史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「戊辰戦争と東北の格差」 太田保世著 東海大学出版会

2011年06月18日 | 書評
ブログを始めて三年になる。ブログでは史跡の訪問記録とともに、書評も掲載してきた。自分にとって史跡訪問と読書は表裏一体のものである。つまり読書を通じて得た情報や知識を、実際に現地に足を運んで自分の目で確かめることが史跡を訪ねる動機となっているのである。これからも益々読書に励み、史跡を訪ね歩こうと思う。
このたびブログにおける書評が百件に到達した。記念すべき百冊目は、福島県郡山市在住の医師、太田保世氏の著作である。
太田氏は十年以上も郡山市で仕事をされてきて、そこでの経験をもとに、東北地方のことをケチョンケチョンにこきおろす。著者の批判の的は、専門である医療や医療行政にとどまらず、政治、行政、教育、マスコミそして文化や風土に至るまで、辛辣に斬りまくる。
例えば会津若松の戊辰戦争関係史跡(西郷一族の自刃の地、白虎隊ゆかりの飯盛山、壮絶な戦死を遂げた中野竹子殉節の地など)は、いずれも“死臭が漂う”ものばかり。それを美化して観光資源化していることに苦言を呈する。確かに、必要以上に美化したり、悲劇を過度に脚色する傾向には感心しない。史実をその場所に記録するのが史跡であり、その主旨に沿ってありのままを保存して欲しいと願う。
著者の東北攻撃は、海外駐在員に似ているとも思う。海外駐在員は、海外での生活、文化に戸惑うものである。やがて「この国のここがオカシイ」「ここが変だ」と批判を始める。ただし海外駐在員も何年か経つと現地に馴れてきて、次第にその駐在地のことを好きになるものなのである。
私もシンガポールや台湾で仕事をした当初は、「どうして彼らは言い訳と他人の批判ばかりするのか」「どうして酒席や食事のときの話題がいつも金儲けの話なのか」「どうして咥えタバコで溶接作業をするのか」「どうしてノーヘル・無免許でバイクに乗っているのか」と、目に入るものがいちいち腹立たしかった。考えてみれば、それは常に母国との比較であった。帰国した今となっては、シンガポールも台湾も大好きである。彼らには彼らの世界があり、その中で健気に生きているのである。
著者の厳しい東北批判に対して、東北人にはそれなりの言い分もあるだろうし、私には妥当性の判断はできないが、震災からの復興という重い命題を抱えた今、ある程度耳を傾けてみる必要はあるかもしれない。「白川以北一山百文」と蔑まれ、それでも地域格差を受け入れてきた東北が、今こそ自立すべき時期に来ている。
この本では榎本武揚と西郷頼母という対照的な二人の人物を取り上げている。
星亮一氏の描く西郷頼母像は、常に狷介不羈で、会津武士道に悖る卑怯者と決まっているが、太田氏の評価は真逆である。無駄な戦争を回避するため、強硬に反対論を主張する。このことで藩主に嫌われ、遂には体よく城外に放逐される。今でも会津では頼母は「腰抜け武士」「卑怯者」「異端者」といった烙印を押されている。徹底抗戦という勇ましい意見が大勢を占めているときに、一人降伏を説くのは勇気の要ることであり、決して腰抜けでも、卑怯でもなかったというのである。
頼母をどう評価するかというのは、延いては会津戦争をどう評価するかに繋がる。会津戦争における悲壮美を賞賛する向きには、許せない存在であろうし、会津戦争を全面否定する立場からいえば、頼母は高く評価されるべき存在となる。私もどちらかというと西郷頼母という人物には同情を感じている。
著者によれば、戊辰戦争は鳥羽伏見の戦いで終了しているという。これを肯定すると、会津戦争の犠牲者は無駄死にとなってしまう。戊辰戦争は鳥羽伏見で終わるべきだったという主張は、関係者には「聞き棄てならぬ」話かもしれないが、案外核心を衝いているのではないか。

