史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

桑名 Ⅴ

2017年05月27日 | 三重県
(顕本寺)


西條朝秋之墓

 名古屋で平和霊園を歩いた後は、近鉄で桑名に移動して、顕本寺、寿量寺、照源寺を訪ねた。駅から離れているので駅前でレンタサイクルを調達しようとしたところ、「今日は全部出ちゃって一台も残っていない」という。大いに誤算であった。仕方ないので、観光協会で萱町への行き方を聞いてバスを利用することにした。循環バスの乗客は私一人だけであった。十五分くらいで萱町バス停に着いた。

 西條朝秋は西南戦争に従軍し、明治十年(1877)九月二十日、私学校攻撃に加わり負傷。その傷がもとで死亡した。墓碑によれば三十一歳であった。


道源院無外日信居士(玉井五郎兵衛の墓)

 玉井五郎兵衛は馬廻。神風隊。慶応四年(1868)七月二十二日、越後乙茂山にて戦死。三十五歳。

(寿量寺)
 寿量寺本堂前に久松義幹三郎の墓碑が建てられている。
 久松三郎は、番頭久松義臨の七男。雷神隊に属し、慶応四年(1868)五月二十三日、越後朝日山にて負傷。九月二十日、羽前寒河江にて死亡。二十歳。


寿量寺


久松義幹(三郎)墓

(照源寺)


照源寺

 照源寺には、徳川家康の異父弟松平定勝のために創建された菩提寺で、桑名藩主定勝を初めとして、定綱、定信、定永、定和、定猷とその一統の墓が並んでいる。
 定勝は、初め掛川藩主に封じられたが、その後、山城伏見、そして桑名藩主に転じた。桑名藩主は一時期奥平家に渡ったが、寛政の改革で有名な松平定信の嫡男定永のときに、百十三年ぶりに白河藩から転封された。照源寺には、松平定信の墓もある。松平家の桑名藩主への復帰は、定信の強い要望だったといわれる。


楽翁源公之墓
(松平定信の墓)


松平家一統の墓


寒河江殉難桑名藩士之墓


殉難藩士招魂碑

 照源寺の本堂裏に広い墓地があり、その北の端に桑名藩の戊辰戦争における戦死者の招魂碑と寒河江(羽前)における戦死者十八名の合葬墓がある。

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名古屋 Ⅵ

2017年05月27日 | 愛知県
(平和霊園 つづき)


大原幽学先生墓

 今年のゴールデンウィークは、京都から松江経由で隠岐の島に渡り、鳥取、若狭を経て福井に至り、さらに金沢と山代温泉で一泊ずつするという忙しい予定を組んだ。初日は午前四時に起床して家を抜け出し、始発に飛び乗った。京都に移動する途中、名古屋で下車して平和霊園に立ち寄る。平和霊園に来たのは何回目になるだろうか。これだけ頻繁に訪れても、まだ新しい発見がある。

 まず万松寺墓地の大原幽学の墓を訪ねる。
 大原幽学は、寛政九年(1797)、名古屋の生まれ。尾張藩家老大道寺玄蕃の二男ともいわれるが出自の詳細不明。ただ万松寺は大道寺家の菩提寺である。文化十一年(1814)、十八歳のとき父の勘当を受けて家を去り、京都に出て田島主膳に身を寄せ、そこで儒学、和歌、易学等を学び、次いで高野山に登って仏教を修め、文政三年(1820)、下山して畿内、中国、四国等を遍歴した。天保元年(1830)、中山道を経て信濃に至り、上田および小諸において町人らに性学(道学)を説き、翌二年、江戸へ出、次いで房総に学んだ。こののち下総各地において、農民の教化指導に当たったが、天保六年(1835)、香取郡長部村に居を定めて農村改革に尽力した。天保九年(1838)には先祖株組合(信用組合の先駆けを成すものといわれる)を結成し、土地の均等保有による自作農村落の建設を図った。嘉永五年(1852)、領主清水家の嫌疑を受け、江戸に召し出され取調され、こののち弾圧が続き、安政四年(1857)には先祖株組合の解散を命じられた上、百日の押込に処された。小石川茗荷谷の旗本高松彦七郎の家に閉居し、翌年、長部村に帰されたが、三月一日未明、同村の墓地において自刃した。六十二歳。


