史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「山岡鉄舟先生正伝 おれの師匠」 小倉鉄樹炉話 石津寛・牛山栄治手記 ちくま学芸文庫

2021年10月30日 | 書評

本書の原本は、山岡鉄舟のもとに内弟子として近侍した小倉鉄樹が語った話を、その弟子である石津寛が清書して出版を企画していた「おれの師匠」である。石津が急逝し、出版が危ぶまれているところを、遺族から遺稿を託された大学教授牛山栄治が、一部補筆して出版に漕ぎ着けたのが本書というわけである。そういった経緯があるため、三人の名前が著書として並ぶことになった。

石津寛の遺した原稿は完全なものではなかったので、牛山の調査研究や見解も反映されている。牛山はほかに「山岡鉄舟の一生」「春風館道場の人々」「定本 山岡鉄舟」などの著書もある鉄舟研究家である。

結果、どこからどこまでが鉄樹の話で、石津が補筆した部分がどこで、牛山が何を書き加えたのか、必ずしも明確ではない。

鉄樹によれば、世に鉄舟伝を称する書籍が数多あるが、いずれも正確ではない。信用できない。言外に本書こそが真に鉄舟の姿を伝える決定版だと胸を張る。

歴史学上の史料としては使えないのだろうが、鉄舟の近くで見ていた人ならではの貴重な証言が散りばめられているのが本書の魅力である。

西郷隆盛の「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬ」という名言は、山岡鉄舟を念頭にしたものといわれる。確かに鉄舟は、名声や地位、金銭にまったく頓着しない人であった。鉄舟の人柄は本書の節々から伝わってくる。

鉄舟が宮内省を辞めた頃、井上馨が勅使として山岡家に下向し勲三等を下されたことを伝えた。鉄舟は堅く辞退し、井上と激論となった。鉄舟がいうには井上が勲一等で自分が勲三等とは間違っている。井上などは「ふんどしかつぎ」に過ぎない。「維新の大業は、おれと西郷と二人でやったのだ。おまえさんなんか、その下っ葉に過ぎないじゃねえか。」と強烈な言葉を浴びせた。当然ながら、井上と鉄舟は激論となった。鉄樹老人はその部屋の押し入れに潜んでこのやりとりを聞いた「実話」だという。

本当にこのようなことを鉄舟が言い放ったかどうかは不明であるが、真実とすれば鉄舟の自負が伝わるエピソードである。確かに鉄舟は名声や地位に執着はなかったし、江戸無血開城の功を勝海舟に横取りされても平然としていた。しかし、自分が命をかけて実行してきたことには強烈な自負を持っていたことが伺われる。

鉄舟は「剣と禅」を窮めた。私は剣道も座禅もやったことがないので、これを窮めたら鉄舟のような「仕末の困る人」ができあがるのかさっぱり理解できていないが、鉄舟が相当「剣と禅」に打ち込んだのは間違いなさそうである。自分でいうのも何だが、私は比較的物欲も名声や地位に対する欲も少ない方だと思うが、「人間の品」という目でみれば、全然鉄舟の足もとにも及ばない。それは「道を窮めた」という実績がないからなのかもしれない。

本書のもう一つの読みところは鉄舟の大往生のシーンである。良く知られているように鉄舟は結跏趺坐して臨終を迎えた。気息奄々として、厠にたつにも介添えが必要な状態の人間が、結跏趺坐のまま臨終を迎え、しかも絶命後もその姿勢を保ち続けるなんてことが現実に可能なのだろうか。しかし、門人中田誠実なる人がその姿を写した「鉄舟先生坐脱の図」なるものが残っていて、鉄樹老人は「よくできている」と評している。その一事をもってしても、この人は超人だったのであろう。

 

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「燃えよ剣」 司馬遼太郎原作 原田真人監督・脚本

2021年10月30日 | 映画評

映画封切りの日、家族四人で見に行くことになった。個人的には実に久しぶりに映画館で映画鑑賞となった。

ひと言でいうと「カッコいい」。もちろん司馬遼太郎原作の土方歳三もカッコいいのだが、それをそのまま映像化したという印象である。もともと男前の役者がカッコよく演じるのだから、カッコ良くないはずがない。原作でも映画でも、お雪という女性と七里研之助という、いずれも司馬遼太郎の創作の人物が重要な役回りを演じている。

