史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

金沢 寺町 Ⅱ

2017年06月18日 | 石川県
(妙慶寺)
福井市内の史跡探索を十四時半に切り上げ、レンタカーを返却すると、特急に飛び乗って金沢に移動する。家族とは金沢の宿で落ち合うことになっている。
八年振りの金沢である。前回も家族旅行であったが、あの時は息子が寝台特急に乗りたいというのに付き合って、移動が目的のような旅行であったが、今回は私たち夫婦の銀婚式と娘たちの卒業・進学、息子の二十歳の成人のお祝いという主旨で、金沢に集まることになった。
家族が集まる夕食の時間までに、八年前に行けなかった金沢市内の二つの寺院を回ることにした。一つは松平大弐の墓があるという妙慶寺。もう一つは宝町の宝円寺である。二つの寺は方向も違うので、自転車を使うのが効率的である。
金沢市内には観光客向けに「まちのり」というレンタサイクルがある。自転車を借りると最初に二百円がかかるが、その後はポートと呼ばれる駐輪場が市内十八か所に設置されており、三十分以内にポートに返却すれば料金がかからないというシステムである(逆に三十分を超えると、三十分ごとに二百円が加算される)。できるだけ多くの人に自転車を利用してもらおうという発想で考え出されたこの仕組であるが、利用者はポートから次のポートにいかにして短時間で渡り歩くかを考えながら行動しなければならない。一種のゲームのようなものである。しかし、妙慶寺も宝円寺もポートから離れている。わずかな時間もロスが許されない私は、結局ポートに自転車を返却することもなく、二時間余り一台の自転車を使い放しにしてしまったため、普通のレンタサイクルより割高になってしまった。前回(八年前)にも痛感したのだが、道路地図ではなかなか読み取れないが、金沢市街は結構アップダウンが激しく、場所によっては自転車ではかなり厳しい坂道もある。八年前の教訓がまったく生かされず、今回も自転車で喘ぎながら妙慶寺と宝円寺の間を移動することになった。
妙慶寺には松平大弐の墓がある。門前には「贈四位松平大弐墓道」と記された石柱もあり、それは間違いないのだが、墓地に入ると「松平家」の墓がたくさんあって、どれが大弐のものか特定できなかった。なお、当寺は松平氏の菩提寺であり、ミュンヘン・オリンピックで男子バレーが金メダルを獲得した時の監督松平康隆氏や我が国の初代国連大使松平康東氏などの先祖の墓があるそうである。
門を入って右手に松平大弐の顕彰碑があり、それに出会っただけで満足して妙慶寺をあとにした。


妙慶寺


贈従四位松平大弐墓道


贈従四位大弐松平君碑


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金沢 Ⅱ

2017年06月18日 | 石川県
(兼六園)


日本武尊像

 兼六園の日本武尊の像は、明治十年(1877)の西南戦争で戦死した郷土出身の将兵を祀った記念碑である。銅像の身長は五・五メートル、台座の高さだけで六・五メートルという大きさである。明治十三年(1880)の建立。


根上松

 根上松(ねあがりのまつ)は、十三代藩主斉泰が、稚松を高い盛土に手植えし、徐々に土を除いて根を著したものと伝えられる。


成巽閣

 成巽閣(せいそんかく)は、文久三年(1863)、前田斉泰が母堂真龍院の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城から見て東南方向(すなわち巽)の方位にあるため、当初は巽新殿と名付けられた。明治七年(1874)に兼六園が一般公開された際に、成巽閣と改称された。
 成巽閣は、二階建て、寄棟造り、杮葺きの建物で、幕末武家造りの意向として他に類例がないものと評価されている。階下は謁見の間、御寝所の亀の間、蝶の間など整然とした武家書院造りとなっている。一方、階上は群青の間を中心とした数寄屋風書院造りの七室から成った。

(石川護國神社)


