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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鳥羽

2022年06月18日 | 三重県

(鳥羽城跡)

 伊勢市から鳥羽まで電車で十五分。途中に伊勢志摩観光の定番である夫婦岩のある二見浦を通る。五十年前の小学校の修学旅行のことが懐かしく思い出された。たかだか一泊二日の旅行であったが、何故あれほど楽しかったのだろう。

 鳥羽駅前の鳥羽一番旅コンセルジュで自転車を貸し出している。迷わず電動自転車を選んだ。

 

鳥羽城跡

 

 鳥羽は、戦国時代水軍の大将九鬼氏の拠点であった。九鬼氏は織田信長が天下統一を目指す過程で、長島の一向一揆や石山本願寺との戦いにおいて戦功があり、鳥羽の地を賜った。豊臣秀吉にも仕えて、志摩三万五千石を拝領した。文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも船団を率いて参陣した。

 

鳥羽城本丸跡

 

 鳥羽城は、九鬼嘉隆により文禄三年(1594)に竣工した。海に面した標高四十メートルの小山に築かれた平山城で、本丸跡から鳥羽湾が一望できる。

 

 本丸跡付近に鷹羽龍年の鳥羽城詩碑が建てられている。詩碑には、鳥羽藩校尚志館の教授であった鷹羽龍年が詠んだ漢詩が刻まれている。石碑は、明治四十年(1907)三月に建立されたもので、城跡から鳥羽湾の眺望を讃える内容となっている。

 鷹羽龍年は、寛政八年(1796)に伊勢山田に生まれ、十四歳で江戸に出て、遊学して詩文を学んだ。のちに鳥羽藩主稲垣長明に招かれて、尚志館の講師となった。門下に有馬百鞭、松田南溟、近藤真琴らがいる。慶應二年(1866)、七十一歳で没した。

 

本丸跡から臨む鳥羽湾

 

鳥羽城詩碑

 

 九鬼氏が御家騒動により国替えとなった後、寛永十年(1633)には譜代である内藤氏が鳥羽城主となったが、その内藤氏も江戸で殺傷事件を起こして領地を没収され、一時幕府の直轄地となったが、土井、松平(大給)、板倉、戸田(松平)と続いた。享保十年(1725)、稲垣氏が封じられ、ようやく安定し、幕末まで続いた。

 明治二年(1869)の版籍奉還により城地は官有地となり、明治四年(1871)、城郭、城門、櫓等は全て取り壊された。

 

鳥羽城三ノ丸

 

(常安寺)

 

常安寺

 

 常安寺書院は明治十年(1877)一月二十六日、明治天皇の行在所となった。

 

明治天皇鳥羽行在所

 

 門前に二基の記念碑がある。「記念碑」の文字を書いたのは、東郷平八郎である。東郷が鳥羽小学校で墨書した際の写真も残されているという。

 

明治天皇鳥羽行在所 英照皇太后御泊所

記念碑

 

(妙性寺)

 

妙性寺

 

従七位有馬百鞭墓

 

 妙性寺には有馬百鞭(ひゃくべん)の墓がある。

 有馬百鞭は、天保六年(1835)の生まれ。詩を鷹羽龍年(雲淙)に学び、藩命によって久居藩の高井氏、江戸の窪田助太郎に山鹿流兵法を学び、安政五年(1858)、帰藩。同年五月、鳥羽藩校尚志館の句読師となり、のち侍講となった。征長のため大阪に一年余り留まる間位に、魚住荊石、田能村直入に画を学び、鳥羽随風上人、松田雲柯に書を習い、書画で一家を成した。維新後鳥羽藩の権大属に任じられ、のち常安寺に私塾日新校を開き、明治八年(1875)、神宮主典を経て権禰宜となった。明治三十九年(1906)、年七十二にて没。

 

(扇野)

 

扇野

 

 常安寺の門前の坂道をのぼっていくと、旅館扇芳閣に行き着く。さらに坂を上ると、金刀比羅宮鳥羽分社の手前に扇野の鐘と名付けられた鐘のある公園がある。

 その一角に明治天皇の御製碑が建てられている。

 

 浦風もあら礒波も今朝凪ぎて

 かもめたちたつ鳥羽の海つら

 

御製碑近くから鳥羽湾を臨む

 

明治天皇歌碑

 

 書は山縣有朋。明治十年(1877)一月二十六日、明治天皇が横浜港から神戸に向かって出航したが、暴風雨のため急遽、鳥羽佐田浜沖に入港し、常安寺に宿泊した後、鳥羽港を翌日出航した。その際、美しい鳥羽の海でカモメが群れ飛ぶ姿を詠んだ歌である。

 この記念碑は、大正十年(1921)、常安寺近傍の樋の山に建設されたが、後に常安寺道路脇から平成十四年(2002)、現在地に移転されたものである。

 

