史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「旧幕新撰組の結城無二三」 結城禮一郎著 中公文庫

2010年06月27日 | 書評
父が子供たちに「おぢい様」のことを語るという形式で、「おぢい様」こと結城無二三の生涯を描いた書である。大正十三年(1924)に『お前達のおぢい様』という副題を付して発刊された本書は、昭和五十一年(1976)に中公文庫から刊行された後、長らく絶版となっていたが、今般復刊されたものである。
結城無二三は、弘化二年(1844)に山梨に生まれた。実家は医師の家系で、家業を継ぐために江戸に出て書生となったが、時の流行である尊攘思想にかぶれ、大橋順蔵の門下に入り、同時に幕府の講武所で砲術を学んだ。元治元年(1864)京都に出て見廻組に参加し、水戸藩の天狗党の乱の最期を見届けた。その後、本書によると新選組に入隊したことになっているが、不思議なことにこの時期の新選組の名簿に無二三の名前を見出すことはできない。甲陽鎮撫隊に参加して甲州まで出征しているのは間違いなさそうであるが、入隊の時期については、記憶違いがあるのかもしれない。
見廻組に籍を置いていた関係で、今井信郎とも親交があった。ある日、今井が無ニ三のもとを訪ねてきた。無二三は筆者禮一郎に対し、「この人が坂本龍馬を斬った人だ。参考のためによく聴いておくがいい」といった。今井は「お話しすることほどのことではありません」と固辞したが、禮一郎は聴き出した話を新聞に公表した。「もとより新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾」したと告白している。これが発端となって、その後現代に至るまで龍馬暗殺論争は続いている。要らぬ脚色をしなければ、この論争もここまで拡大しなかったかもしれない。
維新後、無二三はキリスト教に入信し宣教活動をしたり、菓子屋や養鶏に手を出したり、波乱に富んだ人生を送った。明治四十五年(1912)胃癌により永眠。六十八歳であった。

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「伊藤博文」 瀧井一博著中公新書

2010年06月15日 | 書評
昨年(平成二十一年)、没後百年を迎えた伊藤博文であるが、記念の年というのに拍子抜けするほど注目されることなく過ぎてしまった。出版物で目立ったものといえば、伊藤之雄氏の著した「伊藤博文―近代日本を創った男」(講談社)くらいのものであった。書店に行く度に平積みされている分厚い「伊藤博文」は気になっていたのだが、以前同じ著者の新書「山県有朋」を読むのに四苦八苦したので、手が出せないでいた。そこへ、伊藤之雄氏の弟子に当たる瀧井一博氏の「伊藤博文」が新書で出版されたので、こちらは迷うことなく買うことにした。明治中期以降の歴史は自分自身余り馴染みが薄いこともあって、読破するにはやはり苦労した。
初代総理大臣として知られる伊藤博文であるが
――― 西南戦争後の大久保利通政権の確立に際しては大久保に扈従してその開発独裁路線の片棒を担ぎ、大久保没後、立憲運動が昂進するや井上毅の唱える超然内閣主義のプロイセン型欽定憲法路線に同調して憲法制定者の名を恣にする。さらに議会開設後は不倶戴天の敵であったはずの自由党と提携し、ついには同党を土台として立憲政友会を創設して政党政治家へと身を翻す。(「はしがき」より)
要するに「哲学なき政略家、思想なき現実主義者」という評価が強い。この本の主旨は、こうした従来のイメージを覆そうということにある。
従来、小説などで印象付けられている伊藤博文像といえば、醜聞の多い“遊び人”である。著者は、「知の政治家」「福沢諭吉にも比肩すべき近代日本の偉大な政治思想家」と位置付け直す。「思想家」と呼べるかどうかは、「思想家」の定義にもよるだろう。我々が思想家と聞いて連想する佐久間象山や横井小楠、中江兆民、福沢諭吉といった面々と比べて、思想の先鋭性という観点で判定すると、やはり伊藤は思想家というより政治家と呼ぶ方が相応しいのではないか。
ただし、決して場当たり的ではなく、明確で長期的なビジョンを持っていたということは、この本を読んで強く印象付けられた。
明治四十二年(1909)十月二十六日、ハルビンにおいて伊藤博文は韓国独立運動の義士安重根に暗殺される。以来、韓国では安重根は国民的英雄であり、伊藤は韓国植民地化のシンボルとして扱われている。果たしてどうだったのだろうか。韓国統監として任半ばにして命を奪われたため、伊藤が韓国で何を実現しようとしていたのかは見えにくいが、「民本主義」「法治主義」「漸進主義」という伊藤の政治姿勢を貫く基本思想は彼の地でも変わることはなかった。伊藤は「文明政策」を推し進めようとしたが、その一方で彼には反日ナショナリズムというものが理解できなかった。思い返せば、伊藤が幕末において一志士として活動していたときも、あの熱狂的な長州藩内において一人排外的ナショナリズムとは距離を置いていた。主知的な姿勢が伊藤の持ち味であり、同時に致命的欠点でもあった。
もし、伊藤が韓国統監の職務を全うしていれば、その後の日韓の不幸な歴史はもう少しましなものになっていたかもしれない。韓国の方にも、単に愛国心の裏返しで伊藤を悪者にするのではなく、この人物が何を考え、何を目指していたのかを是非知ってもらいたい。