石川護國神社

 石川護國神社は、はじめ招魂社と称し、卯辰山にある卯辰神社の下にあった。草創は、明治元年(1868)、越後奥羽の乱で戦死した加賀藩兵百八名の御霊を祀るため、加賀藩十四代藩主前田慶寧の命を受けて建立された。後に西南戦争や日清・日露戦争の戦没者も合祀されている。現地に移転したのは昭和十年(1935)のことで、昭和十四年(1939)に石川護國神社と改称した。


大山元帥御手植 竜の松

 護國神社の境内に大山元帥御手植の竜の松がある。明治天皇が明治十一年(1878)十月、当地へ行幸された際、御供をした大山巌が片町の三島茂太郎邸とその後、大桑酒造店(現・三日市ビル)に部下四名とともに三泊し、記念に松を植えたとされる。この松は、昭和三十七年(1962)、片町の整備工事に伴い、三日市与三次郎氏が寄進したものである。


乃木将軍所縁 水師営の棗(分根)

 日露戦争における最大の激戦であった旅順要塞戦のあと、乃木将軍と敵将ステッセルとの水師営における会見は、軍歌にも歌われ名場面として語り継がれることになった。のちに戦史研究のために金沢在住の岩下岩松氏が、現地から棗の分根を持ち帰り、石川護國神社に奉献したものである。

(石川県立歴史博物館)
 最終日、二時間ほど自由行動を許されたので、石川県立歴史博物館と加賀本多博物館(旧・藩老本多蔵品館)を拝観することにした。県立歴史博物館は、かつて陸軍兵器庫として使われた赤レンガの建物を改装して博物館として利用している。第一展示室には縄文時代から江戸時代、第二展示室には明治以降の展示、企画展示室では今回は「北前船と日本海開運」特別展を開催していた。連休中の金沢の観光地は、どこも凄まじい人で、特に人気の近江市場など何時間並んでも食事にありつけないような状態であったが、歴史博物館はゆったりと見学ができた。


石川県立歴史博物館

 数ある展示の中で、目を引いたのは島田一郎の宣言文であった。


島田一郎の宣言文

(金沢健康プラザ大手町)


金沢医学館跡地

 金沢城の大手門を出たところ、金沢健康プラザ大手町の前に金沢医学館跡地を示す石碑がある。
 金沢藩では、明治三年(1870)二月、津田玄蕃邸跡に金沢医学館を開設し、翌年オランダ人医師スロイスが着任し、西洋医学の教育と診療を始めた。医学館は、その後、官立第四高等学校医学部、金沢医学専門学校、金沢医科大学、金沢大学医学部へと発展した。

(金沢近江町郵便局)


金沢郵便発祥之地

 ここまで来ると、有名な近江町市場に近い。近江町郵便局前に金沢郵便発祥の地の碑が建てられている。

(宝円寺)
 宝円寺は、加賀百万石の藩祖前田利家が、越前府中(現・福井県越前市)に在城したとき、当時郊外の高瀬村にあった宝円寺の大透圭徐和尚に深く帰依した。のちに利家が加賀に移った時、大透和尚を招き入れ一寺を創建し、宝円寺と名付けた。さらに利家が金沢城主となると、再び大透和尚を金沢に招き、宝円寺を建立した。宝円寺は藩公から毎年二百二十余石の供養米が寄進された。前田家累代の菩提寺となり、往時には本堂、客殿、庫裡、山門が並ぶ豪華絢爛なもので、「北陸の日光東照宮」と称された。しかし、慶応四年(1868)二月に寺内からの失火により全伽藍を失った。その後、本堂と庫裡を造営して今日に至っている。


宝円寺

 本堂の裏手に墓地があり、そこに長連豪の墓がある。
長連豪(つらひで)は、安政三年(1856)加賀藩士の子に生まれる。漢文学舎の豊島洞斎に師事。のちに加賀藩校明倫堂に学んだ。薩摩の西郷隆盛を信奉し、桐野利秋や別府晋介らと親交をもった。西南戦争後、大久保利通の暗殺を企て上京。明治十一年(1878)五月十四日、島田一郎らと紀尾井坂にて大久保を暗殺すると、そのまま自首し、同年七月に処刑された。二十三歳。


