史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「桜田門外ノ変」

2010年10月23日 | 映画評
映画「桜田門外ノ変」を観た。封切り二日目というのに、客席は三分くらいの入りで、しかも老人ばかり。いかに本格的時代劇は人気が無いかを物語っている。
本作品は原作である吉村昭「桜田門外ノ変」に比較的忠実に作られており、つまり史実に即した語り口となっている。私のようなマニアにはそれは好意的に受け止められるだろうが、果たして一般大衆にはどうだろう。
大老襲撃のシーンも、原作と同じく前半に置かれており、物語の後半はひたすら主人公関鉄之助の逃避行である。原作の大老襲撃シーンも大変熱いが、映画も迫力満点である。私はからだが鳴動するくらい感動して、涙を止めることができなかった。
史実に忠実という点では近頃の映像作品の中では珍しく良心的であるが、一点疑問に思ったのは、当時の水戸藩士たちが、小金宿に集結して憤激の余り自刃したり、命を賭して大老襲撃を決行したのは、本当に「日本のため」かという点である。当時の人々にとって「国」といえば、自分が所属している藩のことであり、日本という概念はあまり発達していなかったと言われる。
幕末の水戸の歴史を調べていると、当時の斉昭の存在の大きさを改めて思い知らされる。斉昭の藩主就任には、藩内の激しい政争があった。多くの犠牲の上にようやく誕生した藩主。その主君が辱められたことへの反発が桜田門外の変の遠因だろうと思う。

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「幕末の動乱」 松本清張著 河出文庫

2010年10月23日 | 書評
松本清張は、推理小説や古代史を題材にした作品を多く残しているが、一方で江戸時代や近現代史を素材とした著作も執筆している。この本は、清張が河出書房新社の「日本の歴史」シリーズの一端として「幕末の動乱」を描いたものである。「幕末」といえば、一般には嘉永六年(1853)のペリー来航以降を指すが、ここでは八代将軍吉宗の享保改革から、水野忠邦の天保の改革まで、つまり江戸時代後半の百年余りを対象としている。従って、題名から連想される内容とは大いに異なる。ここでは、桜田門外の変も、禁門の変も、天誅組の変も、戊辰戦争も一切登場しないのである。
江戸時代をどう評価するか。この間、日本は二百六十年もの長きにわたり平和を謳歌し、庶民は慎ましい生活を送り、文化は爛熟した。しかも、世界に類を見ない教養時代でもあった。これをもって徳川の治世を「非常に良かった」と評価する声もあるが、改めてこの本を読むと、到底良い時代だったとは思えない。相次ぐ天変地異(火山の噴火、大地震、そして異常気象)、それによる大飢饉。そのあとにはコレラやチフスといった疫病の流行。抑圧された農民は逃散を繰り返し、やがて組織だった一揆や打ちこわしを頻繁に起こすようになる。そもそも封建の世は、全人口の一割程度でしかない武士階級の存続のために、八割を占める農民を虐げ、彼らから搾取する構造になっているわけだから、国民の大多数にとって住み良い社会であるはずがないのである。
名君と呼ばれる徳川吉宗や上杉鷹山の治績の欺瞞を暴き、批判する筆は、社会派小説家松本清張の面目躍如としている。
清張の批判の鉾先は支配層にとどまらない。
――― 文化年間から江戸の市民は、およそ実体のあやふやな「江戸っ子」を自称して、ひとりでイキがりはじめたのである。
と、江戸市民までをこきおろす。
従来、賄賂政治のイメージが強く、あまり評判の芳しくない田沼意次の施策を高く評価しているのも、この本の特徴である。田沼意次は、放縦といわれるまでの自由をもたらし、息の詰まるような時代に自由の窓を開けた。その結果、蘭学が一世を風靡することになった。殖産興業政策や貿易政策を振興し、干拓事業などを推し進めた。ほかの時代の「改革」には見られない、これらの積極政策を見ると、確かに「もう少し田沼時代が続いていれば…」と想像をかきたてる。「時代」を評価するのは難しい。歴史学者は得てして「良い面もあれば、マイナス面もある」みたいなどっちつかずの表現になってしまいがちであるが、一刀両断できるのは小説家の強みかもしれない。

