史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「長崎製鉄所」 楠本寿一著 中公新書

2022年07月30日 | 書評

長崎市飽の浦の三菱重工長崎造船所の飽の浦門の前に「長崎製鉄所」と刻まれた石碑がある。その横に長崎国際観光コンベンション協会「長崎さるく」が付した説明板が添えられている。

「安政二年(1855)海軍伝習所が開設されると、蒸気船の修理を行う施設も必要となった。そこで安政四年(1857) 、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、機関士官ハルデス以下の指導のもと整備が進められた。敷地内には鍛冶場、鋳物場、工作場などの諸施設が建てられ、工作機関類の動力には蒸気機関が用いられた。万延元年(1860)に上棟式が行われ、その時、長崎製鉄所と改称された。文久元年(1861)落成。維新後は官営となり、長崎造船所などいくつかの改称を経て、明治二十年(1887) 、三菱社に払い下げられ、翌年、三菱造船所(現・三菱重工㈱長崎造船所の前身)と改称された。」

たったこれだけの記述であるが、長崎市生まれで、三菱長崎造船所に入社し、そこで造船所の社史編纂にも関わった筆者は、並々ならぬ執念で一つひとつの史実を確認していく。

たとえば、先ほどの「長崎さるく」の解説にあった「安政四年(1857) 、飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手」という記載について、それまで会社でまとめた所史や工場案内ではいずれも安政三年(1856)起工とするものが多く、巷間の資料でもこれを引用したものが多かったという。

筆者は日本側の史料にとどまらずオランダの史料まで渉猟し、数ページを割いて長崎製錬所の起工の経緯を明らかにする。詳細の事情は不詳ながら、なかなか前向きに進捗せず、漸く安政四年(1857)の十月十日、起工の運びとなった。「長崎さるく」の解説は、本書の検討結果を踏まえたものになっているのである。

一方、長崎製鉄所の呼称については、当初は長崎鎔鉄所と呼ばれていたが、万延元年(1860)に挙行された上棟式を機に製鉄所と改称されたというのが、「通説」となっているという。「長崎さるく」の記述はまさにその通説を採用している。筆者は、改称の時期について長崎奉行所文書、長崎代官所御用留、志賀御用留などの記述を網羅・比較し、その結果、「万延元年(1860)十二月の上棟式を機に改称云々の件は、奉行、代官、そして庄屋三者の文書を見ても、既にそれ以前から製鉄所と呼称している事実にもとづき、これは明らかにフィクション」と断定している。筆者の執念に脱帽である。

この本も新橋駅前の古本市で、わずか二百二十円で入手したものである。極めてコスパの高い買い物であった。

 

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「峠 最後のサムライ」 司馬遼太郎原作 小泉堯史監督・脚本

2022年07月30日 | 映画評

司馬遼太郎原作の長編小説「峠」が映画化された。滅多に映画を観ない私であるが、これは見逃すわけにいかない。封切りから一週間が経った週末、嫁さんと一緒に映画館に向かった。

映画館に入ると、私たちを含めても観客は十人もいない。いかにオールスター・キャストで、しかも原作が司馬遼太郎のベストセラーであっても、時代劇では観客は集まらないという現実を如実に表している。

小説「峠」の前半は、河井継之助が藩内で存在感を高め家老に昇り詰める様子を描く。高梁藩の山田方谷に学び、藩政改革に乗り出す。全巻の半分はその経緯を描くものである。

ところが、流石に二時間という制約のある映画で小説と同じように若き日の継之助の姿を丁寧に触れている時間はない。いきなり二条城を舞台とした大政奉還のシーンから始まる。そこからは小千谷会談、北越戦争、そして継之助の死まで一気呵成である。

客観的にみれば、官軍が会津に迫るあの情勢下で、長岡藩が会津藩を説いて官軍との間を調停するなどということが現実的に受け入れられただろうか。結果的に一藩を戦争に追い込み、多くの藩士が命を落とし、城下は焼き尽くされた。結果から見ても、彼のとった方針が正しかったとは到底いえない。今も長岡では継之助のことを恨んでいる人も多いという。政治的な批判は置いて、司馬遼太郎が描きたかったのは、政治家ではなく、一人のサムライの姿である。

おそらくこの映画を製作した監督も、原作を読んで継之助の最期に震えるほど感動したに違いない。かくいう私もその一人である。

映画のエンディングは、自らのからだを焼き尽くであろう火炎を眺めつつ死を迎える継之助の姿である。ラスト・シーンは決まっていて、そこから逆算して必要なシーンを積み上げていったというのがこの映画の構成である。

小説「峠」を読むと、継之助の最期のシーンを読むたびに涙が止まらない。これが映像化されたら、さぞかし感動的だろう。ひょっとしたら、もともと涙もろい私は、腰が立たないほど泣いてしまうのではないか、良い年をしたオジサンが映画館で泣き崩れてその場から立てないことになったら、これはちょっと恥ずかしい。

そのことが心配であったが、予想に反してそれほどの感動はなかった。横に嫁さんがいて、あまりみっともない姿をさらすわけにいかない、という自制が働いたのかもしれない。確かに映画のラスト・シーンは原作を忠実に再現していたが、それでも原作以上に継之助のかっこよさ、男らしさを表現はしきれていなかった。残念ながら原作を上回ることはできなかった。改めて小説「峠」の凄さを認識することになった。

