。だから、欧米列強と同化し、対外膨張を急き立てられるように進めて行ったとする。
第三章は、維新史の泰斗青山忠正先生による「「攘夷」とは何か」と題した講演で、攘夷の総本山、山口県にぴったりの演題である。
「攘夷」とは、単純に外国船打払いのことを指しているのではない。あの周布政之助ですら「攘夷して後、国開くべし」といっている。いったん「攘夷」をした上で、さらに海外と交わりを結んでいくという、いわゆる「大攘夷」である。これが長州藩の目指していた攘夷である。しかし、幕末という時代を生きた人たちが全て攘夷とはそういうものだと理解していたかは別である。恐らく大勢の人は、攘夷=外国人を撃払うことと信じて疑わなかったであろう。攘夷という言葉のもつ幅広さとか、曖昧さ、それに起因する誤解が幕末の混乱を生んだのかもしれない。
第四章は、「忘れられた黒船」(講談社選書メチエ)等の著書のある後藤敦史氏という若い研究者である。
何故、ペリーが日本に来たのか。結論からいえば、ペリーの目的は北太平洋航路を開いて石炭補給基地として利用することにあった。那覇でも小笠原でもなかったのは、日本では石炭が採れたのである。これが実現すれば、イギリスよりも迅速に東アジア市場に達することができ覇権を確立することができた。二番目の目的は捕鯨船の避難港としての価値。日本市場は三つ目の目的であり、優先順位は低かった。
ペリーは初期の目的を達し、日本開国に成功した。では、アメリカは構想とおりイギリスに先んじて覇権を確立したかというと、答えはノーである。1861年に南北戦争が勃発すると、アメリカの世界進出はしばし停滞することになった。
しかし、ペリーの来航を機に、日本では幕末の動乱が興り、大混乱の末、徳川幕府が倒壊するという結末を迎えることになった。ペリーもアメリカも予期しない余波であった。
第五章は、「尊王とは何か」について前田勉氏(現・愛知教育大学教授)が語る。前田氏の専攻は日本思想史。まず取り上げるのは、国学者本居宣長である。
幕末、天皇を絶対的な権威と位置付ける尊王論が時代の思想となった。この思想の上流には本居宣長によって大成された国学があった。前田氏によると「本居宣長は江戸思想史のなかでひときわ高い山」なのだそうだ。宣長というと
――― しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山さくら花
という歌が有名である。我が国において現代まで続く「大和心=桜」だと決定付けたのがこの歌であり、本居宣長だという。一方で宣長は「善因善果・悪因悪果」(善人は必ず報われ幸福になる。悪人は罰を受けて不幸になる)という考え方は「漢意(からごころ)」だとする。悪人であっても富めば幸福になり、貧しい者はますます貧しくなるという不条理な世の中にあって、我が国には天皇というゆるぎのない存在があるではないか。天皇の御心と一体となって暮らして行く、これが日本人本来の生き方だと説くのである。
幕末の国学者、佐久良東雄も宣長の思想の影響を色濃く受けて「天皇の大御心」を心とする生き方を志向したが、自分一人であっても天皇に忠誠を尽くすという強烈な矜持と孤独な意識が感じられる。
国学とならび尊王思想の大きな流れとなっているのが水戸学である。連続講演の主役である僧月性も水戸学の影響を受けている。月性の尊王は、決して孤独なものではなく、同志との連携や結束があった。月性の思想には「尊王攘夷」だけでなく「公議輿論」という二つの理念があったというのが前田氏の主張である。
第六章と第七章では、いよいよ月性が主題に取り上げられる。月性といえば、浄土真宗の僧であると同時に国事を論じる志士でもある。しかし、何といっても彼の名を不動のものとしたのは、漢詩人としての月性であろう。「男児志を立てて郷関(きょうかん)を出ず」「人間(じんかん)到る処青山(せいざん)あり」で有名な「題壁」の詩は月性二十七歳の作である。
