史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「吉田松陰とその家族」 一坂太郎 文京シビックセンター

2014年11月27日 | 講演会所感
同名の新書が先ほど刊行されたばかりで、当然といえば当然ながら、この講演会で一坂太郎氏から話された内容は、ほぼ新書で読んだものと一緒であった。勿論、新書で一冊になる内容を一時間半程度で話し切れるものではないので、この日の講演はダイジェスト版といったところであった。本に書かれていない話題といえば、先ごろ逝去された俳優高倉健のことくらいで、オチが「寅さん」の映画というところまで、まったく同じであった。
感心したのは、一坂太郎氏の饒舌振りであった。一時間半の間休みもなく、それでいて一切淀みなく話しきった。一坂氏は、あちらこちらで講演をされていて、同じ演題の講演を何回もこなされていることは想像に難くないが、それにしても巧みな話術で、長時間飽きることなく聴くことができた。
一坂太郎氏が言いたかったことの一つは、吉田松陰は特殊な家庭環境で育ったのではないということである。当日配られたパンフレットにも「下級武士の家に生まれた」と書いてあるが、松陰の実家杉家は藩政に参与するような上級武士ではなかったものの、下級武士でもなかったという。父百合之助が役職に就くまでは貧しい生活を強いられたようであるが、役職を得てからは比較的生活は安定していた。
庶民は、逆境を跳ね返して名声を手に入れる成功物語が大好きである。その成功物語に合わせて、何者かが杉家を極貧の家庭に仕立てたのであろう。
松陰がほかの子供と異なる家庭環境にあったとすれば、兵学師範の家である吉田家の養子となり、八歳でその当主となってしまったことである。九歳のとき藩校明倫館の教授見習となり、そのため山鹿流軍学を徹底的に仕込まれるスパルタ教育を受けることになった。松陰には幼馴染と呼べるような友達はおらず、十一歳で藩主の君前で講義をするほどの英才教育を受けた。その結果、松陰の(良くも悪くも)人を疑うことを知らない、純粋培養されたキャラクターが形成されていった。
吉田松陰は異常に筆まめで膨大な量の著作のほか日記や手紙を残しているが、一坂氏によれば、末妹の文に宛てた手紙は一通のみしか残っていないらしい。文がものごころついた頃、松陰は投獄されたり遊歴の旅に出たりと、家を空けることが多かった。晩年の文は、松陰のことをあまり語り残していないが、それはあまり記憶に残っていなかったからではないかというのが一坂氏の推論である。
来年(平成二十七年)の大河ドラマは吉田松陰とその妹文の物語である。一坂氏の話を聞く限り、松陰と文との接点は少なかったようである。史実や資料に基づいてドラマを組立てようとしても無理があろう。とはいえ、全く史実を無視した無茶なドラマにならないことを祈るばかりである。
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「幕末、残り火燃ゆ ―桜田門外変後の水戸藩と天狗党の変―」 入野清著 歴研

2014年11月27日 | 書評
今年(平成二十六年)は、元治元年(1864)天狗党の乱から百五十年というメモリアルイヤーである。桜田門外の変百五十年の時には映画まで製作される盛り上がりだったにも関わらず、まったく世間的には無関心のまま今年が過ぎようとしている。桜田門外の変は「壮挙」と呼べるような事件であったが、天狗党の乱はあまりに陰惨である。日本人にとっても、茨城県人にとっても消し去りたい、思い出したくない史実なのかもしれない。
そういう中にあって、本書は珍しくメモリアルイヤーに出版された一冊である。これまで幕末の水戸藩に関連する書籍は何冊も読んでいるし、手元にも天狗党関連本は何冊もある。「あんたも好きやね」と言われそうだが、水戸藩、天狗党は私の心を掴んで放さないものがある。これほど人間の愚かしさ、醜さをあからさまに露呈した事変は、幕末維新期を見渡しても見当たらない。
本書は、天狗党の騒乱を丁寧に追ったものである。随所に著者自身が撮影したと思われる写真も掲載されている(お世辞にも写真は上手とは言えず、中には明らかなピンボケ写真もある)。
私も茨城県下を始め、群馬県、長野県、福井県に点在する天狗党関連史跡を随分訪ね歩いたが、本書では未踏の史跡を知ることができた。特に岐阜県と福井県の県境周辺は、天狗党西上の中でも最も困難を極めた場所である。本書ではこの周辺の史跡を丹念に追い、紹介している。本書最大の読み処である。
天狗党がこの地を通過したのは、元治元年(1864)の十二月。深い雪で覆われ、足を滑らせた隊士や軍夫や馬が転落死した。天狗党はこの場所の通行に多大な犠牲を払うことになった。当時この辺りにあった小さな集落の幾つかはダムの湖底に沈んでいるらしい。とても、天狗党と同じ真冬は無茶としても、季節の良いときに訪れてみたいものである。

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「吉田松陰とその家族」 一坂太郎著 中公新書

2014年11月27日 | 書評
来年の大河ドラマに吉田松陰の妹が取り上げられることになり、俄かに吉田松陰関連書籍が書店に並び始めた。この手の書籍は、いかにも即席で仕上げたような書籍が多いので要注意である。一坂太郎氏の著作であれば、大丈夫だろうとこの本を手に取った。
題名に「その家族」とあるが、やはり中心は吉田松陰の伝記である。個人的には、吉田松陰の突拍子もない行動が、どうも理解できないでいる。たとえば、友人との約束を守るために過書手形無しに出奔してしまう。これは脱藩したことと同じであり、当時の規範からすれば重罪である。脱藩すれば、当人だけでなく家族にまで累が及ぶ。
またペリーの黒船に乗って密航を企てる。これも鎖国下の日本においては国禁である。敵を知らずして攘夷はできないという大義名分はあったにせよ、かなり大胆な行動である。
そして松陰が安政の大獄で処刑される直接の原因となった老中間部詮勝暗殺計画。松陰は自ら「二十一回猛士」と称し、生涯二十一回の「狂」の発動を目指していたというが、結局そこまで回数を重ねる前に生涯を閉じることになった。松陰の眼中に法とか秩序などというものはなく、国家の大義名分が立てば、区々たる法や秩序など守るに足らないという発想なのだろう。為政者としては受け入れがたい考え方であるし、いずれ松陰の突拍子もない行動は、どこかで幕府や藩政府と衝突し、松陰自身が抹殺される運命にあったのだと思う。
松陰のもう一つの顔は教育者である。松陰が松下村塾を経営したのは、実質的には二年余りという短い期間である。松陰は多くの若者の心に火を点け、国事に奔走させた。そのうちの多くが志半ばで、明治維新を見る前にこの世を去っている。彼らは、松陰に出会わなければ平凡な人生を送っていたであろう。松陰の人格、言葉、行動、あるいはその全てが影響したのかもしれないが、このような教育機関は我が国では空前絶後の存在である。
松陰の温厚で誠実な人柄、膨大な読書量、知識、日本全国を歩き回って得た見聞、人脈、さらには情熱、文章力、人を見る目、いずれも教育者としては一級品である。本書でも松陰の言葉をいくつか紹介しているが、いずれも肺腑をえぐるような表現力で、受け手の心を揺さぶるものがある。
だが、そのような一級の教育者のもとで学んだからと言って、門下生が続々と国事に身を投じることになるというものではない。
松陰は、最終的には師自らが死ぬこと(正確に言えば時の権力に抹殺されること)で、塾生に火を点けたのだろうと思う。松陰が命を惜しむような言動を取り、無事戻ってきたなら、塾生らも命懸けで国事に奔走するには至らなかったのではないか。
さて、松陰の家族について本書では大きなページを割いて紹介している。厳格で口数の少ない父杉百合之助と、陽性で包容力のある母滝、それに松陰の良き理解者であった兄梅太郎、社会的弱者であった敏三郎、それに千代、寿、文という三人の姉妹。松陰はこの家族のことが大好きだったようである。二十一歳のとき九州遊歴の旅に出た松陰は、遠く離れた平戸で、子供時代のことを夢に見て記録している。
三姉妹のうち、個性を放っているのは寿である。気丈な性格で、それを松陰も心配していた。寿は二人の子供を育てあげ、小田村伊之助(維新後の楫取素彦)をよく支えて内助の功があったといわれる。
来年の大河ドラマの主役は末妹の文であるが、本書を読んでも文の個性が見えてこない。寿と比べると影が薄い。来年のドラマでどのように描かれるのか見ものである。少なくとも容姿は決して人並み以上というわけではなかったようである。文を結婚相手に勧められた久坂玄瑞は「その妹醜なる(容姿がよくない)」との理由から一旦は拒んだらしい。友人から「容姿で妻を選ぶのか」と問い詰められた玄瑞は最終的に決意するが、残された晩年の文の肖像写真を見ても、恐らく若い頃も美人とは言い難かったのだろうということは察しがつく。
文については、その人となりを伝える文献があまり残されていないというのが実情であろう。ということは、ドラマや小説でも比較的自由に描くことが可能ということかもしれない。例年、幕末を扱った大河ドラマを見て「そりゃないだろう」と突っ込みを入れている私であるが(それでも見続けている)、来年はストレスなく見ることができるかもしれない。

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「幕末軍艦咸臨丸 下」 文倉平次郎著 中公文庫

2014年11月27日 | 書評
前回、紹介した「幕末軍艦咸臨丸」の下巻である。上巻では咸臨丸の一生を描いたのに対し、咸臨丸の「余談」編ともいうべき構成となっている。とはいえ、万延元年(1860)の太平洋横断に参加した人たちの伝記であったり、彼らが遺した日記であったり、読みどころは多い。最大の読み物は、筆者文倉平次郎が苦心惨憺の末、咸臨丸水夫の墓を掘り起こす場面であろう。
日本人による初の太平洋横断に際して、幕府は当時の最高の人選をしたということが良く分かる。彼らは帰国後もそれぞれの分野で活躍したが、明治新政府にもその才能と知識は必要とされた。ジョン万次郎や福沢諭吉は有名であるが、それ以外にも、台湾出兵にも参加し、我が国海軍の草創期にあって軍艦の整備などに尽力した赤松則良や、鉄道敷設や製塩業に貢献した小野友五郎など、まさに多士済々である。
筆者の調査は、無名の水夫・火焚にまで及ぶ。筆者の調査によれば咸臨丸に乗船して渡米した下級船員は五十七名。筆者はうち三十九名の履歴を追い、彼らの出身地である長崎や塩飽まで実地調査に出向き、遺族とも面会している。
筆者が長崎の咸臨丸乗組員の辰蔵の遺子、井出嘉吉翁を尋ねると
「意外の訪問者の言葉に刺戟された上に、又幼時の悲惨なりし境遇を思出せしめたか俄かに顔を伏せて泣き出したのである」
という。ここから老人は涙を拭いながら、凄絶な半生を語りだした。リアリティにあふれる聞き取り調査が、本書の魅力の一つである。
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保土ヶ谷 Ⅱ

2014年11月24日 | 神奈川県
(保土ヶ谷宿本陣)


保土ヶ谷宿本陣

 東海道保土ヶ谷宿は、小田原北条氏の家臣刈部豊前守康則の子孫である刈部家が代々務めた。同家は、名主と問屋を兼ねた、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政六年(1859)の横浜開港時にも当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任じられ、初期の横浜町政に尽くした。明治三年(1870)、軽部姓に改め現在に至っている。本陣跡には木造の通用門が残されているだけであるが、その背後には今も「軽部」の表札を掲げる家がある。

(久保山墓地)

 久しぶりに久保山墓地を訪ねた。土佐藩の戊辰戦争の戦死者の墓が、整理されて一カ所にまとめられていた。


官修墓地


山しろや和介墓

 今回、久保山墓地を訪ねた目的は、山城屋和助の墓であった。無数の墓石の中から、さてどうやって探し当てようかと思案するまでもなく、いきなり仮名交じりの自然石の墓が目の前に現れた。
 山城屋和助は、本名野村三千三。天保七年(1836)、山口県周防玖珂郡(現・岩国市本郷町)の生まれ。家は代々医を業とした。初め浄土宗の僧となり、文久年間還俗して奇兵隊に入った。戊辰戦争では東北を転戦し、維新後、横浜で商人となり、山城屋和助と名を改めた。長州閥の軍部と結ぶ政商として巨利を得たが、山縣有朋から便宜を与えられ、兵部省の公金六十五万円を借り出し生糸相場に失敗した。長州閥軍部の汚職として江藤新平が追及するところとなった。急ぎパリから帰国し陸軍省内で割腹自殺した。明治五年(1872)、十一月のことであった。享年三十七。
 山城屋和助の自殺により、不祥事の真相は闇に葬られ、山縣有朋は辛うじて政治生命を保つことになった。和助は汚名を一身に背負うことになったが、そのことを悔やむ地元本郷村の市長(当時)が、久保山墓地の墓石の傍らに墓標を建てた。
――― 明治維新 勤皇の志士として活躍 四境戦争 戊辰戦争で軍功をたてる のち、横浜南仲町に出て貿易商となり 横浜の開港 貿易産業に貢献す 本郷村制施行百周年を記念して 山城屋和助を顕彰し永久保存の為改修す
 と記されている。死後、和助の汚名だけが残されたが、維新前後の活躍を忘れないで欲しいという切なる訴えである。


天授院殿仁譽壽宗泰大居士(原善三郎の墓)

 原善三郎は、文政十年(1827)、武蔵児玉郡渡瀬村(現・埼玉県神川町)に生まれた。父は生糸取引人原大平兵衛。文久元年(1861)、横浜に出て生糸商亀屋を開いた。攘夷党に脅かされても臆せず商いを続け、明治二年(1869)には新政府が設けた通商司為替方となり、生糸の商い高も第一位を占め、二位の茂木惣兵衛と並んで時代を築いた。不平等な貿易を是正するため生糸荷預所を設立して外国商人を対決した。横浜商法会議所頭取、衆議員議員。明治三十二年(1899)没。七十三歳。墓域は往時の原家の繁栄を彷彿とさせる広大なものである。墓所には、孫娘の婿で、のちに三渓園を開いた原三渓の顕彰碑もある。


三渓原先生之碑

(林光寺)


林光寺

 箱館戦争終結の直前、箱館を脱した桑名藩主松平定敬は、横浜に上陸して林光寺に入りそこで一泊した。翌日には市ヶ谷の尾張藩邸に移された。「「朝敵」から見た戊辰戦争」(水谷憲二著 洋泉社新書)によれば、定敬が宿泊したのは、現在緑区の林光寺とされるが、久保山墓地にも同名の寺がある。久保山の林光寺は、もと横浜の海岸沿いにあったものを、明治初年の久保山墓地に開設とともに、当地に移動した経緯があるらしい。定敬が宿泊したのが、どちらなのか確信が持てないが、立地からすれば久保山の林光寺の方が正解のような気がする。

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箱根 Ⅳ

2014年11月24日 | 神奈川県
(箱根神社)


箱根神社

 先日の人間ドックで便潜血と判定され、精密検査を受けることになった。実は便潜血は二回目で、前回は五六年前のことであった。大量の下剤を飲まされ、腸の中身をすっからかんにした後、肛門から内視鏡を突っ込まれたときは、
「二度とこのような検査をやるものか」
と心に誓ったものである。しかも、このときはこれほど大変な想いをしたというのに、一切の異常が検知されなかったのである。
気乗りはしなかったが、嫁さんの強い勧めもあり、再び精密検査を受けることになった。検査は早く終了したので、箱根から小田原、保土ヶ谷をドライブすることにした。下剤の作用のため、ドライブの途中で何度もトイレに立ち寄るはめになったが、何とか予定とおり回ることができた。
 最初の訪問地は、箱根神社である。芦ノ湖畔の水面に浮かぶ箱根神社の朱色の鳥居は、箱根のシンボル的存在である。その鳥居のすぐ近くに吉田松陰の歌碑がある。どういう経緯で箱根神社に松陰の歌碑が設置されたのか分からないが、この歌は松陰が萩の野山獄から江戸に贈られる際、女囚高須久子に贈ったものといわれる。堅物の松陰としては珍しい恋歌である。


吉田松陰歌碑

 箱根山
 越すとき汗の
 出でやせん
 君を思ひて
 ふき清めてん
 吉田松陰

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小田原 大友

2014年11月24日 | 神奈川県
(盛泰寺)


盛泰寺

 小田原市西大友の盛泰寺に大友亀太郎の墓がある。


大友亀太郎墓

 小田原市西大友に大友亀太郎の墓がある。大友亀太郎は二宮尊徳門下で、安政五年(1858)、幕府が蝦夷地を直轄地とし、箱館奉行をおいて開墾を進めることを決定すると、相馬藩の藩士を箱館奉行付に任命し、木古内、大野村の開墾指導を依頼した。このとき亀太郎も蝦夷地に渡り開墾に着手した。木古内、大野の開墾をすると、奉行所ではそれを評価して石狩の開墾を命じた。亀太郎は慶応二年(1866)石狩に入植し、農民を移住させて御手作場(農場)を開いた。これが後の札幌村の基礎となった。亀太郎は大友堀(現・創成川の一部)を掘削し、飲料水や農業用水に供した。箱館が新政府の手に引き継がれても、亀太郎は北海道に残って開墾を指導した。その後も茨城、島根、山梨などで農業指導にあたり、明治十四年(1881)故郷に戻って、神奈川県会議員となった。明治三十年(1897)没。

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小田原 Ⅴ

2014年11月24日 | 神奈川県
(山角天神社)
 南町一丁目の山角天神社の脇の坂道は、その西方二百メートルほどの高台に海軍大将瓜生外吉が別荘を設けた縁から、瓜生坂と呼ばれている。境内には瓜生大将の像が置かれている。


山角天神社


瓜生外吉海軍大将之像


瓜生坂

 瓜生外吉は、安政四年(1857)加賀藩の支藩大聖寺藩の瓜生吟弥の次男に生まれた。当時の慣習として、長男以外は外に出すことになるため、「外吉」と名付けられた。藩校で学んだ後、明治五年(1872)、海軍兵学寮に入った。明治八年(1875)在学のまま、米国アナポリス海軍兵学校に留学した。この時、岩倉使節団にしたがって渡米した女子留学生の一人、永井繁子(益田孝の妹)と知り合い、将来を誓い合う仲となった。明治十五年(1882)二人は結婚し、のちに四男三女をもうけた。瓜生外吉が武名をとどろかせたのは、明治三十七年(1904)日露戦争仁川沖海戦であった。第四戦隊司令官瓜生外吉は、このときロシアのワリヤーグ、コレーツを撃破する武勲をあげ、戦後海軍大将になった。薩摩出身者以外では最初のことであった。のちに貴族院議員に勅選されている。
 瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かった。外吉は、大正十一年(1922)、発病以降、小田原の別荘で療養することが多くなったが、付近の道路が狭隘で階段があったことから、益田孝の経済的援助と海軍部員の奉仕により工事が施された。以来、この道は瓜生坂と呼ばれることになった。昭和十二年(1937)八十一歳にて世を去った。

(対潮閣跡)


