史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか」 尾脇秀和著 ちくま新書

2021年05月29日 | 書評

現代に生きる我々の常識からすれば、名前とは「姓」+「名」で構成されるものであり、また親から与えられた「名」は「正当な事由」がない限り、一生涯背負い続けるものである。

そういう我々の目からすれば、井伊直弼も安藤信睦も周囲からそのように呼ばれていたのだろうと単純に思いがちであるが、江戸時代の人名と明治以降(正確には明治四年(1871)の本姓の公式使用禁止、明治五年(1872)の通称・実名の統合以降)の常識とは随分と異なる。

「直弼」「信睦」「久光」「敬親」という名前は武家では「名乗」と呼ばれるもので、自ら「井伊掃部頭直弼」とか「安藤対馬守信睦」などと名乗ることはなかったし、ほかから「直弼」「信睦」と呼ばれることもなかった。同時代人に名乗をもって呼ばれることもなかった。普段、大名や旗本は「掃部頭」とか「対馬守」という通称だけを使い、フルネームとしては「井伊掃部頭」「安藤対馬守」を使用した。

さらに事情を複雑にしているのは、武家と公家の標準がまったく別物だということである。

公家は「一条左大臣」「久我大納言」「七条三位」などと名乗った。彼らは叙位叙官して、正式な官名を名前として使用した。「近衛」「九条」「二条」「一条」「久我」「鷹司」は苗字っぽいが、朝廷社会ではこれを「苗字」とはよばず「称号」と呼ぶ。堂上・地下(じげ)は、自身に与えられた位階に見合った「官」に任官され、その官名に称号を接続して、普段は名前として用いるのである。

武家も「掃部頭」「対馬守」「玄蕃頭」「采女正」といった官名を使用したので、それは武家・公家と共通のもののようにも見えるが、武家の官位は同じ官名が何人でも無制限に任じられる。そこが大きな違いである。

朝廷では、称号とは別に正式な場では本姓+尸(かばね)が使われた。称号+官名は本来人名とはみなされなかった。本姓+尸とは、「藤原朝臣」「紀朝臣」「山部宿禰」などと表記されるが、江戸時代には氏の部分だけを「姓」もしくは「本姓」と呼ぶようになり、尸を略すのが通常となった。

公家の人名は「池田左馬大允源朝臣正韶」と、ここまで書いてフルネームということになる。この例でいえば、「池田」は称号、「左馬大允」は官名であり個人名である。「正韶」は名乗であり、実名、諱とも呼ばれる。朝廷の常識に従えば、名前(つまり称号+官名)は姓名の従属的・副次的要素であり、姓名もしくは姓尸名(本姓+名乗)こそが人名となる。この常識が維新後、名前における混乱を引き起こすことになった。

明治維新はさまざまな価値観の転換点であったが、人名においても大きな変化があった。明治新政府は、当初、官名が職務と合致している理想を目指した。その結果、松平民部卿、大村兵部大輔、佐々木刑部大輔といった名前が登場した。明治二年(1869)七月の職員令では、官員は「苗字+官名」、非役有位者は「苗字+位階」(たとえば三岡四位、大隈五位のように)、その他の無位無官の者はこれまでとおり、「苗字+通称」を名前として使うように整理された。これ以降、疑似官名(主計、監物、弾正、主水、帯刀…)も通称に使用できなくなる。これを機に実名を通称にも使用するということも行われるようになった。

職員令に伴い、新政府は新たな官位を叙任する際の官位記の書式を制定した。そこでの人名表記は、すべて姓尸名が適用され、「官位+姓+尸+名」で記されることになった。その頃の官員名簿に「従三位守藤原朝臣利通 大久保」として掲載されているのが大久保利通のことである。大久保家は藤原氏末流を称しているが、必ずしも確実なことではない。大久保自身も少しばかり居心地の悪い思いをしたかもしれない。

明治政府は全ての官員に対して、姓名(姓+尸+実名)を届け出るように求めた。さすがに官員の中には自らの姓尸が分からない(姓尸不分明)という者も多数存在した。そういう官員は姓無しで記入されている。

この時期、「通称と実名が混在していてややこしい」状態が続いた。また同姓同官の者が複数名存在していると個人を識別できないという実務上の問題も顕在化した。そこで明治三年(1870)末になって、「官名+苗字+実名」で表記するよう改められた。つまり官名を名前として利用する方法は早くも終焉を迎えたのである。

明治四年(1871)には廃藩置県が断行された。政府の要職に名を連ねていた旧公卿・旧諸侯が退場することになり、旧朝廷勢力による「復古」優先の施策は急速に後退することになる。早くも同年十月、「姓尸を除き、苗字実名のみを使用」することが布告された。まだ当時は江戸時代の名残で、実名と通称が併用されていた。当然の流れであろうが、明治五年(1872)には「一人一名」つまり一人の持つ個人名は一つという布告が出されるに至る。西郷隆盛は実名、後藤象二郎は通称、鳥尾小弥太や岡本健三郎も通称を届けた。明治初年以来混乱した名前問題はようやく終息をみたのである。

