史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西南戦争と飫肥隊」 河野富士夫著 みやざき文庫

2022年11月26日 | 書評

今年のGWに宮崎県を旅し、宿願であった飫肥にも足を運ぶことができた。本来であれば、本書は宮崎訪問の前に出会うべきものであるが、残念ながらこの本を八王子の本屋で発見したのは、そのずっと後であった。読み終わって「やっぱり宮崎旅行の前に出会いたかった」と臍をかむ思いであった。

本書の副題は「平部嶠南の二つの日誌を読みとく」となっている。平部嶠南は、文化十二年(1815)、旧飫肥藩領清武町中野(現・宮崎市清武町)の生まれ。幼年より秀才の誉れ高く、同郷の安井息軒の教えを受けた。天保四年(1833)、江戸に上って古賀侗庵の門に入り、帰途水戸の諸学者を訪れた。帰国して藩校振徳堂の教授となり、弘化元年(1844)、江戸桜田邸副留守居、のち家老となった。明治二十三年(1890)、年七十六で没。

平部嶠南は、「嶠南日誌」と「六鄰荘日誌」という二つの日誌を残している。六鄰荘とは、嶠南が起居していた本宅とは別に、嶠南五〇歳となった元治元年(1864)に新築した住居のことである。隣に六軒の隣家があったことから「六鄰荘」と名付けた。

では、何故嶠南は二つの日誌を残したのか。「嶠南日誌」はリアルタイムで書かれた普通の日記である。これに対し「六鄰荘日誌」は、後日「嶠南日誌」をベースにしながらも、官から追及されても言い逃れができるように書き換えられたものである。

たとえば、「西郷起つ」の一報が飫肥にもたらされると、嶠南も「兵士出張の主意書」という檄文作成に関わり兵を募った。嫡子平部俊彦も飫肥一番隊の一員として出征した。元家老として飫肥隊の結成に積極的に関与したのである。しかし、「六鄰荘日誌」では「事の善悪は暫くこれを置くとして、今なお士気があってこれほどまでに勇み立つとは。さすが二百八十五年の間伊東氏が飫肥を治められた名残かなと、心の中は感慨ひとしおであった」とのみ記す。自らの関与は触れずに、その時の感動だけを書き残している。

この用意周到さがあって幕末の争乱にあって、飫肥藩では嶠南を家老として重用し、彼もそれに応えて存分に腕を振ったのであろう。組織のトップの最大の仕事はリスクマネジメントなのである。

本書前半部分に書かれた西郷隆盛に関する分析は、多分に司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に影響されたところはあるにせよ、的確に西郷隆盛の二面性とか複雑性を突いている。西郷は留守政府時代、学制改革や太陽暦の採用、地租改正、キリスト教禁教の撤廃など、革新的進歩的な施策を主導した。一方で不平士族の利益を保護するような後進的・封建的な顔ものぞかせる。侵略的かつ帝国主義的な征韓論を主張したかと思えば、「江戸無血開城」のように避戦闘的な姿勢も見せる。度量が大きいようで、謎めいたところもあり、庶民的なようでいざとなったら武力行使も辞さない強硬派でもあった。筆者がいうように西郷を語る時、「複眼的に見る必要がある」というのは極めて適確な西郷論である。

ところが「飫肥西郷」と称される小倉處平論となると、いきなり客観性と冷静さを失ってしまう。「小藩飫肥藩の国是は絶えず薩摩を警戒し、いかにして薩摩に飲み込まれないようにするかということでしたが、處平は日本を変えるのは薩摩だと見抜いていた」「處平の囚われない眼力には驚かされます」と絶賛するが、最後まで西郷と薩摩に追随した飫肥隊は大きな犠牲を払い、小倉處平自身も自刃して命を絶つことになった。結果からみれば、薩摩に頼り過ぎた處平は身を誤ったとしか思えない。

