史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡崎 Ⅹ

2025年02月16日 | 京都府

(若王子墓地つづき)

 前回同志社墓地を訪ねたのは十五年前のことであった。その後、大河ドラマで「八重の桜」が放送されたことも影響したのかもしれないが、墓地に通じる道は舗装され、随分と歩きやすくなった。それでも若王子神社から二十分、登坂を歩くと結構な運動になる。

 

中村元助之墓

 

 中村栄助は嘉永二年(1849)の生まれ。油仲買商河内屋栄助の長男で、負けず嫌いの父を助けて、幼時より日夜家業に専念した。十九歳のとき、大洪水があり、交通も途絶えた中を叔父と二人で四日もかかって大阪まで油の買い込みに行った。父の死後、文字通り奮闘努力、支那豆油の入札なども行ったが、間もなく石油に手を出し、三明社を組織してこの方面にも活躍した。その頃、神戸のテレジン商会と石油取引上の争いで敗訴したが、それよりキリスト教に理解をもつようになり、新島襄、山本覚馬の感化を受けて同志社を援助した。のち府会議員、市会議長、衆議院議員を歴任し、政治経済界に貢献した。昭和十三年(1938)、年九十にて病没。

 

新島是水之墓(新島民治の墓)

 

 新島民治は新島襄の父。山本久栄は、覚馬の娘。

 

山本久榮之墓

 

山本権八 仝妻佐久

右三男 三郎 墓

 

 山本権八、佐久は山本覚馬、新島八重の両親である。弟三郎は弘化五年(1848)の生まれ。慶應四年(1868)の鳥羽伏見の戦いに会津藩諸生隊士として参戦。この戦闘で負傷し、海路江戸へ搬送されたが、江戸の会津藩中屋敷にて死去。二十歳。

 

山﨑為徳之墓

 

 山崎為徳(ためのり)は安政四年(1857)仙台藩水沢城下の生まれ。藩校立生館、熊本榕学校で学んだ後、明治八年(1875)、東京大学の前身開成学校に入学したが、新島襄が京都に設立した同志社大学の前身同志社英学校の方針に賛同し、明治十年(1877)、転校した。開校以来の天才と称されたが、肺結核のため明治十四年(1881)、死去。二十四歳。

 

蘇峰学人之墓(徳富蘇峰の墓)

 

 徳富蘇峰の墓である。本墓は多磨霊園にあるが、出身地である熊本県水俣市、同志社墓地にも分骨され墓が設けられた。

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岡崎 Ⅸ

2025年02月16日 | 京都府

(真如堂つづき)

 倉橋泰顕、泰聡の墓を探して、真如堂の墓地を歩き回った。諦めて墓地を出ようとした時、目の前に倉橋家の墓が現れた。

 

倉橋家之墓

 

正二位子爵安倍朝臣泰顕卿(倉橋泰顕の墓)

 

 倉橋泰顕(やすてる)は、天保六年(1835)の生まれ。父は倉橋泰聡。弘化元年(1844)十二月元服。昇殿を許されて因幡権介となり、弘化四年(1847)十二月、左馬頭に任じられ、慶応二年(1866)正月、従三位に叙された。この間、安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下有志公家八十八卿の列参に加わり、文久三年(1863)三月、有志公家六十数卿とともに幕府の上奏した攘夷期限に関する朝幕間評議の大要を明示すべきことを上書。また元治元年(1864)六月、一条家門流三十八卿が横浜鎖港を幕府に督促することを要請した際、その一員として連署に加わった。明治八年(1875)十一月、家族を承け、明治九年(1876)十二月、淑子内親王祗候となった。明治四十三年(1910)、年七十六で没。

 

正三位安倍朝臣泰聡卿(倉橋泰聡の墓)

 

