史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「但馬の殿様」 吉盛智輝著 神戸新聞総合出版センター

2018年06月30日 | 書評
ブログに著者吉盛氏よりコメントをいただき、早速この本を購入した。最近、本屋に行った際には「近代史」のコーナーとともに「郷土史」の書棚も眺めるようにしているが、この本の存在には気が付かなかった。安易に量産される人気作家のお手軽本より、地方の無名の郷土史家の書籍の方が余程内容は充実していると思うのである。
本書でいう「殿様」には大名だけでなく旗本御家人も含まれる。「但馬の殿様」とは、但馬に領地を持つ大名家・旗本御家人のことをいう。江戸初期から幕末に至るまで、更には維新後の殿様家の生々流転を淡々と記述したもので、ほとんど辞書のような味わいの本である。
筆者は但馬の殿様一人ひとりについて、生没年、戒名、墓地、父母や正室、子女といった家族構成、家督を相続した時期などを網羅的に調査し、実際に墓地まで赴きその現状を確認している。巻末の履歴によれば、筆者は兵庫県豊岡市出身で、但馬史研究会に所属する方らしいが、その情熱には頭が下がる。
こうして但馬という地域に限定しても、江戸二百六十年の間、実に多数の殿様が生まれている。その大半が、ひたすら家名を次世代に繋ぐことに意を尽くし、名もなく消えていった人たちである。たまに将軍に「お目見え」とか「時服を賜わった」とか「金二枚を拝領」といった記述があるが、それは彼らにとって今からは想像もつかないような栄誉だったのであろう。
こうした但馬の殿様の中から、京極高朗と小出秀実という幕末史に名を残す旗本が輩出された。両名とも幕府に登用され、外交官として活躍した。京極高朗は文久遣欧使節の目付に選ばれ渡欧。現地ではロシアとの国境制定交渉に尽力した。鳥羽伏見の主戦論者で、手痛い敗戦を食らった幕臣として知られる滝川播磨守具挙と京極高朗が実の兄弟だということを本書で初めて知った。
土田(はんだ)小出家出身の小出秀実(ほずみ)も遣露使節団の正使として慶応二年(1866)にロシアに派遣され、国境画定交渉にあたった。何よりも箱館奉行時代にはアイヌ人盗骨事件に直面し、イギリスを相手に毅然とした態度で交渉にあたり名を挙げた。この二人は、長い但馬の殿様の歴史にあって突然変異的存在である。
筆者吉盛氏からいただいた情報によれば、小出秀実の墓は、京都大徳寺玉林院にあって、掃苔可能なのだそうである(近いうちに行ってみなければ…)。秀実という秀才を生んだ小出家は、悲惨な没落の道を辿り絶家となってしまったという。「家名を次代に繋ぐ」ということは一見すると単純なことであるが、意外と難しいことなのである。