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「谷干城」 小林和幸著 中公新書

2011年06月14日 | 書評
谷干城(たてきと読むが、谷自身も「かんじょう」と称していたらしい)といえば西南戦争における熊本城の守将という印象が強い。それは谷干城という人物の一面を表しているに過ぎない。本書を通じて彼の志士、軍人、政治家としての様々な側面を知ることができた。
谷干城は、同藩出身の坂本龍馬とは二歳年下の天保八年(1837)の生まれであるが、谷家は十七世紀に活躍した谷秦山を家祖とする学問の家柄であった。干城も尊王攘夷運動に傾倒していくが、上士出身ということもあり、土佐勤王党とは一線を画していた。どちらかといえば、幕末においては後藤象二郎、乾(板垣)退助、佐佐木高行らと近い存在であった。
しかし、維新後は尽く板垣と対立する。明治六年の政変後、板垣退助が推進した自由民権運動については、士族の権利を拡張しようという「偽民権」であると喝破し、終始批判的であった。明治初年における谷干城は台湾出兵に積極的であったし、西郷隆盛のおこした西南戦争には真っ向から戦った。積極的に新政府を守ろうという立場であったが、むしろ政治家谷干城が本領を発揮するのは、西南戦争後であった。
日本国民の長年の願望であった憲法が制定されると、伊藤博文が初代総理大臣に就任する。そのとき谷干城は農商務大臣に任命された。現代では考えられないことであるが、干城は就任早々、一年三ヶ月に渡り洋行する。この体験は政治家谷干城を大きく成長させた。
帰国後、干城は貴族院に属して、自由党、藩閥政治の両翼を「利己主義」と批判し続けた。足尾銅山鉱毒事件では、社会主義者の幸徳秋水とともに政府を激しく攻撃した。また、日露戦争開戦には徹底して反対であり、戦後も自論を貫いて領土拡張主義を批判した。
明治の元勲と呼ばれる人たちに共通する美質は、決して国を賭けの対象とはしないことであり、多くの同胞の血によって購われた明治国家を守ろうという硬い意思である。幕末を志士として生き抜いた谷干城もその美質を十分に有していた。やはり偉大な政治家の一人だったと思う。現代の政治家(政治屋というべきか)にも、是非読んで欲しい一冊である。

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「藩校」 村山吉廣著 明治書院

2011年06月14日 | 書評
全国各地を歩いていると、どの街にも藩校や郷校、私塾が存在していることに気付かされる。いずれも江戸期から明治初年に開設されたものである。鎖国の時代が終焉を迎え、一気に海外の文明が日本に流入されたが、これを短期間で吸収し得た背景には、各地の教育機関が機能しており、市民が一定の教育水準に達していたことが大きかったと思われる。この本の副題は「人を育てる伝統と風土」であるが、まさに日本全土にわたり、人を育てる伝統と風土が根付いていたのである。
著者は「あとがき」で「各藩黌も決して経済的にゆとりがあって学校を建てたのではない。むしろ窮乏し、藩政が行き詰まって、その道を教育振興に求め、悲壮な決意で創立に至った藩が少なくない。戦後の日本は制度が整い、高学歴者が世にあふれるに至ったが、人心はむしろ荒廃に向かうおそれさえ感じる。」と警鐘を鳴らす。全く同感である。アホな学士を量産するだけの大学であれば、無い方がマシである。
日本全国の藩校を網羅した本など、これまでお目にかかったことが無かった。この本は藩校の辞典的な書籍である。自分も結構各地の藩校を見て回ったという自負があるが、それでもこの本で「ここにも藩校があったのか」と初めて知ることも多々あった。
私は、松平春嶽公の開いた藩校明道館(維新後に明新館と改称)から発展した福井県藤島高校の出身である。でありながら、恥ずかしながら、明道館の前身に正義堂という藩校が存在していたことはこの本で初めて知った。まだまだ知らないことがたくさんあることを思い知らされた。
本書「はじめに」によれば、続編として「郷学、家塾・私塾、寺子屋」の新著を予定しているらしい。今から楽しみである。

