伊豆大島 |
大島町 |
波浮港・与謝野鉄幹歌碑・踊子の里 甚の丸邸・秋広平六の墓・徳島藩士の墓・徳島甲午事変志士之墓・史跡名勝 鉄砲場・史蹟「鉄砲場」・波浮港見晴台・秋広平六翁之像・「アンコ椿は恋の花」碑・岡田港・力士 大島傳吉碑 |
新 島 |
新島村 |
サルビア号・新島・相馬主計の碑・主計の扇子碑・相馬主計肖像・向畑刑場跡・処刑された流人の墓・自緑信士(蝙蝠の安の墓)・謎の榎・流人牢屋跡・長栄寺・山門の金剛力士像・流人墓地・上平主税の歌碑・名主吉兵衛の墓・新島村博物館・博物館の展示・「流人の肖像」コーナー・湯の浜露天温泉 |
三宅島 |
三宅村 |
橘丸・浅沼稲次郎生家・浅沼稲次郎先生像・旧島役所跡・「篤姫」ゆかりの蘇鉄・ビャクシン・小金井小次郎の井戸・普済院・小金井小次郎の首切り地蔵・小金井小次郎の地蔵尊・善陽寺・巡査二木金次之墓・伊豆岬灯台・后神社・井上正鐡歌碑・伊ヶ谷港・大林寺・処刑場跡・竹内式部之像・竹内式部先生之墓・生嶋新五郎之墓・禊教三宅島分院・井上正鐡霊神・井上正鐡大人泉津山祈雨之道・井上正鐡の腰掛石・南無妙法蓮華経大木主水墓(宮太柱の墓)・今崎海岸・めがね岩・三宅島郷土資料館・浅沼稲次郎像・七島展望台・御蔵島・富賀神社・乃木希典石像・大路池・長太郎池・遇光生善信士(藤五郎の墓)・供養塔・釜の尻砲台跡 |
御蔵島 |
御蔵島村 |
御蔵島・橘丸・玉石の海岸・ガソリンスタンド・稲根神社・ヴァイキング号記念碑・ヴァイキング号のギャプスタンを台座に使用した燈籠・ヴァイキング号の錨・高橋基生先生顕彰碑・三宝神社・三宝神社に祀られている三人の銅像・栗本一郎翁の墓・明治元年 露國商船溺死者之墓・古入金七人之墓・奥山交竹院之墓・伊豆諸島東京都移管百周年記念碑・御蔵島観光資料館・郷土資料館・ヴァイキング号模型・祖霊社・栗本鋤雲胸像の原型・栗本一郎辞世碑・蔵屋敷跡・鉄砲場・鉄砲場からの眺望・東京湾に沈む夕日 |
八丈島 |
八丈町 |
橘丸・西山卜神居記碑・西山卜神居記碑 拓本・近藤富蔵居宅跡・尾端観音・招魂社・開善院善光寺・近藤守真(富蔵)の墓・近藤富蔵之碑・「八丈実記」・宗福寺・慈運法印(御赦免花の碑)・島酒の碑・宇喜多秀家の墓・石山留五郎の墓・宇喜多秀家住居跡・宇喜多秀家縁の蘇鉄・八丈島歴史民俗資料館・近藤富蔵翁之歌碑・流人コーナー・大里の玉石垣・大阪トンネル展望台からの眺め・梅辻規清墓・長戸路屋敷・末吉水碑・みはらしの湯・底土港・ハイビスカス・カタツムリ・飛行機からの夕日 |
父 島 |
小笠原村 |
竹芝桟橋・おがさわら丸後部デッキからの眺め・二等寝台・二見港・ペリー提督来航記念碑・ペリー提督肖像・小笠原水産センター・ゲストハウス やすおん家・ナサニエル・セボレーの墓・大根山墓地・三日月山・大神山神社・野牛山・野生化したヤギ・丸山・鏑木余三男之碑・遭難者冥福の碑・行幸啓記念・行幸紀念碑・ADMIRAL RADFORD ELEMENTARY SCHOOL CHICHIJIMA B.I.・阿利孝太郎紀功碑・咸臨丸墓地・西川倍太郎(ますたろう)墓・曾田醇蔵之墓・朝陽丸水夫の墓・離念道帰信士(浅野兼五郎の墓)・柳生久丘之墓・藤森圖高之墓・海軍墓地・小笠原神社・無人島発見之碑・扇浦・二見港方面・開拓小笠原島之碑・にほへ碑・小笠原島新はり乃記碑・藤森圖高碑・小花作助之碑・小花橋・旭山・長崎展望台より兄島を一望・旭山山頂・大根崎と烏帽子岩・旭山山頂より二見方面・旭平展望台・兄島・初寝浦展望台のモニュメント・初寝浦・首のない二宮金次郎像・小港海岸・コペペ海岸・スジクロハギ・シマハギ・シャコガイ・オオヤドカリ・南島・釣浜海岸・宮の浜海岸・ヤマブキベラ・ヤリカタギ・フエヤガラ・スジクロハギ・ロクセンスズメダイ・アノールトカゲ・製氷海岸・大村海岸・境浦海岸・見送りの人々・見送りの船 |
母 島 |
小笠原村 |
月ヶ岡神社・菊池翁功徳碑・沖港・清見寺・蟲塚(むしづか)・ゼイムス・モットレイ ケテー・モットレイ 墓・良志羅留普墓(ロルフス・ラルフの墓)・ロース記念館・ロース石製品の展示・ロース石・ロースから小花作助に差し出した書簡・ロルフスラルフ 良志羅留普之像・乳房山登山口・剣先山・ガジュマル・乳房山山頂・御臨幸紀念・行幸紀念・外来種アフリカマイマイ・母島丸・クジラ・クジラ・弟島・母島丸 |
芝公園 |
港区 |
増上寺・徳川家霊廟・家茂の墓・和宮の墓・皇女和宮像・弔魂之碑・ペルリ提督の像・遣米使節記念碑・芝東照宮・武田竹塘先生紀功碑・安養院・長岡謙吉夫妻之墓・高知藩留学候補生の墓・妙定院・前田正名家墓・皇太后宮大夫正二位勲三等萬里小路博房卿之墓・和宮像・花嶽院・山田家累代之墓・清光寺跡・伊能忠敬測地遺功表 |
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浜松町 |
港区 |
福沢近藤両翁学塾跡・赤穂藩森家上屋敷出土の石垣石・芝離宮庭園・創業記念碑・新見藩屋敷の石垣・讃岐小白稲荷神社 |
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御成門 |
港区 |
第五台場の石・安蓮社 海陸軍士戦死者之墓・日本近代初等教育発祥の地・周斎近藤邦武之墓・佐野常民胸像・開拓使仮学校跡・青龍寺・光圓寺 |
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東麻布 |
港区 |
飯倉公園 赤羽接遇所跡・中の橋・ヒュースケン事件説明板・真浄寺・稗田利八の墓 |
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麻布十番 |
港区 |
善福寺・アメリカ公使館跡・福沢諭吉 妻阿錦之墓・一の橋・専称寺・賢光院仁誉明道居士(沖田総司の墓)・賢崇寺・鍋島家墓所・中野方蔵之墓・正四位勲三等西村貞陽 室清子之墓・文学博士久米邦武 配淑子墓・上野戦死 肥前藩中地藤太盛邦之墓・會津戦死 村嶋藤左エ門之墓・野口孫太夫墓・上野戦死 肥前藩宮崎代助安禮之墓・三名の合葬墓・更科堀井・せいろそば |
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南麻布 |
港区 |
光林寺・Henry C.J.Heusken(ヒュースケンの墓)・ボーイ伝吉(DAN-KUTCH)の墓・海軍少佐従六位勲五等菅野覚兵衛墓・大照院釈獨明大居士(古河市兵衛の墓)・京極家之墓(京極高典の墓)・辯理公使正四位勲三等平井君墓(平井希昌の墓)・平井君墓誌銘・天真寺・舊福岡藩戊辰戦役戦病死者 墓・戊辰役従軍福岡藩戦死者墓・従五位下藤原朝臣小出播磨守嫡男清兵衛之墓・箐庵先生之墓(曲直瀬箐庵の墓)・曹渓寺・山内家累代之墓・天山藤森先生墓標・有馬氏累代之諸霊(有馬則篤の墓) |
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広 尾 |
港区~渋谷区 |
有栖川宮記念公園・有栖川熾仁親王像・祥雲寺・枢密院顧問官正二位勲一等伯爵大給恒墓・荒井君碑・久留米有馬家頼咸墓・藩難九志士之墓・荒井郁之助 配 松本氏 墓・太陽院殿前甲州刺史春窓宗華大居士・濱野定四郎墓・織田家之墓・香林院・東北寺・従二位勲二等島津忠寛之墓・従二位勲三等島津忠亮之墓・島津啓次郎之墓・法雲寺・高木家之(高木三郎)墓・江原素六先生像 |
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白金台 |
港区 |
萱野長修之墓・神保長輝墓・従三位上杉斉憲卿之墓・黒河内家墓・山本家之墓・青柳家之墓・郡家歴代之墓・正源寺・久光院忠山義芳清居士(瀬野久吾の墓)・瑞聖寺 大雄宝殿・従三位勲二等上野景範墓・高杉丹治墓・高杉丹治室大西道子之墓・光取寺・横綱力士 陣幕久五郎圡師通高墓・自然教育園 「物語の松」・八芳園・覚林寺 清正公堂・「破魔軍」 有栖川熾仁親王書 |
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田 町 |
港区 |
西郷・勝会見之地碑・薩摩屋敷跡・「芝さつまの道」・庭園などで使われていた石が椅子として再利用されている・都立三田高校・綱町三井倶楽部・済海寺 最初のフランス公使宿館跡・寛裕院殿(久松勝成)之墓・従五位久松君定昭(久松定昭)之墓・薬王寺・山内家之墓 雙松院香渓日昇居士(山内香渓の墓)・香雪山内先生之墓・天下一閑人(中林梧竹の墓)・正山寺・源阿曾美新田貞時墓・従四位上前侍従兼播磨守源貞靖朝臣墓(新田貞靖の墓)・明王院・新居家之墓(新居水竹の墓?)・亀塚公園 亀山碑・寶徳寺・常林寺・戸澤家(戸澤正實の墓)・歯科医学教育発祥之地・西応寺 最初のオランダ公使宿館跡・慶応義塾図書館・福沢諭吉胸像・福沢諭吉終焉の地碑・三田春日神社・長延寺・平内(大隅)家の墓・宝生院・日下開山横綱力士人幕久五郎碑・東京港醸造 株式会社若松屋・「江戸開城」・森永製菓株式会社 |
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泉岳寺 |
港区 |
泉岳寺・殉難戦死之碑・明治戊辰 芸州藩戦死者墓・大觀院神易呑象居士(高島嘉右衛門の墓)・明治学院記念館・ヘボン胸像・円真寺・橘耕斎墓・大石良雄外十六人忠烈の跡・旧細川家のしいの木 |
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台 場 |
港区 |
台場公園・砲台跡とレインボーブリッジ・かまど跡・第六台場 |
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品 川 |
港区~品川区 |
最初のイギリス公使宿館跡・東禅寺・薩摩藩下屋敷跡・後藤稲荷神社・高輪の森公園・旧竹田宮邸洋館・土蔵相模跡・一心寺・台場小学校・聖蹟公園・品川駅創業記念碑・御殿山ガーデン・原六郎胸像・原美術館・小松帯刀辨當・そば処 常盤軒 |