筆者が本書の主役と位置付ける、平部嶠南の嫡子俊彦の戦死、そしてそれを伝えきいた一族の慟哭、追い打ちをかけるように俊彦の遺児知一の病死。一族を襲った悲劇は胸をつく。嶠南の失意はいかばかりであったろうか。

第7章から第8章にかけての記述はかなり無茶苦茶である。伊藤博文の内閣で外務大臣を務めた陸奥宗光だが、伊藤が急死したため昔の機密文書が明るみに出て、禁固五年の刑に処されたとか(伊藤の暗殺は明治四十二年(1909)、陸奥が投獄されたのは西南戦争後)、佐賀の乱で江藤新平と島団右衛門(義勇)とが同じ船で土佐に渡ったとか、小倉處平が「西郷隆盛の挙兵」を聞いて、神戸から小倉に向かう船に会津出身の永岡久茂(思案橋事件で獄死)が同乗していたとか、貴島清が都城出身だとか、どこからそのような話を引っ張ってきたのか、首を傾げる記述が目に付く。

歴史書として本書を読むと当てが外れる。そうではなくて宮崎県の史跡ガイド本として本書をとらえると、さすがに地元の人が各所に足を運んで記載しているものである。日南市飫肥の上越墓地は、もちろん私も訪ねたが、今から思えばもっと墓石を一つひとつ確認しておくべきだった。清武町の中野神社も訪問したが、隣接する西南役記念碑はその存在をまったく見逃してしまった。いずれリベンジせねばならない。

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妙高

2022年11月19日 | 新潟県

(関川)

江戸時代、江戸と地方を結ぶ主要な街道には関所が置かれた。北国街道沿いでは、越後と信濃の境を流れる関川に関川関所が置かれていた。

 

関川

 

北国街道は、軽井沢の追分で中山道から分岐して善光寺を経て越後高田に至る脇街道のことをいう。終点は出雲崎もしくは金沢ともいい、幕府はこの道を北国往還と呼んだ。佐渡から金銀を輸送する安全な道として、また北陸諸藩の大名が参勤交代で利用する道として重視され、庶民にとっても善光寺参拝等に欠かせない道として盛んに利用された。

 

関川関所道の歴史館

 

再現された関川関所

 

関所跡

 

関川関所は高田藩によって管理された。関川関所に常勤の藩士二名を派遣し、その下に足軽(下番)や人見女などを置いた。また大規模な大名行列などに備えて、近隣村々の百姓十名を郷足軽に任命して職務にあたった。

現在、関所跡には「道の歴史館」が開設され、関所に関する資料の展示、復元された番所建物などを見ることができる。入館料五百円。

 

明治天皇関川行在所阯

 

明治十一年(1878)、明治天皇は三回目の巡幸で新潟県を経由して北陸道、東海道を巡行した。随行員は、岩倉具視、大隈重信ら約八百人、乗馬は約百二十頭に及ぶ大規模なものであった。八月三十日に東京を出て、還幸は十一月二十九日、つまり七十二日におよび巡幸であった。

九月十日の午後四時過ぎ、関川関所跡で小休息をとり、その後、近くの旧加賀藩本陣大石邸で宿泊した。

 

加賀藩本陣跡(大石家)

 

加賀藩本陣大石家は、元文四年(1739)から加賀藩をはじめ九つの大名家の本陣として使われた。明治十一年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際にも行在所となった。当時の建物は火災によって失われたが、建物の東側には池を中心とした庭園が残されている。

 

豊田家

 

高田藩本陣跡

 

 高田藩の専用本陣であった豊田家の建物は昭和に入って取り壊された。現在は、石の塀や銀杏の大木のみが往時を偲ぶものとなっている。

 

(関山)

 

北国街道 関山宿

 

 関山村は、高田藩と宝蔵院という寺院が分割して支配していたが、宿場の業務は高田藩領の役人が行った。関山宿は、関山権現社(関山神社)の門前町として栄えた。

 