一方で創作の人物ではないが、本田覚庵(現・国立市出身)とか中島登(現・八王子市西寺方町出身)、外島機兵衛、ブリュネといったマイナーだが多彩な人物も登場し、歴史フアンあるいは新選組フアンをうならせる内容となっている。新選組にしても、幕末の歴史にしても、その魅力を突き詰めれば多様な人物群ということになる。どうしても登場人物は多くなってしまうが、人間を描けば描くほど、映画を観ている人にとって複雑で分かりにくくなってしまうのは避けられない。

新選組六年間の歴史をわずか二時間半の上映時間に詰め込むというのが、そもそも無理があるのかもしれない。ストーリーの展開はかなり駆け足で、芹沢鴨の暗殺とか、池田屋事件、油小路の変といったお約束ごとはそれなりに丁寧に描かれているが、それ以外はかなりのハイスピードで進行する。従って、その空白を埋める歴史的知識を持っていない観客は置いてきぼりを食ってしまう。あとで嫁さんや娘たちに聞いてみたが、「何とかついていけた」ということだったが。

個人的に面白かったのは、村本大輔という漫才師演じる新選組監察山崎烝である。もちろん脇役に変わりはないが、独り言を早口で話す特異なキャラクターを村本が存在感たっぷりに演じていた。お笑い芸人には演技をやらせても達者な人が多い。こういうキャスティングは悪くない。

なお、池田屋事件で山崎烝が池田屋に潜入し、予め浪士たちの刀を預り、戦闘能力を奪ったとか、中から鍵を開けたというエピソードは広く知られているが、どうやら史実とは異なるらしい。少なくとも事件後の褒賞者名簿に山崎烝の名前は無い。

井上源三郎は白髪の老人として登場する。井上源三郎というと、試衛館組でも「長老」というイメージが定着しているが、亡くなった時点で三十九歳であって、決して老人ではない。さすがに耄碌しかかった老人という設定は無理があるのではないか。

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千曲 Ⅱ

2021年10月23日 | 長野県

(屋代)

 

明治天皇御小休所趾

 

明治天皇屋代御小休所

 

 千曲市屋代の町の中、やはり旧北国街道沿いに明治天皇の小休所跡碑が建てられている。雑草がボウボウと伸びており、石碑が半ば隠れるほどである。かつて明治天皇聖蹟碑は、三百七十七件が史蹟名勝天然紀念物保存法によって史蹟に指定されていた。戦後、新憲法の精神にそぐわないとされて一斉に解除されたが、全く手入れもされず放置されている現況を見ると悲しいものがある。

 

(戸倉)

 

明治天皇行在所阯

 

 戸倉の旧北国街道(現・国道18号)沿いにも明治天皇の小休所跡碑が建てられている。

 

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信濃

2021年10月23日 | 長野県

(野尻湖)

 

野尻湖

 

 野尻湖は、ナウマンゾウの化石が発見されたことで有名。夏はマリンスポーツ、冬はワカサギ釣りの観光客で賑わう。

 

明治天皇野尻御小休所阯

 

 野尻宿は、北国街道上にあって信越国境に位置する重要な宿場であった。北国街道は佐渡の金銀を江戸に運ぶ輸送路にあたり、安養寺境内には御金蔵があって、柏原、古間、野尻の三宿の村役人が御金荷の警固を務め、牟礼宿まで運んだ。

 天明年間の記録によれば、野尻宿には公用通行人に人馬を提供する七十六軒の伝馬屋敷があり、その両側には土手が築かれていた。宿場の中心部には間口の広い馬役の屋敷が並び、旅籠屋も十軒余りを数えた。

 旧北国街道沿いには、明治天皇の小休所跡碑、御膳水碑が残されている。小休所は、野尻宿の名主が営業する旅籠跡に当たる。

 

明治天皇野尻御膳水

 

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飯綱

2021年10月23日 | 長野県

(平出)

 

北陸御巡幸御野立之處

 

 飯綱町を南北に旧北国街道が貫いており、平出(旧・鍛治久保地区)で、明治天皇が野立のため小休をとった跡地に石碑が建てられている。周囲はかなりの丈の雑草で覆われていて、碑に近寄るのに苦労した。