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「天皇陵の謎」 矢澤高太郎著 文春新書

2018年06月30日 | 書評
 五月の連休に橿原市の神武天皇陵を訪問した。神武天皇といえば、神話上の人物であり、記紀の記述に従えば百二十七歳という超人的な長命を全うしたことになっている。歴史学的あるいは考古学的には実在は疑問視されているが、だとすれば神武天皇陵に葬られているのは誰だろうと俄かに気になり、さっそく書店に行って関係書籍を漁り、見つけたのが本書である。
 本書によれば、神武天皇陵は畝傍山周辺に候補地が三か所あった。一つ目が丸山と呼ばれる畝傍山の北東の裾、二つ目がミサンザイと呼ばれる畝傍山の北東約六百メートルの位置、三つ目は塚山というミサンザイから北東へ四百メートルの人工的な「土のたかまり」がある場所である。それぞれに理由があり、江戸時代から学者、さらには国学者、尊皇論者、山稜家と呼ばれた人たちの間で論争が繰り広げられてきた。最終的には山稜奉行相談役谷森善巨の判断が重んじられ、ミサンザイに決定したという。
 国立歴史民俗博物館春成秀爾名誉館長によれば、幕末の徳川幕府は朝廷との友好的な関係を強調するために陵墓の修復事業に積極的に取り組んだが、折柄孝明天皇の大和行幸が計画され、それに合わせて天皇の神武陵参拝が決まったため、慌てて神武陵を確定する必要に迫られた。短期間で整備できる候補地はミサンザイ以外になかったと指摘する。
 こうして確定した神武陵は、文久三年(1863)から七か月に渡って修復工事が実施され、現在の御陵の原形ができあがったのである。
 神武天皇だけでなく、第九代開化天皇に至る天皇は、神話上の架空の天皇として実在は否定されている。しかし、全員に陵墓が治定されている。これを「捏造」と批判するのはたやすいが、明治以降の天皇親政による近代国家建設という時代背景を考えれば、考古学的には間違いであっても政治的には正しかったというべきであろう。筆者は「歴史を眺める場合に最も慎むべきは、現在があらゆる面で至上の時代という慢心」「新造、改造、変造された陵墓も、西洋列強に伍して、懸命に近代国家の確立に邁進した明治日本の泥沼の苦闘を今に伝えている―――と考えたい」と指摘する。
 一貫して筆者は、宮内庁の陵墓管理を批判する。何故学術調査ができないのか、被葬者の治定の根拠があまりに曖昧ではないか、中には被葬者と古墳の年代が明らかにずれているものもある。
 かつて私の実家があった大阪府高槻市の今城塚古墳は、第二十六代継体天皇の真陵とほぼ特定されている。ところが、「その惨憺たる状況に対しても、宮内庁は何らかの手を講じようともしない」「宮内庁書陵部とは何を目的とした官庁なのか」「その存在意義の根本は、どこにあるのか」と悲鳴に似た批判をなげかける。そして、今も茨木の太田茶臼山は継体天皇陵のままであるし、今城塚古墳は高槻市によってテーマパーク化してしまった。筆者に言わせれば「文化財の破壊」という惨状である。
 最終章において、筆者は陵墓の公開を強く求めると同時に我が国の文化レベルの低さを嘆き、この惨状のまま陵墓の主体部の発掘には到底賛同できないとする。陵墓発掘は、日本がいつの日か政治的にも文化的にも成熟した、先進国として「普通の国家」になった時に初めて議論できる問題であると結論づける。
 筆者の主張は納得感のあるものであるが、これだけ批判された宮内庁の言い分も聞いてみたいものである。

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和歌山 Ⅳ

2018年06月23日 | 和歌山県
(和歌山城つづき)


和歌山城追廻門

 追廻門は、西から和歌山城に入る門で、大手門の反対側の搦手に位置する。門を出て道を隔てた外側に馬術を練習する「追廻」があったので、この名が付いた。元和五年(1619)、紀州徳川家初代頼宣の入国に際に建立されたといわれる。この門は和歌山城の鬼門にあたり、除災のため朱色に塗られている。
 慶應二年(1866)、藩政改革のため津田出が登用されたが、翌年、保守派の反撃により津田は失脚し、急進改革派であった奥祐筆組頭の田中善蔵が追廻門で暗殺された。門外に田中善蔵の顕彰碑が建てられている。


盡忠之碑(田中善蔵顕彰碑)


田中善蔵肖像(川合小梅筆)

 田中善蔵は、文政八年(1825)生まれ。名を元長といった。通称は善之助もしくは善蔵。号は雄泉。幼にして藩校に入り、仁井田南陽に史学、詩文を学んだ。嘉永年間、藩校の授読、儒員を経て奥祐筆。登用されて藩政に参与。諸藩の間を周旋した。藩政改革を断行する津田出の命を受け家禄削減の準備を進めるが、慶應三年(1867)十一月十二日、反対派の藩銃隊中隊長、堀田右馬允ら六人の襲撃を受け追廻門外で斃れた。四十三歳。

(大立寺)


大立寺

 調べたところ、田中善蔵の墓は市内橋向丁の大立寺にあるという情報を得たので、墓地を歩き回った。田中家の墓は複数発見したのだが、善蔵の墓は特定できず。田中家の墓の中で一番広い墓域を持つものを参考として掲載しておく。