 

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伊勢

2022年06月18日 | 三重県

 小学校の修学旅行以来の伊勢である。実に五十年振りの訪問となった。伊勢市駅前の手荷物預り所でレンタサイクルを貸し出している。限られた時間で目的地を走破することを考えて、電動自転車を選んだ。今北山墓地では、急な坂を昇ることになったので、電動自転車を選んで正解であった。天気も良く快適なサイクリングであった。

 

(大豐和紙工業㈱)

 

神宮御用紙製造場

 

御師龍太夫宅跡

 

 明治天皇が初めて伊勢神宮(外宮・内宮)を参拝し、王政復古を報告し、国運の発展を祈願したのが明治二年(1869)三月のことであった。三月九日、鈴鹿峠を越えて三重県域に入った天皇は、窪田を経て津へ進み、伊勢街道に入ると、松坂行在所に到着した。三月十一日、斎宮・小俣。宮川を経て伊勢に入った。

 現・大豐(おおとよ)和紙工業株式会社の敷地は、江戸時代、伊勢神宮の参詣者を神宮に案内し、宿泊などの世話をする「御師」の龍太夫宅であった。明治天皇が当地に滞在したのは、明治十三年(1880)七月七日から九日までの二泊であった。

 

伊勢和紙館

 

 龍太夫の宅跡地を引き継いだ大豐和紙工業は、神宮大麻の御用紙を奉製するとともに、「伊勢和紙館」や「伊勢和紙ギャラリー」を設け、和紙文化の保存と継承に努めている。

 

明治天皇行在所遺址

 

明治天皇宇治山田行在所跡

 

明治天皇御料 龍の井碑

 

 左は創立二十年、工場拡張記念碑。

 

(二軒茶屋餅角屋本店)

 

二軒茶屋餅 角屋本店

 

 江戸時代、関東からの参宮道者(どうしゃ)は、伊勢街道を通り、関西からの道者は、伊勢本街道を通って参宮した。一方、志摩、尾張、三河、遠江、駿河などからは船で参宮することが多かった。船道者は、勢田川水域に入ると、太鼓や笛、鉦で囃しながら、景気よく繰り込んできて、二軒茶屋などに上陸した。

二軒茶屋というのは、角屋(かどや)とその東にあった湊屋(うどんとすし)と呼ばれる二軒の茶屋があったことに由来する。二軒茶屋餅角屋(かどや)は、天正三年(1575)の創業という老舗である。

 明治五年(1872)五月二十五日、明治天皇は当地から上陸して伊勢神宮に参拝した。そのことを記念して、大正四年(1915)に石碑が建てられた。明治天皇に供奉した中には、新政府参議西郷隆盛がいた。

 

明治天皇御上陸地記念碑

 

二軒茶屋旧船着場

 

(足代弘訓旧邸跡)

 

國學者足代弘訓之邸跡

 

 足代弘訓(あじろひろのり)は、天明四年(1784)の生まれ。足代家は世々伊勢外宮の禰宜で、幼少より荒木田久老、本居春庭、本居大平らに従学して国学を修め、ついで京都・江戸に遊学して林衝、塙保己一、上田秋成らと交わり、歌学、律令、有職故実に通じた。天保飢饉の際には、私財を投じて窮民を救った。また大阪在住時には、敬神憂国の志厚く、大塩平八郎とも親交があった。天保八年(1837)の大塩の乱の時には、当局に取り調べを受けた。晩年、外交問題を憂えて志士と交わり、門人に尊王憂国の思想を説いた。門下からは、松浦武四郎、佐々木弘綱、世古延世、御巫清直らを輩出した。本居系国学者の中でも独自の地位を占めている。

 

(国学者足代弘訓翁墳墓地)

 

國學者足代弘訓翁墳墓地

 

正四位上度会弘訓神主墓(足代弘訓の墓)

 

 足代弘訓が亡くなったのは、安政三年(1856)のことであった。年七十三。

 足代家の墓所は、伊勢市駅のすぐ北側にある。周囲は住宅地や駐車場となっているので、何だか取り残されたような空間である。施錠されているため中には入ることはできないが、塀越しに写真を撮ることは可能である。

 弘訓の墓石には、本姓である「度会(わたらい)」が刻まれている。

 

(神宮道場)

 

神宮道場

 

 神宮道場(旧・神宮司庁)には、明治三十八年(1905)十一月十五日から十七日の二泊、明治天皇が滞在している。

 内宮城内に現在の神宮司庁舎が設けられると、行在所となった旧庁舎は、神職の養成ならびに研修を行う神宮道場となった。

 神宮道場は、伊勢神宮内宮に通じる「おはらい町通り」沿いにある。ここまで来れば、伊勢神宮は目の前である。五十年振りの参詣に心が動いたが、今回は伊勢神宮より今北山墓地を優先して、ここで折り返した。伊勢神宮参拝は次の機会にとっておくこととする。