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「水戸の先人たち」 水戸市教育委員会

2010年10月16日 | 書評
水戸に出張した際、本屋に並んでいたのを見かけて、迷わず購入した。水戸市施行百二十年および水戸藩開藩四百年を記念して、郷土の先人百二十二人を選んでその業績を紹介した本である。自分の興味のある時代でいえば二十番目に紹介されている長久保赤水から、八十四番目の人見寧くらいまでなので、精々半分くらいしか目を通していないが、それでもこれを読むと水戸という土地は、政治思想や医術、絵画、書道、作刀、学問等、様々な分野において優れた人物を輩出していた事実を思い知らされる。
かつて茨城県の方が実に無念そうに話してくれたことがある。「茨城県は人物が出ないんです。それも大物がいない。梶山静六が総裁選に出たのがやっとで、まだ一人も総理大臣を出していない。これというのも、幕末の政争で人材が払底してしまったことが原因です。」
この発言の真偽は定かではないが、少なくともこの本に紹介されている人物で、幕末の風雲を経験した上で、明治新政府に仕えた人物は、香川敬三と、梅村速水、人見寧、栗田寛くらいのものである(うち梅村速水は明治三年(1870)に非業のうちに獄死)。桜田門外の変を引き合いに出すまでもなく、幕末という時代を主導していた水戸藩から、明治新政府に人材を送り込めなかったという無念は、茨城県人に共通のものであろう。血で血を洗う抗争を繰り返し、これほどまでに人材を浪費した藩は水戸を除いて見当たらない。悲劇性でいえば、会津藩にひけをとらないだろう。水戸の抗争は、新政府の樹立とともにいわゆる尊攘派が勝利を得たが、この結末をもって果たしてこれを勝利と言えるのだろうか。虐殺に対して殺戮で報復するような抗争の末には、誰も勝者は生まないという事実を、後世の我々は肝に銘じておく必要があるだろう。

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小田原 栢山

2010年10月13日 | 神奈川県
(小田原駅 二宮尊徳像)
 小田原は、偉人二宮尊徳を生んだ土地である。駅前に薪を負って本を読む見慣れた尊徳像が置かれている。私の子供の頃、この尊徳像は日本全国の学校に当たり前のように見られたが、いつの間にか数が減ってきたように感じる。それとともに日本人の勤勉さも翳りを生じているような気がしてならない(うちの子供たちを見ているからだろうか)。地元小田原の小学校には、負薪読書像は健在である。


小田原駅前 二宮尊徳像

(小田原市尊徳記念館)
 小田原駅から小田急小田原線各駅停車に乗って四つ目の駅が栢山(かやま)である。ここが二宮尊徳の出世地である。駅でいうと一つ手前の富水で下車する方が近い。徒歩十五分程度で小田原市尊徳記念館に行き着く。


二宮先生誕生地碑

 記念館には二宮尊徳の生家が復元保存されている。この家で、二宮尊徳(幼名金次郎)は天明七年(1787)に生まれた。その後この家は他人の手に渡り、場所もほかに移されたが、明治四十二年(1909)当地を訪れた真珠王こと、御木本幸吉が買い戻して整備した。生誕の地に移築されたのは、昭和三十五年(1960)のことである。


二宮尊徳誕生の家

 生家は土間とその奥に座敷など生活空間が広がり、当時の典型的な中流農家の家屋となっている。尊徳は幼くして父母と死に別れ、一家離散の苦境に陥った。家財、諸道具、更には住居まで売って金に換えたといい、その時、この家屋も人手に渡ったものといわれる。


二宮尊徳誕生の家 内部


尊徳先生誕生遺蹟之碑

 生家の周りには二つの石碑が建てられている。一つは、生家の保存に尽力した御木本幸吉の事績を記した尊徳先生誕生遺蹟之碑。もう一つは貧富訓碑である。


回村の像

 生家前には、早朝から夜まで農村を回って指導し、貧しい村々を建て直すために先頭に立つ尊徳の姿を再現した回村の像が建てられている。二宮尊徳は身長百八十㎝を超える巨漢だったと伝えられる。尊徳は死の直前まで村の復興支援に奔走したが、精力的な活動を支えた影には、頑健な身体があった。

(善栄寺)


善栄寺

 栢山の善栄寺は、二宮尊徳の菩提寺である。尊徳の墓のほか、勉学に励む少年二宮尊徳の像がある。


少年勉学の像

 少年勉学の像の台座には、「積小為大」(小を積んで大を為す)という文字が刻まれている。幼くして両親と死別した尊徳は、伯父万兵衛に引き取られたが、夜遅くまで書物を読んでいると、行燈の油を無駄に使うなと伯父に咎められた。そこで尊徳は友人から菜種を借りて、それを蒔いて翌春使いきれないほどの油を回収した。これが「積小為大」の言われである。


誠明院功譽報徳中正居士
(二宮尊徳の墓)

 二宮尊徳は、安政三年(1856)十月、日光神領における復興仕法中、生涯を閉じた。この時、実弟三郎佐衛門(幼名友吉)が、遺髪と遺歯を抱いて故郷に帰り、善栄寺二宮総本家の墓地に葬ったのがこの墓である。
 なお、亡くなった今市の報徳二宮神社、更には東京吉祥寺にも墓がある。

