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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末群像の墓を巡る」 合田一道著 青弓社

2016年08月27日 | 書評
「北の墓」と同じ著者による「墓巡り」の本である。著者は北海道の出身で、北海道を拠点に著作活動を続けているが、本書は対象を全国区に広げている。自ずと、西郷隆盛や高杉晋作、勝海舟、吉田松陰、近藤勇といったビッグネームばかりが並ぶが、墓を前にその主と対話するという姿勢には、大いに共感を覚える(さすがに森有礼の墓の前でワインを傾けるところまで私はやりませんけど…)。
この本で紹介されている墓については、九割以上は訪問済みであるが、それでも新たな発見があった。本書では橋本左内の福井の墓所について触れられていないが、一方で南千住の円通寺にも左内の墓があるという。これは知らなかった。
長野主膳の墓に関しても、彦根清凉寺の墓についてはこの本で初めて知った。早速、先日 ――― 無茶苦茶暑い日であったが ――― 清凉寺に行ってきた。尊攘派の恨みを一身に集め、最期は藩の保全のために斬られた男の墓である。本堂の裏手の山の奥に、本当にひっそりと建てられていた。
近藤勇の墓は、この本で紹介されているように、恐らく幕末に生きた人物の中では最多であろう。数え方によも拠るが、五つないし六つが確認できる。新選組のトップということで、尊攘派には蛇蝎のように嫌われたが、さすがにそれなりの人望があった証であろう。「近藤勇の墓を訪ねるのは大変」と書かれているが、一応私は全て網羅したつもりでいた。円通寺の墓は、知らなかった。本書には京都壬生寺にも墓があるように記載されているが、これは胸像の後ろにある遺髪塔のことらしい。本書でも紹介されていないし、一般にはあまり知られていないが、米沢高国寺にも墓がある。近藤勇の墓を全て巡るのは、相当困難な道のりであることは間違いない。

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青森 Ⅱ

2016年08月26日 | 青森県
(常光寺)


常光寺

 常光寺は、清水谷公考が本陣を置いた寺院である。コンクリート製に建て替えられており、往時をしのぶことはできないが、広い境内は昔のままだろう。

(三内霊園)
 新幹線の新青森駅から南に一キロほど行くと、大きな霊園がある。これが三内霊園である。ちょうどその中央付近に戊辰戦争戦死者の墓が集められた一画がある。三内霊園の墓は、市内の戊辰堂、常光寺、蓮華寺、蓮心寺に官修墓地として祭祀されていたが、昭和二十三年(1948)官修墓地制度が廃止となり、その後の管理が各市町村へ移管されたのを機に、青森市がこの地に改装したものである。


官修墓地

 いずれも異郷の地から政府軍の一員として箱館戦争に参加して戦病死した人たちである。

渡辺吉太郎(水戸) 黒羽平七(水戸) 吉田留五郎(大野) 福田佐市(津) 広瀬佐兵衛(津) 森田芳次郎(津)  勝島喜左衛門(津) 今井環平(岡山) 河村秀三郎(福山) 中木初右衛門(福山) 李家内蔵太(長州) 重吉(長州) 柴田平助(長州) 長松登人(長州)  松原啓助(長州) 吉田甲熊(長州) 清水留之進(徳山) 竹蔵(徳山)  藤川駒之進(徳山) 藤村隼人(西条)

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野辺地 Ⅱ

2016年08月26日 | 青森県
(藩境塚)
現在も二本又川が野辺地町とその隣の平内町の町境となっているが、江戸時代、津軽藩と南部藩の境界であった。境界を示す塚が、津軽藩領側と南部領、それぞれ二基ずつ、計四基築造されている。築造年代は不明。


藩境塚

(町立中央公民館)


野辺地代官所跡

野辺地は北前船の寄港地であり、尾去沢鉱山の産出物を搬出する港でもあった。さらに敵対する弘前藩に対する最前線でもあり、下北に通じる交通の要衝でもあった。そのため、盛岡藩では代官所を設置して、常時代官を配置していた。慶應四年(1868)の野辺地を舞台として戦争では、野辺地代官所も激戦地となり、盛岡藩では津軽藩を敗走させた。現在、代官所跡には公民館や図書館が開設されているが、目立った遺構は見当たらない。