要斎細野先生墓

 細野要斎は、文化八年(1811)の生まれ。幼い頃より学問を好み、儒学、書道を修めるとともに、垂加神道の伝を受けた。天保十三年(1842)、家を継いで、馬廻組・大番組として仕えた。嘉永六年(1853)、学才を認められ、藩校明倫堂の典籍の職を任じられた。安政四年(1857)、病気を理由に典籍の職を辞した。慶応四年(1868)、明倫堂特命教授として復職。同年十一月、藩主徳川義宜の侍講。ついで、明倫堂の督学に進んだ。明治二年(1869)、藩は学制の改革に着手し、その結果、明倫堂の姿も改められ、新しい明倫堂に漢学教授として迎えられた。明治三年(1870)、病気により明倫堂を辞職し、その後は自宅にて教授した。そのかたわら、尾張藩先人達の業績などを記した「尾張名家誌」に力を注いだ。明治十一年(1878)没。六十八歳。傍らには息細野栗斎の墓もある。

 実は「名古屋名家墓地(全)」によれば、上田仲敏帯刀(蘭学者、砲術家 宇都宮三郎の師)の墓が東輪寺墓地にあるというので、平和霊園の北の端っこにある東輪寺墓地まで足を延ばした。しかし、東輪寺墓地には比較的新しい墓石ばかりで上田帯刀の墓に出会うことはできなかった。

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「島燃ゆ 隠岐騒動」 松本侑子著 光文社文庫

2017年05月27日 | 書評
慶応四年(1868)の隠岐騒動を題材とした小説である。ゴールデンウィークに隠岐の島(島後)に渡り、帰りのフェリーを待つ間、西郷港の売店でこの本を見つけた(帰宅してから、いつも行っている東京駅近くの書店で見たら、普通に売っていた)。
江戸からも京都からも遠く離れたこの島で、ちょうど官軍が江戸城総攻撃を実行に移そうという緊迫した政情の折、一足先に封建政府が倒され、自治政権が成立した。この事変は必ずしも世に知られていない。武家ではなく、庄屋や神官らが中心になって起こしたこの無血革命のことは、もう少し知られても良い。
隠岐騒動の経緯はざっと次のとおりである。
隠岐出身の儒者中沼了三によって十津川郷に開設された「文武館」と同名の学校を隠岐の島にも開きたいと、尊王志向の強い庄屋や神官が集まり、松江藩の派遣した郡代山郡宇右衛門に願い出たが却下された。そこで有志らは幕府に直訴するために島を脱して京都に向かおうとするが、そこで長州藩士につかまり、王政復古が成ったことを聞かされる。長州藩士の示唆により、彼らは島に戻って、郡代を追放する算段を練った。同じ頃、山陰道鎮撫総督西園寺公望が隠岐の庄屋に宛てた文書を、山郡が開封したという事実が判明し、彼らの怒りは爆発した。慶應四年(1868)三月、隠岐の住民およそ三千人が西郷の陣屋に押し寄せ、山郡を追放した。この時、島民は米や味噌を山郡に送り、一滴の血も流さずこのクーデターを実現させた。以降、住民らによる合議制の自治政府が成立した。同年五月、松江藩が武力で陣屋を奪還したものの、長州藩、鳥取藩が介入し、たちどころに松江藩は撤退を余儀なくされ、再び住民による自治が回復した。しかし、同年十一月、隠岐が鳥取藩の管理下に置かれることになると、住民による自治は終焉した。パリコミューンにならって隠岐コミューンとも呼ばれる。
本書を読むと、この騒動が徳川幕府から明治新政府が確立するまでの「隙間」の時期に偶発的に起こったことが理解できる。また、この時期に攘夷を旗印とした自治政権が樹立したのも、中央での政情が全く見えない地方だったという地理的な要因も見逃せない。積もり積もった松江藩に対する不平不満が背景にあるが、正確に中央の情報が隠岐に届いていれば、リスクを背負って郡代追放に動かなくても、もう少しの辛抱で藩の支配から解放される運命にはあったのである。
騒動の経緯はほぼこのとおりであるが、その間の関係者の心理描写については、小説家の想像力を待たなくてはいけない。筆者は、隠岐の島に渡り、関係者の末裔にまで取材し、綿密な取材に基づいて小説を構築している。心理描写は、もちろん筆者の想像の所産ではあるが、読んでいて違和感はない。
この小説は、平成二十四年(2012)に「小説宝石」に連載されたものに、十八章以下を「書き下ろし」たものである。十八章以下は、言わば後日譚であるが、ここに筆者の取材の成果が集約されている。
恐らく筆者は、今も島に残る井上甃助(香彦)や中西毅男(はたお)らの墓を詣でたのであろう。今回の隠岐の島旅行で、隠岐騒動の関係史蹟はひと通り回ったつもりであったが、本書を読んでまだ取りこぼしがあったことを痛感した。でも、隠岐の島は非常に遠い。次回の隠岐渡島はいつになるやら…。