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小田原 Ⅱ

2010年10月13日 | 神奈川県
(誓願寺)


誓願寺


岩瀬大江進の墓(左)と墓碑

 小田原市内浜町の誓願寺には、小田原藩家老、岩瀬大江進(おおえのしん)の墓がある。
 岩瀬家は小田原藩大久保家の重臣で、家老職を務める家柄であった。幕末に藩論は勤王、佐幕に分かれて対立したが、その間にあって対応に苦慮した。明治元年(1868)五月、箱根に戊辰戦争の戦火が及ぶと、小田原藩は、幕臣が編成した遊撃隊を撃退したが、一時遊撃隊に便宜を与え、政府軍の軍監を殺害したことから、新政府軍の怒りを買った。罪が藩主に及ぼうとしたため、自ら責任を負って、血字の遺書を残して壮烈な自刃を遂げた。年五十一。


勇乗院秋月円明居士
(岩瀬大江進の墓)

 墓の傍らには、小田原藩士、中垣謙斎撰文による墓碑が建てられている。

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田園調布

2010年10月09日 | 東京都
(東光院)


東光院

 田園調布といえば、高級住宅街の代名詞となっている。かつて多摩川沿いのこの地には、六郷用水が開削されていた。
 東光院は、東急目蒲線の沼部駅を降りて、徒歩数分の場所である。本堂の前に、注意しないと見過ごしてしまいそうな小さな石碑が建てられている。上部に「勇士碑」とあり、その下には三名の戒名が書かれているが、彼らの本名や素性は伝わっていない。
 三名が当地に来たのは、明治元年(1868)六月五日というから、上野戦争の落ち武者かもしれない。当地の住民との間でトラブルとなり、相継いで惨殺される。一人は東池の畔で、残る二人も逃げ回った挙句、多摩川河原で殺された。彼らの死を憐れんだ医師森某がこの碑を建てたと伝えられる。


勇士碑
常楽院苦心解脱居士
安楽院迷心得脱居士
明楽院疑頓心悟居士

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碑文谷

2010年10月09日 | 東京都
(正泉寺)


正泉寺

 東急東横線の都立大学駅から歩いたので、正泉寺に到着するまで三十分ほどかかってしまったが、同じ東急でも目黒線の西小山からの方が近い。正泉寺は、閑静な住宅街の中に位置している。


羽倉用九(簡堂)之墓

 正泉寺には、戯作者、浮世絵師として有名な式亭三馬の墓があるが、この日のお目当ては羽倉簡堂の墓である。
 羽倉簡堂は、寛政二年(1790)幕臣の家に生まれた。諱は用九。若くして古賀精里に学んだ。父の没後、幕府代官となって、大島、三宅島、八丈島を視察調査した。その一方で尚歯会にも参加して渡辺崋山らとも交友が深かった。天保十三年(1842)には納戸頭に上げられ、生野銀山を治め、大阪の民政にも参与したが、間もなく職を辞した。その後は幕府からの要請にも応じず、読書・著述を専らとした。嘉永年間に「海防私策」を著して攘夷を唱えた。文久二年(1862)、七十三歳で死去。

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「維新風雲回顧録」 田中光顕著 河出文庫

2010年10月07日 | 書評
本書は、昭和三年(1928)に刊行され、その後、昭和四十三年(1968)、平成二年(1990)に再刊され、本年改めて河出文庫より刊行されたものである。田中光顕は、幕末維新の風雲を潜り抜け、昭和十四年(1939)まで長生した。司馬遼太郎先生に言わせれば「典型的な二流志士」であるが、長寿にかけては超一流と言えるだろう。田中光顕の強運は長寿だけではない。この人の現場運は全く奇跡的である。吉田東洋の暗殺実行犯であり天誅組の変で戦死した那須信吾を叔父に持ち、美作土居で命を散らした井原応輔とともに脱藩し、高杉晋作の下にいて奔走し、新選組の襲撃を間一髪で逃れ、中岡慎太郎の組織した陸援隊に参加し、坂本龍馬暗殺現場に事件直後に駆けつけた。これほどの履歴はほかに類を見ない。維新史において何か重要な役割を果たしたかと問われれば、確かにこれといった事績はないが、それでもこれだけの経験はほかの追随を許さない。本書では現場に居合わせないと分からないような証言もあり、まるで講談を聞いているように非常に面白い。
この本では天誅組の変の犠牲となった五条代官鈴木源内は「権威をふるい、重斂を行い、支配下の庶民は、いたく難渋していた」と一方的に悪者にされているが、一方で鈴木代官は善政を敷いて領民に慕われていたとも言われる。どちらが正しいのか判断する材料は持ち合わせないが、少なくとも頭からこの本の記述を鵜呑みにするのは慎重でありたい。
巻末のあとがきは、直孫の田中光季氏によるものである。それによれば、田中光顕は生前「墓地無用論」を語っていたという。つまり「日本の国土は狭い。それなのに一家がみんな一カ所ずつ墓地を作っていたのでは大変もったいない」「自分が死んだら、灰にして富士山の上から風に飛ばしてくれ」などと言っていたそうである。なかなか味のあることを言っているが、実は田中光顕は護国寺に大きな墓を建てている。光顕の遺志に反して建てられた可能性もあるが、いずれにしてもこの辺りが「二流」と分類される遠因かもしれない。
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福知山

