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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

富里

2009年09月12日 | 千葉県
(大久保卿牧場選定の碑)
 成田空港の一つ手前の富里ICで東関東自動車道を降りて、市役所などのある市街地を抜けると田園地帯が広がる。実は、富里は大久保利通に所縁の深い場所なのである。


明治八年前内務卿従三位大久保利通茲選定牧羊場跡

 明治八年(1875)内務卿に就いた大久保利通は、軍隊および国民生活の近代化のために毛織地の需要が高まることを予期し、近代牧畜の必要性を説いた。これを受けて東京勧業寮試験場内に牧羊開業取調掛を置くことになり、富里の町も牧羊場の候補地として挙げられた。大久保利通自らがこの地を訪れて高い土手に登って四方を望見し、ここを適地と定め下総牧羊場を開設することになった。

(富里牧羊場跡)
 昭和三十年(1955)、大久保利通の業績を顕彰するためにこの地に顕彰碑が建てられた。


富里牧羊場跡碑

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市川

2009年09月12日 | 千葉県
(弘法寺)
 朝から空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうであった。天気予報でも「曇のち雨」となっていたので、雨が降るのは時間の問題であった。念のため監督に電話で確認してみたが、予定とおり練習を決行するという。
 一時間半をかけてわざわざ八王子から市川まで野球の練習のために出かけていくというのもなかなか面倒なことだが、市川まで行って雨で中止というのはあまりに悲しい。
 市川研究所のグラウンドに着いた頃にポツリポツリと降り始め、キャッチボールが終わったところで本降りになってしまった。しばらく様子を見ていたが、雨脚は激しくなるばかりであった。結局、練習は中止となり、私はこの機に市川と富里の史跡を訪ねることにした。転んでもただでは起きないの精神である。

 市川は大鳥圭介、土方歳三らが結集し、反攻の起点となった地点である。市川大林寺に伝習隊大鳥圭介、新選組土方歳三、会津藩秋月登之助、内田衛守、柿沢勇記、桑名藩立見艦三郎らが集結したのは、慶応四年(1868)四月十二日のことであった。大林寺における軍議の結果、総帥に大鳥圭介が選出された。兵力は二千三百六十という大軍であった。同日午後、早くも北に向けて進発し、翌日以降、土方歳三の率いる前軍は小金から分かれて東北へ進み、大鳥圭介の本隊は北上して日光を目指した。


弘法寺
現在のJR市川駅の北側にあったという大林寺は既に廃寺となっているが、大鳥隊を追う新政府軍が駐屯した弘法寺と総寧寺は現存している。

(総寧寺)


総寧寺

 大林寺における軍議があった前日、江戸を脱出した土方歳三ら新選組残党は、国府台の総寧寺に一泊したという。総寧寺には里見公園という広い公園が隣接しているが、かつてこの公園の敷地も境内の一部だったらしい。

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いわき

2009年09月06日 | 福島県
(松ヶ岡公園)
 慶応四年(1868)六月十六日、奥羽総督府参謀木梨精一郎率いる薩摩、大村、佐渡原の藩兵が常陸平潟港に上陸し、この方面における新政府軍の兵力は一気に三千以上に膨れ上がった。六月二十日未明、圧倒的優位を確保した板垣退助は土佐藩兵七百を従えて棚倉城を攻略。引き続き平潟上陸軍と板垣隊は、周辺の中小藩の掃討に取り掛かった。六月二十七日には本多家の泉陣屋を攻略。同二十九日には内藤家一万五千石の湯長谷陣屋を制圧した。そして要衝の地である平藩攻略に着手することになった。


安藤対馬守信正公銅像

 いわきは、磐城平藩六万七千石の領地であった。江戸初期、家康の側近、鳥居忠政が封じられたが、その後も内藤家、井上家そして安藤家と、いずれも譜代大名が配置された。安藤家の五代藩主が坂下門外の変で有名な安藤信正(信行・信睦)である。松ヶ岡公園には、安藤信正の銅像が建てられているが、そのすぐ側は遊園地になっている。おもちゃのちゃちゃちゃ♪という楽しげなBGMと、坂下門外の変で失脚した老中というミスマッチを楽しむことができる。

 安藤信正はたびたび改名している。元服後の名乗りが「信睦」、万延元年(1860)老中を拝命したのち「信行」と改名し、坂下門外の変ののち「信正」と改めた。ここでは最後の名である信正で統一する。
 信正は大老井伊直弼亡きあとの難局を久世広周(下総関宿藩主)とともに運営した。文久二年(1862)一月、坂下門外にて浪士に襲撃され、背中に傷を負ったことから「士道不覚悟」との非難を浴び、老中を罷免された上に隠居、謹慎、二万石の減封という厳しい処分を受けた。
 戊辰戦争時の平藩主は七代信勇(のぶたけ)に譲られていたが、このとき美濃の分領にあって、藩政の実権は隠居している信正が握っていた。隠居してなお幕権強化派であった信正は平城に拠って新政府軍に徹底抗戦を貫いた。
 両軍の戦闘は、六月二十九日から七月十三日に及び、三度にわたる攻撃を受け平城は落ちた。


忠魂碑

 松ヶ岡公園の忠魂碑は、明治四十三年(1910)に建てられたもので、戊辰戦争から日清・日露戦争に至るまで旧平市出身の戦没者七千五百二十一柱を祀っている。平藩の戊辰戦争戦死者は五十余名という。


天田愚庵邸
 京都伏見桃山の愚庵邸を移築、復元したもの。


天田愚庵像

 松ヶ岡公園内には、天田愚庵邸、その前に天田愚庵像がある。天田愚庵は、安政元年(1854)に平藩士の子に生まれ、慶応四年(1868)の戊辰戦争に出陣した当時は十五歳であった。このとき両親と妹が行方不明となり、以後二十年間肉親を探して全国を行脚した。その間、山岡鉄舟の知遇を得、清水次郎長の養子となったことが縁で「東海遊侠伝」を著わした。明治二十五年(1892)に京都清水に庵を結んで、愚庵と称し詩作に専念した。明治三十七年(1904)京都伏見桃山にて没。五十一歳。

(良善寺)


良善寺山門


戊辰戦争弾痕

 良善寺は、平藩主安藤家の菩提寺である。平城に近いこの寺の山門に、戊辰戦争のときの弾痕が残っている。かなりの密度で銃撃されたことが伺える。


安藤信正墓

 安藤家の墓に安藤信正も合葬されている。信正は戊辰戦争後永蟄居を命じられ、明治二年(1869)許されたが、翌明治三年(1870)五十三歳にて死去。


平藩墓地

 平藩士と農兵四十一名の墓である。

(欣浄寺)
 筑後、肥前など、征討軍兵士の墓である。


欣浄寺


征討軍兵士の墓

(性源寺)


性源寺


戊辰戦争戦没者之墓


因州藩士墓

 やはり征東軍側の戦死者二十二名の墓石群である。安芸藩十名、因州藩士六名、長州藩士二名、伊勢藩士二名、岩国藩士一名などの兵士の墓石を見ることができる。

(龍が城美術館)


龍が城美術館

 城郭の遺構は、ほとんど残されていないが、この辺りの住所表示は「旧城跡」となっており、地名だけが辛うじて遺構と呼べるかもしれない。


丹後沢公園 平城跡


明治天皇像

(子鍬倉稲荷神社)


