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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の大奥」 畑尚子著 岩波新書

2015年08月28日 | 書評
本書は平成十九年(2007)の年末に刊行されたもので、明らかに翌年の大河ドラマ「篤姫」を意識したものである。ただし、大河ドラマの放映も終了して七年が経過してなお書店に並んでいるということは、大河ドラマとは別に相応の評価を得ているという意味であろう。
副題に「天璋院と薩摩藩」とあるように、天璋院と薩摩藩を中心に取り上げている。
本書によれば、「多摩地域の女性は、江戸城大奥や徳川家一門、譜代大名家に奉公に行くことが多い(P.144)」そうで、その中の一人として、八王子宮下村の名主荻島家の娘、喜尾(まさ・滝尾とも)を取り上げている。この人は、薩摩藩の奥女中右筆を務め、その間数多くの書簡を残している。八王子郷土資料館では「荻島家文書」としてこれをまとめて発刊している。本書では、荻島家文書によって、当時のかなりリアルな大奥の風景を描き出すことに成功している。これによれば、薩摩藩始め、各藩は大奥を通じて盛んに情報戦や外交を展開していたことが分かる。
東征軍が江戸に迫ると、和宮(静寛宮)と天璋院は、ともに実家に働きかけ、江戸城総攻撃の中止、徳川家の存続、慶喜の助命嘆願に動いた。一般には、勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城無血開城が成ったとされるが、本書では、「攻撃中止は天璋院の書状を受け取ったときにほぼ決まっていた(P.179)」とする。本当にそうなのだろうか。両雄の会談の前に天璋院の書状が西郷に届いたことは検証されているが、それを受け取った西郷が即座に攻撃中止を決定したのか。その点については何の解説もないのだが、もう少し裏付けを明確にしてもらいたかった。

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「幕末の下級武士はなぜイギリスに骨を埋めたのか」 村田寿美著 祥伝社

2015年08月28日 | 書評
幕府が各国と修好条約を結ぶと、続々と外国商人が我が国にやってきた。これに対し、幕府は使節団を欧米に派遣した。維新前後には藩が競って優秀な若者を留学生として海外に送り出した。これが我が国における海外との人材交流の端緒だと思っていたが、ところがどっこい、実は幕末から明治にかけて、いわゆる曲芸師といわれる人たちが、欧米で公演を開き、熱烈な歓迎を受けていた。彼らは民間使節の役割も果たしていた。
曲芸師の一団は、何か歴史的な事件や経済活動に大きな枠割りを果たしたわけでもないので、あまり大きく取り上げられることもなかった。本書では「近藤筆吉」という一人の曲芸師の崇高な生き様を追うことで、この時代の日本人の精神性を浮き彫りにした。
本書によれば、筆吉は曲芸師の一人(筆者によれば、厳密にいえば筆吉は曲芸師ではなく、曲芸団における大道具掛のような役割であったらしい)として海を渡り、アメリカ、ヨーロッパを経由してイギリスに渡り、各地で巡業を続けていた。そしてブリストルで売春婦のジュリアと出会う。間もなくジュリアは妊娠し、筆吉は彼女との結婚を決意する。つまり母国と決別し、異国に骨を埋めることを決心したのである。
筆吉は、その頃、一種のブームとなっていた日本人村の建設などに関わり生計を立てていたが、その後、馬丁として雇われ、継いでブライトンで聖バーソロミュー教会の教会守という職に就く。以来、筆吉は二十四年に渡って教会守の職にあった。
筆吉は、言葉が不自由であった。同教会の50年史には「哀れなことにフデは、最期まで我々の言葉を理解できず、教会を訪れた人々は彼と会話することが困難であった」と記されている。「彼はいたるところに気を配って立ち働いていた。フデは仕事をしないでぶらぶらしていることがない。広い教会内を一人で掃除し、堂内は常に準備する人が出入するが、塵一つなく準備が整った」と彼の仕事ぶりを評価している。
筆吉は脳内出血を起こして、七十六歳の生涯を閉じる。ブライトンのウッドベイル市営墓地に、妻ジュリアとともに眠っている。墓石はない。
本書を読んでまず感じ入ったのが、よくもここまで無名の市井の人物の人生を調べきったものだということである。勿論、筆吉が日本で何をしていたかについては、調べても不明なところも多く、筆者が想像により補完している部分もある。
イギリスでは十年ごとに国勢調査が行われ、その結果は百年後に公開されている。この記録はオンライン・データとして誰でも利用可能で、かの国ではこれを利用してファミリー・ヒストリーを調べることが盛んに行われているという。そういうインフラが整っていたことが筆者の調査を助けたことは間違いないが、それ以上に筆者の執念によるところが大きいであろう
筆者は、筆吉は「乞胸(ごうむね)」と呼ばれる音曲で生計を立てる階層の出身とする。乞胸は、と同じく層の一つであり、武士と呼ぶにはやや抵抗がある。本書のタイトルに「下級武士」とあるが、我々が通常「武士」と聞いて連想するような武士とはちょっと違うことは銘記しておくべきであろう。
筆吉には、ジュリアと子供を残して、母国に帰るという選択肢もあったかもしれない。敢えて妻子ともに異国に骨を埋める選択をしたところに、この人物の道徳心の高さを感じる。恐らく同時代のイギリス人にもそれが伝わり、言葉は通じないながら、畏敬の念をもって接したのではなかろうか。