田中家之墓

(念誓寺)


念誓寺

 念誓寺本堂は、新しく建て替えられたらしく、外観はまったく寺らしくない。窓から覗くと、内部もまるで教会のような内装である。
 岩橋半三郎の墓がここにあるというので、探して歩いたが、見つけることができなかった。岩橋家の墓はあるにはあったが、ここに半三郎が葬られているかどうかは不明。


岩橋家之墓

 岩橋半三郎は、和歌山藩士。父は里見理兵衛。和歌山藩儒岩橋柳窓(藤蔵)の養子となり、以後岩橋姓を名乗った。壮時、水戸に遊学して会沢正志斎の門に入り、帰国して藩校の教授となった。尊王攘夷の思想強く、しばしば藩主に建言したが用いられず。脱藩して江戸に出て里見二郎という変名を用いて諸侯の家に出入りして尊攘の大義を述べ、さらに京都に入って一橋、尾張の両家および和歌山藩主に上書したが容れられなかった。ついに長州に走り、元治元年(1864)、禁門の変に戦って敗れ、岡田栄吉を改めて、慶應二年(1866)八月、京都に入り、しばしば岩倉具視の幽居を訪い、朝権の回復に奔走したが、幕吏に捕えられ、間もなく獄中にて殺された。

(妙宣寺)


妙宣寺

 妙宣寺に川合小梅、川合梅所、川合春川三人の墓が並べて置かれている。


春川先生墓(右)
梅所川合先生墓(中)
川合小梅墓(左)

 川合春川(大平)は、美濃国高須の生まれ。京都遊学ののち、紀州徳川第十代藩主治宝公に迎えられ、都講(校長)として藩の教育に絶大な貢献があった。
 川合梅所(豹蔵)は漢学者で、紀州藩御留守居物頭格として御学問相手役として迎えられた。
 川合小梅は春川の孫にして、梅所の妻。漢学を祖父春川に学び、和歌を母辰子(春川の娘で和歌を本居大平に学んだ)に学び、のち野呂分石の門人野際白雪に師事した。学長の妻として藩の教育を側面から助け、人物画・花鳥画を究め、羅浮洞仙と号した。天保九年(1838)から明治十八年(1885)まで書き綴った「小梅日記」は幕末から明治にかけての政治、経済、社会の裏面史を語る価値ある郷土史料とされている。明治二十二年(1889)、没。八十六歳。

(光明寺)
 和歌山市塩屋二丁目の光明寺に横井鉄叟の墓を訪ねた。しかし、残念ながら発見できず。

 横井鉄叟は和歌山藩士。西郷元熈の三男。名は時敏。通称は次太夫、泉三郎、のちに鉄叟と称した。天保十四年(1843)、横井氏を継ぎ、禄二百石。大番、大番組頭。幕末の風雲に会し、激情やみがたく脱藩。公武の間を周旋し国事に奔走した。土佐の吉村寅太郎、板垣退助、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通、肥後の宮部鼎蔵、轟武兵衛らと交遊。元治元年(1864)、和歌山藩留守居、屋敷奉行を命じられ、公武機密の内命を受けた。以来、京、江戸を転々とした。東海道鎮撫総督に随従して、その後も和歌山藩公用人、公用局判事を歴任したが、致仕して悠々自適の生活を送った。明治四十年(1907)九月、没。八十一歳。


光明寺

(法福寺)
 北畠道龍は法福寺の出身であり、ここに墓がある。


法福寺


大間院道龍大?(北畠道龍の墓)

