史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

岡崎 Ⅳ

2023年08月05日 | 愛知県

(光善寺)

 

光善寺

 

 この日は豊田市駅前のビジネスホテルのロビーに9時集合であったので、愛知環状鉄道の始発電車に乗って岡崎周辺の史跡を巡った。最初の訪問地は、西岡崎駅(JR)近くの光善寺である。深見篤慶(あつよし)の墓がある。

 

深見藤十篤慶之墓

 

 深見篤慶は文政十一年(1828)の生まれ。父は外山三輔。通称は藤十。雅号は松塢。二十四歳のとき三河国碧海郡新堀村の刈谷藩用達木綿問屋深見善恕の養嗣子となり、刈谷藩侍講村上忠順に国学を学び女婿となった。忠順の子忠明が松本奎堂らと交わるに及び、天誅組の資金を供給。のち京都の志士の活動資金として有栖川家へ献納した総額は二万両に及んだとされる。維新後は神社創建修復、学校創設に私財を投じ、明治五年(1872)、額田県学校幹事、酒人神社祠官となった。忠順のために珍書古籍を蒐集し、自らも国学や和歌の書を出版刊行した。明治十四年(1881)、年五十四で没。墓石の背面には篤慶の事績が簡潔に記載されている。

 

 墓石の写真を撮っていると、寺から老人が出てきたので深見篤慶について会話を交わすことができた。これから前庭天神社で篤慶の石碑を見に行くということを伝えると、篤慶が祠官を務めた酒人神社にも顕彰碑がある、と教えていただいた。調べてみるとここから二キロメートルほど離れており、今回の訪問は諦めた。

 

(前庭天神社)

 

前庭天神社

 

贈従五位深見篤慶先生之碑

 

 見上げんばかりの巨大な石碑である。公爵一條實孝の書。

 

(専福寺)

 

専福寺

 

 東岡崎駅から北に十分ほど歩くと旧東海道近くに専福寺がある。本堂の前に明治天皇行在所跡碑が建てられている。

 明治天皇は明治十一年(1878)十月二十八日と二十九日、二泊している。

 

明治天皇行在所跡

 

 専福寺まで半ば駆け足で往復して東岡崎八時十一分発の電車に飛び乗り、岡崎公園前(中岡崎)駅で愛知環状鉄道に乗り換え。八時四十七分に新豊田駅に戻った。ホテルに戻ったのは集合時間九時の五分前であったが、まだ一階で朝食が提供されていたので、五分で朝食を済ませた。その時点で集合時間は過ぎていたが、「まだ時間はある」ということだったので、部屋に戻って歯を磨き、何食わぬ顔で合流した。アクロバティックな史跡探訪であった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋 南

2023年07月22日 | 愛知県

(富部神社)

 南区呼続(よびつづき)四丁目の冨部(とべ)神社は、慶長八年(1603)、清須城主松平忠吉が創建したといわれる。慶長十一年(1606)、病気快癒の報恩のため、本殿、祭文殿、拝殿、回廊などを寄進し、さらに神宮寺として天福寺を建てた(維新後、神仏分離により廃寺)。江戸時代を通じて、歴代の尾張藩主から黒印地として毎年百石が寄進された。

 

富部神社

 

 鳥居の横に明治天皇の駐蹕記念碑が移設されている。滞在は明治元年(1868)九月二十七日。

 

明治天皇御駐蹕之處

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋 港

2023年07月22日 | 愛知県

(南陽神社)

 

南陽神社

 

 名古屋市港区の南陽中学の南にある南陽神社は、日清戦争以後の戦死戦病死者を祀る神社である。大正十二年(1923)、靖国神社から分霊を受けた。当時は南陽忠魂社と称していた。

 

鬼頭景義・勘兵衛宅跡

 