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出雲崎

2011年06月11日 | 新潟県
(正法寺)


正法寺

出雲崎町の正法寺は、水戸藩脱走兵が拠点とした寺である。新政府軍は慶応四年(1868)五月十四日、攻撃をしかけ、寺を焼き払った。

(出雲崎)


摂津屋跡 富山弥兵衛拘留の地周辺

既に海が近い。すぐそこに「おけさ源流の地」碑が建っている。


大崎屋跡
富山弥兵衛梟首の地周辺

出雲崎は、司馬先生の『新選組血風録』所収(弥兵衛奮迅)の主人公である薩摩藩の富山弥兵衛が最後を遂げた町である。所縁の場所を回ってみたい。
大崎屋跡付近は、弥兵衛の首が晒された辺りである。首になった弥兵衛を見て、西郷隆盛が
――― 弥兵衛どん、首になっても歯がないのう(弥兵衛奮迅)
と、涙を流すラストシーンが印象的である。

(教念寺)


教念寺


薩摩藩士 富山四郎豊國之碑

富山弥兵衛は、天保十四年(1843)薩摩に生まれた。元治元年(1864)、新選組に加入。翌年には伍長に昇進した。伊東甲子太郎とともに新選組から分離して御陵衛士結成に参加した。慶応三年(1867)の油小路事件では現場を脱して薩摩藩に匿われた。そのまま薩摩軍に加わって戊辰戦争に従軍。出雲崎で水戸諸生党軍に捕えられ、斬首された。二十六歳。

富山弥兵衛は、教念寺のある出雲崎吉水で斬首された。今、吉水は、かつてここで激しい戦闘があったとは思えないほど、静かな田園地帯で、聞こえるのはカエルの鳴き声だけである。

(宇奈具志神社)


宇奈具志神社


血戦場碑

出雲崎の北方、乙茂地区で両軍は大砲を撃ち合って対峙した。白兵戦も演じられたが、容易に決着はつかなかった。
慶應四年(1868)六月二十四日、乙茂を巡って両軍の激戦が交わされた。宇奈具志(うなくし)神社に明治二十九年(1896)血戦場と記された石碑が建てられた。

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加茂

2011年06月11日 | 新潟県
(北越銀行加茂支店)


市川家顕彰碑

栃尾に後退した長岡藩は、さらに陣を加茂に移し、庄屋市川家に本陣を構えた。現在、市川家跡は北越銀行加茂支店となり、市川家の顕彰碑とともに明治天皇御駐蹕所碑が並んで建てられている。ここを起点に河井継之助は長岡城奪回に向けて今町、八丁沖と駒を進めた。


明治天皇御駐蹕所碑

明治十一年(1878)、北越巡幸中の明治天皇は、市川邸で御昼餐をとった。

(大昌寺)


大昌寺

大昌寺は、同盟軍米沢藩が陣を置いたところである。裏山の墓地には、東軍の墓がある。なかなか見つけられず、雨の降る中、何度も墓地の中を行き来することになった。


東軍の墓


会津藩士の墓


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三条

2011年06月11日 | 新潟県
(東山寺)


東山寺

小栗山での戦争の際、米沢藩が陣を置いたのが東山寺である。東山寺には、南北朝時代に製作されたと伝えられる木像四天王像が安置されている。

(赤坂峠古戦場碑)


赤坂峠古戦場碑


表烈碑

三条市から見附市に向かう県道沿いに赤坂峠古戦場がある。慶応四年(1868)六月一日の朝、村松、長岡、会津、米沢の同盟軍が、赤坂峠に布陣する新政府軍を攻撃した。一時は同盟軍が優勢であったが、新政府軍に増援部隊が到着し、戦況は一変した。両軍に多くの死傷者が出る激戦であった。
大正十四年(1925)、この地に表烈碑が建立された。裏面には戦死した七名の村松藩士の名前が刻まれている。

(戊辰戦役の地)