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沼津 Ⅱ

2010年06月05日 | 静岡県
(江原素六記念公園)


江原素六翁

 前回、辿りつけなかった沼津の江原記念公園まで行った。かつて国道1号線沿いにあった江原素六の銅像が移設されている。

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千駄木

2010年06月05日 | 東京都
(区立鴎外記念図書館)


森鴎外観潮楼跡

 千駄木一丁目の区立鴎外記念図書館は、明治二十五年(1892)から、鴎外が亡くなる大正十一年(1922)までの三十年に渡って、鴎外が居を構えた場所である。ここから遥かに品川沖を臨めたため、住居を観潮楼と名付け、文学活動の拠点とした。明治四十年(1907)以降、ここで歌会が開かれ、与謝野鉄幹、石川啄木など多くの詩人歌人が集った。鴎外の没後、火災や戦災により観潮楼は失われたが、昭和三十七年(1962)に至って鴎外記念図書館が開設された。

(須藤公園)


須藤公園

 地下鉄千駄木駅の直ぐ目の前にある須藤公園は、かつて品川弥二郎の邸宅があった場所である。品川弥二郎の死後、実業家須藤吉衛門に買い取られた。
 維新前には、加賀藩の支藩大聖寺藩の下屋敷があった。今ではマンションなどに取り囲まれてしまったが、当時は遠く東京湾や房総半島まで見渡すことのできる景勝地であった。起伏を生かした大名庭園が築かれたが、小規模ながら現在もその風情を残している。

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本駒込 Ⅱ

2010年06月05日 | 東京都
(養源寺)


天量院殿璣山道璇大居士
(井戸覚弘の墓)

 井戸覚弘(さとひろ)の墓である。井戸覚弘は、天保十三年(1842)、使番見廻兼帯により目付に任じられ、その後、長崎奉行に転じ、累進を重ねた。弘化三年(1846)、琉球に通商を求めた仏艦や、嘉永二年(1849)、遭難した船員の引き渡しを要求する米艦の対応に当たった。安政元年(1854)、ペリー二度目の来航では、林大学頭復斎、鵜殿長鋭、伊沢政義らとともに、米国使節応接掛として、交渉の任に当たった。同年三月、日米和親条約を調印するに至る。更に、その年の五月には、下田開港に伴う下田追加条約の締結、調印、批准交換に至るまで、常に全権の一員として活躍した。安政三年(1856)町奉行から大目付に転じたが、任半ばで死去した。

