(田彦中卵塔共同墓地)
この日は、大洗総合運動公園で野球の練習試合があった。せっかくの機会なので、試合の前にひたちなか市内の史跡を回ることにした。早朝、四時に起床して六時半にはひたちなかに到達した。最初の訪問地は、田彦の共同墓地にある宇都宮藩士の墓である。実は田彦中卵共同墓地を探して、一度この付近をウロウロしたことがあるが、探し当てることができなかった。田彦中卵共同墓地は、国道二百四十六号線から、信号の無い交差点を左折してすぐの所にあり、極めて分かりにくい。
宇都宮藩士之墓
元治元年(1864)天狗党の鎮圧のため、幕府は関東諸藩に対して追討を命じた。同年九月、田彦に宿陣する宇都宮藩兵と天狗党とがこの地で激闘を展開し、田彦はたちまち火の海に襲われた。この戦闘で宇都宮藩士九名と役夫一名が戦死。彼らを葬った墓である。
(中根堂山共同墓地)
福島藩士の墓
中根堂山共同墓地には、元治甲子の乱の際、幕府軍の援軍として派兵された福島藩士の墓がある。元治元年(1864)十月、部田野での戦争は、天狗党の内乱でも激戦の一つとなった。中根城跡には、福島藩兵、二本松藩兵が駐屯していた。この戦闘で戦死した彼らの墓であるが、実は何名が戦死したのか判然としない。
(水車場跡)
史跡 水車場跡
徳川斉昭は、海防の重要性を唱え、自藩で大砲を鋳造するため反射炉を建設した。反射炉で鋳造された円柱状の砲身は、那珂川沿岸の柳沢まで運ばれ、この地で水車を動力として砲身に穴を開ける作業が行われた。水車場は安政二年(1855)に着工され、翌年完成した。十数門を穿孔したと言われるが、やはり元治元年(1864)の騒乱で破壊焼失してしまった。
(浄光寺)
浄光寺
那珂湊の戦いで敗れた諸生党が浄光寺に逃げ込み、それを追った天狗党勢の攻撃に耐え切れず、寺に火を放って敗走した。これにより浄光寺は全焼したという。
元治甲子乱戦死墓
部田野の戦闘で戦死した福島藩士の墓である。
(和田水門帰帆碑)
水門歸帆碑
斉昭は、天保四年(1833)に領内を巡回したとき、八つの景勝地を選定して水戸八景と名付けた。斉昭は、自然鑑賞と健脚鍛錬を目的に藩士に八景巡りを勧めた(言ってみればウォークラリーである)。その一つとして、太平洋を望む和田の高台に「水門帰帆」の碑が建てられた。勿論、隷書体の碑文は斉昭の筆である。
水戸八景
徳川斉昭作
雪時嘗で賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺の晩鐘幽壑に響き
太田の落雁芳洲を渡る
花香爛漫岩舟の夕べ
月色玲瓏たり広浦の秋
遥かに望む村松青嵐の後
水門の帰帆高楼に映ず
(樫原神社)
樫原神社
樫原神社はちょっとした高台にある。那珂湊における戦闘では、大発勢がここに陣を敷いた。
(聴法寺)
聴法寺
筑波勢本陣跡
聴法寺本堂前の植え込みの中に「筑波勢本陣跡」と記された石碑が建てられている。
元治元年(1864)八月、天狗党諸隊は、聴法寺を本陣とした。藤田小四郎、竹内百太郎、飯田軍蔵といった諸将は寺山に布陣。寺山とは彼らの呼称で、聴法寺墓地周辺の地域のことを指す。
(観濤所)
観濤所
斉昭が水戸領内を巡視して水戸八景を選定した頃、この地を訪れた斉昭が雄大な景色に感動して、水戸藩内随一の波浪の見所として「観濤所」と命名した。言わば、水戸八景の番外編である。
昭和十年(1935)に風化から守るために石造の碑覆堂が設けられた。碑には斉昭直筆の隷書が刻まれている。
平磯海岸
観濤所の前に広がる平磯海岸は、いわゆる「鬼の洗濯板」状の岩が連なる奇観を楽しめる。この海岸からは化石がたくさん見つかっているそうである。
この日は、大洗総合運動公園で野球の練習試合があった。せっかくの機会なので、試合の前にひたちなか市内の史跡を回ることにした。早朝、四時に起床して六時半にはひたちなかに到達した。最初の訪問地は、田彦の共同墓地にある宇都宮藩士の墓である。実は田彦中卵共同墓地を探して、一度この付近をウロウロしたことがあるが、探し当てることができなかった。田彦中卵共同墓地は、国道二百四十六号線から、信号の無い交差点を左折してすぐの所にあり、極めて分かりにくい。