 

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竹田 Ⅳ

2022年07月23日 | 大分県

(岡城跡)

 今回の大分県・宮崎県の旅では、臼杵城、佐伯城、飫肥城など複数の城址を巡ることになったが、もっとも感銘を受けたのが、岡城であった。

 岡城は、稲葉川と大野川に挟まれた断崖絶壁に構築された「難攻不落の城」である。岡城は、兄である源頼朝に追われた義経を迎えるために、文治元年(1185)に緒方三郎惟栄が築城したという伝説から始まる。

 戦国時代には、豊後の大友氏の一族である志賀氏の居城であったが、天正十四年(1586)、島津義弘率いる大軍の三度にわたる猛攻に耐え、「難攻不落の城」という名を高めた。

 江戸時代に入ると、中川氏が岡城の城主となり、明治四年(1871)の廃藩置県により城を去るまでの二百七十七年間、中川氏の居城であった。中川氏の時代に岡城は改修を加えられ、要害堅固な地形を活かした総石垣の広大な近世城郭へと変貌した。

 明治七年(1874)、役目を終えた岡城の建造物は石垣を除いて取り壊され、現在見るように石垣のみが残る城跡となった。

 

史蹟 岡城阯

 

岡城跡

 

 建造物が一切残っていないのは寂しいが、標高三百二十五メートルの断崖に残る石垣だけでも一見の価値がある。本丸跡や家老但見屋敷跡から見る風景はまさに絶景である。感心したのは、高い石垣の上に落下防止の柵が一切設置されていないことである。転落したらケガでは済まないような高さなので、管理する側としては柵を設置したくなりそうなものだが、景観と眺望を重視した結果なのか、柵のようなものは見当たらない。

 

岡城跡

 

大野川

 

蕃山先生頌徳碑

 

 三の丸跡に熊沢蕃山の頌徳碑がある。熊沢蕃山は、備前岡山の儒学者である。三代藩主中川久清によって招かれ、治山治水の指導をした。さらに今日も残る城原井路(現・竹田市)の工事についても助言を与え、三宅山の植林にも携わった。この時、藩主も藩士とともに蕃山の講義を聴講したと伝えられている。

 

滝廉太郎像

 

 この城を全国的に有名にしたのが、竹田出身の作曲家滝廉太郎の「荒城の月」であることは論をまたないだろう。二の丸跡に滝廉太郎像が置かれている。直入郡高等小学校の同窓であった朝倉文夫の作。

 滝廉太郎は少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、名曲「荒城の月」の作曲に繋がったといわれる。明治三十四年(1901)の作曲・発表。

 

小河一敏翁之碑

 

 岡城三の丸跡にも小河一敏の顕彰碑がある。これで大阪府羽曳野市にある記念碑と合わせて、全国三ヶ所にある小河一敏の顕彰碑をコンプリートすることができた。人知れず満足。

 

(騎牟礼城跡)

 国道442号線沿いに駐車場があり、その近くに騎牟礼城跡に登る入口がある。行ってみれば分かるが、何も駐車場に自動車を停めなくても、山頂近くまで自動車で行くことができる。

 騎牟礼城の歴史は古く、久安二年(1150)というから、今から九百年近くも前のことになる。城跡といっても、何もない空間が広がっているだけであるが、この地は阿蘇方面から竹田を経て大分県内に進入する経路上に位置し、防御を考えると重要な拠点であった。西南戦争でも薩軍の重要な陣地となった。

 

騎牟礼城跡

 

 明治七年(1874)の佐賀の乱に出陣して戦死した岡藩士石川政夫(忠魂碑には政男となっている)の忠魂碑がある。

 

石川政夫忠魂碑

 

(満徳寺)

 雲華上人は、安永二年(1773)、豊後国直入郡豊岡村(現・竹田市)の満徳寺の寺主十四代円寧の二男に生まれた。その後、雲華は、豊前中津藩の名刹正行寺の法嗣として迎えられた。

 

満徳寺

 

(小畔定太郎戦没地)

 

小畔定太郎戦歿地

 

 小畔(おばた)定太郎は、新潟県長岡市出身で警視隊の一員として従軍し、明治十年(1877)五月二十七日の戦闘で戦死した。この石碑は長岡藩十五代当主牧野忠篤の筆。

 

(西光寺)

 

西光寺

 

 西光寺本堂前に西南戦争で殉職した藤丸宗造警部の像が建てられている。像の作者は、朝倉文夫である。

 

藤丸警部像

 

 藤丸警部は、臼杵出身。当時佐伯警察署の重岡分署長であった。薩摩軍が大分県へ進入すると、竹田署や熊本の政府軍に通報し、竹田地方における薩摩軍の動きを偵察していたところを薩軍に捕らえられた。明治十年(1877)五月二十三日、政府軍が竹田に迫ると、下木河原で斬殺された。西光寺の門前を流れる稲葉川の川原には、その場所に石が置かれている。