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「日本の名字」 武光誠著 角川新書

2015年08月28日 | 書評
我が国には十二万種近い名字があるそうである。お隣の韓国・中国と比べれば、明らかに数も多いし、多様である。一方で意外なことに欧米には姓の種類が多いらしく、アメリカでは百万以上の名字があるという。著者武光誠氏の専門は古代史らしいが、幕末に至るまで広く一般向けの書籍を上梓されている。特に藩や県民性に関する書物も多く、その方面にも造詣が深い。
本書では、都道府県ごとに偏在する名字などの解説がとても興味深かった。これまで私も四国・九州に転勤で住んだことがあるが、その都度、その県特有の名字の存在に気付かされた。
たとえば、愛媛県でもっとも多い姓は、(本書でも紹介されているように)村上である。村上水軍の流れを引いているといわれる。村上以外にも藤田、近藤、伊藤、加藤、安藤、高橋など、あまりに同姓が多いので、お互いに下の名前で呼び合うのが通例となっている。友人の加藤君が、高校受験のとき、一クラス全員が加藤だったという。
また、二十位までのランクには入っていないものもあるが、曽我、曽我部、青野、越智、真鍋、小野という名前が多いのも際立った特徴である。
宮崎県にいけば、ランクトップは黒木である。ランク外ではあるが青木、白木、甲斐も妙に多い。鹿児島では、園・薗・元という漢字を使った姓が多い。こういった都道府県ごとの特徴ある名字について、本書でも触れられているものの、概ねランク二十位までの分析にとどまっている。住んでみて実感するのは、数の多さで並べるとランク上位には入らなくとも、「何だか妙に多い」と感じる姓が多いことである。個人的にはもう少し突っ込んだ解析をして欲しかったと思う。
著者は「名字は一つの地域の歴史を伝える興味尽きないものである。この名字を手掛かりに、公式の歴史ではわからないさまざまな史実が浮かび上ってくる」という。全く同感である。
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「はじめての古文書教室」 林英夫監修 吉川弘文館