(大砲台場跡)


大砲台場跡

風間浦から折り返して、次の目的地は野辺地である。六年前にも野辺地に足を運んだが、その時回り切れなかった史跡を訪ねる。
大砲台場は、盛岡藩によって安政三年(1856)に築造された台場である。慶応四年(1868)の戊辰戦争では、野辺地を艦砲射撃した新政府軍の船に対し、盛岡藩ではこの台場から反撃した記録が残っている。

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風間浦

2016年08月26日 | 青森県
(海峡いさり火公園)


海峡いさり火公園


新島襄寄港記念碑

むつ市から三十キロメートル以上離れるが、ここから一時間足らずのドライブで風間浦の海峡いさり火公園に達する。海辺に造られたこの公園には潮の干満により海水を引き入れる仕組みになっている池がある。
新島襄は元治元年(1864)四月十八日から二十日にかけて、洋式帆船快風丸にて箱館へ向けて航海中、この地(下風呂)に寄港した。新島襄は、温泉の快適さや当地における見聞を「箱館紀行」に書き留め、江戸の実父にも書き送っている。この時点から二か月後の六月十四日、箱館から脱国してアメリカに渡った。このことを記念して、平成四年(1992)、この石碑が建立された。

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むつ

2016年08月26日 | 青森県
(北洋館)


北洋館

海上自衛隊の大湊基地に隣接して北洋館という建物がある。この石造りの建物は、大正五年(1916)、海軍大湊要港部の水交社として建築されたものである。水交社とは、明治九年(1876)に海軍省の外郭団体として創設された海軍士官の社交場である。東京に本部を持ち、各鎮守府・要港部に支社を置いていた。大湊の建物は当初木造で建てられたが、火災で焼失したため石造りの洋風建築により再建された。外装は、釜臥山から採石した石材を用い、内装にはモザイク模様で欄干等に手掘りの飾り付けが施されていた。海軍士官の社交場として隆盛を極めた水交社であったが、戦後一時期米軍に接収され、昭和二十九年(1954)に防衛庁に移管となり、その後海上自衛隊が所管した。昭和五十六年(1981)、内部の改修を施し、北洋館を移転して海軍資料館として活用されている。海軍の歴史のみならず、東郷平八郎の「日本海海戦の勝利は小栗さん(上野介忠順)のおかげ」というコメントなどが紹介されている。


北洋館の展示

(斗南藩士上陸の地碑)
海の日の三連休、何もしないで家でゴロゴロしているのはイヤだったので、青森への史跡旅行を計画した。六年振りの青森である。
時間を有効に使うために、金曜日の終業後、会社内で私服に着替え、新宿から夜行バスを利用することにした。19時45分に出たバスは、むつ下北駅前にほぼ半日後の午前八時前に到着する。十二時間あればヨーロッパまで行けてしまう時代、青森への時間距離はかなり遠い。
夜行バスの車内は決して快適とはいかず、例によって早々にいびきをかき始める肥満した青年を尻眼に、眠れない時間を過ごした。下北駅前に立ったときの開放感は格別であった。ここでレンタカーを入手して、むつ市内を探索する。
下北半島は、戊辰戦争後、会津藩が移住した土地である。当時斗南藩領は三万石と称されたが、実際には極寒不毛の地であった。移住した会津藩士たちは、飢えと厳しい寒さに苦しんだ。この地における極限の生活を知るには「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)を読むことがもっとも近道であろう。私がむつ市を訪れた時、梅雨の晴れ間がまぶしいくらいの好天で、とても会津藩士たちの苦難を想像することはできなかった。
最初の訪問地は、会津藩士上陸の地である。斗南藩に移住した会津藩士は、山川浩以下約一万七千人といわれる。明治三年(1870)春、新潟から海路をたどってこの地に至り、上陸を果たしたといわれる。上陸の地の碑は、鶴ヶ城の石垣にも使用されている慶山石を会津若松より取り寄せ、飯盛山をイメージして組み立てたものである。この記念碑は遠く会津若松と向き合って建てられている。