 

(小玉)

 

黒柳清八頌徳碑

 

 小玉地区にも約五キロメートルにわたって旧北国街道が通じているが、途中から未舗装道路になる。自動車でも行けないことはないが、轍が深く、常に腹を擦りながら走ることになる。雨でぬかるんでいる場合はやめておいた方が良いだろう。

 しばらく走ると黒柳清八頌徳碑に出会う。清八は、天保十年(1839)にこの地にあった茶屋で生まれ、鎌鍛冶(かまかじ)業をおこした人物である。

 

北陸御巡幸御野立之趾

 

 さらに未舗装道路を北上すると、左手に明治天皇の野立所跡がある。明治十一年(1878)九月十日、この場所で北陸巡幸の途中、明治天皇一行が休憩をとった。「清水窪御野立」とも呼ばれる。石碑がある場所に天皇が使う玉堂が設けられ、その左手に右大臣岩倉具視らの随行員用に「随行員棟」が建てられた。

 

 

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長野 Ⅵ

2021年10月23日 | 長野県

(信濃教育会館)

 

明治天皇行幸之処

 

 信濃教育会館の前に明治天皇の行幸を記念した石碑が建てられている。

 

(信州大学長野キャンパス)

 信濃教育会館の東側の道を北上して国道408号線と交わる交差点の北西に信州大学長野キャンパスが広がる。交差点に面して明治天皇行幸之処碑が建てられている。

 

明治天皇行幸之処

 

(康楽寺墓地)

 東町の康楽寺の墓地は、四キロメートルほど離れた三輪八丁目にある。そこで国学者岩下桜園の墓を探したが見つけられなかった。岩下家の墓所は発見したのだが、桜園の墓と特定できるものがなかった。長野でもこの日は体温を上回る気温を記録する猛暑日で、さすがに日陰のない墓地を長時間歩く気力、体力を奪われた。いずれ再挑戦したい。

 

岩下家墓所

 

 岩下桜園は享和元年(1801)の生まれ。十九歳のとき、名古屋に出て信濃出身の塚田大峯に師事。さらに京都で頼山陽に詩文を学び、江戸では清水浜臣に国学を学ぶ傍ら、伴信友、黒川春村、寺門静軒らと交わった。帰郷して善光寺の歴史書である「芋井三宝記」「善光寺史略」「善光寺別当伝略」等を続々と著わした。慶應三年(1867)、年六十七で没。

 

(立町)

 この場所には、明治十一年(1878)から十九年間にわたって松本裁判所長野支庁があった。裁判所は花咲町に移転し、この場所は書籍商西澤喜太郎に譲り渡された。ここにも明治天皇の行幸を記念した石碑が建てられている。

 

明治天皇行幸之処

 

(健御名方富命彦神別神社)

 善光寺の東側は、県立美術館や城山公園、長野清泉女学院などが密集する文教地区となっている。その一画に健御名方富命彦神別神社(たけみなかたとみのみことひこかみわけじんじゃ)という長い名前の神社がある。

 

健御名方富命彦神別神社

 

健御名方富命彦神別神社扁額

 

 鳥居には有栖川宮熾仁親王筆による扁額が掲げられている。神殿の扁額は光仁天皇の勅額である。

 

千曲川改修起工碑

 

 境内にはいくつかの興味深い石碑がある。千曲川改修起工碑と明治天皇駐輦之碑は、とりわけ巨大な石碑である。写真ではその大きさが伝わらないのが残念である。

 千曲川改修起工碑は、大正八年(1919)四月の建碑。時の内大臣後藤新平の篆額。

 千曲川は、大雨のたびに氾濫し、流域では洪水の災禍に悩まされていた。大正六年(1917)、長野県が調査立案した千曲川改修計画は、十ヶ年の継続工事として事業決定された。それを記念してこの石碑が建立されたものである。

 

明治天皇駐輦之処

 

高橋白山頌徳碑

 