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府中 Ⅴ

2017年05月21日 | 東京都
(多磨霊園つづき)


本多庸一之墓

 本多庸一は、嘉永元年(1848)、弘前藩士本多久元の長男に生まれた。稽古館に学び、維新に際しては菊池九郎らとともに奥羽列藩同盟のために奔走したが、のち藩論が変ずると脱藩して庄内藩に走った。明治元年(1868)の末、脱藩の罪を赦されて弘前に戻った。明治三年(1870)、弘前藩より選ばれて、英語学習のために横浜に派遣されてブラウン塾に学んだ。明治五年(1872)基督教に入信し、帰郷して東奥義塾の塾長となって弘前教会開設に当った。継いで民権運動を指導し、明治十五年(1882)には青森県議会議長となった。その後、伝道に専心し、青山学院長、日本メソジスト教会初代監督となり、日本プロテスタント伝道の代表的人物として重きを成した。広島、長崎に伝道中、明治四十五年(1912)長崎で没した。年六十五。【4区1種35側】


百敗院泡沫頑蘇居士(徳富蘇峰の墓)


淇水先生墓(徳富一敬の墓)

 徳富家の墓域に徳富蘇峰の墓と並んで、蘇峰・蘆花の父、徳富一敬(淇水)の墓がある。
 徳富一敬(いっけい)は、文政五年(1822)、惣庄屋徳富美信の長男に生まれた。横井小楠門下の秀才であり、熊本藩政改革の中心人物であった。十五歳の時、熊本に出、時習館で勉学を修めた。天保十三年(1842)、父の病気のため惣庄屋代役として新地開拓で功をたてた。弘化二年(1845)、小楠の門に入り、物質的にも小楠を支援した。留学七年、帰省して室学主義の民政を行った。明治三年(1870)、熊本県庁に召され奉行所書記・録事兼務・民政小属を経て大属として活躍。明治六年(1873)、辞職。野にあって教育に活躍した。大正三年(1914)、年九十三にて没。【6区1種8側】

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川崎 Ⅱ

2017年05月20日 | 神奈川県
(川崎大師)


川崎大師(平間寺)

 文久二年(1862)の生麦事件で薩摩藩の大名行列と交錯したイギリス人の四名は、ボートで神奈川まで行き、そこで馬を借りて東海道に出て、生麦村を通過して川崎に進む予定であった。茶屋で休憩してから川崎大師を見物して戻るというコースは、当時「ザ・アベニュー」と呼ばれて外国人に人気が高かった。アベニューとは「並木通り」を意味し、東海道の並木道を指している。街道筋には宿屋や土産物屋が並び賑やかであった。並木の合間から所々富士山が見えた。反対側には、紺碧の海と白い帆を膨らませた船が快走していた。横浜から約二十五マイルという絶好の遠出コースであった。
 彼らが目指した川崎大師(平間寺)は、大治三年(1128)の開創。古くから「厄除けの大師さま」として知られ、広い境内に今も大勢の人たちが集まる。