 倉橋泰聡(やすとし)は、文化十二年(1815)の生まれ。父は正二位倉橋泰行。文政十二年(1829)十二月元服。昇殿を許されて丹波権介となり、弘化二年(1845)正月、従三位に進み、嘉永三年(1850)八月、治部卿に任じ、嘉永四年(1851)正月、正三位に叙された。維新後、明治元年(1868)三月、大蔵卿となった。これより先、安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下有志堂上八十八卿の列参に加わり、また文久三年(1863)三月、先に幕府の上奏した攘夷期日を明確にするため有志公家六十数卿とともに期限決定に至る経緯を明示すべきことを関白に上書し、元治元年(1864)六月、一条家門流公家三十八卿が横浜鎖港を幕府に督促することを連署建言した際にもその一員として名を連ねた、なお文久・元治年間再度議奏加勢に補されて朝廷の事務を助け、維新後は一時淑子内親王家祗候となった。明治十四年(1881)、年六十六にて没。

 

三井家墓地

 

 三井家の墓所も真如堂にあるが、固く門が閉ざされており、一般人が中に入ることは不可。ここに幕末の三井家当主高福(たかよし)、高朗(たかあき)父子も眠っている。

 三井高福は、文化五年(1808)、京都越後屋に生まれ、少年期は江戸店で修業し、天保八年(1837)、三十歳で家督を相続して、十三代目八郎右衛門を襲名した。安政六年(1859)、外国奉行所御用金用達を命じられ、横浜開港とともに三井横浜店を開設し貿易に従事した。家業振るわず、その上幕府からのたびたびの御用金賦課に困り、勘定奉行小栗忠順の縁故者三野村利左衛門を支配人に抜擢した。一方、安政二年(1855)、御所火災による造営費用に銀百五十貫目を献上するなど、朝幕間を巧みに遊泳して危機を乗り越え、王政復古後は率先して会計局金穀出納の用達を務め、明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いにより政府軍の進発ごとに軍資金を献上した。同年五月、京都府から掛屋頭取・商法司元締頭取に任じられ、九月には外国人交易取締総頭取、明治二年(1869)には通商司為替会社・貿易商社・開墾会社・北海道産物掛の総頭取を命じられ。新政府の財政基盤確立に大いに貢献し、のちの三井財閥の素地を作った。明治十八年(1885)、年七十八で没。

 

 三井高朗は天保八年(1837)の生まれ。父は三井高福。三井惣領家の長子で、早くから家業を見習い、江戸店を任された。明治元年(1868)鳥羽伏見の戦い後は父とともに積極的に政府軍を援助し、京都両替店の穴蔵に秘密に保管されていた密建金の一部を支出して軍資金とした。さらに新政府の財政確立のため会計基立金の三百万両にのぼる太政官札の発行にはその中心となって活躍した。主として江戸および関東以北においてこの不換紙幣の円滑な流通を図った。明治五年(1872)、同族五名とともに銀行視察のため大蔵少輔吉田清成に随行して渡米し、帰朝後、明治六年(1873)、第一国立銀行、明治七年(1874)、三井組為替銀行、明治八年(1875)、三井銀行、明治九年(1876)、三井物産を次々と創立し、父とともに頭取あるいは総裁となった。明治十二年(1879)一月、家督を相続して、十四代目八郎右衛門となった。新政府の大政治家井上馨と深い関係を持ち、三野村利左衛門を支配人として三井の近代化をはかり、三井財閥の基礎を固めた。明治十八年(1885)二月、家督を弟高棟に譲った。明治二十七年(1894)、年五十八にて没。

 

正二位伯爵源朝臣通冨卿墓(中院通冨の墓)

 