 その一部始終を見ていた西光寺第十九世孤松上人は、その霊を懇ろに弔った。以後、毎年五月二十三日には、西光寺に関係者が集まり、慰霊法要が開かれている。

 西光寺本堂内には、藤丸警部の最期の場面を直接見ていた人々から話を聞いた深沢画伯により描かれた殉職最後の想像画が保存されている。

 

(藤丸警部殉職之地碑)

 

稲葉川

 

 西光寺前を流れる稲葉川の川原に藤丸警部殉職之地碑が建てられている。碑というより川原石である。

 

藤丸警部殉職之地碑

 

 この時、藤丸警部は、「魂魄となって空中に遺り人民保護」と叫び、三十三歳の人生を閉じた。

 

(一事稲荷神社)

 

一事稲荷神社

 

就義碑

 

西光寺に隣接する一事主神社の前には、藤丸警部が亡くなって十年以上経って、町内有志によって建立された就義碑(藤丸警部顕彰碑)が建てられた。

 

(碧雲寺)

 

碧雲寺

 

 碧雲寺は、岡藩主の菩提寺である。本堂の左に庫裡、庫裡に接して書院を設け、それぞれの建物が廊下で結ばれていた。本堂と庫裡の間に玄関があり、本堂の右手には廊下で繋がった四間×九間の長い建物(僧堂)があった。その僧堂の北側に隣接して禅堂があった。現在はそのほとんどを失っているが、今も「おたまや公園」と呼ばれる空間に中川家墓所が置かれている。

 

中川家

 

 傍らの墓誌によると、平成二十一年(2009)三月、中川家十八代当主中川久定氏により、青山霊園20号1種ロ28側2に所在した中川家墓地より、十六代当主久任以下六遺骨が改装されている。

 

角田九華墓

 

 角田九華(つのだきゅうか)の墓である。

 角田九華は、天明四年(1784)の生まれ。岡藩大阪藩邸に生まれたが、孤児となり、富商升屋小左衛門が資金を出し、中井竹山の門に入れ、のち岡藩医角田東水の養子となった。文化二年(1805)、二十二歳のとき、大分鶴崎の脇蘭室に学び、のち再び大阪に出て竹山につき才学大いに上った。岡に帰り下士に列し、藩校由学館の句読師、司業、侍講と進み、弘化元年(1844)、教授。上士に列した。性温厚、しかも事にあたって厳正で。天保初年藩主の田猟、散楽の遊興を諫め、弘化年間には藩主が幕府老中職を望んだことを諷諫したといわれる。安政二年(1855)、年七十二で没。

 

 竹田市内探索は以上となる。「また来たい」と思わせる魅力的な街であった。

 

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竹田 Ⅲ

2022年07月23日 | 大分県

(竹田市歴史文化館・由学館)

竹田市歴史文化館・由学館は、国史跡「岡城跡」に関する情報を提供する「岡城ガイダンスセンター」、市民をはじめとする様々な文化芸術活動の発表の場としての「市民ギャラリー」、企画展・特別展を開催する「特別展示室ちくでん館」等を備えた施設である。個人的にはあまり興味はなかったが、どうやらここに入らないと、旧竹田荘に行けないようだったので、入場した。

 

竹田翁生誕之地

 

竹田荘

 

竹田荘内部

 

 旧竹田荘(ちくでんそう)は、田能村家の住居。田能村家は代々岡藩の医師であった。竹田はここに生まれ、終生生活の拠点とした。城下町の南端に位置し、北側に拡がる城下町を一望することができる。

 田能村家は、寛政元年(1789)の火災で類焼し翌年に再建され、文化五年(1808)頃から改修・増築が加えられた。竹田荘母屋は、木造の二階建てで、一階は主に生活空間で、製薬所や調合所としても使われた。文政元年(1818)十月、頼山陽が竹田を訪ねて岡を来遊した際、七日滞在し、うち二日はこの竹田荘で宿泊したという。

 この母屋は、昭和五十六年(1981)から二年をかけて保存修理を施し、元の姿に復元されたものである。

 

画聖堂

 

 画聖堂は、旧竹田荘西側の隣接地に建設された田能村竹田を祀るための施設で、昭和九年(1934)に開催された竹田先生百年祭の記念事業として建設されたものである(完成は昭和十三年(1938))。

 屋内の中央奥に祭壇が設けられ、田能村竹田像(昭和十八年(1843)彫刻家渡辺長男作)が祀られている。

 

祭壇と田能村竹田像

 

田能村竹田画碑

河豚図

 

 

不死吟の書碑

 

 田能村竹田は、天保六年(1835)三月に自著「山中人饒舌」の校正作業のため、大阪に旅立った。同年六月に大阪に到着し、大塩平八郎を訪問している。七月に体調を崩し、吹田村の井内左門宅で療養した。その後、大阪中之島の岡藩蔵屋敷へ移り療養を続けたが、八月二十九日、五十九年の生涯を閉じた。

 不死吟の書というのは、病床の田能村竹田を息子太一が見舞った際、最期を迎えた竹田が作ったとされる詩である。

 

小河一敏記念碑

 

 竹田荘から階段を下ったところに小さな公園(竹田荘公園)があり、そこに石碑が集められている。その中の一つに小河一敏の顕彰碑がある。篆額は副島種臣。

 