子鍬倉稲荷神社

 子鍬倉稲荷神社は市街地を見下ろす高台にある。戊辰戦争では、平藩がここに砲台を置いた。

(平第六小学校)


平第六小学校

 平第六小学校は、かつての笠間藩の飛び地で、ここに陣屋が置かれていた。笠間藩八万石は新政府軍についたため、この陣屋は東軍に攻撃され、五十名ほどの勤番士たちは北方の山中に逃走した。


笠間藩神谷陣屋跡

(盤崎中学校)


湯長谷藩館跡


湯長谷藩館址

 盤崎中学校のある場所が湯長谷藩の陣屋跡地である。校舎の前に湯長谷藩館址碑がある。湯長谷藩は、立藩以来明治四年(1871)の廃藩置県までの百九十九年間、一度も転封がなく、一貫して内藤氏が藩主であった。この間、藩主は十四代を数えた。幕末の藩主は内藤政養(まさやす)である。戊辰戦争当時、わずかに十二歳であったが、陣頭に立って采配を振ったという。湯長谷藩は万五千石の小藩で、衆寡敵せず降伏に至った。戦後一千石の減封処分を受けた。

(龍勝寺)


龍勝寺

 龍勝寺には、七月十三日の平城攻防戦で戦死した因州藩士六名を葬った墓がある。


因州藩士墓
出井栄三郎忠一 中村佐助正之 松岡弥吉貞信 入江忠三郎忠一 谷口喜久喜勝 墓


壱番砲隊同士中

(泉小学校)


史蹟 泉藩本多家墓所入口

 現在のいわき市域には、平藩以下小藩が割拠していた。その一つが泉藩二万石である。泉藩は奥羽列藩同盟に参加したため、征討軍の攻撃を受け落城。戦後、一万八千石まで減封された。泉小学校が陣屋の跡地である。


従三位本多忠伸墓

 「史蹟 泉藩本多家墓所入口」と書かれた石碑の建つ狭い道を登って行くと、本多家の墓地に行き着く。正面には、最後の藩主となった本多忠伸の墓がある。
 六代藩主忠紀(ただとし)が新政府軍に抵抗したため、戊辰戦争後、強制隠居処分に処された。このとき養子であった忠伸が、家督を継ぎ七代藩主となった。明治三十六年(1903)六十二歳にて死去。

 JRいわき駅で息子を拾い、常盤自動車道を東京方面に向けて走った。さすがにお盆休みの最終日で激しく渋滞したが、何とか四時間半で八王子まで帰り着くことができた。充実した三日間であった。

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二本松

2009年09月06日 | 福島県
(霞ヶ城)


霞が城箕輪門

 会津若松と猪苗代の史跡訪問が予定外に順調にいったので、当初の計画にはなかった二本松と本宮まで足を伸ばすことにした。結論からいうと、十分な下調べができていなかったため、取りこぼしが多かった。二本松と本宮については、改めて訪れる必要がある。


二本松城本丸跡

 会津の白虎隊と比べると知名度は低いが、二本松少年隊も戊辰戦争の生んだ悲話の一つである。二本松藩は、丹羽氏を藩主とする十万七百石の大藩である。西軍が仙台藩境に迫り、白河口に出兵していた仙台藩兵が撤退を始めた。二本松藩は孤立したが、わずか三百の兵で二本松城を死守することとなった。対する西軍は三千。会津藩からの要請を受けた伝習隊が援兵として派遣されたが、焼け石に水であった。二本松藩は十三歳から十六歳から成る少年を組織して一隊を編成して必死を期したが、所詮多勢に無勢であった。家老丹羽一学、内藤四郎兵衛、服部久左衛門、丹羽新十郎ら重臣六人は自刃して城に殉じた。藩主丹羽長国が城を捨てて逃げ出したのは見苦しかったとはいえ、藩士たちの最期は見事というべきである。


二本松少年隊の像


大城代 内藤四郎兵衛 戦死之地碑

 大城大内藤四郎兵衛は、城門を開き敵軍に切り込んで最期を遂げた。二本松城は、慶応四年(1868)七月二十九日に戦闘が開始され、その日の正午頃には落城した。


丹羽和左衛門 安部井又ノ丞 自尽の地碑

 家老丹羽一学、城代服部久左衛門、郡代丹羽新十郎、安部井又之丞らは自刃。城代丹羽和左衛門(六十六歳)は、床几に腰を下ろし、割腹したのち内臓をつかみだして前屈みになって果てたと伝えられる。


二本松少年隊顕彰碑

 本丸跡から少し下ったところに平坦地があり、「少年隊の丘」と呼ばれている。かつて砲術道場で学ぶ少年たちがこの地で稽古を行った場所である。昭和十五年(1940)に建立された二本松少年隊顕彰碑には、判明した六十二名の少年兵の名前が刻まれている。碑の表面の書は、丹羽家十六代当主丹羽長徳氏の揮毫。


二本松少年隊レリーフ

 二本松少年隊は、激戦地となった大壇口に配置され、夜明けとともに猛烈な銃撃を浴びて、隊長木村銃太郎が重傷を負った。木村は少年たちに自らの首を打たせたが、指揮官不在となった少年隊は、東軍の銃火にさらされ隊士二十二名は次々と命を散らすことになった。

(大壇口古戦場跡)
 大壇口は、二本松城を巡る攻防戦で最激戦となった。七月二十九日未明、三春藩の降伏により側面を突かれることになった二本松藩では、やむなく少年隊に出撃を命じた。二本松少年隊は、十二歳から十七歳までの少年から成る一隊である。大壇口古戦場には、このときの戦闘で薩摩軍に切り込んだ二人の二本松藩兵を称える石碑が建てられている。二人は、青山助之丞(二十一歳)と山岡栄治(二十六歳)。彼らは隊伍を組んで進軍する薩摩軍に斬り込み、数名の敵兵を斬り倒したのち、討ち死にした。このとき薩軍を率いていた六番隊長野津道貫(のち陸軍大将)は、感慨を詩に残している。

 うつ人もうたるる人もあわれなり
 ともにみくにの民とおもえば


大壇口古戦場 二勇士の碑


二本松少年隊
隊長 木村銃太郎 戦死之地碑

 大壇口には、二本松少年隊木村銃太郎戦死の地碑もあるが、少年隊が実際に砲列を敷いたのは、もう少し西寄りの台地だったらしい。少年たちは素手で土を掘って隊長の遺体を埋め、城を目指して撤退したという。

(大隣寺)


大隣寺

 丹羽家二代長重が、初代丹羽長秀の菩提を弔うために白河に建てたのが大隣寺の起源で、寛永二十年(1643)丹羽氏の国替えに伴って大隣寺も二本松に移って、丹羽家の菩提寺となった。伽藍は幾度も改築改修が行われたが、文化八年(1811)の大改築によって現在の本堂が完成した。戊辰戦後には、藩庁や藩校として使用されたこともある。


二本松少年隊 副隊長
二階堂衛守 岡山篤次郎 戦死之地碑

 大隣寺門前の石段横には二本松少年隊の二階堂衛守と岡山篤次郎(十三歳)の戦死の地碑が建てられている。両名は木村隊長の首を運ぶ途中、ここで銃撃され東軍の野戦病院に運ばれ、そこで絶命した。


