史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末武士の失業と再就職 紀州藩田辺詰与力騒動一件」 中村豊秀著 中公新書

2019年12月28日 | 書評

これも古本。こうして古本を読んでいると、少なくとも新書に関しては、昔の本の方が余程力作そろいなのではないかと思う。最近の新書は、やや粗製乱造の傾向がある。

本書は、紀州藩田辺に居住する横須賀組(横須賀党、横須賀衆といった呼び方もあるらしい)と呼ばれる与力一統を襲った受難とそこからの復帰運動を描いたものである。俗に田辺与力騒動を呼ばれる。安政二年(1855)六月八日、彼らに突然十七箇条にわたる支配替えの通達をつきつけたのは、紀州藩筆頭家老にして田辺城主安藤飛騨守。これを直接伝えたのは城代家老安藤小兵衛であった。田辺与力たちの苦難はここから始まった。

横須賀組は、もとは家康の直臣で、数々の合戦、なかでも大阪冬の陣、夏の陣で武功があったという。戦後、家康の命により紀州藩を興した家康九男頼宣の家臣として田辺に入った。従って、彼らは「家康の命により南龍公の直臣となった」という強いエリート意識を持った集団であり、紀州家の付家老となった安藤家としてみれば、「目の上のたん瘤」的な存在であった。安藤家からの通達は、二百年以上も続いていた捻じれた関係を一挙に覆そうというものであった。当然ながら、田辺与力一統は猛反発した。

与力一統は、田辺安藤領に付けられた際には三十六家を数えたが、時代の変遷とともに数を減らし、安政二年時点では二十二家となっていた。

彼らは、結束して家康以来徳川直臣の家柄である証拠書類をもって安藤家と執拗に戦ったが、交渉決裂。速やかに田辺を退散して浪人となった。彼らのこの時の進退は鮮やかでもある。

その後、老年余りの浪々生活の末、一統は復帰成功を勝ち取る。時に文久二年(1862)のことであった。

その間、紀州藩では政争の末、十四代将軍を送り出した。家茂擁立に功のあった水野忠央(紀州藩付家老・新宮藩主)は一時絶大なる権力を握ったが、万延元年(1860)の桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されると、たちまち失脚して隠居し、新宮に逼塞することになる。慶應二年(1866)の第二次長州征伐には、藩主茂承が総督を命じられるなど、御三家の一つである紀州藩も激動の政局とは無縁ではなかった。田辺与力一統の復帰運動は、中央や紀州藩の政局とはまったく無関係ではあったが、熱心かつ執拗に行われた。ついには、紀州藩菩提寺長保寺の海辯和尚や、将軍後見職にあった一橋慶喜を動かし、帰参を勝ち取ることができた。彼らの帰参運動のモティベーションは単に生計を旧に戻したいということではなく、「武門の意地」であったろう。封建社会でしか通用しない価値観かもしれないが、生活を犠牲にしてまでも意地を通そうという姿には現代の日本人の心も動かされるものがある。

維新後、彼らは松阪で合資会社苗秀社を立ち上げ、資産を運用した。驚いたことに、苗秀社は今も継続しており、松坂御城番長屋には今も与力の子孫の方が住んでいるのである。つい先日、松阪を訪れたばかりであるが、また行きたくなってしまった。

 

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「軍神」 山室建徳著 中公新書

2019年12月28日 | 書評

先日、宗教学者の島薗進氏のトーク・イベントに参加して、その中でこの本に触れられていたので、以来気になっていた。たまたま新橋駅前の古本市で本書を発見し、迷わず購入した。十二年前に発刊されたものであるが、今では絶版となっており、入手は容易ではない。

第一章では、軍神第一号となった廣瀬武夫中佐と陸軍の橘周太を取り上げる。廣瀬中佐の戦死から五年が経過した明治四十三年(1910)には万世橋駅前に廣瀬の銅像が建立されている。今はその銅像は姿を消しているが、当時の熱狂は推して知るべきであろう。