月性は、恒遠醒窓や広瀬旭荘、坂井虎山、篠崎小竹、後藤松陰、齋藤拙堂といった当代きっての文人や学者に批評を仰ぎ、漢詩の腕に磨きをかげた。月性のユニークなところは、あらゆる伝手を使いあちこちの有名人に依頼して「清狂草堂図巻跋」に詩や文章を書いてもらっているところにある。「清狂草堂図巻跋」に並べられた多くの知識人・文化人の墨蹟は、いつしか「清狂」を名乗る月性に対する賛同、共鳴と解され、月性の自己宣伝のためのブランディングが構築されていったのである。当人が意図していたのかどうかは分からないが、今から百五十年以上も前に強かに「ブランディング」に成功していた人物がいたとは、全くの驚きである。
(麹町四丁目)
麹町四丁目
四ツ谷駅から新宿通りを東に麹町方面に行くと、道沿いに麹町六丁目、五丁目、四丁目、三丁目と街の由来を説明する説明板が建てられている。町名の由来には諸説あるが、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた麹をつくる家があったためとも、武蔵国府(現・府中市)へと向かう国府路があったからともいわれている。
現在の新宿通りの北側には、寺や火除け地が設けられ、南側には旗本らの武家屋敷が配置された。たとえば麹町四丁目の交差点の南側には出雲松江藩松平家の上屋敷、五丁目の北側には志摩鳥羽藩稲垣家上屋敷などがあった(千代田区麹町4‐1‐2)。
麹町四丁目
四ツ谷駅から新宿通りを東に麹町方面に行くと、道沿いに麹町六丁目、五丁目、四丁目、三丁目と街の由来を説明する説明板が建てられている。町名の由来には諸説あるが、米や麦、大豆などの穀物を発酵させた麹をつくる家があったためとも、武蔵国府(現・府中市)へと向かう国府路があったからともいわれている。
現在の新宿通りの北側には、寺や火除け地が設けられ、南側には旗本らの武家屋敷が配置された。たとえば麹町四丁目の交差点の南側には出雲松江藩松平家の上屋敷、五丁目の北側には志摩鳥羽藩稲垣家上屋敷などがあった(千代田区麹町4‐1‐2)。
(ホテル・ニューオオタニ)
ホテル・ニューオオタニには、日本庭園があり、宿泊客の目を楽しませてくれる。この立派な池泉廻遊式庭園は、かつての井伊家の屋敷跡の名残で、ホテルの創業者大谷米太郎の手により整備されたものである。
ホテル・ニューオオタニ
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
ホテル・ニューオオタニの敷地一角にあるイヌマキとカヤの巨木は、年輪から推定して二百年以上の樹齢を持ち、この頃、屋敷を構えていた近江彦根井伊家中屋敷に生育していた樹木であることが確認されている。この場所は維新後伏見宮貞愛親王の邸宅となり、戦後大谷米太郎の手に渡った。
ホテル・ニューオオタニの敷地内にある高級料亭「なだ万」は、天保元年(1830)に初代灘屋萬助が大阪で創業した料理店に始まる。二代萬助は「灘萬楼」を開業し、さらに発展させた。大正八年(1919)には、パリで開かれた第一次世界大戦の講和会議に、日本の全権大使西園寺公望が随行料理人に灘萬の三代目楠本萬助を選任したことで「なだ万」の名前を不動のものとした。
「なだ万」は昭和四十九年(1974)、ホテル・ニューオオタニの日本庭園内に移り、現在も営業を続けている。
なだ万
ホテル・ニューオオタニには、日本庭園があり、宿泊客の目を楽しませてくれる。この立派な池泉廻遊式庭園は、かつての井伊家の屋敷跡の名残で、ホテルの創業者大谷米太郎の手により整備されたものである。
ホテル・ニューオオタニ
旧井伊家中屋敷のイヌマキとカヤ
ホテル・ニューオオタニの敷地一角にあるイヌマキとカヤの巨木は、年輪から推定して二百年以上の樹齢を持ち、この頃、屋敷を構えていた近江彦根井伊家中屋敷に生育していた樹木であることが確認されている。この場所は維新後伏見宮貞愛親王の邸宅となり、戦後大谷米太郎の手に渡った。
ホテル・ニューオオタニの敷地内にある高級料亭「なだ万」は、天保元年(1830)に初代灘屋萬助が大阪で創業した料理店に始まる。二代萬助は「灘萬楼」を開業し、さらに発展させた。大正八年(1919)には、パリで開かれた第一次世界大戦の講和会議に、日本の全権大使西園寺公望が随行料理人に灘萬の三代目楠本萬助を選任したことで「なだ万」の名前を不動のものとした。
