史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

菊池 泗水 Ⅱ

2017年04月22日 | 熊本県
(西南戦争官軍第三旅団本営跡)


西南戦争官軍第三旅団本営跡

 これも前回の訪問時に発見できなかった石碑である。菊池観光協会に問い合わせして、場所を特定することができた。前回、光徳寺の西側ばかりを探していたが、この碑は東側三十メートルばかりの地点にあった。

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菊池 Ⅱ

2017年04月22日 | 熊本県
(廣現寺)
 薩軍が宿営地とした廣現寺と音光寺を訪ねる。二つの寺は隣り合っている。


廣現寺

(音光寺)


音光寺

(妙蓮寺)


妙蓮寺

 妙蓮寺境内には推定樹齢六百年という大楠がそびえたっている。その根もとに古い墓石が置かれているが、その中の一つが神風連の乱に参加した吉村義節(のりとき)のものである。
 吉村義節は、神風連の部隊長を務め、県令安岡良亮邸に斬り込んだ中心人物である。小さな墓の横に大きな記念碑が建てられている。


吉村義節之墓


志士吉村義節之碑

(蘆花夫人生誕地)


蘆花夫人徳富愛子生誕之地碑

 徳富蘆花夫人愛子は、明治七年(1874)七月、この地で酒造業原田家の一番末の一人娘として生まれ、十一歳のとき一家は熊本市へ転住した。十七歳のとき御茶ノ水の東京女子高等師範学校へ入学した。卒業後、一年間小学校に勤務したが、縁あって二十一歳で蘆花(当時、二十七歳)と結婚し、その創作活動を助けた。蘆花の死後は、蘆花全集の出版や遺品展、記念講演会などを催し、東京には蘆花恒春園をつくるなど蘆花の顕彰に努めた。昭和二十二年(1947)没。

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山鹿 方保田

2017年04月22日 | 熊本県
(金凝神社)
 一年前に山鹿の西南戦争史跡を案内していただいた際に漏らしてしまった金凝神社を訪ねる。境内に地元の人たちが軍夫として従軍し、無事に帰還したことを記念して建てられた祠がある。


金凝神社


軍夫の碑
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玉名 下 Ⅲ

2017年04月22日 | 熊本県
(梅林児童公園)


松村大成 永鳥三平両先生顕彰碑

 これも前回訪ね当てられなかった松村大成、永鳥三平顕彰碑である。兄弟が生まれた梅林の児童公園内にある。
 児童公園と名付けられているが、実際に子供の姿はなく、老人がたくさん集まっていた。松村・永鳥顕彰碑の前はゲートボール場になっており、お年寄りがゲームを楽しんでいる。ゲートボール場に足を踏み入れないと、顕彰碑を正面から撮影することはできない。私は「済みません、済みません」と何度も頭を下げて、一時ゲートボールを中断してもらい、何とか写真に収めることができた。

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玉東 上白木

2017年04月22日 | 熊本県
(薩軍三勇士の墓)


西南役薩軍戦没勇士之墓

 前回行き着けなかった薩軍三勇士の墓に再チャレンジである。山北保育園の南側の丘にある。
 この墓に葬られているのは、薩軍の藤坂吉左衛門宗隆、伊集院義兼、山倉文左衛門義種の三 士。このうち藤坂、伊集院の命日は、明治十年(1877)三月十日とされている。この日、薩軍は木葉の政府軍を襲う目的で三個小隊を木留の本営から出動させ、玉東町西安寺の辺りで政府軍と戦った。この戦闘で薩軍萩原隊に十余名の死傷があり、藤坂、伊集院、山倉の三士は、萩原隊に属していたと考えられている。山倉は三月十日、負傷し、近所の山野家に匿われたが、五月二十日落命。藤坂、伊集院の墓地に追葬された。この墓碑は、昭和六十三年(1988)に新しく建てられたもので、三士の位牌は今も山野家に祀られているという。

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植木 轟

2017年04月22日 | 熊本県
(七本官軍墓地)


七本官軍墓地


陸軍少尉正八位河原林雄太之墓

 西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地は、全部で二十一カ所ある。七本官軍墓地は、西南戦争を通じて最激戦地となった田原坂や植木、滴水、木留などで戦死した東京、大阪、名古屋、広島および熊本鎮台の兵士三百余が葬られている。植木の緒戦で戦死し、あの軍旗紛失事件で有名な河原林少尉の墓もここに在る。
 墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所それに出身地などが刻まれている。


警視隊の墓

(柿木台場薩軍墓地)
柿木台場薩軍墓地には、三月十四日、七本で戦死した熊本隊三番小隊長の城市郎ほか約三百余基の薩軍兵士が眠る。
この周辺における戦闘は三月初めから吉次、田原坂付近で始まり、三月二十日に田原坂における戦いが終結すると、吉次、木留、植木に移った。


柿木台場薩軍墓地から吉次峠を臨む


薩軍慰霊碑


城市郎らの名を記した墓碑


熊本諸隊奮戦之處

 柿本台場薩軍墓地からは激戦地となった吉次峠、半高山を臨むことができる。三月四日以降、政府軍はこの峠を「地獄峠」と呼んで恐れた。

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植木 豊岡 Ⅱ

2017年04月22日 | 熊本県
(田原坂資料館)
 映画や小説の舞台となった場所を訪ねる行為を「聖地巡礼」というらしい。私にとって史跡訪問は「聖地巡礼」と同じことかもしれない。数多い史跡の中で、個人的に「聖地」と呼ぶに相応しい場所が田原坂である。今回、二十年振りに田原坂公園を訪ねることができた。二十年というとかなり長い時間であるが、田原坂の景色や史跡は、ほとんど二十年前から変わっていない。
田原坂公園の中心は資料館である。激戦の中で銃弾に嵐に晒された民家が、「弾痕の家」として今に伝えられ、内部は現在資料館として利用されている。