一方の橘中佐の方について、恥ずかしながら私は本書を読むまでその存在を知らなかった。戦前の国定教科書に廣瀬とともに登場し、「軍神として名高い」存在だったらしい。廣瀬はともかく、橘中佐は今ではほとんどその名前を知っている人はいないだろう。筆者によれば「おそらく陸軍と海軍は対等に扱わなければならないというバランス感覚が、橘を廣瀬と並ぶ軍神に仕立てたのであろう」という。そこには、やや作為的、もっと平たくいえば無理やり軍神に祭り上げられた気配が漂う。

廣瀬にしても橘にしても、敵に打ち勝つ景気の良いものではなく、熾烈な攻撃を受けて死んでゆく指揮官である。戦意高揚につながるような明るい英雄譚ではなく、苦難と涙に縁取られた死出の旅の物語である。彼らは決して作戦を成功に導き、生きて帰って勝利の美酒に酔いしれたわけではない。部下のことを想いながら、壮烈な戦死と遂げるという自己犠牲の物語が日本人の琴線に触れたということであろう。日本人はこの手の物語が大好きなのである。

第二章の主役は、明治天皇に殉死した乃木希典大将である。乃木の殉死直後に発表された政府当局者の発言としては、福原鐐二郎文部次官の自決を肯定するような談話が新聞に掲載されたくらいであった。政府関係者が「軍国主義」や「武士道」を鼓舞するような報道誘導をした形跡はない。そもそも乃木の自決は不意打ちの出来事だったため、政府当局者が意図的に報道を誘導する余地がなかった。従って、事件直後の識者の発言は、規制から自由で活発なものであった。その中には自ら命を絶つことへの批判、殉死という全時代的遺風が西欧からどのように見られるかといった懸念、もっと単純に「馬鹿なことをしたものだ」という意見まであった。

しかし、そういった批判は大衆の称賛の声にかき消された。乃木夫妻の葬儀の会葬者は二十万人ともいわれた。将軍の霊柩が現れると群衆は「敬虔なる態度」を示したが、夫人の柩には「悉くが涙」でそれを出迎えた。夫に黙ってつき従った妻の存在が、より身近に、より悲痛に感じさせたのであろう。

以降、乃木を批判する声はほとんど聞かれなくなり、新聞報道も殉死した乃木を称賛する報道一辺倒になっていった。政府やマスコミではなく、大衆が乃木を軍神に祭り上げていったのである。

第三章では上海事変の爆弾三勇士を取り上げる。今では「爆弾三勇士」と聞いて、何のことだか分かる人は少ないだろう。爆弾三勇士とは江下武二、北川亟、作江伊之助という三名の工兵である。私はかつて芝・青松寺を訪ねた際、爆弾三勇士の銅像に出会って「これは何だ?」と思って調べたことがある。ひょっとしたら西南戦争に関係するものかもしれないと思ったからである。調べてみたら西南戦争とは無関係だったので、爆弾三勇士との関わりはそれっきりになってしまった。本書を読んでみると、爆弾三勇士にも興味深いエピソードが残されていた。

三名の壮烈な戦死が伝えられると、新聞は競ってその詳細を報じた。記事によれば、三名は自ら死を志願し、工兵隊長もその悲壮な決心を涙ながらに許した。三人は全身に爆弾を巻き付けて点火して「帝国万歳」と叫びつつ鉄条網に飛び込んで戦死を遂げたというものである。満州事件以来、将兵の戦死をめぐる美談が相次いで国民に提供され、その中でも爆弾三勇士への反響は圧倒的であった。この頃には映画やラジオ、レコードなどが登場しメディアが多様化していた。爆弾三勇士の映画も新聞報道からわずか一週間で四本が封切られるという超人気であった。

