史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

茂原 Ⅱ

2022年09月24日 | 千葉県

(藻原寺)

 海外出張から夜行便で戻り、成田に早朝に着いた。このまま自宅に帰るのはもったいないので、千葉で下車して外房線に乗り換え、茂原を訪問することにした。

 茂原公園は、桜やツツジで有名な自然豊かな公園である。公園の南側に、茂原の地名の由来となった藻原寺(そうげんじ)がある。

 

茂原公園

 

藻原寺

 

山門

 

 藻原寺の山門は、昭和八年(1932)建造されたもので、今や茂原市のランドマークとなっている。

 

 本堂の裏には、いくつか石碑が並べられており、その中に大田和斎、嶺田楓江の顕彰碑がある。

 

大田和斎先生精頌之碑(左)

楓江嶺田先生碑(右)

 

 大田和斎は、文政五年(1822)の生まれ。江戸に出て、詩人山地蕉窓に詩文を学び、天保十二年(1841)に幕府の昌平黌に入って漢学を学んだ。その後、諸国遊歴に出て、各地の篤学者、大家から学問を学んで見聞を広め、清河八郎ら勤王の志士たちと交流をはかり国事を論じた。安政四年(1857)、浅草馬道の裏通りに小桃源閣(儒道塾)を開き、八百余人の門下生を育成したと伝えられる。維新後、帰郷して明治十一年(1878)、郷里長柄郡芦網村(現・茂原市)において芦村塾を開き、広く漢学、詩文を教授するとともに、明治二十年(1887)、英学科を加えて私立英漢育才学校と改称し、英語の教育にも力を入れた。明治三十四年(1901)、没。頌徳碑は、徳川家達の篆額。

 

 嶺田楓江は、丹後田辺藩士。蝦夷地を調査して幕府老中安藤信正に蝦夷地開拓を説いた。維新後、請西(現・木更津市)へ移住。明治十年(1877)には、藻原寺の塔頭東光院に賛化学校が開校されると、同校の教頭として生徒の育成に力を注いだ。明治十六年(1883)、没。この顕彰碑は、明治四十三年(1910)、楓江を慕う門人たちの手によって建てられた。

 

板倉胤臣之碑

 

 墓地中央に板倉胤臣の墓碑がある。島田篁村(重禮)の撰文、金井之恭の書。

 板倉胤臣は、天保十一年(1840)の生まれ。二十五歳で江戸に上り、芳野金陵らの塾に学んだ。また東条一堂の門人清河八郎らと交わり、大いに尊王の精神を培った。慶應四年(1868)、東海道先鋒総督一行が池上本門寺屯営すると、胤臣は進んで参謀安場保和と面会して時事を論じた。かくて参謀の認めるところとなり、総督柳原前光の上総地方巡察に際して先導を務めた。同年九月、上総安房監察兼知県事柴山典の属官となり、訴訟事務を担当した。廃藩置県後、千葉県第七大区(長柄、上埴生)郡副戸長、さらに第八大区区長となり、郡村の政治に尽力した。明治十二年(1879)、県会開設とともに県会議員となり、議長に推された。明治二十三年(1890)、衆議院議員となり、自由党に属した。明治二十八年(1895)、年五十六にて没。

 

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野田 Ⅱ

2022年03月05日 | 千葉県

(海福寺)

 海福寺の最寄駅は東武野田線の梅郷駅である。駅の近くを日光東往還道(流山街道)が走っている。徒歩十数分で海福寺に行き着く。

 

海福寺

 

 野田市山崎964の海福寺は、岸田城主岡部長盛の開基と伝えられる。その縁で、墓地の奥に岡部長寛の墓がある。長寛の墓の前には石の鳥居が建っているので、直ぐにそれと分かる。

 

正五位岡部長寛墓

 

 岡部長寛は、文化六年(1809)の生まれ。父は岸和田藩主岡部長慎。天保二年(1831)、一族である岡部外記長貞の家を継いだ。しかし、安政二年(1855)、弟の十三代藩主長発が死去し、世子幼少のため同年二月、宗家を襲封した。以後、動揺する幕末の政局の中にあって藩務を統括し、慶応三年(1867)十二月、諸侯が京都に召されると、家老岡部結城を上京させて藩を勤王方に列せしめ、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは、倒幕側について藩の保全に努めた。同年九月の改元の大赦令により、先に家政紊乱により処された差控を許され、ついで十二月二十八日、在任十三年にして致仕し、長発の遺子長職に代を譲った。明治二十年(1887)、年七十九で没。