(浄心寺)


浄心寺


正六位佐々倉桐太郎墓

 幕臣佐々倉桐太郎は、嘉永六年(1853)、ペリー来航時には応接方として中島三郎助と米艦に赴いた。安政二年、海軍伝習生として長崎に留学。二年後には江戸で築地の軍艦操練所教授方となった。万延元年(1860)の遣米使節に随行した。帰国後は、肺患のため一時療養したが、浜御殿内の海軍伝習の業務に復帰。明治元年(1868)正月には軍艦役となった。幕府瓦解後、徳川家に従って静岡に移り、静岡県権少参事。明治四年(1871)、兵部省出仕。明治八年(1875)病のため辞職するまで海軍兵学寮に勤務した。同年、四十六で病没。

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駒込 Ⅱ

2010年06月05日 | 東京都
(吉祥寺)


貴族院議員正三位勲一等男爵安場保和之墓

 安場保和は、天保六年(1835)熊本城下に生まれ、八歳で時習館に入り、更に横井小楠の門下に進んだ。嘉悦氏房、山田武甫、宮川房之らと並んで、四天王と称された。戊辰戦争に参加して功を立て、胆沢県大参事、酒田県大参事、熊本県少参事を経て、大蔵大丞、租税権頭に任じられた。明治五年(1872)の岩倉使節団に加わり、帰朝後は福島県令、愛知県令、福島県令といった地方官を歴任した。のちに元老院議官、貴族院議員にも選任された。明治三十二年(1899)年六十五で死去。


従二位伯爵溝口直正墓

 溝口直正は、慶応三年(1867)十二歳で新発田藩主を継いだ。戊辰戦争に際して、藩論は分裂したが、慶応四年(1868)五月、仙台、米沢の藩士が新発田に来て奥羽列藩同盟への加盟を要請された。これに屈して城を出たところ、農兵隊の反対にあい、動きが取れず、その間に政府軍が新潟に上陸し、東北諸藩が兵を引いたため、新発田藩は勤王派として活動することになった。大正八年(1919)、年六十五で没。


贈従三位溝口直諒記功公碑

 溝口直諒(なおあき)は十代新発田藩主。享和二年(1802)、父の死により、わずか四歳で家督を継いだ。以後、天保九年(1838)まで藩主の座にあった。


賢性院殿徳永儀忠大居士
(前従五位新庄直敬墓)

 新庄直敬は、常陸麻生藩の十五代藩主である。戊辰戦争では新政府に恭順した。明治五年(1872)五十五歳で死去。


大機院直道鐡心居士
(細谷安太郎の墓)

細谷安太郎は幕臣。伝習隊に属し、箱館戦争に身を投じた。敗戦後投獄されたが、明治三年(1870)赦されて、横須賀造船所に勤務した。大正十年(1921)、七十八歳で死去。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅶ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅶ)


故小姓頭弘道館総裁拙斎青山(量介)先生墓(中)
故大学中博士青山(量太郎)君墓(左)

 青山拙斎(量介)は、水戸藩の歴史学者。「大日本史」を編纂した彰考館の総裁にあった。のちに弘道館頭取代理。藤田幽谷らと斉昭を助けて藩政改革を遂行したが、天保十四年(1843)在職中に没した。

 拙斎の長子、青山延光(のぶみつ)は、通称量太郎。彰考館総裁代役、弘道館教授、さらには弘道館教授頭取に就き、彰考館では「大日本史」の編纂に尽くした。明治四年(1871)死没。