 中院通冨(なかのいんみちとみ)は、文政六年(1823)の生まれ。天保八年(1837)元服・昇殿を許され、天保十二年(1841)八月、右近衛権少将に任じられた。安政四年(1857)五月、参議、文久三年(1863)紀月、権中納言、明治元年(1868)二月、権大納言に任じられ、慶應元年(1865)九月には正二位に叙された。この間、安政五年(1858)、条約勅許問題が起こるや、同年正月現任参議として勅許の可否についき勅問にあずかり、同年三月、中山忠能ら六卿の公家と連署して対外強硬意見三ヶ条を上り、同月また外交措置幕府委任の勅答案に反対して廷臣八十八卿の列参に加わり(通冨は八十八卿の一人ではないとの説もあり)、万延元年(1860)七月、儲󠄀君親王(のちの明治天皇)三卿となった。この後、文久二年(1862)閏八月より慶應三年(1867)十二月までの間、七次にわたって議奏加勢となり、朝廷の要務に関与した。維新後、明治元年(1868)二月、新政府の参与に挙げられ、同年閏四月桂宮祗候となり、爾後殿掌その他を務めた。明治十八年(1885)、年六十三で没。

 

正二位山科言縄卿墓

 

 山科言縄(やましなときなお)は、天保六年(1835)の生まれ。弘化二年(1845)十二月、山科家世襲の官職である内蔵頭に任じられ、安政四年(1857)五月、左近衛権少将を兼任、慶應二年(1866)二月、右中将に転じ、同年三月、従三位に、明治二年(1869)三月、正三位に叙された。その間、文久三年(1863)三月、石清水臨時祭に勅使として参向、攘夷祈願のことを奉仕し、慶應三年(1867)には一時議奏加勢として時務に関与した。維新後は桂宮祗候・殿掌を務めたほかは官途に就かず、専ら家業として伝承した衣紋道・有職故実等の保存・教授に尽くした。大正五年(1916)、年八十二で没。

 

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吉田

2025年02月16日 | 京都府

(吉田神社御本宮)

 吉田神社は、貞観元年(859)に平安京の守護神として創建された古社である。鎌倉時代以降、吉田家が代々神職を相伝し、室町末期には吉田兼倶が吉田神道を起こして幕末に至るまで大きな権勢を誇った。

 幕末の吉田家の当主は吉田良熈(よしひろ)、良義(よしのり)である。

 

吉田神社御本宮

 

(斎場所大元宮)

 斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)は、神職の卜部(吉田)家邸内にあったものを文明十六年(1484)に、吉田兼倶が移建したもので、吉田神道の根本殿堂とされた。本殿(重要文化財)は慶長六年(1601)の建築で、平面上八角形に、六角形の後房を付した珍しい形をしている。

 

斎場所大元宮

 

 斎場所大元宮の奥に明治天皇御胞衣塚があるが、残念ながら一般人の立ち入ることのできるエリアから見ることはできない。

 

(吉田神葬墓地)

 吉田神社から南へ500メートルの場所に吉田神葬墓地がある。ここに吉田家の墓地があるのではないかと期待して、訪ねることにした。結果的に(恐らく)吉田家の墓地は鍵がかけられて進入できず。

 その代わり墓地中央に田能村竹田の義子田能村直入の墓に出会うことができた。

 

直入先生墓(田野村直入の墓)

 

 田能村直入(ちょくにゅう)は、文化十一年(1814)の生まれ。九歳のときに田能村竹田の門に入って南画を学び、竹田にその画才を愛され、義子として田能村の姓を与えられた。壮年に清国に遊び、二十六歳のとき大阪に出て学を篠崎小竹に学び、武を大塩平八郎に受けた。明治初年、京都に移り、南宋画学校を創め、理事兼教授となった。のちの私立美術工芸学校の前身である。そののち博覧会・共進会の審査員を数多くつとめた。画は雅致に富み、とくに山水に長じた。明治四十年(1907)、年九十四にて没。

 

吉田神葬墓地

 

 吉田良熈は文化七年(1810)の生まれ。初め良芳と称したが、嘉永六年(1853)三月、良熈と改めた。吉田神社吉田兼倶の後裔で、代々神祇官次官を継承した。文政六年(1823)十二月元服して昇殿を許され、天保八年(1837)五月、侍従、十二月、神祇権大副に任じられ、弘化四年(1847)五月、従三位に進み、ついで嘉永四年(1851)正月、正三位に叙された。安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下八十八卿の公家が列参した際、その中に加わった。明治元年(1868)、年五十九で没。