二本松少年隊士供養塔


二本松少年隊士の墓

 大隣寺には、二本松少年隊の墓がある。少年隊六十二名のうち戦死は十四名。木村隊長、二階堂副隊長と合わせた十六名がここに眠る。


会津藩 仙台藩 戊辰戦役供養塔

 二本松で戦死した会津、仙台両藩の合同供養塔である。


歴代藩主霊廟

 大隣寺には、二代丹羽長重から九代長富に至る歴代藩主の霊廟がある。丹羽氏は、二百二十五年にわたって二本松藩主としてこの地を治めた。


九代長富公の墓

 九代丹羽長富は、文化十年(1813)から、家督を長国に譲った安政五年(1858)まで四十年以上に渡って藩主の座にあった。慶応二年(1866)に死去。

(真行寺)


真行寺

 少年隊の成田才次郎は、父に「刀は突け」と教えられた。父の教えに従って、城下を通りかかった長州藩士小隊長白井小四郎を突き殺し、自らも撃たれて亡くなった。真行寺には、白井小四郎の墓がある。


白井小四郎の墓

(小沢幾弥戦死の地)


二本松少年隊 小沢幾弥 戦死之地碑

 二本松少年隊の小沢幾弥(十七歳)は、射撃の名手で敵兵を撃ち倒すたびに万歳して喜んだという。小沢は、この地で虫の息の状態で倒れているのを薩摩藩士伊藤仙太夫に発見された。小沢に「敵か味方か」と問われた伊藤が咄嗟に「味方だ」と答えると、小沢は手振りで介錯を依頼したという。

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本宮

2009年09月06日 | 福島県
(薬師堂)

 二本松藩、会津藩攻撃の要地である本宮では慶応四年(1868)七月二十七日と二十八日にかけて激しい攻防戦が繰り広げられた。


薬師堂


美正貫一郎建臣之碑

 七月二十七日の戦闘は、阿武隈川をはさんで展開された。この日の二本松藩側の戦死者は二十四名、それと農兵二名が犠牲となった。一方、西軍では増水した阿武隈川を泳いで渡ろうとした断金隊長美正貫一郎が狙撃されて戦死した。美正貫一郎は土佐藩出身で、甲州などで浪人、博徒などを募集して断金隊を結成した。その後、東軍は舟で渡河し本宮を占領した。


舘林藩士らの墓

 翌二十八日の戦闘では、西軍死傷者二十人、東軍死者四十二名、負傷者三十四名を出し、退却した。薬師堂には、美正貫一郎の供養塔と、その傍らに館林藩士ら西軍側の戦死者の墓が置かれている。


阿武隈川

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猪苗代

2009年09月06日 | 福島県
(猪苗代城跡)


亀ヶ城址

 猪苗代城(別名亀ヶ城)は、十二世紀末、猪苗代氏によって築城され、以降十四代にわたって猪苗代氏の居城となった。天正七年(1589)伊達政宗によって会津の葦名氏が駆逐されると、猪苗代氏もこの地を離れた。江戸時代になっても城は破却されることなく、城代が置かれた。幕末の城代は高橋権太夫。八月二十二日、母成峠が敗れ、西軍が猪苗代城下に殺到すると、高橋権太夫は城に火を放って若松へ逃れた。その際、建物は全て焼失してしまった。


亀ヶ城址公園

(西円寺)


西円寺

 西円寺本堂の前に、八月二十一日の戦闘で戦死した土佐藩中島與一郎と、勝軍山台場攻防戦における戦死者二十九名の墓がある。中島與一郎は土佐藩砲隊に属し、母成峠における激戦で落命した。二十八歳であった。
 一方の勝軍山戦死之墓には、東軍の戦死者二十九名が葬られている。勝軍山台場は、東軍にとって母成峠における最後の防御線であったが、奮戦空しく突破された。


勝軍山戦死之墓


官軍 土藩 中島與一郎光尹墓

(母成峠)
 猪苗代から母成峠を経て本宮に向かうドライブは実に爽快であった。真夏というのに母成高原の気温は二十度を下回り、窓を開けてもエアコンが効いているような錯覚に陥った。

 母成峠は、会津若松への進入口の一つであった。西軍がどこから攻めてくるか、城を守る会津方にはもっとも重大な問題であったが、攻める西軍内にも議論があり、薩摩の伊地知正治が最短距離である母成峠から猪苗代を経るルートを唱えたのに対し、慎重を期す土佐の板垣退助は御霊櫃峠から中地三代を経由して会津に至る湖南ルートを主張した。両者議論を譲らず、結局両道からの二方面攻撃に決したが、兵力分散を心配した長州藩の調停により、母成峠を攻めることに絞られた。母成峠攻めは、最終的には、会津藩の防御がもっとも手薄だという情報を探知した伊地知正治の強い主張が通った結果となった。
 一方、守備側は越後口、勢至堂口、大平口など複数の戦線を有していたため、兵力の分散を強いられた。母成峠には大鳥圭介の伝習隊を始め、猪苗代城代隊、仙台藩二小隊、二本松二小隊、合わせて八百を配置したが、これに対する西軍は三千。これを三隊に分けて進軍し、奮戦する同盟軍を側面から攻撃した。八月二十一日の両軍の戦闘は七時間に及んだが、東軍は五十八名の戦死者を残して猪苗代方面に敗走した。


戊辰戦役 母成峠古戦場

 母成峠古戦場の石碑がある場所から少し離れた、自然植生観察園「万葉の庭」駐車場入口付近の広場に東軍殉難者慰霊碑、西郷頼母歌碑などが建立されている。


戊辰戦役 東軍殉難者慰霊碑

 八月二十一日の母成峠の戦いの戦死者の遺体は、その後埋葬することが許されず、放置されていた。これを見かねた近くの人たちが、西軍の目を盗んで遺体を集め、埋葬したという。その後長らくこの場所は、雑草に覆われ所在が分からなくなっていたが、百十余年が過ぎた昭和五十三年(1978)地元史研究会の手により発見された。以来、毎年この場所で慰霊祭が執り行われている。昭和五十七年(1982)には慰霊碑が建てられた。


西郷頼母歌碑

 西郷頼母は、会津戦争後長らく会津を離れていたが、明治二十二年(1889)四月、阿弥陀寺で行われた会津藩殉難者慰霊祭に招かれた。そのときの喜びを詠んだ詩である。

なき魂も恨みは晴れてけふよりは
ともに長閑く天かけるらん

 この石碑は、西郷家の親籍であり、母成峠の戦争に参加した小森一貫斎の曾孫である小森昌子氏が昭和五十九年(1984)に建設したものである。


東軍殉難者埋葬地


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会津若松 北郊

2009年09月06日 | 福島県
(十六橋)


十六橋

 猪苗代町と会津若松市にまたがる猪苗代湖畔に十六橋がかかっている。戊辰戦争では、母成峠を破られた会津藩は、十六橋を落として西軍の進入を防ごうとしたが、西軍の進攻が早く間に合わなかった。西軍は難なく橋を渡り戸ノ口原方面へ進出した。十六橋で西軍を防ぎきれなかったことが、その後の白虎隊の悲劇、鶴ヶ城城下における集団自決に繋がったことを考えると、会津藩にとっては悔やみきれない失策となった。