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天王洲アイル |
品川区 |
シーフォートスクエア・第五台場方面を臨む |
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新馬場 |
品川区 |
品川神社・板垣退助墓・「板垣死すとも自由は死せず」詞碑・乾庄右衛門信武墓 行年三十三歳・寒緑松本先生之碑・勝海舟筆 天地開闢大日本大社廻・勝海舟筆 葵神輿・山岡鉄舟筆・東海寺・従二位勲一等子爵長岡護美卿墓・正四位細川韶邦朝臣墓・青山家墓・正二位勲一等子爵井上勝墓・西村勝三之墓・本虚院透雲紹徹居士(渋川春海の墓)・大機院仁翁滄洲大居士(渋川景祐の墓)・本居内遠奥都伎・官営品川硝子製造所跡・天龍寺・純誠院殿仁山夫寿大居士(岩佐純の墓)・鈴木君主税之墓・清光院・末松家之墓・従五位伯爵奥平昌邁墓・觀光院殿蓮華逸堂大居士(奥平昌服の墓)・奥平家墓域・権現山公園・正徳寺・荏原神社・明治天皇御東幸内侍所奉安所 |
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青物横丁 |
品川区 |
海晏寺・松平春嶽らの墓・正三位児島惟謙 同重子之墓・従五位勲三等檜垣直枝墓・釜屋跡 |
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鮫 洲 |
品川区 |
贈従一位山内豊信公之墓・仙台藩下屋敷跡 |
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立会川 |
品川区 |
坂本龍馬像・浜川砲台跡・砲台そば・浜川砲台 復元大砲・吉田屋・品川歴史館・幕末動乱と品川台場・品川御台場築造の石 |
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西大井 |
品川区 |
伊藤博文墓・伊藤博文胸像・如来寺・従四位巌光院殿智達映雲大居士(植村家教墓)・宗家墓地・摂政院殿正二位普薫明徹大居士(宗義達墓)・誠心院秋嶽澄照居士(佐須伊織の墓) |
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戸越公園 |
品川区 |
戸越公園・薬医門・国文学研究資料館 |
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武蔵小山 |
品川区 |
京極稲荷神社 |
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田園調布 |
大田区 |
東光院・勇士碑 |
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多摩川 |
大田区 |
浅間神社・勝海舟筆 食行身禄之碑・夕暮の多摩川 |
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洗足池 |
大田区 |
洗足池・洗足軒跡・勝海舟夫妻の墓・留魂祀・西郷南洲詩碑・勝海舟夫妻の墓前の水盤・鳳凰閣 |
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梅屋敷 |
大田区 |
明治天皇行幸所蒲田梅屋敷跡・梅屋敷・里程標 |
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池 上 |
大田区 |
池上本門寺・河上彦斎先生碑・應観法性居士(河上彦斎の墓)・枢密院顧問官正二位勲一等子爵 花房義質之墓・徳本院殿頼英義道日慈大居士 (松平頼英の墓)・大村家旧藩士之墓・東光岡本柳之助墓・野口家之(野口之布)墓・犀陽野口君碑・星亨之墓・清雲院殿芳光日潜居士(阿部潜の墓)・本覺院殿仁譲日種大居士(目加田種太郎の墓)・松濤園南州海舟評議処・西郷・勝 両雄会見之處碑・故石見守井戸敬甫墓(井戸弘道の墓)・馬頭観音堂・不徹子之墓(渡邉健蔵の墓) |
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大 森 |
大田区 |
大森駅考古学発祥の地碑・大森寺・魄光大尊霊・丁丑之役戦死並従軍者記念碑・大経寺・都史跡 鈴ヶ森遺跡・勇猛院日健・勇猛院日健尊儀・モース博士像・復元された大森貝塚・蘇峰公園・蘇峰菅原正敬(銅像台座)・山王草堂胸像前にて(昭和四年)・徳富蘇峰胸像・山王草堂記念館 蘇峰の書斎を再現したもの・厳正寺 |
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蒲 田 |
大田区 |
安泰寺・月形家之墓・春耕月形先生墓 |
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三軒茶屋 |
世田谷区 |
教学院・烏山藩主大久保家の墓・有道院四品好学正義居士大久保忠愨(ただなお)の墓・高熠院殿星嶽秀顕大居士大久保忠禮(ただのり)の墓・故陸軍伍長従五位大久保忠良墓・秋暉(しゅうき)岡本先生之墓 |
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世田谷 |
世田谷区 |
豪徳寺・招き猫・井伊直弼墓・井伊直弼夫人墓・桜田殉難八士之碑・遠城謙道墓碑・井伊直憲公墓・忠正公神道碑・黄石岡本先生墓・日下部東作(鳴鶴)之墓・鳴鶴先生碑銘・瘞首塚碑・井伊直安墓・世田谷代官屋敷・代官屋敷 表門・松陰神社(2006年5月撮影)・松陰神社・石燈籠・松陰先生像・松陰の墓・長藩 中谷正亮源實之墓・来原良蔵妻和田春子之墓・子爵野村靖之墓・長州藩邸没収事件関係者慰霊碑・長藩第四大隊戦死者招魂碑・松下村塾模型・広沢真臣顕彰碑・公爵桂太郎之墓・吉田松陰先生像・勝国寺・贈正五位簫海土屋先生之墓 |
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下高井戸 |
世田谷区 |
西福寺・故伊賀守服部君墓碑銘・服部一族の墓・服部常純之墓 |
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千歳烏山 |
世田谷区 |
幸龍寺・小笠原家之墓・妙高寺・従三位子爵水野忠弘之墓 従四位水野忠精之墓・浄因寺・舊福岡藩 戊辰戦役 戦病死者旌忠碑・多聞院・舊館林藩 従五位大久保鼎墓・存明寺・先祖代々之墓(楢崎) |
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芦花公園 |
世田谷区 |
徳富蘆花旧宅・蘆花恒春園・梅花書屋・徳富蘆花夫妻之墓・故下曽根信守墓 |
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千歳船橋 |
世田谷区 |
榎本武揚先生像・移転の歴史が刻まれたモニュメント |
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東中野 |
中野区 |
宗清寺・水野忠徳墓・願正寺・新見正興墓・宝泉寺・九士之墓・相馬正胤家墓・功運寺・大関増裕の墓・境妙寺・岡部家之墓・保善寺・疋田正善之墓・疋田孝子墓・源通寺・二世河竹新七事 河竹黙阿弥墓 |
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中野坂上 |
中野区 |
成願寺・鍋島家墓所 |
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中野新橋 |
中野区 |
正蔵院・真照院良譽行教居士(川住行教の墓) |
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沼 袋 |
中野区 |
貞蔵寺伊庭八郎墓 |
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明大前 |
杉並区 |
塩硝蔵地跡・土生玄碩墓・海音寺潮五郎墓(末富家)・日本学園中学校・高等学校・学祖 杉浦重剛 |
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永 福 |
杉並区 |
大円寺・篠崎彦十郎らの名前が刻まれる墓碑・薩摩藩焼討事件殉難者の墓・戊辰薩摩藩戦死者墓・佐土原城主島津氏臣戦死者之墓・西郷家之墓・横山正太郎藤原安武墓・大山彦八墓・正七位国分友諒之墓・理性寺・大久保家之墓 |
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高円寺 |
杉並区 |
西方寺・野村三千三墓表・東円寺・十三塚之碑・長延寺・杉浦家之(杉浦梅潭)墓・鈴木重胤 配 二宮氏 墓・修行寺・成瀬正典の墓・妙祝寺・播磨守一柳直方之墓・松応寺・佐藤信淵の墓・真盛寺・三野邨利左衛門清為之墓・為春陰殿法印葺翁大居士(辻元崧庵の墓)・宗延寺・穀里馬場先生之墓・長龍寺・塚原家之墓・鳳林寺・向陵多賀谷府君墓 楽山多賀谷府君墓 酔雪多賀谷府君墓 |
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阿佐ヶ谷 |
杉並区 |
儀右エ門塚・神明宮・勝海舟直筆「天壌無窮」 |
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荻 窪 |
杉並区 |
明治天皇荻窪小休所・荻外公園・国指定史跡荻外荘・荻外荘 西園寺公望筆 |
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石神井 |