斗南藩士上陸の地碑

(釜臥山)


釜臥山

斗南藩士上陸の地から釜臥山を臨むことができる。むつ市の至る場所から釜臥山(標高878メートル)を仰ぐことができるが、移住した会津藩士はこの山を故郷の磐梯山に見立て「斗南磐梯」と呼んだ。山頂には展望台が設けられ、ここから見下ろすむつ市の夜景は大変美しいらしいが、今回はここで夜を過ごさなかったのでお預けである。

(呑香稲荷)


呑香稲荷


旧斗南藩柴五郎一家居住跡

運動公園の東側の未舗装道路を数百メートル北上すると、そこに吞香神社の赤い鳥居がある。ここ落の沢は、柴五郎一家が家族で過ごした場所である。柴五郎の厳父佐多蔵は「ここは戦場なるぞ、戦場なれば犬肉なりとて食らうものぞ、やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と叱咤し、幼い柴五郎は「嘔吐を催しつつ、犬肉の塩煮を飲み込」んだという。

(円通寺)


円通寺

徳玄寺に隣接する円通寺の本堂前に、招魂之碑が建てられている。建碑は明治三十三年(1900)。撰文ならびに書は南摩綱紀。
以下、読み下し文
――― 明治戊辰の乱、会津藩士各地に奮戦す。死者数千人、その忠勇節烈は凛乎として風霜を凌ぐ。乱平ぐに及び生者は皆、一視同仁(差別を設けず全て同じように愛する)の澤(恩恵)に浴す。而して死者の幽魂は独り寒煙たる野草の間を彷徨し、その所を得ず。ああ哀しいかな、今茲庚子(かのえね)はその三十三年忌辰なり。是に於いて旧藩士の南部下北郡に居する者、碑を圓通寺に建て、招魂の祭りをあい謀る。この寺は即ち旧藩主容大公の斗南に封せらる時の館なる所也。

円通寺は斗南藩の仮館として藩庁が設置された場所で、松平容保、容大父子が起居をともにした。現在もこの寺には容大公愛玩の布袋像などが保存されている。


招魂之碑

(徳玄寺)


徳玄寺

徳玄寺は、幼い藩主松平容大(かたはる)が食事や遊びの際に使用された場所である。当時三歳の容大は、移住した藩士を激励するために各地を回村し、人々の精神的支柱となった。
徳玄寺では、重臣たちが会議を開き、大湊の開港や種々の産業開発などが議論され、実行に移された。

(斗南藩史跡地)


斗南藩史跡地

この地に、領内開拓の拠点として斗南藩が市街地を設置し、「斗南ヶ丘」と名付けた。明治三年(1870)、一戸建約三十棟と二戸建約八十棟を建築し、東西には大門を建てて門内への乗り打ちを禁止した。町内十八か所に堀井戸を作り、屋敷割は土塀を巡らせて区画されていた。しかし、下北の過酷な気候は斗南藩士の夢を打ち砕いた。想像を超える風雪により建物は倒壊し、追い打ちをかけるように野火に襲われ、次々と藩士たちはこの地から転出した。今はわずかに当時の土塀が残されているのみである。


斗南ヶ岡市街地跡

斗南藩史跡地には「秩父宮両殿下御成記念碑」が建てられている。この石碑は、昭和十一年(1936)十一月、皇弟秩父宮雍仁親王殿下とその妃勢津子殿下が下北郡下を巡遊し、その際に斗南ヶ丘も立ち寄ったことを記念して昭和十八年(1943)に建立されたものである。昭和三年(1928)、秩父宮殿下と松平容大の令姪松平節子(婚礼後勢津子と改名)戸の婚儀は、戊辰以降、朝敵という汚名を負って生きてきた会津人にとって大きな喜びをもって歓迎された。さらに最果ての地にまで両殿下に足を運んでもらったという感激から、会津相携会(その後、斗南会津会)が中心となってこの碑が建立された。