画神碑

 

 画神碑は、田能村竹田の養子、田能村直入が、久邇宮殿下から賜った直筆の「画神」を石碑にしたものである。

 田能村直入は、城下寺町に生まれ、幼名を伝太といった。幼い頃から画が上手で、八歳のとき田能村竹田の竹田荘に入塾し、十歳のとき、竹田の養子となった。二十六歳で竹田を離れて大阪の堺で開塾し、三十歳の頃には門弟三百名を数えた。直入の功績は、竹田ら南画家たちの功績を広め、南画を普及させたことで、そのために画を描いてはそれを資金として先人を讃える碑を建てたり、南画学校を設立した。

 最後の作品となる「青録梅林山水画」を描き上げることに没頭中、九十四歳の生涯を閉じた。直入は、明治天皇、皇后両陛下をはじめ皇族からも高い評価を受け、この石碑はその証左といえる。

 

南画館碑 「暗香疎影図」

 

南画館碑 「亦復一楽帖」

 

 竹田市内には南画を陶板にした石碑が八か所に設置されている。さすがに時間の関係で全てを回ることはできなかったが、旧竹田荘や由学館周辺の二か所の南画碑を写真に収めることができた。

 

 竹田荘公園の前にある石碑には、竹田の代表作と呼ばれる「暗香疎影館」(天保二年(1831)作)が紹介されている。この作品は、別府に入湯に訪れた際に土地の豪商荒金呉石に贈った、竹田五十三歳の作。呉石所有の梅園に触発され画面一杯に梅の古樹を描いたものである。

 「亦復一楽帖」は、全十三図のうち四図が陶板碑化されている。この作品は竹田五十四から五十五歳のときの作品。竹田はこの作品の跋文を頼山陽に書いてもらおうと持ち込んだところ、山陽がこの作品に魅せられてしまい画帖を手放そうとしなかったため、諦めた竹田は、当初十図だったものに三図を描き足して十三図としたものである。

 

(広瀬神社)

 

有馬良橘筆 縣社廣瀬神社

 

廣瀬武夫像

 

 広瀬神社は、いうまでもなく広瀬武夫を祭神とする神社である。昭和十年(1935)に建立された。境内には広瀬武夫記念館があり遺品などが展示されている。鳥居の前に広瀬武夫像があるほか、竹田市出身の陸軍大将阿南惟幾の顕彰碑、胸像もある。

 

広瀬神社

 

広瀬武夫記念館

 

竹田城下町

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竹田 Ⅱ

2022年07月23日 | 大分県

(鴻巣台墓地)

 

海軍中佐贈正四位勲四等功三級廣瀬武夫墓

 

 広瀬武夫の墓のある墓地も西南戦争でも激戦地となった。薩軍は墓石を倒してバリケードとして使用したといわれる。官軍は山林や民家に火を放ち、薩軍の抜刀攻撃に備えた。

 

 広瀬武夫は、明治三十七年(1904)の日露戦争で、二回に渡り旅順港入口を封鎖するため、船を沈める作戦の陣頭指揮をとった。二回目のとき、閉塞作業を終えて帰ろうとすると、杉野兵曹長の姿が見えないので、沈みゆく船内を探しに引き返した。しかし、発見することができず、ボートに乗り移ろうとしたその瞬間、砲弾が体に命中し、武夫の姿は一片の肉を残して海中に消えた。三十五歳であった。

 その直後から広瀬は軍神として崇められ、神格化されることになった。

 同じ墓地に広瀬武夫夫人や父重武の墓や、広瀬一族の墓もある。

 

廣瀬重武墓

 

 広瀬武夫の父重武の墓である。広瀬家の始祖は、肥後の菊地一族といわれる。父広瀬重武は、天保七年(1836)の生まれ。岡藩の下級武士であったが、廉直で義気に富んだといわれる。幕末には勤王の志士として活躍し、岡藩の小河一敏や中川栖山らと意気投合、藩の大義を伸ばそうとして常に機務に参画した。文久二年(1862)、島津久光の入京の際、藩論をまとめて上京し、そこで寺田屋事件に遭った。帰藩後、幽閉されたが、解禁後再び上京した。しかし、慶応元年(1865)、僧胤康事件により再度拘禁された。維新後は裁判官となり、飛騨高山や天草などに赴任した。晩年は竹田に戻って隠棲した。明治三十四年(1901)、年六十六で没した。硬骨の人で、同時に情義に厚いことでも有名だったといわれる。

 

(広瀬武夫生誕の地)

 墓地と同じ茶屋の辻に広瀬武夫生誕の地がある。

 広瀬武夫がこの地に生まれたのは、慶応四年(1868)五月二十七日。広瀬重武の二男である。広瀬家も明治十年(1877)の西南戦争で戦火に遭ったことから、父重武の赴任地である飛騨高山に移った。武夫は、小学校教師、攻玉社を経て、海軍兵学校に入学。卒業後、少尉候補生として遠洋航海を経験し、水雷術の訓練を受け、日清戦争では水雷艇に乗り込み、大連湾、旅順港口を掃海した。明治三十年(1897)にはロシア留学を命じられ、後に交戦国となるこの地で、四年八ヶ月を過ごし、厳冬のシベリア経由で帰国した。