宇都宮藩士之墓
元治元年(1864)天狗党の鎮圧のため、幕府は関東諸藩に対して追討を命じた。同年九月、田彦に宿陣する宇都宮藩兵と天狗党とがこの地で激闘を展開し、田彦はたちまち火の海に襲われた。この戦闘で宇都宮藩士九名と役夫一名が戦死。彼らを葬った墓である。
(中根堂山共同墓地)

福島藩士の墓
中根堂山共同墓地には、元治甲子の乱の際、幕府軍の援軍として派兵された福島藩士の墓がある。元治元年(1864)十月、部田野での戦争は、天狗党の内乱でも激戦の一つとなった。中根城跡には、福島藩兵、二本松藩兵が駐屯していた。この戦闘で戦死した彼らの墓であるが、実は何名が戦死したのか判然としない。
(水車場跡)

史跡 水車場跡
徳川斉昭は、海防の重要性を唱え、自藩で大砲を鋳造するため反射炉を建設した。反射炉で鋳造された円柱状の砲身は、那珂川沿岸の柳沢まで運ばれ、この地で水車を動力として砲身に穴を開ける作業が行われた。水車場は安政二年(1855)に着工され、翌年完成した。十数門を穿孔したと言われるが、やはり元治元年(1864)の騒乱で破壊焼失してしまった。
(浄光寺)

浄光寺
那珂湊の戦いで敗れた諸生党が浄光寺に逃げ込み、それを追った天狗党勢の攻撃に耐え切れず、寺に火を放って敗走した。これにより浄光寺は全焼したという。

元治甲子乱戦死墓
部田野の戦闘で戦死した福島藩士の墓である。
(和田水門帰帆碑)

水門歸帆碑
斉昭は、天保四年(1833)に領内を巡回したとき、八つの景勝地を選定して水戸八景と名付けた。斉昭は、自然鑑賞と健脚鍛錬を目的に藩士に八景巡りを勧めた(言ってみればウォークラリーである)。その一つとして、太平洋を望む和田の高台に「水門帰帆」の碑が建てられた。勿論、隷書体の碑文は斉昭の筆である。
水戸八景
徳川斉昭作
雪時嘗で賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺の晩鐘幽壑に響き
太田の落雁芳洲を渡る
花香爛漫岩舟の夕べ
月色玲瓏たり広浦の秋
遥かに望む村松青嵐の後
水門の帰帆高楼に映ず
(樫原神社)

樫原神社
樫原神社はちょっとした高台にある。那珂湊における戦闘では、大発勢がここに陣を敷いた。
(聴法寺)

聴法寺

筑波勢本陣跡
聴法寺本堂前の植え込みの中に「筑波勢本陣跡」と記された石碑が建てられている。
元治元年(1864)八月、天狗党諸隊は、聴法寺を本陣とした。藤田小四郎、竹内百太郎、飯田軍蔵といった諸将は寺山に布陣。寺山とは彼らの呼称で、聴法寺墓地周辺の地域のことを指す。
(観濤所)

観濤所
斉昭が水戸領内を巡視して水戸八景を選定した頃、この地を訪れた斉昭が雄大な景色に感動して、水戸藩内随一の波浪の見所として「観濤所」と命名した。言わば、水戸八景の番外編である。
昭和十年(1935)に風化から守るために石造の碑覆堂が設けられた。碑には斉昭直筆の隷書が刻まれている。

平磯海岸
観濤所の前に広がる平磯海岸は、いわゆる「鬼の洗濯板」状の岩が連なる奇観を楽しめる。この海岸からは化石がたくさん見つかっているそうである。