贈従四位 関鐡之介墓

 関鉄之助は文政七年(1824)の生まれ。同年生まれの同志に鮎澤伊太夫、茅根伊予之介がいる。安政二年(1855)家督を継いで以降、金子孫二郎の配下の与力となり、国事に奔走することになる。水戸藩への密勅降下では、同盟を求めて長州・因州を遊説。安政六年(1859)大獄が起きると、薩摩藩の高崎五六らと会合して挙兵除奸を討議した。同年十一月、閉居を命じられたが、翌年二月、ひそかに藩を脱して桜田門外に大老井伊直弼要撃を指示した。事変後、薩摩藩同志との約に従い、野村彜之介らとともに大阪に向かったが、そこで薩摩藩に出兵の動きがないことを知る。ここから薩摩、江戸、水戸と潜行を続け、越後の湯沢温泉に潜伏しているところを捕吏に探知され捕縛された。文久二年(1862)五月、江戸伝馬町の獄において死罪に処された。年三十九。


贈従五位豊田小太郎(香窓)之墓

 豊田小太郎は豊田彦次郎の長男として天保五年(1834)に生まれた。安政元年(1854)反射炉築造のために、藩命により盛岡藩より招いた大島高任に従って蘭学を修業した。安政四年(1857)、上京中に青蓮院宮と三条実万に建議書を呈したことが発覚し、謹慎を命じられた。変通論を唱え、開国進取の計を立てて奔走しているところを、慶応二年(1866)九月、水戸藩内の異論者に刺殺された。年三十三。


故執政大場(一真斎)彌衛門墓

 大場一真斎は享和三年(1803)、水戸藩家老の家に生まれ、天保二年(1831)家督を継いだ。安政五年(1858)執政に就き、当時激派の間に隠然たる勢力があった。安政五年(1858)の密勅降下では返納不可の立場を貫いた。文久元年(1861)六月、東禅寺襲撃事件が発生すると、その責を問われて参政を免じられ、謹慎処分を受けた。同年、執政に復職すると、藩主慶篤に従って上京し、京都守衛に任じられた。慶応三年(1867)十二日、徳川慶喜が京都を去るに際して二条城の留守を命じられた。その後も引き続き京都に留まり、余生を送った。明治四年(1871)六十九歳で没。


伊豫之介茅根君墓

 茅根伊予之介は、藤田東湖、会沢正志斎に学び、天保十四年(1843)、弘道館舎長となった。弘化元年(1844)藩内党争が表面化すると辞職。その後十年、家塾を開いて後進の教育に当たった。安政元年(1854)弘道館訓導に挙げられ、継いで郡奉行、奥右筆頭取、小姓頭取に累進した。安政五年(1858)には一橋慶喜の将軍継嗣運動に奔走した。安政六年(1859)、安島帯刀とともに評定所に呼び出され、拘束されて審問の末、同年八月、死罪に処された。年三十六。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅵ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅵ)


杉山秀太郎當直墓(左)
彌一郎當仁 曁配婦人川崎氏 墓(右)

 杉山弥一郎秀太郎父子の墓である。
 弥一郎は桜田烈士の一人。桜田門外の変で負傷し、江戸熊本藩邸に自訴。文久元年(1861)七月、金子孫二郎らとともに伝馬町の獄に斬られた。年三十八。
 長男、秀太郎は元治元年(1864)の藩内騒乱において、榊原新左衛門に属して那珂湊に拠り、各所で城兵および幕兵と戦う。十月以降は武田勢に属して西上。敦賀で斬に処された。年十九。


贈従五位 川邉佐次衛門元義墓

 川邉佐次衛門の墓である。文久元年(1861)児島強介(下野)が来藩して老中安藤信睦要撃の同志を募ったとき、佐次衛門は平山兵介らと参画することに決した。しかしながら、文久二年(1862)正月十五日の襲撃実行に遅れ、そのため長州藩邸に桂小五郎を訪ねて事情を告げると、遺書を託してその場で自刃して果てた。年三十一。


