史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「近代日本外交史」 佐々木雄一著 中公新書

2023年07月29日 | 書評

ペリー来航から太平洋戦争に至る約九十年にわたる日本外交の歩みをわずか二百ページ余りに凝縮した一冊。

明治日本にとって大きな外交問題は条約改正であった。条約改正とは具体的には法権回復(領事裁判権の撤廃)と関税問題(関税自主権の回復もしくは関税の引き上げ)である。改正事業にはさまざまな取り組みが模索された。

その代表例の一つが井上馨外務卿の推進した文明開化路線である。悪名高い鹿鳴館でダンスパーティを開いた井上だが、外国人に内地解放をする代わりに法権を回復し、文明国に相応しい法・政治制度を備えることで条約改正を実現しようという戦略であった。

井上の跡を継いだ大隈重信は、外国人の裁判官任用といった妥協的内容を提示しながら領事裁判撤廃を目指した。しかし、外交担当者が是とした内容であっても、日本国内を納得させることはできなかった。結局、大隈自身が爆弾テロを受けて重傷を負ったことを機に大隈路線は頓挫してしまう。

青木周蔵外相、榎本武揚外相の時代も政府内の合意形成に躓き、成果を上げることはできなかった。次いで第二次伊藤博文内閣で外相に就いたのが陸奥宗光である。陸奥は前任者の失敗から学び、国内および政府内で合意を形成することに意を配った。この頃には憲法や裁判所構成法が公布・施行され、帝国議会も開設されており、これも陸奥外交の追い風となった。

またこの頃、外務大臣・外務本省・在外公館の総合的体制で外交を行う体制が完成した。それまで外交で必要とされる社交を優先して、裕福な華族から公使を起用するような人事が普通に行われていたが、ようやく外交の専門性や組織的取り組みの重要性がクローズアップされるようになったのである。

明治二十七年(1894)七月、我が国は悲願であった新条約締結にこぎつけた(日英通商航海条約)。新条約では、日本は内地を開放し、領事裁判が撤廃され、最恵国待遇も双務的となった。関税についても部分的に改正された。ただし、条約の発効は五年後であった。完全な税権回復は果たされていないし、批判される余地は多々あったが、折しも日清戦争が始まり、その結果、新条約に対する日本国内の批判は高まることはなかった。

この成功体験を通じて、日本の外交担当者は西洋諸国を中心とする国際秩序に公正さを認め、それに積極的に適合していくことで日本が十分に発展していけるという自信を得た。一方で条約改正にとどまらず日露戦争の講和を巡って、あるいは第一次世界大戦後のパリ講和会議における人種差別撤廃問題にしても、外交当局者とそれ以外の人たちとの感覚のずれは覆い難いものがあった。先回りして言ってしまうと、その乖離が最後には太平洋戦争へと繋がるほころびであった。

時代は帝国主義の時代を迎えていた。帝国主義というと弱肉強食の世界というイメージが強い。確かにそういう側面も否定できないが、外交上の主張や行動には一定の正当性が求められた。列強はお互いに牽制し、警戒し、協調しながら、他国が認める形で勢力を伸ばしたいのであって、日本もその規範の中にあった。むしろ非西欧国だったから、余計にほかの列強からどう見られるか、ほかの列強がどう反応するかということに神経を使い、外交担当者は正当性や公平性を強く意識していた。ただし、それは飽くまで列強間の論理であって、日本の従属下に置かれた台湾や朝鮮にしてみれば、全く公平でも正当でもないという点には注意を要する。

このような帝国主義的規範意識をもって外交を担っていたのは、大国で公使を経験した有力外交官たち(青木周蔵、陸奥宗光、西徳二郎、加藤高明、小村寿太郎、林董、内田康哉、牧野伸顕、石井菊次郎、本野一郎ら)、つまり「外交のプロ」であった。本書によればこの流れに連なる存在が、伊集院彦吉、松井慶四郎、幣原喜重郎であり、「幣原は日本外交の嫡流」だという。彼らは既存の国際秩序の中で十分日本は発展することができると信じ、「目の前に利益を得ること、少なくとも損はしないこと」に注力した。ここでいう「利益」とは「領土、利権、経済的利得、将来的な主張の根拠」などをいう。

ところが第一世界大戦を経て、外交のあり方が大きく変容することになる。日本も対外膨張策に傾き、従来の外交のプロが担った外交の自律性は、特に世論との関係、あるいは閣内、政府内との整合という観点でも転換期を迎えることになる。

