(東の追分)
東の追分 大鳥居
亀山からJRで一駅西に移動して関の街を歩く。関は古代から交通の要衝であり、古代三関の一つ、鈴鹿の関が置かれたところである。江戸時代には東海道五十三次の江戸から数えて四十七番目の宿場町として参勤交代や伊勢参りの人びとで賑わった。現在、東海道上にあって唯一歴史的な街並みが残る場所となっている。東の追分から西の追分まで約一・八キロメートルにわたって伝統的な建物が連なる景観は見事である。
東海道関宿
(大井家)
大井家は代々玄庵と名乗る医家であった。明治初年には西洋医学を学び、種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。今も当家には「本草綱目」などの医学書のほか、江戸末期の往診用の駕籠や医療機器などが遺されている。
大井家
(延命寺)
延命寺の山門は、明治五年(1872)に川北本陣から移築されたもので、川北本陣の現存する唯一の遺構である。彫刻の形式などから十七世紀後期の建築とみられる。屋根の鬼瓦に川北家の家紋である三蓋松が彫られている。
延命寺
延命寺山門
(川北本陣跡)
川北本陣跡
川北家は関宿に二つあった本陣の一つで、慶長年間(1596~1615)の頃から明治三年(1870)に廃止されるまで、代々関宿の本陣を務めた。石碑が建てられている以外、当時の遺構らしきものは残っていない。
明治元年(1868)九月二十三日から翌日にかけて、さらに同年十二月十九日から翌日、明治二年(1869)三月九日から翌日にかけて、川北本陣は明治天皇の行在所となった。
(伊藤本陣阯)
伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした家である。伊藤本陣は間口十一間余、建坪六十九坪、西陣の表門は唐破風造りの檜皮葺きであった。
伊藤本陣阯
伊藤本陣近くの関郵便局は高札場の跡であり、郵便局前には往時の高札場が復元されている。
関宿高札場跡
(福蔵寺)
福蔵寺には織田信長の三男信孝の墓や孝女の仇討で知られる「関の小万」の記念碑がある。
織田信孝は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、福蔵寺を建立した。信孝は秀吉との後継を巡る争いに敗れ、天正十一年(1583)、尾張の野間にて自害した。当山に首が運ばれ、以来、信孝の菩提寺とされている。長らく墓石は不明であったが、四百年忌を迎え、菩提を弔うため建立された墓が境内にある。また、本堂には創建当時から信孝の位牌が祀られている。
福蔵寺
龍巌徳公大禅定門位菩提
(織田三七平朝臣信孝卿)
織田信孝の幼名は三七丸という。三月七日に生まれたからである。同じ誕生日に生まれた者として、個人的にはもう少し活躍して欲しかったと思うのである。
関の小萬碑
関の小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門といった。遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。牧藤左衛門の妻は、身重の身体で夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、地蔵院前の旅籠山田屋(現、会津屋)の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。
山田屋の主人と女将に助けられ、手厚く看病され、女はそこで女児を産んだ。それが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人に託して亡くなった。成長した小万は養父母から両親のことを聞かされ、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心をする。天明三年(1783)八月、小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇を待ち受け、見事本懐を遂げた。小万はその後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)、三十六歳の若さで死んだ。
(会津屋)
地蔵院前の会津屋は関宿を代表する旅籠の一つである。もとは山田屋といい、小万が育ったことでも知られる。二階に洋風意匠の窓がついた洋館屋、米をつく水車の音から名付けられた川音、伝統ある鍛冶屋などが並ぶ。
会津屋
(地蔵院)
地蔵院には明治十三年(1880)、七月十日と十二日に明治天皇が滞在した。御座所となった書院は、今も行在所と呼ばれ、部屋には「鳳凰台」と墨書された横額がかかっている。残念ながら公開はされておらず、建物の写真を撮るにとどまった。
地蔵院
明治天皇關行在所
(重要伝統的建造物群)
関宿の街並み
関宿の街並みはまだ続く。一見の価値はある。写真ではなかなか伝わらないので、自ら足を運ぶことをお勧めしたい。