 

(今北山墓地)

 今北山墓地の入口が見つからず、付近を走り回ることになった。結局、墓地西側の住宅街の急な坂を上って、墓地の一番高いところから入った。あとから分かったことであるが、墓地の南東に入口があり、そこからであれば普通にアクセスすることができる。お陰で頭からバケツをかぶったように汗びっしょりになってしまった。

 墓地入口を上ったところに浦田長民の顕彰碑が建てられている。

 

浦田長民君碑

 

 浦田長民は天保十一年(1840)の生まれ。鷹羽龍年、斎藤拙堂に詩を学び、尊王を志し、安政四年(1857)、内宮権禰宜、清酒作大内人となった。二十歳にして宇治年寄を兼ねた。文久年間、尊王攘夷論がさかんとなり、江戸、京に出て志士と交わり、三条実美らと通じ、水戸、肥前、肥後などの浪人をかくまい、文久三年(1863)の天誅組に気脈を通じ、翌元治元年(1864)八月、幕府の怒りに触れ山田奉行に捕らえられ禁固された。慶應三年(1867)八月、赦され。明治元年(1868)には度会府御用掛、神祇並学校曹長、市政曹長、翌明治二年(1869)九月、度会県少参事となり、のち神宮大丞、神宮少宮司などになり「明治祭式」を著わし、神嘗祭の儀式などを定めた。のち東京府および宮内省御用掛、控訴裁判所判事、度会郡長、さらに鈴鹿・奄芸・河曲などの郡長となった。明治二十六年(1893)年五十四にて没。

 

浦田長民墓

 

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鈴鹿 井田川

2021年08月14日 | 三重県

(小田町公民館)

 一年前に井田川駅を起点に亀山市側の史跡を訪ねたが、今回は井田川駅を北東に歩いて小田町公民館前の明治天皇聖蹟碑を見る。

 

明治天皇御小休所

 

 この石碑は明治十三年(1880)七月十一日、陸軍の演習地に向かう際、明治天皇が当地で滞在したことを記念したものである。

 

 この日は亀山出張の途中、一つ手前の井田川駅で下車してこの碑を訪ねた。次の電車までの時間は十五分しかなかった。片道六百メートルほどなので、普通に歩けば七~八分というところ。しかし、それでは次の電車に間に合わない。半分走って往復した。予報では曇りだったが、井田川駅に近づくにつれて雨が降り出したが、何とか時間内に往復することができた。

 

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津 Ⅲ

2020年11月07日 | 三重県

(お城西公園)

 

お城西公園

 

明治天皇臨幸記念碑

 

 お城西公園の東側に小さな池がある。その畔に明治天皇の臨幸を記念した巨大な石碑が建てられている。明治天皇の行幸は、明治十三年(1880)七月六日。題字は文部大臣松浦鎮次郎。

 

(寒松院)

 津市寿町の寒松院には初代藤堂高虎から十代高兌(たかさわ)に至る歴代津藩主の墓地がある。寒松院は、高虎の号。本堂北側には、分家久居藩主の墓が、初代から十六代まで並んでいる。寒松院は、藤堂家の菩提寺となって以来、寺領四百石が与えられ、末寺も十八寺を数えた。藩の費用で寺の維持が行われ、藩主が毎月参拝した。明治になっても、明治十二年(1879)には第一回の県議会が開かれるなど、この地方の中心的寺院であった。昭和二十年(1845)、戦災を受けて建物は全て焼失し、藤堂家の墓石も破損した。以来、寺は無住と化し、敷地も縮小し、現在本堂の周囲は駐車場と化している。往時は偉容を誇ったことが想像されるが、現状はすっかり寂れている。

 

寒松院

 

初代藤堂高虎の墓

 

藤堂家墓地

 

明治天皇行在所跡

 

 寒松院は、明治十三年(1880)七月四日から七日、明治天皇の行在所となった。

 

(結城神社)

 結城神社は、津市藤方にあって、とても歩いて行ける距離ではない。津市街の三重会館からバスに乗って十五分ほど揺られると「結城神社前」というバス停に至る。ここから歩いて数分の場所である。

 

結城神社

 

 結城神社は、新田義貞とともに後醍醐天皇の建武の中興を助けた「忠臣」結城宗広を祀る神社である。宗広は足利尊氏を迎え撃ったが、志を得ずこの地に没したとされる。文政七年(1824)には津藩主藤堂高兌は、宗広の忠節を慕い、社殿を改修、墳墓を整備して、祭祀費を藩の負担で行った。

 明治十三年(1880)、明治天皇御巡幸に当たり、勅使が派遣され、明治十五年(1882)には特旨をもって別格官幣神社に列せられ、諸社殿が建立された。

 

(三重大学)

 津の市街地を歩くのは何年振りだろうか。以前は十年以上も前になるが、その時は発見できなかった斉藤拙堂の山荘跡碑に再挑戦することにした。当時斉藤拙堂山荘跡碑は、鉄道の法面にあって繁るにまかせた雑草に被われ、特に夏場は見ることも近づくこともできない状況であった。関係者もさすがにそれではマズイということに気が付いたのであろう。この十年でこの石碑を巡る環境はがらっと様変わりした。石碑は実際の跡地から三キロメートルほども離れた三重大学のキャンパス内に移設された。それだけではなく、比佐豆神社内に別の石碑が建てられ、以前石碑が建っていた場所近くの公園には説明板が設置された。ということで、まず三重大学内の石碑を訪ねた。広いキャンパスのどこにあるのか事前に情報がなかったが、比較的正門に近いところにあった。

 

拙堂先生山荘遺址碑

 

(比佐豆神社)

 

比佐豆神社

 

拙堂先生山荘遺趾碑

 

 平成二十八年(2016)に比佐豆神社内に山荘遺址碑が再建された。斉藤拙堂が晩年茶磨山荘を建てたのは、比佐豆神社西隣一帯といわれる。

 

(しあわせの森児童公園)

 

齋藤拙堂山荘(茶磨山荘)跡

 

 もともと拙堂先生山荘跡碑のあった場所近くの小さな公園に、津市教育委員会が説明板を設置している。

 斉藤拙堂は、時代の流れの中で必要となった医学や兵学、化学などを積極的に取り入れた洋学館を開設するなど藩士教育の充実を図った。しあわせの森児童公園の付近一帯は、晩年拙堂が隠居した山荘の跡地で、幕末、吉田松陰や吉田東洋、横井小楠ら著名な志士や学者が訪れ、拙堂と面会して彼の意見を求めた。

 

齋藤拙堂像

 

(大里窪田町)

 大里窪田町の民家の前に「史蹟明治天皇窪田御小休所」が建てられている。明治天皇がこの地に行幸したのは、明治二年(1869)三月十日のことである。

 

史蹟明治天皇窪田御小休所

 

(専修寺)

 一身田の専修寺は、広大な境内と国宝・重要文化財級の伽藍を有する大寺院である。これほどの寺院が三重の片隅に存在しているとは全く予想外であった。

 

 明治十三年(1880)七月九日から翌日まで明治天皇が専修寺に滞在している。明治天皇が滞在した書院は賜春館と名付けられ保存されているが、残念ながら一般に公開されていない。部屋には三条実美書「賜春館」の横額や有栖川熾仁親王の書などが掲げられているらしい。

 

専修寺御影堂

 

対面所

 

 賜春館のあるのは対面所のちょうど裏側に当たる。

 

(八幡町)

 

史蹟 明治天皇津八幡町御小休所

 

 八幡町の民家の庭に一つの石碑がある。明治天皇が明治十三年(1880)七月七日、滞在したことを記念したものである。

 

 まだ津や三重県下の史跡を訪ねたかったが、レンタカーを返却する時間が迫っていた。急ぎ返却場所である岐阜駅まで戻った。岐阜に近づいた時、俄かに前が見えないほどの雷雨となった。返却時間までだいぶ余裕があるはずだったのだが、結果的には時間ギリギリに返すことになった。

 次第に雨は弱くなったが、名古屋に向かうJR東海道線は運転見合わせとなり、名鉄の振替輸送に乗客が殺到した。何とか名古屋までたどりつきその日のうちに八王子に帰ることができた。

 今日のようなゲリラ豪雨が日本各地で発生している。今年も九州や岐阜、長野で堤防が決壊して深刻な浸水被害や土砂崩れが発生したが、振り返れば近年集中豪雨による被害は毎年発生している。治山治水がこれほど重要になった時期はかつてなかったかもしれない。

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鈴鹿 Ⅱ

2020年11月07日 | 三重県

(神戸別院)

 鈴鹿市の神戸別院には、明治十三年(1880)七月十一日、明治天皇が滞在している。今も御座所が保存され、「行在所」と墨書きされた木札や部屋の由緒を記した額が掲げられているという。

 

神戸別院(専修寺)

 

明治天皇神戸行在所

 

明治天皇行在所跡

 

 門前には「明治天皇神戸行在所」「明治天皇神戸行在所」「明治天皇行在所跡」と刻まれた石碑が三基。これでもかといわんばかりに並べられている。

 

(青龍寺)

 近鉄鈴鹿線で伊勢若松駅まで移動。鈴鹿市若松は、大黒屋光太夫の出身地である。ここで名古屋線に乗り換えて二駅目が白子駅である。駅を南側にでると海が近い。旧東海道が海沿いを走っている。白子港は大黒屋光太夫が出港した港である。

 

青龍寺

 

 青龍寺には明治天皇が明治十三年(1880)に巡幸した際の行列明細図や久住三疑家小憩時の間取図などが保存されている。久住三疑(1758~1830)は廻船業を営む当地の大富豪であり、能筆家でもあり儒学にも通じた。

 

(清水屋)

 江島村は、江戸初期まで天領であったが、その後紀州藩旗本の領地となり、享保年中には小笠原肥前守の知行地となり、この地に陣屋を置いた。この陣屋には本居宣長門下の国学者村田橋彦が代官として勤めた。

 

清水屋

 

江島陣屋跡

 

 明治二年(1869)三月十四日、明治天皇が伊勢両宮参拝の帰路、この陣屋で小休止された。清水屋の前に解説板が設置されている。

 

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四日市 Ⅱ

2020年11月07日 | 三重県

(富田小学校)

 名古屋で途中下車して、近鉄富田で下車。駅近くの富田小学校が最初の訪問地である。この日は近鉄名古屋線、あすなろう鉄道、JR関西本線から伊勢鉄道を乗り継いで、近鉄鈴鹿線から再び近鉄名古屋線に戻って津市内を散策した。久しぶりに充実した一日であった。

 

富田小学校

 

東海道

 

 明治元年(1868)九月二十日、車駕にて京都を出た明治天皇は京都を出て東京に向かった。同月二十四日には四日市に御駐輦、翌二十五日、富田茶屋町広瀬五郎兵衛方に御小憩され、そこで富田の焼き蛤をご賞味になったとされる。同年、十二月八日には京都に帰る途上、再度広瀬方で休憩を取られた。

 

明治天皇御駐輦跡

 

 明治二年(1869)三月十五日、やはり東京に上る途中、再び広瀬方にて休憩。明治十三年(1880)、陸軍大演習をご覧になるため県下に行幸された際、同年七月三日、広瀬方に四度目の来訪となった。富田小学校の前には、明治天皇の行幸を記念した石碑が二基建てられている。「明治天皇御駐輦跡」は公爵近衛文麿の筆。

 

史蹟 明治天皇富田御小休所阯

 

 広瀬五郎兵衛の屋敷跡は東海道沿いの、現在の富田小学校正門付近から富田地区市民センターにかけてとされる。

 

(法従寺)

 近鉄富田駅付近の谷口畳製造所にて自転車を貸してくれる(17時まで。三百円)。法従寺まで歩くと片道三十分近くかかるので非常に助かった。

 

法従寺

 

 川北二丁目の法従寺には、明治になって桑名の大塚本陣上段の間を含む一部を移築した書院がある。明治天皇行幸の際には行在所・小休所として使われたものである。残念ながら、外から見ただけではどこにその書院があるのか分からなかった。

 

(諏訪神社)

 四日市市街地に鎮座する諏訪神社は、建仁二年(1202)、信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたと伝えられる古社である。社頭が東海道に面していたこともあり、多くの旅人も道中に参拝したといわれる。

 

諏訪神社

 

 諏訪神社境内には、明治天皇御製碑や遥拝碑がある。明治元年(1868)、明治天皇の東京行幸の際には、「三種の神器」のうち神鏡が安置された。

 

明治天皇御製

目に見えぬ神にむかひてはぢざるは

人の心のまことなりけり

 

明治神宮遥拝所

 

(諏訪公園)

 諏訪神社に隣接する諏訪公園は、日露戦争の戦勝を記念して開かれた公園である(当時は「保光苑」と呼ばれた)。四日市出身の実業家村山清八が「五箇条の御誓文」全五箇条を刻んだ巨大な五角形の石碑を建立した。

 

五箇条の御誓文碑

 

(日永の追分)

 

二の鳥居

 

 かつて泊山霊園の水戸藩士の墓を訪ねるために泊駅まであすなろう鉄道を使ったが、今回はあすなろう鉄道で泊駅の次の追分まで乗った。この超ローカル線を二度も使うことになるとは思ってもいなかった。

 追分駅を降りると二の鳥居までは近い。この鳥居は安永三年(1774)、久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛という人が、江戸から京都に向かう際に、ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って建てたものである。鳥居は、皇太神宮の遷宮に合わせて二十年ごとに建て替えられることになっていた。現在の鳥居は平成二十八年(2016)に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第十代目となる。

 

左いせ参宮道

 

 追分というのは、道が左右に分かれている場所をいい、日永の追分は、東海道と伊勢街道の分岐点である。

 明治天皇は、明治元年(1868)九月二十四日、十二月十九日、明治二年(1869)三月十四日、明治十三年(1880)、七月三日に当地を通行している。

 

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亀山 井田川

2020年08月22日 | 三重県

(和田神社)

今度は亀山から関西線を一駅四日市側に戻り、井田川駅を起点に一時間の散歩である。まず和田神社を訪ねる。

 

和田神社

 

 本殿脇に「大元帥陛下御駐輦之地」碑がある。同じ和田町の石上寺付近にあったものが移築された。明治天皇が当地に滞在したのは、明治十三年(1880)七月十一日のことである。

 

大元帥陛下御駐輦之地

 

(駒止めの松)

 

明治天皇雩山天覧所迹

 

 川合町とみどり町の境界付近に明治十三年(1880)の明治天皇行幸から百年を記念して「駒止めの松」碑が建てられている。その横に明治天皇が明治十三年(1880)七月十一日に滞在したことを記念した石碑が建てられている。

 汗だくになってここまで来たとき、近所の方が草刈り機を使って雑草を刈っている最中であった。しばらく石碑に近づくことができず、亀山に戻る電車に乗り遅れるのではないかと気が気でなかったが、無事に写真を撮り終えて、走るようにして井田川駅に戻った。

 

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亀山 関町

2020年08月22日 | 三重県

(東の追分)

 

東の追分 大鳥居

 

 亀山からJRで一駅西に移動して関の街を歩く。関は古代から交通の要衝であり、古代三関の一つ、鈴鹿の関が置かれたところである。江戸時代には東海道五十三次の江戸から数えて四十七番目の宿場町として参勤交代や伊勢参りの人びとで賑わった。現在、東海道上にあって唯一歴史的な街並みが残る場所となっている。東の追分から西の追分まで約一・八キロメートルにわたって伝統的な建物が連なる景観は見事である。

 

東海道関宿

 

(大井家)

 大井家は代々玄庵と名乗る医家であった。明治初年には西洋医学を学び、種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。今も当家には「本草綱目」などの医学書のほか、江戸末期の往診用の駕籠や医療機器などが遺されている。

 

大井家

 

(延命寺)

 延命寺の山門は、明治五年(1872)に川北本陣から移築されたもので、川北本陣の現存する唯一の遺構である。彫刻の形式などから十七世紀後期の建築とみられる。屋根の鬼瓦に川北家の家紋である三蓋松が彫られている。

 

延命寺

 

延命寺山門

 

(川北本陣跡)

 

川北本陣跡

 

 川北家は関宿に二つあった本陣の一つで、慶長年間(1596~1615)の頃から明治三年(1870)に廃止されるまで、代々関宿の本陣を務めた。石碑が建てられている以外、当時の遺構らしきものは残っていない。

 明治元年(1868)九月二十三日から翌日にかけて、さらに同年十二月十九日から翌日、明治二年(1869)三月九日から翌日にかけて、川北本陣は明治天皇の行在所となった。

 

(伊藤本陣阯)

 伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした家である。伊藤本陣は間口十一間余、建坪六十九坪、西陣の表門は唐破風造りの檜皮葺きであった。

 

伊藤本陣阯

 

 伊藤本陣近くの関郵便局は高札場の跡であり、郵便局前には往時の高札場が復元されている。

 

関宿高札場跡

 

(福蔵寺)

 福蔵寺には織田信長の三男信孝の墓や孝女の仇討で知られる「関の小万」の記念碑がある。

 織田信孝は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、福蔵寺を建立した。信孝は秀吉との後継を巡る争いに敗れ、天正十一年(1583)、尾張の野間にて自害した。当山に首が運ばれ、以来、信孝の菩提寺とされている。長らく墓石は不明であったが、四百年忌を迎え、菩提を弔うため建立された墓が境内にある。また、本堂には創建当時から信孝の位牌が祀られている。

 

福蔵寺

 

龍巌徳公大禅定門位菩提

(織田三七平朝臣信孝卿)

 

 織田信孝の幼名は三七丸という。三月七日に生まれたからである。同じ誕生日に生まれた者として、個人的にはもう少し活躍して欲しかったと思うのである。

 

関の小萬碑

 

 関の小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門といった。遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。牧藤左衛門の妻は、身重の身体で夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋(現、会津屋)の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。

山田屋の主人と女将に助けられ、手厚く看病され、女はそこで女児を産んだ。それが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人に託して亡くなった。成長した小万は養父母から両親のことを聞かされ、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をする。天明三年(1783)八月、小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇を待ち受け、見事本懐を遂げた。小万はその後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)、三十六歳の若さで死んだ。

 

(会津屋)

 地蔵院前の会津屋は関宿を代表する旅籠の一つである。もとは山田屋といい、小万が育ったことでも知られる。二階に洋風意匠の窓がついた洋館屋、米をつく水車の音から名付けられた川音、伝統ある鍛冶屋などが並ぶ。

 

会津屋

 

(地蔵院)

 地蔵院には明治十三年(1880)、七月十日と十二日に明治天皇が滞在した。御座所となった書院は、今も行在所と呼ばれ、部屋には「鳳凰台」と墨書された横額がかかっている。残念ながら公開はされておらず、建物の写真を撮るにとどまった。

 

地蔵院

 

明治天皇關行在所

 

(重要伝統的建造物群)

 

関宿の街並み

 

 関宿の街並みはまだ続く。一見の価値はある。写真ではなかなか伝わらないので、自ら足を運ぶことをお勧めしたい。

 

 

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亀山 Ⅲ

2020年08月22日 | 三重県

(亀山中学校)

 

藩校明倫舎跡

 

 亀山中学校の前に藩校明倫舎跡碑が建てられている。亀山藩校明倫舎は、第四代藩主石川総博が天明二年(1785)に開設したもので、明治二年(1869)には明倫館と改称されて、明治四年(1871)まで続いた。

 

(善導寺)

 

善導寺

 

柴田右仲の墓

 

 善導寺には、朱子学者柴田右仲の墓がある。柴田右仲(1770~1836)は、亀山藩主石川家に仕え、藩校明倫舎の学頭に任じられた。

 

(宗英寺)

 四月に緊急事態宣言が発せられて以来、すっかり都外の史跡から遠のいている。ほぼ半年振りに出張の機会を得たので、私費で前泊して亀山周辺の史跡を訪ねた。九州や東北に豪雨をもたらした梅雨は異例の長さで、七月末というのにまだ梅雨明け宣言が出されていない。この日は雨こそ降らなかったが、異様に湿度の高い一日であった。

 最初の訪問地は、宗英寺である。四時半に起床してホテルから歩いて十五分程度で行き着く。到着したころにちょうど日の出を迎えた。

 

宗英寺

 

 宗英寺の門前には樹齢約六百年といわれるイチョウの巨木が屹立している。幹の周りは約八メートル、樹高約四十メートルという巨樹で、樹勢はいまも旺盛である。幕末明治という激動の時代、街道を行き交う人々をこのイチョウの樹が見下ろしていたのであろう。まさに歴史の生き証人である。

 

宗英寺のイチョウ

 

山嵜雪柳軒之墓

 

 宗英寺には山崎雪柳軒の墓がある。

 山崎雪柳軒は、伊庭是水軒の起こした心形刀流を修めて帰郷し、亀山に道場を開いた。心形刀流は藩の流儀となり、今も亀山に継承されている。

 

 伊庭八郎の「従西日記」によれば、元治元年(1864)六月、京都での任務を終えた伊庭八郎は実弟三郎を伴って関から亀山に入っている。三郎が病気にかかったこともあり、亀山には八日も逗留している。亀山では山崎雪柳軒(日記では利右衛門)が頻繁に八郎の宿を訪ねていて、食事や菓子の差し入れや医者の世話までしている。雪柳軒にしてみれば、心形刀流の宗家の後継者であり、江戸で世話になった伊庭秀業の実子であり、秀俊の養子という重要人物なのである。非常に手厚くもてなしたことが見てとれる。

 

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松阪

2019年12月07日 | 三重県

(小野古江渡)

 雲出川は、伊勢国・大和国の境にそびえる高見山地の三峰山(標高1235メートル)に源を発し、伊勢湾へと注ぐ、櫛田川・宮川と並ぶ三重県下三大河川の一つである。大河であるために、南北朝時代には南朝方と北朝方の境界でもあり、軍事上の問題から橋がかけられず、各所に渡し場が設けられた。その一つが、かつてこの地にあった「小野古江渡(おののふるえのわたり)」である。この地は、伊勢街道に沿っているため、全国各地からの伊勢参りの人びとが行き交う交通の要衝であり、慶長十九年(1614)頃までは川越場から人馬によって川越えをしていた。江戸時代に四回おこった「おかげまいり」では、全国各地から多いときには五百万人もの民衆が伊勢参宮のために往来したといわれ、渡し場も宿場として賑わった。明治十三年(1880)には雲出橋が架けられ、地域の生活と文化を結ぶ架け橋となった。現在の雲出橋は、平成十二年(2000)五月に建設されたものである。

 松浦武四郎は、伊勢国須川村(現・松阪市小野江町)に生まれた。

 

 小野古江渡趾

 

 

常夜燈

 

(松浦武四郎生誕の家)

 

松浦武四郎生誕の家 

 

 

松浦武四郎誕生地

 