 北畠道龍は、文政三年(1820)の生まれ。南北朝の北畠親房の末裔という。法福寺北畠大法の長男。幼名は宮内、循教。道龍は号。幼少から仏典、武技を学び、剣、槍、柔術とも免許皆伝。軀幹偉大。弟に寺を譲り諸国を巡歴した。王政復古の機運を知ると、帰国して宝福寺に日本体育共和軍隊を組織し、天誅組鎮圧をはじめ征長にも参戦した。明治二年(1869)、藩主徳川茂承から執政津田出の参謀を命じられ、藩政改革に挺身する津田の身辺警固に当たった。のち監軍、大隊長。徴兵使となり全国最初の徴兵検査を実施した。維新後、新政府から少将、元老院議官に補せられたが辞退。京都東山でドイツ人ヨンゲルからドイツ語、理学、天文、地理、精神学を学び、明治九年(1876)、東京に北畠構法学舎のちに明治法律学校(明治大学の前身)を創立した。本願寺門主明如の委任を受け、本願寺改革に取り組んだが、長州閥に阻まれて成らず、痛憤。欧州に赴き、帰途インドに釈迦の聖地を訪ね、墓前に「日本開闢以来余始詣于釋尊之墓前 道龍」という碑を建てて帰国した。明治四十年(1907)十月、大阪北区綱島町に没した。八十歳。

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広川

2018年06月23日 | 和歌山県
(広川町役場)
 広川町広は、濱口梧陵という偉人を生んだ街である。この街で梧陵の足跡を追ってみたい。
 広川町役場の前には、「稲むらの火」広場がある。主役はもちろん濱口梧陵である。


稲むらの火広場

 広はその地形により古来何度も津波の被害を受けてきた。特に宝永地震(1707)と安政南海地震(1854)の津波は、広に壊滅的な被害をもたらした。
 濱口梧陵は安政南海地震の折、ちょうど広に帰省していた。海が異常に引いているのを見て、大津波が襲ってくることを察知し、稲むらに火をつけて住民を高台に導いた。稲むらの火広場の像は、その様子を再現したものである(聖火リレーではありません)。

(湯浅広港)


湯浅広港


感恩碑

 広港に面して感恩碑が建てられている。
感恩碑は、往古の広村の歴史に触れながら、災害からこの村を守り、発展させてきた幾多の先人の遺徳をしのび、最後に濱口梧陵の偉業とその徳を讃えたものである。昭和八年(1933)の建碑。


広村堤防

 安政南海地震の津波被害を目のあたりにした濱口梧陵は、濱口吉右衛門と諮り、高さ五メートル、根幅二十メートル、天幅二メートル、延長六百メートルという大堤防を築いた。着工は安政二年(1855)で安政五年(1858)に完成をみた。堤防の築造に要した費用はざっと千六百両といわれる。現在価値にすれば大凡一億六千万円という巨額の投資を、梧陵は私財を投じてまかなったのである。
 この堤防のおかげで、広村は昭和二十一年(1946)の南海道地震の津波ではほとんど被害を受けなかった。

(耐久中学校)
 耐久中学校は、嘉永五年(1852)、濱口梧陵、濱口東江(吉右衛門)、岩崎明岳らによって剣術、漢学を教授する私塾広村稽古場として創設されたのが始まりで、その後耐久舎と改称されて、耐久高校、耐久中学の前身となった。
 現在、耐久中学校構内には再建された耐久舎が展示されている。


耐久中学校


耐久舎


広村堤防

 耐久中学校の正門の前まで広村堤防が伸びている。


濱口梧陵翁之像

 耐久中学校校庭には、濱口梧陵像が建てられている。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、濱口梧陵の業績を「生ける神」という物語にまとめて全世界に紹介した。まさにその呼び方に相応しい人物である。

(東濱口公園)
 東濱口公園は、東濱口家旧宅跡を公園化したもので、四季折々の木々を配置した日本庭園となっている。
 東濱口家は、初代濱口吉右衛門を祖とし、江戸で「廣屋」と称する醤油屋を営んでいた。江戸で商いをしながらも故郷広村への貢献を絶やさず、西濱口家の梧陵とともに広村堤防の築造を行うなど、広の復興に尽力した。