2015年08月28日 | 書評
やや僭越な物言いであるが、歴史の真実に近づくためには、古文書を自力で読めなくてはいけないのではないかと思い立ち、書店でこの本を入手した。これまで読んできた書籍等で、候文は比較的読み慣れている方なので、古文書独特のくずし文字も何とかなるのではないかと軽い気持ちで読み始めたが、そう簡単なものではなかった。著者の「習うより慣れろ」「ほかに王道はない」という言葉通りであろう。
仕事柄、議事録をとらなくてはいけないことが多いが、あとから自分が速記したメモを解読できなくて、四苦八苦している。もともと字が汚い上に、勝手にくずしているから、書いた本人はもとより、誰が見ても読めない文字になってしまう。
「読めない」という意味では古文書もなかなか読めないが、実は一定の法則があるので、その法則(要するにコツ)さえつかめば少しずつではあるが、読めるようになるという仕組みである。裏を返せば、自分のメモが解読不能なのは、法則性がないからである。一見すると、アリの行列のような、流れるような暗号を後世の者が「是ハ善右衛門様へはま二而上申候」と読むことができるのは神業である。この域に達するまでは、まだ何年もかかりそうである。引き続き勉強が必要です。

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麻布十番 Ⅲ

2015年08月21日 | 東京都
(賢崇寺)


文学博士久米邦武 配淑子 墓

 久米邦武の墓を求めて、再度麻布の賢崇寺を訪ねた。久米家墓所は、墓地の一番奥にある。
 久米邦武は、天保十年(1839)、佐賀生まれ。号は易堂。藩主鍋島直正(閑叟)の近習となり、弘道館教諭となった。明治四年(1871)の岩倉使節団に随行し、帰国後「特命全権大使米欧回覧実記」を刊行した。その後、修史館に転じ、「大日本編年史」編纂に従事。明治二十一年(1888)、東大教授。史学会設立に尽力し、重野安繹、星野恒と「稿本国史眼」共編。明治二十五年(1892)、「神道は祭天の古俗」の筆禍事件で依願免職。のち早大教授。考証史学から近代史学の先駆的業績を多数発表した。昭和六年(1931)、逝去。
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早稲田 Ⅴ

2015年08月21日 | 東京都
(専念寺)


専念寺

 先日、塩山の慈雲寺を訪ねた際、新宿区の専念寺に、真下晩菘の墓があるという情報を得たので、専念寺を訪ねてみた。墓地には「真下家」の墓が二基あったが、これが真下晩菘と関係があるのか不明。


真下家之墓

(早稲田大学理工学部)
 西早稲田の早稲田大学理工学部にも大隈重信の胸像がある。


大隈重信像

(すず金)


すず金

 「すず金」は、三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」にも紹介されている大隈重信所縁の鰻店で、創業は明治十年(1877)という老舗である。
 この日、嫁さんと新宿に出かける用事があり、せっかくなので早稲田まで足を伸ばして「すず金」で昼食を取ることにした。「すず金」に着いたのは、開店三十分前の午前十一時であったが、既に十人ほどが行列をつくっていた。食べるために並ばないことを信条?としている私としては、一人であればさっさとこの場を立ち去っていただろうが、今回は嫁さんも一緒だったため、辛抱して待つことにした。
 メニューは「うな重」と「蒲焼き」の二つしかない。「肝焼き」という「隠れメニュー」もあるが、既に売り切れ。これを食べたかったら、もっと早く行列に並ぶ必要があるということだ。
 相席になった男性は、大阪からの出張者で、早稲田大学の出身という。休みの日でも開いていて、リーズナブルな価格で鰻を食べることができるので、昔から「すず金」を贔屓にしているそうである。私は嫁さんと標準語で会話しているつもりであったが、「関西の御出身ですか」と簡単に見破られてしまった。
 「すず金」を出たのは、十二時半であったが、既にその時、店の前には「本日の営業は終了しました」と張り紙が出ていた。少し時間が遅れていたら、鰻にありつけないところであった。

(三朝庵)


三朝庵

 三朝庵も大隈重信所縁の店である。今日は中を覗いただけであったが、店内はお客様で満杯であった。店の前に「元大隈家御用 元近衛騎兵連隊御用」とあるように、大隈重信も贔屓にしていた。次回は是非名物のカレー南蛮を注文したい。


カレー南蛮

 早速ですが、カレー南蛮をいただきました。美味しかったです。

(高田牧舎)
 早稲田大学にほど近い高田牧舎(新宿区戸塚1‐101)も大隈重信ゆかりの店である。明治三十八年(1905)創業のこの店は、大隈重信の家に毎朝牛乳を届けていたという。済みませんが、牛乳だけはご勘弁を…。