関山神社

 

明治天皇駐輦碑

 

 関山神社の入り口近くに明治天皇駐輦碑が立つ。題字は元帥海軍大将東郷平八郎。

 

(二俣)

 

北国街道 二俣宿

 

明治天皇二俣御小休所阯

 

 二俣宿は田切宿と合宿で、大田切川と郷田切川に挟まれた交通の難所にあった。文化十三年(1816)、赤倉温泉開湯によって、温泉場入口の宿場として栄えた。

 

(君の井酒造)

 

君の井酒造

 

 本願寺新井別院に隣接する君の井酒造は、明治天皇巡幸の際、酒が献上されたという。せっかくだから、お土産に日本酒でも…と考えていたのだが、残念なことにこの日お店はお休みであった。

 

君の井

 

(東本願寺新井別院)

 東本願寺新井別院は、上越地方の東本願寺の末寺や門徒を統括するために、貞享二年(1685)に創建された。境内には樹齢五百年を超えるという一対の大イチョウが聳えている。

 明治十一年(1878)九月十一日、関川を出発した明治天皇は、二俣、田野、関山、二本木で小休を重ね、東本願寺新井別院で昼食をとった。この巡幸の直前、新井別院の本堂は落雷を受けて焼失してしまったため、宝蔵院から庫裏を移築して行在所に充てたという。

 

東本願寺新井別院

 

明治天皇新井行在所

 

明治天皇行在所聖蹟

 

森蘭斎 森蘭園 梅津祐齋 墓

 

 森蘭斎は本名を森田文祥といい、元文五年(1740)に新井村に生まれた。二十三歳のとき、長崎で神代熊斐の門人となった。やがて門人千余人の中から選ばれて師匠の家督を相続し、その時蘭斎という号を名乗った。のち江戸に出て師匠の画風を広めることを使命と考えていたが、安永三年(1774)、大阪に出て関西画壇で名声を博し、天明二年(1782)、四十二歳で「蘭斎画譜」八巻を京都、大阪、江戸で出版した。その後、江戸に出て当代一流の画家(後に南蘋派と呼ばれた)となり、徳川御三家の御用を勤めるようになった。また加賀前田藩のお抱え絵師にもなった。享和元年(1801)、江戸で六十二歳の生涯を閉じた。

 蘭斎の墓は、当初浅草の妙清寺にあったが、昭和五年(1930)、当時の新井町長をはじめ地元有志が資金を出して、当寺院に移築した。同じ墓に蘭斎の息で、やはり絵師となった森蘭園も葬られている。

 

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上越 Ⅴ

2022年11月19日 | 新潟県

(小猿屋)

 

笠松宗謙墓

 

史蹟 笠松宗謙住居跡

 

 小猿屋(こざるや)という集落に笠松宗謙の住居跡および墓がある。

 笠松宗謙は、天保九年(1838)の生まれ。諱は宗謙、通称は謙吾、源次郎、賀之吉。倉石侗窩に学び、嘉永六年(1853)、江戸に出て安積艮斎の門に学び、艮斎没後昌平黌に入り、文久元年(1861)、帰郷して塾を開き、勤王の士と交わって庇護した。慶應二年(1866)、まず会津を討つべしとして、下越の同志と語らい奥羽の諸藩に遊説したが、慶応三年(1867)、これが露顕して村松藩の七士が捕らえられると、宗謙も名を変えて仙台に出奔した。慶應四年(1868)の戊辰戦争には帰郷して政府軍を先導して活躍し、明治四年(171)、柏崎県庁に建言して川浦郷学を設け、教授として地方教育に尽くした。明治五年(1872)、年三十五で没。

 

(光明寺)

 光明寺には官軍に属して戊辰戦争で戦死した小浜藩士山田庫之進の墓がある。

 

光明寺

 

山田盛房之墓(山田庫之進の墓)

 