長連豪墳

 宝円寺の山門を入ると幕末の藩主前田斉泰の顕彰碑が建てられている。
 

前田斉泰公顕彰碑

 前田斉泰は文化八年(1811)、前田斉広の子に生まれ、文政五年(1822)襲封。施政の基本は、門閥八家の年寄による米穀中心の保守的農政であり、幕末には公武合体を主張した。これに対し、世子慶寧は側近の勤王党の補導により親長的、革新的で、文久三年(1863)の政変後、上洛して長幕間の周旋に務めたが、翌年元治の変が起こると、幕府への遠慮から世子に謹慎を命じて、勤王党をいっせいに処刑した。慶応二年(1866)には致仕して慶寧が襲封し、斉泰は金谷御殿に隠居、以後、大勢を見ながら朝幕間の裏面工作に専念した。慶応四年(1868)、倒幕が決定的になると積極的に新政府軍を支援して、北越戦争にも参加、その功によって慶寧は知藩事に任命された。明治四年(1871)廃藩により東京に移住。明治十七年(1884)、七十四歳で波乱の生涯を閉じた。

 ゴールデンウィーク中の金沢は、とにかく凄い人であった。最近人気の高い21世紀美術館は、チケットを手に入れるのに一時間も並ばなくてはいけない。係の方の「コンビニでも買えます」という助言に従って、近所のコンビニに走ったところ、既にコンビニにも長い行列ができていて、結局一時間近くかかってしまった。
 昼食はどこも一杯で、二時間三時間待ちは当たり前。結局、私たち家族は駅弁を買って特急列車の車内で済ませた。観光客の数が完全に受入側のキャパを越えている印象である。一方で隠岐の島の白鳥海岸など、言葉を失うくらいの絶景であったが、私のほか誰もいないような場所もある。利便性や宣伝力の差かもしれないが、ゴールデンウィークは「穴場」に限る。
 名古屋から始まった今回の史跡旅行で撮影した写真は六百枚を数え、万歩計は一週間で十四万歩を越えた(つまり一日平均二万歩)。山登りまがいのハイキングや長距離ドライブ、船での移動も、何とか計画どおり遂行することができた。半年前の腰椎ヘルニアの手術以来、ずっと腰の不安につきまとわれてきたが、今回の旅行を終えて「復調宣言」を出せる状態まで回復した。油断は禁物だが。

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金沢 野田山

2009年05月09日 | 石川県
(野田山墓地)

 北陸旅行の三日目は、許しを得て自由行動となった。電車マニアの息子は一人で氷見線に乗るといい、嫁さんと娘たちは世界遺産である五箇山の合掌造りの集落に行くという。私は迷いなく金沢の史跡巡りに向かうことにした。
 金沢の街の散策には、レンタサイクルが適している。自動車では渋滞に巻き込まれるし、観光地の駐車場はどこも満車である。ストレスなく、効率的に史跡を回るには自転車に勝るものはない。駅で自転車を借りると、私が最後の一台といわれた。今日は付いている。
 自転車の難点は、坂道に弱いことである。入手した市街地図では高低差が分からない。意外と金沢の街は坂道が多く、自転車には厳しかった。特に野田山は、金沢駅から遠く離れている。標高175mの山頂近くにある前田家の墓地に、自転車を押して到着したときにはかなりぐったりした。史跡巡りに必ずしも自転車が万能ではないということを思い知った。


前田利家墓所

 野田山の山頂に近い場所に加賀藩主前田家の墓所がある。一族の墓はいずれも神式で鳥居の裏に土塚を築き、石柱の墓標が建つ構造となっている。もっとも立派な墓は、藩祖前田利家のもの。その隣には大河ドラマの主人公にもなった利家夫人芳春院(名は松または昌)の墓もある。