練馬区 |
三宝寺長屋門 |
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豊島園 |
練馬区 |
迎接院・蘭山小野先生墓・仁壽院・熊木家之墓(千葉さな子の墓) |
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武蔵野 |
武蔵野市 |
倚鍤碑・本立寺 |
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西東京 |
西東京市 |
総持寺・撃剣家並木先生之墓 |
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小金井 |
小金井市 |
江戸東京たてもの園・午砲・自証院霊屋・八王子同心屋敷・三光院・山岡鉄舟先生之碑・金蔵院・小金井小次郎追悼碑・小金井小次郎の墓・小金井神社・小金井小次郎寄進の狛犬 |
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国分寺 |
国分寺市 |
東京経済大学・大倉喜八郎像 建学の精神「進一層」・殿ヶ谷戸庭園 紅葉亭 |
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調 布 |
調布市 |
近藤神社・撥雲館・西光寺 近藤勇坐像・西南戦争招魂碑・西光寺・上石原名主中村家・調布市郷土資料館 近藤勇坐像・復元された近藤勇生家・祇園寺・自由の松・深大寺・戦捷紀念碑・近藤勇と新撰組ゆかりの人 伊東玄朴 |
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三 鷹 |
三鷹市 |
近藤勇胸像・龍源寺・近藤勇墓・近藤勇五郎墓・宮川信吉の墓 |
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府 中 |
府中市 |
間部詮勝の墓・阿部正外墓・原六郎墓・原六郎像・元帥海軍大将東郷平八郎墓・黒木為禎墓・陸軍大将子爵児玉源太郎墓・前内大臣従一位大勲位公爵徳大寺実則之墓・西園寺公望墓・元帥海軍大将大勲位功一級従一位侯爵西郷従道墓・柴山家先祖之墓・川村純義墓・大久保一翁の墓・河田景與(佐久馬)墓・長梅外・長三洲墓・紫川箕作先生墓・箕作麟祥先生墓・渡邊国武の墓・高見家之墓(大石團蔵の墓)・壬生基修の墓・本多家墓(本多忠民の墓)・松平家墓(松平健雄の墓)・床次家之墓(床次正精の墓)・本多家之墓(本多康穣の墓)・勝田家(勝田孫弥の墓)・中村家之墓(鈴木五郎の墓)・安藤家之墓(安藤真裕の墓)・田中義一墓・小泉家之墓(小泉信吉の墓)・安田家墓(安田善次郎の墓)・狩野良知之墓・海老名弾正之墓・海老名先生彰徳碑・林外廣瀬先生之墓・林外廣瀬君墓碑銘・青邨廣瀬先生之墓・本多庸一之墓・百敗院泡沫頑蘇居士(徳富蘇峰の墓)・淇水先生墓(徳富一敬の墓)・千秋君順之助之墓・正四位勲三等男爵森岡昌純之墓・橋口家之墓(橋口壮介の墓)・橋口次郎件兼寛墓(橋口吉之丞の墓)・故陸軍大佐従五位交野瑜墓・詩人 森春濤先生墓・伊庭家之墓(伊庭貞剛の墓)・浮田家之墓(浮田和民の墓)・内田氏墓(内田萬次郎の墓)・舟橋家之墓(舟橋聖一の墓)・吉松家之墓(吉松萬弥の墓)・土井家之墓(土井利恒の墓)・田嶋家之墓(田嶋応親の墓)・光照院殿無量真實日文大居士(河鰭實文の墓)・藤田家之墓(藤田高之の墓)・清渓山井先生之墓・介堂山井先生墓・守田家累代之墓(守田勘弥の墓)・専光院殿妙感久利大居士(仙石久利の墓) |
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府 中 |
府中市 |
普賢寺・竹遥海保先生之墓・大國魂神社・松本捨助の墓・高安寺・贈正五位木曾源太郎義顯墓・観音院・糟屋良循の墓・善明寺・西園寺實満之墓・大長寺・成合清の墓・関田家・府中市郷土の森公園・旧田中家住宅・明治天皇府中行在所・玄関~奥座敷 |
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東久留米 |
東久留米市 |
村野家 |
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東村山 |
東村山市 |
有吉家之墓(有吉佐和子の墓) |
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小 平 |
小平市 |
津田塾大学・UME TSUDA(津田梅子の墓) |
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瑞 穂 |
瑞穂町 |
円福寺・村山一直墓銘・関谷家・狭山神社・狭山茶場之碑 |
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青 梅 |
青梅市 |
板垣退助像・宗福寺・温良院恭斎義敬居士(浜中良亮の墓)・青梅商工会議所・金剛寺・金剛寺の青梅・安楽寺・光喜動了信士(中村喜左衛門の墓) |
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奥多摩 |
奥多摩町 |
竹島家 |
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国 立 |
国立市 |
本田覚庵邸・一橋大学・矢野二郎先生像 |
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立 川 |
立川市 |
中島次郎兵衛邸跡・中島氏碑・国文学研究資料館 |
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立川 砂川 |
立川市 |
流泉寺・先譽勇進信士(山崎兼助の墓) |
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日 野 |
日野市 |
高幡不動尊金剛寺・土方歳三像・殉節両雄之碑・日野宿本陣跡邸・八坂神社・天然理心流奉納額・宝泉寺・井上源三郎之碑・誠願元忠居士(井上源三郎墓)・井上家之墓(井上泰助の墓)・井上源三郎資料館・欣浄寺・日埜義貴之碑・佐藤彦五郎新選組資料館・大昌寺・佐藤家累代之墓・俊正院春譽盛車居士(彦五郎) 勧善院宣譽徳顯大姉(ノブ)・玉川居響譽祐翁居士(玉川居祐翁の墓)・馬場家先祖代々之墓(馬場平助・市次郎の墓)・日野市立新選組のふるさと歴史館・土方歳三生家跡・石田寺・土方歳三の墓・とうかん森 |
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あきる野 |
あきる野市 |
田中家之(田中不二麿)墓・丸山家・丸山惣兵衛定静の墓・地蔵院・田邊家先祖累代之墓 |
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あきる野 五日市 |
あきる野市 |
五日市憲法草案之碑・まいまい坂・深沢家屋敷跡・深沢家屋敷跡・深沢家土蔵・権八深澤氏墓 |
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南大沢 |
八王子市 |
首都大学東京・牧野標本館別館 |
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八王子 |
八王子市 |
八王子千人同心屋敷跡記念碑・宗格院・千人隊事績碑・八王子同心像・鏡覚院文英胤親居士(松本斗機蔵墓)・誠友院定静自適居士(粟沢汶右衛門墓)・河西祐助知節顕彰碑・興岳寺・石坂弥次右衛門顕彰碑・石坂弥次右衛門の墓・長安寺・伊藤猶白墓・多賀神社・絹の道資料館・絹の道・大法寺・新選組隊士 横倉甚五郎之墓・保井寺・一諾斎大道秀全居士・大塚観音(清鏡寺)・斎藤弌諾君碑・大乗寺・義勇院興郷日道居士(小川椙太の墓)・観音寺 山門・賢応院天倫玄指居士(秋山義方)墓 秋山家の墓・本立寺・厳王院殿鳶魚玄龍開士(三田村鳶魚墓)・原了潜入道平胤敦墓(原胤敦墓)・原新介平胤暉墓・法蓮寺・源以寧墓(並木以寧墓)・妙薬寺・孝徳院殿淳恭為政居士(谷合弥七の墓)・谷合弥七頌徳碑・善能寺・善龍寺・増田蔵六翁之小伝碑・極楽寺・適斎先生之碑・勇荘院斌譽得道適斎居士(塩野適斎墓)・宗徳寺・雲夢斎植田孟縉之墓・大蔵院福生寺・法蓮寺・橘正重翁寿蔵之碑・原君子剛墓碑銘・大義寺・(新藤左右助)弔魂碑・真覚寺・二宮心斎翁碑・心源院・小谷田子寅の碑・天然理心流四世 山本満次郎最武墓・大善寺・松本清張・常福寺・伊勢屋・壺伊勢・禅東院・甲州道中 八日市宿跡・高木家・真田範之介誕生の地 天然理心流剣士・高木家之墓・大和田大橋・横川家 |
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高 尾 |
八王子市 |
多摩御陵・新選組隊士中島登出生地・観栖寺・中島登の両親、先祖の墓・小仏関址・先賢彰徳碑・川村家墓地・桂福寺鐘楼山門・天然理心流開祖近藤内蔵之助の墓 同流二代 近藤三助の墓・天然理心流奉納額・桂太郎先生銅像・小菅家(藤沢周平の墓)・山地家(山地元治の墓)・「風ノ墓(山田風太郎の墓)・剣士 唐鎌松之助村雨之墓・侠客関東綱五郎住居跡・大光寺・大光寺庫裏・義顕院阿仙道翁居士(関東綱五郎の墓)・高乗寺・窪田家墓所・菅原道眞公之像・明治天皇小佛峠御小休所阯仮御野立所・三条実美歌碑・小仏城山からの眺望・富士山・興福寺・八王子千人頭 河野家・中村家累代墓所・十三代 仲次郎通聿墓・八王子千人隊同心合同墓・千人隊 同心一族の墓所 |
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狛 江 |