 山田庫之進は、慶応四年(1868)六月、越後出雲崎にて戦死。三十一歳。

 

(黒井)

 

明治天皇聖蹟

 

 黒井交差点近くの空き地の前に明治天皇聖蹟碑が建てられている。明治十一年(1878)九月二十五日、滞在。

 

(行野浜)

 県道129号線沿いの民家の前に明治天皇行野濱御小休所 附御膳水碑が建てられている。明治十一年(1878)九月二十五日の滞在。

 

明治天皇行野濱御小休所 附御膳水

 

明治天皇行野濱御小休所

 

(潟町)

 

明治天皇潟町行在所

 

 潟町郵便局近くに明治天皇潟町行在所碑がある。背後の建物は往時の面影を伝えている。

 

(浄福寺)

 柿崎の浄福寺には御座所跡が保存され、その前に「明治天皇御駐輦所」碑が立つ。寺には下賜されたと伝わる明治天皇の足袋やお茶碗、行在所と墨書された木札などが保存されている。

 

浄福寺

 

明治天皇御駐輦所

明治天皇御座所

 

(頚城酒造株式会社)

 

頚城酒造株式会社

 

 頚城酒造の歴史は、元禄十年(1697)まで遡る。上杉謙信の家臣八木家の分家が大地主となり、五代目八木善六郎によって八木酒造が創業されたのがその起源である。

 明治十一年(1878)の明治天皇の北陸巡幸において、柿崎の浄福寺が行在所に指定された。明治天皇に献上された御膳水には八木家と縁戚関係にあった小松酒造の水が選ばれた。

 昭和十一年(1936)、小松酒造は八木酒造に譲渡され、頚城酒造が誕生した。

 

(二本木)

 

明治天皇二本木御小休所

 

 二本木地区の白山神社の隣に明治天皇二本木御小休所碑が立ち、その背後に天皇が滞在した建物が保存されている。

 

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上越 Ⅳ

2022年11月19日 | 新潟県

(榊神社つづき)

 

琴臺東條先生之碑

 

 琴臺東條先生之碑は、大正九年(1920)九月の建碑。篆額の揮毫は西園寺公望。撰文は森林太郎(鴎外)。東條琴臺は、江戸生まれの漢学者であったが、高田藩主榊原家に仕え、藩士の教育にあたった。西園寺公望は北越戊辰戦争で高田に滞陣した際に琴臺と出会った。当時、西園寺は二十歳、琴臺は七十五歳であった。

 

(善導寺)

 

善導寺

 

善導寺は、会津降人の会所として用いられた。善福寺のみ写真を撮影し損ねた。

 

室孝次郎夫妻之墓

 

室孝次郎は天保十年(1839)の生まれ。倉石侗窩の門に学び、勤王の志をいだいて慶應二年(1866)、京都に上り広く志士と交わった。慶應四年(1868)正月の戊辰戦争では北陸道官軍御用掛に任じられ転戦したが負傷。明治三年(1870)、高田藩聴訴掛となり、また同志と高田病院を興した。明治八年(1875)、弥彦神社宮司、明治十一年(1878)、第八大区長、高田中学校長、明治十二年(1879)、西頚城郡長となり、明治十四年(1881)、辞して信越鉄道の敷設を計画し、また鈴木昌司らと頚城自由党を組織したが、改進党が結成されると上越立憲改進党を興し、明治二十三年(1890)より衆議院議員となり、明治三十年(1897)には愛媛県知事となった。明治三十五年(1902)、議員を辞め、憲政本党頚城支部長となった。明治三十六年(1903)、年六十五で没。

 

(石沢)

 

明治天皇石澤御小休所阯

 

 明治十一年(1878)九月十一日、厳しい残暑の中、関川行在所から南下した明治天皇は、石澤で小休を取り、この日の宿所である高田行在所に向かった。

 

明治天皇駐輦之碑

 