 

 吉田良義(よしのり)は、天保八年(1837)の生まれ。父は吉田良熈。嘉永三年(1850)九月、元服して昇殿を許され、安政三年(1856)二月、侍従となり、慶應元年(1865)十二月、従三位に進み、慶應三年(1867)八月、神祇権大副となった。その間、安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下八十八卿の公家が列参した時、その一員に加わった。維新の際、家学吉田神道の振興を志して平田銕胤に入門し、また矢野玄道に国学の講義を受けるなど研鑽を重ねた。明治元年(1868)二月、参与・神祇事務局輔となり、同年十月、皇学所御用掛に任じられ、明治二年(1869)九月、皇学所が廃されると、十二月、宮中勤番、明治三年(1870)十二月、皇太后宮職勤番を仰せ付けられた。明治二十三年(1890)、年五十四で没。

 

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北白川

2025年02月16日 | 京都府

(京都芸術大学)

 

吉田松陰像

 

 京都芸術大学の創設者徳山詳直氏(故人)は、吉田松陰に傾倒し、そのため京都芸術大学のキャンパス内に松陰像が建てられている。

 この像を見るために京都芸術大学に進入した。岡倉天心像の横の階段を昇るとその中腹に松陰像があるはずだが、どういうわけだか構内は工事中で階段は使用禁止であった。

 これで諦めるわけにはいかない。正面の建物のエレベーターに乗って屋上に出れば、松陰像は目の前である。

 高台から京都の街を見渡す松陰像は、なかなか精悍で男前である。

 

至誠にして動かざる者は

未だ之あらざるなり

吉田松陰

 

 松陰像の脇には、松陰の言葉を刻んだ石碑が添えられている。

 

岡倉天心像(平櫛田中作)

 

(北白川天神宮)

 北白川天神宮の鳥居を入った左手に明治天皇の御製碑が建てられている。

 

 いはほきる音もしめりて春雨の

 ふる日しづけき白川の里

 

 「春雨」の題で明治三十九年(1906)に詠まれた御製。北白川では古くから黒雲母花崗岩が採掘され、建物や灯籠・手水鉢、墓石などに使われた。

 

天神宮

 

北白川天神宮

 

明治天皇歌碑

 

 

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市原

2025年02月16日 | 京都府

(厳島神社)

 

厳島神社

 

 叡山電鉄鞍馬線市原駅を降りて、歩いて数分という場所に厳島神社がある。境内には明治天皇御製が建てられている。

 

明治天皇歌碑

 

 めにみえぬ神のこころにかよふこそ

 人の心のまことなりけれ

 

 この歌は、明治四十一年(1908)、「神祇」の題で詠まれた御製である。

 

叡山電車

 

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植物園

2025年02月16日 | 京都府

(京都府立植物園)

 

京都府立植物園

 

楠の並木

 

小野蘭山顕頌碑

 

 小野蘭山は江戸中期の本草・博物学者。享保十四年(1729)、京都の塔之段桜木町(現・京都市上京区)に生まれた。二十五歳のとき身体虚弱のため仕官の道を諦め衆芳軒という私塾を開いた。春秋には塾生らと京の山野に採薬して実地指導した。京都での教育研究は四十六年に及んだが、寛政十一年(1799)、幕府の命を受けて江戸に下り、幕府医学館で教授した。その間、諸国で採薬すること六回。講義録「本草綱目啓蒙」を出版して、その学問を大成させた。島田光房との共著「花彙(かい)」は斬新な植物図譜として海外にも紹介され高い評価を受けた。シーボルトは日本のリンネと称えた。

 門人は全国に千人に達したといわれ、その学統から木村蒹葭堂、岩崎灌園、水谷豊文、山本亡洋、飯沼慾斎、宇田川榕菴、伊藤圭介らを輩出し、日本の博物研究を大きく発展させた。

