(光善寺)
光善寺
この日は豊田市駅前のビジネスホテルのロビーに9時集合であったので、愛知環状鉄道の始発電車に乗って岡崎周辺の史跡を巡った。最初の訪問地は、西岡崎駅(JR)近くの光善寺である。深見篤慶(あつよし)の墓がある。
深見藤十篤慶之墓
深見篤慶は文政十一年(1828)の生まれ。父は外山三輔。通称は藤十。雅号は松塢。二十四歳のとき三河国碧海郡新堀村の刈谷藩用達木綿問屋深見善恕の養嗣子となり、刈谷藩侍講村上忠順に国学を学び女婿となった。忠順の子忠明が松本奎堂らと交わるに及び、天誅組の資金を供給。のち京都の志士の活動資金として有栖川家へ献納した総額は二万両に及んだとされる。維新後は神社創建修復、学校創設に私財を投じ、明治五年(1872)、額田県学校幹事、酒人神社祠官となった。忠順のために珍書古籍を蒐集し、自らも国学や和歌の書を出版刊行した。明治十四年(1881)、年五十四で没。墓石の背面には篤慶の事績が簡潔に記載されている。
墓石の写真を撮っていると、寺から老人が出てきたので深見篤慶について会話を交わすことができた。これから前庭天神社で篤慶の石碑を見に行くということを伝えると、篤慶が祠官を務めた酒人神社にも顕彰碑がある、と教えていただいた。調べてみるとここから二キロメートルほど離れており、今回の訪問は諦めた。
(前庭天神社)
前庭天神社
贈従五位深見篤慶先生之碑
見上げんばかりの巨大な石碑である。公爵一條實孝の書。
(専福寺)
専福寺
東岡崎駅から北に十分ほど歩くと旧東海道近くに専福寺がある。本堂の前に明治天皇行在所跡碑が建てられている。
明治天皇は明治十一年(1878)十月二十八日と二十九日、二泊している。
明治天皇行在所跡
専福寺まで半ば駆け足で往復して東岡崎八時十一分発の電車に飛び乗り、岡崎公園前(中岡崎)駅で愛知環状鉄道に乗り換え。八時四十七分に新豊田駅に戻った。ホテルに戻ったのは集合時間九時の五分前であったが、まだ一階で朝食が提供されていたので、五分で朝食を済ませた。その時点で集合時間は過ぎていたが、「まだ時間はある」ということだったので、部屋に戻って歯を磨き、何食わぬ顔で合流した。アクロバティックな史跡探訪であった。