(妻籠宿)
妻籠宿
元治元年(1864)、天狗党は諸藩の軍勢と戦いつつ、京都を目指して西上を続けた。木曽には福島に関所があり、妻籠城も固められていたため、天狗党は和田峠における戦闘の後、伊那谷を通り、清内路峠を越えて蘭(あららぎ)に入り、同年十一月二十六日、妻籠橋場で中山道に出た。総勢千二百人もの軍勢の出現に、蘭村は大混雑となった。
妻籠宿本陣
大鳥圭介から島崎広助への書簡など
(脇本陣奥谷家)
脇本陣奥谷家は、歴史資料館の入口を兼ねている。明治十年(1877)の建てられた豪壮な建物である。明治十三年(1880)、明治天皇の行幸の際、御小休所となった。また、島崎藤村の詩「初恋」に詠われたお由布の嫁ぎ先でもある。
中に入ると、係の女性が丁寧に案内してくださる。
脇本陣
いろりのある部屋の横には、東久世通禧の書が掲げられている。
蓬菜五雲深
東久世通禧の書
机
明治十三年(1880)、明治天皇がここで休息を取ったときに用意された机である。怪我をさせないように一切釘を使わない、凝った作りである。脇本陣の便所も天皇のために用意されたが、使われることはなかったという。
封青山旅緑水
山岡鉄舟の書
歴史資料館には、明治天皇の巡幸を記念して山岡鉄舟が書いた書が飾られていた。
(三留野宿)
明治天皇行在所記念碑 三留野宿本陣跡
桃介橋
文久元年(1861)の和宮降嫁に際して、和宮は同年十一月一日、三留野宿にて宿泊している。本陣は明治十四年(1881)の大火で焼失してしまい、跡地には庭木の枝垂梅と明治天皇行在所記念碑が建てられているのみである。明治天皇がこの地に宿泊したのは、大火の前年の明治十三年(1880)六月のことである。その後、鉄道が開通し、三留野宿周辺の賑わいは回復することはなかった。

妻籠宿
元治元年(1864)、天狗党は諸藩の軍勢と戦いつつ、京都を目指して西上を続けた。木曽には福島に関所があり、妻籠城も固められていたため、天狗党は和田峠における戦闘の後、伊那谷を通り、清内路峠を越えて蘭(あららぎ)に入り、同年十一月二十六日、妻籠橋場で中山道に出た。総勢千二百人もの軍勢の出現に、蘭村は大混雑となった。

妻籠宿本陣

大鳥圭介から島崎広助への書簡など
(脇本陣奥谷家)
脇本陣奥谷家は、歴史資料館の入口を兼ねている。明治十年(1877)の建てられた豪壮な建物である。明治十三年(1880)、明治天皇の行幸の際、御小休所となった。また、島崎藤村の詩「初恋」に詠われたお由布の嫁ぎ先でもある。
中に入ると、係の女性が丁寧に案内してくださる。

脇本陣
いろりのある部屋の横には、東久世通禧の書が掲げられている。

蓬菜五雲深
東久世通禧の書

机
明治十三年(1880)、明治天皇がここで休息を取ったときに用意された机である。怪我をさせないように一切釘を使わない、凝った作りである。脇本陣の便所も天皇のために用意されたが、使われることはなかったという。

封青山旅緑水
山岡鉄舟の書
歴史資料館には、明治天皇の巡幸を記念して山岡鉄舟が書いた書が飾られていた。
(三留野宿)

明治天皇行在所記念碑 三留野宿本陣跡

桃介橋
文久元年(1861)の和宮降嫁に際して、和宮は同年十一月一日、三留野宿にて宿泊している。本陣は明治十四年(1881)の大火で焼失してしまい、跡地には庭木の枝垂梅と明治天皇行在所記念碑が建てられているのみである。明治天皇がこの地に宿泊したのは、大火の前年の明治十三年(1880)六月のことである。その後、鉄道が開通し、三留野宿周辺の賑わいは回復することはなかった。