三勇士のイメージが独り歩きしていることに、大いに不満をいだいた人物が、ほかならぬ陸軍にいた。陸軍工兵中佐小野一麻呂は「爆弾三勇士の真相と其観察」と題する本を著し、三勇士の死がどのような作戦で起きたかということから始まり、その中でほかの一組は作戦遂行に成功し、生還したことを明らかにしている。つまり作戦は必ず死に至る「特攻」ではなかったということである。三勇士がからだに爆弾を巻き付けていたというのも誤解であるし、自ら志願して決死隊となったというのも事実に反する。

こうした陸軍関係者の事実に基づいた説得力のある反論に関わらず、爆弾三勇士が作戦遂行のために命を捧げたという物語に多くの日本人は涙し、日本人の伝統的な自己犠牲の精神を体現したものと記憶された。のちに第二次世界大戦の末期に特攻作戦が立案実行された精神風土が形作られる上で、爆弾三勇士の登場は大きな意味をもっていたといえよう。

 

                       

肉弾三勇士の像(芝・青松寺)

もとは「三勇士」であったが、バラバラにされて境内に放置され、作江の像は行方不明に、北川の像は郷里長崎県佐々町三柱神社に移設された。現在、青松寺に残されているこの像は江下武二のものである。

 

第四章は、「昭和の軍神たち」である。現代日本の価値観に従えば、軍神は日本を間違った方向に導いた象徴の最たるものかもしれない。しかし、筆者は「あとがき」で「その後の帰結を知ることのできる後世の高みから軍神を裁きたくなかった。」と告白している。確かに現代の価値観をもって、軍神を生み出し彼らに熱狂する当時の日本人を批判することは容易である。しかし、そこで安易な批判に流れないと自戒する筆者の姿勢は、歴史を学ぶ上で忘れてはならないものだと思う。

本書を読み終えたのは、出張でヒューストンに向かう機内であった。飛行機の中では、どういうわけだか全然眠れないのでおかげで読書が進んだ。ついでにいうと、年とともに脂っこいものは体が受け付けなくなって、連日のステーキ攻めに辟易した。機内食のチーズ・オムレツは半分くらいしか食べられませんでした。やっぱり日本の粗食が自分には合っている、と改めて気付かされた出張であった。

 

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「幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就の生涯」 小松重男著 中公新書

2019年12月28日 | 書評

またまた古本。このところ古本ばかりだが、電子書籍の登場以来、紙の印刷物を購入して本棚に並べているのはもはや前時代的なのかもしれない。しかし、古本屋を冷かして歩いていて、思わぬ掘り出し物に出会うのは、電子書籍やネット検索では得られない楽しみである。

本書も古本屋の店頭で発見するまで存在を知らなかった本だが、川村修就(のぶたか)という知られざる能吏の生涯を描いて、非常に面白かった。

川村修就は、御庭番という八代将軍吉宗が紀州からつれてきた十七家の直臣をもって創設した役職で、将軍の内々の御用や将軍の身辺警固を担った。その後、絶家、分家等増減を経て、修就が任命される頃には御庭番家筋の者は二十二名となっていた。

徳川幕府は人材が枯渇し、それが瓦解を早めたように言われるが、実際には優秀な人材は存在したし、それを評価して抜擢するシステムも機能していた。勝海舟は「氷川清話」の中で幕臣にも優秀な人がいた、として、岩瀬忠震、小栗忠順、川村修就、戸川安清の四人の名前を挙げている(海舟は四人しかいなかったから幕府は崩壊したといいたかったのかもしれない)。修就は、知名度は決して高くないが、幕末の幕府を代表する能吏の一人であった。

越中、信州における抜荷(現代風に言えば「密輸」)の実態を明らかにし、関係者の告発に功績のあった修就は、その手腕を買われて天保十二年(1841)、四十六歳で勘定吟味役に昇進した。老中水野忠邦の手厚い支持があったといわれる。