狛江市 |
石井家・伊豆美神社・故正四位上左近衛中将井伊直弼公敬慕碑 |
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稲 城 |
稲城市 |
妙見寺・妙見宮・ありがた山・堀伊豆守利庸墓・従五位五島盛徳之墓 |
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多 摩 |
多摩市 |
旧多摩聖蹟記念館・五賢堂・田中光顕歌碑・明治天皇御製碑・明治天皇御野立碑・対鷗台公園・明治天皇行幸所對鷗荘・御駒櫻碑・向ノ岡御野立所碑・旧富澤家住宅 |
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町 田 |
町田市 |
小島資料館・旧小島家の銅版画・小島韶斎(鹿之助)翁・近藤勇先生・小島家墓所・小島鹿之助の墓・慰霊塔・報國忠魂碑(鶴川地区) |
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町田 相原 |
町田市 |
青木家住宅・芳斎翁之碑・鶴翁院秀逸芳斎居士(青木芳斎の墓)・正覚院霊光不昧喆成居士(青木正太郎の墓)・清水寺 観音堂・近藤先生碑・善寧児先生碑 |
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町田 成瀬 |
町田市 |
東雲寺・英厳院殿石州太守泰煕弘道日忠大居士(井戸弘道の墓)・井戸石見守弘道侯顕彰碑 |
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町田 玉川学園 |
町田市 |
玉川学園・咸宜園(模築)・松下村塾(模築) |
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千 石 |
文京区 |
寂円寺・今井信郎の墓・鈴木春山墓標・対軒乙骨先生之墓・乙骨家之墓・旧林町・明治天皇行幸記念碑 |
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千駄木 |
文京区 |
森鴎外観潮楼跡・須藤公園 |
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護国寺 |
文京区 |
護国寺本堂・従一位勲一等田中光顕之墓・従一位大勲位公爵大隈重信墓・三条実美墓・清岡公張墓・山田顕義墓・大倉喜八郎墓・山県有朋墓・南部利剛墓・益田家之墓・益田孝胸像・ジョサイア・コンドル墓・岩神 井原両家累代之墓(岩神主一郎の墓)・谷口家之墓(谷口四郎兵衛の墓)・伯爵前田家累世之墓(前田利同の墓)・除闇・石燈籠・紀念碑・箏庵居士墓(高橋義雄墓)・松平治郷(不昧)の墓・安田家墓所・安田氏累代墓(安田善次郎墓)・富田家之墓・富田家之墓・従三位勲三等 下田歌子墓・豊島ヶ岡墓地・豊島ヶ岡墓地・善心寺・栗本鋤雲墓・吹上稲荷神社・大塚先儒墓所・修築大塚先儒墓記・鳩巣室先生之墓・征夷府故判読栗山先生之墓・江戸故掌教官二洲藤先生墓・侗庵古賀先生之墓・精里古賀先生之墓・茶渓古賀先生之墓・故博士寒泉岡田先生之墓・桂林寺 |
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江戸川橋 |
文京区 |
椿山荘庭園・椿山荘の碑・蕉雨園・西周先生之像・新江戸川橋公園 |
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春 日 |
文京区 |
源覚寺・織部正爽烈堀府君之墓・鐙坂・金田一京助 春彦旧居跡 |
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茗荷谷 |
文京区 |
桂太郎先生銅像・智香寺・田村家(田村銀之助)之墓・教育の森公園・旧守山藩邸碑・嘉納治五郎像・住好神社・極楽水・高橋泥舟 山岡鉄舟 旧宅跡・喜運寺・為川合好直君・慶喜公屋敷大銀杏・高源院・立君墓誌・本傳寺・三八君墓 |
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後楽園・水道橋 |
文京区~千代田区 |
後楽園庭園・藤田東湖護母致命之処碑・駐歩泉碑・藤田東湖護母致命の処・伝通院本堂・処静院跡石柱・処静院跡・清河八郎正明之墓・特命全権公使贈正三位澤宣嘉墓・杉浦重剛之墓・祥道琳瑞大和上(細谷琳瑞の墓)・真珠院・愿恭院殿勇蓮社(水野忠誠の墓)・徳川慶喜終焉の地・昌清寺・山岡八十郎墓・山田顕義先生之像・講武所跡・讃岐高松藩上屋敷跡・金刀比羅宮東京分社・礫川公園 石垣・春日局之像 |
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御茶ノ水 |
文京区~千代田区 |
湯島聖堂入徳門・東京医科歯科大学・小栗上野介邸跡・小栗上野介ここに生まれる・「権利自治・獨立自治」・神田明神・明治天皇御臨幸記念碑・ニコライ堂・法政大学発祥の地碑・開成学園発祥の地・お茶の水小学校・岩崎彌之助邸跡 蜀山人終焉の地 |
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西日暮里 |
荒川区 |
佐竹屋敷と渡辺町・向陵稲荷神社・諏訪神社・フクロウの像・正直親切の碑 |
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南千住 |
荒川区 |
小塚原回向院 橋本景岳之碑・幕末国事犯の墓・桜田烈士の墓・松陰二十一回猛士墓(吉田松陰の墓)・梅田源次郎遺墳(梅田雲濱の墓)・橋本左内の墓・関鐡之助妾伊能遺墳(瀧本伊能の墓)・雲井龍雄遺・中野方蔵先生遺墳・円通寺・死節之墓・旧寛永寺黒門・正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑・松平太郎君墓・澤太郎左衛門君記念之松・天野君八郎碑・荒井郁之助君追弔碑・正二位勲一等子爵榎本公追弔碑・合同舩・彰義隊八番隊長木下福治郎 彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道 追悼碑・彰義隊後藤鉄次郎追吊碑・佐久間貞一君記念之松・新門辰五郎碑・土肥庄次郎之碑・中田正廣之碑・永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑・町野五八君追弔碑・三幸翁之碑・良馬之碑・宗屋敷跡・大関屋敷跡・石川屋敷跡・井上省三像・井上省三君碑・橋本左内の墓旧套堂・橋本左内坐像・素戔嗚神社・旧千住製絨所煉瓦塀 |
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町 屋 |
荒川区 |
泊船軒・武田成章家墓 |
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亀 戸 |
江東区 |
亀戸天神・中江兆民翁之碑・国産マッチの創始者 清水誠の頌碑・累卵の党碑・西町太郎稲荷神社・長寿禅寺・西館弧清墓・白玉あんみつ・船橋屋 |
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森 下 |
江東区 |
五間堀公園・大久保稲荷神社・長慶寺・深川小学校誕生之地 |
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清澄白河 |
江東区 |
清澄庭園・霊巌寺・森陳明之墓・旧福井藩士 贈正五位松田東吉郎之墓・舊高田藩主 榊原家墓・浄心寺・黒川家之墓(黒川盛泰の墓?)・本立院・間宮林蔵先生之瑩域・間宮林蔵蕪崇之墓・増林寺・男谷家之墓・桑田立斎先生種痘所之跡・本邦セメント工業発祥の地・明治二十七年に製造されたコンクリートブロック・浅野総一郎像 |
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門前仲町 |
江東区 |
富岡八幡宮・伊能忠敬銅像・横綱力士碑・横綱力士碑の裏側・大関力士碑・伊能忠敬住居跡・洲崎神社・川連虎一郎碑銘・渋沢栄一宅跡・澁澤倉庫発祥の地碑・佐久間象山砲術塾跡・冬木弁天・赤穂義士休息の地 |
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越中島 |
江東区 |
調練橋・調練橋公園・明治丸・サロン・G・E・O・ラムゼー功徳碑・明治天皇聖蹟 |
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西大島 |
江東区 |
中浜万次郎宅跡 |
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平 井 |
江戸川区~墨田区 |
平井梅屋敷跡・木下川梅園の跡・平井梅屋敷跡・東墨田東公園 |
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両 国 |
墨田区 |
勝海舟先生生誕之地・共立学舎跡・台湾従軍兵糧方死者招魂之碑・義士の墓・溺死四十七人墓・要津寺・江川太郎左衛門英龍終焉之地・津軽藩上屋敷跡・栗本鋤雲住居跡・江戸東京博物館・本山白雲作 勝海舟胸像・常設展示 朝野新聞社・仙台藩船着場・旧安田庭園・舟橋聖一生誕記念碑 |
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錦糸町 |
墨田区 |
能勢妙見堂・勝海舟胸像・勝海舟揺籃之地碑・霊山寺・法恩寺・陽運院・本哲院宗勇智山居士(山本仙之助の墓)・津軽稲荷神社・たばこと塩の博物館・常設展示・目加田種太郎胸像・山岡鉄舟旧居跡・国産マッチ発祥の地・五柱稲荷神社・史跡 勝海舟揺籃之地・勝海舟居住の地 旗本岡野氏屋敷跡・河竹黙阿弥終焉の地・三遊亭圓朝住居跡 |