第一次世界大戦後のパリ講和会議において、日本は国際連盟規約に各国民平等、差別撤廃の文言を入れようとしたが失敗に帰した。日本は人種差別問題に関する日本の主張を記録に残すことで折り合いをつけたが、これに対して国内世論は強く反発した。これを契機に日本政府、外交担当者とそれ以外の人々との温度差が次第に顕著となり、日本外交において深刻な意味を持つようになる。

第一次世界大戦を経て世界的に反帝国主義の考えが広がる。列強が共同で中国を抑圧していることが批判的に捉えられるようになってきた。そういう中で国際連盟が設立され、民族自決が唱えられ、従来の帝国主義は批判を受けた。軍縮が叫ばれ、戦争違法化の流れができていく。日本も伝統的な日本外交に回帰しようとした。即ち大勢順応である。ほかの大国が中国から手を引けば日本もそうする。日本だけが不利益を被ることがないようにバランスをとろうとした。

一方、この頃、「満蒙は日本の生命線」というスローガンが唱えられるようになる。日本政府も言論人も、様々な人が様々な場で「満蒙権益は日本の国防ならびに国民の経済的生存に関わるものである」と主張し、これが一因となって日本は国際社会との対決に向かってしまう。現代人の目から見れば妄言でしかないが、朝鮮半島を自国に組み入れた当時の日本人にしてみれば国を挙げて「満蒙は日本の生命線」と信じる根拠があったのであろう。

二〇年代の憲政党・民政党内閣期に外務大臣を務めたのが「外交のプロ」である幣原喜重郎であった。ところが、幣原の対中政策は日本国内で軟弱外交と批判されるようになっていた。

一九二〇年代から三〇年代は、政党内閣が次々と成立し、メディア・ジャーナリズムが勃興した時期である。日本外交も、国内のマグマに煽られるように方向転換を余儀なくされる。「外交のプロ」が国際秩序に配慮しながら自国の利益を追求する従来型の外交に飽き足らず、日本にとって不利な国際秩序を作り変えようという、今から見ればかなり無茶な「正義」を希求することになる。

国際連盟を脱退し、日中戦争を始めた日本は国際的に孤立を深めていく。外交という切り口で見ても、三〇年代は大きな転換点であった。その時代をリアルタイムで生きている人には見えないが、あとから振り返ると画期となる変わり目がある。筆者は「秩序の変動期でなおかつ日本外交が指導力を伴って軌道修正されていた原内閣期は、満州・満蒙についてもより柔軟な政策選択に道を開く好機だった」と指摘しているが、もちろんそれは「後々の展開を知ったうえでの後知恵」であることは否定できない。リアルタイムで生きている人の中にそのことに気が付き、ブレーキを踏んだり方向転換できる人がいたとしたら、それは真のヒーローであろう。いや、もはや神の領域かもしれないが、国家の進路を握るものは一歩でもそれに近づく努力をしなければならない。

 

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名古屋 南

2023年07月22日 | 愛知県

(富部神社)

 南区呼続(よびつづき)四丁目の冨部(とべ)神社は、慶長八年(1603)、清須城主松平忠吉が創建したといわれる。慶長十一年(1606)、病気快癒の報恩のため、本殿、祭文殿、拝殿、回廊などを寄進し、さらに神宮寺として天福寺を建てた(維新後、神仏分離により廃寺)。江戸時代を通じて、歴代の尾張藩主から黒印地として毎年百石が寄進された。

 

富部神社

 

 鳥居の横に明治天皇の駐蹕記念碑が移設されている。滞在は明治元年(1868)九月二十七日。

 

明治天皇御駐蹕之處

 

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名古屋 港

2023年07月22日 | 愛知県

(南陽神社)

 

南陽神社

 

 名古屋市港区の南陽中学の南にある南陽神社は、日清戦争以後の戦死戦病死者を祀る神社である。大正十二年(1923)、靖国神社から分霊を受けた。当時は南陽忠魂社と称していた。

 

鬼頭景義・勘兵衛宅跡

 

 境内には鬼頭景義・勘兵衛宅の長屋門が修理移築されている。

 鬼頭景義は、寛永八年(1631)から明暦三年(1657)に至る二十七年間、尾張・美濃で二十七ヶ所、二万二千余石にのぼる新田を開拓した人物である。この地に居住した景義直系の子孫には、代々勘兵衛を名乗る者が多く、そのため勘兵衛屋敷と呼ばれた。

 太平洋戦争で建物の大半が焼失し、現在は明治十三年(1880)、明治天皇巡幸の際に使われた長屋門のみが残されている。

 

明治天皇福田行在所

 

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名古屋 瑞穂

2023年07月22日 | 愛知県

(東ノ宮神社)

 

東ノ宮神社

 

 名古屋市瑞穂区神穂町の東ノ宮神社では、狭い境内に大正期に建てられた明治天皇覧穫之所碑と昭和になって建てられた明治天皇八町畷御野立所碑がある。

 

明治天皇覧穫之所

 

 題字は尾張徳川家の第十九代当主徳川義親(松平春嶽の五男)。

 

明治天皇八町畷御野立所

 

 当地は、明治元年(1868)に明治天皇が稲の収穫をご覧になった水田の跡である。

 

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名古屋 Ⅶ

2023年07月22日 | 愛知県

(ファミリーマート中川富川町店)

 

明治天皇御駐蹕之所

 

 この日、新居浜から名古屋に移動し、名古屋駅近くのビジネスホテルに宿泊した。岡山からの新幹線がよりによって信号故障により十五分遅れとなった。十五分程度の遅れであれば、まったく気にならないのだが、この日は日没までの一時間を使って、近鉄烏森(かすもり)駅周辺の明治天皇聖蹟碑を歩いて探訪する予定を立てていたので、気が気でなかった。

 ホテルに荷物を置いて、飛ぶように近鉄の普通電車に乗り、烏森駅を目指す。最初の訪問地は、佐屋街道沿いにある天神児童遊園地(名古屋市中川区長良町3‐2‐2)である。

 ところがそこに行ってみると

――― 当所に建立設置されていた『明治天皇御駐輦之所』の石碑は、長良八劔社境内に移設しました。          長良八劔社

と書かれた立て看板がポツンと置いてあるだけであった。

 日本国内に入った瞬間、ベトナムから持参したスマホが使えない状態になってしまい、グーグルマップで検索もできない。八劔神社がどこにあるかも分からないので、取り敢えず次の目的地である、冨川町のファミリーマートの前にある明治天皇碑を目指すことにした。

 十五分ほど佐屋街道を東に進み、長良橋を渡ったところに立派な石碑が建てられている。

 

 明治元年(1868)十二月十八日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したものである。

 

(長良八劔神社)

 

長良八劔神社

 

 佐屋街道を烏森駅方面に戻り、途中で店仕舞いをしていた老女に長良八劔神社の場所を訊いたところ、直ぐ近くであることが分かった。何とか日没までに行き着くことができた。

 本殿の裏側に明治天皇御駐輦之所碑が移設されている。明治二年(1869)三月十六日の滞在跡である。

 

明治天皇御駐輦之所

 

(名古屋別院)

 翌日は雨であった。地下鉄の始発に乗って東別院駅で下車。名古屋別院を訪ねた。

 織田信長の父信秀が天文十一年(1542)頃。熱田を掌握し、東方の今川に備えるために築城したのが古渡(ふるわたり)城である。現在、名古屋別院のある辺りに築城されていたとされる。

 

真宗大谷派 名古屋別院

 

古渡城趾

 

明治天皇行在所舊址

 

 明治十一年(1878)から明治二十七年(1894)まで、当地における明治天皇の宿泊は六回を数えた。近くには明治天皇名古屋大本営碑も立っている。

 

明治天皇名古屋大本営

 

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津島

2023年07月15日 | 愛知県

(浄光寺)

 

浄光寺

 

明治天皇 佐屋 行在所

 

 津島市片町の浄光寺門前に明治天皇の行在所が置かれたことを記念した石碑が建てられている。

 

(大地主神社)

 

大地主神社

 

 津島市埋田町の大地主神社には、聖蹟碑と明治天皇御小休紀念 椿と刻まれた石碑がある。

 この地は明治天皇が小用を足された場所で、後年この地に椿の枝を刺しておいたところ、根を生じて生育したため、明治十八年(1885)になって神社が造られたという。

 

聖蹟碑

 

明治天皇御小休紀念 椿

 