十六橋橋脚

 十六橋は、橋脚が十六あることからそのように呼ばれている。現在の橋は四代目であるが、かけかえられた橋の橋脚の数も往時のとおり十六である。
 明治十三年(1880)安積疎水の水門として、オランダ人技師ファン・ドールンの監修のもと水門を兼ねた橋が再建された。安積疎水の建設には、内務卿大久保利通の並々ならぬ熱意があったことを忘れてはならない。大久保は、既に凶刃に斃れ安積疎水の完成を見ることはできなかったが、十六橋の落成式には住民六~七万人が押し寄せ、喜びを分かち合ったと言われる。


有栖川熾仁親王殿下親植松碑


長工師ファン・ドールン君像

(戸ノ口原古戦場跡)
 八月二十二日、母成峠の藩境を突破した西軍は、努濤のごとく十六橋に殺到しこれを占拠した。また、別働隊は湖を渡って笹山方面に進出し、挟み討ちを受けた会津藩守備隊は苦戦を強いられた。数倍の兵力を持ち、火力に優る西軍の優勢は覆らず、多くの会津藩兵が、この付近で命を散らすことになった。


大野ヶ原 白虎隊奮戦の地碑


戊辰戦役 滝澤峠戸ノ口原西軍殉難者
九十八士 供養塔

 戸ノ口原における戦闘の犠牲者となった東西両軍の戦死者九十八名の供養塔である。発起人は土佐の人(結城治氏)であるが、会津の人々の協力を得て、昭和三十三年(1958)に建立された。土佐と会津の間では、戊辰の年から九十年の時点で宥和の証が建てられたことになる。
戊辰戦争から百四十年余りが経過したが、未だに会津の人には西軍、特に長州に対し、根深い反感を抱いている人が多いという。戦闘そのものは、長州も土佐も薩摩も同じように戦ったわけで、長州だけが恨みを買う言われはないだろう。長州に怨恨を抱く理由があったとすれば、その苛烈な戦後処分にあったのではないかと推定している。


戸ノ口原戦死者供養塔

 越後街道(国道49号線)の大野原交差点から少し南に入ったところに戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓群がある。


左から 小池繁次郎功成墓 
戦死四人 戦死廿人 戦士十六人 
戦死小沢新十郎之墓


村松常盤墓(左) 鈴木三郎戦死之墓(中)安藤物集馬墓 ほか

 戸ノ口原古戦場付近には、追撃する西軍に飲み込まれるように殺害された会津藩戦死者の墓が散在している。多くが、十六人墓、六人墓、十八人墓というように、名前も分からない合葬墓となっている。

(強清水)


戦死十六人墓(左)
戦死六人墓(右)

 戸ノ口原古戦場跡から砂利道を会津若松方面に進むと、菰槌山の藪の中に会津藩士二十二人の墓がある。菰槌山は小高い丘となっており、会津藩軍はここに塹壕を掘って西軍の進撃を阻止しようとした。しかし、兵力に優る西軍は会津藩軍を圧倒し、会津藩は多くの戦死者を残して後退を余儀なくされた。


沓掛峠入口

 更に強清水から金堀に至る道には、戦死十一人墓があるのは分かっていたが、沓掛峠入口にはロープが張られ、自動車は進入できないようになっていた。私がここを訪れたのが朝早過ぎたのか、それとも何らかの事情で車両が通行できない状態だったのか、理由はよく分からなかったが、無理をして立往生しても困るのでここは諦めて先を急ぐことにした。

(滝沢峠)


戦死十八人墓

 滝沢峠の十八人墓である。
 自動車を降りると、もの凄い数のハエが集まってくる。町の中で見かけるようなハエではなく、カナブンのような巨大な奴である。ハエを追い払いながらの撮影となった。撮影が済んで、すぐさま車内に戻ったがその際にハエも車内に侵入してきた。このあと、猪苗代に至るまで、一匹のハエがドライブのパートナーとなってしまった。


金堀城跡

 滝沢峠辺りには、かつて金堀城と呼ばれる山城があった。その名のとおり、金山もあったようであるが、猪苗代と鶴ヶ城の間にあって連絡中継の役割を果たしていたらしい。

(藩校日新館)


会津藩校日新館


武講と水練水馬池

 会津藩校日新館は、会津若松城下にあったが、戊辰戦争の戦火により焼失してしまった。市内河東町に当時の姿にできるだけ忠実に再現されている。


山川健次郎先生

 山川健次郎は、九才で藩校日新館に入学し、成績優秀をもって十二歳のときに最優秀組に進学した。戊辰戦争では白虎隊に属した。戦後、長州藩士奥平謙輔と前原一誠の庇護を受け、更に北海道開拓使黒田清隆の推挙によって渡米。名門エール大学に入学する。物理学を専攻し、そこで学士号を得た。明治八年(1875)に帰国すると、東京開成学校の教授補、さらに東京大学理学部教授補として物理学を教えた。その二年後、二十六歳で教授となり、我が国の物理学の基礎を築いた。明治三十四年(1901)四十八歳のとき東京大学第六代総長に就任、続いて九州帝国大学の初代総長、大正二年(1913)には再び東京大学の総長、翌年には京都帝国大学の総長を兼任した。明治四十年(1907)には九州に明治専門学校(現・九州工業大学)を設立し、同校の総裁に就いた。ここでは日新館教育の実践に尽くしたという。昭和六年(1931)東京にて逝去。七十八歳。

 入口手前には、有名な「什の掟」が大きな看板に書かれている。「什」というのは、薩摩でいう郷中に相当するもので、藩士の子弟を教育するためのグループのことをいう。

 什の掟
一、 年長者のいうことに背いてはなりませぬ。
二、 年長者にはお辞儀をしなくてはなりませぬ。
三、 虚言をいうことはなりませぬ。
四、 卑怯な振舞をしてはなりませぬ。
五、 弱い者をいじめてはなりませぬ。
六、 戸外でものを食べてはなりませぬ。
七、 戸外で婦人と言葉を交わしてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです。

 特にこれといった見所があるわけではないが、何気なく展示を見ていると、全国の藩校を紹介するコーナーがあって、そこに我が母校福井県立藤島高校を見つけた。思わぬ場所で母校に出会ったが、「名門」と紹介されていることに一人満足してここをあとにした。

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会津若松 西郊

2009年09月06日 | 福島県
(阿弥陀寺)
 阿弥陀寺に移築された御三階楼は、江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城内にあった。外観は三階ながら、内部は四階になっている。三階に上がる階段は引き上げられる仕組みとなっており、三階の部屋が密議に使われていたと見られる。また、本丸北東の石垣の上に建っていたことから、物見や展望台の役割も果たしていた。戊辰戦争で阿弥陀寺の建物も焼失してしまったため、本堂の代わりに使用された。


阿弥陀寺 御三階楼


藤田家之墓(斎藤一の墓)