 駐輦之碑の題字は、宮内卿や侍従長などを歴任し、長く明治天皇の側近として仕えた徳大寺実則。

 御小休所根切松碑は、明治天皇の通行に備えて、道に露出していた根が断ち切られた松の巨樹を偲ぶものである。

 

御小休根切松

 

(高橋孫左衛門商店)

 

高橋孫左衛門商店

 

 上越市の南本町の商店街に高橋孫左衛門商店という粟飴の老舗がある。高田を代表する名物の一つが栗飴である。砂糖が貴重だった江戸時代、粟などの穀物に麦芽を加え、糖化させたものが粟飴である。

 高橋孫左衛門商店は、寛永元年(1624)創業。高橋家は越前藩主松平忠直の家臣といわれ、忠直の子光長が高田藩主として入府した際にこれに伴って高田に移り、当地で粟飴を販売したという。

 

十返舎一九ゆかりの地

 

 文化十一年(1814)には、「東海道中膝栗毛」で有名な戯作者十返舎一九が高田を訪れ、高橋家に世話稲荷、自著に粟飴のことなどを紹介した。

 

粟飴

 

 明治十一年(1878)、明治天皇北陸巡幸の際には、明治天皇が昭憲皇太后、英昭皇太后への土産に粟飴や翁飴を買い求めたという。

 

(大杉屋惣兵衛本店)

 本町の商店街にある大杉屋惣兵衛も、文禄二年(1592)の創業という老舗である。粟飴を固めた翁飴は、歴代高田藩主の御用を命じられた。

 

大杉屋惣兵衛本店

 

翁飴

 

 ここでお土産に翁飴を購入。上品な甘さが特徴である。

 

翁飴

 

(長徳寺)

 長徳寺には以下の六名の金沢藩士が葬られている。奥田九左衛門、大矢鍵太郎、上山兵蔵、北村和右衛門、堀井曽左衛門、今村栄次郎。いずれも越後戦線で戦死した金沢藩士であるが、今村栄次郎のみは明治二年(1869)五月十三日、箱館津軽陣屋にて戦死。

 

長徳寺

 

金沢藩士の墓

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糸魚川 Ⅱ

2022年11月19日 | 新潟県

(水前神社)

 

水前神社

 

 糸魚川行在所となった池原家の建物は、上刈の水前(みずさき)神社に移設され、神殿として使われている。

 

上刈地区

 

JR大糸線

 

 水崎神社の真下をJR大糸線(糸魚川―大町を結ぶ)が走る。民家の庭先を電車が走るという、鉄道マニアには堪らない環境である。

 

(池原印刷所)

 

池原印刷所

 

糸魚川行在所となった池原家(現・池原印刷所)には巡幸に随行していた杉孫七郎の漢詩を刻んだ石碑や明治天皇糸魚川行在所阯 附御膳水碑があるが、残念ながら非公開。

 

(鶴来屋)

 

鶴来屋

 

 平成二十八年(2016)、糸魚川市街を焼く大火災が発生し、この火災で老舗日本料理店「鶴来屋」も焼失した。

 鶴来屋は文化二年(1805)の創業。明治十一年(1878)には、明治天皇が糸魚川に行幸した際に料理を提供する栄誉を担った。

 由緒ある鶴来屋は、平成三十年(2019)一月、建物を一新して営業を再開した。

 

(菊池邸)

 

明治天皇市振小休所阯

 

 明治十一年(1878)九月二十八日、親不知・子不知の天険を通過した明治天皇は、新潟県域最後の小休所である市振小休所(菊地邸)で休憩をとった。その後、県境の境川を渡って、富山(当時は石川県)へ入った。新潟県における巡幸は十九日に及んだ。

 

(富岡邸跡)

 

明治天皇聖蹟碑

 

 青海小休所に指定された富岡邸跡には東郷平八郎揮毫による明治天皇聖蹟碑が建てられている。

 

(梶屋敷)

 

