現代に生きる我々の常識からすれば、名前とは「姓」+「名」で構成されるものであり、また親から与えられた「名」は「正当な事由」がない限り、一生涯背負い続けるものである。
そういう我々の目からすれば、井伊直弼も安藤信睦も周囲からそのように呼ばれていたのだろうと単純に思いがちであるが、江戸時代の人名と明治以降(正確には明治四年(1871)の本姓の公式使用禁止、明治五年(1872)の通称・実名の統合以降)の常識とは随分と異なる。
「直弼」「信睦」「久光」「敬親」という名前は武家では「名乗」と呼ばれるもので、自ら「井伊掃部頭直弼」とか「安藤対馬守信睦」などと名乗ることはなかったし、ほかから「直弼」「信睦」と呼ばれることもなかった。同時代人に名乗をもって呼ばれることもなかった。普段、大名や旗本は「掃部頭」とか「対馬守」という通称だけを使い、フルネームとしては「井伊掃部頭」「安藤対馬守」を使用した。
さらに事情を複雑にしているのは、武家と公家の標準がまったく別物だということである。
公家は「一条左大臣」「久我大納言」「七条三位」などと名乗った。彼らは叙位叙官して、正式な官名を名前として使用した。「近衛」「九条」「二条」「一条」「久我」「鷹司」は苗字っぽいが、朝廷社会ではこれを「苗字」とはよばず「称号」と呼ぶ。堂上・地下(じげ)は、自身に与えられた位階に見合った「官」に任官され、その官名に称号を接続して、普段は名前として用いるのである。
武家も「掃部頭」「対馬守」「玄蕃頭」「采女正」といった官名を使用したので、それは武家・公家と共通のもののようにも見えるが、武家の官位は同じ官名が何人でも無制限に任じられる。そこが大きな違いである。
朝廷では、称号とは別に正式な場では本姓+尸(かばね)が使われた。称号+官名は本来人名とはみなされなかった。本姓+尸とは、「藤原朝臣」「紀朝臣」「山部宿禰」などと表記されるが、江戸時代には氏の部分だけを「姓」もしくは「本姓」と呼ぶようになり、尸を略すのが通常となった。
公家の人名は「池田左馬大允源朝臣正韶」と、ここまで書いてフルネームということになる。この例でいえば、「池田」は称号、「左馬大允」は官名であり個人名である。「正韶」は名乗であり、実名、諱とも呼ばれる。朝廷の常識に従えば、名前(つまり称号+官名)は姓名の従属的・副次的要素であり、姓名もしくは姓尸名(本姓+名乗)こそが人名となる。この常識が維新後、名前における混乱を引き起こすことになった。
明治維新はさまざまな価値観の転換点であったが、人名においても大きな変化があった。明治新政府は、当初、官名が職務と合致している理想を目指した。その結果、松平民部卿、大村兵部大輔、佐々木刑部大輔といった名前が登場した。明治二年(1869)七月の職員令では、官員は「苗字+官名」、非役有位者は「苗字+位階」(たとえば三岡四位、大隈五位のように)、その他の無位無官の者はこれまでとおり、「苗字+通称」を名前として使うように整理された。これ以降、疑似官名(主計、監物、弾正、主水、帯刀…)も通称に使用できなくなる。これを機に実名を通称にも使用するということも行われるようになった。
職員令に伴い、新政府は新たな官位を叙任する際の官位記の書式を制定した。そこでの人名表記は、すべて姓尸名が適用され、「官位+姓+尸+名」で記されることになった。その頃の官員名簿に「従三位守藤原朝臣利通 大久保」として掲載されているのが大久保利通のことである。大久保家は藤原氏末流を称しているが、必ずしも確実なことではない。大久保自身も少しばかり居心地の悪い思いをしたかもしれない。
明治政府は全ての官員に対して、姓名(姓+尸+実名)を届け出るように求めた。さすがに官員の中には自らの姓尸が分からない(姓尸不分明)という者も多数存在した。そういう官員は姓無しで記入されている。
この時期、「通称と実名が混在していてややこしい」状態が続いた。また同姓同官の者が複数名存在していると個人を識別できないという実務上の問題も顕在化した。そこで明治三年(1870)末になって、「官名+苗字+実名」で表記するよう改められた。つまり官名を名前として利用する方法は早くも終焉を迎えたのである。