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墨 田 |
墨田区 |
勝海舟像・墨田公園・正気歌碑・明治天皇行幸所 水戸徳川邸舊址・墨堤植桜碑・牛島神社・弘福寺・中島佐善家之墓(佐善元立の墓)・池田家先祖代々(百合元昇三の墓)・瀬川家之墓(瀬川如皐の墓)・森鴎外住居跡・牛嶋学校跡・長命寺・成島柳北の碑・言問小学校 成島柳北の住居跡・依田學海旧居跡・白鬚神社・岩瀬鴎所墓碑・鷲津毅堂碑・榎本武揚銅像・大蔵喜八郎別邸跡・木母寺・三遊塚・題墨田堤桜花詩碑・天下之糸坪の碑・岐雲園跡・三囲神社・表功碑・一菴小林先生之碑・永田甚七君記念碑・スカイツリー・文京シビックセンターの展望台より・山本や・長命寺の桜もち・三浦乾也旧居 窯跡・榎本武揚旧居跡・多聞寺・毘沙門天 正二位子爵榎本武揚・小山氏代々墓 |
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東陽町 |
墨田区 |
長州藩大砲鋳造場跡 |
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堀切菖蒲園 |
葛飾区 |
妙源寺・艮斎安積先生之墓・一堂先生之墓・東條一堂先生百年祭記念碑 |
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金 町 |
葛飾区 |
葛西神社・葛西霊松碑 |
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四ツ木 |
葛飾区 |
淨光寺・登美之松・風折烏帽子の碑・加藤ひな子の碑 |
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小 菅 |
葛飾区 |
東京拘置所と煉瓦工場 |
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北千住 |
足立区 |
千住宿・横山家・門柱の刀創・不動院・供養塔・無縁塔・千葉灸治院跡・千葉灸治院古写真 |
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綾 瀬 |
足立区 |
金子家・観音寺 |
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竹ノ塚 |
足立区 |
東岳寺・一立齋廣重墓・廣重・廣重塚 |
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梅 島 |
足立区 |
佐竹稲荷神社・佐竹抱屋敷跡・梅田神明宮・教祖之碑(禊教師井上正鐡碑)・梅島稲荷・井上正鐡大人之墓 |
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赤 羽 |
北区 |
大満寺・東久世通禧歌碑・大松寺・山崎美誠墓 |
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王 子 |
北区 |
王子神社・桜の賦の碑・船津翁の碑・紙の博物館・渋沢史料館・青淵文庫・晩香廬・渋沢栄一像・西福寺・六士銘記碑・お馬塚・扇屋の厚焼玉子・正受院・石造近藤守重(重蔵)坐像・エドアルド・キヨッソーネ像・得能良介像・洋紙発祥之地・金剛寺・鹿島萬平翁之碑・音無橋・酒類総合研究所 |
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西ヶ原 |
北区 |
花と森の東京病院・東京高等蚕糸学校発祥之地・日本榎保存之碑・七社神社・七社神社社号額・七社神社絵馬・祭枯松文碑 |
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上中里 |
北区 |
古河庭園・大谷美術館・城官寺・多紀桂山一族墓・江戸侍医法印尚薬兼医学教諭茝庭(さいてい)多紀先生墓・円勝寺・勇進院剛譽浄心居士(佐藤元次郎の墓) |
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田 端 |
北区 |
大久寺・石川家墓・与楽寺・陸軍大将 正二位勲一等功二級 子爵大島久直墓・大龍寺・子規居士之墓・正岡八重墓・天龍院殿康德櫻塘大居士墓(大川平三郎の墓)・慈雲院殿義山壽榮大居士(田中栄八郎の墓) |
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板 橋 |
北区~板橋区 |
新選組供養塔・近藤勇の墓・新選組永倉新八墓・近藤勇最期の地・板橋宿平尾町脇本陣跡・板橋宿本陣跡・旧水村玄洞宅跡・板橋宿中宿脇本陣 名主飯田総本家・板橋・中山道板橋宿 上宿・縁切榎・観明寺・観明寺山門・加賀稲荷神社・圧磨機圧輪記念碑・加賀前田家下屋敷跡・板橋区と金沢市との友好交流都市協定締結記念碑・子爵渋澤栄一像・東光寺・秀家卿 |
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志村坂上 |
板橋区 |
総泉寺・従四位勲六等男爵佐竹義脩墓・秋田 佐藤時之助忠正墓・秋田 大縄織衛之墓 |
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高島平 |
板橋区 |
松月院・火技中興洋兵開祖碑・板橋区立郷土資料館・12ポンド施条加農砲 短六拾斤銅砲・乗蓮寺 東京大仏・津藩主藤堂家旧蔵 文殊菩薩石像 |
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上板橋 |
板橋区 |
御霊地蔵堂・妙法 尊皇攘夷志士二十八人之墓 助次郎法師之墓 |
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巣 鴨 |
豊島区 |
徳川慶喜巣鴨屋敷跡地・西福寺・伊達慶邦公墓碑記念碑・戸田家之墓(戸田光則の墓)・宍戸璣の墓・故警部補寺本寺本義久之墓・伯爵樺山資紀墓・正三位勲一等男爵福原實墓・徳川昭武の墓(松戸徳川家之墓)・従二位松平定敬之墓・正四位子爵松平定教墓・男爵川田小一郎墓・正三位男爵酒井忠惇墓・正四位男爵酒井忠績之墓・杉亨ニの墓・井上正順の墓・福岡孝弟の墓・坪井信良之墓・井上正直の墓・正五位勲五等小河一敏墓・従二位勲二等藤堂高猷墓・下岡蓮杖墓・土方久元の墓・教光院釈遍照北海居士(松浦武四郎)墓・正七位久米幹文翁之碑・山脇正勝墓・山脇臥雲墓・正五位勲六等正木退蔵之墓・神道修成派 管長大司徒 従五位新田邦光墓・麝香間祇候正二位勲二等伯爵松浦詮墓・正三位勲三等小原重哉墓・大壑居士及妻女子孫等之墓(平田銕胤の墓)・高良斎家墓・巌本善治 若松賤子夫妻の墓・長華院殿鴨北日成居士(宮本小一墓)・高村家之墓(高村光雲・光太郎・智恵子の墓)・香山家之墓(香山栄左衛門の墓?)・宗玄院洞譽澄心義適居士(合原猪三郎の墓)・釋天心(岡倉天心の墓)・鹿島万平墓・子爵黒田家之墓・三橋家(三橋文庫の墓)・高嶺家之墓(高嶺秀夫の墓)・中根氏歴世墳墓(中根香亭の墓)・松野勇雄墓・松野勇雄君碑・青山直道之墓・従二位勲一等男爵辻新次之墓・近藤瓶城の墓・勝林寺・隆興院殿従四位侍従耆山良英大居士(田沼意次の墓)・田沼家歴代の墓・華族蒔田家歴世之墓・鹿碑と?賜猪碑(旧木戸邸) |
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西巣鴨 |
豊島区 |
盛雲寺・新門辰五郎の墓・妙行寺・三浦家累代之墓・遠山金四郎景元の墓・千葉周作成政墓・森山多吉郎の墓・久世広周の墓・大久保氏之墓(大久保一翁の墓)・大久保三郎墓・大久保権右衛門忠良の墓・河島氏墓(河島重蔵の墓)・白泉寺・藤原(久貝)正典之墓・俊斎大槻家累代之墓・正七位手塚良仙之墓・慈眼寺・先祖代々霊位(小檜山鉄蔵、包四郎の墓) |
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要 町 |
豊島区 |
祥雲寺・浅右衛門之碑 供養塔 |
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氷川台 |
練馬区 |
広徳寺・立花宗茂の墓・柳生家の墓・近衛秀麿の墓・荘厳寺 |
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池 袋 |
豊島区 |
明治天皇御野立所跡 |
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東池袋 |
豊島区 |
文獻院古道漱石居士(夏目漱石の墓)・従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓・川本家(川本幸民の墓)・成島柳北墓・可庵中島錫胤墓・加藤家之墓(加藤弘之の墓)・小栗家累代之墓(小栗上野介の墓)・千葉定吉と千葉重太郎の墓・中浜万次郎墓・豊城渡辺重石丸(いかりまる)墓・大井憲太郎墓・澤家之墓(澤為量の墓)・男爵澤家之墓・並河家之墓(佐々木一の墓)・成瀬君碑(成瀬仁蔵顕彰碑)・早矢仕有的之墓・女医荻野吟子之墓・坂崎家之墓(坂崎紫瀾の墓)・雪放石川君墓(石川利政の墓)・長郷泰輔墓・橋本家之墓(揚州周延の墓)・大野家之墓(大野吉之助の墓)・吉澤家之墓(吉澤勇四郎の墓)・生亀恭介之墓・本地利屋之墓 静岡県士族・元田家之墓(元田直の墓)・本立寺・神木隊戦死之碑 |
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高田馬場 |
豊島区 |