秩父宮両殿下御成記念碑

私が斗南ヶ丘を訪ねた時、近所の子供たちがおままごとの真っ最中であった。子供たちから大きな声で「いらっしゃいませ」と声をかけられた。


斗南藩屋敷土塀跡

(旧斗南藩墳墓の地)


旧斗南藩墳墓の地


斗南藩追悼之碑

斗南の生活のあまりの過酷さに、藩の権大参事として実質的なリーダーであった山川浩は

みちのくの斗南いかにと人問はば
 神代のままの国と答へよ

と詠んだ。ここには旧会津藩士の追討碑と数基の墓碑、それに斗南ヶ丘で唯一生き残った島影家の墓所が残されている。


斗南藩士の墓

左は思案橋事件にて逮捕、斬罪に処された竹村俊秀の祖母の墓である。


島影家の墓
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坂東

2016年08月20日 | 茨城県
(高聲寺)


高聲寺

 暑い日であった。茨城県坂東市には鉄道が通じておらず、公共交通機関としては路線バスがあるのみである。高聲寺に行き着いた時には汗が止まらなかった。


官軍先鋒 長門藩
田中甚吉藤原利一之墓


田中甚吉藤原利一之墓

 山門左手に長州藩田中甚吉の墓がある。大きな墓標の裏にある小さな墓石が本墓であろう。田中甚吉は長州藩装条銃足軽。第一大隊。慶応四年(1868)四月二十日、下総岩井における戦闘にて戦死。二十四歳。
 岩井で戦争があったことはあまり知られていない。田中甚吉は恐らく数少ないその戦死者である。

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寄居

2016年08月20日 | 埼玉県
(大日堂)
 松澤良作の墓を訪ねて、寄居の大日堂を訪問した。本堂に向い合うように松澤家の墓所があり、その一角に「松澤正景」と記された墓石が良作のものである。


大日堂


松澤正景(良作)墓

 松澤良作は、富田村(現・埼玉県寄居町)の出身。文久三年(1863)、清河八郎が画策した浪士組に参加し、江戸に帰還した。横浜異人街への焼き討ちを計画したが、清河八郎が幕府の手によって斬殺されたため、計画は頓挫した。松澤良作も、同志村上俊五郎、石坂修造、和田理一郎、藤本昇、白井庄兵衛らとともに捕縛されそうになったが、唯一人重囲を脱して生き延びた。明治十二年(1879)八月、六十一歳で死去した。

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前橋 Ⅵ

2016年08月20日 | 群馬県
(大胡)


大前田英五郎の墓

 先日、大前田の大前田英五郎の墓を訪ねたところであるが、同じ前橋市内大胡の墓を訪問した。最寄駅は上毛鉄道の大胡(おおご)駅。向町の交差点の少し東側に墓地があり、その前に「大前田英五郎の墓」と記された大きな石碑が建てられている。向町は大前田英五郎が屋敷を構えた場所である。
 この墓石にも大前田の墓と同じく、英五郎の戒名「歓広院徳寿栄翁居士」と刻まれている。


大前田英五郎像

 墓の横には英五郎の石像や事歴を刻んだ過去碑、座像を浮き彫りにした碑も建てられている。英五郎の辞世の句

 あらうれし 行先とほき死出の旅

(三夜沢赤城神社)
 三夜沢(みよさわ)赤城神社は、赤城信仰の中心をなし、長い歴史をもつ。明治二年(1869)に建造された本殿や中門、拝殿はいずれも県の文化財に指定されている。


赤城神社


石燈籠

 ここに大前田英五郎寄進の石灯籠があるというので、参道の燈籠を一つひとつ確認して歩いたが、特定することはできなかった。鳥居を入って右手の石灯籠には大前田村の文字が刻まれていたので、取り敢えず「参考記録」ということでご了承願いたい。

(産泰神社)


