史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「近代日本の官僚」 清水唯一朗著 中公新書

2013年10月26日 | 書評
維新後、明治新政府にとって官僚の確保・育成は急務であった。当初は旧幕臣や藩閥出身者が集められたが、大学南校(東大の前身)が開校され、全国から学業優秀な俊才が集まるようになる。全国から満遍なく人材を集めるため、貢進生制度が導入された。貢進生出身者としては、小村寿太郎(飫肥藩、のちの外相、貴族院議員)、鳩山和夫(衆議員議長、法学博士)らがいる。彼らは藩という看板を背負い、夜を徹して勉学に励んだ。のちに外相として歴史に名を刻んだ小村寿太郎の原型を築いたのはこの時期の猛勉強にあったのであろうし、今日まで続く鳩山家の繁栄の基礎を築いた背景にも、貢進生鳩山和夫の壮絶な勉強があった。彼らは海外留学を経て、国家官僚へと階段を昇って行った。
明治新政府発足から帝国議会が開かれるまでの時期、政界でも藩閥が幅を利かせたように、官僚も藩閥に占有された。官途に就くとしてもほとんど藩閥の影響の薄い司法省を選んだ。一方、官僚を育成するための総合大学として全国に帝国大学が整備されることになった。同時期に試補制度が導入され、藩閥官僚に代わって専門教育を受けた学士官僚が占めることになる。この時期の学士官僚には原敬、清浦奎吾、浜口雄幸(いずれものちに首相)らがいる。
藩閥政治から政党政治に移行すると、学士官僚も政治とは無縁ではおられず、徐々に変容を強いられる。ある者は政党に取り込まれ、ある者は政治家としての道を歩むことになる。
本書は大正年間までの官僚の姿を描く。昭和から現代に続くパートは、次の課題ということだろうか。いつの時代も官僚は猛勉強をして激烈な競争を勝ち抜いた、時代の最先端のエリート集団である。昨今、政治の世界では、官僚を悪者にする風潮があるが、大いに違和感がある。国家の柱石となる人材に対して、相応の処遇をしないと国家そのものが立ち行かなくなる。シンガポールでは官僚が一番高い報酬を得ているが、それが本来の姿であろう。正当に処遇しないから、優秀な彼らの知恵と能力が、天下り先の確保とか自分の組織の肥大化に使われてしまうのである。
官僚を悪者呼ばわりしている政治家こそ、彼らに負けないだけの勉強をして欲しいものである。

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「火城」 高橋克彦著 文春文庫

2013年10月26日 | 書評
いつか九州を旅する日を夢見て、少しずつ九州の情報を集めている。ターゲットは長崎そして「薩長土肥」の一角、佐賀である。
佐賀とは不思議な存在である。幕末、薩長土三藩が競って政治に参加し、政局の主導権を巡って激しく争っていたのを横に見ながら、ほとんど政治には無関心を貫いた。佐賀藩はひたすら技術立国を目指し、独自路線を歩んだ。その姿を、本書では「火城」という言葉に象徴させている。
幕末の佐賀藩を率いたのは、藩主鍋島閑叟(直正)の際立った個性であったが、その指導の下、七賢人と呼ばれる人材が育っていった。その一人が本書の主役佐野栄寿、のちの常民である。この人は、いわば佐賀藩の技術部長的存在であった。
佐野常民といえば、西南戦争で敵味方にかかわらず治療を施す日本赤十字社の前身、博愛社を興したことで歴史に名を刻んだ。維新前の活躍はあまり知られていないが(少なくとも私は全く存じ上げませんでした)、緒方洪庵、戸塚静海、伊東玄朴などに学び、佐賀藩の精錬方に中村奇輔ら技術者を藩に推挙し、自ら精錬方主任に就いた。佐賀藩精錬方は、蒸気船や蒸気車の模型製作に成功した。この辺りの経緯は本書に描かれている通りである(なお、これはこの小説の描かれた時代の後の話になるが、中村奇輔は火薬の製造実験中の事故で重傷を負い、廃人同然となったという)。
本書では何かというと涙を流して相手をかき口説く情熱家であり、先見の明を持ち大勢の人を巻き込む魅力あふれる人物として描かれている。ただ佐野常民が本当はどういうキャラクターだったのか、本書を一読しただけではまだまだイメージが結像しない。
本書は明治を迎える前に幕を閉じる。佐野常民の活躍はこれからというところであり、物語としては中途半端。できれば、明治後の活躍も含めた「完結編」を読みたいものである。