 

陸軍中佐廣瀬武夫誕生之地

 

(番所跡)

 

番所跡

 

 広瀬武夫誕生地から百メートル余り東へ行くと、水源池の横に番所跡を示す説明板が建てられている。この場所は、明治十年(1877)五月二十八日、薩摩軍は亀甲台の陳地から退却してこの番所より左手方向(胡麻生峠方面)、右手方面(上角口)に分かれた。政府軍はそれを追って、右手方向に突進して追撃したが、そこに左手方向に逃げた薩摩軍が戻り応戦した。夜間の斬りこみ戦のため、両軍の死者数夥しく、遺棄された薩軍の戦死者は、番所横に埋葬され小高い丘になった。これが千人塚で、地元では耳塚と呼んで、昭和初期まで供養が続けられていたという。

 「日本の戦死塚」(室井康成著 角川ソフィア文庫)の巻末に掲載されている戦死塚リストにも千人塚が掲載されている。しかし、千人塚と思しき場所は、樹木が生い茂っており、特定するのは困難である。

 

(そうぞうの丘)

 そうぞうの丘というのは、無料キャンプ場を備えた野外活動施設だそうである。その駐車場入り口付近に、中川栖山の屋敷跡や移築された小河家門などがある。

 

中川栖山屋敷跡

 

 中川栖山(せいざん)は、文政八年(1825)の生まれ。諱は久煕。通称土佐。栖山は雅号である。豊後岡藩中川氏の支流で、世々家老職を務める家に生まれた。勤王家で、同藩士小河一敏、広瀬重武、田近長陽らと奔走。嘉永六年(1853)、米艦浦賀来航の折、日向木曽の慈眼寺胤康を招いて国事を議し、老職中川式部と謀り、内政を改革し、雄藩と協力して事を成そうとした。文久以来、九州の勤王浪士が集まり、文久二年(1862)には小河らを上京させ、島津久光を擁して事を挙げようとしたが失敗。文久三年(1863)四月、隠居禁固に処された。明治元年(1868)、九州鎮撫総督澤宜嘉に召されて長崎に赴き、天草五箇庄知事に任じられた。辞職後、長崎に岡物産会社を興し、煙草の輸出など殖産興業に努めた。明治四年(1871)、年四十七で没。

 

小河家入口

 

 そうぞうの丘に入る坂道の途中に小河家を表す説明板が建てられている。

 小河家は、第三代藩主中川久清(入山)のとき、広島より来藩し、以降代々中川候に仕え、家禄五百石を給されていた。小河一敏は、文化十年(1813)のこの地で生まれ、七歳で藩儒学者角田九華の門に入り、奇才を発揮し師を驚かせたといわれる。二十四歳の若さで藩の元占役(もとじめやく)に抜擢された俊才で、文武両道に優れていた。岡藩尊攘派を代表する一人となり、尊王攘夷論が沸き立つと上方に出て西郷吉之助や桂小五郎らの勤王の志士と交わった。維新後は、政府の重職や大阪堺県知事となり、土木事業を行い、農村の疲弊を救済した。一時、宮内省の長官に補されたが、堺での大工事の咎で罷免された。のち疑いが晴れて太政官に任じられた。七十八才で没。葬儀に際し、明治天皇から金三百円の功労金と正四位を賜った。

 

 小河家屋敷入口の門は、藩主一族の第一家老中川栖山の屋敷(現そうぞうの丘)の門である。野殿屋敷に移されていたが、道路改修工事により取り壊されることを惜しみ、平成八年(1996)、子孫の小河一博氏がこの地に移して再建したものである。

 

小河家屋敷門

 

小河一敏生家

 

(洗竹窓跡)

 

洗竹窓跡

 

洗竹窓跡

 

 洗竹窓(せんちくそう)は、竹田を中川藩が治めていた時代、約三百有余年前に作られた茶園で、江戸時代の豪商加島冨上の別荘の跡である。京都嵐山から持ち帰り移植したと伝えらえる樹齢およそ三百年の紅葉の老樹が亭々として枝を拡げ、秋景の紅一際艶やかな彩を添えた。田能村竹田が「東楓林山」と名付けたことでも知られる。

 もとは風流人である淵野宗渕の臨川亭の跡で、寛政から天保年間に岡藩御用達、加島吉郎兵衛(冨上)によってさらに拓かれて別荘洗竹窓として生まれ変わった。台上の北壁の断崖には江戸千家茶道開祖の筆になる「雪積千山孤峰不白」の文字が刻まれ、その下に受け台が刻まれ、台上には置物式に彫刻された一匹の狛犬の座像があり、岸壁には三日月状に刻まれた灯明台があった。

 文政元年(1818)には、田能村竹田や角田九華らが洗竹窓に集い国論を語り合い、鎖国制度を改める建議の方策を練ったとも伝えられる。この地で作詩された頼山陽、田能村竹田の作品も多く残されている。

 洗竹窓は、西南戦争の際に焼失し、現在、吉郎兵衛が起居した別荘茶室は存在していない。辛うじて田楽焼きで宴が開かれたといわれる田楽石が残されているのみである。一面茫々たる雑草が茂り、見る影もない。