 新選組隊士斉藤一の墓である。
 斉藤一は、文久三年(1863)、まだ壬生浪士組と称していた新選組に参加し、副長助勤、三番隊長として活躍した幹部の一人である。池田屋事件にも参戦している。伊東甲子太郎一派が離脱すると、斉藤も同調して新選組を離れた。近藤勇の密命を受けたスパイと言われ、伊東が暗殺された後、新選組に復帰している。鳥羽伏見での戦争に参加したのち、新選組は一時“甲陽鎮撫隊”と称したが、勝沼での敗戦後、永倉新八らは訣別して会津に走った。斉藤は終始、土方と行動をともにし、宇都宮、日光と転戦した。会津では負傷した土方に代わって実質的に新選組の隊長として白河戦争を戦った。榎本艦隊に合流して徹底抗戦を主張する土方とは、ここで意見が分かれた。会津藩に義理を感じた斉藤は飽くまで会津藩とともに戦うことを主張して、新選組は土方派と斉藤派に分離した。斉藤に従った隊士は、十数名と言われる。斉藤一が率いる新選組は、如来堂における戦闘で壊滅した。斉藤一は虎口を脱するが、戦後捉えられて越後高田に幽閉された。明治三年(1870)、出獄すると会津藩の移封された斗南に移住し、そのとき藤田五郎と改名した。上京して警視庁に入り、その頃容保の媒酌で会津藩士高木小十郎の娘時尾と結婚した。警視庁では明治十年(1877)の西南戦争にも従軍し活躍している。大正四年(1915)七十二歳にて逝去した。


戦死墓

 阿弥陀寺には、実に千二百八十一柱の遺体が埋められた。巨大な穴を掘ってそこに何段も積み重ねた上に土盛したという。そのことを想うと、粛然として襟を正す気持ちになる。今でも春と秋の彼岸には、供養会が開かれている。


戊辰戦役五十年祭記念碑


萱野長修遥拜碑


報国尽忠碑


復禄記念碑


黒河内伝五郎 百太郎 百次郎 墓

黒河内伝五郎は、享和三年(1803)の生まれ。養家黒河内家は代々神夢想無楽流の居合の師範を務めた家柄であった。伝五郎は居合のみでなく神夢想一刀流の剣術、稲上心妙流の柔術、手裏剣、鎖鎌、みな師範の域に達した。嘉永五年(1852)、吉田松陰が会津を訪れた際には日新館を案内したという。伝五郎には二子があり、長男を百太郎、次男を百次郎といった。戊辰の役において百次郎は佐川官兵衛に従って北越にあったが、傷を負って会津に戻り治療していた。八月二十三日、西軍若松の城下に迫ると、晩年に失明していた伝五郎は百次郎を介錯し、自分も自刃した。六十五歳であった。長男百太郎は二番砲隊にあったが、翌二十四日に戦死した。


鈴木庄蔵墓

(大運寺)


大運寺


野矢常方翁拜石

戦後、野矢常方の長男らは遺体を捜したが見つからず、大運寺の墓には遺詠が納められたという。


金田家累代之墓

 金田百助の墓。

(長命寺)


長命寺

 長命寺は、京都の本願寺十二世教如が蒲生秀行に請うて、若松城下に一寺を建立したのが起源といわれ、浅草本願寺と同じ寺格を賜り、会津一円にとどまらず東北各地への布教の拠点とされた。寛文年間(1661~1672)に現在地に移転し、名称を長命寺と改めた。その頃、最高の寺格を示す白線五条の築地塀を許されたという。


長命寺 築地塀

 戊辰戦争で長命寺は激戦地となった。当時の戦闘の激しさを物語る弾痕が生々しく築地塀に残る。この築地塀は平成四年(1992)に修復されているが、弾痕は当時のまま再現されている。


長命寺戊辰懐古碑

 門前には長命寺付近の戊辰の戦いを懐古した結城天鶴という人の詩碑が建てられている。

長命寺戊辰懐古碑
撃つもよし討るるもよし瓦毛の砕けてのちは唯の土くれ
百年の弾痕今だ尚消えず
秋風何をか語る長命寺の畔
無名の万骨苔石に鎮まり
香煙新たに迫る忠魂の前


戦死墓

 阿弥陀寺の戦死墓と同じく、会津藩士の遺体を埋葬した墓である。長命寺には百四十五体が葬られたという。明治十一年(1878)四月になってようやく墓石を建てることができたが、碑面には「戦死墓」の三文字しか彫ることが許されなかった。


鈴木五朗 同妻 三郎 墓

白虎一番隊寄合組原隼太隊に属し、九月十五日、門田一ノ堰の戦で傷を負い、十一月雨屋で死亡した。十六歳。飯盛山上の白虎隊墓地にも合祀されている。

(諏方神社)


諏方神社

 八月二十九日未明、佐川官兵衛を隊長とする反攻部隊は、融通寺町、長命寺のある西名子屋町に達した。佐川は一隊を桂林寺口の諏方神社に派遣して側面支援に当たらせた。会津藩側は多大な損害を出しながらも突撃につぐ突撃で長命寺を確保するに至った。会津戦争における東軍唯一の勝利であった。
 以来会津藩軍の要塞と化していた諏方神社へ、九月十四日、火力を誇る長州藩、土佐藩が集中砲火を浴びせた。会津藩兵が釘付けとなっている間に、岡山、長州、大垣藩兵が諏方神社背後もしくは側面に回り、側背から銃撃を浴びせた。会津藩兵は総崩れとなって退却することになった。
 前戦を突破した西軍は勢いをかって一気に鶴ヶ城西出丸に到達した。鶴ヶ城の落城は目の前に迫っていた。


野矢常方顕彰碑

野矢常方は、六十七歳という高齢のため正規軍には属していなかったが、桂林寺町口郭門で敵軍を迎え撃ち、奮戦の末戦死した。その槍の先に辞世が結び付けられていたという。

弓矢とる身にこそ知らぬ時ありて
ちるを盛りの山桜花

(秀長寺)


秀長寺
秀長寺古戦場址入口


佐川官兵衛歌碑(右)
供養塔(中)
秀長寺古戦場碑

 秀長寺本堂前には三つの戊辰戦争関連の碑が建っている。佐川官兵衛歌碑、供養塔、秀長寺古戦場碑である。

 佐川官兵衛の歌碑には
雲水に 心はまかせ澄む月の 法の鏡と
世をやわたらむ

 住吉磧の戦い、秀長寺の戦いとも言われる戦闘は、東軍唯一の勝利であった。


赤塚家之墓

 赤塚惣吾は、朱雀足軽二番隊桜井隊に属し、七月二十九日岩代二本松にて戦死。十八歳。


山浦 國

(住吉神社)


住吉神社

 住吉神社は、戊辰戦争で激戦地となった。鳥居前には住吉川原戦場跡の碑、境内には会津藩戦勝地跡の碑が建てられている。


会津藩戦勝地跡

(スネル邸)


スネル邸

 スネル兄弟は、横浜が開港された安政六年(1859)に来日した。そのとき兄ヘンリーは十七歳、弟エドワルドは十六歳といわれる。ヘンリーはプロイセン領事館付通訳、エドワルドはスイス領事館付通訳となり、職務を通じて東北諸藩の藩士と親しくなった。スネル兄弟は、新たに開港される新潟を拠点として東北に食い込む戦略を選択した。
 エドワルドは長岡藩家老河井継之助が購入したガトリング砲を危険も顧みず海路新潟へ送り届けた。戊辰戦争が始まると、米沢藩など東北諸藩に武器を融通した。
 ヘンリーは平松武兵衛と改名し、会津、米沢藩の軍事顧問に迎えられる。そのとき会津若松に住んだ住居跡が、JR只見線西若松駅の線路沿いに残されている。
 エドワルドは明治二十年(1887)まで日本にいたことが確認されているが、その後の消息は不明である。
 ヘンリーは明治元年(1868)に渡米し、「ワカマツ・コロニー」を開いて旧会津藩士の入植に協力した。ワカマツ・コロニーへの移民は四十人前後といわれるが、正確な数字も入植者の氏名も分からない。ワカマツ・コロニー自体もわずか一~二年で破綻したという。