 この家は松浦武四郎の実家にあたる建物で、昭和三十七年(1962)に三雲村が史跡に指定したものである。この家の前の道は、伊勢街道であり、南に行けば伊勢神宮、北へ行けば四日市の日永で江戸と京を結ぶ東海道につながり、古くから多くのおかげ参りの旅人が行きかった道である。武四郎十三歳のとき起こった文政のおかげ参りでは、この街道を歩いた旅人は一年に四百~五百万人に上ったとされる。武四郎は街道を往く多くの旅人に刺激を受け、旅を志すようになったといわれる。この屋敷は現在に至るまで増改築が重ねられてきたが、武四郎生誕二百年を迎えた平成三十年(2018)に合わせて整備を進め、明治維新直前に作製された家相図に基づき、主屋、離れの保存修理と土蔵二棟、納屋の補強工事が施された。

 

(本楽寺)

 生家近くの本楽寺は、松浦家の菩提寺である。周囲の道は軽自動車一台がやっと通れるくらいの幅しかなく、非常に神経を使う。できれば生家前の駐車場に車を停めて、歩いて訪問することをお勧めする。

 

 

 本楽寺

 

(真覚寺)

 文政七年(1824)、七歳の武四郎は、真覚寺の住職、来応和尚から読み書きを習った。来応和尚は、諸国で修業し、霊力を身に付けたといわれる。武四郎の自伝によれば、十二歳の頃、雲出(くもず)村伊倉津村(現・津市雲出伊倉津町)に狐のとりついた娘がいたが、来応和尚がお経を唱えると狐から解き放たれ、稲荷大明神として祀ったところ、大変ご利益があると評判になったという。

 

 真覚寺

 

 

来応和尚の墓

 

真覚寺境内には来応和尚の墓が残されている。

 

(松浦武四郎記念館)

 

松浦武四郎記念館 

 

 松浦武四郎記念館は、平成六年(1994)の開館以来、松浦武四郎に関する資料の収集保管、調査研究、展示公開、教育普及などの博物館活動を行っている。

 

松浦武四郎記念館の展示  

 

 

一畳敷書斎(再現)

 

 全国各地を旅した武四郎は、七十歳を過ぎてこれ以上旅を続けることの困難を悟り、全国の知人に依頼して各地の古社寺から古材を贈ってもらいそれを組み合わせてたった一畳の書斎を自宅に増築した。使用されている木材は、広島の厳島神社、吉野の後醍醐天皇陵の鳥居、嵐山の渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県に及んだ。「一畳敷」と呼ばれるこの書斎は、現在東京三鷹市の国際基督教大学の敷地内に現存しているが、常時公開されているわけではないので、なかなか見ることができない。

 

          

多氣志楼  

会沢正志斎筆

 

 嘉永七年(1854)、武四郎に頼まれて会沢正志斎が書いたもの。武四郎は、門や入口、客間にかける書を集めて巻物に仕立てているが、佐藤一斎や富岡鉄斎など交流に広さを伺えるものが今に伝えられている。

 

 

松浦武四郎像

 

 

松浦武四郎像

 

松浦武四郎歌碑

 

 記念館前に武四郎の歌碑が建てられている。

 

 陸奥の蝦夷の千島を開けとて

 神もや我を作り出しけむ

 

 蝦夷地や千島列島を明らかにせよと神が私にこの地に送り出したのだ。蝦夷地調査は神から与えられた使命だという意味。武四郎の覚悟が伝わる歌である。

(射和)

 

 竹川家  

 

 松阪市射和(いざわ)は、今も昔の雰囲気を残す街である。その一角に竹川竹斎の生家が残されている。

 竹川竹斎は、文化六年(1823)の生まれ。家は豪商、両替商で江戸、大阪に支店を持っていた。江戸、大阪にあるときは余暇に学んで村の荒廃を憂い、自ら測量術、農土木術等を学んだ。射和、阿波両村を潤す溜池を、私財を擲って完成し、飢饉に備え村人のため米千俵を買うなど両村のために尽くした。嘉永には殖産のため茶園を開き、茶種と桑、楮、松などの苗木を植えた。安政二年(1855)には万古陶器を開設し、また射和文庫を建て一万巻の書物を置き教育の普及に力を尽くした。嘉永四年(1851)「海防護国論」を著わし、勝海舟に意見を寄せ海防思想をのべ、鳥羽藩のため大砲鋳造の献金をした。慶應二年(1866)の開港に反対し、幕府に物価対策として外国米七十万俵の購入を、また大阪・四日市間に航路を開くことを上申した。明治十五年(1882)、年六十で没。

 

(国分家)

 竹川家の向かいに国分家がある。国分家も竹川家と同じく豪商の家で、往時は「亀甲大」印の醤油を営んでいた。

 

 

 国分家  

 

 まだまだ三重県下の史跡を回りたかったが、日も傾いてきたので、この日の史跡探索はここまで。後ろ髪ひかれる思いで三重を後にした。また松阪を歩きたい。

 

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