明治四年(1871)には廃藩置県が断行された。政府の要職に名を連ねていた旧公卿・旧諸侯が退場することになり、旧朝廷勢力による「復古」優先の施策は急速に後退することになる。早くも同年十月、「姓尸を除き、苗字実名のみを使用」することが布告された。まだ当時は江戸時代の名残で、実名と通称が併用されていた。当然の流れであろうが、明治五年(1872)には「一人一名」つまり一人の持つ個人名は一つという布告が出されるに至る。西郷隆盛は実名、後藤象二郎は通称、鳥尾小弥太や岡本健三郎も通称を届けた。明治初年以来混乱した名前問題はようやく終息をみたのである。
ここまでは本書に従って官員や華士族の名前の変遷を見てきたが、いわゆる庶民の名前は依然として(必ずしも苗字を伴わない)名前だけが公的な人名であり続けていた。明治三年(1870)九月、苗字公称の自由化が布告された。それまで庶民にとって苗字とは帯刀と同じく、善行に対する褒章の一つであった。この布告に対し、京都府は「平民も以来は苗字を使用せよ」と布告すべきではないか、と至極もっともな問い合わせを返した。これに対して政府は「従前禁じられていたからこのたび許したのだ」というどうでも良い回答を返しただけだったという。
奈良県はさらに過激な文面を返している。「善人も悪人も同じように苗字を公称させて本当にそれで良いのか」というのである。政府はこの問いに対して完全に黙殺・無視で答えた。
しかしながら、この布告を機に一般庶民の人名を「苗字+通称」で統一しようという動きもなかった。筆者によれば「この時期の政府は、平民の人名とか苗字なんぞに関心はない、という。
ところが明治五年(1872)、徴兵令が出されると、兵籍を取り調べる上で差し障りがある(明治八年(1875)一月山県有朋)という伺いが上程され、これを受けて今後は必ず苗字を名乗れという布告が出されることになった。苗字の強制は国家による国民管理の一環だったのである。
このとき大阪府下の谷町三丁目のとある長屋では赤穂義士の苗字を籤引きで割り振ったという。この手の珍談には事欠かないであろう。普段は苗字と別に屋号を用いていた家では、何を苗字として届け出るか悩んだことであろう。
もう一つの大きな変化が改名に対する制限である。江戸時代までは頻繁に改名が行われるのが常識であった。幼名、成人名、当主名への変更だけではない。本書の例でいえば、名主市左衛門が名籍を他人に譲渡し、江戸で浪人鈴木啓三郎として過ごしているなどということもあったらしい。天徳寺門前町の借家に住む漬物売りの文蔵が、同時に崎山仁兵衛という名前で紀州藩の江戸屋敷で中間として働いているといった「壱人両名」という状態も特に珍しいことではなかったのである。
江戸時代の人たちは、子供らしい名前、商人らしい名前、名主っぽい名前、武家らしい名前などを使い分けて生活していたのである。
しかし、管理する側からしてみると、個人が勝手に名前を変えるのは甚だ都合が悪い。そこで明治五年(1872)八月、改名禁止令が布告された。その後、一部緩和はされたものの、現在でも改名は容易ではない。日本人の人名は苗字+名で構成され、原則改名できない。改名せずに一生を終えるという我々の常識は、明治五年(1872)を起点とした比較的新しい常識なのである。
我々が歴史の授業で習う織田信長、松平定信、水野忠邦はいずれも「苗字+実名」という表記である。織田上総介(あるいは織田右府等)、松平越中守、水野越前守というのが彼らの在世中の名前であり、松平定信とか水野忠邦とは誰も呼んでいないし、自らも称していない。
教科書の人名表記には、間宮林蔵(実名は倫宗)や大塩平八郎、江川太郎左衛門のように「苗字+通称」で表記されている人物もいて、表記方法は極めて不統一である。
だからといって筆者は「苗字+通称」で統一すべし、とは言っていない。人口に膾炙した呼称で掲載するというのは、ごく適切な判断だとしている。人名のちゃんぽん状態も「やむを得ぬこと」と理解を示している。とはいえ、この背後にある事情を理解しておくことは重要である。「現代人の常識を前提・基準にして過去の事象を見るのは極めて危うい」という筆者の指摘は実に本質を突いている。