(藻原寺)
海外出張から夜行便で戻り、成田に早朝に着いた。このまま自宅に帰るのはもったいないので、千葉で下車して外房線に乗り換え、茂原を訪問することにした。
茂原公園は、桜やツツジで有名な自然豊かな公園である。公園の南側に、茂原の地名の由来となった藻原寺(そうげんじ)がある。
茂原公園
藻原寺
山門
藻原寺の山門は、昭和八年(1932)建造されたもので、今や茂原市のランドマークとなっている。
本堂の裏には、いくつか石碑が並べられており、その中に大田和斎、嶺田楓江の顕彰碑がある。
大田和斎先生精頌之碑(左)
楓江嶺田先生碑(右)
大田和斎は、文政五年(1822)の生まれ。江戸に出て、詩人山地蕉窓に詩文を学び、天保十二年(1841)に幕府の昌平黌に入って漢学を学んだ。その後、諸国遊歴に出て、各地の篤学者、大家から学問を学んで見聞を広め、清河八郎ら勤王の志士たちと交流をはかり国事を論じた。安政四年(1857)、浅草馬道の裏通りに小桃源閣(儒道塾)を開き、八百余人の門下生を育成したと伝えられる。維新後、帰郷して明治十一年(1878)、郷里長柄郡芦網村(現・茂原市)において芦村塾を開き、広く漢学、詩文を教授するとともに、明治二十年(1887)、英学科を加えて私立英漢育才学校と改称し、英語の教育にも力を入れた。明治三十四年(1901)、没。頌徳碑は、徳川家達の篆額。
嶺田楓江は、丹後田辺藩士。蝦夷地を調査して幕府老中安藤信正に蝦夷地開拓を説いた。維新後、請西(現・木更津市)へ移住。明治十年(1877)には、藻原寺の塔頭東光院に賛化学校が開校されると、同校の教頭として生徒の育成に力を注いだ。明治十六年(1883)、没。この顕彰碑は、明治四十三年(1910)、楓江を慕う門人たちの手によって建てられた。
板倉胤臣之碑
墓地中央に板倉胤臣の墓碑がある。島田篁村(重禮)の撰文、金井之恭の書。
板倉胤臣は、天保十一年(1840)の生まれ。二十五歳で江戸に上り、芳野金陵らの塾に学んだ。また東条一堂の門人清河八郎らと交わり、大いに尊王の精神を培った。慶應四年(1868)、東海道先鋒総督一行が池上本門寺屯営すると、胤臣は進んで参謀安場保和と面会して時事を論じた。かくて参謀の認めるところとなり、総督柳原前光の上総地方巡察に際して先導を務めた。同年九月、上総安房監察兼知県事柴山典の属官となり、訴訟事務を担当した。廃藩置県後、千葉県第七大区(長柄、上埴生)郡副戸長、さらに第八大区区長となり、郡村の政治に尽力した。明治十二年(1879)、県会開設とともに県会議員となり、議長に推された。明治二十三年(1890)、衆議院議員となり、自由党に属した。明治二十八年(1895)、年五十六にて没。