(北洋館)

北洋館
海上自衛隊の大湊基地に隣接して北洋館という建物がある。この石造りの建物は、大正五年(1916)、海軍大湊要港部の水交社として建築されたものである。水交社とは、明治九年(1876)に海軍省の外郭団体として創設された海軍士官の社交場である。東京に本部を持ち、各鎮守府・要港部に支社を置いていた。大湊の建物は当初木造で建てられたが、火災で焼失したため石造りの洋風建築により再建された。外装は、釜臥山から採石した石材を用い、内装にはモザイク模様で欄干等に手掘りの飾り付けが施されていた。海軍士官の社交場として隆盛を極めた水交社であったが、戦後一時期米軍に接収され、昭和二十九年(1954)に防衛庁に移管となり、その後海上自衛隊が所管した。昭和五十六年(1981)、内部の改修を施し、北洋館を移転して海軍資料館として活用されている。海軍の歴史のみならず、東郷平八郎の「日本海海戦の勝利は小栗さん(上野介忠順)のおかげ」というコメントなどが紹介されている。

北洋館の展示
(斗南藩士上陸の地碑)
海の日の三連休、何もしないで家でゴロゴロしているのはイヤだったので、青森への史跡旅行を計画した。六年振りの青森である。
時間を有効に使うために、金曜日の終業後、会社内で私服に着替え、新宿から夜行バスを利用することにした。19時45分に出たバスは、むつ下北駅前にほぼ半日後の午前八時前に到着する。十二時間あればヨーロッパまで行けてしまう時代、青森への時間距離はかなり遠い。
夜行バスの車内は決して快適とはいかず、例によって早々にいびきをかき始める肥満した青年を尻眼に、眠れない時間を過ごした。下北駅前に立ったときの開放感は格別であった。ここでレンタカーを入手して、むつ市内を探索する。
下北半島は、戊辰戦争後、会津藩が移住した土地である。当時斗南藩領は三万石と称されたが、実際には極寒不毛の地であった。移住した会津藩士たちは、飢えと厳しい寒さに苦しんだ。この地における極限の生活を知るには「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)を読むことがもっとも近道であろう。私がむつ市を訪れた時、梅雨の晴れ間がまぶしいくらいの好天で、とても会津藩士たちの苦難を想像することはできなかった。
最初の訪問地は、会津藩士上陸の地である。斗南藩に移住した会津藩士は、山川浩以下約一万七千人といわれる。明治三年(1870)春、新潟から海路をたどってこの地に至り、上陸を果たしたといわれる。上陸の地の碑は、鶴ヶ城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松より取り寄せ、飯盛山をイメージして組み立てたものである。この記念碑は遠く会津若松と向き合って建てられている。
斗南藩士上陸の地碑
(釜臥山)

釜臥山
斗南藩士上陸の地から釜臥山を臨むことができる。むつ市の至る場所から釜臥山(標高878メートル)を仰ぐことができるが、移住した会津藩士はこの山を故郷の磐梯山に見立て「斗南磐梯」と呼んだ。山頂には展望台が設けられ、ここから見下ろすむつ市の夜景は大変美しいらしいが、今回はここで夜を過ごさなかったのでお預けである。
(呑香稲荷)
呑香稲荷
旧斗南藩柴五郎一家居住跡
運動公園の東側の未舗装道路を数百メートル北上すると、そこに吞香神社の赤い鳥居がある。ここ落の沢は、柴五郎一家が家族で過ごした場所である。柴五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ、戦場なれば犬肉なりとて食らうものぞ、やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と叱咤し、幼い柴五郎は「嘔吐を催しつつ、犬肉の塩煮を飲み込」んだという。
(円通寺)

円通寺
徳玄寺に隣接する円通寺の本堂前に、招魂之碑が建てられている。建碑は明治三十三年(1900)。撰文ならびに書は南摩綱紀。
以下、読み下し文
――― 明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎として風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び生者は皆、一視同仁(差別を設けず全て同じように愛する)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙たる野草の間を彷徨し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲庚子(かのえね)はその三十三年忌辰なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。
円通寺は斗南藩の仮館として藩庁が設置された場所で、松平容保、容大父子が起居をともにした。現在もこの寺には容大公愛玩の布袋像などが保存されている。
招魂之碑
(徳玄寺)

徳玄寺
徳玄寺は、幼い藩主松平容大(かたはる)が食事や遊びの際に使用された場所である。当時三歳の容大は、移住した藩士を激励するために各地を回村し、人々の精神的支柱となった。
徳玄寺では、重臣たちが会議を開き、大湊の開港や種々の産業開発などが議論され、実行に移された。
(斗南藩史跡地)
斗南藩史跡地
この地に、領内開拓の拠点として斗南藩が市街地を設置し、「斗南ヶ丘」と名付けた。明治三年(1870)、一戸建約三十棟と二戸建約八十棟を建築し、東西には大門を建てて門内への乗り打ちを禁止した。町内十八か所に堀井戸を作り、屋敷割は土塀を巡らせて区画されていた。しかし、下北の過酷な気候は斗南藩士の夢を打ち砕いた。想像を超える風雪により建物は倒壊し、追い打ちをかけるように野火に襲われ、次々と藩士たちはこの地から転出した。今はわずかに当時の土塀が残されているのみである。

斗南ヶ岡市街地跡
斗南藩史跡地には「秩父宮両殿下御成記念碑」が建てられている。この石碑は、昭和十一年(1936)十一月、皇弟秩父宮雍仁親王殿下とその妃勢津子殿下が下北郡下を巡遊し、その際に斗南ヶ丘も立ち寄ったことを記念して昭和十八年(1943)に建立されたものである。昭和三年(1928)、秩父宮殿下と松平容大の令姪松平節子(婚礼後勢津子と改名)戸の婚儀は、戊辰以降、朝敵という汚名を負って生きてきた会津人にとって大きな喜びをもって歓迎された。さらに最果ての地にまで両殿下に足を運んでもらったという感激から、会津相携会(その後、斗南会津会)が中心となってこの碑が建立された。

秩父宮両殿下御成記念碑
私が斗南ヶ丘を訪ねた時、近所の子供たちがおままごとの真っ最中であった。子供たちから大きな声で「いらっしゃいませ」と声をかけられた。

斗南藩屋敷土塀跡
(旧斗南藩墳墓の地)
旧斗南藩墳墓の地
斗南藩追悼之碑
斗南の生活のあまりの過酷さに、藩の権大参事として実質的なリーダーであった山川浩は
みちのくの斗南いかにと人問はば
神代のままの国と答へよ
と詠んだ。ここには旧会津藩士の追討碑と数基の墓碑、それに斗南ヶ丘で唯一生き残った島影家の墓所が残されている。

斗南藩士の墓
左は思案橋事件にて逮捕、斬罪に処された竹村俊秀の祖母の墓である。
島影家の墓