(楠の木公園)
史蹟櫻井驛阯(楠正成傳説地)
JR京都線島本駅の目の前に楠の木公園がある。楠正成が延元元年(1336)、足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を発ち、桜井の地で子正行と別れた。「桜井の別れ」は「太平記」の名場面の一つである。
忠義貫乾坤碑
(ちゅうぎけんこんをつらぬくのひ)
忠義貫乾坤碑は、明治二十七年(1894)五月、島本村内と一部近郊の有志約一五〇名によって建てられた。当時は「楠公訣児之處」碑と並んで、玉垣の中にあったが、昭和十四年(1939)、桜井駅跡の拡張工事に伴い、現在地に移された。
楠公父子訣別之所
楠公父子訣別之所(なんこうふしけつじのところ)碑は、楠正成を顕彰した碑で、明治九年(1876)十一月に建立された。題字は、当時の大阪権知事渡辺昇。この碑の特徴は、裏面に英国公使ハリー・パークスの名前が英文で刻まれている点にある。パークスが楠正成に思い入れがあったとは思えないのだが、彼がこの石碑に名前を寄せた経緯や背景を知りたいものである。
A TRIBUTE BY A FOREIGNER
TO THE LOYALTY OF
“The Faithful Retainer”
KUSUNOKI MASASHIGE
Who parted from his Son
MASATSURA
At this Spot. Before the Battle of the MINATOGAWA,A.D.1336
HARRY S.PARKES
British Minister to Japan
November,1876
そのまま訳すと以下のとおり。
「西暦1336年 湊川の戦いに赴くに際し、この地で子正行と別れた「忠臣」楠正成の忠義を一外国人としてたたえるものである 駐日英国公使 ハリー・S・パークス 1876年11月」
明治天皇御製
公園の中心部に聳え立つ明治天皇御製碑は、昭和六年(1931)に建てられた大碑で、書は伯爵東郷平八郎。
子わかれの 松のしずくに 袖ぬれて
昔をしのぶ さくらゐのさと
明治天皇が明治三十一年(1898)十一月、三島地区での陸軍大演習に行幸した折に詠まれたもの。石碑裏面には子爵小笠原長生の書で「七正報告」、下部には頼山陽の漢詩「頼山陽翁過桜井驛詩」が刻まれる(第四師団長林弥三吉の書)。頼山陽が文政八年(1825)に来遊したときの作である。
楠公訣児之處
楠公訣児之處碑は大正二年(1912)七月に建碑。題字は陸軍大将乃木希典。裏面には、枢密院顧問官細川潤次郎の撰文による碑文が刻まれている。当時は三方を濠で囲み、入口には橋を架け、盛土の上に建てられてた。
楠公父子別れの石像「滅私奉公」
台座の「滅私奉公」の文字は、公爵近衛文麿の書。昭和十五年(1940)、新京阪電鉄(現・阪急電車)桜井の驛前に青葉公園が建設され、駅前に子別れの銅像が設置された。この銅像は戦時中の金属供出により失われ、代わってコンクリート像が作られた。現在の像は、平成十六年(2004)に有志により寄贈されたものである。
この日は、御昼に京都市内で父の卒寿のお祝いがあったので、時間がなかった。次の電車が来るまでの十五分で楠の木公園を一周して、飛ぶようにして島本駅のホームに戻った。