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大森 Ⅳ

2017年05月20日 | 東京都
(蘇峰公園)


蘇峰公園

JR京浜東北線大森駅から徒歩で約十五分。尾崎士郎記念館のすぐ近くに徳富蘇峰旧宅跡を公園化した蘇峰公園がある(大田区山王1‐41‐21)。
 蘇峰がこの地に居宅を構えていたのは、大正十三年(1924)から昭和十八年(1943)の約二十年間。蘇峰は邸宅を山王草堂と名付けて、執筆活動に専念した。
 邸内には、蘇峰の収集した和漢の書籍十万冊を収蔵した成簣堂文庫や山王草堂が建築中に書斎として建てられた一枝庵、蘇峰の二男萬熊の住居として建てられた牛後庵などもあったが、現在は残っておらず、推定される場所に碑が建てられているのみである。


蘇峰菅原正敬(銅像台座)

 邸内には蘇峰の胸像が置かれていた台座が残っている。この胸像は、戦時中に供出されたため、今は台座のみとなっている。


山王草堂胸像前にて(昭和四年)


徳富蘇峰胸像


山王草堂記念館
蘇峰の書斎を再現したもの

 蘇峰公園内の大田区立山王草堂記念館では、蘇峰ゆかりの資料を保存・公開している。蘇峰は多作の作家としてギネス・ブックにも記録されている。中でも大正七年(1918)、五十六歳のときに着手し、昭和二十七年(1952)、九十歳で完成した「近世日本国民史」は蘇峰の代表作といわれる。
 蘇峰は勝海舟とも深い交流があった。記念館には「蘇峰と海舟」というコーナーが設けられている。
 蘇峰の弟蘆花とは、主義主張の違いから長く絶縁状態が続いていた。昭和二年(1927)蘇峰六十五歳のとき、蘆花が静養先の伊香保で危篤となったとき、両者は久しぶりに再会を果たした。平和主義を貫く蘆花と日本の軍事強化を後押しした蘇峰とは、水と油ほど主張が違った。その蘇峰が日本の敗戦まで生き抜き、軍国主義の崩壊まで見届けたのは、皮肉としか言いようがない。蘇峰は終戦とともに、一切の公職、栄誉を辞退したというが、彼の心中は大きな失望で占められていたに違いない。
 蘇峰は昭和三十二年(1957)、熱海伊豆山晩晴草堂にて逝去。九十五歳。
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芦花公園

2017年05月20日 | 東京都
(蘆花恒春園)


徳富蘆花旧宅


蘆花恒春園

 最寄りの駅は、京王線芦花公園駅である。駅名は「芦花」であるが、その名のもととなった公園名は「蘆花」である(世田谷区粕谷1‐20‐1)。
 蘆花恒春園は、文豪徳富蘆花(健次郎)が明治四十年(1907)、四十歳のときから二十年間を過ごした場所である。名の由来は、台湾の南端の恒春に因む。蘆花はこの地名を気にいり「永久に若い」という意味を込めて自宅に転用した。園内には、蘆花の作品や遺品を展示する蘆花記念館や、かつて蘆花が起居した茅屋、愛子夫人が蘆花の没後、居住した住宅などが移築・展示されている。蘆花はこの地で晴耕雨読の生活を送ったといわれる。昭和二年(1927)、病気療養のために転地した伊香保で死去した。五十八歳であった。
 徳富蘆花の代表作といえば、「不如帰」が有名であるが、個人的には関寛斎の晩年の姿を描いた小編を含む「みみずのたはこと」の作者として記憶に刻まれている。蘆花は「みみずのたはこと」をこの地で執筆し、大正二年(1913)、発表した。