勝村徳勝君墓

勝村徳勝は名を勝村彦六、水戸藩士の子として文化六年(1809)に水戸で生まれた。後に藩工に推挙され安政四年(1857)に江戸小石川水戸藩邸(現在の後楽園)に居を構えた。水戸家九代藩主、徳川斉昭の鍛刀の相手を務めたことでもよく知られる。彼の作刀は尊王攘夷の機運が高揚する水戸藩士の指料として愛用され、井伊大老を桜田門外で襲撃した刀としても名高い。明治五年(1872)没。六十四歳


曁配婦人津田氏 又一郎高橋(広備)君墓

 高橋広備は、藤田幽谷とともに彰考館の総裁に就き、「大日本史」の編纂に尽くした人物。号は坦室。一時、政務にも参画したが、人望なく文政六年(1823)失意のうち亡くなった。


贈従五位 小河吉三郎墓

 小河吉三郎、変名は大川藤蔵。安政の末から攘夷実行を主張して奔走した。文久三年(1863)藩主慶篤に従って上京して各藩の尊攘派同志と交わった。のちに長州に走り、澤宜嘉に属して東上して生野義挙に加わった。同年十月、幕府軍と戦い。朝来郡山口村で戦死した。年二十七。


小沢寅吉墓碑

 小沢寅吉は、江戸玄武館で北辰一刀流を修行し、帰藩後弘道館剣術師範。明治後は私邸内に道場、東武館を開いて維新後も剣道の普及に尽くした。明治二十四年(1891)死去。


恵介丹羽君墓

 丹羽恵介は、天保元年(1830)に生まれた。安政元年(1854)、床几廻に選ばれたことを皮切りに、徒士目付、奥右筆に進んだ。元治元年(1864)の藩内騒乱に際して、当初榊原新左衛門らと藩論統一を計ったが、市川三左衛門が執政となって実権を握ると、松平頼徳に属して那珂湊に走った。水戸に召喚されて獄に繋がれ、同年十月、死罪に処された。三十五歳。


故藤七郎谷田部君 曁配谷田部氏婦人 墓

 平成二十二年(2010)は、桜田門外の変からちょうど百五十年目に当たる。これを記念して、この秋、吉村昭の長編「桜田門外の変」が映画化される。この小説の冒頭、安政四年(1857)正月、谷田部藤七郎と大嶺荘蔵兄弟が捕らわれて赤沼牢に投じられる様子から書き起こされる。谷田部兄弟は、所謂門閥派に属し、藤七郎は奥右筆頭取など重職にあった。兄弟は失踪し、高松藩と結んで高松藩から水戸藩主を迎える画策をしているという噂もあったところを東海道で改革派の手により捕らわれた。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅴ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅴ)


慎亭吉成君墓

 吉成(よしなり)又右衛門の墓である。雅号は慎亭。藤田幽谷の門に学び、天保元年(1830)、郡奉行となり、以降十五年にわたり民政に携わった。弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を老中牧野忠雅に嘆願して処罰されたが、閑居中に関わらず脱して閣老に上訴して、再び罪を得た。嘉永二年(1849)許されたが、翌年、年五十四で病死。二男恒次郎も国事に奔走している。


左一郎宮本先生墓

 宮本左一郎は農家に生まれたが、農家を嫌って江戸の岡田十松に入門。武者修行のため諸国を遊歴したのち、水戸に戻って道場を構えた。藤田幽谷らの支援を得て、神道無念流を水戸に根付かせた。天保九年(1838)六十一歳で死去。


留次郎斎藤君墓

 斎藤留次郎は、安政五年(1858)に斉昭が処罰されると、雪冤運動に加わった。同年、勅書問題が起き、万延元年(1860)藩論が勅書返納に決すると、勅書の通過を阻止するため、一通の書を認めて城中大広間廊下にて割腹した。年三十二。


新左衛門山中君墓

 山中新左衛門は文政元年(1818)に生まれ、天保九年(1839)床几廻に選ばれた。以降、矢倉奉行を経て小姓頭取に進んだ。安政六年(1859)宍戸藩主松平頼徳附属となる。元治元年(1864)、天狗党の騒乱を鎮定するため頼徳とともに水戸に下向したが、入城を阻止されて那珂湊に拠り、新左衛門は事情陳述のため頼徳の書を奉じて城中に達した。しかし、そのまま拘束されて獄に投じられ、死罪に処された。年四十七。


