(真如堂つづき)
倉橋泰顕、泰聡の墓を探して、真如堂の墓地を歩き回った。諦めて墓地を出ようとした時、目の前に倉橋家の墓が現れた。
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倉橋家之墓
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正二位子爵安倍朝臣泰顕卿(倉橋泰顕の墓)
倉橋泰顕(やすてる)は、天保六年(1835)の生まれ。父は倉橋泰聡。弘化元年(1844)十二月元服。昇殿を許されて因幡権介となり、弘化四年(1847)十二月、左馬頭に任じられ、慶応二年(1866)正月、従三位に叙された。この間、安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下有志公家八十八卿の列参に加わり、文久三年(1863)三月、有志公家六十数卿とともに幕府の上奏した攘夷期限に関する朝幕間評議の大要を明示すべきことを上書。また元治元年(1864)六月、一条家門流三十八卿が横浜鎖港を幕府に督促することを要請した際、その一員として連署に加わった。明治八年(1875)十一月、家族を承け、明治九年(1876)十二月、淑子内親王祗候となった。明治四十三年(1910)、年七十六で没。
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正三位安倍朝臣泰聡卿(倉橋泰聡の墓)
倉橋泰聡(やすとし)は、文化十二年(1815)の生まれ。父は正二位倉橋泰行。文政十二年(1829)十二月元服。昇殿を許されて丹波権介となり、弘化二年(1845)正月、従三位に進み、嘉永三年(1850)八月、治部卿に任じ、嘉永四年(1851)正月、正三位に叙された。維新後、明治元年(1868)三月、大蔵卿となった。これより先、安政五年(1858)三月、日米通商条約勅許阻止のため中山忠能以下有志堂上八十八卿の列参に加わり、また文久三年(1863)三月、先に幕府の上奏した攘夷期日を明確にするため有志公家六十数卿とともに期限決定に至る経緯を明示すべきことを関白に上書し、元治元年(1864)六月、一条家門流公家三十八卿が横浜鎖港を幕府に督促することを連署建言した際にもその一員として名を連ねた、なお文久・元治年間再度議奏加勢に補されて朝廷の事務を助け、維新後は一時淑子内親王家祗候となった。明治十四年(1881)、年六十六にて没。
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三井家墓地
三井家の墓所も真如堂にあるが、固く門が閉ざされており、一般人が中に入ることは不可。ここに幕末の三井家当主高福(たかよし)、高朗(たかあき)父子も眠っている。
三井高福は、文化五年(1808)、京都越後屋に生まれ、少年期は江戸店で修業し、天保八年(1837)、三十歳で家督を相続して、十三代目八郎右衛門を襲名した。安政六年(1859)、外国奉行所御用金用達を命じられ、横浜開港とともに三井横浜店を開設し貿易に従事した。家業振るわず、その上幕府からのたびたびの御用金賦課に困り、勘定奉行小栗忠順の縁故者三野村利左衛門を支配人に抜擢した。一方、安政二年(1855)、御所火災による造営費用に銀百五十貫目を献上するなど、朝幕間を巧みに遊泳して危機を乗り越え、王政復古後は率先して会計局金穀出納の用達を務め、明治元年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いにより政府軍の進発ごとに軍資金を献上した。同年五月、京都府から掛屋頭取・商法司元締頭取に任じられ、九月には外国人交易取締総頭取、明治二年(1869)には通商司為替会社・貿易商社・開墾会社・北海道産物掛の総頭取を命じられ。新政府の財政基盤確立に大いに貢献し、のちの三井財閥の素地を作った。明治十八年(1885)、年七十八で没。
三井高朗は天保八年(1837)の生まれ。父は三井高福。三井惣領家の長子で、早くから家業を見習い、江戸店を任された。明治元年(1868)鳥羽伏見の戦い後は父とともに積極的に政府軍を援助し、京都両替店の穴蔵に秘密に保管されていた密建金の一部を支出して軍資金とした。さらに新政府の財政確立のため会計基立金の三百万両にのぼる太政官札の発行にはその中心となって活躍した。主として江戸および関東以北においてこの不換紙幣の円滑な流通を図った。明治五年(1872)、同族五名とともに銀行視察のため大蔵少輔吉田清成に随行して渡米し、帰朝後、明治六年(1873)、第一国立銀行、明治七年(1874)、三井組為替銀行、明治八年(1875)、三井銀行、明治九年(1876)、三井物産を次々と創立し、父とともに頭取あるいは総裁となった。明治十二年(1879)一月、家督を相続して、十四代目八郎右衛門となった。新政府の大政治家井上馨と深い関係を持ち、三野村利左衛門を支配人として三井の近代化をはかり、三井財閥の基礎を固めた。明治十八年(1885)二月、家督を弟高棟に譲った。明治二十七年(1894)、年五十八にて没。
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正二位伯爵源朝臣通冨卿墓(中院通冨の墓)
中院通冨(なかのいんみちとみ)は、文政六年(1823)の生まれ。天保八年(1837)元服・昇殿を許され、天保十二年(1841)八月、右近衛権少将に任じられた。安政四年(1857)五月、参議、文久三年(1863)紀月、権中納言、明治元年(1868)二月、権大納言に任じられ、慶應元年(1865)九月には正二位に叙された。この間、安政五年(1858)、条約勅許問題が起こるや、同年正月現任参議として勅許の可否についき勅問にあずかり、同年三月、中山忠能ら六卿の公家と連署して対外強硬意見三ヶ条を上り、同月また外交措置幕府委任の勅答案に反対して廷臣八十八卿の列参に加わり(通冨は八十八卿の一人ではないとの説もあり)、万延元年(1860)七月、儲󠄀君親王(のちの明治天皇)三卿となった。この後、文久二年(1862)閏八月より慶應三年(1867)十二月までの間、七次にわたって議奏加勢となり、朝廷の要務に関与した。維新後、明治元年(1868)二月、新政府の参与に挙げられ、同年閏四月桂宮祗候となり、爾後殿掌その他を務めた。明治十八年(1885)、年六十三で没。
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正二位山科言縄卿墓
山科言縄(やましなときなお)は、天保六年(1835)の生まれ。弘化二年(1845)十二月、山科家世襲の官職である内蔵頭に任じられ、安政四年(1857)五月、左近衛権少将を兼任、慶應二年(1866)二月、右中将に転じ、同年三月、従三位に、明治二年(1869)三月、正三位に叙された。その間、文久三年(1863)三月、石清水臨時祭に勅使として参向、攘夷祈願のことを奉仕し、慶應三年(1867)には一時議奏加勢として時務に関与した。維新後は桂宮祗候・殿掌を務めたほかは官途に就かず、専ら家業として伝承した衣紋道・有職故実等の保存・教授に尽くした。大正五年(1916)、年八十二で没。