(鳥羽城跡)
伊勢市から鳥羽まで電車で十五分。途中に伊勢志摩観光の定番である夫婦岩のある二見浦を通る。五十年前の小学校の修学旅行のことが懐かしく思い出された。たかだか一泊二日の旅行であったが、何故あれほど楽しかったのだろう。
鳥羽駅前の鳥羽一番旅コンセルジュで自転車を貸し出している。迷わず電動自転車を選んだ。
鳥羽城跡
鳥羽は、戦国時代水軍の大将九鬼氏の拠点であった。九鬼氏は織田信長が天下統一を目指す過程で、長島の一向一揆や石山本願寺との戦いにおいて戦功があり、鳥羽の地を賜った。豊臣秀吉にも仕えて、志摩三万五千石を拝領した。文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも船団を率いて参陣した。
鳥羽城本丸跡
鳥羽城は、九鬼嘉隆により文禄三年(1594)に竣工した。海に面した標高四十メートルの小山に築かれた平山城で、本丸跡から鳥羽湾が一望できる。
本丸跡付近に鷹羽龍年の鳥羽城詩碑が建てられている。詩碑には、鳥羽藩校尚志館の教授であった鷹羽龍年が詠んだ漢詩が刻まれている。石碑は、明治四十年(1907)三月に建立されたもので、城跡から鳥羽湾の眺望を讃える内容となっている。
鷹羽龍年は、寛政八年(1796)に伊勢山田に生まれ、十四歳で江戸に出て、遊学して詩文を学んだ。のちに鳥羽藩主稲垣長明に招かれて、尚志館の講師となった。門下に有馬百鞭、松田南溟、近藤真琴らがいる。慶應二年(1866)、七十一歳で没した。
本丸跡から臨む鳥羽湾
鳥羽城詩碑
九鬼氏が御家騒動により国替えとなった後、寛永十年(1633)には譜代である内藤氏が鳥羽城主となったが、その内藤氏も江戸で殺傷事件を起こして領地を没収され、一時幕府の直轄地となったが、土井、松平(大給)、板倉、戸田(松平)と続いた。享保十年(1725)、稲垣氏が封じられ、ようやく安定し、幕末まで続いた。
明治二年(1869)の版籍奉還により城地は官有地となり、明治四年(1871)、城郭、城門、櫓等は全て取り壊された。
鳥羽城三ノ丸
(常安寺)
常安寺
常安寺書院は明治十年(1877)一月二十六日、明治天皇の行在所となった。
明治天皇鳥羽行在所
門前に二基の記念碑がある。「記念碑」の文字を書いたのは、東郷平八郎である。東郷が鳥羽小学校で墨書した際の写真も残されているという。
明治天皇鳥羽行在所 英照皇太后御泊所
記念碑
(妙性寺)
妙性寺
従七位有馬百鞭墓
妙性寺には有馬百鞭(ひゃくべん)の墓がある。
有馬百鞭は、天保六年(1835)の生まれ。詩を鷹羽龍年(雲淙)に学び、藩命によって久居藩の高井氏、江戸の窪田助太郎に山鹿流兵法を学び、安政五年(1858)、帰藩。同年五月、鳥羽藩校尚志館の句読師となり、のち侍講となった。征長のため大阪に一年余り留まる間位に、魚住荊石、田能村直入に画を学び、鳥羽随風上人、松田雲柯に書を習い、書画で一家を成した。維新後鳥羽藩の権大属に任じられ、のち常安寺に私塾日新校を開き、明治八年(1875)、神宮主典を経て権禰宜となった。明治三十九年(1906)、年七十二にて没。
(扇野)
扇野
常安寺の門前の坂道をのぼっていくと、旅館扇芳閣に行き着く。さらに坂を上ると、金刀比羅宮鳥羽分社の手前に扇野の鐘と名付けられた鐘のある公園がある。
その一角に明治天皇の御製碑が建てられている。
浦風もあら礒波も今朝凪ぎて
かもめたちたつ鳥羽の海つら
御製碑近くから鳥羽湾を臨む
明治天皇歌碑
書は山縣有朋。明治十年(1877)一月二十六日、明治天皇が横浜港から神戸に向かって出航したが、暴風雨のため急遽、鳥羽佐田浜沖に入港し、常安寺に宿泊した後、鳥羽港を翌日出航した。その際、美しい鳥羽の海でカモメが群れ飛ぶ姿を詠んだ歌である。
この記念碑は、大正十年(1921)、常安寺近傍の樋の山に建設されたが、後に常安寺道路脇から平成十四年(2002)、現在地に移転されたものである。