(新城寺)


新城寺

 安芸藩の川本新次郎は、安芸藩応変隊に属し、日光口から会津に入った。九月五日、飯寺、幕之内周辺での戦闘を経て、郷原村に進入したところで戦死した。遺体は西軍兵士の手により新城寺に葬られた。昭和五十四年(1979)、子孫の手により故郷の広島県山県郡戸河内町(現・安芸太田町大字戸河内484)の真教寺川本家墓地に改葬された。有志により新城寺には記念碑が残されることになった。


安芸藩士川本久次郎碑

(本光寺)


越後長岡藩士殉節之墓入口

 本光寺墓地には、飯寺での戦闘で戦死した山本帯刀以下長岡藩士四十四名の殉節碑がある。山本帯刀は長岡藩の家老で、のちに養子に入ってこの家を継いだ末裔に山本五十六が出ている。


本光寺

 九月八日、濃霧の払暁、佐川官兵衛は戦果を拡大するため、北越戦線から帰還した青竜二中隊二百と長岡藩山本帯刀隊二百を投入して、飯寺宿営を攻撃させた。作戦は的中し、本郷南の大内村を攻略。大量の物資を分捕り、さらにその先の兵站拠点である田島宿まで奪還した。しかし、地理不案内の上に霧で道に迷った長岡藩兵は、飯寺宿本光寺周辺で宇都宮藩兵に包囲され、三十名が戦死。家老山本帯刀以下十四名は捕虜となった。十四名は連行されて、即日飯寺河原で処刑された。


長岡藩士殉節之碑


無縁戦死供養


河瀬重則墓

(上米塚の渡し)


会津戊辰戦争激戦の地
上米塚の渡し

 ちょうどJR只見線が阿武隈川を渡る辺り、幕末には橋がなく渡し舟で往来していた。戊辰戦争激戦地の一つである。

(中野竹子殉節の碑)


中野竹子殉節之地碑

 中野竹子殉節之地碑がある神指町大字黒川字薬師堂川原の近くを越後街道が走っていた。八月二十三日、中野竹子(二十歳)ら娘子隊(じょうしたい)は、容保の姉照姫が坂下へ避難したとの情報を受けて、一旦坂下方面まで出陣したが誤報と分かり、越後街道を柳橋(涙橋)付近まで引き返した。
 娘子隊は黒髪を断ち、白羽二重の鉢巻きを締めて衝鋒隊に付属した。対するは長州藩、大垣藩の強兵であった。中野竹子は、薙刀に辞世を書いた短冊を結びつけ奮戦したが、銃弾を額に受けて戦死を遂げた。
 妹中野優子(十六歳)が乱戦の中、姉の首を切り取って退却した。中野竹子の墓は、坂下町の法界寺にあるという。


中野竹子像

 薙刀を持って奮戦する中野竹子の像である。平成四年(1992)に建てられたもので、台座には作家早乙女貢氏の書で「赤誠」と記されている。
 激戦ののち、娘子隊は無事鶴ヶ城入城を果たし、籠城の一員として活躍している。

(柳橋)


柳橋(涙橋)

 越後街道の湯川にかかる橋は、付近に道しるべとして多くの柳が植えられていたことから、柳橋と呼ばれた。ここから二百㍍ほど下流に処刑場があった。この場所に休憩小屋があって刑場にひかれる罪人は井戸の水で盃を交わして別れを惜しんだことから、この橋は涙橋とも呼ばれることになった。

(如来堂)


如来堂 史蹟 新選組殉難地

 蝦夷に渡っても飽くまで新政府軍に対して抗戦を唱える土方歳三に対して、会津藩に殉じようという斎藤一とはここで袂を分かつことになった。隊長となった斎藤一(このころは山口次郎と称す)は、新選組を率いて如来堂で戦った。分裂を繰り返した新選組は、このとき二十数名にまで縮小していた。うち十三名が如来堂での激戦で戦死したという。如来堂の前には「史蹟 新選組殉難之地」と記した石碑が建てられている。

(宝光院)


宝光院

 宝光院の墓地は、本堂から少し離れた場所にある。墓地には朽ちかけた会津藩士の墓がある。「竹さん」のHP「戊辰掃苔録」によれば、戊辰戦争の犠牲者らしい。戊辰戦争を通じた会津藩の戦死者は、「会津藩戦死殉難者人名録」によると、二千四百七名というが、正確な実態は判然としない。非戦闘員の犠牲者を加えると、その数は数千ともいう。会津における戊辰戦争戦死者の墓は、本気で探せばまだまだ発見できるのではないかという気がする。


實翁道安信士


戊辰戦争戦死者の墓

(宝寿院)


宝寿院


古田傳之助遥拜墓

 古田傳之助は、農民の出ながら会津藩の募兵に応じ、各地を転戦した。白虎隊とともに戸ノ口原に出陣し戦死。

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会津若松 南郊

2009年09月06日 | 福島県
(明光寺)


明光寺


戊辰戦役殉難者の碑

 会津若松市南郊の門田町館ノ内明光寺には、戊辰戦役殉難者の碑と、戦死者の墓が並んで置かれている。周辺は長閑な田園地帯であるが、付近は御山から青木を経て宝積寺口に至る街道が走っており、九月十五日、街道上で薩摩藩軍との戦闘が展開された。墓の主はこの前後の戦死者であろうか。


戊辰戦争戦死者の墓

(光明寺)


光明寺

 会津鉄道門田駅の近く、光明寺にはこの付近の戦闘で戦死した一瀬要人以下の墓がある。一瀬要人は千五百石の家老で、越後方面の総督として奮戦した。九月十五日の戦闘で重傷を負い死亡した。


会津藩老一瀬要人戦死之墓


山本権八之墓(左)ほか戦死者の墓

 山本権八は、のちに京都にて同志社設立に尽くした山本覚馬、新島八重の父である。九月十七日、一ノ堰で戦死。六十一歳であった。

(泰雲寺)


泰雲寺

 会津戦争というと、西郷頼母一族の婦女子全員が自刃したといった傷ましい逸話が知られる。このような集団自死の例は、西郷一族だけではない。同じ家老の家柄である内藤家でも、残された婦女子が会津南郊の泰雲寺に移動し、そこで命を絶っている。
 墓標に自刃してこの寺に葬られた内藤一族の氏名が刻まれている。


内藤氏家属墓


内藤可穏次男 梶原平馬墓

 泰雲寺には、内藤家と血縁関係にある梶原平馬の墓もある。梶原平馬は、戦後、北海道に渡りその地の開拓に余生を捧げ、再び会津に戻ることはなかった。星亮一氏によると、梶原平馬の墓は北海道根室市にあるらしい。


武川信臣墓(中)
上田氏家属墓(左)

 武川信臣は、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に帰った後、藩士の多くが会津に帰国する中、彰義隊に加わって上野で戦った。上野戦争後、江戸市中に潜伏中していたところを密告され捕らえられた。会津藩士家老の弟という事で、拷問を受け、小伝馬町の獄中にて斬首された。二十四歳であった。

(常金寺)


常金寺

 会津鉄道の雨屋駅近くにある常金寺には、やはり戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓がある。墓は、本堂向かって左手の奥にあり、難なく見つけることができた。鈴木忠之助、五郎兄弟の墓である。