 

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佐原 Ⅲ

2022年03月05日 | 千葉県

(観福寺つづき)

 

故 香取少宮司兼權少教正伊能頴則之墓

 

 伊能頴則(ひでのり)の墓を訪ねるため、観福寺を再訪した。観福寺には、伊能姓の墓所がいくつか見られるが、頴則の墓は伊能忠敬の墓所からほんの十メートルほど進んだ場所にある。

 伊能頴則は、文化二年(1805)の生まれ。下総国埴生郡飯田村の神山魚貫ほかに学び、嘉永元年(1848)、家業の呉服商をすてて、江戸本所亀沢町に居住、皇学を教授した。嘉永六年(1853)、佐原に帰住し、元治元年(1864)、香取尚古館学師となり、同年八月には香取神宮神官となった。明治元年(1868)、東京に出て、神祇官に勤めた。明治二年(1869)八月、大学大助教となり、令義解を御前にて講じた。明治五年(1872)、大講義、明治八年(1875)、香取神宮少宮司となり、ついで権少教正となった。下総地方の国学指導に神山魚貫とともに努め、また国書蒐集にも努めた。歌風は古今風であり、画は大雅堂風を好む文人でもあった。明治十年(1877)、年七十三で没。

 

(浄国寺)

 

浄国寺

 

清宮家墓地

 

常隂清宮秀堅墓

 

 清宮家の墓所は生垣で囲まれており、その前には大きな鳥居が建てられているので、遠くからでも直ぐに分かる。(香取市佐原イ1973)

 清宮秀堅は文化六年(1809)、佐原の生まれ。父は武彦といい、詩画をよくした文化人であった。秀堅は若くして父母と別れ、祖母に育てられた。幼名は秀太郎、のちに総三郎と改め、通称は利右衛門、号は常隂。幼時から学問を好み、津宮の久保木竹窓、潮来の宮本茶村に学んだ。二十七歳で名主となり、天保十三年(1842)、三十四歳のとき領主の津田氏に仕えた。以来、二十年余り、津田氏の財産を管理し、苗字帯刀を許された。明治五年(1872)、印旛県に出仕し、歴史、地理の講義、調査を行った。明治六年(1873)、新治県の地誌編集に従事し、香取、海上、匝瑳の三郡を探訪して「三郡小誌」を著わした。私費を投じて佐原村や付近十七村の道路の改修を行い、新田開拓にも貢献した。明治十二年(1879)、年七十一で没。

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多古 Ⅱ

2022年03月05日 | 千葉県

(東禅寺)

 平安時代末、多古は桓武平氏の流れをくむ千葉氏の荘園「千田荘」の中心地であった。千葉氏の中興の祖千葉常胤は、源頼朝を援け、鎌倉幕府の成立に貢献し、千葉氏が下総最大の武士団となる礎を築いた。以来、勢力は全国におよんだが、千葉氏一族の内乱がたびたび起き、千田荘もその舞台となった。

 享徳四年(1455)には、千葉宗家の千葉胤直は千葉城を追われ、子供や弟を引き連れて千田荘まで逃れた。胤直と側近は多古城に拠って応戦したが、敢え無く陥落し、胤直らは東禅寺で自害した。この地は千葉宗家終焉の地となったのである。東禅寺墓地に並ぶ七基の五輪塔は、千葉胤直らの墓と伝わる。(多古町寺作117)

 

東禅寺

 

 千葉胤直らの墓は、本堂から少し離れた丘の上にあり、その周りに狭い墓地がある。ほとんどが並木姓の墓石であるが、その中に並木栗水(りっすい)の墓がある。

 

配中村氏 並木栗水翁 墓

 