 境内には鬼頭景義・勘兵衛宅の長屋門が修理移築されている。

 鬼頭景義は、寛永八年(1631)から明暦三年(1657)に至る二十七年間、尾張・美濃で二十七ヶ所、二万二千余石にのぼる新田を開拓した人物である。この地に居住した景義直系の子孫には、代々勘兵衛を名乗る者が多く、そのため勘兵衛屋敷と呼ばれた。

 太平洋戦争で建物の大半が焼失し、現在は明治十三年(1880)、明治天皇巡幸の際に使われた長屋門のみが残されている。

 

明治天皇福田行在所

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋 瑞穂

2023年07月22日 | 愛知県

(東ノ宮神社)

 

東ノ宮神社

 

 名古屋市瑞穂区神穂町の東ノ宮神社では、狭い境内に大正期に建てられた明治天皇覧穫之所碑と昭和になって建てられた明治天皇八町畷御野立所碑がある。

 

明治天皇覧穫之所

 

 題字は尾張徳川家の第十九代当主徳川義親(松平春嶽の五男)。

 

明治天皇八町畷御野立所

 

 当地は、明治元年(1868)に明治天皇が稲の収穫をご覧になった水田の跡である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋 Ⅶ

2023年07月22日 | 愛知県

(ファミリーマート中川富川町店)

 

明治天皇御駐蹕之所

 

 この日、新居浜から名古屋に移動し、名古屋駅近くのビジネスホテルに宿泊した。岡山からの新幹線がよりによって信号故障により十五分遅れとなった。十五分程度の遅れであれば、まったく気にならないのだが、この日は日没までの一時間を使って、近鉄烏森(かすもり)駅周辺の明治天皇聖蹟碑を歩いて探訪する予定を立てていたので、気が気でなかった。

 ホテルに荷物を置いて、飛ぶように近鉄の普通電車に乗り、烏森駅を目指す。最初の訪問地は、佐屋街道沿いにある天神児童遊園地(名古屋市中川区長良町3‐2‐2)である。

 ところがそこに行ってみると

――― 当所に建立設置されていた『明治天皇御駐輦之所』の石碑は、長良八劔社境内に移設しました。          長良八劔社

と書かれた立て看板がポツンと置いてあるだけであった。

 日本国内に入った瞬間、ベトナムから持参したスマホが使えない状態になってしまい、グーグルマップで検索もできない。八劔神社がどこにあるかも分からないので、取り敢えず次の目的地である、冨川町のファミリーマートの前にある明治天皇碑を目指すことにした。

 十五分ほど佐屋街道を東に進み、長良橋を渡ったところに立派な石碑が建てられている。

 

 明治元年(1868)十二月十八日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したものである。

 

(長良八劔神社)

 

長良八劔神社

 

 佐屋街道を烏森駅方面に戻り、途中で店仕舞いをしていた老女に長良八劔神社の場所を訊いたところ、直ぐ近くであることが分かった。何とか日没までに行き着くことができた。

 本殿の裏側に明治天皇御駐輦之所碑が移設されている。明治二年(1869)三月十六日の滞在跡である。

 

明治天皇御駐輦之所

 

(名古屋別院)

 翌日は雨であった。地下鉄の始発に乗って東別院駅で下車。名古屋別院を訪ねた。

 織田信長の父信秀が天文十一年(1542)頃。熱田を掌握し、東方の今川に備えるために築城したのが古渡(ふるわたり)城である。現在、名古屋別院のある辺りに築城されていたとされる。

 

真宗大谷派 名古屋別院

 

古渡城趾

 

明治天皇行在所舊址

 

 明治十一年(1878)から明治二十七年(1894)まで、当地における明治天皇の宿泊は六回を数えた。近くには明治天皇名古屋大本営碑も立っている。

 

明治天皇名古屋大本営

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

津島

2023年07月15日 | 愛知県

(浄光寺)

 

浄光寺

 

明治天皇 佐屋 行在所

 

 津島市片町の浄光寺門前に明治天皇の行在所が置かれたことを記念した石碑が建てられている。

 

(大地主神社)

 

大地主神社

 