梅花書屋
白鶴翁筆

 梅花書屋は、蘆花が明治四十二年(1909)に松沢町北沢(現・世田谷区)に売屋があるとの情報を得て、早速見に行って手付を渡し、手に入れた建物である。室内に掲げられている横額は薩摩の書家鮫島白鶴翁の筆によるものであり、蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。白鶴は、西郷隆盛の書の師である。


徳富蘆花夫妻之墓

 恒春園に隣接した場所に徳富蘆花夫妻の墓がある。墓碑は、兄徳富蘇峰の筆による。墓誌は、蘆花死去の直後、やはり蘇峰によって漢文で記され、石盤に刻まれてこの墓に納められている。

(粕谷共同墓地)
 蘆花恒春園内に墓地があり、その入口付近に下曽根信守の墓がある。下曽根信守は、千歳教会堂に務めた牧師で、千歳村の人々に厚く信頼され、最期は皆に看取られたとされる。蘆花は「みみずのたはごと」の中で下曽根牧師への追悼を述べている。


故下曽根信守墓

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根岸

2017年05月13日 | 神奈川県
(三渓園)


三渓園

 この日、横浜は雨だった。しかし、花の盛りはこの週末を逃すと、あと一年待たなくてはいけない。意を決して三渓園を訪ねることにした。
 三渓園へは、JR根岸駅からバスで十分。本牧というバス停で下車すれば、あとは歩いて七~八分である。
 三渓園は、明治末から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三渓(富太郎)が築いた壮大な庭園である。京都や鎌倉から移築された十七棟の歴史的建造物や、四季折々の自然を活かした庭が見どころである。雨で足元はぬかるみ、ズボンの裾は泥で汚れてしまった。やはり良い天気の日に訪ねたい。


松風閣

 この場所は明治初年に原善三郎が購入し、明治二十年代に山上に松風閣を建てたことに始まる。富太郎が三渓園として造園に着手したのは、善三郎が亡くなった明治三十二年(1899)以降のことである。
 原善三郎が別荘として建てた松風閣は、伊藤博文により命名されたもの。大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊、焼失した。今、わずかにその残骸を見ることがきできる。

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日野 Ⅴ

2017年05月13日 | 東京都
(大昌寺 つづき)

 馬場家先祖代々の墓に、馬場平助が合葬されている。馬場平助は、日野宿で荒物商を営む傍ら、天然理心流を学んだ。八坂神社の奉納額にも名を連ねている。文久三年(1863)、浪士組に参加して上洛したが東帰し、新徴組に加わった。江戸警備に活躍後、慶応四年(1868)には庄内戦争に参加した。明治十九年(1886)没。
 弟・馬場市次郎は、慶応三年(1867)十二月十五日、八王子宿壺伊勢屋事件に参加して戦死した。二十五歳。傍らの墓碑にその名前を確認することができる。


馬場家先祖代々之墓(馬場平助・市次郎の墓)

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立川 砂川

2017年05月13日 | 東京都
(流泉寺)


流泉寺

 西武新宿線武蔵砂川駅から徒歩で十分。流泉寺は、意外なほど広い墓地を持つ寺である。その墓地で、ひらすら「山崎家の墓」を一つひとつ確かめて、山崎兼助の墓を特定した。


先譽勇進信士(山崎兼助の墓)

 山崎兼助は、慶應三年(1867)十二月十五日に八王子で起こった壺伊勢屋事件において、佐藤彦五郎の配下の一人として壺伊勢屋を襲撃し、そこで負った背中の傷が原因で、十八日に亡くなった。一説に岡っ引きだったという。山崎兼助は、日野の大昌寺に葬られたが、その後その墓の行方は分からなくなっていた。最近になって砂川の流泉寺にあることが判明した。なお墓石側面には「俗名 山崎兼補」と刻まれている。


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