 高橋白山は、天保七年(1836)、高遠藩儒高橋利常確斎の長男に生まれた。十六歳で藩学進徳館の助教となり、文久年間には藩の公子に侍して江戸に行き、藤森天山の教えを受け、鷲津毅堂、大沼枕山らと交わった。維新時には、高遠藩の藩論が定まらないのを嘆いて、大いに論じたため同藩の長尾無墨らとともに追放の身となり、医師となった。維新後、教部省からの招きを断って、私塾を開いて子弟に教授した。永山盛輝が筑摩県令として着任すると、師範学校の教授となり、永山が新潟県令に転じると、これに従って新潟に赴き、中学校の教授となった。辞職後、小諸に移って子弟の教育にあたった。明治十九年(1886)、長野師範学校教諭となったが、明治三十二年(1899)、病のため退職。以後は詩文を友として悠々自適の時間を送った。明治三十七年(1904)、年六十九で没。

 この頌徳碑は、明治三十年(1897)二月に、岡千仭撰文、日下部東作の書により建てられた。

 

常山山寺先生之碑

 

 山寺常山の顕彰碑は、長岡護美による撰文および書。建碑は「甲申春」とあるので、明治十七年(1884)と思われる。

 

(田子)

 明治十一年(1878)九月十日、八時二十分頃、北陸御巡幸中の明治天皇が当地で小憩をとった。一行は右大臣岩倉具視以下文武百官合わせて一千人を越える大行列であった。田子の池田元吉は、敷地四百八十三坪に総檜造り、菊花紋章入りの瓦葺きの小休所を立てた。大門には、飯山城の裏門を、千曲川を船で運んだという。

 

明治天皇田子御小休所

 

田子神社

 

明治天皇田子御膳水

 

 旧北国街道沿いの田子神社参道前に明治天皇御膳水の碑がある。田子神社境内の鎮守の森の傍らから清水が湧いて小川となって流れ出している。この湧水は、明治十一年(1878)、明治天皇の北陸巡幸の折に御膳水として供されたことから、記念碑が建立された。

 

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長野 Ⅴ

2021年10月23日 | 長野県

(軻良根古神社)

 

軻良根古神社

 

 篠ノ井の軻良根古(からねこ)神社には、明治十一年(1878)、明治天皇の巡幸に際し、千曲川の舟橋を渡るため馬車から板輿に召し換えて川を渡り、この場所で再び馬車に乗ったことを記念して建てられたものである。西郷従道の書。

 

明治天皇御召換之處

 

(南原公民館)

 

明治天皇原御小休所

 

明治天皇原御小休所

 

 川中島の南原公民館の前に明治天皇小休所石碑が二基建てられている。明治十一年(1878)九月八日、明治天皇が善光寺に向かって巡行中、この地で小休をとったことを記念したものである。

 

(大久保家)

 南原公民館から旧北国街道に出て蓮香寺近くの大久保家の前にも御膳水碑がある。

 

明治天皇原御膳水

 

(丹波島宿)

 

丹波島宿本陣柳島家

 

 本陣柳島家は、武田信玄の家来として松代に入封し、川中島の戦いののち、目まぐるしく代わる松代城主の下で物見役を務めた。柳島家三代柳島太郎左衛門政雄が、慶長十五年(1610)、松代城主松平忠輝の補佐役大久保長安に命じられ、北国街道丹波島宿開設と本陣役を務めた。当時、二百石の知行を受け、間口・奥行六十間の敷地を与えられた。

 門前には明治天皇御小休所の石碑があり、さらに住居裏には有馬良橘筆の明治天皇御駐輦趾碑が建てられている。

 

明治天皇御小休所

 

明治天皇御駐輦之址

 

 本陣柳島家から少し離れているが、こちらは問屋を勤めた柳島家である。脇本陣を兼ねていた。今も残る冠木門は、松代藩廃止後、払い下げを受けて移築したものである。

 

明治天皇丹波島御膳水

 

 門前に明治十一年(1878)の巡幸の際、御膳水を提供したことを記念した石碑が建てられている。

 

高札場跡

 

 北国街道丹波島宿は、幕府と松代藩の二重支配下にあり、松代藩内に四十一ヶ所あった高札場の中でも重要なものであった。往時高札場があった場所に高札場が復元されている。

 

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松代 Ⅷ

2021年10月23日 | 長野県

(象山神社つづき)

