史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

西郷従道―維新革命を追求した最強の「弟」 小川原正道著 中公新書

2025年01月19日 | 書評

本書は「大西郷の弟」というだけで、これまであまり注目されることのなかった西郷従道に脚光を当てたもの。隆盛と兄弟とはいえ十五歳も離れており、この年齢差もあって維新前は目立った活動はなかった。精々、文久二年(1862)の寺田屋事件の前夜、その他大勢の一人として寺田屋に集結していたことと、薩英戦争時には西瓜売りに変装して敵艦に乗り込んだこと、いとこの大山巌とともに西郷や大久保の用心棒を務めていた程度である。

従道が明治政府において重きを成すようになったのは、明治二年(1869)から翌年にかけて山県有朋とともに渡欧したことが大きかった。その辺りの事情について、本書には「洋行から新知識を携えて帰った信吾(従道)への信頼と期待が、急速に高まっていった。事実、それまで西欧に関する知識をもとに兵制改革を主導してきた大村益次郎や山田顕義などには、洋行して軍事情勢を学んだ経験はなく、信吾は廃藩置県などの大改革にも参与していくことになる」と記述されている。

明治六年(1873)の政変では、従道は兄隆盛と袂を分かって明治政府にとどまっている。筆者は「兄弟の間でどのようなやりとりがあったのか、正確なところは分からない」としながらも、「元帥西郷従道伝」から妻の清子とのやりとりを引用している。

――― 政変後に従道が「われわれも鹿児島に帰ることになるだろうから、いつでも出発できるように準備をしておきなさい」と語ったため、帰郷の覚悟を決めていた。だが、従道が隆盛を会って「兄さんが東京に残れと申されたよ」と東京に留まることになった。さらに、「世間でお祖父様がヨーロッパの先進諸国を見てきたから兄弟の意見が分かれたと言うていることとは違うんですよ」と孫の従宏に証言している。

少なくともこの時点では兄弟の信頼関係は確固たるものがあった、続く台湾出兵についても「従道の出兵の背後には、なお、隆盛の存在があった」としている。台湾から戻った従道は、鹿児島に帰省して隆盛と面会し、隆盛下野後の政治情勢について詳細に報告して了解を求めている。まだこの時点でも、隆盛と従道の間に「信頼と合意」が成立していたのである。

実兄西郷隆盛が鹿児島で決起し賊軍の将となると、従道は「この戦争は隆盛の意志によるものではなく、隆盛は周囲に騙されているに過ぎないという理解と、天皇に対する忠誠心、そして、この戦争そのものが持つ、軍事上の意義」を心の支えとして、徹頭徹尾政府のために尽くした。従道は、西南戦争下で陸軍卿代理に任じられ、主に銃器や弾薬の確保に努め、全国の不平士族が鹿児島と連動して挙兵しないよう警戒した。この戦争を通じて、従道は完全に兄と離別して自立を果たしたといえる。

西南戦争後、従道は薩閥を代表する顔として重用された。明治十一年(1878)五月には参議兼文部卿に任じられ、明治十四年(1881)には農商務卿に就いている。当時、郵船汽船三菱会社と共同運輸会社が激しい競争を展開していたが、従道は両社の役員を招いて協約を締結させて、敵対的競争をやめさせた。しかし、直後に協約は破綻し、再び競争が激化する様相を呈すると、今度は両社を合併させ、日本郵船会社が設立されるに至っている。

明治十八年(1885)、第一伊藤内閣が発足すると、海軍大臣に就任。明治二十三年(1890)には内相に就き、明治二十六年(1893)に再び海軍大臣に就き、明治三十一年(1898)十一月まで、日清戦争中も含めて実に五年に渡って在任している。

歴代の内閣で従道が重用された背景には、もちろんこの時点で既に彼が薩閥を代表する存在になっていたこともあるが、伊藤博文や山県有朋、井上馨といった長州閥とも良好な関係を維持し、一方で山本権兵衛や白根専一、品川弥二郎らを発掘・育成・重用し良き「幇助者」となった。さらには大隈重信や板垣退助らとも関係良好で、「自然に妥協性・調和性」を発揮していたという。ひと言でいえば、坐りが良い存在だったのだろう。

明治二十九年(1896)八月、第二次伊藤内閣を率いた伊藤博文が辞表を提出すると、後継首班の候補として従道の名が上がった。松方邸で元老会議が開かれ、黒田や井上が代わるがわる従道を説得したが、「例のぐずぐず」にて終わった。

明治三十一年(1898)、大隈内閣が倒れると、再び首相候補として従道が取り沙汰された。新聞では連日従道の動きが伝えられ、時には「西郷内閣」の構成まで報じられた。周りの期待をよそに従道は固辞し続け、遂に首相の座につくことはなかった。

おそらく本人が「了」といえば、首相になることは可能であっただろう。しかし、彼の脳裏には常に「賊将の弟」といううしろめたさがあった。明治二十二年(1889)、憲法発布の大典に合わせて大赦を受け、隆盛は正三位の官位を回復し、名誉を回復していた。従道自身はそれを上回る正二位に叙されており、そのことも従道の本意ではなかった。死を前に従道は盛んに位階や爵位の返上を漏らすようになる。

そのことを知った田中光顕(当時、宮内相)は、大山巌と相談し、隆盛の嫡男寅太郎を侯爵とすることで対応した。この授爵によりようやく兄という存在を肩から下すことができたと筆者は従道の心中を察している。

明治三十五年(1902)七月十八日、この日の午前六時、従道は目黒の本邸で死去した。胃がんと言われる。五十九歳であった。彼の死去に合わせて様々な追悼記事が出されたが、総括すると「国家的大局観を持ちながら、あえて首相にはならずに、首相を支え、実務を有能な部下に任せて、その責任を負い、自分を殺して調整に努めた人物」と評する記事が多かった。

従道が明確なビジョンを示さず、周囲を笑わせながら調整し、常に安定と安寧を追求した原点には、兄・隆盛の存在があった。隆盛は倒幕維新を実現したカリスマ的リーダーであったが、そのカリスマ性ゆえに政府を去り、私学校党に擁されることになってしまった。そのことを従道は誰よりも理解していた。従道にとって隆盛は反面教師でもあったのである。彼は兄の名を借りてカリスマ的リーダーになることも可能であったが、慎重にそうならない道を選んで歩んだのかもしれない。

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