東濱口公園

 かつてこの場所には本宅、本座敷、三階棟などがあったが、安政蔵と呼ばれる蔵が残されている。


安政蔵

 安政蔵の柱には、安政南海地震の津波の高さを記録した文字が残されていて、それによれば海抜五・〇四メートルに及んだことが分かる。広村堤防が高さ六メートル超で設計された背景には、安政の津波高を参考にしたことが推定される。

(稲むらの火の館)
 稲むらの火の館は、平成十九年(2007)に濱口梧陵の生家跡に開館した施設で、濱口梧陵の偉業をしのぶ濱口梧陵記念館と、実戦的な地震・津波防災を学ぶ津波防災教育センターが併設されている。ここで濱口梧陵関係史跡の情報を仕入れてから、市内散策をスタートすると良いだろう。入場料五百円。


稲むらの火の館

 濱口梧陵記念館では、梧陵の生涯や功績をさまざまな資料やミニチュアの展示、映像を通して紹介している。梧陵は大久保利通や勝海舟らとも交流が深かったが、とりわけ勝海舟とは嘉永三年(1850)に知り合い、以来貧困にあえぐ海舟を経済的に支援した。記念館には勝海舟の書簡も展示されている。


築堤


濱口御陵関係の展示

(濱口御陵の墓)
 淡濃山の東南麓に濱口梧陵の墓がある。正面には「濱口梧陵之墓」、側面に「明治十八年四月廿一日 八代儀兵衛建」と刻まれている。
 維新後、梧陵は大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任した。明治十二年(1879)には和歌山県議会初代議長に選任された。議長辞任後は、木国同友会を結成し、民主主義の普及活動を展開した。
 明治十八年(1885)、長年の宿願であった欧米の視察途中、ニューヨークで客死した。六十四歳であった。


濱口梧陵之墓

(広八幡神社)
 樹齢数百年といわれる檜が立ち並ぶ中に広八幡神社が鎮座している。室町時代創建の本殿、楼門など建造物六棟、棟札二十八枚、および鎌倉時代の短刀一口、計三十五点が国指定重要文化財に指定されている。


広八幡神社


梧陵濱口君碑

 境内には、濱口梧陵碑が建立されている。撰文と題額は勝海舟。建碑は明治二十六年(1893)四月。

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由良

2018年06月23日 | 和歌山県
(念興寺)


念興寺

 由良町の念興寺に、会津藩士阿部井留四郎、見廻組隊士土肥仲蔵の墓がある。


阿部井留四郎(右)・土肥仲蔵墓

 阿部井留四郎は会津藩士。浩之進の叔父。十石三人扶持。大砲臼井隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて負傷。紀州由良にて死亡。二十八歳。
 土肥仲蔵は見廻組並。慶應四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十一日、由良町念興寺にて自刃した。坂本龍馬暗殺現場にいて、見張りをしていたといわれる人物である。

(光専寺)


光専寺


皆川守之助墓


 光専寺には会津藩士皆川守之助の墓がある。皆川守之助は内藤介右衛門隊。慶応四年(1868)一月、鳥羽伏見の戦争で負傷。同月十八日、死亡。二十八歳。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。

(興国寺)


興国寺

 興国寺は、葛山五郎景倫(かげとも)は鎌倉幕府三代将軍源実朝の菩提を弔うために、安貞元年(1227)に真言宗西方寺として建立されたのが端緒である。その後、興国元年(1340)に後村上天皇から興国寺の号を賜った。天正十三年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔の大半を焼失したが、紀州藩浅野家、徳川家代々の庇護のもと復興された。


由良家歴世之墓(由良守応の墓)


由良守應翁顕彰碑

 参道の右手に由良守応(もりふさ)の顕彰碑と墓がある。
 由良守応は、文政十年(1827)、門前町に生まれた。由良弥太次と称し、号は義渓といった。幕末には志士として活躍。維新後は明治政府に仕えて、後藤象二郎、陸奥宗光らと親交をもった。明治四年(1871)の岩倉使節団に随行して先進文化を吸収し、帰国後、東京で二階建て乗り合い場所「千里軒」を営業し、文明開化の先駆的な事業を手掛けた。明治二十七年(1894)三月、六十七歳で逝去。