高田牧舎
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嬉野

2015年08月16日 | 佐賀県
(嬉野温泉)


シーボルトの湯

 シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に随行した際、嬉野温泉で、通常藩主のみが使用する温泉場(現・古湯温泉)で寛いだ。シーボルトが訪れた頃、古湯温泉は鍋島藩の温泉場であり、隣接する東屋は鍋島藩の「湯の番所」であった。シーボルトはここで温泉玉子を食したと記録が残る。また、現在この地域の特産品である嬉野茶も、シーボルトが当地に伝えたといわれる。

(俵坂)


俵坂

 俵坂まで来れば、長崎県まであと少しである。江戸時代、ここは佐賀藩と大村藩の藩境であった。この地に番所が置かれ、平時は侍一人、足軽九人が常駐していたという。現在、関所跡に建つ石碑は、当時の門柱の石材を使用している。
 この関所のことを吉田松陰も日記に記しているし、坂本龍馬もこの道を往復したことであろう。ここから見る風景は、江戸時代とさほど変わっていないのではないか。


俵坂関所遺跡

 俵坂をあとにして大村空港を目指す。今回の長崎・佐賀の旅(五泊六日)は以上で終了である。寝坊した一日を除いて、連日日之出前に起きて、日没まで走り回った。この間、ほとんどまともな食事も取らず、ひたすら史跡を追った。無精髭を伸ばして、朝から汗だくになって撮影した画像は約千三百枚に及んだ。嫁さんからは連休中ずっと家を空けていたことに呆れられ大いに顰蹙を買ったが、個人的には夢のような時間であった。これで長崎・佐賀の史跡を全て回れたというわけではない。また機会を作って、両県の史跡を歩いてみたい。
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有田

2015年08月16日 | 佐賀県
(正司考祺生家)
 有田町岩谷川内の山の中、有田中学校の西側に正司考祺の旧宅がある。正司考祺(碩渓)は、寛政五年(1793)、この地に生まれた町人学者である。父は正司正三郎。出雲の尼子氏の家系と伝えられ、肥後を経て有田西山村に移り、その後、有田皿山に移り住んだといわれる。曽祖父の源七郎のときに絵筆の販売を業とするようになり、兄儀六郎は窯焼きとなって、考祺が家業を継ぐことになった。考祺は家業の傍ら、読書を好み、勉学に励んだ。儒学を基にした経世論などを残している。天保三年(1832)、「倹法富強録」を著し、佐賀藩主側近の古賀穀堂に提出した。ほかに「経済問答秘録」「家職要道」などを著した。文政十一年(1828)、皿山(内山)の大半を焼失し、死者数十人を出した大火の際、私財をなげうって救済したという。


正司考祺生家

 ここで写真を撮っていると、正司家から住人が出てきて、言葉を交わした。
「随分、早いですね。」
と言われたが、確かに私がここを訪れたのは、午前六時にもなっていない早朝で、この時間にここを訪問しようという人は稀有といえるだろう。


正司考祺旧宅

(正司家墓地)
 旧宅から徒歩数分の場所に正司家の墓地がある。その中に正司考祺の墓もある。


碩渓先生之墓(正司考祺の墓)

 正司考祺は安政四年(1857)十二月、六十四歳にて死去。

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武雄

2015年08月16日 | 佐賀県
(儒者河原幡平の墓)


寶屈道珠居士(河原幡平墓)