 文化七年(1810)一月、江戸において死去。享年八十二。

 

明治天皇歌碑

時はかる器は前にありなから

たゆみかちなり人の心は

 

 明治四十一年(1908)に詠まれた明治天皇の御製。一時、石碑上部の時計は外されていたが、最近になってはめ込まれた。

 

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西陣 Ⅲ

2024年01月13日 | 京都府

(善福寺)

 

善福寺

 

 善福寺(上京区尼ケ崎横町出水通千本西入355)は、多田郷士隊が屯所として使用したという寺である。多田郷士隊というのは、北摂多田庄出身者による郷士隊で、戊辰戦争が始まると招集されて上京し、その後、東山道軍や北総総督軍に従って各地を転戦した。多田隊には従軍した隊員とは別に京都に残った留守隊員がいた。また東山道総督軍に従軍した隊員は、慶應四年(1868)六月に京都に凱旋している。そのうち脇田頼三、新井三郎、赤松譲之助、大島賢司、多田佐市、新井左近の六名は、岩倉家の用人・常勤となって仕えることになった。残された多田隊留守隊は、吉村雅楽介、中沢主計、森本左近、長谷中司の四人が頭取となって、善福寺を屯所として駐留を続けた。彼らは新たに入隊所を募り増員されたが、同年十一月末、吉村ら幹部が隊の金を酒宴・遊興に使ったとして隊内から訴えられている。さらに明治二年(1869)一月には、頭取批判グループ、吉村・森本・長谷らを中心としたグループ、頭取の一人中西を中心としたグループに分裂。その後も彼らは分裂と合流を繰り返したが、明治二年(1869)七月二十日、新政府刑法官より多田隊廃止が発せられた。残留していた隊員はそれぞれ出身地に引き取られたが、その後には多額の借金が残されたという(「戊辰戦争と草莽の志士」高木俊輔著 吉川弘文館)。

 

(大幸寺)

 

大幸寺

 

 「明治維新人名辞典」(吉川弘文館)によると藤井九成の墓が大幸寺にあるというので、墓地を歩いてみた。藤井姓の墓が二つ見つかったが、藤井九成の血縁者かどうかは不明。

 その後、青山霊園で藤井九成の墓に出会ったので、彼の墓は移葬されたとみるのが自然であろう。

 

(瑞雲院)

 

瑞雲院

 

 同じく「明治維新人名辞典」情報だが、瑞雲院には画家横山華渓の墓があるという。こちらも探し方が十分ではなかったのか、発見に至らず。

 横山華渓(かけい)は、文化十二年(1815)の生まれ。生家は、柏屋という若狭国高浜町の名門で、農桑と酒造を業とした。幼より絵心が豊かで、堀尾某に学び、長じて京都で岸駒の門に入り、また横山華山に師事し、天保八年(1837)、師が没すると横山家を継いだ。堂上公家諸侯に出入りして大作をものし、紫宸殿の襖絵に「十八賢画像」を謹写したという。遺作ははなはだ多いが、特に「蘭亭の図」は山水を描いた大作である。余徳として桑苗施行を企て、年々八十万本の桑を若狭および近国の有志に頒つことを五ヵ年に及んだ。元治元年(1864)二月、年五十で没。

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円町 Ⅴ

2024年01月13日 | 京都府

(慈眼寺)

 慈眼寺(じげんじ)は、天正十年(1588)、鷹司信房の妻嶽星院が父の熊本城主佐々成政の菩提を弔うために建立したもので、墓地には佐々成政の墓がある。当初、西陣の地に建てられたが、後に寺町丸太町に移され、寛文三年(1663)に現在地(上京区七番町)に再建された。墓地には南画家山本梅逸の墓がある。

 

慈眼寺

 

山本梅逸居士(山本梅逸の墓)

 