産泰神社


大前田英五郎寄進の石燈籠

 産泰(さんたい)神社は、安産祈願、七五三、お宮参りなどで賑わう。参道の一番下の石灯籠には大前田英五郎の本名である「田島英五郎」という名前が寄進者の一人として刻まれている。

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草津

2016年08月19日 | 群馬県
(古久長旅館)
 草津温泉へは、関越自動車道から西に八十キロメートル程。決して交通至便なロケーションではないが、温泉街はいつも大勢の観光客、湯治客で賑わっている。


古久長旅館

 草津温泉の古久長(こくちょう)旅館は、佐久間象山が正妻のお順(勝海舟の妹)とともに草津温泉を訪れた際、定宿としていた。幕末当時は三階建ての豪壮な館だったが、明治二年(1869)四月七日未明の草津温泉の大火に巻き込まれ、その後再建されたものである。

(西の河原公園)


西の河原公園

 温泉街の西側に、温泉が湧出する西の河原(さいのかわら)公園がある。この公園のネーミングは、「賽の河原」とひっかけたもので、たしかに草木の生えない河原に滾々と温泉が湧き出る様は「賽の河原」を連想させるものである。


ベルツ像


スクリバ像

 公園の一画にベルツとスクリバ両博士の胸像が置かれている。ヒゲを生やした両者の像は、そっくりである。両博士は、東京帝国大学に招かれ「内科にベルツ、外科にスクリバあり」といわれて、我が国近代医学の基礎を築いた。両氏は無二の親友で、ともに草津温泉を化学的に研究し、その医学的効能を世界的に知らしめた。スクリバは草津町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれた。ここに置かれた胸像は、東京大学構内の両博士の胸像が、戦時中供出される際にコンクリートでコピーしたもの(ベルツ記念館に展示)で、戦後草津町に贈られたものを、平成四年(1992)、建て替えられたものである。傍らにはベルツ先生記念碑(昭和十年建碑)が建てられている。


ベルツ先生記念碑


(ベルツ記念館)


ベルツ記念館

 道の駅「草津運動茶屋公園」の向かい側にベルツ記念館がある。一階はどこにでもあるお土産屋であるが、その二階にベルツ関係の資料が展示されている。拝観は無料。展示は、意外と充実している。


ベルツ記念館の展示
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中之条 Ⅱ

2016年08月19日 | 群馬県
(民宿山市屋)


民宿山市屋


デシャルム大尉宿泊記念碑

 みなかみ町から草津温泉郷に向かう途中、暮坂峠を越えた辺りに民宿山市屋がある。外から見た限り、営業はしていないようであるが、オーナーの趣味だろうか、建物の周りにちょっと鬱陶しいほど記念碑や文学碑などが建てられている。幕末維新に関係したところでは、フランス軍人デシャルム大尉の宿泊記念碑がある。デシャルムはナポレオン三世が幕府の要請に応えて派遣した軍人の一人で、幕軍が敗戦した後、明治五年(1872)再来日して日本陸軍の近代化に尽くし、少将に任じられた。草津や伊香保の温泉を最初に欧米に紹介した人としても知られる。
 また高野長英も天保七年(1836)以降、何度か赤岩の湯本家に足を運んでおり、暮坂を通過したものと思われる。
 小栗上野介夫人みち子一行も、慶応四年(1868)、広池から暮坂を経て世立、和光原方面に逃れた記録が残る。

(下沢渡)
 昭和五十年(1975)、下沢渡の剣持家で地租改正の絵図が発見された。地租改正は、明治新政府が税金の制度や土地制度を改めることによって財政基盤を確立するために行ったもので、群馬県では明治九年(1876)から十四年にかけて実施された。土地を測量して、地図や地引帳を作り、地価(土地台帳にある土地の値段)を決め、地券(土地所有者の証書)を発行して税金の額が決められた。この絵図は、下沢渡村の測量、地積図作り、地引帳作りなどの作業が、役職員、係員らによってどのように行われたかを絵にしたもので、役人はザンギリ頭、地元の総代はチョンマゲ姿で描かれている。


地租改正の絵図
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