 

(胡麻生台)

 

胡麻生台

 

 この周辺では、江戸時代付近の畑で胡麻を栽培していたことが知名の由来となっている。峠は竹田と入田、高千穂を結ぶ往還の途中にあり、人々が竹田を旅立つ際に竹田との別れを惜しむ「さよなら峠」ともいわれた。

 やはり明治十年(1877)の西南戦争で激戦地となり、茶屋の辻を舞台とした戦闘では、休戦となったときにこの地に薩軍が集結したとされる。戦闘は尾根の戦いから稲葉川を渡り、古城で最後を迎えた。

 

胡麻生地蔵尊

 

 茶屋の辻の胡麻生(ごもう)台、亀甲台、鴻巣台は、尾根と谷底が交互にあり、身を隠すには絶好の場所で、竹田にとっては防戦のための屏風の役割を果たしていた。

 

胡麻生地蔵尊

 

(田能村竹田の墓)

 

竹田先生墓(田能村竹田の墓)

 

 胡麻生台から西側の谷に向かって古い墓地があり、その一番奥に田能村家の墓がある。

 田能村竹田は、安永六年(1777)、藩医の家に生まれた。幼少の頃、英雄寺十世道寿和尚について漢学を、渡辺蓬山に画の手ほどきを受けた。その一生の大半を「墨絵と詩文」に費やし、豊後南画の祖と称される秀逸な画家で、多くの作品を残した。

 五十五歳のとき、名画といわれる「暗香疎影図」を描いたが、どんな作品でも粗末に描くことはなかったとされる。画道を究める間に藩校の校長を務め、豊後国誌の編纂にも携わった。また藩主に政治の立て直しの建白書を出した。さらに九州各地から京都まで旅をして多くの文人と交友があり、中でも頼山陽とは無二の親友であった。

 天保六年(1835)、大阪中之島の岡藩蔵屋敷で五十九歳の生涯を閉じた。大阪天王寺の浄春寺に葬られたが、弘化元年(1844)、長男の如仙が遺髪と歯牙を竹田に持ち帰り、胡麻生峠の墓地に埋葬した。墓石は浄春寺にあるものを模したものとなっている。

 

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竹田 Ⅰ

2022年07月23日 | 大分県

(高鼻公園)

 二日目は早朝に日田を出発し、玖珠、九重、別府、大分を経て午後二時前に竹田市内に入った。長年憧れていた竹田にようやくたどり着いた。期待に胸が高まる。

 竹田は人口二万人程度の小さな街であるが、かつては難攻不落を謳われた岡城を中心とした城下町であり、中川氏四万石の領地であった。

 明治十年(1877)の西南戦争では、薩軍と官軍の激しい戦闘の舞台となった。今でも市内を中心に戦跡が残されている。時間の許す限り、西南戦争関係の史跡を訪ねて歩くこととしたい。

 最初の訪問地は、市内を通過して熊本県寄りにある高鼻(たかばな)公園である。

 

高鼻公園

 

馬背野峠に設けられた高鼻公園は、西南戦争の戦跡の一つである。

明治十年(1877)五月、竹田を占拠した薩摩軍を討伐するため、熊本鎮台は二個大隊を派遣した。恵良原に本陣を布いた官軍は、馬背野峠に拠り、十九日、薩摩軍との間に終日、激しい銃撃戦を繰り広げた。

両軍が大分県下で最初に砲火を交わしたのがこの戦いで、その後約四か月にわたり県下各地で激しい戦闘が行われた。

 

史跡 馬瀬野峠(高鼻公園)

 

(中川神社)

 

中川神社

 

 中川神社は、岡藩初代藩主中川清秀、二代秀政、三代久清を合祀する。創始当時は城内にあったが、明治五年(1872)に神号を許可され、明治六年(1873)、岡城を解体する際に城内にあった清秀の廟所荘嶽社を常盤山に移し、中川神社と称するようになった。

 

弾痕?

 

 西南戦争では激戦地となり、社殿に弾痕らしきものが残されている。

 

(鴻巣台公園)

 

鴻巣台公園

 

鴻巣台 西南の役激戦の地

 

 竹田市総合運動公園の南側一体を茶屋の辻と呼ぶが、やはり明治十年(1877)五月、この周辺が激戦地となった。鴻巣台公園には、激戦地を示す石碑や説明板が建てられているほか、推定樹齢二百五十年というヤマザクラが建っている。五月二十六日にはこの樹をはさんで両軍が激しく銃撃戦を交わした。

 

西南の役の生証人 鴻巣台の桜

 

(立哨濠)

 鴻巣台公園の前の細い道を西に進むと、立哨濠がある。薩軍の夜襲を警戒して、官軍の番兵が身を隠した跡で、二つの濠を確認できる。人ひとりが入れるくらいの大きさであるが、半ば土砂で埋もれているのが残念である。

 

立哨濠

 

立哨濠

 

立哨濠

 

(蛇塚)

 

蛇塚

 