「なだ万」は昭和四十九年(1974)、ホテル・ニューオオタニの日本庭園内に移り、現在も営業を続けている。
なだ万
(港南台)
昨年、探し当てられなかった齋藤昌麿の墓の場所について、木更津市教育委員会に問い合わせたところ、以下のとおり丁寧な返信をいただいた。
――― お尋ねの齋藤昌麿の墓ですが、所在は旧小浜ですが、現在の地名では港南台三丁目6番の住宅地の中、階段を登ったところにあります。しかし、木更津市のホームページに掲載していますとおり、私有地で非公開となっております。
現地を訪問するということでしたら、塀で囲まれているため、塀の外から隙間越しまたは高さ180センチの塀の上より見ていただく形となりますが、昨日確認したところ、ともに良くは見えません。
「高さ180センチの塀」に囲われているということなので、一脚を持参して塀越しに撮影するつもりであった。しかし、現地に行ってみると、確かに塀に囲われていたが、どういうわけだか扉に鍵はかかっていなくて、難なく中に進入することができた。
それにしても、住宅街の中に突然齋藤家の墓所があるのは少々唐突感がある。もともとこの場所に齋藤家の墓があって、あとから周囲に住宅街が形成されたというのが実態であろう(木更津市港南台3‐6‐15)。
この日は斎藤昌麿の墓を訪ねるためだけに、遥々と八王子からJRで最寄りの君津まで往復した。なかなか贅沢な旅であった。
齋藤昌麿之墓
齋藤昌麿という人物は一般にはあまり知名度は高いとはいえない。インターネットで検索しても、フィギュアスケートの宇野昌麿ばかりヒットして、当人はほんの数件という結果である。
齋藤昌麿は、江戸時代後期の享和二年(1802)に、小浜(現・千葉県木更津市小浜)の網元の家に生まれた。本名を源助といった。幼少の頃から萬龍寺住職の釋宣隆(しゃくせんりゅう)に和文漢学を習い、勉学に励んだ。三十三歳のとき、江戸浅草蔵前の札差、笠蔵屋鉄之助の勧めで、国学者橘守部に入門した。守部のもとで和歌や国学を学び、やがて勤王派を支援するようになった。このため、安政の大獄では多くの同志とともに捕えられた。慶應二年(1866)、明治維新を直前にして、商人、志士、歌人という様々な顔を持つ昌麿は、生涯を閉じた。郷土を愛し、生前「南総小浜民齋藤昌麿」の署名を好んで用いた。著作に、大獄で処刑された同志を悼む歌を収めた「夢の浮橋」、遺稿となった「昌麿家集」などがある。
神式の墓の前に齋藤昌麿の歌碑が建てられているが、流麗な草書で書かれており、文字が読み取れない。雲根斎は昌麿の号。
齋藤昌麿の歌碑
昨年、探し当てられなかった齋藤昌麿の墓の場所について、木更津市教育委員会に問い合わせたところ、以下のとおり丁寧な返信をいただいた。
――― お尋ねの齋藤昌麿の墓ですが、所在は旧小浜ですが、現在の地名では港南台三丁目6番の住宅地の中、階段を登ったところにあります。しかし、木更津市のホームページに掲載していますとおり、私有地で非公開となっております。
現地を訪問するということでしたら、塀で囲まれているため、塀の外から隙間越しまたは高さ180センチの塀の上より見ていただく形となりますが、昨日確認したところ、ともに良くは見えません。
「高さ180センチの塀」に囲われているということなので、一脚を持参して塀越しに撮影するつもりであった。しかし、現地に行ってみると、確かに塀に囲われていたが、どういうわけだか扉に鍵はかかっていなくて、難なく中に進入することができた。
それにしても、住宅街の中に突然齋藤家の墓所があるのは少々唐突感がある。もともとこの場所に齋藤家の墓があって、あとから周囲に住宅街が形成されたというのが実態であろう(木更津市港南台3‐6‐15)。
この日は斎藤昌麿の墓を訪ねるためだけに、遥々と八王子からJRで最寄りの君津まで往復した。なかなか贅沢な旅であった。
齋藤昌麿之墓