天保十四年(1843)、幕府は長岡藩に対し新潟町の上知(返還)を命じた。新潟は年間一万両余の運上金を生む金の成る木であると同時に、近海に出没し始めた異国船への対応のためにも直轄化することが急務であった。そしてその初代新潟奉行に川村修就は任命された。

修就は、砂丘に六年間で三万六千余という松を植え、飛砂を抑え耕地開拓という成果を生んだ。修就が命じた植林は、二百年を経た今も青々とした松で覆われた新潟の海岸で確認することができる。修就は物価統制にも意を砕き、彼の十年にわたる在任中、一つも打ち毀しを発生させなかった。

彼がもっとも力を入れたのは、最大の使命であった異国船に備えた海防強化であった。大砲の鋳造、実弾射撃訓練に精を出すとともに、信濃川口に洲崎番所(御台場灯明台)を設けた。ところが、修就の意欲に水を差すかのように、江戸の幕閣から「大筒発射訓練は、公費では五、六ヶ年一度でよい。ただし自費でやる分には勝手次第」という指図が届いた。火薬製造に必要な硝石は寺院の床下から必要量を採取できることを調査済みであったにも関わらず、その許可さえ下りなかった。江戸からの返事に修就はさすがに失望したらしく、これ以降、部下に対して砲術稽古のことをやかましく言わなくなってしまった。水野忠邦が、修就が新潟に赴任した直後、失脚してしまったのは、修就にとっても不幸だったかもしれない。

結局のところ、いかに優秀な人材がいても、それを使いこなす優秀な人材がいなければ組織は衰亡してしまう。その典型例といえるだろう。

弘化元年(1844)、突然、部下十八人に対して「その方ども砲術不精につき破門」を申し渡してしまった。驚いた部下たちは破門リストに入っていない者たちも一緒になって「詫び」を入れたが、結局、一生涯破門は取り消されなかった。破門された中には、若菜三男三郎(みおさぶろう)という、のちにハリス担当の下田奉行所組頭に任じられ、辛抱強くハリスの我がままに対応したことでも知られる人物もいる。決して使い物にならないダメ男ばっかりではなかったはずである。ほかのことでは部下想いで、良い上司であった修就が、突然切れてしまったこの破門事件の真相は謎である。あるいはあまりにも無責任な幕閣の対応に、彼なりに抵抗を示したかったのかもしれない。

修就は、その後も長崎奉行や大阪城代といった幕府重職を歴任して、幕府瓦解を迎えた。明治十一年(1878)四月八日、八十四歳という長寿を得て没した。残念ながら、幕府が激動の時代を迎えるペリー来航の時点で、修就は五十八歳と当時としてはかなりの高齢に達していた。その時堺奉行に在任中であった修就は、アメリカ国書に対する返答について諮問を受けたはずであるが、いかなる回答を江戸に送ったか不明である。彼が安政、文久期に働き盛りを迎えていたなら、幕末の政局においてもっと重要な役割を果たしていたかもしれないし、その結果、もう少し知名度の高い存在となっていたかもしれない。そう思わせる存在である。

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堺筋本町 Ⅱ

2019年12月21日 | 大阪府

(大阪活版所跡)

 

                       

大阪活版所跡

 

 大阪活版所は、明治三年(1870)三月、五代友厚の懇望を受け入れた本木昌造の設計によりこの地に活版所が創設された。大阪の近代印刷はここから始まり、文化の向上に大きな役割を果たした。

 

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松屋町 Ⅱ

2019年12月21日 | 大阪府

(住友銅吹所跡)

 

                       

住友銅吹所跡

 

 松屋町と長堀橋の間にかつて住友が銅製錬所を開いていた。江戸時代、我が国は世界有数の銅生産国であったが、中でも大阪は銅精錬業の中心地であり、全国から粗銅が集まり、それを精錬していた。この地にあった住友の長堀銅吹所は、寛永十三年(1636)に住友家(泉屋)が開設した当時日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の約三分の一を精錬していた。銅吹所には住友家の店舗や住宅が隣接しており、それを含めた面積は約四千平米もあった。銅吹所は明治九年(1876)に閉鎖されたが、住宅は大正四年(1915)まで住友家本邸として、昭和二十年(1945)までは別邸として存続した。平成二年(1990)から平成四年(1992)に発掘調査が行われ、百基を越える精錬炉など銅吹所。住宅関連の諸遺構が出土している。