戊辰戦役の地

信濃川の支流、五十嵐川のほとりに戊辰戦役の地碑がある。
慶応四年(1868)八月二日、五十嵐川をはさんで両軍が激しい銃撃を交わした。西郷隆盛の実弟、西郷吉二郎もこの付近の戦闘で負傷して、その後戦死している。
西郷吉二郎は五月の長岡城攻撃に参加した後、薩軍番兵二番隊監軍に転じ、大黒方面から長岡城に進んで城を陥れた。八月二日、五十嵐川での戦闘で腰部に被弾。八月十四日、柏崎の病院で没した。年三十六。

(八幡公園)


八幡神社

八幡神社周辺は、公園となっている。いくつも石碑が建っているが、その中に村山半牧頌徳碑がある。建立は明治三十一年(1898)。


村山半牧頌徳碑

(泉薬寺)


泉薬寺

村山半牧の墓があるが、傘を持たないのに強い雨が降ってきたため、墓地まで行けず。走って駐車場に戻った。

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見附

2011年06月11日 | 新潟県
(称名寺)


称名寺

称名寺には薩摩藩小川三六の墓がある。
小川三六は、慶応四年(1868)五月二十六日、越後小栗山で戦死。


小川三六碑

(村山半牧自決の地)


村山半牧自決の地

見附市の運動公園の近所に、見附市教育委員会の建てた村山半牧自決の地を表す説明板が建っている。
村山半牧は、文政十一年(1828)小須戸に生まれ、三条で育った。通称秀一郎。半牧は号である。若くして画を長谷川嵐渓に学び、各地に遊んで画家として名を成した。京都では藤本鉄石、山中静逸らと親交を持ち、次第に勤王の志を深くした。藤本鉄石が大和五条で挙兵して破れた後、半牧自身も幕吏に追われる身となった。密かに帰郷し尊王攘夷を論ずるが、慶応四年(1868)戊辰戦争が起こると、半牧も北越鎮撫の策をたてて奔走した。そのことで長岡、会津藩同盟軍から追われることになった。同志の雛田松渓、小柳春堤らが捕えられると、難を避けて当地にあった庄屋近藤家に潜伏した。ここで松渓らが処刑されたという誤報に接し、慶応四年(1868)六月十四日、自決して果てた。四十一歳。

(永閑寺)


永閑寺

永閑寺周辺は、今は見附市に組み入れられているが、当時は今町と呼ばれ、両軍が激しく砲火を交わした場所である。司馬先生の『峠』では、「長岡城を回復せんと欲すればまず今町を奪らざるべからず」と河井継之助に語らせるほど重要拠点としている。永閑寺は、新政府軍が最前線基地として本陣を置いた場所である。本堂前に、うっかりすると見逃してしまいそうな「戊辰戦役官軍本陣跡」と書いた木標が立っている。


戊辰戦役官軍本陣跡

(弾痕石碑)


弾痕石碑(薬師如来)

痘痕(あばた)のように弾痕の残る石碑で、この付近の戦闘の激しさを物語る。

(坂井神明社)
山本帯刀率いる一隊は、坂井神明社に拠って新政府軍に向かって砲撃を加えた。これは河井継之助がたてた陽動作戦であり、その間継之助自ら率いる本隊は間道を進んだ。新政府軍が陽動軍に兵力を集中させているうちに、本隊は密かに南下して西側から新政府軍を包囲した。新政府軍は狼狽して南方に遁走した。長岡藩は、長岡城奪回の拠点を確保することに成功した。


坂井神明社

(小栗山不動院)


小栗山不動院

見附市東郊の小栗山も、慶応四年(1868)五月二十六日、両軍による激しい争奪戦が繰り広げられた。境内に山県有朋の詩を刻んだ(何と書いてあるか読み取れず)古戦場跡碑がある。


小栗山古戦場跡地碑

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長岡 栃尾

2011年06月09日 | 新潟県
(善昌寺)