 実は平山醇左衛門の墓を求めて、武雄市山内町鳥海を早朝から走り回ったが、行き当らず。代わりに?河原幡平の墓を偶然発見した。
 河原幡平は、松浦党の一族、河原道助、貞の子で享和三年(1803)に生まれた。武雄領主二十代家信の家臣栗原帯刀の苗跡を継ぎ、栗原姓を名乗り、武雄鍋島家の家臣となった。武雄領内の第一儒学者であり、また政治家でもあった。号を思斎といった。蔵方役人や武雄藩校身教館の教授を務めた。しかし、領民救済の行動が領主の意思に合わず、家禄を没収され、浪人となった。以後、もとの河原姓に復し、文政年間は武雄に私塾を開いて、その後船ノ原に移した。船ノ原は領主の猟場で、鳥獣の捕獲禁止地区だったため、鳥獣の被害が大きく、見かねた幡平が佐賀藩主に直訴したため、領主は藩主から謹慎を命じられた。百姓たちは、幡平を恩人と崇めていたが、天保十四年(1843)五月、投獄され、同年十一月、白木塞で処刑された。行年四十。

(広福護国寺)


広福護国禅寺

 広福護国禅寺は、武雄温泉街から近い市街地にある。仁治三年(1242)、武雄領主後藤直明の発願で創建されたと伝えられる古刹である。寺には高麗・朝鮮から伝わったとされる画幅や釈迦如来像や四天王像などが安置される。私が訪れた時、本堂は工事中で、ちょうど出てこられた住職によれば、現在拝観できないという。


立野夢庵(元定)先生墓

 墓地には立野元定の墓がある。
 立野元定は、武雄鍋島家の家臣で儒者。幼少より学問を好み、六歳で漢詩を作り、神童と称された。清水龍門、松尾政孝、草場佩川らに学んだ。妻道子は、師清水龍門の娘である。初め武雄領の政治に参与し、のち邑校身教館の教授となった。元定は「三兵答古知機(サンペイタクチーキ)」によって兵学を講義した。戊辰戦争では部隊長として出陣した。帰郷後は自宅に家塾静好堂を開き、のちに中学校の教諭にもなった。生涯を通じて教育に情熱を注ぎ、多くの人材を育てた。墓碑には、谷口藍田による顕彰文が刻まれている。明治十九年(1886)没。

(円応寺)
 円応寺は、永正十六年(1519)に創建され、文禄年間(1592~96)に現在地に移されたという歴史を有する。江戸時代は、武雄鍋島家の庇護を受けてきた。墓地には武雄鍋島家の墓地があるが、ほとんど手入れがされておらず、木造の御霊屋はボロボロだし、雑草は永らく刈られた様子がない。目当てであった鍋島茂義の墓は探しきれなかった。

 鍋島茂義十左衛門は、寛政十二年(1800)の生まれ。文政五年(1822)、部屋住のまま本藩佐賀藩の執政を命じられたが、領内一統人別銀一人前定銀四匁の制定に反対して、同年十二月辞職し、翌年再び執政となった。また財政を核心しようとしてその処置が甚だ過激であったため、執政の職は自然消滅したが、またその翌年この職を命じられた。その後、西洋文化の輸入に努力、特に西洋砲術を高島秋帆に学び、武雄で大砲を鋳造した。天保五年(1834)、命じられて長崎の防備監覧のため長崎に出張した。同六年には佐賀城が炎上したため、城普請頭人を命じられた。天保八年(1837)には、種痘を領内に施行した。文久二年(1862)、六十三歳にて没。
 佐賀の鍋島直正(閑叟)にも多大な影響を与えたといわれる。幕末の佐賀が、他国に先んじて西欧の技術を導入してその面で先進国となった背景には、茂義の存在を抜きには語れない。


円応寺


戊辰戦死者墓

 円応寺に戊辰戦争で戦死した武雄領の藩士の合葬墓がある。墓標に刻まれているのは、「樋口泉兵衛親英 御厨源三郎源芳 馬渡栄助金秋 大古場佐吉包道 西邨喜八孝之 大渡岩太郎満房」の六名である。いずれも鍋島上総茂昌(茂義の長男)の率いる部隊に属していた。