 津島市埋田町の大地主神社には、聖蹟碑と明治天皇御小休紀念 椿と刻まれた石碑がある。

 この地は明治天皇が小用を足された場所で、後年この地に椿の枝を刺しておいたところ、根を生じて生育したため、明治十八年(1885)になって神社が造られたという。

 

聖蹟碑

 

明治天皇御小休紀念 椿

 

 周囲を探してみたが椿らしき樹木は見つけられなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

清須

2023年07月15日 | 愛知県

(清洲宿本陣跡)

 

清洲宿本陣跡

 

 清洲宿は、当初一場桑名町に置かれたが、寛文八年(1668)、火災に遭い、現在地(清州二丁目)に移された。直ぐ近くに再建された清須城がある。以来、この本陣は将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮・琉球使節の参府、時には大象の下向時の休泊所となり、美濃路の中でも最も豪壮な建物であった。

 

明治天皇御駐蹕之所

 

 明治十一年(1878)の明治天皇が当地を訪れた際にも小休所として使用されたが、明治二十四年(1891)に火災で焼失した。わずかに正門のみが免れ、その後縮小して再建され、唯一清洲宿本陣の名残となっている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲沢

2023年07月15日 | 愛知県

(佐藤牧山碑)

 

佐藤牧山碑

 

 稲沢市祖父江町の神明社の北側に佐藤牧山碑がある。佐藤牧山が当地で生まれ、旧宅跡があったことを示すものである。

 この後、祖父江町郷土資料館で佐藤牧山関係史料を見学して行こうと思って、付近を探したが、どうやらそのような施設は存在していないようである。

 

(森部家)

 

森部家

 

明治天皇御駐蹕所

 

 下津下町の交差点に面した場所に森部家の屋敷がある。明治天皇の小休所となった森部家の門や御座所の建物が往時のまま保存されているという。塀沿いに「明治天皇御駐蹕所」碑の上部が見える。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一宮 Ⅱ

2023年07月15日 | 愛知県

(北方)

 一宮市の北端に位置する北方町の木曽川沿いに北方代官所跡がある。北方代官所は、天明元年(1781)、この地に陣屋が置かれ、木曽川沿いの葉栗、丹羽、中島の三郡、美濃の大野、池田、本巣ほか九郡に及ぶ広い地域を管轄した。明治四年(1871)、代官所は廃止された。

 

北方代官所跡

 

明治天皇御駐蹕記念塔

 

北方代官所跡から百メートルほど西に行った場所に明治天皇御駐蹕記念塔が建てられている。明治二十年(1887)二月十一日、当時まだ木曽川の鉄橋が建設中であったため、明治天皇は皇后陛下を伴い、対岸の円城寺で汽車を下りて仮橋を渡って、当地に新設された御召換所で休息をとった後、再び乗車して東京へ向かった。

 

(善龍寺)

 

善龍寺

 

明治天皇御駐輦之處

 

 木曽川町の善龍寺の門前には明治天皇御駐輦之處があり、境内に入って松の巨樹のところには明治天皇黒田御小休所が置かれている。

 

明治天皇黒田御小休所

 

 明治十一年(1878)十月の巡幸に際して明治天皇が滞在になったことを記念したものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋 Ⅵ

2022年06月18日 | 愛知県

(興正寺つづき)

 

普門院殿松誉雙天浄六大居士墓

(間宮六郎の墓)

 

 前日は一年半ぶりに京都に帰省した。両親と実家近所の中華の店で夕食をとった後、翌日の亀山出張に備えて名古屋まで戻って駅前のビジネスホテルに泊まった。翌朝、地下鉄の始発で八事まで行って、御幸山や興正寺周辺の史跡を訪ねた。