南蔵院・彰義隊士首塚・観音寺・無明橋 山岡鉄舟書 |
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目 白 |
豊島区 |
学習院 乃木館・御榊壇・青木義比歌碑・雑司ヶ谷鬼子母神 |
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早稲田 |
新宿区 |
大隈重信像・大隈庭園・侯爵夫人大隈綾子之像・戸山公園・箱根山・宗源寺・矢田堀鴻の墓・宗柏寺・幕府外国奉行信濃守 井上清直之墓・玄国寺・玄国寺書院(旧岩倉具視邸)・宗参寺・月海院殿瑚光浄珊居士墓・(山鹿素行の墓)・乃木将軍遺愛の梅「春日野」・山高氏之墓・甘泉園公園・水稲荷神社・堀部武庸加功遺跡之碑・高田馬場跡・済松寺・菅山山口貞一郎・専念寺・真下家之墓・稱名院清譽牧山居士(佐藤牧山の墓)・大隈重信像・すず金・三朝庵・カレー南蛮・高田牧舎・諏訪神社・明治天皇射的砲術天覧所阯・穴八幡宮・正四位勲二等松本順拜書 |
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若松河田 |
新宿区 |
統計資料館・杉亨二胸像 |
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神楽坂 |
新宿区 |
小浜藩邸跡・矢来公園・秋葉神社・酒井藩邸記念碑・矢来ハイツ南側の石垣・清隆寺・あさひ児童遊園 |
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牛込柳町 |
新宿区 |
試衛館跡・林氏墓地・文毅先生林府君之墓(林復斎の墓)・林復斎墓碑・快烈先生林府君之墓(林述斎の墓)・林鶯渓先生之墓碑・児玉坂通り |
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市ヶ谷 |
新宿区 |
尾張藩邸跡・長泰寺・森田清行之墓・孤松院安息養氣不隣居士(松岡萬の墓) |
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四ツ谷 |
新宿区~千代田区 |
愛染院・塙次郎源忠宝墓・勝興寺・山田家累代(浅右衛門)墓・西応寺・榊原鍵吉墓・村垣家之墓(村垣範正の墓)・法蔵寺・中村時萬の墓・史跡案内 津の守坂・津の守弁財天・金丸稲荷神社・菊輪葵紋瓦・荒木公園・美濃国高須藩主松平摂津森上屋敷跡について・田安稲荷神社 鎮護稲荷神社・迎賓館・迎賓館・迎賓館(主庭側から撮影)・迎賓館の庭・西念寺・西蓮院殿従五位下朝散太夫梵誉勝運大居士(勝田充の墓)・山口義方墓・全勝寺・真諦院殿徹信忠翁大居士(佐久間信久墓)・朝比奈家累代之墓(朝比奈昌広墓)・西迎寺 阿弥陀如来像・松平家累代之墓(松平信敏の墓)・齋藤家之墓(中野梧一の墓)・宗福寺・大道院義心居士 俗名山浦環 刀名源清麿墓・水心子天秀之墓・新宿歴史博物館 高須四兄弟特別展 |
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麹 町 |
千代田区 |
麹町四丁目 |
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大久保 |
新宿区 |
全竜寺・鈴木重嶺之墓・都筑氏之墓 |
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曙 橋 |
新宿区 |
自證院・養国寺・菅功院殿智賢保徳大居士(竹内下野守保徳の墓)・思案橋事件首謀者(井口慎次郎、竹村俊秀、中原成業)の墓・青峰観音 |
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東新宿 |
新宿区 |
西光庵・従一位勲二等徳川慶勝卿墓・故従三位徳川義宜之墓・従五位松平義勇之墓・専福寺・大蘇芳年之墓 |
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新 宿 |
新宿区 |
新宿御苑・戦前の温室の遺構・戦前の温室の写真・水道碑記・常圓寺・筒井政憲の墓・贈従五位 水野徳三郎寛友墓・成覚寺・塚本明毅墓碑・正受院・川邨閑斎寿蔵碑(川村脩就墓)・太宗寺・内藤頼直墓・花園神社 |
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千駄ヶ谷 |
新宿区 |
沖田総司終焉の地・伝 沖田総司逝去の地・多武峰内藤神社・東京体育館・瑞円寺 |
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代々木 |
渋谷区 |
贈従四位 篤信斎斎藤先生之墓 |
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原 宿 |
渋谷区 |
明治神宮・明治神宮御苑 南池・東郷神社神殿・手水舎 |
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恵比寿 |
渋谷区 |
エビスビール記念館・馬越恭平像・東京都写真美術館・別所児童公園・新富士の石碑 |
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渋 谷 |
目黒区~渋谷区 |
西郷山公園・菅刈公園和館・復原庭園・展示室・イチョウ・明治天皇行幸所西郷邸・鍋島松涛公園・琵琶池・宮益御嶽神社・明治天皇御嶽神社御小休所阯 |
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祐天寺 |
目黒区 |
祐天寺・柳原家之墓(柳原前光の墓)・従一位勲一等柳原愛子墓・渋澤喜作之墓・鹿門岡千仞墓・従五位日野春草墓 |
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碑文谷 |
目黒区 |
正泉寺・羽倉用九之墓 |
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駒 場 |
目黒区 |
駒場公園・旧前田侯爵邸・駒場小学校・ケルネル田圃・水田の碑 |
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目 黒 |
目黒区~品川区 |
ホテルプリンセスガーデン・目黒不動尊・独鈷の滝・現代彫刻美術館(長泉院)・枢密院副議長従一位勲一等伯爵東久世通禧墓・松崎慊堂墓標・攻玉社学園・近藤真琴胸像・常光寺・福澤諭吉先生永眠之地碑・福沢諭吉胸像・清岸寺・履堂松平君墓・最上寺・大鳥神社・切支丹燈籠・高福院・石井宗謙の墓・石井信義墓・長谷川家墓(長谷川伸の墓)・覺阿彌禅定門(達磨屋五一の墓)・芳寛院殿勇誉心禅居士(初代 柳亭種彦の墓) |
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中目黒 |
目黒区 |
正覚寺・三谷家先祖代々之墓(三谷春道の墓) |
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大 崎 |
品川区 |
妙光寺・馬島家累代之墓(馬島春海の墓) |
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信濃町 |
港区~新宿区 |
明治記念館・憲法記念館碑・聖徳絵画記念館・習成館 |
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赤 坂 |
港区 |
勝海舟邸跡・勝安房邸址・勝海舟・坂本龍馬の師弟像・陽泉寺・真雨園大國大人墓(大国隆正の墓)・種徳寺・廣顕院殿前少府令祐道靖忠大居士神儀(堀直虎の墓)・氷川神社・氷川神社のオオイチョウ・浅野土佐守邸跡・豊川稲荷神社・勝海舟旧邸跡・澄泉寺・鶴梁林先生之墓 |
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六本木 |
港区 |
檜町公園・深廣寺・惟一先生佐藤府君之墓・毛利庭園・乃木大将生誕之地碑・六本木墓苑・外交史料館別館・吉田茂胸像・嘉永六年ペリー艦隊の図と日米和親条約批准書・幕末の旅券・初代外務卿澤宣嘉・千島樺太交換条約批准書・咸臨丸風波の絵図・小笠原島付近に生息する魚介類の絵図・旧紀州徳川家屋敷跡・泉屋博古館分館・善学寺 |
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乃木坂 |
港区 |
乃木神社・宝物殿・正松神社・乃木旧邸・乃木大将夫妻瑩血之處・乃木将軍と辻占売の少年 |
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西麻布 |
港区 |
長谷寺・従一位大勲位侯爵井上馨墓・旧会津藩士墓・枢密顧問官正二位勲一等黒田清綱之墓従三位勲二等子爵黒田清輝之墓・黒田清綱・清輝顕彰碑・會津老職西郷近光之墓・保科有鄰墓・小森駿馬之墓・小森一貫霊・正定院釋且堂不退居士(渡邉洪基の墓)・渡邉旦堂君之碑・橋本家之墓(橋本綱常の墓)・正五位勲一等寺原長輝墓・仏蘭西料理 龍圡軒 |
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表参道 |
港区~渋谷区 |
高野長英先生隠れ家碑・善光寺・高野長英先生碑・人力車発明記念碑・中御門經之墓・従二位勲四等子爵河鰭實文墓・勘解由小路家之墓(勘解由小路資生の墓)・松木家之墓・土御門家之墓・角田家之墓(角田良智の墓)・常盤松の碑 渋谷薩摩藩邸跡・大山史前学研究所跡 |
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外苑前 |
港区 |
梅窓院・渭川院竹内正幹之墓・梅窓院開基 青山宗家累代之墓・従二位子爵平松時厚卿之墓・山脇金太郎橘正廉墓・正斎山脇先生之碑・青山熊野神社・海蔵寺・越前守大信京極府君之墓(京極高朗の墓)・京極家之墓 |
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青山一丁目 |
港区 |
高橋是清記念公園・高橋是清翁像・玉窓寺・速水累代之墓(速水小三郎墓)・佐藤家招魂碑 |
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新 橋 |
港区 |
愛宕神社・桜田烈士愛宕山遺跡碑・西南戦争戦死者追悼碑・真福寺・青松寺・三好重臣の墓・林忠崇の墓・舊山口藩御親兵死没合祀之碑・追哀墳・新橋駅・南桜公園・赤レンガ通り・浅野内匠頭終焉之地・看護教育発祥の地碑 |
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本書は、「企業トップが学ぶリベラルアーツ」と銘打ったシリーズ本の中の一冊で、明治維新から百五十年の歴史を五箇条の誓文を切り口として通覧しようという試みである。明治維新百五十年目となった平成三十年(2018)年に発刊されたもので、著者片山杜秀氏の独自の視点が光る。
「はじめに」で中谷巌氏が「「ビジネスパーソンにとって近代史はブラックボックスになっており、現在の諸問題を歴史的センスで捉える視点が著しく欠けている」というのはまさにご指摘のとおりで、私自身も思い当たるところがある。
筆者が「明治百五十年を貫いて、自由と不自由、戦争と平和を生み出した、ひとつの種」として位置付けたのが、五箇条の誓文である。
ここで五箇条の誓文を繰り返すことはしないが、筆者は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言された第一条を「民主主義」、「盛んに経綸を行うべし」という第二条を「経済発展」、第三条を「自由主義」、「天地の公道」を謳う第四条を「天皇中心宣言」、第五条は「学問の推奨」と「和魂洋才」と焼き直して解釈している。
もちろん戦前の歴史を振り返ると、五箇条がそれぞれ興隆を繰り返し、前面に現れることもあれば、遠く後景へ追いやられている時代もある。五箇条の誓文を、近代史を分かり易く解釈するためのツールとするユニークな試みは成功しているといえよう。
維新直後は藩閥独占時代が続いた。明治の最初の十年は、それに抵抗する内乱の時代であったが、西南戦争を最後に内乱は終息する。継いで盛んになったのが自由民権運動であった。自由民権運動も時に流血を伴う激烈なものであったが、その過程で大日本帝国憲法が生まれ国会が開設された。
それでも薩長藩閥による政治は存続していた。藩閥政治が終焉し、我が国に本格的な政党政治が誕生したのは、明治からちょうど五十年を経た大正七年(1918)の原敬内閣の成立まで待たねばならない。時まさに大正デモクラシーの時代であった。
明治以降の歴史を民主化の歴史ととらえれば、至極単純に大正デモクラシーは一つのゴールだったように受けとめられる。大正時代は日露戦争で勝利した我が国にとって、束の間の「明るい時代」のような印象があるが、筆者は別の考え方を提示している。
第一次大戦の戦勝国(英・仏・米)はいずれも民主主義国であった。独・墺(オーストリア=ハンガリー二重帝国)・オスマン帝国はいずれも皇帝支配の国であり、専制主義的統治をしていた国であった。ロシアに至っては、ロシア革命がおこって途中で戦争を継続できなくなった。
なぜこういう結果になったのか。デモクラシーの国では、国民が選んだ総理大臣、首相、大統領が参戦を決意する。トップの決断は、国民の総意ということになる。戦争というものは、国民に大変な負担を強いるものである。多くの戦死者が出て、食糧は不足する。それでも民主的に選ばれた政権が戦争を継続している限り、結局自分たちが決めたことだからやり続けなくてはならない。デモクラシーの方が総力戦体制には適しているというのが筆者の結論である。
このことを早くから見抜いていたのが、徳富蘇峰であった。蘇峰は、日本を一君万民型のデモクラシー国家に改造すべしと訴えた。蘇峰の念願は、普通選挙法(大正十四年(1925))という形で実現する。
大正デモクラシーがまるごとひっくり返ったのが昭和初期である。筆者は「明治維新に次ぐ、日本近代の第二の節目」と位置付けている。二大政党制も自由経済も世界恐慌によって機能不全に陥る。政党政治に代わって、天皇制社会主義という独特な仕組みが出現し、国家社会主義者や農本主義に影響を受けたテロやクーデターが頻発する。政党の要人が次々に暗殺されたのもこの時期である。濱口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅、斎藤實、岡田啓介という五代の首相のうち、三人が暗殺され、二人は危うく殺されかけた。暗黒の時代の幕開けである。
日本は、グローバル経済からブロック経済へ、自由経済から統制経済へと舵を切った。その流れの中で満州事変、日中戦争が起こり、アジア主義が台頭するようになった。
大日本帝国憲法が作ったシステムは、平時においてはタテ割り機構が分散し、その結果、権力の集中を防ぎ、乱暴なことをさせず、物事を慎重に進めることもできた。
しかし、一旦非常時となると、国家の意思統一ができない、部局を越えて議論することができない、統帥権が独立しているため軍隊の外から誰も命令することができない、その一方で天皇自身は常に免責される(つまり誰も責任ととらない)という恐るべきシステムであった。昭和二十年(1945)八月、明治憲法が禁じ手としてきた「天皇の聖断」により戦争に幕が下ろされ、その時が大日本帝国の終焉となった。
悲劇的終結から七十五年が経った。大日本帝国の終焉は、決して別の国の昔話ではなく、現代の我々の生活や政治とも連続している。グローバル化の波に飲み込まれようとしている今、二大政党制も崩壊し、民主主義が方向を失った姿は、昭和初期と重なるものがある。今の我々にできることは、せめて昭和の過ちを繰り返さないことである。
そのようなことを心配せずとも、現在の我が国の憲法下では、軍が暴走するようなことはあり得ないし、我が国が紛争の解決のために戦力を行使することなど考えられない、というご意見ご指摘はそのとおりかもしれない。
しかし、民主主義を過信し過ぎてはいけない。民主主義が常に正しい選択をするとは限らないのである。どこかの国のように、人権を侵し自由を制限する独裁的国家を目指すべきとは決して思わないが、民主主義の危うさと限界も感じざるを得ない。
本書は、家近良樹先生が自身にとって「最後の評伝の仕事」と覚悟を決めた挑んだ渾身の一冊である。期待に違わない内容で、一気に読み通すことができた。
山内容堂というと「強硬な佐幕派」「武市半平太以下を処刑し、土佐勤王党を弾圧した張本人」「気に入らないことがあると大声を出して相手を威圧する我がままな殿様」というイメージが強烈で概して人気がない。容堂は、坂本龍馬らの草莽の活躍を描いたドラマでは、決まって悪役として登場する。本書では従来の容堂のイメージを覆し、歴史書を読む楽しみを改めて確認させてくれるものである。
一般的に容堂は、佐幕派と見られている。しかし、文久二年(1862)、三条実美らが勅使として江戸に下向すると、容堂は勅使の待遇改善や将軍の使者が品川で出迎えることを力説し、さらには攘夷決行を迫る勅命の受け入れを強く進言した。この言動を見ると容堂は尊王攘夷派とも見える。文久三年(1863)の八一八の政変以降、態度を急変させて土佐勤王党を弾圧する。時に尊攘派的であり、時に佐幕派的である容堂は、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、「時勢に流されただけの、単純で軽薄な人物」と批判されることになる。筆者によれば、それは「すべての政治勢力の上位に国家を位置付けていた(国家の下に、朝廷と幕府、それに諸藩が所属すると考えた)」ことによった」とする。従って、国家を危うくする盲目的な攘夷には断固として反対した(その延長線上で、長州藩のことを毛嫌いしていた)。容堂は、尊王攘夷、公武合体といった単純な二軸で評価しれきれない人物なのである。そこを分かっていないと、容堂の言動は理解できないだろう。
容堂は「頭脳明晰」で「物事の本質がよく見える炯眼の持ち主」であった。一方で、元治元年(1864)の参預会議では、(持病のリウマチによる足痛、腰痛、胸痛による)体調不良で欠席しておきながら、宿舎から出て鴨川べりや時には東山辺りをブラブラすることもあった。その姿は多くの人に目撃されており、中山忠能の日記にも皮肉たっぷりに記録されている。彼は生まれながらの貴人であり、世間的な常識が欠落しているところがあった。阿部正弘の没後、阿部の愛妾お鯉尾を、自分の側妾にと懇望したのも、容堂の常識外れの一例であろう。慶應三年(1867)五月、四侯会議が空中分解すると、大病を理由に退京を余儀なくされたにも関わらず、彼は雨が降りしきる中、あたかも健康人であったかのように堂々と乗馬で帰国した。比較的容堂に好意的な筆者も、「常識人ではおよそ考えられない」と呆れている。
歴史の「常識」に対し、新たな視点を提供するのが、歴史論説の価値といえる。従来、四侯と慶喜の対立、そしてその後慶喜による強引な勅許の獲得によって四侯が敗れると、四侯は幕府との対決を強めるという物語が語られてきた。特に薩摩藩は倒幕路線に転じたことが強調されてきた。
しかし、家近先生は四侯といっても一枚岩ではなく、伊達宗城が島津久光寄りの姿勢を強めたのに対し、方や春嶽と容堂とが連携を深めていく構図を解明して見せた。合わせて慶喜と容堂は信頼関係を深化させていった。のちに土佐藩からの大政奉還の建白を、慶喜が素直に受け入れた背景には、ほかならぬ「容堂からの建白だったから」という理由が大きかったであろう。