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日高川

2018年06月23日 | 和歌山県
(鷲の川大滝)
 日高川町の田尻という集落から鷲の川に沿って細い道が通じている。あまりに細い道なので、このまま行っても何もないのではないかと不安になり、引き返せなくなる前に元の道に戻った。しかし、地図を確認した限り、間違っていないので、再度同じ道を遡ると、突き当りにアマゴ釣り場があって、この日は連休中ということもあって、大勢の家族連れで賑わっていた。辛うじて駐車スペースを見つけて自動車を乗り捨てると、そこからは歩いて鷲の川大滝を目指す。


鷲の川大滝

 鷲の川大滝の前には小さな祠があり、その前に加納諸平の歌碑が置かれている。この石碑を訪ねるために、遥々とここまで運転してきたのである。


鷲の川大滝


加納諸平歌碑


 加納諸平の歌。

 あら鷲の雨雲はぶく風早み
 岩きる瀧の音どよむなり


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田辺

2018年06月23日 | 和歌山県
(錦水神社)
 龍神から田辺までは距離にして五〇キロメートル余りあるが、道は平坦で走りやすい。「くねくね度」でいえばはるかに十津川から龍神への四○キロメートルの方が上回る。一時間強で田辺市街地に至る。
 田辺は、田辺城を中心とした城下町である。田辺城は関ケ原の合戦後、紀伊国に入国した浅野幸長の執政浅野左衛門佐氏重によって、慶長十一年(1606)、築城された。
 その後、元和五年(1619)、紀州藩主徳川頼宣の附家老・安藤帯刀直次が田辺領主に任じられたが、直次は紀州藩の重臣として和歌山城下に常駐していたため、田辺城には直次の従弟安藤小兵衛が留守居役として置かれ代々城代家老を務めた。
 明治三年(1870)、田辺城は廃城となり、城郭の多くは姿を消してしまった。数少ない遺構の一つが、水門跡である。水門跡には、錦水神社が建てられて、往時そのままの埋門型の水門とそれに続く石垣を見ることができる。


錦水神社


田辺城水門

(カトリック紀伊田辺教会)


扇ケ浜台場跡

 カトリック紀伊田辺教会の場所周辺に、かつて扇ヶ浜台場が築造されていた。扇ヶ浜台場は、嘉永五年(1852)に築造された台場である。
 往時の面影を確認するのは極めて困難であるが、少し土が盛り上がっているのが台場の名残かもしれない。

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龍神

2018年06月23日 | 和歌山県
(天誅倉)
 十津川から龍神までの国道は、カーブが連続する片側一車線の山道である。距離にして四〇キロメートル余り、走行時間は一時間以上。その間、ずっとカーナビの「急ハンドルを検知しました。安全運転をこころがけてください」というアナウンスが途切れることがなかった。


天誅倉

 天誅倉と呼ばれる小さな小屋は、文久三年(1863)、天誅組の水郡善之祐を首領とする河内勢八名が、再挙を図るため十津川から紀州藩領小又川まで逃れてきたが、里人から警備の堅固さを知らされ、脱出不可能を悟った彼らが自首した後、幽閉されたものである。この倉は百姓喜助の所有であった。
 水郡善之祐は、倉の柱に
「皇国のためにぞつくす真心は神や知るらん知る人ぞ知る」と辞世の句を刻んだ。
 天誅倉は、昭和三十九年(1964)の大雨で倒壊してしまい、その後復元したものである。

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十津川 Ⅳ

2018年06月16日 | 奈良県
(川津)
 七年振り二回目の十津川となった。さすがに十津川村に行くには宿泊が必要である。片端から電話を入れてみたが、GW中のこと故、空きがなく、車中泊も已む無しかと諦めかけた。最後に観光協会に紹介していただいた十津川温泉の「やまとや」はあっさりと予約ができた。
 五月といえ、十津川の朝は靄が発生するほど激しく冷え込み、とてもでないが車の中では安眠できなかったであろう。
 前回の訪問で回り切れなかった史跡を精力的に訪問した。最初は、川津の野崎主計の墓である。新川津大橋を渡って右折、百五十メートルほどいった山裾の墓地に野崎家の墓がある。自然石で建てられた一際大きな墓が主計のものである。