中陵佐藤先生之墓

 佐藤中陵は宝暦十二年(1862)江戸に生まれた。本草学者として水戸藩に招かれ、弘道館教授となった。その間、斉昭の命により「山海庶品」を編纂した。嘉永元年(1848)、死去。佐藤松渓は、中陵の養子である。


松渓佐藤先生墓


従六位野邨鼎實(彜之介)墓

 野村彜之介(つねのすけ)は、文政七年(1824)水戸に生まれた。郡奉行、奥右筆頭取、大目付、側用人等の要職に任じられ、天保の藩政改革を補佐して功があった。安政六年(1859)、高橋多一郎とともに薩摩の高崎五六を水戸に迎え、水薩提携の挙兵を合議した。安政の大獄が起きると、金子孫二郎とともに閉居に処された。しかし、桜田門外の変の直前に脱藩して江戸に潜伏。変ののち関鉄之助とともに大阪に入ったが、同志は四散してしまい、彜之介はやむなく水戸に戻った。元治甲子の乱では、上京して鎮撫に尽くした。戊辰戦争では、市川三左衛門らを追討し、継いで奥羽征討にも参加した。のち、水戸藩参事、廃藩後は茨城県典事となった。晩年は常盤神社宮司を務めた。明治二十一年(1888)年六十五で病死。


森五六郎直長 森半蔵長昌 墓

 森半蔵、五六郎兄弟の墓である。
 兄、半蔵は文政九年(1826)に生まれた。嘉永六年(1853)浪人となって、文久元年(1861)有賀半弥とともに東禅寺のイギリス公使館襲撃を企て、斬り込みをかけたが果たせず。前木新八郎とともに領内に潜伏したが、同年八月、捕吏に探知され自刃した。年三十六。

 弟、森五六郎は天保九年(1838)の生まれ。桜田十八士の一人。安政六年(1859)、勅書返納問題のときには長岡駅に屯集して阻止を図った。桜田門外の変では傷を負って、大関和七郎とともに熊本藩邸に自訴。文久元年(1861)七月、死罪に処された。年二十四。


松岡豊田彦次郎墓

 豊田彦次郎は雅号を松岡または晩翠。文化二年(1805)に久慈郡賀美村に生まれた。豊田小太郎(香窓)は長男。藤田幽谷の門に学び、東湖とともに博覧強記で知られた。国史志表編集頭取の職にあったが、弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を閣老に上呈したことが忌避に触れ、五年の禁固に処された。嘉永六年(1853)赦され復職すると、ロシア、蝦夷の取調を命じられた。安政五年(1858)の勅書問題では勅書奉戴の意見を支持したが、薩摩藩と提携して大老を襲撃する計画には自重論を説いた。元治元年(1865)正月、死去。年六十。

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水戸 常磐共有墓地 Ⅳ

2010年06月02日 | 茨城県
(常磐共有墓地 Ⅳ)


大節精忠驚鬼神
(高橋多一郎の墓)

 高橋多一郎は文化十一年(1814)の生まれで、桜田門外の変のとき四十七歳。天保十年(1839)選ばれて床几廻となったのを皮切りに、歩行士、目付を経て、奥右筆に進んだ。弘化元年(1844)藩主斉昭が謹慎を命じられると、幕閣要路に哀訴して禁固に処された。嘉永五年(1852)藩政回復とともに復職し、奥右筆頭取、小姓頭取に取り上げられた。ついで勅書問題が起きると金子孫二郎と謀り、西国諸藩に壮士を派遣した。安政の大獄が起きると、薩摩藩士と大老襲撃を企てた。桜田事変に先立ち、長男庄左衛門を従えて大阪に赴き、在坂の川崎孫四郎、山崎猟蔵らと薩摩藩兵の東上を待った。幕吏の探索厳しく、三月二十三日、四天王寺にて庄左衛門とともに自刃した。