ここまでは本書に従って官員や華士族の名前の変遷を見てきたが、いわゆる庶民の名前は依然として(必ずしも苗字を伴わない)名前だけが公的な人名であり続けていた。明治三年(1870)九月、苗字公称の自由化が布告された。それまで庶民にとって苗字とは帯刀と同じく、善行に対する褒章の一つであった。この布告に対し、京都府は「平民も以来は苗字を使用せよ」と布告すべきではないか、と至極もっともな問い合わせを返した。これに対して政府は「従前禁じられていたからこのたび許したのだ」というどうでも良い回答を返しただけだったという。

奈良県はさらに過激な文面を返している。「善人も悪人も同じように苗字を公称させて本当にそれで良いのか」というのである。政府はこの問いに対して完全に黙殺・無視で答えた。

しかしながら、この布告を機に一般庶民の人名を「苗字+通称」で統一しようという動きもなかった。筆者によれば「この時期の政府は、平民の人名とか苗字なんぞに関心はない、という。

ところが明治五年(1872)、徴兵令が出されると、兵籍を取り調べる上で差し障りがある(明治八年(1875)一月山県有朋)という伺いが上程され、これを受けて今後は必ず苗字を名乗れという布告が出されることになった。苗字の強制は国家による国民管理の一環だったのである。

このとき大阪府下の谷町三丁目のとある長屋では赤穂義士の苗字を籤引きで割り振ったという。この手の珍談には事欠かないであろう。普段は苗字と別に屋号を用いていた家では、何を苗字として届け出るか悩んだことであろう。

もう一つの大きな変化が改名に対する制限である。江戸時代までは頻繁に改名が行われるのが常識であった。幼名、成人名、当主名への変更だけではない。本書の例でいえば、名主市左衛門が名籍を他人に譲渡し、江戸で浪人鈴木啓三郎として過ごしているなどということもあったらしい。天徳寺門前町の借家に住む漬物売りの文蔵が、同時に崎山仁兵衛という名前で紀州藩の江戸屋敷で中間として働いているといった「壱人両名」という状態も特に珍しいことではなかったのである。

江戸時代の人たちは、子供らしい名前、商人らしい名前、名主っぽい名前、武家らしい名前などを使い分けて生活していたのである。

しかし、管理する側からしてみると、個人が勝手に名前を変えるのは甚だ都合が悪い。そこで明治五年(1872)八月、改名禁止令が布告された。その後、一部緩和はされたものの、現在でも改名は容易ではない。日本人の人名は苗字+名で構成され、原則改名できない。改名せずに一生を終えるという我々の常識は、明治五年(1872)を起点とした比較的新しい常識なのである。

我々が歴史の授業で習う織田信長、松平定信、水野忠邦はいずれも「苗字+実名」という表記である。織田上総介(あるいは織田右府等)、松平越中守、水野越前守というのが彼らの在世中の名前であり、松平定信とか水野忠邦とは誰も呼んでいないし、自らも称していない。

教科書の人名表記には、間宮林蔵(実名は倫宗)や大塩平八郎、江川太郎左衛門のように「苗字+通称」で表記されている人物もいて、表記方法は極めて不統一である。

だからといって筆者は「苗字+通称」で統一すべし、とは言っていない。人口に膾炙した呼称で掲載するというのは、ごく適切な判断だとしている。人名のちゃんぽん状態も「やむを得ぬこと」と理解を示している。とはいえ、この背後にある事情を理解しておくことは重要である。「現代人の常識を前提・基準にして過去の事象を見るのは極めて危うい」という筆者の指摘は実に本質を突いている。

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「覚悟の人 小栗上野介忠順伝」 佐藤雅美著 角川文庫

2021年05月29日 | 書評

表題にある「覚悟」という言葉が出てくるのは、物語の最終盤である。家族とともに会津に落ち延びようとする小栗に対し、権田村の名主佐藤勘兵衛が追ってきて、村に戻って欲しいと懇願する。小栗は官軍に殺されることを覚悟して村に戻ることを決意する。この姿を「逃げない。逃げるような卑怯な真似はしない。小栗はそういう覚悟のある生き方をしてきた。」と評する。

小栗と対照的に描かれるのが、十五代将軍慶喜であり、政敵である勝海舟である。あるいは松平春嶽や小笠原長行も小栗の「覚悟」を際立たせるための脇役である。

慶喜については「自己を飾ることと責任を回避することに終始した卑怯者」と一刀両断。海舟については「勝の主張は正しい。しかし、仮にも徳川の家来であるなら、二百数十年来の恩顧を考えるなら、なんとしてでも報わなければならないと、この時代のまっとうな倫理感覚の持ち主なら考えなくてはならない」と痛いところを突いている(個人的にはこのご意見にはまったく同感である)。