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「官僚川路聖謨の生涯」 佐藤雅美著 文春文庫

2013年10月26日 | 書評
実を言うと、吉村昭の「落日の宴」(講談社文庫)を探していて、代わりにこの本に出会った。「落日の宴」は現在絶版になっていて、書店では簡単に入手できない状況である。
佐藤雅美という作家のことはよく知らなかったのだが、そういえば昔同じ作家の「幕末『住友』参謀 広瀬宰平」(人物文庫)を読んだのを思い出した。「広瀬宰平」は硬派な読後感であったが、「川路聖謨」も感触は同様であった。少なくとも色恋沙汰はほとんど描かれることはない。
本書の表題は敢えて「官僚 川路聖謨」としている。著者の描きたかったのは、幕末の官僚として異例の出世を遂げた川路の姿であろう。もとを正せば川路の出自は怪しいもので、父の代に名跡を買い取って、ようやく幕臣の端くれに連なったようなものであった。しかし、徳川の世もここまで来ると、世襲の官僚では相当実務能力に問題が生じていた。公事方(今風にいえば裁判所)に取り立てられた川路は、その時点で十年、中には二十年も放置されていた案件を、気が付けば自分の仕事がなくなるくらいの勢いで次々と片づけた。川路の処理能力が抜群であったのは紛れもない事実であるが、一方でほとんど役に立たない役人がどんよりと滞留していたのも間違いない。
出世を重ねる川路であったが、言動には細心の注意を払っていた。川路自身は酒が嫌いというわけではなかったが、酒を過ごすと争いやしくじりのもととなる。決して外では酒を飲まなかったという。役務柄、遠方への出張は多かったようであるが、自ら課したルールを決して踏み外すことはなかった。また政治向きの話、特に外事(この時代の最重要課題は開鎖のことであった)についても、もちろん彼自身には持論があったが、軽々に口にすることはなかった(それでも安政の大獄のとばっちりを受けたり、閑職に飛ばされたりという悲哀を味わう)。政見や肌合いの合わない老中や上司の指示にも、できるだけ意に沿うように全力を尽くした。著者がいう「江戸期を通じて最高の官僚」という表現が全くぴったりくる人物である。
とはいいながら、機械のように仕事をこなす堅物というわけではない。条約締結交渉で川路と深く接したプチャーチンは「その鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物たり得るであろう」と絶賛している。
川路聖謨は、徳川幕府の瓦解が間近に迫った江戸開城の前日、ピストルで自殺する。自分が生涯をかけた組織の消滅とともに、自らの肉体も葬り去ったのである。この潔い死にざまにも川路聖謨の人格が表れている。

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函館 川汲町

2013年10月20日 | 北海道
(川汲温泉ホテル)


川汲温泉


箱館戦争川汲戦戦死者慰霊碑

 川汲(かっくみ)温泉ホテルに慰霊碑が建てられている。この地における箱館府兵の戦死者は七名であった。
 鷲ノ木に上陸した旧幕軍は、人見勝太郎率いる遊撃隊と本多幸七郎の伝習歩兵隊三十人とともに先行させ、それを追うように大鳥圭介指揮の五百二十人(伝習士官隊、遊撃隊、新選組、砲兵隊)が続いた。これとは別に土方歳三は別働隊(額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊)を率いて佐原、川汲を経て箱館を目指した。
 土方隊が川汲に到着したのが、明治元年(1868)十月二十四日。土方隊は峠に布陣していた箱館府の守備兵を撃退すると、川汲に戻って温泉を楽しんだと伝えられる。疲れを癒した後、翌朝五稜郭に向けて進発した。

 実は川汲峠付近に、二股口の台場山とは別の、もう一つの台場山がある。標高は485メートル。山頂には土方隊が築いた砲台跡があるというが、登山口が分からなかった。


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函館 上湯川町

2013年10月20日 | 北海道
(トラピスチヌ修道院)


トラピスチヌ修道院

 トラピスチヌ修道院は、明治三十一年(1898)にフランスの修道院から八人の修道女が来たのが起源である。現在の建物は、昭和二年(1927)の再建。

 ほぼ五日間で予定の史跡を回ってしまった私は、最終日、せっかくだから少し人並みの観光スポットも行っておこうか、という気になり、当初の予定にはなかったが、有名なトラピスチヌ修道院を訪ねてみることにした。
 トラピスチヌ修道院へは、市電で函館駅前から終点湯の川まで約三十分。さらに函館バスに乗り換えて十五分ほど。トラピスチヌ入口で下車する。ここから五分も坂道を上ると到着する。市電+バス共通の一日乗車券を千円で売っているので、これを入手するとよい。


函館市電


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函館 湯川町

2013年10月20日 | 北海道
(湯倉神社)


湯倉神社

 川汲峠を越えて箱館に入った土方軍は、湯の川に宿泊して、ここでも温泉で疲れを癒した。五稜郭に入って、翌日には松前攻略のために出動したが、大鳥隊と比べればほとんど戦闘らしい戦闘は経験しておらず、温泉三昧だった土方隊はすぐに動ける状態であった。