歴史を知っている我々は、大政奉還、小御所会議(王政復古のクーデター)、鳥羽伏見の戦いを経て、慶喜が政権を追われた事実を知っているので、必然的にその流れになっているような錯覚をしてしまうが、実際には大政奉還と小御所会議の間、そして小御所会議と鳥羽伏見の戦いの間には、数々の紆余曲折があった。
クーデター計画を告げられた後藤象二郎は、その提案を受け入れた。ただし容堂の上京まで待って欲しいという条件を付けた。筆者によれば、クーデター計画が持ち上がったときに容堂が在京していれば、「はたしてクーデターそのものが挙行されたか疑しい」とする。容堂にそれなりの時間があれば、クーデターを阻止する有効な手立てを考え、それを実行に移した可能性が十分にあるとする。確かにそうであるが、これはいわゆる「歴史のイフ」に属する話である。結局、容堂はその場にいなかった。そればかりか藩内の守旧派が容堂の上洛を阻止しようという意見書が出され、その説得に努めた結果、上洛は遅れに遅れてしまった。
結果から見て容堂には運がなかったということかもしれない。しかし、「運も実力のうち」というが、その場に居合わすことができなかったということも容堂の実力なのだと評価するしかないのではないだろうか。
小御所会議における容堂の奮闘は良く知られている。実はその場に誰が出席していて、誰がどのような発言をしたのか、いまでも十分に解明されていないという。ほぼ確かな史実としていえることは「会議の主役が岩倉具視と山内容堂の両者であったこと」だという。容堂と岩倉の両者が激しくやりあい、春嶽が容堂の発言を強く支持した。会議の席で後藤や大久保利通ら藩士クラスの発言があったことは確認できない。
ところが、これほど頑張った容堂が、休憩の後、会議が再開されると沈黙を守った。通説には、西郷が「短刀一本あれば片付く」と発言し、テロを恐れた容堂が、それ以上の発言を控えたというエピソードが流布している。
筆者はその通説を否定はしないが、それよりもこれ以上岩倉と論争すると、幕府贔屓だとみなされることを恐れたのではないかとしている。加えて、休憩に入り、酔いから醒めて冷静になるにつれ、周りのアドバイスを受け入れて、沈黙を守り通すことになったのではないか、と推察している。これも筆者の推測でしかないが、あり得る話かもしれない。
筆者は「歴史はほんのちょっとした偶然で、大きく様相を異なるものにする」と語る。容堂がクーデター決行前に京都にいれば…、容堂がもう少し早く上洛していれば…、容堂が参内して朝議に出て大久保に反論していれば…と、いくらでも「歴史のイフ」は思いつく。確かに容堂には「歴史を大きく動かす可能性」があったことは、そのとおりであるが、結果的に歴史を動かすことができなかったことも彼の実力だと思うのである。
(興福寺)
東朝川の興福寺に八王子千人同心の墓が集められていると聞いたので、ひょっとしたら、千人頭河野仲次郎(なかじろう)の墓もそこにあるのではないかと一縷の望みをもって興福寺を訪ねた(八王子市東浅川町754)。
興福寺の河野家・中村家の墓所に河野仲次郎の墓を発見した。八王子郷土資料館で調べても仲次郎の墓は青山霊園としか出ておらず、青山霊園ではいくら歩いても仲次郎の墓に出会うことはできなかった。ようやく長年の尋ね人に出会うことができて感慨一入であった。
興福寺
八王子千人頭 河野家・中村家累代墓所
十三代 仲次郎通聿墓
河野仲次郎は、文政十年(1827)、六月二日、千人頭志村又左衛門貞慎の次男として千人町に生まれた。嘉永三年(1850)四月、叔父である河野左近通徳の養子となり、同年七月、二十三歳で千人頭となった、まだ少年時代の天保十二年(1841)五月、十四歳のとき、幕府の学問所昌平黌に寄宿生として入り、九年間在籍して勉学に励んだ。
仲次郎が頭角を現したのは、幕末の軍制改革であった。嘉永六年(1853)三月、浦賀沖に現れたペリー艦隊により、幕府はそれまでの槍や刀という前近代的な武器では世界に通用しないことを痛感し、銃や大砲による軍備の必要に迫られた。同時に品川に台場を築き、旗本をはじめ陪臣に至るまで洋式砲術の訓練を命じた。安政三年(1856)、千人同心も江川太郎左衛門英敏の銃砲訓練所である新銭座に、まず組頭九名が入門し、銃砲の実技と、銃を装備した歩兵を操る調練を受けた。その後帰村し、散田村(現・八王子市めじろ台三丁目)の向原で、新銭座の銃砲指南役を迎えて、同心全員に近代的軍隊の調練を施した。
仲次郎も志願して新銭座に入り、熱心に訓練に励み、僅かな期間に砲術皆伝と着発弾皆伝の免許を受けた。中でも着発弾皆伝の免許は、当時の洋式砲術に関する知識と実技において最高のレベルにあったとされる。
仲次郎は、自身の研鑽にとどまらず、同心の調練にも意を砕き、安政五年(1858)四月、「小隊教練号令順次」という教練用の小型本を発行して同心に携行させ、調練の徹底を計った。この教練書は、オランダの教則本翻訳書をもとに仲次郎が編集したものである。
慶應四年(1868)、明治維新によって千人隊は解体され、千人頭は徳川家達に従い、静岡に移住することになった。同年閏四月、歩兵指図役間宮金八郎は、本立寺ほかに駐屯して、千人隊に加入を迫った。この時、歩兵頭多賀上総介の説得に応じて一旦江戸に帰ったが、千人隊士百数十名はこれに応じて出府し、将軍家菩提寺警護を表向きの理由として麻布祥雲寺に入り、五月十五日の彰義隊戦争に遭遇した。同心に同行した仲次郎は、密かに八王子に帰ったが、上野彰義隊参加の嫌疑を受けて、甲斐鎮撫府に身柄を拘束された。約一年後に許されて家族の待つ静岡に移り、静岡学問所三等教授方に採用された。しかし、ほどなく学問所が廃止され、職を失った。その後、東京に出て大蔵省記録局に就職した。明治十五年(1882)、年五十六にて没。
八王子千人隊同心合同墓
河野家・松本家累代の墓所より一段上の場所に八王子千人隊の墓地がある。
慶應二年(1866)十月、それまでの千人同心を改め、千人隊と改称された。つまり千人隊という呼称は、それ以降、慶応四年(1868)六月に解体されるまでのものである。
千人隊 同心一族の墓所
(和みの里)
種徳館
青い壁が印象的な種徳館は、明治二十年代の建築物である。幕末から明治時代に活躍した天野開三(海蔵)によって、都留の境区に建てられたものである。「種徳」とは「広く徳を世に施すこと」であり、青少年の修身鍛錬のために建てられたという。太平洋戦争の末期には学童疎開児童の臨時教育の場としても使われ、現在も様々な体験施設として利用されている(キャンプ場の受付施設のように思われる)。
種徳館
正面には「種徳館」の額と、天野開三の肖像写真等が展示されている。特に和みの里に用事のなかった私には中に入るのは憚られたため、遠くから写真を撮影するだけに終わってしまった。
種徳館
中央玄関の上部には半円形のバルコニーが設けられており、そこにも「種徳館」の額が掲示されている。
(生福寺)
生福寺
勝沼町下岩崎の生福寺に高野積成(せきせい)の墓がある。生福寺の境内には墓地がない。Google Mapの航空写真で確認したところ、生福寺から数百メートル南側に墓地が確認できたので、すぐさまそちらに向かった。ぶどう畑に囲まれた墓地には高野家の墓所は一つしか確認できない。大きな墓石の裏面を確認すると、「傳正院」という積成の法名を確認することができた。
高野家之墓(高野積成の墓)
高野積成は弘化三年(1846)の生まれ。少年時代古屋蜂谷に学び、勧業の志厚く、当時養蚕の改良すべき点の多きを見て、慶応二年(1866)、蚕種製造に着手し、桑園の改良、籠飼等を実施して近隣に勧誘した。明治の初めには、甲州産の良繭のほとんどが武州などの商人に買い取られ流出していたため、地方婦女子の職業の貧しさを憂慮し、県内に機械製糸工場の建設のために努力。明治七年(1874)には県内初の三六人繰工場を完成した。のちに県勧業掛、養蚕業と葡萄栽培の発達に寄与した。明治四十二年(1909)、六十四で没。
(妙油寺)
石和町東油川の妙油寺に、甲州屋忠右衛門の墓を訪ねたが、完全な空振りに終わった。どうもこのところ空振りが多い。
妙油寺
甲州屋忠右衛門は、本姓篠原といい、東油川村の名主の家に生まれた。村名主を務めるとともに、安政六年(1859)に横浜が開港されると、横浜本町に甲州屋を開き、甲州の物産を売り捌いた。明治七年(1874)に八王子に移住して、教育者を設立した。明治十一年(1878)には相模の上鶴間で原野を開拓した。のちに郷里に隠退した。明治二十四年(1891)、年八十二にて没。
(愛宕神社)
愛宕神社
小野實命之墓
実は愛宕神社には、医者にして文人でもあった小野泉の墓を訪ねることが目的であったが、墓地を探した結果、小野家の墓所はあったものの、そこに小野泉(小仙)の墓はなく、実弟小野實の墓を発見したにとどまった。神社は山の斜面に建てられており、この斜面を登ったり下りたり、近くの寺院の墓地まで足を伸ばしてみたものの、小野泉の墓に出会うことはできなかった。
小野泉、實の父親である小野通仙も医者として名を成した人で、蘭方医学を学び、人体解剖を行ったことでも知られる。
小野泉は、天保元年(1830)に通仙の長男に生まれ、初め松井渙斎に学び、弘化四年(1847)江戸に出て、嘉永二年(1849)には京都で広瀬元恭の時習館で蘭学を学んだ。帰国して父とともに種痘館を建てて牛痘法を広めた。明治元年(1868)、公立病院の設立を唱え、明治三年(1870)に県病院の実現を見た。のちに歴史地誌編輯主任としても活躍。私塾を甲府紅梅町に開いて和漢英書を講じた。明治十七年(1884)、年五十五にて没。
小野實は、通仙の二男。天保八年(1837)の生まれ。安政三年(1856)、広瀬元恭の門に入り蘭医を修めた。明治五年(1872)、県立睦合病院、日野春分院長などを歴任した。