2010年10月03日 | 京都府
(福知山城)
 今年の全社野球大会は、播磨で開かれた。五年前、播磨で野球大会があったときは、試合の合間にジョセフ彦関係の史跡を訪問した。今回はレンタカーを借りて生野と福知山まで足を伸ばすことにした。
 野球の方は、数ヶ月前から五十肩で左肩が上がらず、更に一週間前に庭の草刈をして腰を傷めた。キャッチボールもままならず、バットを振ることもできないような状態であったが、それでも野球大会に参加したのは、関西の史跡を訪ねるチャンスだからである。
 試合の方は最終回に代走で出場しただけで、何とも不甲斐ない結果であったが、試合が終わると汗を拭く間もなく、生野に向かった。生野から更に小一時間のドライブで城下町福知山に行き着く。


福知山城

 福知山城は、天正七年(1579)に明智光秀が丹波を平定したのを機に、当地にあった横山城を改築して近世城郭へと生まれ変わらせた。江戸時代に入って、有馬氏、岡部氏、稲葉氏、松平氏と目まぐるしく城主が変わったが、寛文九年(1669)、朽木稙昌(くつきたねまさ)が福知山藩三万二千石の城主に封じられると、その後廃藩置県までの二百年間、十三代に渡って朽木氏が続いた。

 天守閣は昭和六十年(1985)に再建された復元天主で、外観は忠実に往時の姿を再現した鉄筋コンクリート製である。


福知山市
福知山城天守から市街を望む

(円覚寺)


円覚寺

 円覚寺は、福知山城城主朽木氏の菩提寺で、第七代朽木舗綱(のぶつな)、第十二代朽木綱張および第十三代朽木為綱(もりつな)の妻の墓が置かれている。


従五位下朝散大夫兼近江守朽木綱張墓
錦光院殿成徳惟馨大居士

 朽木綱張は、文化十三年(1816)に近江膳所藩主本多康禎の次男に生まれ、福知山藩朽木家の養子となって家督を継いだ。藩政では市川儀右衛門らを登用して財政建て直しに努めたが、これが領民の反発を招き大規模な一揆に発展した。市川は責任を負って切腹。佐幕派として禁門の変や第二次長州征伐にも参加した。慶応二年(1866)二月、病を得て死去。五十二歳であった。
 綱張の死後、藩主は長男為綱に引き継がれ、明治維新、廃藩置県を迎える。為綱の墓は東京青山霊園にあるが、明治三年(1870)に二十歳という若さで亡くなった為綱の妻の墓が綱張の墓の傍らに在る。

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朝来 Ⅲ

2010年10月03日 | 兵庫県
(納座・大川藤蔵殉難之地)


勤皇志士 大川藤蔵殉難之地碑

 水戸藩士小川吉三郎は、大川藤蔵という変名を用いていた。十月十四日早朝、小川吉三郎は沢宣嘉が陣を脱したことを聞きつけ、妙見山の陣を訪ねた。ここで南八郎が決死の覚悟でいることを同士川又左一郎から聞いた。小川は川又とともに南の説得にかかったが、簡単には聞き入れない。諦めて山を下り、因州の大村辰之助、木村愛之助(片山九市)らとともに沢宣嘉を探して丹波路に向かった。そのとき残兵狩の農兵に囲まれ発砲を受けた。窮地に陥った小川吉三郎はここで切腹して死を迎えたが、同伴していた川又、大村、木村の三名は小川に諭され、農兵に捕らえられて、その後出石藩に引き渡された。川又左一郎(水戸藩)は、十一月二十三日、出石の獄で縊死。大村辰之助は翌年七月二十日、京都六角の獄舎にて平野國臣、横田友次郎、本多素行らとともに暴殺され、片山九市(丹波国氷上郡黒井村の庄屋出身)は慶応元年(1865)、長い獄中生活の末、牢死した。

 『生野義挙日記』によれば、大川藤蔵殉難之地碑の所在は朝来町納座となっていたが、実際には隣町の山内である。納座から山内まで車で走り回って、ようやく見つけることができた。想像していたより小さい碑であった。

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