 並木栗水は、文政十二年(1829)の生まれ。幼名は左門。のちに栗水と号した。二十一歳で大橋訥庵の門に入って勉励し、思誠塾の塾長となった。在塾七年で佐原に帰り、螟蛉塾を開き、慶応二年(1866)、郷里久賀村に移った。志士的な動きはせず、郷党の子弟の教育に専念し、御所台先生と称された。大橋陶庵、楠本碩水らと交遊があり、経学・詩文に優れ、書も巧みであった。時流の外にあって学者、教育者としての生涯を貫いた。北総地区の名士で、その門から出た者も多い。大正三年(1914)、年八十六で没。

 

(螟蛉塾跡)

 東禅寺から県道120号に戻り北上して、最初の交差点(台作バス停がある)を左折して六十メートル行ったところに並木栗水の顕彰碑が建てられている。ここが螟蛉塾跡である。螟蛉(めいれい)とは青虫のことであるが、「詩経」にあるジガバチが螟蛉の子を背負い、七日間で化して自分の子とした故事に因んで「養子」の意味もある。弟子は師の後ろ姿を見て育つという教育指針のもと、師と弟子が日々生活をともにした。希望者は、何年でも学ぶことができたという。(多古町御所台171)

 

栗水並木先生之碑

 

 石碑の題字は徳富蘇峰。

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八街

2022年03月05日 | 千葉県

 コロナ感染拡大を受けて、ずっと野球の練習ができなかったが、このところ急速に感染者数が減少したため、二年振りに市川のグラウンドで練習を行うことになった。

 当方も半年前に還暦を迎えたが、この二年の間にチームメイトの中には、十キロ以上のダイエットに成功した者、大型バイクを乗り始めた者、外車を手放して軽自動車に乗り換えた者など、それぞれそれなりに変化があったらしい。

 久しぶりにバットを握ったが、若者の速球にも振り負けずに打ち返すことができて「まだ行けるんじゃないか」という自信を得ることができた。

 せっかくなので、この機会に午前中の練習の後、千葉県下の八街、多古、佐原(香取市)の史跡を回ることにした。天候にも恵まれ、充実した史跡の旅を楽しむことができた。

 

(新勝寺八街分院)

 

新勝寺八街分院

 

 八街市の新勝寺八街分院の駐車場に西村郡司の顕彰碑が建てられている(八街市ほ1046)。渋沢栄一の篆額。小牧昌業撰文、齋藤利恆(芳洲)の書。大正七年(1918)九月の建碑。

 

贈従五位西村郡司翁碑

 

 西村郡司は文化十一年(1814)の生まれ。生地は北足立郡門前村(現埼玉県さいたま市見沼区)。初め江戸深川で商業を営んだ。安政六年(1859)、神奈川開港の直後、同地に赴き貿易に従事した。この頃、渋沢栄一と交友があった。奥羽征討の師起こると、軍資として一万両を献じ、五口俸を給され、称氏帯刀を許された。維新後明治政府は東京府の流民救済のため、下総の旧幕府の牧野(佐倉七牧)を開放し、開墾会社をつくり、明治二年(1869)四月、窮民を募って帰農させた。この時、郡司は三井八郎右衛門らとともに会社の頭取にあげられた。郡司は翌明治三年(1870)、現・八街市の北半を占める旧柳沢牧の開墾に当たった。明治五年(1872)五月、会社は解散したが、郡司はその後も現地に住み、地主として開墾を続けた。無住の原野が今日の八街市となるに至った町づくりの功労者である。明治二十八年(1895)、年八十二で没。

 

(けやきの森公園)

 

けやきの森公園

 

 けやきの森公園の用地は、明治二年(1869)、西村郡司が開墾会社事務所を開設した際に確保された場所である。その後、昭和二十六年(1951)から平成二年(1990)まで、八街農林保育園として使用された。(八街市ほ239‐6)

 

けやきの森公園

 

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木更津 Ⅴ

2021年12月04日 | 千葉県

(八劔八幡神社)

 木更津駅から徒歩数分という場所に鎮座する八劔八幡(やつるぎやわた)神社は、源頼朝鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営したと伝えられる。

 境内には嶺田楓江(ふうこう)の長寿と業績を讃えた嶺田楓江寿碑が建てられている。

 

八劔八幡神社

 

嶺田楓江寿碑

 

 嶺田楓江は、文化十四年(1817)に江戸に生まれ、儒学や蘭学を学び、各地を視察した。天保十四年(1843)には蝦夷地を回り、幕府に屯田制や北方警備の必要性を訴えた。嘉永二年(1849)にはアヘン戦争の実情を詳しく調べ上げ、木版絵画を挿入した「海外新話」を刊行したが、治安を乱したとされ投獄された。江戸から追放され。請西村に移り住んだ。安政元年(1854)のペリー来航時には、江戸に上って幕閣に進言した。その後は木更津に戻って子弟の教育に専念し、維新後の木更津地方の教育史上重要な存在となった。明治十四年(1881)、楓江の長寿と業績を讃えて、この石碑が建てられた。英国領事官コラウブスが題字、地元の重城保が撰文、清国の劉世安が書を担当したという、珍しい三国合作の碑である。

 

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久留里 Ⅲ

2021年12月04日 | 千葉県

(正源寺)

 

正源寺

 

 久留里へ行くには、もちろん木更津から久留里線を利用するのが一般的かもしれないが、高速道路が混雑していなければ、東京駅から高速バス(アクティー号)に乗るのが時間的に効率的である。朝七時三十五分に東京駅を出て、九時十分過ぎに久留里に着く。

 急いで駅前の観光交流センターに駆け込む。まずここでレンタサイクルを調達しなければならない。ところが、観光交流センターは、新型コロナ感染対策のため休館中で、自転車を借りることはできなかった。仕方なく正源寺、妙長寺、真勝寺、円覚寺を歩いて回った。結果、この日の歩数は軽く二万歩を越えることになった。

 正源寺は、観光交流センターにほぼ隣接しており、久留里駅から歩いて数分という場所にある。

 「明治維新人名辞典」によれば、広沢俊憲の墓が正源寺にあるというので、実は二度正源寺の墓地を歩いてみたが、広沢家の墓所すら見つけることはできなかった。完全な空振りでした。

 広沢俊憲は、久留里藩士。通称は吉郎、あるいは定五郎といった。慶應三年(1867)十二月、藩主の江戸市中警備には巡羅隊長となり、薩摩藩邸襲撃や徳川氏歩兵騒擾等に活躍した。慶應四年(1868)六月、徳川脱走兵が横田村で起こした騒動には兵を率いて指揮した。のち権大参事、少参事を経て、明治六年(1873)十二月には千葉県授産掛に就いた。明治十八年(1885)、年五十九で没。

 

(妙長寺)

 

妙長寺

 

 本堂前に建てられた説明板には、「本寺には、久留里藩主黒田家二代直純の姫於栄、於多勢や側室五代直方の姫多喜子が眠るほか、黒田家に仕えた最後の家老森光新の墓や久留里藩士の墓が多数あります。」と記載されている。墓地もさほど広いわけでもなく(三ヶ所に分かれている)、発見は時間の問題と思われたが、結局、「これが森光新の墓」と特定することはできなかった。

 

森光新の墓?

 

 森光新(こうしん)は、文政七年(1824)の生まれ。弘化四年(1847)、藩老森光福の養子となり森家を継いだ。文久元年(1861)、家老に進み、以後江戸と藩地を往復して藩務をとった。慶應三年(1867)暮、藩地にあって薩摩藩邸襲撃を聞き、三百名を率いて下谷藩邸に急行した。慶應四年(1868)二月、北白川宮の小田原行に随従、同年六月の脱走士の横田村騒動では藩兵を指揮した。のち藩大参事、権大参事に任じられ、明治五年(1872)久留里組貫族取締となった。明治九年(1876)、年五十三で没。

 

(上総小学校)

 

史跡 新井白石居住之地

 

新井白石居宅跡

 

 徳川家六代将軍家宣、七代小′家継の相談役として活躍した儒学者新井白石は、久留里藩主土屋利直に仕え、青年期の数年間、久留里に居住していた。白石は、利直の江戸詰めの家臣の子で、幼少期より優秀で、十三歳にして藩主の代筆を勤めたといわれる。二十一歳のとき、土屋家の内紛により久留里藩を追われ、その後、江戸へ出て木下順庵の門下生となった。

 久留里における白石の住まいは、安住の侍屋敷にあったといわれ、現在の上総小学校周辺とされている。

 

(円覚寺)

 

円覚寺

 

 この日は正源寺、妙長寺、真勝寺と回って、ほとんど収穫がない一日となってしまった。円覚寺にてようやく荒木栄懐の墓と出会うことができた。

 

松山院泰雲武標居士(荒木栄懐の墓)

 

 荒木栄懐(えいかい)は、文化六年(1809)の生まれ。種田流槍法を修め、天保二年(1831)正月、小姓広間番士となり、弘化三年(1846)五月、家中槍術師範となった。嘉永六年(1853)、ペリー来航の時、出水平学の下に派遣され、安政四年(1857)には藩主黒田直和の両総東海岸検分に従った。文久二年(1862)二月、用人となり、元治元年(1864)十一月、藩預りの水戸脱藩士肥田金蔵ら三十五人を下総銚子にて受け取った。慶應四年(1868)二月、家老となり、藩主に代わって上洛し四月に帰藩。旧幕府撒兵隊福田八郎右衛門道直の協力要請に対し、形勢を説いて勤王を主張し、藩論を動かした。明治二十三年(1890)、年八十二にて没。

 

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松戸 Ⅴ

2021年05月08日 | 千葉県

(戸定邸 つづき)

 

戸定歴史館

 

 大河ドラマ「青天を衝け」で草彅剛演じる徳川慶喜が話題になっている。慶喜人気にあやかったわけではないだろうが、松戸の戸定歴史館で「特別展 プリンス・トクガワー新時代への布石」が開催されているので、緊急事態宣言が発出される前に見ておくことにした。

 展示されているのは、斉昭、慶喜や昭武らの書や書簡、写真など。珍しいところでは、斉昭の手になる楽茶碗や子供に贈った猿の絵などが目を引いた。また、昭武に従って渋沢栄一が初めて海外に渡ったパリ万博関係の史料も興味深かった。数は多くないが、安島帯刀(信立)、大場一真斎、松平昭訓(慶喜の弟であり昭武の兄、斉昭十四男)、山高信離といったあまり光を当てられることのない人物に関する展示も嬉しい。個人的にはもっと見たかった(展示がやや少なかった)という気もしたが、入館料百五十円(戸定邸との共通入館料は三百二十円)を考えれば非常に充実したものといえよう。

 

戸定邸庭園

 

緊急事態宣言発出とともにステイ・ホームの日々が続いている。史跡探訪を再開できるのも何時になることやら、さっぱり先が見えない。当面、投稿はお休みとなります。

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千葉 緑

2021年03月06日 | 千葉県

(平山町)

 

明治天皇御駐蹕之跡

 

 川合交差点から二十分ほど南西に歩くと、明治天皇が野立のため休憩をとったことを記念した石碑に出会う。やはり明治十五年(1882)一月の近衛師団演習視察の際のことである。ここまで来ると、バスはほとんど走っておらず、最寄駅であるJR鎌取駅まで五十分ほどかけて歩くことになった。

 

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千葉 若葉

2021年03月06日 | 千葉県

(蕎麦御休憩処しらい庵)

 

蕎麦御休憩処しらい庵

 

 千葉市もこの辺りまで来ると、随分と鄙びてくる。蕎麦処しらい庵の最寄りのバス停川合交差点に停まる千葉中央バス・コミュニティバスは日に十三本しかなく、一本逃すと四十分以上も待たされることになる。千葉県庁前の明治天皇行在所碑を見た後、モノレールで千葉駅まで戻ったものの、千城台11時23分発のバスに間に合うモノレールを逃してしまった。すぐさまJRに移動して成田線に飛び乗り、次の都賀駅で乗り遅れたモノレールに追いついた。アクロバティックな乗り継ぎの結果、予定とおり昼前に川井小休所にたどり着くことができた。

 

明治天皇川井御小休所

 

 明治十五年(1882)の八街村における演習を視察する際に、明治天皇が川井村の石原邸で休憩をとった。敷地内には、当時の長屋門や石碑が残されている。

 

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