 山本梅逸(ばいいつ)は、天明三年(1783)、尾張名古屋の生まれ。父は彫刻士山本友右衛門。初め張月樵に画を学ぶ。父が早世し、一時神谷天遊の学僕となった。中林竹洞と親交し、ともに京都に出て「芥分園画伝」や明・清の名蹟に学び、画技を磨いた。山水・花鳥をよくし、繊細な筆と姸麗な賦彩を特色とし、京洛の地に大いに行われ、名声竹洞と比肩した。煎茶をよくし、しばしば雅客を迎えて茶会を催した。藩侯の御殿落成に際し、江戸の谷文晁と襖絵を描いたこともある。一時江戸に下り、文晁の斡旋を得て画名上がったが、流行におぼれて次第に人気が落ちた。天保三年(1842)以降、ニ~三年間京都にとどまり、安政元年(1854)、七十二歳のとき名古屋に帰って、藩の御絵師格となった。笛や和歌にも長じた。門下に藤堂凌雲らがいる。門人梅所を養嗣子とした(同じ墓に梅所も葬られている)。安政三年(1856)、年七十四にて没。

 

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烏丸 Ⅴ

2024年01月13日 | 京都府

(新町通り)

 

幸野楳嶺生誕地

 

 四条烏丸の交差点から西に二本目の筋が新町通りである。四条通りから新町通りを下ると、三十メートルほどのところの民家の前に幸野楳嶺生誕地を示す小さな石碑が建てられている。幸野楳嶺は、弘化元年(1844)、金穀貸付業を営む安田四郎兵衛の第四子としてこの地に生まれた。嘉永五年(1852)、楳嶺九歳のとき、円山派の絵師中島来章に入門した。なお新町四条の生家は、元治元年(1864)の禁門の変で罹災したという。

 

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下鴨神社 Ⅳ

2024年01月13日 | 京都府

(御蔭通り)

 

明治天皇御駐輦所寒天製造場阯

 

 下賀神社の前の道(南側)は御蔭通りと名付けられている。歯医者の隣の民家の前に「明治天皇寒天製造場阯」碑が建っている。明治十年(1877)、二月一日に行幸があった。

 

(本満寺つづき)

 三上復一(またいち)の墓を訪ねて本満寺の墓地を歩いた。三上家の墓は複数発見したが、復一が合葬されている確信は得られなかった。

 三上復一は、天保四年(1833)、京都西陣の生まれ。三上家は禁裏御寮織物司(旧織部司)に所属した六家のうちの一つで、元亀二年(1571)、大舎人座の兄部(こうべ)に任命され、宮中の織物をつかさどり、明治三年(1870)まで代々相勤めた。復一は万延元年(1860)、平田家より養子に入り、織物司三上家の最後で、文久二年(1862)越前介の口宣案を拝受した。孝明天皇の葬儀、明治天皇の即位時の様々な装束を調進し、東京遷都にも扈従したが、まもなく帰京して稼業一筋に生きた。大正八年(1919)、年八十七にて没。

 三上家は今も京都市上京区紋屋町に存続しているそうだ。実家の近所なので、一度確認に行ってみたい。

 

(阿弥陀寺)

 阿弥陀寺には織田信長、織田信忠父子の墓があることで知られる。

 寺に伝わる話によれば、本能寺が襲われたという情報に接した阿弥陀寺住職清玉上人は直ちに本能寺に駆け付けた。しかし、清玉上人が目にしたのは自害して果てた信長の遺体であった。上人は信長の首をもらいうけ、闇に紛れて寺に持ち帰り、ここに葬ったといわれる。

 墓地に入るには寺務所にて五百円を支払わなくてはいけない。私の目当ては、織田信長の墓ではなくて、石山基文・基正父子の墓だったのだが、石山姓の墓石すら発見することはできなかった。仕方なく織田信長・信忠父子の墓の写真を撮って撤退。

 

阿弥陀寺

 

織田信長(右)・信忠父子の墓

 

森蘭丸らの墓

 

清玉上人の墓

 

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