 興正寺では間宮六郎の墓を探し当てた。間宮六郎は、天保二年(1831)の生まれ。父は間宮延太郎正統。十二歳で家を継ぎ、弘化四年(1847)、用人。嘉永三年(1850)、大番頭。万延元年(1860)、年寄列。元治元年(1864)、征長軍先鋒隊長、慶応元年(1865)、年寄加判となった。第二次征長軍にも前藩主徳川玄同(茂徳)に従い大阪に出陣。慶應四年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いの時には、名古屋で幼藩主義宣の側に起居し、動揺する藩論の中で佐幕派を抑え、前々藩主慶勝の帰名を待って佐幕派断罪を首唱した。美濃太田へ出陣。明治二年(1869)には東方総管として農兵隊を編成し、同年名古屋藩権大参事となった。廃藩置県で退官し、尾張徳川家の顧問となった。明治三十五年(1902)、年七十二で没。

 

牧山佐藤先生碑

 

 広い興正寺の境内でも北東部にあたる。大日堂や善聚庵のある敷地のさらに東側に石碑が並べられている。その中に佐藤牧山の碑がある。

 佐藤牧山は、享和元年(1801)の生まれ。初め、鷲津松隠の有隣舎に学び、のち名古屋の河村乾堂の教えをうけ、十九歳のとき江戸に出て昌平黌に入った。二十五歳にして駒込で諸生を教授した。のち尾張藩より儒官に登用され、明治二年(1869)には藩校明倫堂の督学となった。藩校廃止後、名古屋大津町で諸生を教えたが、聴講する者が極めて多かったという。晩年、東京に移り、斯文学会の講師となった。門人には近藤真琴、石川素童、川口江東、鈴木鹿山らが出ている。明治二十四年(1891)、年九十一で没。

 

柳本家累代之墓(柳本直太郎の墓)

 

 次いで、神葬墓地に移って、柳本直太郎の墓を探した。

 柳本直太郎は、嘉永元年(1848)の生まれ。福井藩士。小坊主三人扶持という極めて微禄であったが、その才が認められ、文久元年(1861)三月、英語の学習を命じられた。文久二年(1862)、蕃書調所に入り、慶応元年(1865)、横浜で外人相手に英語の修行を命じられ、慶応三年(1867)四月にはアメリカへ留学した。足軽の身で洋行したのは稀であった。明治になって華頂宮博経親王の在米留学中の世話役を勤め、帰朝後は文部省に入って東京外国語学校長となった。明治二十七年(1894)から明治三十年(1897)まで、第三代名古屋市長をつとめた。大正二年(1913)、年六十六歳で没。

 

(西光院)

 

西光院

 

拙斎長谷川敬之墓(長谷川惣蔵の墓)

 

 西光院には長谷川惣蔵の墓がある。

 長谷川惣蔵は、文化五年(1808)の生まれ。惣蔵は通称。諱は敬、雅号に拙斎、是風。尾張藩主徳川慶勝が支封高須家の世子であったときから補導に努めた。慶勝の本家相続に従い、名古屋に移り藩政改革に努力した。安政元年(1854)、皇居造営の斎、宮城拡張に奔走した。安政五年(1858)、慶勝幽閉に在して永蟄居。文久二年(1862)、赦されて慶勝に随従して上京し、公武合体に活躍した。征長の役には征長総督慶勝を助けて軍務をみ、役後、千賀信立とともに彼の使者として幕府に復命した。用人並、勘定奉行を歴任。慶應四年(1868)三月、退隠後は子弟の教導にあたった。明治十九年(1886)、年七十九で没。

 

(御幸山公園)

 

御幸山公園

 

 地下鉄八事駅の南東方向の住宅街には、その名も「御幸山」という町名が今も引き継がれている。天白区御幸山の御幸山公園は、一見するとどこにでもある平凡な公園であるが、入口に「明治天皇八事御野立所」という石碑が建てられている。明治二十三年(1890)の陸海軍連合大演習の際の明治天皇の滞在跡である。それまで音聞山と呼ばれていたのが、これを契機に御幸山と改められた。現在、この周辺は高級住宅街となっている。

 

明治天皇八事御野立所

 

御統監之所

 

 同じ公園内にある御統監之所碑は、大正天皇がやはり軍の演習を統監したことを記念したものである。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする