ブログに著者吉盛氏よりコメントをいただき、早速この本を購入した。最近、本屋に行った際には「近代史」のコーナーとともに「郷土史」の書棚も眺めるようにしているが、この本の存在には気が付かなかった。安易に量産される人気作家のお手軽本より、地方の無名の郷土史家の書籍の方が余程内容は充実していると思うのである。
本書でいう「殿様」には大名だけでなく旗本御家人も含まれる。「但馬の殿様」とは、但馬に領地を持つ大名家・旗本御家人のことをいう。江戸初期から幕末に至るまで、更には維新後の殿様家の生々流転を淡々と記述したもので、ほとんど辞書のような味わいの本である。
筆者は但馬の殿様一人ひとりについて、生没年、戒名、墓地、父母や正室、子女といった家族構成、家督を相続した時期などを網羅的に調査し、実際に墓地まで赴きその現状を確認している。巻末の履歴によれば、筆者は兵庫県豊岡市出身で、但馬史研究会に所属する方らしいが、その情熱には頭が下がる。
こうして但馬という地域に限定しても、江戸二百六十年の間、実に多数の殿様が生まれている。その大半が、ひたすら家名を次世代に繋ぐことに意を尽くし、名もなく消えていった人たちである。たまに将軍に「お目見え」とか「時服を賜わった」とか「金二枚を拝領」といった記述があるが、それは彼らにとって今からは想像もつかないような栄誉だったのであろう。
こうした但馬の殿様の中から、京極高朗と小出秀実という幕末史に名を残す旗本が輩出された。両名とも幕府に登用され、外交官として活躍した。京極高朗は文久遣欧使節の目付に選ばれ渡欧。現地ではロシアとの国境制定交渉に尽力した。鳥羽伏見の主戦論者で、手痛い敗戦を食らった幕臣として知られる滝川播磨守具挙と京極高朗が実の兄弟だということを本書で初めて知った。
土田(はんだ)小出家出身の小出秀実(ほずみ)も遣露使節団の正使として慶応二年(1866)にロシアに派遣され、国境画定交渉にあたった。何よりも箱館奉行時代にはアイヌ人盗骨事件に直面し、イギリスを相手に毅然とした態度で交渉にあたり名を挙げた。この二人は、長い但馬の殿様の歴史にあって突然変異的存在である。
筆者吉盛氏からいただいた情報によれば、小出秀実の墓は、京都大徳寺玉林院にあって、掃苔可能なのだそうである(近いうちに行ってみなければ…)。秀実という秀才を生んだ小出家は、悲惨な没落の道を辿り絶家となってしまったという。「家名を次代に繋ぐ」ということは一見すると単純なことであるが、意外と難しいことなのである。
本書でいう「殿様」には大名だけでなく旗本御家人も含まれる。「但馬の殿様」とは、但馬に領地を持つ大名家・旗本御家人のことをいう。江戸初期から幕末に至るまで、更には維新後の殿様家の生々流転を淡々と記述したもので、ほとんど辞書のような味わいの本である。
筆者は但馬の殿様一人ひとりについて、生没年、戒名、墓地、父母や正室、子女といった家族構成、家督を相続した時期などを網羅的に調査し、実際に墓地まで赴きその現状を確認している。巻末の履歴によれば、筆者は兵庫県豊岡市出身で、但馬史研究会に所属する方らしいが、その情熱には頭が下がる。
こうして但馬という地域に限定しても、江戸二百六十年の間、実に多数の殿様が生まれている。その大半が、ひたすら家名を次世代に繋ぐことに意を尽くし、名もなく消えていった人たちである。たまに将軍に「お目見え」とか「時服を賜わった」とか「金二枚を拝領」といった記述があるが、それは彼らにとって今からは想像もつかないような栄誉だったのであろう。
こうした但馬の殿様の中から、京極高朗と小出秀実という幕末史に名を残す旗本が輩出された。両名とも幕府に登用され、外交官として活躍した。京極高朗は文久遣欧使節の目付に選ばれ渡欧。現地ではロシアとの国境制定交渉に尽力した。鳥羽伏見の主戦論者で、手痛い敗戦を食らった幕臣として知られる滝川播磨守具挙と京極高朗が実の兄弟だということを本書で初めて知った。
土田(はんだ)小出家出身の小出秀実(ほずみ)も遣露使節団の正使として慶応二年(1866)にロシアに派遣され、国境画定交渉にあたった。何よりも箱館奉行時代にはアイヌ人盗骨事件に直面し、イギリスを相手に毅然とした態度で交渉にあたり名を挙げた。この二人は、長い但馬の殿様の歴史にあって突然変異的存在である。
筆者吉盛氏からいただいた情報によれば、小出秀実の墓は、京都大徳寺玉林院にあって、掃苔可能なのだそうである(近いうちに行ってみなければ…)。秀実という秀才を生んだ小出家は、悲惨な没落の道を辿り絶家となってしまったという。「家名を次代に繋ぐ」ということは一見すると単純なことであるが、意外と難しいことなのである。