今年のGWに宮崎県を旅し、宿願であった飫肥にも足を運ぶことができた。本来であれば、本書は宮崎訪問の前に出会うべきものであるが、残念ながらこの本を八王子の本屋で発見したのは、そのずっと後であった。読み終わって「やっぱり宮崎旅行の前に出会いたかった」と臍をかむ思いであった。
本書の副題は「平部嶠南の二つの日誌を読みとく」となっている。平部嶠南は、文化十二年(1815)、旧飫肥藩領清武町中野(現・宮崎市清武町)の生まれ。幼年より秀才の誉れ高く、同郷の安井息軒の教えを受けた。天保四年(1833)、江戸に上って古賀侗庵の門に入り、帰途水戸の諸学者を訪れた。帰国して藩校振徳堂の教授となり、弘化元年(1844)、江戸桜田邸副留守居、のち家老となった。明治二十三年(1890)、年七十六で没。
平部嶠南は、「嶠南日誌」と「六鄰荘日誌」という二つの日誌を残している。六鄰荘とは、嶠南が起居していた本宅とは別に、嶠南五〇歳となった元治元年(1864)に新築した住居のことである。隣に六軒の隣家があったことから「六鄰荘」と名付けた。
では、何故嶠南は二つの日誌を残したのか。「嶠南日誌」はリアルタイムで書かれた普通の日記である。これに対し「六鄰荘日誌」は、後日「嶠南日誌」をベースにしながらも、官から追及されても言い逃れができるように書き換えられたものである。
たとえば、「西郷起つ」の一報が飫肥にもたらされると、嶠南も「兵士出張の主意書」という檄文作成に関わり兵を募った。嫡子平部俊彦も飫肥一番隊の一員として出征した。元家老として飫肥隊の結成に積極的に関与したのである。しかし、「六鄰荘日誌」では「事の善悪は暫くこれを置くとして、今なお士気があってこれほどまでに勇み立つとは。さすが二百八十五年の間伊東氏が飫肥を治められた名残かなと、心の中は感慨ひとしおであった」とのみ記す。自らの関与は触れずに、その時の感動だけを書き残している。
この用意周到さがあって幕末の争乱にあって、飫肥藩では嶠南を家老として重用し、彼もそれに応えて存分に腕を振ったのであろう。組織のトップの最大の仕事はリスクマネジメントなのである。
本書前半部分に書かれた西郷隆盛に関する分析は、多分に司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に影響されたところはあるにせよ、的確に西郷隆盛の二面性とか複雑性を突いている。西郷は留守政府時代、学制改革や太陽暦の採用、地租改正、キリスト教禁教の撤廃など、革新的進歩的な施策を主導した。一方で不平士族の利益を保護するような後進的・封建的な顔ものぞかせる。侵略的かつ帝国主義的な征韓論を主張したかと思えば、「江戸無血開城」のように避戦闘的な姿勢も見せる。度量が大きいようで、謎めいたところもあり、庶民的なようでいざとなったら武力行使も辞さない強硬派でもあった。筆者がいうように西郷を語る時、「複眼的に見る必要がある」というのは極めて適確な西郷論である。
ところが「飫肥西郷」と称される小倉處平論となると、いきなり客観性と冷静さを失ってしまう。「小藩飫肥藩の国是は絶えず薩摩を警戒し、いかにして薩摩に飲み込まれないようにするかということでしたが、處平は日本を変えるのは薩摩だと見抜いていた」「處平の囚われない眼力には驚かされます」と絶賛するが、最後まで西郷と薩摩に追随した飫肥隊は大きな犠牲を払い、小倉處平自身も自刃して命を絶つことになった。結果からみれば、薩摩に頼り過ぎた處平は身を誤ったとしか思えない。
筆者が本書の主役と位置付ける、平部嶠南の嫡子俊彦の戦死、そしてそれを伝えきいた一族の慟哭、追い打ちをかけるように俊彦の遺児知一の病死。一族を襲った悲劇は胸をつく。嶠南の失意はいかばかりであったろうか。
第7章から第8章にかけての記述はかなり無茶苦茶である。伊藤博文の内閣で外務大臣を務めた陸奥宗光だが、伊藤が急死したため昔の機密文書が明るみに出て、禁固五年の刑に処されたとか(伊藤の暗殺は明治四十二年(1909)、陸奥が投獄されたのは西南戦争後)、佐賀の乱で江藤新平と島団右衛門(義勇)とが同じ船で土佐に渡ったとか、小倉處平が「西郷隆盛の挙兵」を聞いて、神戸から小倉に向かう船に会津出身の永岡久茂(思案橋事件で獄死)が同乗していたとか、貴島清が都城出身だとか、どこからそのような話を引っ張ってきたのか、首を傾げる記述が目に付く。
歴史書として本書を読むと当てが外れる。そうではなくて宮崎県の史跡ガイド本として本書をとらえると、さすがに地元の人が各所に足を運んで記載しているものである。日南市飫肥の上越墓地は、もちろん私も訪ねたが、今から思えばもっと墓石を一つひとつ確認しておくべきだった。清武町の中野神社も訪問したが、隣接する西南役記念碑はその存在をまったく見逃してしまった。いずれリベンジせねばならない。