齋藤昌麿という人物は一般にはあまり知名度は高いとはいえない。インターネットで検索しても、フィギュアスケートの宇野昌麿ばかりヒットして、当人はほんの数件という結果である。
齋藤昌麿は、江戸時代後期の享和二年(1802)に、小浜(現・千葉県木更津市小浜)の網元の家に生まれた。本名を源助といった。幼少の頃から萬龍寺住職の釋宣隆(しゃくせんりゅう)に和文漢学を習い、勉学に励んだ。三十三歳のとき、江戸浅草蔵前の札差、笠蔵屋鉄之助の勧めで、国学者橘守部に入門した。守部のもとで和歌や国学を学び、やがて勤王派を支援するようになった。このため、安政の大獄では多くの同志とともに捕えられた。慶應二年(1866)、明治維新を直前にして、商人、志士、歌人という様々な顔を持つ昌麿は、生涯を閉じた。郷土を愛し、生前「南総小浜民齋藤昌麿」の署名を好んで用いた。著作に、大獄で処刑された同志を悼む歌を収めた「夢の浮橋」、遺稿となった「昌麿家集」などがある。
神式の墓の前に齋藤昌麿の歌碑が建てられているが、流麗な草書で書かれており、文字が読み取れない。雲根斎は昌麿の号。
齋藤昌麿の歌碑
(智恩寺)
早朝、娘を相模原の皮膚科に送り届けると、そのまま厚木の智恩寺を目指した。智恩寺には、荻野山中藩の斎藤春吉の墓がある。
智恩寺
章光院實窓武孝居士(斎藤春吉の墓)
斎藤春吉は、西軍伊豆軍監の命で同地警備中の慶応四年(1868)六月十八日、東軍加担の君沢郡中島村郷足軽佐野孫四郎を逮捕に行き、逆に斬られて死亡。
早朝、娘を相模原の皮膚科に送り届けると、そのまま厚木の智恩寺を目指した。智恩寺には、荻野山中藩の斎藤春吉の墓がある。
智恩寺
章光院實窓武孝居士(斎藤春吉の墓)
斎藤春吉は、西軍伊豆軍監の命で同地警備中の慶応四年(1868)六月十八日、東軍加担の君沢郡中島村郷足軽佐野孫四郎を逮捕に行き、逆に斬られて死亡。
(うみのホテル中田屋)
伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿
熱海駅から徒歩二十五分。伊豆山のうみのホテル中田屋の前に伊能忠敬測量隊一行が宿泊したことを示す木柱が建てられている。伊能忠敬一行がこの地に宿泊したのは、文化十二年(1815)十二月十七日のことであった。
伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿
熱海駅から徒歩二十五分。伊豆山のうみのホテル中田屋の前に伊能忠敬測量隊一行が宿泊したことを示す木柱が建てられている。伊能忠敬一行がこの地に宿泊したのは、文化十二年(1815)十二月十七日のことであった。
(都丸邸)
都丸邸
小栗上野介忠順が権田村観音山に用水を引き建築にかかったが主の死により未完に終わった屋敷が、前橋市総社町に移築されて現存している。
周辺は「都丸」姓の表札を掲げる家が多く、その中から旧小栗屋敷を探し当てるのは少々骨が折れる。高崎市の出している「偉人小栗上野介」というパンフレットに掲載されている写真と照らしてこれで間違いないと思う。
都丸邸
小栗上野介忠順が権田村観音山に用水を引き建築にかかったが主の死により未完に終わった屋敷が、前橋市総社町に移築されて現存している。
周辺は「都丸」姓の表札を掲げる家が多く、その中から旧小栗屋敷を探し当てるのは少々骨が折れる。高崎市の出している「偉人小栗上野介」というパンフレットに掲載されている写真と照らしてこれで間違いないと思う。
(阿弥陀堂 田口家墓地)
阿弥陀堂
真仙得忠居士 藤庭偕忠居士 金光照忠居士
(小栗父子の家臣の墓)
小栗又一の墓の横にある父子の家臣の墓を写真に収めるため、再度阿弥陀堂を訪問した。ここに葬られているのは、沓掛藤五郎、多田金之助、塚本真彦の三名。いずれも慶應四年(1868)閏四月七日、又一とともに斬首された。
阿弥陀堂
真仙得忠居士 藤庭偕忠居士 金光照忠居士
(小栗父子の家臣の墓)
小栗又一の墓の横にある父子の家臣の墓を写真に収めるため、再度阿弥陀堂を訪問した。ここに葬られているのは、沓掛藤五郎、多田金之助、塚本真彦の三名。いずれも慶應四年(1868)閏四月七日、又一とともに斬首された。