 

 

銅製の橋

 

 住友の慎重さについては「住友は石橋をたたいても渡らない」と揶揄されるが、石橋の代わりにたたいても割れない銅の橋を作ってしまった。

 

 

本住友家本邸内ビリヤード場

 

 明治十二年(1879)にこの場所に洋館や庭園が造られ、ビリヤード場はその東側に建てられた。文明開化期に多く見られる擬洋風洋式で、和洋が混在した建物である。独立のビリヤード場としては我が国最古のものと言われる。

 

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西大橋

2019年12月21日 | 大阪府

(間長涯天文観測の地)

 地下鉄長堀緑地線西大橋駅を降りると、中央分離帯が駐輪場となっていて、それに隣接する公園内に間長涯天文観測の地碑が建っている。

 間長涯(1756~1816)は、富田屋橋北詰めで、十一屋という質屋を営む家に生まれた。本名を間重富といい、幼い頃から富田橋の上で星を眺めていた。寛政七年(1795)、幕府の改暦にあたり高橋至時(しげとき)とともに出府し、江戸浅草天文台で中国の「暦象考成」をもとに三年で寛政暦を完成させた。その功により、幕府直参に取り立てられる話があったが、辞退して帰阪。その後、富田屋橋に英国製の観測機器を据え、好きな天文観測に没頭した。この時、橋は通行止めになったが、堀江の住民は誰も文句を言わなかったという。この石碑は昭和三十五年(1960)大阪市によって長堀川のほとりに建てられたが、長堀川の埋め立てにより現在地に移された。

 

                       

間長涯天文観測の地

 

 

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心斎橋

2019年12月21日 | 大阪府

(橋本宗吉絲漢堂跡)

 橋本宗吉は、宝暦十三年(1763)北堀江に生まれた。極貧の中でエレキテルの実験などで才能を発揮、間長涯らの目にとまり、その援助で江戸へ出て大槻玄沢に師事、蘭語を学んだ。帰坂後、医業のかたわら長涯らに天文学・医学の蘭書を翻訳、また蘭学塾絲漢堂を開いた。その弟子に中天游がおり、緒方洪庵~福沢諭吉へとその系統は続いている。天保七年(1836)没。

 

                       

橋本宗吉絲漢堂跡

 

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谷町九丁目 Ⅲ

2019年12月21日 | 大阪府

(齢延寺)

 

                     

島村洲平(寿太郎)之墓

 

 島村寿太郎、川村貞衛、安岡恒之進の墓を訪ねて、齢延寺を再訪した。

 島村寿太郎の墓は無縁墓石の中にある。

 島村寿太郎は天保三年(1832)、土佐の郷士の家に生まれた。槍術に優れ、姉富子は武市半平太の妻となった。仁侠の人で、土佐勤王党に加盟し、文久二年(1862)五十人組同士のために上田二十石を売って旅費を整えるなど、運動資金を負担した。文久三年(1863)の勤王党の獄では、慎重な態度を持して難を逃れた。慶應三年(1867)、板垣退助が水戸浪士中村勇吉をかくまい、佐幕派の讒訴で苦境に立った時、これを庇護した。慶應四年(1868)、戊辰戦争が起こると東北地方に従軍したが、のち家居して仕えず、明治六年(1873)、上京の途中、大阪で死去した。年四十二。

 

 

川村貞衛道忠

 

 川村貞衛は、藩侯の命によって住吉陣屋に詰めていた土佐藩士だが、麻疹にかかって文久二年(1862)八月九日に死亡。安岡恒之進の上司。享年四十五。

 

 

安岡恒之進正代

 

 安岡恒之進も文久二年(1862)住吉陣屋内で麻疹に罹患して大阪にて死亡。兄弟に安岡権馬、覚馬がいる。その血統から作家安岡章太郎を生んでいる。

 

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丹波

2019年12月14日 | 兵庫県

(進修小学校)

 

                       

進修小学校

 

 

學田之碑

 

 丹波市春日の進修小学校は、その前身が明治六年(1873)に設立され、明治二十年(1888)に進修小学校と改名された。どの子も学校に行けるようにと百人を超える村人が田畑や金を寄付して授業料を無料にした。そのことを記念して明治二十九年(1896)に學田之碑が建立された。撰文は重野安繹(漢学者・歴史家)、篆額は西園寺公望。

 

(西光寺)

 手元の「史跡リスト」によれば、丹波市氷上町の西光寺には生野の変に参加した片山九市(変名・木村愛之助)の墓があるとなっている。しかし、自分でこのリストを作成しておきながら、この情報の出元が分からず真偽を確かめることができない。半信半疑のまま西光寺を訪ねた。西光寺は一見したところ寺院というより公民館のような雰囲気で、近くに墓も見当たらない。少し離れた山裾に墓地を発見したが、「足立家」と「安田家」ばかりで、片山家の墓は一つも見つけられなかった。完全に空振りでした。

 

 

西光寺

 

 

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篠山 Ⅱ

2019年12月14日 | 兵庫県

(上板井)

 

                       

伊能忠敬笹山領測量の道④

 

 文化十一年(1814)二月五日、伊能忠敬測量隊は早朝より百三十一人の労役村民を従えて北野新村から京都街道を測量して宮田村に入り、国料村へ通じる分岐点に杭を打ち込んだ。ここから北上して、丹後の成相寺に向かう巡礼道の街道筋にあたる板井村、左に川内多々奴比神社、小坂村まで測量し、二月朔日、国料村で杭を打ち込んで佐仲峠につなげた。京都街道に戻って笹山城下に向かった。

 

(追入)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑤

 

 篠山市の誓願寺門前で加賀尾会長と落ち合い、最初に向かったのが追入(おいれ)の石碑である。

 道すがら十二もの石碑を建てたご苦労を伺った。石碑を一つ建てるだけでも大変なことだが、まず古い絵図から場所を特定し、土地の持ち主と交渉する手間まで、気の遠くなるような作業である。土地には国有地、市有地、私有地があって、国有地に建てるのは絶望的に難しいらしい。私有地の場合は、土地の持ち主が快諾してくれれば比較的話は早い。追入の石碑も私有地であったが、隣接する土地の持ち主が了解してくれたためこの場所に建てることができたという。追入は丹波から峠を越えて笹山に入ったときに最初に出会う宿場である。

 伊能忠敬測量隊が栢原から金ヶ坂峠まで測量して追入村に入ったのは、文化十一年(1814)二月三日。昼食後、ここから二月朔日、国領村で杭を打ち込んだ追入峠まで測量。同村にて止宿して夜は展開観測。

 翌日は早朝百三十一人の労役村民を従えて出発。神田神社、北野新村に入り、大阪・京都街道の分岐点に杭を打ち込んだ。引き続き大阪街道を南下して測量。止宿は北野新村。夜は天体観測。

 

(大沢)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑥

 

 大沢一丁目のガソリン・スタンドの北側の空き地の一画にこの石碑が建てられている。

 伊能忠敬測量隊が大沢に至ったのは、文化十一年(1814)二月四日のこと。百三十一人の労役村民を従えて、北野新村から大阪街道を南下し、一ノ瀬川に架けられた仮橋二十一間を渡り、古佐村に入った。

 一ノ瀬川の向こうに丹波少将屋敷跡を認めた。味間村の皆川を渡り、新村の立場、大沢村に入り、大阪・笹山街道の分岐点に杭を打ち込み、その日の測量を終えた。同所で昼食後、測量することなく北野新村まで引き帰り止宿した。夜は天体観測。

 

(今田)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑦

 

 今田(こんだ)小学校の正門西側に石碑がある。文化八年(1811)三月八日、伊能忠敬測量隊は上鴨川から笹山領に入り、青山下野守木津村、立杭村を測量して昼食をとった。

 文化十一年(1814)二月七日、早朝より百三十一人の労役村民を従えて、古市の清水寺街道の杭から測量を開始し、不来坂峠、小野原村、市原村枝今田、木津川の土橋六間を渡り、市原村の宿舎まで測量した。それより播州との国境を越えて清水寺まで測量した。その夜は天体観測。

 

(草野)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑧

 

 武庫川にかかる草野大橋西詰北側に石碑がある。加賀尾会長によると、この石碑の位置は実際に伊能忠敬一行が通った場所からかなり離れているらしいが、あまりに往来から離れているため、JR草野駅に近いこの場所に石碑を建てることになったそうである。

 笹山城下から大沢村を測量した伊能忠敬測量隊十名が犬飼村に入ったのは文化十一年(1804)二月六日。昼食後、大阪街道を測量し南下、右に二村神社、古市の街道分岐点に杭を打ち込んで止宿。翌七日は杭の地点から清水寺街道を播州との境まで測量した。八日は同じ杭から大阪街道を測量し、日出坂峠を越え藍本に止宿した。

 

(宇土)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑨

 

 この石碑は宇土観音に向かう途中に建てられている。

 伊能忠敬測量隊十名が宇土村に入ったのは文化十一年(1814)二月六日。笹山城下から百三十一名の労役村民を従え、渡瀬をわたり、東吹村、城山の西裾を通過した。槇ヶ峰の北裾に沿って杉村を測り、前々日に北野新村から測量して打ち込んだ大沢村の大阪・笹山街道の分岐点の杭につなげた。測量は毎日百三十一人がその役に当たり、岩崎組では六日は五十一人、七日は三十人が出役している。

 

(糯ヶ坪)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑩

 

 糯ヶ坪(もちがつぼ)の八上小学校の向かい側、高城会館の前に石碑が建てられている。文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊一行は、大芋川の京橋二十間を渡り、京都街道に沿って池上村、八上下村、八上内村立場、八上上村、右に高城山古城跡、波多野右衛門太夫秀治の居城を経て、八上新村に向かった。当日の測量には、八上組から五十一人が協力し、うち二十一人が梵天持ち、小多田組からは四十人が出役した。

 

(日置)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑪

 

 文化十一年(1814)二月十一日、伊能忠敬測量隊十名は、早朝より百三十一人の労役村民を従えて笹山城下二階町から京都街道を八上新村まで測量。大庄屋波部六兵衛宅で昼食をとった。五十宮八幡宮、磯宮寺まで測量し参拝。境内では足利尊氏立願による名樹の裸框を見聞。ここから街道筋を六本柳、波々伯部八ヶ村鎮守の祇園社・祇園寺と京都街道を測量し、飛曾山坂を越えた。

 

(福住)

 

 

伊能忠敬笹山領測量の道⑫

 

 篠山に入って最初に訪ねたのが福住である。福住は昔の街道上の街で、今も伝統的建造物保存地区に指定されており、風情ある昔の建物が軒を並べている。

 伊能忠敬が福住を訪れたのは文化十一年(1814)二月十一日のこと。測量隊十名は、早朝より百三十一人もの労役村民従えて城下二階町を出発、京都街道を測量した。飛曾山坂を越え、小野奥谷村、安田村、福住村駅場測定所前に杭を打ち止め、八つ時頃同村に到着し、本陣庄屋山田嘉右衛門宅に宿泊した。翌日も同じく百三十一人を従えて出発し、川原村、亀山領安口村、西野々村、岩坂峠郡界を測量して上天引村へ向かった。

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