明治天皇御駐輦之碑

 

 糸魚川行在所に入る前、明治天皇は梶屋敷小学校で小休をとった。明治天皇御駐輦之碑の傍らにはもう一つ「明治天皇御駐輦碑」があったらしいが横倒しになったまま放置されている。

 

(齊藤邸)

 

明治天皇藤崎小休所阯

 

 明治十一年(1878)九月二十六日、あいにくの雨の中、明治天皇は筒石学校と藤崎小休所(齋藤邸)を経由して、能生の大島邸で昼食をとった。斉藤氏、大島氏ともに加賀藩の本陣を務めた家柄である。

 

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入善

2022年11月12日 | 富山県

(花月公園)

 

花月公園

 

明治記念館

 

明治記念館

 

 明治十一年(1878)九月二十九日に明治天皇が小休所として使った建物が、花月公園の一角に明治記念館として残されている。中を覗くと物置になってしまっているようである。

 

明治天皇入善御小休所

 

(上飯野)

 

明治天皇御野立所碑

 

 県道150号線沿いの黒部川右岸の堤防上に明治天皇御野立所碑が建てられている。明治十一年(1878)九月二十九日の滞在。

 

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朝日

2022年11月12日 | 富山県

(鹿嶋神社)

 鹿嶋神社の隣に社務所があり、その庭に明治天皇の御製碑が、さらに道に面して明治天皇宮崎御小休所阯碑がある。

 

 夏さむき越の山路をさみだれに

 ぬれてこえしも昔なりけり

 

 明治天皇が当地を訪れたのは、明治十一年(1878)九月二十八日のことであったが、この短歌は後年(明治三十二年(1899))に当地での滞在を回想して詠まれたものである。

 

鹿嶋神社

 

 ここまで来ると新潟との県境が近い。この日は富山市内にホテルをとっていたので、一旦富山まで戻り、翌日出直して新潟県入りした。

 

明治天皇宮崎御小休所阯

 

御製碑

 

(朝日町図書館)

 

明治記念館

 

明治天皇泊行在所

 

 明治天皇が宿泊した泊行在所は、その後明治記念館と命名されて長く保存されてきた。老朽化が進んだため、平成二十六年(2014)、朝日町図書館の新築に際し、整備・改修して明治記念館としてリニューアルしたものである。お茶会などの文化活動のために一般にも公開されているそうだが(有料)、普段は鍵がかけられていて近づくこともできない。再現された純金箔貼りの御座所の写真は、説明板から転載。

 

明治記念館

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黒部

2022年11月12日 | 富山県

(生地台場跡)

 

生地台場跡

 

生地台場跡

 

生地台場の大筒

 

 生地(いくじ)台場は、外国船渡来による海防上の必要から加賀藩が嘉永四年(1851)十月に着手し、同年十一月に完成させたものである。工事記録によれば、土を運んで台場の原型をつくり、この上に芝を張り、まわりを杭、竹、縄で囲った。正面入口に小刀門を設け、台場の上部に五カ所の大砲を置く場所が作られた。台場の長さは六十三メートル、幅八メートルの孤状の形をしている。幕末に作られた台場の上に、当時の設計図に基づいて復元されたものである。砂の下には台場の原型がそのままの形で保存されている。

 

 加賀藩が万延元年(1860)六月、生地台場に送った大筒(大砲)は、臼砲(モルチール砲)という型式だったと推定されている。合わせて、大筒の空丸、実丸、火薬等が送られた。安政六年(1859)、加賀藩の布目大太朗、馬場三郎の二人が大筒打人に任命された。文久元年(1861)には大筒、砲丸などを入れておく土蔵(三間四方の半二階建て)がこの台場から一〇八間離れた龍泉寺裏の海岸近くに建てられた。臼砲は口径に比べて砲身が短く射角が大きいので、砲丸は湾曲して飛び、そのため近距離用にしか用をなさなかった。