前田斉泰墓所

 石段を少し下った位置に、十三代斉泰、十四代慶寧ら、幕末の藩主とその夫人の墓が並ぶ。
 前田斉泰の夫人、景徳院(偕、溶姫)は十一代将軍家斉の二十一女であった。加賀藩は、最大の雄藩でありながら、江戸期を通じて幕府には従順であった。幕府に阿諛することが、外様が生き抜くための処世術と心得ていたらしい。徳川家と婚姻を重ね、そういう意味では譜代大名よりもずっと親幕的であった。特に将軍の娘を正室にもった斉泰は、最後まで佐幕派であった。
 斉泰は、文政五年(1822)から慶応二年(1866)の長期に渡り藩主の座にあり、家督を慶寧に譲ったあとも、隠然たる影響力を有していた。斉泰は明治十七年(1884)、七十四歳で没している。


前田慶寧墓所

 十四代藩主慶寧は、父斉泰とは異なり心情的には勤王派寄りであったが、結局父の方針には逆うことはできなかった。大藩である加賀藩が幕末を通じて存在感を発揮することができなかった最大の要因がここにあったと言える。慶寧は明治七年(1874)に熱海で没している。享年四十五であった。

 前田家墓所から下がったところに、石川県戦没者墓地がある。広くて静謐な敷地内に西南戦争以降太平洋戦争に至るまで、戦死者の墓が並んでいる。


石川県戦没者墓地 陸軍戦没者墓地
西南戦争戦死者の墓

 西南戦争の犠牲者の墓碑を見ると、意外と戦闘での犠牲者より、戦争のあった翌年以降の犠牲者が多いことが目につく。当時の銃弾は鉛製であった。被弾した兵卒には、鉛中毒によって亡くなるケースが多かったと伝えられるが、ここに眠る兵士の何人かも或いはそういう犠牲者かもしれない。


ロシア人墓地

 日露戦争に際して捕虜とされたロシア人のうち、金沢には約六千人が連行された。うち病気等で亡くなった十名を慰霊する墓が陸軍によって建立されたものである。


大久保利通暗殺者の墓
明治志士敬賛会

 今回、金沢を訪れた最大の目的地が、野田山墓地の麓にある大久保利通暗殺者の墓であった。彼ら六人の墓は、谷中霊園にもあるが、こちらは言わば事務的に埋葬したという印象であるが、金沢の墓は彼らの所業を顕彰しているかの如き雰囲気が漂っている。一国の宰相を暗殺した犯人を持ち上げるというのは、どういう神経だろうか。確かに、彼らが時の独裁者的存在となった大久保利通を葬ったことは事実であるが、大久保の退場は結果的に薩長閥の世代交代を促進しただけのことである。この暗殺によって決して歴史が変わったとは思えない。
 司馬先生は「翔ぶが如く」の中で次のように解説している。
--- 大久保を殺そう
というふうに島田が決意したのは、飛躍でもなでもない。殺すという表現以外に自分の政治的信念をあらわす方法が、太政官によってすみずみまで封じられているのである。(中略)
 島田も、明治六年に左院に建白書を出したが相手にされず、これがために「腕力あるのみ」と覚悟し、さらには条令のために自分の政府批判を新聞などに発表することもできなかった。この意味からいえば、大久保が磁石になり、島田という鉄片をひきよせたといえなくはない。

(大乗寺)
 大乗寺は、前田家の重臣本多家の菩提寺で、新旧二か所の本多家墓所に本多家累代の墓がある。鬱蒼とした森の中に仏殿、法堂、山門、総門が配置されている。明治二年(1869)に城内の二の丸で刺殺された本多政均の墓は、本多家の新墓所の入口に近い場所に建てられている。
 本多政均は、天保九年(1838)に、本多正和の次男に生まれ、安政三年(1856)、兄政通の死により本多家を継いだ。万延元年(1860)、城代となる。文久三年(1863)、主命により上洛後、逼塞していたが、元治元年(1864)、世子前田慶寧退京処分を受けたのち、復権して尊攘派の処断に関与した。その後は、藩主のそばに従ってしばしば上洛した。一方で藩政改革にも手腕を発揮し、執政として権力を誇った。このことが守旧派の恨みを買い、城内で暗殺されることになった。年三十二。政均暗殺の裏には、元治の獄で重刑に処された尊攘派の手も動いていたといわれる。