 立哨濠の前の小径をさらに進むと、蛇塚と呼ばれる共同墓地がある。

 鬼が城方面から迫る官軍に対し、薩軍は墓石を盾に戦ったとされる。今も墓石に弾痕を確認することができ、当時の戦闘の凄まじさを偲ぶことができる。

 

弾痕の残る墓

 

弾痕の残る墓

 

(やすらぎと史の史の館)

 

西南戦争犠牲者供養塔

 

 広瀬武夫誕生の地から鴻巣台公園方面に進むと、右手に「やすらぎと史の史の館」という看板を掲げた家がある。その南側に西南戦争犠牲者供養塔が建てられている。そばにある木柱によれば「西南戦争研究会」「茶屋の辻歴史文化研究会」「文化財を応援する会」という三つに団体がこの供養塔建立に関わったらしい。どういう団体なのか詳細は分からないが、恐らく地元の郷土史を研究する集まりだろう。立哨濠や蛇塚にも「茶屋の辻自治会」による説明が付されていたが、来訪者にはとても有り難い。

 

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大分 佐賀関

2022年07月16日 | 大分県

 

JX金属製錬 佐賀関製錬所

 

 佐賀関製錬所は創業大正五年(1916)。高さ凡そ二百メートルの煙突が町のシンボルとなっている。粗銅生産能力四十五万トンは、我が国最大である。今では佐賀関は製錬所の企業城下町であるが、江戸時代を通じて鶴崎と同様、熊本藩の飛び地であった。

 今も四国三崎と結ぶ九四フェリーの発着地となっている。かつて四国に住んでいた頃は、このフェリーを使って九州上陸を計画したが、遂に実現することはできないまま今日まで来てしまった。

 

(徳応寺)

 

徳応寺

 

 徳応寺は、元治元年(1864)に、勝海舟と坂本龍馬一行が来関した折に止宿したといわれる。往きは二月十五日、還りは四月十日のことである。門前にそのことを記した「佐賀関まちづくり協議会 佐賀関ボランティアガイド」の建てた説明板が設置されている。西南戦争では、政府軍の警察隊がこの寺に駐留した。

 

海舟・龍馬止宿の寺

 

(佐賀関・神崎地域包括支援センター)

 

嵯峨屋

 

 徳応寺前は古い商店街となっている。徳応寺に隣接する佐賀関・神崎地域包括支援センター前には「嵯峨屋」という屋号が掲示されている。海舟・龍馬一行が佐賀関に止宿した際に、一行が分宿した屋号である。

 

(まちのえき よらんせえ~)

 

讃岐屋

 

 嵯峨屋の向かいには讃岐屋という屋号の店があった。讃岐屋では、海舟・龍馬一行を接待し、亭主役として活躍した。

 

(地蔵寺)

 

地蔵寺

 

 地蔵寺には、西南戦争時の官軍兵士の墓を探して歩いたが発見に至らず。

 

(佐賀関製錬所購買会)

 元治元年(1864)二月十五日、勝海舟に連れられた坂本龍馬らは、神戸から第二長崎丸に乗って佐賀関に降り立った。彼らの目的は、幕府の命を受け、英・仏・蘭・米の四か国連合艦隊が計画している長州攻撃を中止させる交渉を長崎で行うためであった。

 上陸後、徳応寺に宿泊し、鶴崎、野津原、久住と宿泊を重ね、長崎へ向かった。帰りも同じ道をたどって九州を横断した。

 当時の佐賀関の地図と現代の地図を重ね合わせ、この場所(佐賀関製錬所購買会駐車場)が上陸地と特定された。

 

文久四年(一八六四)年二月十五日

龍馬上陸の地

 

龍馬街道 出立の地

 

峠越えをした海舟・龍馬

 

 元治元年(1864)二月十六日の朝、徳応寺を出た海舟一行は、有屋峠から虎御前峠、篠生峠を越え、鶴崎に向かった。

 現在の海岸沿いの道(国道197号線)が通じたのは明治になってからで、それまでは険しい山越えをしていた。当時、大名行列も駕籠で通った道で、Uターンできるように幅三メートルの道が今もそのまま残されている。現在、この峠越えの道は、人が足を踏み入れていないためにかなり荒れているそうである。今回は時間の関係で、残念ながら峠越えの道はパスした。

 海舟一行は、峠越えをして一日で鶴崎に達している。現代人から見れば、相当な健脚である。

 

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大分 Ⅱ

2022年07月16日 | 大分県

(悟真寺)

 

悟真寺

 

忠誠軒仁空元攘居士(若杉弘之進の墓)

 

 悟真寺で若杉弘之進の墓を探す。さして広くない墓地だが、若杉姓の墓石が四~五つも並んでいる。目当ての若杉弘之進の墓石は、入口に近い若杉家の墓のすぐ裏にある自然石のものである。墓石に刻まれた三名のうち中央が弘之進の叔父町田元耕のもの、左が弘之進のものである。