 平成三十年(2018)に象山神社境内に「松代藩八代藩主真田幸貫公・佐久間象山先生並びに象山先生門下生の銅像」が建立された。予てより再訪したいと思っていたが、今回ようやく訪ねることができた。早朝四時過ぎに家を出て、六時半くらいに松代に到着した。

 

佐久間象山像

 

真田幸貫像

 

 真田幸貫は、松代藩八代藩主。藩政改革を指揮するとともに、老中として天保の改革の一翼を担った。佐久間象山を見出し、引き立てたのも幸貫の功績である。

 

橋本左内像

 

勝海舟像

 

 象山は海舟の妹順子を娶ったため海舟と象山は義兄弟という関係にあった。号「海舟」は象山の「海舟書屋」から採った。

 

小林虎三郎像

 

 小林虎三郎は、長岡藩士。二十三歳のとき、象山塾に入門し、松陰と並んで「象門の二虎」と称された。「米百俵」の逸話で有名。

 

坂本龍馬像

 

吉田松陰像

 

 銅像は、向かって左から、橋本左内、坂本龍馬、勝海舟と並ぶ。幸貫公と象山の立像を挟んで、吉田松陰、小林虎三郎と続く。さらに象山を訪ねて松代まできた久坂玄瑞、高杉晋作、中岡慎太郎という三名の肖像がレリーフとなった碑が添えられている。象山の先見性、そして彼の見識を慕ってその時代を象徴する多くの人材が彼のもとに集まったことを示している。しかし、象山は尊大で他人を見下す傾向があったため敵も多かったといわれる。元治元年(1864)七月、象山が京都で横死した際、藩内では同情する者が少なく、佐久間家も断絶となった。

 

久坂玄瑞・高杉晋作・中岡慎太郎のレリーフ

 

望嶽碑

 

 天保十二年(1841)の夏、象山三十一歳の時の詩で、桜賦と並び称される象山の代表作である。富士山の気高く、優美な姿を讃えて、自分の理想と抱負をこれに寄せたものである。この石碑は、明治二十三年(1890)、象山と義兄弟の誼を結んだ村上政信が、象山直筆の碑文を彫って、その邸内に建てたものである。長らく行方知れずとなっていたが、東京杉並高円寺の修道院内にあることが判明し、昭和四十八年(1973)に当神社に移設された。

 

桜賦碑

 

 桜賦は万延元年(1860)春、象山五十歳の作。孝明天皇の天覧を賜った由緒ある名文である。桜花の美徳をたたえて憂国の至情をこれに託し、人に知られぬ山の奥に散りゆく桜の花を自分にたとえ、ひそかに勤王の志を述べた韻文である。この碑文は、象山自筆の紙本から複製したもので、昭和五十一年(1976)、篤志家の寄進によって建碑された。

 

佐久間象山先生

 

 象山神社の門前にも凛々しい騎馬姿の象山像がある。

 

(法泉寺)

 「明治維新人名辞典」によれば大里忠一郎の墓が法泉寺にあるというので、法專寺を再訪した。大里忠一郎の墓は、本堂裏の墓地の奥の方にあったが、半ば忘れ去られているような状態で、蔓草に被われている。

 

大里忠一郎之墓

 

大里忠一郎 大里千尋子 墓

 

 大里忠一郎は、天保六年(1835)の生まれ。維新の初め藩命を帯びて大垣に出て、東山道先鋒総督岩倉具定に謁し、ついで甲府・北越に輜重の任を果たし、明治二年(1869)十二月、賞典禄二十六石を下賜された。廃藩後、士族授産に心を用い、蚕桑の業を勧誘し、明治六年(1873)には西条村に製糸場を設け、座繰製糸で製品の質が悪いのを遺憾とし、蒸気製糸に改めようと、上州富岡に工女を派遣して伝習させた。明治十五年(1882)、松代に六工社を建設し、考案した蒸気罐を装置して、我が国養蚕製糸業界に貢献した。明治二十二年(1889)、農商務省の委嘱により埼玉県の木村九蔵、群馬県の田中甚平らと伊仏両国を巡視して帰朝、大日本農会農芸委員を嘱託され、各地で講演して蚕業の発展を図った。明治二十四年(1891)、藍綬褒章を賜った。明治二十六年(1893)三月、業務一切を甥羽田桂之助に譲った。明治三十一年(1898)、年六十四にて没。

 

(大英寺)

 大英寺に松代藩家老河原均の墓を訪ねた。大英寺には河原家の墓所が二か所あるが、河原均の墓があるのは本堂から遠い方である。

 

大英寺

 

贈正五位 正定院殿均譽大仁居士

(河原均の墓)

 

 河原均は、文政五年(1822)の生まれ。父は松代藩重臣河原綱徳。奏者番頭、中老を経て、元治元年(1864)、家老に進んだ。慶應四年(1868)三月、旧幕府軍古屋作左衛門の率いる一隊が越後を経て信濃に入り、飯山城に拠りさらに松代に侵攻しようとした。松代藩では家老大熊衛士が藩兵六百を率いて甲府を守っていたため、藩には兵が少なかった。藩論は勤王に決し、藩主真田幸民の命を受けて、河原は飯山表でこれを破った。のち藩の統括隊長に任じられ、藩兵千七百余を指揮して越奥の間に転戦して大功があった。凱旋ののち、総督府の召により京都に入り、十一月十一日、明治天皇は特に召して謁を許し、酒肴を賜り「久々之軍旅励精尽力速やかに東北平定之功を奏候段、叡感不浅候、今般凱旋に付不取敢為御太刀料金百両下賜候事、十一月、行政官」との沙汰を下された。戦役の功により藩主幸民は賞典禄三万石を賜り、この中から五〇石を割いてこれを河原に与えた。明治二年(1869)九月、松代藩権大参事となり、廃藩置県の後も当職にあった。明治七年(1874)、家督を嗣子綱正に譲った。明治二十一年(1888)、年六十七で没。

 

(本誓寺)

 本誓寺は、大英寺と背中合わせになっており、墓地を通じて接している。大英寺に続いて本誓寺の墓地を歩いた。

 

本誓寺

 

金児家之墓

 

 本誓寺での目当ては、金児忠兵衛の墓であった。隈なく歩き回ったが、金児忠兵衛の墓を特定することはできなかった。金児家の墓は、一つだけだったので、この周辺に並ぶ墓のどれかが忠兵衛の墓だと思うのだが…。

 金児忠兵衛は文政元年(1818)の生まれ。父貞賢の厳格なる薫陶を受け、十四歳にして近郷の幟に揮毫した。また弓馬槍剣の術から謡曲に至るまでいずれもその蘊奥を究めた。二十四歳のとき、藩主真田幸貫の近習となり、伊豆韮山代官江川坦庵(太郎左衛門)について西洋砲術を学んだ。数年の後、帰藩して砲術師範役を命じられた。再び江川塾に至り幸貫の命により十五栂忽砲および二十栂臼砲、その他数門を鋳造し、また弾丸、砲銃の改良を図り好成績を得た。忠兵衛の名声が上がり、各藩競って大砲の鋳造を請い、子弟のその門に入る者少なくなかった。戊辰戦争には病を押して藩主に従軍を請い、許されて越後の新井駅において藩兵に会し、長岡を破り、ついで会津若松城を囲んだ。この時、忠兵衛は城東小田山に塁を設け城中を臨んで砲撃、見事命中して楼櫓を破砕し、遂に会津を降伏させた。政府軍はその砲術の精妙なのを見て感嘆しない者はなく、薩長の兵すら及ばないことを知り、「赤蝮に翼の生じたる如し」と形容して松代藩兵の勇猛を激賞した(六文銭の紋を蝮に例えたものという)。明治二十一年(1888)、年七十一で没。

正三位勲一等小松謙次郎墓

 

 本堂の裏に小松謙次郎の墓がある。小松謙次郎は松代藩士横田数馬の二男。同藩士小松政昭の養嗣子となって小松家を継いだ。明治二十一年(1888)、東京帝国大学法学部を卒業し、通信省に入省。局長時代の功績により「通信の父」と称された。大正十三年(1924)、鉄道大臣となり勲一等瑞宝章を受章した。貴族院議員に勅選。昭和七年(1932)、年七十で没。

 東京青山霊園に葬られたが、平成二十七年(2015)、本誓寺に移葬された。

 