湯川温泉発祥之地碑

湯倉神社境内に、湯川温泉発症之地碑が建てられている。
旧幕軍は湯の川温泉の東に療養所を置いた。

 函館駅前から市電で湯の川終点まで約三十分。夕食を済ませて息子と温泉に行った。炎天下を歩き回って汗だくの毎日だったので、非常に気持ち良かった。


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函館 日乃出町

2013年10月20日 | 北海道
(土方啄木浪漫館)


土方啄木浪漫館

 土方啄木浪漫館は、平成十五年(2003)に開館したもので、二階にはやはり函館に所縁の深い詩人石川啄木関係の資料が展示されている。ここでは、土方歳三はまるで少女マンガの主人公のような扱いで、オジサンにはちょっとついていけない雰囲気であった。


土方啄木浪漫館の壁面写真

 六名の写真が壁面に掲示されている。誰だか分かりますか?

(答え)
左上から榎本武揚、大鳥圭介、中島三郎助。下段、左から甲賀源吾、ジュール・ブリュネ、高松凌雲


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函館 陣川町

2013年10月20日 | 北海道
(四稜郭)


四稜郭

 四稜郭は、五稜郭の背後を固めるため、旧幕軍によって急造された西洋式要塞である。五稜郭と同じように、周囲に土塁と空堀を巡らし、四隅に砲座を置いた。五稜郭と比べると規模はかなり小さいが、上空から見ると蝶が羽を広げたような形をしているらしい。
 地元の言い伝えによると、旧幕軍は士卒約二百名と付近の住民約百名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの稜堡を完成したという。
 明治二年(1869)五月十一日、新政府軍は四稜郭に総攻撃を仕掛けた。松岡四郎次郎率いる旧幕軍は必死に防御に努めたが、長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を攻め落としたため、孤立することを恐れた旧幕軍は五稜郭へ敗走した。
 四稜郭は長らく荒廃するに任されていたが、昭和九年(1920)に史跡に指定されて以降、地元の人や市民の手厚い保護を受けて、今日まで往事の原型を復元保存することに成功した。
 五稜郭には観光バスが横付けし、連日多くの観光客で賑わっているが、四稜郭の方はというと、訪問客は疎らである。


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函館 神山町

2013年10月20日 | 北海道
(大円寺)


大円寺

 大円寺も、土方歳三の遺体が最初に埋葬されたとされる寺院の一つである。箱館戦争における新政府軍戦死者の墓がある。


旧官修墓地


無縁塚

 大円寺の無縁塚は、五稜郭の築造工事のとき、病気や怪我で死亡した人たちを供養する塚で、碑の裏面には建立された年月日(文久四年甲子春)と「棟梁喜三郎一同」と刻まれている。喜三郎とは、備前の石工井上喜三郎のことで、五稜郭のほか弁天台場などの石造りを担当した。


箱館奉行役宅墓所 杉浦誠の娘の墓

 杉浦誠は、幕府が任命した最後の箱館奉行である。杉浦誠は、文政九年(1826)江戸の生まれ。誠は諱で、雅号を梅潭と称した。壮年時代は武を好み、剣道をよくした。大橋訥庵に文学を学び、横山湖山、大沼枕山に詩を学んだ。文久二年(1862)目付に任じられ、文久三年(1863)新番頭格に転じ、慶応二年(1865)二月、箱館奉行に補された。維新後は静岡藩公議人を経て、明治二年(1868)外務省出仕。ついで開拓権判事として再び函館に勤務することになった。資性温厚、人望もあり、函館支庁において交通商業等の発展に力を尽くした。明治十年(1877)に職を辞したあとは、東京に住んで詩作を楽しんだ。明治三十三年(1900)、七十五歳で死去。
 新潟などの遠国奉行の多くが、戊辰戦争勃発とともに業務を放棄して逃亡したが、杉浦は職務を全うした。幕末を代表する能吏の一人である。

(神山稲荷神社=旧東照宮)


神山稲荷神社


手水石

 五稜郭を占拠した旧幕軍幹部は、そろって東照宮を訪れ、参拝した。
 手水石には、箱館戦争当時の弾痕が残っているという。この手水石の写真を撮り忘れていたことに気付き、途中から引き返した。ところが、どういう事情かしれないが、手水石にはシートがかけられ、念の入ったことにロープで縛られていた。勿論、弾痕は確認できず。

(権現台場跡)


権現台場跡

 権現台場は、四稜郭とともに箱館の北方防御の拠点であった。

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函館 吉川町

2013年10月20日 | 北海道
(極楽寺)


極楽寺

 吉川町の極楽寺には、明治十年(1877)頃、地元吉川、亀田両村の寄進者十名により建立された諸国戦死供養塔がある。建立時期から、箱館戦争における新政府軍、旧幕軍の戦死者の菩提を弔った灯篭と推測されている。


諸国戦死供養塔


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