 若杉弘之進は、天保十四年(1843)の生まれ。幼時句読を府内藩隅某にうけ、十五歳のとき広瀬淡窓に入門した。嘉永六年(1853)三月、和泉国堺の叔父元耕に医を学び嗣子となった。元耕没後長門の青木周弼に就いて業を修め、安政二年(1855)、長崎、翌年江戸に出て、大城春斎に師事した。元耕は、志士のために財を失っていた。弘之進は、義弟に家を継がせて生家に復し、堺で医業を開いたが、医を次にして志士と交わり、勤王を主張し、文久三年(1863)、長州に行った。元治元年(1864)七月七日、同志と出発し入京ののちは家老福原越後の隊に属したが、薩摩の兵と戦い戦死した。

 

(鶴崎小学校)

 

鶴崎小学校

 

勝海舟坂本龍馬宿泊の地

 

 鶴崎小学校と県立大分鶴崎高校の間の小径は、「海舟・龍馬思索の道」と名付けられている。元治元年(1864)二人がこの場所を通って長崎へ向かったことを記念したものである。

 

鶴崎城跡 熊本藩鶴崎御茶屋跡

 

 鶴崎小学校の正門内に鶴崎城跡と熊本藩鶴崎御茶屋跡を示す石碑が置かれている。

 鶴崎は、加藤清正が肥後熊本に封じられた時から肥後藩の所領であった。肥後から瀬戸内海に向けた玄関口として重要な港町とされた。その中心部に藩主の宿泊所として鶴崎御茶屋が建設された。鶴崎御茶屋は、所領とともに加藤氏から細川氏に受け継がれた。

 

伊能忠敬測量記念碑

 

 文化七年(1810)、伊能忠敬は、鶴崎を測量している。そのことを記念した石碑が、鶴崎小学校内に建てられている。

 

(南鶴崎三丁目)

 

脇蘭室旧宅跡

 

 南鶴崎三丁目の大分銀行鶴崎支店の東側の民家の前に脇蘭室旧宅跡の石碑がある。

 脇蘭室は熊本藩から藩校時習館で訓導として招かれたが、そこを短期間で辞し、鶴崎に塾を開いた。

 

(大分県信用組合鶴崎支店)

 大分県信用組合鶴崎支店の建物北東角に、熊本藩鶴崎御蔵跡の碑が建っている。肥後熊本藩鶴崎の御米蔵があった場所である。

 

熊本藩御蔵跡

 

(グループホーム菜の花)

 

伊能忠敬宿泊地

 

 東鶴崎のグループホーム菜の花は、和泉屋八右衛門宅跡である。伊能忠敬一行は、文化七年(1810)二月十三日に府内より入ってここに宿泊し、翌十四日は周囲の村々を測量。翌十五日は雨天のため足止めとなり、十六日の朝、臼杵領里村(大分市坂ノ市里)へ出発した。このとき伊能忠敬は六十六歳であった。

 

(鶴崎橋西詰)

 

熊本藩 鶴崎作事所跡 有終館跡

 

 有終館は明治二年(1869)、毛利空桑、河上彦斎によって洋式兵学校として鶴崎橋西側に作られた。海兵二百人、 陸兵百人が教練を受けた。参勤交代に使われた船の建造、修理などを行った鶴崎作事所も此処にあった。

 

(教尊寺)

 

教尊寺

 

伊能忠敬は、文化七年(1810)二月十六日、鶴崎村からこの地に至り、教尊寺の書院で宿泊した。書院の建屋は当時のままである。寺の周辺を探してみたが、伊能忠敬に関する説明板などは見当たらない。

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別府 Ⅱ

2022年07月16日 | 大分県

(流川四丁目)

 

伊能忠敬測量史蹟

 

 別府市の繁華街の中、流川四丁目の交差点の南東の角に大理石製の伊能忠敬測量史蹟碑がある。伊能忠敬一行は文化七年(1810)二月十に日に別府村を訪れている。測量日記には「この村家毎に温泉多し」と記録されている。

 

(芝尾市営墓地)

 

法名 釋退来(灘亀こと永井亀吉の墓)

 

 灘亀の墓を訪ねて芝尾市営墓地を歩いた。墓地の上の方にあると思いこみ、上の方ばかりを探したが、実は意外と手前にあった。あまり先入観をもって探さないことだ。

 灘亀こと永井亀吉は、幕末別府の港で男たちを束ねた侠客である。

 長州藩士井上聞多は、藩内で開国を進言したことから反対派に襲撃されて瀕死の重傷を負った。奇跡的に命を取り留めた後、刀傷を癒やすため別府の旅館に隠遁した。この時に、現在の別府市楠町にあった楠温泉で全所持金を盗まれ、一時は灘亀の子分となった。明治後、政府で外相、内相、蔵相などを歴任し重鎮となった井上は、明治四十四年(1911)、四十六年ぶりに別府を再訪し、共同墓地に眠る灘亀のために立派な墓を建て替えた。

 

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九重

2022年07月16日 | 大分県

(白鳥神社)

 二豊(豊前および豊後)を代表する草莽の志士である高橋清臣は、文化六年(1809)、玖珠郡田野(現・九重町)の白鳥神社の神主の子に生まれた。父は、白鳥神社祀官穴井相模守。

 

白鳥神社

 

狛犬

 

高橋清臣ゆかりのものが何か見つかるかと期待して白鳥神社の境内を歩いたが、何も見つけられなかった。近くに日本一の高さを誇る夢大吊橋がある。

 

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