 

(本伝寺)

 

本伝寺

 

 本伝寺には、明治天皇の御座所が保存され、「鳳鑾余韻」の顕彰碑が架けられているという。明治十一年(1878)九月二十九日、滞在。境内には「明治天皇沓掛御小休所 附御膳水」碑と「明治天皇御膳水」がある。

 

明治天皇沓掛御小休所 附御膳水

 

明治天皇御膳水

 

(喫茶ふみきりの向かい)

 県道314号の荒町と田家新地区の境付近に明治天皇田家天覧所阯碑がある。当地で明治天皇が農作業を天覧したことを記念したものである。明治十一年(1878)九月二十九日、滞在。

 

軽食 喫茶 ふみきり

 

 喫茶「ふみきり」が目印であるが、これもコロナ禍の影響だろうか、閉店したようである。

 

明治天皇田家天覧所阯碑

 

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魚津

2022年11月12日 | 富山県

(大町小学校)

 現在、大町小学校のある辺りが魚津城跡である。魚津城は、角川の河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城である。築城年代は定かではないが、室町時代には松倉城の重要な支城(出城)として機能していた。天正十年(1582)、魚津城は、西から勢力を拡大してきた織田方の柴田勝家、佐々成政、前田利家らの攻撃を受け落城した。ちょうど本能寺の変の翌日である。

 その後、魚津城は佐々氏、次いで前田氏の支配下となったが、江戸時代の初期に廃城となり、以降は加賀藩の米蔵や武器庫として利用された。城の周囲には奉行所や寺院が置かれたことから、新川郡の政治的、軍事的中心として栄えた。近年まで堀の一部が残っていた。本丸部分は、現在大町小学校となっている。

 

大町小学校

 

魚津城址

 

魚津城跡

 

(魚津港)

 魚津港は、江戸時代から、北海道や敦賀、大阪まで往来する数多くの船舶が出入りする重要な海運の拠点であった。そこで慶應元年(1865)に町奉行土方与八郎が、加賀藩に灯台の設置を願い出て、慶応四年(1868)、町奉行小川渡の時、完成した。港の整備に伴い、三度の移転を繰り返し、現在地に至った。

 

魚津港

 

万灯台

 

米騒動発祥の地

 

 富山湾を望む大町海岸通り沿いに米騒動発祥の地碑が建てられている。

 米騒動は、大正七年(1918)七月二十三日、北海道への米の輸送船「伊吹丸」が魚津港に寄港した際、折からの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉前に集まり、米の積み出しを辞めるように要求し、そのため米の搬出は中止された。

 この事件は、地元紙により富山県内に大きく報道され、これを契機に水橋、滑川、岩瀬、泊、生地など、沿岸部で次々と米騒動が起こった。この騒動は全国に広がり、当時の寺内正毅内閣が総辞職に追い込まれ、続いて我が国で最初の本格的な政党内閣(原敬首相)の誕生につながった。

 

 米騒動発祥の地碑の背後に旧十二銀行の米蔵が修理保存されている。

 

米蔵

 

(大徳寺)

 大徳寺境内に明治天皇持光寺御小休所碑がある。明治十一年(1878)九月二十九日に滞在。

 

大徳寺

 

明治天皇持光寺御小休所 附御膳水

 

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滑川

2022年11月12日 | 富山県

(中町)

 中町会館近くの道沿いに明治天皇滑川町御小休所趾碑が建てられている。昭和四十九年(1974)という比較的新しい建碑である。「昭和四十六年(1971)、都市計画事業のため家屋解体、跡地にこの碑が建立」されたのだそうである。

 

明治天皇滑川町御小休所趾

 

(笠木児童館)

 

明治天皇欽慕之碑

 

 滑川市の笠木児童館付近に明治天皇欽慕之碑と追分御小休所碑がある。明治十一年(1878)九月二十九日、滞在。

 

明治天皇追分御小休所

 

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