資料館には、銃弾や砲弾、銃、衣類や食器などが陳列されている他、地元史家作成のビデオなどが上映されており、マニアは時間が経つのも忘れてしまう。


田原坂資料館 弾痕の家

 大楠の根もとに馬にまたがる美少年像がある。民謡田原坂に歌われる美少年は、一説に村田新八の長男岩熊がモデルともいわれるが、像には敢えて「この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である」と説明が加えられている。


美少年像

銃撃戦の凄まじさを物語る「ゆきあい弾」がこの付近でいくつも発見されている。敵味方の放った銃弾が空中で衝突したものである。


西南の役戦没者慰霊之碑

西郷隆盛を始め、万を超す西南戦争戦没者全ての氏名を刻む。その数は、官軍六九二三名、薩軍七一八六名、殉難者二九名に及ぶ。


崇烈碑

 崇烈碑には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子が刻まれている。田原坂の激戦の勝利の意義が官軍の立場から述べられている。撰文および篆額は有栖川宮熾仁親王、書は陸軍省秋月新太郎。


大綿や古道いまも越えがたき
辺見隊守りし嶮ぞ島瓜
吉次越狐の径となりて絶ゆ


伍長谷村計介戦死之地

宮崎県の寒村糸原出身の谷村計介の戦死の地の石碑が、田原坂資料館から程無い場所に立っている。単なる使者に過ぎない谷村計介が、どうしてこんなにもてはやされているのか不思議であったが、資料館の説明によると戦前の教科書に谷村計介が載っていたというのである。城から抜け出し、一度敵に捕らえられながら、機転をきかせて脱出し、見事使者の任を果たしたというお話である。


西南役戦没者慰霊碑


一の坂附近

 麓の豊岡眼鏡橋からの標高差はわずか八十メートル。一の坂、二の坂、三の坂を経て坂の頂まで約一・五キロメートルの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道幅があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本城に達することはできなかった。官軍にとってまさに勝敗を制する道であった。戦略上の重要地であったため、田原坂は激戦の舞台となったのである。
 両側が道路より高い凸状の道は、前方の藪や左右の高所から銃撃を受けやすく、攻め難い要地であった。

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植木 向坂 Ⅱ

2017年04月22日 | 熊本県
(明徳官軍墓地)
植木の緒戦では、官薩両軍とも大きな損害は出ていない。ほんの数人という戦死者の中に連隊旗手河原林雄太少尉がいた。


明徳官軍墓地

 明徳官軍墓地には、百二十二基の墓石がある。政府軍の陸軍士官・二、下士・十七、兵卒・九十八と軍夫・五という内訳である。所属別では近衛歩兵第二連隊が最も多くて七十一基、次いで東京鎮台、熊本鎮台、大阪鎮台、広島鎮台と続く。兵士の出身地では北は山形から南は熊本まで広範にわたっている。戦死した日でいうと、明治十年(1877)三月二十日が最多の九十二名となっている。この日は、田原坂が陥落した日であり、勢いに乗った政府軍は一気に熊本城まで攻め込もうとし、向坂で薩軍の猛反撃にあって多くの死傷者を出した。それから四月十五日までの間、植木の町を南北に分断して両軍は対峙することになった。


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宇土

2017年04月22日 | 熊本県
(中央公民館)
 熊本藩二代藩主細川光尚が、自ら宇土へ足を運び、弟にあたる細川行孝のために屋敷建設地を見分した。現在、宇土市教育委員会付近を宇土藩陣屋場所と定めて、陣屋が建設された。完成は正保四年(1647)。当時の建物は現存しておらず、教育委員会の建てた説明板が建てられているのみである。


宇土細川藩陣屋跡

(市民会館)
 市民会館の敷地付近には、鶴城学館という教育機関があった。鶴城学館は、旧宇土藩主細川行真が創立したもので、明治二十六年(1893)四月に開館した。当時百六十二名という生徒数であった。鶴城学館の特徴の一つとして挙げられるのが「女子部」の存在であった。開館当時から二十五名の女生徒が学んでいた。四年後には百名ほどまで増えた。
 開校からわずか十年足らずの明治三十五年(1902)、経済界の混乱により経営が行き詰まり閉館に追い込まれた。


鶴城学館跡

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八代 鏡町

2017年04月15日 | 熊本県
(鏡町)
 鏡町の鑑内橋は文政十三年(1830)頃、種山の名石工、岩永三五郎が造ったといわれる。鏡町と内田村を結ぶことから、鑑内橋と呼ばれ、江戸時代には八代、松橋を結ぶ往還の要所であった。


鏡内橋

明治十年(1877)の西南戦争では、日奈久洲口に上陸して北上する官軍の斥候と、熊本城攻めの薩軍から派遣され南下する斥候とが初めて遭遇した場所で、その情報によって薩軍は氷川に陣地を構え、両軍が戦いを交えた。

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