贈従四位 高橋庄左衛門君墓表

 高橋多一郎の長男、庄左衛門は、天保十三年(1842)に生まれ、年少時には茅根伊予之介について学を受けた。藩難に際して父多一郎とともに奔走し、桜田門外の変では父子ともに島男也の家に潜んでいるところを探知され、自刃した。十九歳。


鵜飼知信(吉左衛門)墓(左)
鵜飼知明(幸吉)墓(中)

 鵜飼吉左衛門と幸吉父子の墓である。
 鵜飼吉左衛門は、天保四年(1833)京都留守居役手添となり、天保十四年(1843)からは京都留守居役。弘化元年(1844)藩主斉昭が謹慎処分を受けると、公卿の間に無実を訴え、職を奪われ水戸に返送されたが、嘉永六年(1853)に復職上京。安政五年(1858)老中堀田正睦が条約勅許を求めて入京すると、子幸吉とともにこの阻止に努め、同時に将軍継嗣問題では慶喜擁立に奔走した。その頃、武家伝奏を通じて水戸藩に密勅が下り、吉左衛門は幸吉にこれを持たせて江戸に赴かせた。このことで父子は禁固、ついで江戸に護送され、翌安政六年(1859)死罪に処された。六十二歳。

 鵜飼幸吉は年少にして砲術を学び、安政ニ・三年(1855・56)、二度に渡って武芸出精により賞せられた。安政三年、京都留守居役に任じられて上京。父とともに京都にあって奔走した。安政五年(1858)所謂戊午の密勅が水戸に降下されると、姓名を小瀬伝左衛門と変え、父に代わってこれを江戸小石川に届けた。父とともに捕えられ、江戸に護送された上で安政六年(1859)死罪梟首に処された。三十二歳。


前木新八郎墓

 前木新八郎は文政七年(1824)の生まれ。安政五年(1858)の密勅降下以来、国事に奔走した。文久元年(1861)、有賀半弥らと外国人襲撃を計画し、江戸高輪東禅寺にイギリス人を襲った。前木新八郎は現場を脱して水戸藩領北部に潜居したが、探知されて捕吏に囲まれ、自刃して果てた。三十八歳。


贈従四位 田丸稲之衛門碑

 田丸稲之衛門は、山国家のニ男として文化二年(1805)に生まれたが、田丸直諒の養子となって家督を継いだ。元治元年(1864)藤田小四郎は田丸稲之衛門を総帥に迎え筑波山に挙兵した。四月、筑波を発すると、五月太平山に籠り、七月高道祖原で敗れたが、下妻で大勝。九月には榊原新左衛門らが那珂湊に陣をひいて諸生党と交戦していることを聞いて急遽これを応援して戦った。十月、武田耕雲斎と合流して西上を開始。十二月、敦賀で加賀藩に降伏し、翌年二月、斬罪に処された。六十一歳であった。


贈従五位瀧久知(六三郎)牟都左畀古命之碑

 滝口六三郎は弘化元年(1844)水戸に生まれた。元治元年(1864)、天狗党の筑波挙兵に参加し転戦。武田勢と合流して西上の途上、敦賀で禁固され斬罪に処された。二十二歳であった。


贈従五位梶八次郎墓

 梶八次郎は文政六年(1823)の生まれ。武田耕雲斎の子、魁介と交わり、意気投合した。弘化元年(1844)藩主斉昭が幕譴を蒙ると、斉昭の雪冤に尽力した。安政五年(1858)再び斉昭が処罰を受けると、激昂した士民は大挙して江戸に向かった。梶八次郎もその中にあったが、志の遂げられないことを嘆じて、小金にて自刃した。年三十六。

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