鈴木重光墓(左)
鈴木重季之墓(右)

 次の目的地に向かおうと、自動車をバックさせたところでトラブルが発生した。駐車場の反対側は傾斜になっており、それに気付かず後退したため、後輪が落ち込み前輪が浮いてしまったのである。異常な物音に気が付いた常金寺の住職さま以下、幼児を含む一族が外に出てきて、私の車を後ろから押したり、タイヤの下に砂利をひいたりしてくれたが、自力で脱出はできなかった。結局、保険会社に電話してレッカー車を呼ぶことになり、ほぼ一時間をこの寺で過ごすはめになった。寺では招かざる客に嫌な顔もせず、お茶を出していただいた上に、住職さまには墓の主のことなど教えていただいた。鈴木五郎は白虎隊に参加し、この付近で戦傷死した若者だったらしい。
 幸いにして自動車に損傷はなく、その後の旅に支障はなかったが、思わぬトラブルのために予想外に記憶に残る史跡になってしまった。

(洞雲寺)


洞雲寺


長谷川常隆 勝蔵 墓(左)
綿引喜伝治墓(中)

 洞雲寺は、芦ノ牧温泉付近にある。ここには、この付近の戦闘で犠牲となった十三人の合葬墓、長谷川常隆、勝蔵、綿引喜伝次の墓がある。この日訪問予定となっている史跡では、ここが最南端となった。

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会津若松 小田山周辺

2009年09月06日 | 福島県
(小田山)


小田山
鶴ヶ城三の丸付近より

柴家の墓まで到達すれば、小田山頂上まではあと一息である。喘ぎながら頂上を目指した。
途中で視界が開け、会津市内を一望に見下ろせる場所がある。戊辰戦争時、薩摩藩がここに大砲を据えて、鶴ヶ城を砲撃したという地点である。ここから城までの直線距離は約1.5km。小田山を西軍に奪われたのは、籠城軍にとっては致命傷となった。当初、砲弾は天守閣まで届かなかったが、薩軍の大山弥助が砲射角を調整して命中するようになったという。このときのちに大山夫人となる幼い山川捨松は、城中にあって西軍の砲撃に怯えていた。


小田山西軍砲陣跡から鶴ヶ城を見下ろす


西軍砲陣跡

更に歩を進めると、小田山城冠木門に行き着く。小田山城は鎌倉時代から室町中期に存在していた山城であるが、城というより砦といった風情である。一説にこの城は、黒川城(のちの鶴ヶ城)の詰め城として構築されたともいい、だとすればその昔から鶴ヶ城にとって小田山は生命線と認識されていたのかもしれない。


小田山城冠木門

小田山頂上には、名宰相とうたわれた田中玄宰(はるなか)と丹羽能教(よしのり)の墓がある。


丹羽能教墓

 丹羽能教は、会津藩士で軍事奉行、若年寄を経て家老に進み、五代藩主容頌(かたのぶ)以降四代の藩主に仕えた。文化五年(1808)会津藩が北方警備を命じられると、能教は軍事奉行として樺太へ赴いた。文化七年(1810)には江戸湾警備を命じられて三浦半島に砲台を築くなど、海防に努めた。また領内の開墾に力を注ぎ、兵法、経済に通じた家老として領民から慕われたという。


田中玄宰墓

 田中玄宰(はるなか)は、若くして田中家を継ぎ、三十四歳で家老に就いた。以後、五代藩主容頌(かたのぶ)以降三代の藩主に仕え、藩政の大改革を断行した(会津藩の「寛政の改革」と呼ばれる)。養蚕、漆木、薬用人参、紅花の栽培、漆器、酒蔵、蝋燭、陶磁器などの殖産興業に勧めるとともに、藩校日新館を創立して人材の育成に力を注いだ。文化五年(1808)六十一歳で病没したが、遺言によって鶴ヶ城と藩校日新館を望見できる小田山頂に葬られることになった。

ここにきて「熊に注意!」という張り紙に遭遇したが、ここで熊が出たら一歩も逃げられないほど、著しく体力を損耗していた。

(恵倫寺)


恵倫寺

柴四朗、柴五郎兄弟ほか、柴一族の墓がある。「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)に感銘を受けた私にとって、今回の会津訪問でここだけは外せないスポットのひとつであった。本堂の裏手の山の斜面にへばりつくように墓地が広がっている。柴家の墓域を探して歩き回ったが、容易に見つからない。一旦山を降りて門前にある説明を確認すると、「裏山後方」と書いてあるので、もう一度登山である。ここまで史跡探索はほぼ予定とおり進捗したが、ここで予定外に時間を食った。否、時間以上に著しく体力を消費した。両脚は感覚が失せるほど筋肉痛になり、その後何度も攣った。ついでにいうと、この夜、寝ているときも脚が攣って、激痛に目が覚めた。
柴家の墓は、標高三百七十二mの小田山をかなり登ったところにある。その辺りまで来てようやく「柴四朗・柴五郎の墓」の所在を示す表示に出会う。


柴家の墓


柴四朗墓

 柴四朗は、藩校日新館在学中に戊辰戦争が勃発し、父佐多蔵(由道)に従って鳥羽伏見に参戦した。明治十年(1877)の西南戦争には政府軍に従って出征した。その後、アメリカのハーバード大学、ペンシルバニア大学に留学し、その間「東海散士」のペンネームで小説を執筆するなどして注目を集めた。帰国後は政治家に転じ、大隈重信、板垣退助の連立内閣では商務次官を務めた。


柴五郎墓

 柴五郎は、鶴ヶ城落城のとき未だ八歳であった。戦後、不毛の地斗南に移住して、悲惨極まる生活を送った。これについては「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)に詳しい。「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」という柴五郎の叫びは胸を打つ。
 廃藩置県後、上京して陸軍幼年学校、さらに士官学校に進み、会津人として初の陸軍大将となった。日清・日露両戦役にも参加している。
 昭和二十年(1945)敗戦の報に接すると、同年十二月十三日、戦争責任を感じて自刃した。最期まで会津武士らしさを貫いた生涯であった。


柴太一郎盛道墓

 柴太一郎は、天保十年(1839)、会津城下に生まれた。父は会津藩馬術役、砲術師範柴由道。柴四朗、五郎兄弟の兄である。藩主容保が文久二年(1862)京都守護職に任じられると、先発隊として家老田中土佐(玄清)、公用人野村直臣に従って上京した。伊勢松坂の富豪世古格太郎の紹介で三条実美に謁し、以来容保と三条実美の間を周旋した。鳥羽伏見の戦争では軍事奉行添役、会津戦争では越後方面総督一瀬要人の軍事奉行添役として出陣した。越後より会津に転戦して、会津城外の激戦にて負傷した。戦後、斗南に移住して斗南藩の存立に尽くすが、糧米の代金事件に連座して投獄された。のちに会津に戻って大沼、南会津郡長を務めた。大正十二年(1923)八十五歳で没。


柴家属之墓

 柴家に残った祖母、母、太一郎の妻、妹らは、四男四朗(当時十六歳)を城に送りだしたあと、一同白衣を身につけ仏前に集まり、先祖の霊を拝したのち、母ふじ子(五十歳)が祖母つね子(八十一歳)、嫁(=太一郎妻)とく子(二十歳)、娘すゑ子(十一歳)、さつ子(七歳)の喉を突き、家に火を放って全員が自害して果てた。
 これを知った柴五郎は
―――茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈して打ち伏したり
と書き残した(「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」石光真人編中公新書)。

(建福寺)


建福寺

今回の史跡探訪の中でもっとも困難を極めたのが、小田山山麓にある寺(建福寺、恵倫寺、善龍寺)と大窪山墓地における掃苔であった。今回、HP「戊辰掃苔録」(http://boshinsoutairoku.client.jp/)を大いに参考にさせていただいたが、古い墓石の文字はほとんど読み取れないものも多く、目的とした墓に行き着かないこともたびたびであった。現地をたずねてみて、改めてHP主催者「竹さん」の取材力に感服した。墓石の文字をひとつひとつ指でなぞったのではないかというくらいの執念を感じる。
建福寺は、只見町塩沢に戦死した長岡藩家老河井継之助の遺骨が最初に埋葬された寺である。遺骨が運ばれたのは、長岡城落城の後、長岡藩主牧野忠訓がこの寺に滞在していた関係という。のちに継之助の墓は長岡の医王寺に建てられたが、建福寺には「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」と記された墓型をした碑が建てられている。


故長岡藩総督 河井継之助君埋骨遺跡

(善龍寺)


善龍寺

苔むした古い墓石が並ぶ古刹である。同寺はもと総州(千葉県)にあったが、保科正之の会津移封とともに会津に建立された。同寺は保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展した。やはり戊辰戦争の戦火で伽藍を焼失したが、西郷家の菩提寺であったことから「奈与竹の碑」や西郷頼母一族の墓などが置かれることになった。


奈與竹之碑

 この碑は、戊辰戦争に殉じた、名前の判明している二百三十三名の会津藩婦女子の慰霊碑である。


西郷千恵子辞世碑

 この辞世は、会津婦女子の心をたまわぬ竹の節になぞらえながら、精神の強さを謳い上げたものである。

なよ竹の風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそ聞け


二十一人之墓


高木家累代之墓
(検事従四位勲四等高木盛之輔所有墓所)

高木盛之輔は十五歳のとき戊辰戦争に遭い、護衛隊として藩主の側近を勤め、滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令として活躍した。戦後、猪苗代から東京に転送幽居された。
明治十年(1877)の西南戦争には、征討軍の一員として従軍した。のち司法官となり、根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任している。大正八年(1919)死去。六十六歳。


生駒真道墓


神保内蔵助源利孝之墓


神保巌之助之墓

 神保内蔵助は、会津藩家老職で千八百石の身で、西郷頼母とともに非戦論を唱えた一人であった。文久二年(1862)藩主容保が京都守護職に任じられ上京すると、その供として一隊を率いて上洛した。元治元年(1864)の禁門の変では伏見方面に出陣し、真木和泉らを天王山に追い詰めた。
 会津戦争では六日町口で防戦につとめたが、衆寡敵せず同じ家老職の田中土佐とともに自刃して果てた。内蔵助の長男、神保修理は鳥羽伏見の戦争の直後、大阪城中の徳川慶喜に対して非戦論を説いたため、藩命により三田下屋敷にて切腹を命じられている。三十歳であった。
 神保巌之助は、神保修理、北原雅長らの弟に当たる。郡長正とともに小笠原藩に留学し、長正の介錯をしたことで知られる。


元典獄 正五位勲四等藤澤正啓墓

 藤沢正啓は林権助の率いる大砲隊に属した。のちに「会津藩大砲隊戊辰戦記」を著わした。


誠忠院義白虎勇居士
(藤澤啓治の墓)


会津藩士 伴百悦墓

 伴百悦は、代々禄五百石を食む家柄で、戊辰戦争では萱野隊の副将として越後に出陣して奮戦したが、長岡城が落ちるに及んで会津に戻って鶴ヶ城の防戦に務めた。開城後、会津藩士の屍は埋葬することが許されなかったが、度重なる嘆願の末、ようやく許可を得て阿弥陀寺、長命寺ほか各所へ礼を尽くして埋葬した。


両角大三相知之墓


中邨重成 重一 墓


加賀山翼先生墓

加賀山翼は医師。会津藩医児島雲淋の次男として生まれた。通称潜竜、仁仙と号す。加賀山太沖の養子となり、江戸で医学を修行し、御側医となり百石を賜る。安政四年(1857)、再び江戸に出て伊東玄朴、織田研斎に蘭法を学ぶ。安政六年(1959)江戸藩邸内に医学寮蘭学科を創設し、初の洋学師範を命じられた。





 墓石に彫られた文字を追うと、やはり戊辰戦役の犠牲者らしいが、墓の主は誰だか分からない。

(宝積寺)
 宝積寺口では、小田山争奪の死闘が展開された。会津藩にとって、小田山は生命線であった。小田山山頂を西軍に制圧されたとの報を受けた会津藩では、精鋭の青竜一番足軽中隊、二番新隊、草風隊を投入して奪還を図った。三隊は奮戦したが、多数の死傷者を出して撤退を余儀なくされた。


宝積寺

(大窪山墓地)
大窪山墓地は会津藩の共同墓地として初代藩主保科正之の時代に創設された、中・下級藩士用の墓地である。ほかに設置された郷之原坊主山、小山の両墓地は、商人、職人向けの墓地とされた。戊辰戦争後、会津藩士は斗南、江戸、北海道など全国に四散したため、墓碑は倒壊、埋没が目立つ。まるで「墓石の墓場」といった印象である。基数四千というとてつもない規模で、小田山を登って体力を消耗した私には、もはや大窪山墓地を漏れなく探策するだけの体力と気力がなかった。


史跡 会津藩大窪山墓地


西郷常次郎
西郷常四郎
西郷武八郎
西郷與宇

 西郷常次郎、常四郎とも鳥羽伏見の戦争もしくは戊辰戦争にて戦死。


橋爪幸茂墓


橋爪幸久墓

 いずれも八月二十三日、鶴ヶ城下にて戦死。


横山主税常忠霊神

 横山主税は、会津藩の家老。藩校日新館をトップの成績で及第した秀才で、将軍名代徳川昭武のパリ万博派遣に随行して渡仏した。この間、主税は同藩の海老名李昌とともにロシア滞在中の山川大蔵(浩)を訪問し、ドイツ、スイス、オランダ、イギリスを歴訪し見聞を広めた。一年後の慶応三年(1867)十二月帰国。戊辰戦争では白河口副総督に任命され、五月一日の白河城攻防戦稲荷山にて戦死。前途を嘱望されながら、才能と見聞を開花させる機会もなく世を去った。二十二歳であった。


横山常尹墓

 やはり八月二十三日の城下の戦闘にて戦死。


中野半三郎 同 五郎 遥拜碑

 中野半三郎は、四月二十五日の白河の緒戦で戦死。


野矢常方先生墓地

 野矢常方は、享和二年(1802)若松城下に生まれる。叔父の志賀重方に宝蔵院流高田派の槍、澤田名垂に和歌を学んで文武に秀でた。二十代で叔父の志賀重方について、黒河内伝五郎や町田伝蔵らとともに山陽・山陰・九州方面へ武者修行に出向いた。一方、和歌にも通じており、日新館の槍術師範とともに学所の師範となり、藩主・松平容敬・容保に侍詠している。八月二十三日、桂林寺町口にて戦死。六十七歳。

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