善昌寺

五月十九日の新政府軍の総攻撃により城を明け渡した長岡藩は、悠久山から森立峠を経て、栃尾まで撤退した。


戊辰戦争戦死者墓

栃尾の善昌寺墓地に戊辰戦争戦死者を葬った墓がある。本堂の周辺に墓地が広がるが、そこをいくら歩いても見つからない。隣接する幼稚園の横の道を行って、石段を上ったところにある墓地の一角にあるので、お間違いの無きよう。
七月後半の戦争で犠牲となった、長岡藩、米沢藩、仙台藩といった同盟軍側の戦死者の墓である。


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長岡 七日市

2011年06月09日 | 新潟県
(山田権佐衛門邸跡)


山田権佐衛門邸跡

七日市村の庄屋を代々をつとめた山田権左衛門邸跡である。七日市は、出羽上山藩三万石の飛び領地で、上山藩では陣屋を置いて支配していた。慶応二年(1866)には藩校明進館の分校明進館支館を開校して、農民まで含めた領民子弟の入学を許し、領内の撫育と指導に努めた。

(明新館支館跡)


明新館支館跡

山田権左衛門邸から二百㍍ほど、山側へ行ったところに明新館支館跡がある。


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長岡 与板

2011年06月03日 | 新潟県
(与板城跡)


史跡 與板城址

与板は、今は長岡市の一地域に過ぎないが、江戸時代は小なりといえども独立した藩であった。藩主は井伊家。彦根井伊家の縁戚である。
信濃川をはさんで長岡藩と対峙する与板藩は、期せずして新政府軍の最前線に位置することになった。慶応四年(1868)五月二十七日、会津、桑名、水戸脱走兵、村上といった同盟軍が南下して与板に迫った。これに対し、新政府軍も飯山、薩摩、富山、松代、尾張の各藩兵を派遣して与板藩を支援した。


与板城跡から市街地を臨む

この時の戦闘で城は全焼した。辛うじて大手門と切手門が焼け残り、それぞれ本願寺新潟別院と恩行寺に移築されて現在に至っている。
ここから眺める与板の市街地はさほど広くなく、周囲は水田に取り囲まれている。

(本願寺新潟別院)


与板城大手門

与板藩と本願寺新潟別院の関係は深く、天保元年(1830)、八代藩主井伊直経の発願により着工したもので、完工は明治三年(1870)であった。明治四年(1871)の廃藩置県を機に与板城の大手門が移築された。

(恩行寺)


恩行寺


与板城切手門

移築された与板城の遺構である。よく見ると、上部に井伊家の家紋である「井桁紋」が描かれている。

(中川清兵衛生誕地)


日本のビールの生みの親
中川清兵衛生誕地

ロンドンに留学した村橋久成の生涯を知ったことをきっかけに、最近サッポロ・ビールの歴史にはまっている。サッポロ・ビールが官(北海道開拓使)主導で設立されたのに対し、横浜の外人居留区という消費地をバックにマーケット主導で設立されたキリン・ビール、阪神の酒造業という技術主導で立ち上がったアサヒ・ビールとそれぞれ設立の背景が異なっている。
与板は中川清兵衛の出身地である。中川清兵衛は、サッポロ・ビールのHPでは「ドイツでビール醸造を学んだ初の日本人」と紹介されている。中川が国禁を犯してイギリスに渡ったのは、慶応元年(1865)のことであった。その後、ドイツに移り、そこで留学生総代を務める青木周蔵(のちの外務大臣)と出会う。中川は青木の勧めでベルリンのビール醸造会社で修業を始めた。そして密航から十年を経た明治八年(1875)免状を手に帰国した。北海道開拓使はすぐに中川を迎え、醸造所の建設に着手した。その二年後、念願のビール醸造に成功したのであった。
中川清兵衛は、大正五年(1916)名古屋にて六十九年の生涯を閉じた。

(都野神社)


都野神社


官軍松代藩士之墓

与板の都野神社、蓮正寺、西光寺には、戦没者の墓がある。写真は都野神社神殿前、松代藩士の墓である。

コメント (3)
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