(顕本寺)
西條朝秋之墓
名古屋で平和霊園を歩いた後は、近鉄で桑名に移動して、顕本寺、寿量寺、照源寺を訪ねた。駅から離れているので駅前でレンタサイクルを調達しようとしたところ、「今日は全部出ちゃって一台も残っていない」という。大いに誤算であった。仕方ないので、観光協会で萱町への行き方を聞いてバスを利用することにした。循環バスの乗客は私一人だけであった。十五分くらいで萱町バス停に着いた。
西條朝秋は西南戦争に従軍し、明治十年(1877)九月二十日、私学校攻撃に加わり負傷。その傷がもとで死亡した。墓碑によれば三十一歳であった。
道源院無外日信居士(玉井五郎兵衛の墓)
玉井五郎兵衛は馬廻。神風隊。慶応四年(1868)七月二十二日、越後乙茂山にて戦死。三十五歳。
(寿量寺)
寿量寺本堂前に久松義幹三郎の墓碑が建てられている。
久松三郎は、番頭久松義臨の七男。雷神隊に属し、慶応四年(1868)五月二十三日、越後朝日山にて負傷。九月二十日、羽前寒河江にて死亡。二十歳。
寿量寺
久松義幹(三郎)墓
(照源寺)
照源寺
照源寺には、徳川家康の異父弟松平定勝のために創建された菩提寺で、桑名藩主定勝を初めとして、定綱、定信、定永、定和、定猷とその一統の墓が並んでいる。
定勝は、初め掛川藩主に封じられたが、その後、山城伏見、そして桑名藩主に転じた。桑名藩主は一時期奥平家に渡ったが、寛政の改革で有名な松平定信の嫡男定永のときに、百十三年ぶりに白河藩から転封された。照源寺には、松平定信の墓もある。松平家の桑名藩主への復帰は、定信の強い要望だったといわれる。
楽翁源公之墓
(松平定信の墓)
松平家一統の墓
寒河江殉難桑名藩士之墓
殉難藩士招魂碑
照源寺の本堂裏に広い墓地があり、その北の端に桑名藩の戊辰戦争における戦死者の招魂碑と寒河江(羽前)における戦死者十八名の合葬墓がある。
西條朝秋之墓
名古屋で平和霊園を歩いた後は、近鉄で桑名に移動して、顕本寺、寿量寺、照源寺を訪ねた。駅から離れているので駅前でレンタサイクルを調達しようとしたところ、「今日は全部出ちゃって一台も残っていない」という。大いに誤算であった。仕方ないので、観光協会で萱町への行き方を聞いてバスを利用することにした。循環バスの乗客は私一人だけであった。十五分くらいで萱町バス停に着いた。
西條朝秋は西南戦争に従軍し、明治十年(1877)九月二十日、私学校攻撃に加わり負傷。その傷がもとで死亡した。墓碑によれば三十一歳であった。
道源院無外日信居士(玉井五郎兵衛の墓)
玉井五郎兵衛は馬廻。神風隊。慶応四年(1868)七月二十二日、越後乙茂山にて戦死。三十五歳。
(寿量寺)
寿量寺本堂前に久松義幹三郎の墓碑が建てられている。
久松三郎は、番頭久松義臨の七男。雷神隊に属し、慶応四年(1868)五月二十三日、越後朝日山にて負傷。九月二十日、羽前寒河江にて死亡。二十歳。
寿量寺
久松義幹(三郎)墓
(照源寺)
照源寺
照源寺には、徳川家康の異父弟松平定勝のために創建された菩提寺で、桑名藩主定勝を初めとして、定綱、定信、定永、定和、定猷とその一統の墓が並んでいる。
定勝は、初め掛川藩主に封じられたが、その後、山城伏見、そして桑名藩主に転じた。桑名藩主は一時期奥平家に渡ったが、寛政の改革で有名な松平定信の嫡男定永のときに、百十三年ぶりに白河藩から転封された。照源寺には、松平定信の墓もある。松平家の桑名藩主への復帰は、定信の強い要望だったといわれる。
楽翁源公之墓
(松平定信の墓)
松平家一統の墓
寒河江殉難桑名藩士之墓
殉難藩士招魂碑
照源寺の本堂裏に広い墓地があり、その北の端に桑名藩の戊辰戦争における戦死者の招魂碑と寒河江(羽前)における戦死者十八名の合葬墓がある。