野崎主計正盛墓

(風屋共同墓地)


竹下熊雄之墓

 風屋の集落の一段高い共同墓地に竹志田熊雄の墓がある。周辺に民家が数軒あるが全く人の気配がない。大きな体をした野猿が三匹、民家の屋根から電線を伝って移動中であった。「こいつらに襲われたら勝ち目はないな」と思いながら、墓を探した。

 竹志田熊雄は玉名郡大浜の出身。初め松村大成に学び、のち林桜園について国学を修め、尊攘思想を抱いた。文久三年(1863)、同志とともに中山忠光を奉じ、大和五條に挙兵。敗れて吉野十津川に入ったが、病のため死亡した。腸チフスだったという。年二十一。墓には「竹下」とあるが正確には「竹志田」である。

(笹の滝)
 日の出前に宿を抜け出し笹の滝を目指す。笹の滝入口に着いたのは朝の五時二十五分であった。さすがにほかに誰もいない。
 宿に引き返して朝食をいただき、精算を済ませて七時十五分には出発。龍神街道と呼ばれる国道425号線を四十キロメートル以上、ひたすら和歌山県龍神村(現・田辺市)に向かって走る。根気と体力を要するドライブであった。
 今回の奈良県史跡探訪はここまでであったが、まだ県下の天誅組関係史蹟は残っている。最低でももう一回、奈良県史跡の旅を計画したい。


笹の滝入口


伴林光平歌碑


笹の滝

 笹の滝は、日本の滝百選にも選ばれている滝である。このところ雨らしい雨は降っていないが、それでも相当な水量であった。

 文久三年(1863)、十津川を脱した伴林光平らは滝川から笹の滝を通って北山郷に達した。笹の滝の入口には、この時伴林光平が詠んだ詩が刻まれている。

 世にしらぬあはれをこめてしぐるらん
 小笹瀧のありあけの月

(十津川護国神社)


十津川護国神社

 十津川護国神社は、幕末以来の戦乱で亡くなった十津川出身者を祀る神社である。境内には名前を刻んだ戦没者の碑がある。中井庄五郎や深瀬繁里、野崎主計(この碑では正盛)ら、知った名前もあるが、幕末の騒乱に命を捧げた無名の十津川出身者の多いことに感銘を受けた。


戦没者の碑


陸軍大将 荒木貞夫終焉之地

 十津川護国神社の鳥居の横に陸軍大将荒木貞夫終焉の地と書かれた石碑が建てられている。天誅組と二・二六事件の類似性に興味をもっていた荒木大将は、昭和四十一年(1966)、十津川村を訪れて南朝や天誅組の古文書などを塾覧し講演を行った。その日の夜、宿泊していた十津川荘で心臓発作を起し急逝した。享年八十九。この石碑は、没後一年の昭和四十二年(1967)も建てられたものである。書は佐藤栄作。

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下市 Ⅱ

2018年06月16日 | 奈良県
(長谷)
 長谷集落に橋本若狭の墓がある。
 橋本若狭は、東吉野小川郷から伊勢方面に脱出し、松本謙三郎の朋友で国学者の村上忠順・忠明父子を頼って刈谷藩に潜伏した。元治元年(1864)三月、大阪に出て日本橋黒門に家を構え、大坂屋豊次郎と称して材木商をし、先妻に世話になりながら時勢を窺っていたところ、その先妻の口から天誅組のことが漏れ、同年十一月二十九日、大阪奉行所に捕縛され、慶應元年(1866)六月、処刑された。(舟久保藍著「実録 天誅組の変」より)


正五位為橋本若狭霊位追善菩提

 下市町長谷の橋本若狭の墓は、天誅組百三十年を記念して、平成五年(1993)に建てられたもの。橋本若狭愛用の丹前などが納められているという。

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