対潮閣跡

 山角天神社から七十メートルほど西に行った住宅の前に、対潮閣跡の説明板が建てられている。
 対潮閣は、山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎の別荘である。山下と同じ愛媛の出身であった秋山真之は頻繁に対潮閣を訪れ、ここを拠点に古稀庵の山縣有朋を訪ねて国防論を相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正七年(1918)、対潮閣で亡くなった。四十九歳。つまり、この場所は秋山真之終焉の地なのである。


田中光顕歌碑

 写真では分かりにくいが、対潮閣跡には当時からあった巨石がそのまま残されている。梵鐘をくりぬいたように、抉られたような空洞があるため、「釣鐘石」と呼ばれている。田中光顕はこの石を賞して歌を残している。

 うちたたく人ありてこ曾
 よの中にな里もわたらめつりが年の石

(清閑亭)
 瓜生坂をのぼると、やがて下り坂となるが、その途中(ちょうど対潮閣の裏手辺り)に清閑亭がある。清閑亭は、侯爵黒田長成(十三代福岡黒田家当主。黒田長知の子)の別邸で、明治三十九年(1906)に創建されたもの。大正初期の純和風数寄屋風建築の家屋が残されているというが、残念ながら私がここを訪れたのは、早朝六時過ぎのことで、門は閉ざされたままであった。


清閑亭

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相模原

2014年11月24日 | 神奈川県
(蓮乗院)


蓮乗院

 東橋本の蓮乗院は、原清兵衛の菩提寺である。原家の墓は複数あるが、本堂向って左手の再手前の墓が、原清兵衛家の墓である。墓誌に「瓊林院盛徳永倫居士」とあるのが、幕末の名主原清兵衛光保(みつやす)である。
 原清兵衛光保は、寛政七年(1795)に生まれた。韮山代官江川太郎左衛門から奨められて相模原の入会地を開墾した。安政三年(1856)、開墾した新田が幕府の検地を受け、清兵衛新田と名付けられ、幕府の直轄となった。慶応四年(1868)三月、死去。七十四歳。


原家之墓
(原清兵衛光保の墓)


(原家屋敷門)
 蓮乗院の周辺には、原という表札を掲げた家が多い。


原家屋敷門

 蓮乗院の近所のセブンイレブンの道路を挟んで向い側に、立派な屋敷門が残されている。ただし、原清兵衛家との関係は不明。

(氷川神社)


氷川神社


開墾記念碑

 氷川神社は、天保十四年(1843)に小山村の豪農原清兵衛光保が、新田開発を行うにあたって、高尾山の氷川神社から分霊を受け、当地の鎮守の神として創建したものである。境内にある開墾記念碑は、清兵衛新田入植者約八十名の偉業について記したものである。明治四十五年(1912)建立。
 石碑の書は、「従一位勲一等源慶喜」即ち徳川慶喜による。慶喜の書になる石碑は極めて珍しい。慶喜は、維新以降、意識をして権力と関わることを避けてきたが、この石碑は比較的政治色が薄かったことから、揮毫を引き受けたのであろう。
 なお、氷川神社の所在するのは清新四丁目であるが、この町名は清兵衛新田に由来している。現在、新田の名残といえるものはこの地名のみである。


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筑波 Ⅳ

2014年11月16日 | 茨城県
(面野井)


高谷篤三郎碑

 面野井に水戸天狗党の高谷篤三郎の墓がある。目印は、日本一と賞されるしだれ桜である。付近を歩いてみたが、なかなか見つからない。この時発見したのだが、この近所の住人の九割は高谷姓であった。
 畑仕事をしていた老人に道を聞いてようやくこの場所が分かった。しだれ桜のふもとには、高谷家の墓所がある(つくば市面野井125向い)。
 高谷篤三郎は、農民源右衛門の五男。天狗党挙兵に参加し、終始藤田小四郎らと行を共にした。慶応元年(1865)二月十五日、敦賀で斬。二十五歳(二十一歳とも)。高谷家祖先を合葬する墓の傍らにある墓標には、何故だか慶応三年(1866)三月十六日没となっている。法名は「思道院忠阿篤信居士」。


高谷氏祖先瑩

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