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登戸

2021年10月16日 | 神奈川県

(丸山教本庁)

 登戸駅(JR南武線・小田急線)から徒歩で十分ほどの場所に丸山教教務本庁、丸山幼稚園がある。駅でいえば向ヶ丘遊園駅の方が近いかもしれない。丸山教は、当地出身の伊藤六郎兵衛が開いた神道系の宗教である。

 

丸山教教務本庁

 

 伊藤六郎兵衛は、文政十二年(1829)、稲田登戸村の農家に生まれ、同村の地主伊藤家を継いだ。同村には富士信仰の丸山講があり、六郎兵衛は、大病を契機に富士信仰を深め、嘉永六年(1853)以降、修行を重ねて丸山講先達となった。明治六年(1873)、仙元信心を日の丸信心に展開して丸山教を興した。丸山教の教義は、富士の神元の父母から授けられた一分の心を丹精し、この信仰を広めて天下泰平・五穀成就の日の出に松の御代を実現することであり、病気治し等を通じて関東・東海地方で布教した。六郎兵衛は、生き神行者として評判を得たが、政府の禁圧を受けた。布教活動を合法化するため、明治八年(1875)、富士一山教会(のち扶桑教)と合同して、その参元職に就いた。明治十八年(1885)、丸山教は扶桑教を離れて神道事務局に属し、六郎兵衛は大教正となった。明治二十七年(1894)、年六十六にて没。

 

ご法聖地

 

金長光海之天上霊心(伊藤六郎兵衛の墓)

 

 丸山教教務本庁の隣接地、光明院の敷地に接するように「ご法聖地」と呼ばれる場所がある。教祖伊藤六郎兵衛が、丸山教の大本「一分心より万灯開き」のひな型として、明治二十二年(1889)に「ご法塔」を建立したのが、その端緒となっている。

 

(稲荷神社)

 丸山教本庁近くにある稲荷神社境内にいくつか石碑がある。一つは乃木希典による明治三十八年役記念之碑で、その横には伊藤六郎兵衛撰文および書による忠魂碑がある。また「大神の御髪の屋根替えにけり」と刻まれた句碑も同じく伊藤六郎兵衛の名前となっているが、建碑は昭和となっており、丸山教祖の六郎兵衛とは別人であろう。

 

稲荷神社

 

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綱島

2021年10月16日 | 神奈川県

(大綱橋)

 

ラジウム霊泉湧出記念碑

 

 東急東横線綱島駅は、かつて綱島温泉駅と呼ばれた。今となってはこの場所に温泉があったなどといわれても信じられないが、大正三年(1914)、大綱村の菓子商「杵屋」加藤家の井戸から赤黒い水が湧出した。赤い水を発見したのは北綱島村の豪農飯田助大夫(十一代)であった。著名な薬学博士の田原良純が赤水を検査したところラジウム(ラドン)が検出され、鉱泉と認定された。その後、綱島地区でも鉱泉が掘られ、大正六年(1917)には、鉱泉を沸かして温泉化し、最初の温泉旅館が開業した。昭和元年(1926)綱島温泉駅が開業し、次々に旅館が建てられ、最盛期には八十軒を超える「東京の奥座敷」となった。

 

(飯田家)

 

飯田家住宅

 

 綱島台にある飯田家住宅である。主屋と表門の二棟が、江戸時代後期の建築と推定されており、横浜市の指定有形文化財となっている。

 飯田家は、旧北綱島村の旧家で、代々名主を務め、荒地の開墾、農業の振興、鶴見川改修などに尽力した。

 幕末から明治の当主飯田助大夫は、文化十年(1813)の生まれ。天保六年(1835)、飯田家を継ぎ、翌七年(1836)、九代助大夫義儔が死去すると、十代助大夫を襲名して村名主にあげられた。ついで綱島寄場大惣代に推され、慶応年間には都築郡内二百余町歩の荒蕪地開墾事業を完成。また、都築、橘樹両郡四十八ヶ村の代表者として明治元年(1868)、農兵隊を組織してその隊長となった。戊辰戦争時には政府軍の糧食御用を命じられた。その後、茶、果樹の栽培、天然氷の製造などを手がけた。明治二十八年(1895)、年八十三で没。

 

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