 以下、「幕末維新全殉難者名鑑」の記載による。
 樋口泉兵衛は、慶應四年(1868)八月五日、羽後平沢にて戦死。二十七歳。
 御厨源三郎は、同年九月十二日、羽後長浜にて戦死。十七歳。
 馬渡栄助は、足軽。同年八月二十九日、羽後新屋村にて戦死。三十四歳。
 大古場佐吉も足軽。同年九月十二日、羽後追分にて戦死。二十二歳。
 西邨喜八は、明治元年(1868)九月二十七日、羽後観音森にて戦死。二十六歳。
 大渡岩太郎は軽卒。同年九月二十七日、同じく羽後観音森にて戦死。二十二歳。


(武雄市歴史資料館)


武雄市図書館

武雄市の図書館は、地方の図書館としては驚くほど立派な施設である。館内にはスターバックスが運営するカフェがあり、蔦屋の書店やCD・DVDレンタル店が併設されている。そういえば少し前にテレビのニュースでこの図書館のことが取り上げられていた。賛否両論あるようだが、試みとしては面白いのではないか。
私がこの図書館を訪れたのは、鍋島茂義が手掛けた蘭学資料を集めた「蘭学館」を見るためである。しかし、残念なことに武雄市図書館は、GW期間中は休館となっており、空しく引き上げるしかなかった。
蘭学館はこの施設内の歴史資料館内にあるとか、閉鎖されたとか、ほかに移設されたか、実は色んな説があって良く分からない。図書館の運営を民間に委託しようが、私は普段利用する者ではないのでどちらでも構わないが、貴重な郷土の史料を集めた施設は、大切にしてもらいたい。歴史を大事にしない街は、ロクな人間を育てない。

(花島公民館)


山口尚芳誕生地

 武雄市大字永鳥は、山口尚芳(ますか)を生んだ土地である。そういう史実でもなければ、東京からわざわざ訪れることも無い、とりたてて特徴のある街ではない。
 山口尚芳は天保十年(1839)五月、山口尚澄の子として武雄に生まれた。生家は花島公民館となっているが、地元では「太政官屋敷」と呼ばれている。この小さな田舎町から太政官の高官を生んだ誇りと驚きが入り混じった呼称である。
 尚芳、名は範蔵、治喜人といい、幼い頃から学問に優れ、第二十八代武雄藩主鍋島茂義に見込まれ、長崎で洋学・英語を習得し、佐賀の大隈重信や副島種臣らと交わった。明治四年(1871)には岩倉具視を全権大使とする米欧視察団の副使に任命された。帰国後は、元老院議官、会計検査院長、貴族院議員を歴任し、正三位勲一等を受けた。明治二十七年(1894)六月、死去。

(玉垂神社)
 玉垂神社の急な石段を登っていくと、その突き当りに山口家の墓所がある。その中に山口尚芳やその息尚義、範蔵らの墓がある。


玉垂神社


正三位勲一等山口尚芳墓

 岩倉使節団は明治四年(1871)十二月に横浜を発つと、明治五年(1872)にはアメリカ、イギリス、フランスを歴訪し、翌明治六年(1873)にはベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスさらにスエズ運河を経て、シンガポール、サイゴン、香港、上海を回り、同年九月、横浜に帰着するという長旅であった。

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小城 Ⅱ

2015年08月14日 | 佐賀県
(長栄寺)
 長栄寺には、梧竹の墓がある。中林梧竹は、大正元年(1912)、中風を発症し、翌大正二年(1913)、帰郷したが同年八月病没した。行年八十四。
 梧竹は生涯を通じて観音菩薩を信仰していた。生前一寸五分の観音像を常に身に着けていたという。長栄寺の墓も、聖観世音菩薩を象ったものとなっている。


長栄寺


書聖 中林梧竹之墓

(梧竹観音堂)

 梧竹観音堂(三日月堂)は、明治四十一年(1908)、梧竹八十二歳のとき、建立された。翌年には御物を収める鳳凰閣もその横に建てられたが、現存していない。観音堂も昭和二十四年(1949)の台風で倒壊したが、昭和三十二年(1957)に再建されて今日に至っている。
 正面入口には鍋島直大の書で「三日月堂」の木額が掲げられ、堂内正面には、梧竹が生涯信仰した観音像が祀られる。その左側には、梧竹が先師と慕う草場佩川、山内香雪、余元眉の位牌が安置されている。


梧竹観音堂

(星巖寺)
 星巖寺は、貞享元年(1684)、小城鍋島家二代直能が、初代元茂の菩提を弔うために発願し、三代元武のときに落成した。寺名は、初代元茂と二代直能の法名から取られている。江戸末期には、寺領八十石、敷地十七町もあり、本堂、禅堂、斎堂、知名寮などがあったらしいが、これらは現存してない。現在は楼門や五百羅漢像などが残されている。


星巖寺楼門

 星巖寺楼門は、嘉永五年(1852)、十三代住職沢林のときに完成している。俗に龍宮門と呼ばれ、中国文化の影響を受けたと思われる。この楼門だけで、往時の星巖寺の壮大な境内を想像するきっかけとしては十分である。


五百羅漢

 江戸時代中期に、小城三里西川(さいがわ)の石工、平川徳兵衛一族によって造られたのではないかと伝えられる。二百体ほどが現存している。一つひとつが特徴のある表情をしており、見飽きることがない。


鍋島家墓所

 五百羅漢像のある場所のさらに奥に、小城鍋島家の墓所がある。小城鍋島家は初代から十一代直虎まで続いて明治維新を迎えた。この墓所には三代、六代、九代藩主を除く八人の藩主とその親族の墓がある。


鍋島直亮墓

 鍋島直亮は小城藩第十代藩主。嘉永三年(1850)、家督を継いだ。嘉永六年(1853)、プチャーチン率いるロシア艦隊の来航に伴い、急遽帰国と長崎警備を命じられた。万延元年(1860)の遣米使節に藩士を派遣し、宗藩である佐賀藩にならって洋式の軍制改革を進めたが、元治元年(1864)、三十六歳の若さで病没した。


鍋島直虎墓

 鍋島直虎は、安政三年(1856)、佐賀城下に生まれた。父は、佐賀藩主鍋島直正(閑叟)である。小城藩主直亮の養子となって、慶應元年(1865)二月、家督を相続した。明治二年(1869)、従五位下紀伊守に叙せられ、同年六月、版籍奉還とともに小城藩知事となり、明治四年(1871)、廃藩置県により免ぜられた。同年正月の鍋島直正の病没に際して、直虎が喪主としてその葬儀をとり行った。のち英国に留学。帰朝後、外務省御用掛となった。明治十七年(1884)、子爵に叙せられ、明治二十三年(1890)には貴族院議員となった。大正十四年(1925)、年七十で没。

(印鑰社)


印鑰社

 印鑰(いんりゃく)社に初代司法卿江藤新平生立ちの地という碑が建てられている。
 江藤新平の父、助右衛門胤光は佐賀藩士であったが、上役と合わず浪人となり、晴気庄の印鑰社で私塾を開いた。江藤新平も十二歳から十六歳までの四年間をこの地で過ごした。当時、生活用水として使用されていた堀の跡が残っている。その頃の極貧生活の中で新平は勉学に励み、十四歳のとき、零落した家を再興する詩を書き、母浅子はこれを見て泣いて喜んだという。

 吾祖ノ威名、久熟(ツラツラ)聞ク
 刀槍千隊、三軍ヲ掃クト
 雲蒸霧変、何レノ日カ知ラン
 誓ウ、微躯(ビク)ヲ以ッテ策勲ヲ画サン


初代司法卿 江藤新平生立之地

(本龍院)


本龍院

 千葉胤頼開基の本龍院は、印鑰社からさほど離れていない、西晴気に所在している。「佐賀県の歴史散歩」(山川出版社)によれば、本龍院に江藤家関係ある墓地が残っていると記述されていたので、ここまで足を伸ばしてみた。しかし、墓地を隈なく歩いてみたものの、それらしい墓を見付けることができなかった。

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