大乗寺


十二義士の墓

 政均の仇をうった十二人の家臣の墓は、政均の墓に寄り添うように建てられている。彼らが“仇打ち”を果たしたのが明治四年(1871)。その後、明治六年(1873)に仇討禁止令が出されたため、“最後の仇討”とも言われる。


本多政均の墓

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金沢 寺町

2009年05月09日 | 石川県
(妙立寺)
 “忍者寺”として知られる妙立寺は、実際には忍者と何の関係もないが、建物内に色々なからくりがあるため、このように呼ばれている。妙立寺は、幕末史とはあまり関わりはない。子供たちが妙立寺を拝観している間に、近くの寺町を散策してみた。因みに妙立寺の見学に要する時間は四十分ほど。これだけの時間があれば、この周辺に在る三光寺、承証寺、玉泉寺、大円寺、法光寺を見て回るには十分である。


妙立寺

(三光寺)


三光寺

 妙立寺の隣が三光寺である。紀尾井坂にて大久保利通を暗殺した石川県士族、島田一良、長連豪らがここで会合を重ねたため、彼らは三光寺派と呼ばれた。維新に乗り遅れたという意識にとらわれた三光寺派は、新政府の要人暗殺に走った。彼らは大久保利通暗殺に成功すると斬奸状を胸にその足で自首し、事件の二ヶ月後には六人全員が処刑された。

(承証寺)
 妙立寺の向かい側には、承証寺が建つ。本堂の前に、福岡惣助の墓がある。福岡惣助は加賀藩与力で藩の探索方として活躍していた。元治元年(1864)の禁門の変の後、藩内の尊王討幕派が肅清され、福岡惣助も生胴の刑(生きたまま日本刀で胴体を真っ二つにする刑)に処せられた。傍らの一字一石の供養塔は、惣助の死を嘆いた祖母が、法華経を小石に写経して納めたといわれるものである。


承証寺


福岡惣助の墓(左)と一字一石の供養塔

(玉泉寺)


玉泉寺
正七位清水誠墓

 妙立寺から歩いて五分程度で玉泉寺に行き着く。玉泉寺は、二代藩主利長夫人の菩提寺という名刹であり、かつては広大な寺域を誇ったが、現在はどこに寺があるのかも分からないくらいである。辛うじて墓地だけは残されており、その中に旧加賀藩士族清水誠の墓がある。清水誠はフランス留学から帰国すると、そこで学習した知識を活かしてマッチの工場生産に成功したことで知られる。

(大円寺)


大円寺

大円寺には、三光寺派とともに加賀藩を二分していた忠告社が事務所を置いていた。忠告社は、杉村寛正や長谷川準也ら一時は千人を抱える政治結社であった。やがて彼らは、民権運動に接近していくことになり、武力による抵抗を唱えて脱盟した島田一良ら三光寺派とは明確に一線を画することになった。

(法光寺)


法光寺

 忠告社の本拠地大円寺の隣には、島田一良らの大久保暗殺に際して斬奸状を書いた陸義猶(くがよしなお)の碑が建っている。陸義猶は、終身刑の判決を受けている。


陸義猶之碑

(棟岳寺)
 寺町からは少し離れるが、棟岳寺には水戸藩士永原甚七郎の墓と水戸藩義勇塚がある。永原甚七郎は、元治元年(1864)の天狗党の乱に際して、加賀藩勢千人を率いて監軍(総指揮者)として敦賀に出兵した。加賀藩勢は天狗党と対峙していたが、説得と交渉を重ねた結果、天狗党は武装解除し降伏と決した。永原は天狗党に同情的で彼らを武士として扱おうとしたが、結局彼らの身柄は敵意を抱く田沼意尊に引き渡されたため、全員死罪という非情な最期を迎えることになった。助命嘆願のために京都に向かった永原は、結果的に自分が彼らを欺いたことになったことに自責の念にとらわれたであろう。墓の横に置かれた水戸義勇塚を前にすると、永原甚七郎の無念が伝わってくる。


曹洞宗 棟岳寺


永原甚七郎之墓(左)水府義勇塚

 同寺には、我が国蘭方医の先駆者といわれる吉田長淑の墓がある。加賀藩主前田治脩が病気で倒れたときに、師の宇田川玄真の推薦により藩医となった。以来、加賀藩の庇護を受けることになる。門弟に高野長英、渡辺崋山、小関三英ら、そうそうたる顔触れが名を連ねる。


江戸 吉田長淑之墓

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金沢

2009年05月09日 | 石川県
(金沢城公園)
 今年のGWは、家族で北陸地方に旅行に行くことになった。発端は、電車マニアの息子が北陸フリー切符を使って寝台特急に乗りたいと言い出したことである。息子によると、北陸フリー切符には、新幹線を含む北陸までの特急料金、寝台料金も含まれ、しかも指定区間の列車は乗り放題。一人当たり何万円もトクだという。しかし考えてみれば、ETCの休日割引を利用して自動車で往復すれば、家族五人でその何分の一かのコストで済んだはずである。息子は「自動車だったら運転手であるお父さんが寝られない」というが、もともと寝台列車で安眠できたためしがない。しかも相部屋になった若い男のいびきが凄まじく、まるでライオンの檻にでも入れられたようであった。金沢には朝の六時半に着いたが、そのときには寝不足でフラフラであった。二酸化炭素の排出量削減に貢献したと自分に言い聞かせるしかない。
 金沢の街を訪れたのは、当時福井に住んでいた中学生のとき以来、三十五年以上も昔のことである。母方の祖父に連れられて兼六園を歩いた記憶がある。そう思って古いアルバムをひも解いてみると、全く覚えがないが、高校の遠足で金沢を訪れていたようで、そこから起算すると三十年振りということになる。
 金沢というと京都を彷彿とさせる古い町並みが連想されるが、金沢駅はドーム状の屋根を持つ現代的なデザインに生まれ変わっていた。町並みも随分と垢抜けた印象であるが、しばらく歩きまわってみると、市内の至るところに寺町や武家屋敷があって、昔ながらの風情も残されている。
 旅の始まりは、定番であるが、金沢城と兼六園からである。


金沢城
手前が菱櫓

 私の記憶によると、金沢城跡には金沢大学が建っていたように思うが、いつの間にか大学は移転していた。平成十三年(2001)、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が史実に忠実に復元再建されている。金沢城は、度重なる火災により、ほぼ全ての建物が焼失した。石川門(天明八年(1788)再建)と本丸の三十間長屋(安政五年(1858)建築)だけが明治以前の遺物である。


石川門

 俗に“加賀百万石”と称されるように加賀藩は全国でも最大の雄藩であった(石高は、厳密には百二万三千石)。にも関わらず、幕末には目立った活動がなく、維新を迎えている。江戸や京都から離れているという地理的な問題に加えて、藩の親幕志向によるもの、更に藩内の派閥抗争の結果であろう。
 幕末の藩主は、前田慶寧(よしやす)である。当時三十五歳の世子の側近には、松平大弐や、千秋順之助、不破富太郎、大野木仲三郎といった勤王派の人材が付き添い、元治元年(1864)の禁門の変の際には、京都にあって長州藩のために斡旋しようと働いたが失敗し、退京を命じられた。幕府の圧力を恐れた斉泰は、慶寧を加賀に呼び戻して勤慎を命じ、藩内の尊王討幕派四十名に切腹、死罪、禁獄、流罪を申しつけた。これにて加賀藩内の勤王派の動きは封じられた。

(兼六園)
 岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで天下の三名園と称される兼六園は、五代藩主前田綱紀が、延宝四年(1676)に金沢城の外郭の地に、蓮池御亭を建ててその周辺に作庭したことに始まる。その後、十一代藩主治脩(はるなが)、十二代藩主斉広(なりなが)十三代藩主斉泰(なりやす)らの手によって、今日の姿へと仕上げられた。


兼六園 霞が池

 手前右は徽軫(ことじ)灯籠。左手奥は唐崎松(からさきのまつ)といって、十三代藩主斉泰が、琵琶湖畔の唐崎から種子を取りよせて育てたといわれる黒松である。

 兼六園の南一帯に広がる梅林は、かつて長谷川邸跡広場と呼ばれた広場であった。ここにはかつて第二代の金沢市長を務めた長谷川準也の邸宅があった。長谷川は旧士族出身で、士族救済を目的に金沢に銅器会社や撚糸工場を興したことでも有名である。


兼六園 梅林周辺

(尾山神社)
 香林坊の繁華街のすぐ近くに、ひときわ異様な神門が目を引く尾山神社がある。祭神は藩祖前田利家。
 この神門は、長谷川準也らが主導して明治八年(1875)に完成を見た。三層構造の一階部分は日本の伝統技術である木彫りの装飾を配し、上層部には西洋風のステンドグラスが使われている。更に頂上には避雷針が載せられている。私の個人的な感覚では、いかにも鳥居や本殿とはマッチしていない趣味の悪い構造物としか思えない。
 この奇妙な神門によって荒廃した尾山神社を再興するとともに、文明開化を庶民に実感させようという意図があったという。長谷川準也は「ことさら珍奇を衒うものではなく、強いて伝統を踏襲せず、堅固を目指した」と語っている。


尾山神社 神門


尾山神社本殿

(藩老本多蔵品館)
 兼六園の南西に、藩老本多蔵品館がある。この地には、加賀八家といわれる加賀藩の家老職を務める門閥の一つである本多家の屋敷があった。本多家は、徳川家康の重臣本多正信の次男で、やはり徳川家に重用された本多正純を兄に持つ本多政重を祖とする。幕府を恐れた加賀前田家では、本多家と強い繋がりを持つことで安泰を図ろうとしたのであろう。本多家は五万石という大名並みの高禄で処遇され、歴代当主は重職を担った。幕末には本多家十一代当主政均(まさちか)が、加賀藩の執政に任じられ、藩政を取り仕切ったが、保守派の反発を受けて暗殺されている。時に明治二年(1869)八月のことである。既に世は明治となり、版籍奉還が断行されて中央集権化が着々と進行しているこの時期に、加賀藩では藩内抗争に明け暮れていたのである。後世から見ると、“コップの中の嵐”以外の何物でもない。
 更にこの抗争は続き、明治四年(1871)十一月、政均の家臣十二人が処罰を逃れた暗殺者を仇討にした。今から見れば、驚くほどの時代錯誤である。


藩老本多蔵品館

 藩老本多蔵品館では、歴代本多家の所有していた武具や調度品、古文書などを保管、陳列展示している。政均の遺品や肖像画なども見ることができる。

(東本願寺金沢別院)
 金沢駅前にある東本願寺金沢別院(東別院)は、十七世紀初頭にまでその歴史を遡ることができるが、明治に入って火災により壮大な伽藍を焼失し、その後再建されて太平洋戦争の戦火も逃れたが、昭和三十七年(1962)に再び火災により全焼した。現在、建てられている本堂は巨大にして頑丈なコンクリート造りのものである。
慶応四年(1868)三月、新政府の北陸道先鋒総督が東別院を宿舎とすると、加賀藩は越後出兵に協力を申し出ることになった。


東本願寺金沢別院

(長町武家屋敷群)


長町武家屋敷群 大野庄用水


野村家
床の間の掛け軸は、十三代藩主斉泰の書(右)と十四代慶寧のもの

 金沢随一の繁華街である香林坊から少し露地を入ると、長町の武家屋敷の落ち着いた町なみに出会う。武家屋敷のうち、旧野村家は藩祖前田利家が金沢城に入城した際に従ってきたという直臣である。十代にわたって馬廻組組頭各奉行職を歴任し、廃藩まで続いた名家であった。庭園は縁側まで池が迫る贅沢な作りである。居間の掛け軸は藩主から下賜されたものであろう。この屋敷にいるだけで、贅沢な時間を過ごすことができる。

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