春嶽は「政治好きのとっちゃん坊や」、長行については「腹の据わりの弱さ、ひ弱さが窺える」とばっさり切り捨てる。小説上の演出ではあるが、小栗が優れた人物で、ほかはダメ人間という色分けがあまりにはっきりし過ぎていてややしらけてしまう。人間というのは、長所短所を合わせ持った生き物であり、徹底的にダメなんていう人間はそういないし、常に正しい判断をできる超人など実在しない。

たとえば、文久元年(1861)のロシアのポサドニック号による対馬占拠事件である。その年の四月、外国奉行にあった小栗は現地に急派される。小栗はさっそくビリレフと対峙するが、老獪な応答に翻弄される。終には半ば切れて帰京を決める。小栗はかくなる上は武力対決しかないと腹を括ったとされる。

対馬露寇事件は、安藤信睦老中の要請を受けたイギリスの軍事圧力を受けてロシア艦隊が立ち去り、解決を見た。筆者は「幕末もこの時点ではまだ幕府に威があった。九州の諸侯に動員をかけてかけられぬこともなかった。そのうえでロシアと戦えば、府中をはじめとする町は焦土と化しても、陸地でのゲリラ戦に持ち込めば五分以上に戦えたろうし、文永・弘安の役のときのように幕府を中心に国は一本にまとまることができた。無傷ですんだということでは安藤の対応・対策のほうがよかったということになるが、結果は、どう見てもその場しのぎであり、幕府からいえば絶好の機会を失したことになる」と、飽くまで小栗の肩を持つ。しかし、ロシアと武力衝突となると、最悪の場合、対馬を奪われる可能性もあった。私には大局的に見て安藤老中の判断の方が正しかったように思えるのである。

ポサドニック号事件の対応に限らず、小栗の主張は、常に武断的であり、武力に訴えることが多い。それは「小栗が終始「徳川家の復権」を座標軸において行動した」からであるとする筆者の見解に同意。その小栗が戯れ言であっても横須賀の製鉄所(今でいうドック)建設にあたって「土蔵付売家云々」と口にしたというエピソードに対し、筆者は疑問を投げかけている。確かに「らしからぬ」発言であることはご指摘のとおりである。あるいはこの逸話は栗本鋤雲の脚色・創作かもしれない。

 

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松戸 Ⅴ

2021年05月08日 | 千葉県

(戸定邸 つづき)

 

戸定歴史館

 

 大河ドラマ「青天を衝け」で草彅剛演じる徳川慶喜が話題になっている。慶喜人気にあやかったわけではないだろうが、松戸の戸定歴史館で「特別展 プリンス・トクガワー新時代への布石」が開催されているので、緊急事態宣言が発出される前に見ておくことにした。

 展示されているのは、斉昭、慶喜や昭武らの書や書簡、写真など。珍しいところでは、斉昭の手になる楽茶碗や子供に贈った猿の絵などが目を引いた。また、昭武に従って渋沢栄一が初めて海外に渡ったパリ万博関係の史料も興味深かった。数は多くないが、安島帯刀(信立)、大場一真斎、松平昭訓(慶喜の弟であり昭武の兄、斉昭十四男)、山高信離といったあまり光を当てられることのない人物に関する展示も嬉しい。個人的にはもっと見たかった(展示がやや少なかった)という気もしたが、入館料百五十円(戸定邸との共通入館料は三百二十円)を考えれば非常に充実したものといえよう。

 

戸定邸庭園

 

緊急事態宣言発出とともにステイ・ホームの日々が続いている。史跡探訪を再開できるのも何時になることやら、さっぱり先が見えない。当面、投稿はお休みとなります。

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鎌倉 Ⅲ

2021年05月01日 | 神奈川県

(鎌倉霊園つづき)

 陽気に誘われて鎌倉霊園を再訪することにした。今回の目的は、水戸藩士吉野英臣、吉野英雄父子の墓である。

 鎌倉霊園は広さ五十五万平米、総区画数四万以上という広大な霊園である。当てもなく歩き回って目当ての墓を見つけ出すのはほとんど絶望的であった。歩き始めて早々に、事前に竹さんに場所を確認しておくのだったと悔やんだが、一時間歩き回って無事出会うことができた。

 

誠忠院恵順浄生居士(長男 金之丞の墓)

歓喜院西生忠道居士(吉野英臣の墓)

誓願院香譽妙貞大姉(英臣の妻 利勢の墓)

 

 吉野英臣は水戸藩士。四百石。馬廻頭。明治二年(1869)四月三日、水戸で斬、梟。

 吉野英雄(金之丞)も同じく明治二年(1869)四月三日、水戸で斬、梟。諸生党の市川三左衛門とともに処刑されたものと推定される。

 墓石には、二男留次郎以下の名前が刻まれている。大正十一年(1922)七月の建立とある。【か地区三側】

 

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