 周囲を探してみたが椿らしき樹木は見つけられなかった。

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清須

2023年07月15日 | 愛知県

(清洲宿本陣跡)

 

清洲宿本陣跡

 

 清洲宿は、当初一場桑名町に置かれたが、寛文八年(1668)、火災に遭い、現在地(清州二丁目)に移された。直ぐ近くに再建された清須城がある。以来、この本陣は将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮・琉球使節の参府、時には大象の下向時の休泊所となり、美濃路の中でも最も豪壮な建物であった。

 

明治天皇御駐蹕之所

 

 明治十一年(1878)の明治天皇が当地を訪れた際にも小休所として使用されたが、明治二十四年(1891)に火災で焼失した。わずかに正門のみが免れ、その後縮小して再建され、唯一清洲宿本陣の名残となっている。

 

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稲沢

2023年07月15日 | 愛知県

(佐藤牧山碑)

 

佐藤牧山碑

 

 稲沢市祖父江町の神明社の北側に佐藤牧山碑がある。佐藤牧山が当地で生まれ、旧宅跡があったことを示すものである。

 この後、祖父江町郷土資料館で佐藤牧山関係史料を見学して行こうと思って、付近を探したが、どうやらそのような施設は存在していないようである。

 

(森部家)

 

森部家

 

明治天皇御駐蹕所

 

 下津下町の交差点に面した場所に森部家の屋敷がある。明治天皇の小休所となった森部家の門や御座所の建物が往時のまま保存されているという。塀沿いに「明治天皇御駐蹕所」碑の上部が見える。

 

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一宮 Ⅱ

2023年07月15日 | 愛知県

(北方)

 一宮市の北端に位置する北方町の木曽川沿いに北方代官所跡がある。北方代官所は、天明元年(1781)、この地に陣屋が置かれ、木曽川沿いの葉栗、丹羽、中島の三郡、美濃の大野、池田、本巣ほか九郡に及ぶ広い地域を管轄した。明治四年(1871)、代官所は廃止された。

 

北方代官所跡

 

明治天皇御駐蹕記念塔

 

北方代官所跡から百メートルほど西に行った場所に明治天皇御駐蹕記念塔が建てられている。明治二十年(1887)二月十一日、当時まだ木曽川の鉄橋が建設中であったため、明治天皇は皇后陛下を伴い、対岸の円城寺で汽車を下りて仮橋を渡って、当地に新設された御召換所で休息をとった後、再び乗車して東京へ向かった。

 

(善龍寺)

 

善龍寺

 

明治天皇御駐輦之處

 

 木曽川町の善龍寺の門前には明治天皇御駐輦之處があり、境内に入って松の巨樹のところには明治天皇黒田御小休所が置かれている。

 

明治天皇黒田御小休所

 

 明治十一年(1878)十月の巡幸に際して明治天皇が滞在になったことを記念したものである。

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大津 Ⅵ

2023年07月09日 | 滋賀県

(月見山墓地)

 

堀内誠之進墓

 

 週末はベトナムから連れてきた社員を案内して、買い物と観光に付き合うことになった。彼は家族や同僚、知人からたくさんの注文を受けており、そのリクエストに応えるためほぼ一日買い物に費やすことになった。といっても、ドラックストアとかイオンモールなどをはしごしただけで、京都でないと買えないものがあったわけではない。

 二日目の朝少しゆっくりできたので、一時間早めに家を出て、大津の月見山墓地を訪ねた。JR大津駅から東へ徒歩七~八分ほどである。墓地のほぼ中央付近に堀内誠之進の古い墓石が立っている。

 

 堀内誠之進(せいのしん)は、天保十三年(1842)生まれ。土佐藩郷士島村文蔵の次男。同郷の羽田恭輔らと国事に奔走。征韓論をとなえる丸山作楽にしたがい明治四年(1871)朝鮮渡航を企てて、捕らえられ終身禁固となった。西南戦争が起こると脱獄して西郷軍に加わった。政府に自首し明治十二年(1879)十月、大津で獄死。三十八歳。

 堀内誠之進という志士は、ほとんど無名の存在である。遠矢浩規氏が「明治維新 勝者のなかの敗者」で取り上げ、横井小楠暗殺、奇兵隊の反乱、二卿事件から西南戦争に至る反政府活動に関与した事績を解明してみせた。この墓は平成三十一年(2019)に四万十町教育委員会と同町有志の方々により発見されたものである。

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