史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小林 野尻

2022年09月10日 | 宮崎県

(大塚原公園)

 「道の駅ゆ~ぱるのじり」は、入浴施設と宿泊施設を完備した全国でも珍しい、道の駅である。道の駅に隣接して大塚原公園がある。おお塚原公園は小高い丘になっていて、頂上からは野尻町を見渡すことができる。

 

大塚原公園

 

道の駅ゆ~ぱる野尻

 

平和之礎

 

奉招神魂碑

 

 展望台付近に招魂碑を集めた一画があり、そこに西南戦争招魂碑がある。野尻地区からも多くの従軍者が出ている。

 小林市域からは三百六十八人が参加し、うち戦死者は五十一人。旧須木村域からは二十四人が参加し、戦死者は五人。旧野尻町域からの参加人数は不明であるが、戦死者三十二名との記録がある。

 この招魂碑は、明治十一年(1878)十一月に建立され、旧野尻町域から西郷軍に参加し、戦死した人々の名前が刻まれている。元々は東麓字小立中に他の慰霊碑とともにあったのを、昭和二十年(1945)八月に日本軍の一中隊によってこの地に運ばれたものである。

 正面に「奉招神魂碑」と刻まれ、その周囲に二十四名の氏名が刻まれている。

 

(野尻町歴史民俗資料館)

 のじりこぴあという遊園地があり、そこにある城館風の建物が、野尻町歴史民俗資料館である。小林市内の遺跡からの出土品や歴史資料、民具などが展示されている。

 

野尻町歴史民俗資料館

 

西郷札展示

 

「のじりこぴあ」は、さすがにGW中ということもあり、大勢の家族連れで賑わっていた。遊園地の喧騒を通り過ぎて、取り残されたような静かな場所に歴史民俗資料館が建てられている。玄関は開いているが、まったく人の気配がない。照明も消えているが、どうやらセルフサービスらしい。自分でスイッチを入れて展示物を拝見するという仕組みである。西南戦争関係の展示もあり、そこに西郷札が展示されている。

西郷札は、二枚の布の間に紙を芯として張り合わせたもので、金額ごとに色分けされていた。裏面には「通用三年限」と書かれ、紙幣番号も記されていた。当初より信用度が低く、西郷軍の実効支配地域で無理やりに通用させていたものである。西郷軍の敗北とともに価値を失い、明治政府からの補償もなかったため、戦後宮崎県域の経済はかなり混乱したといわれる。

政府軍は、野尻における戦いにおいて、初めて西郷札の存在を知ったとされる。

 

のじりこぴあ周辺は、勝負台場遺蹟と呼ばれ、西南戦争時の九基の台場と一基の濠が残されているというが、残念なことにどこにそれがあるのか分からない。

 

(高妻神社)

 

高妻神社

 

招魂社

 

 小林市野尻町紙屋の高妻神社にも西南戦争の招魂社がある。明治十五年(1882)に建立されたとされるこの石碑には、紙屋地区から西南戦争に参加し、戦死した十二名の氏名が刻まれている。昭和三十五年(1960)に高妻神社境内に移された。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小林

2022年09月10日 | 宮崎県

(東方大丸太鼓橋)

 東方大丸(ひがしかたおおまる)太鼓橋は、薩摩の豪商森山新蔵が、天保十一年(1840)、私財を投じて開田事業を始め、弘化四年(1847)に完成させた石橋で、県内最古の水路橋とされる。この橋(水路)によって、大丸地区に十七町歩の水田が開かれ、その功もあって森山新蔵は武士に取り立てられた。その後、森山は誠忠組に属し、西郷隆盛や大久保利通ら薩摩藩の志士活動を金銭面で支えた。

 文久二年(1862)には、西郷、村田新八らと大阪へ行き、攘夷急進派の過激な企てを止めようと画策したが、島津久光に、彼らが志士たちを扇動していると処断され、帰国を命じられ、流罪に処された。山川港で船が出るのを待っているとき、息子の森山新五左衛門が寺田屋事件に参加し、罪を問われて自害したとの報せを受けると、停泊中の船中で自害した。

 

東方大丸太鼓橋

 

東方大丸太鼓橋

 

東方大丸太鼓橋

 

岩瀬川

 

(魚や鮨まるぼうず)

 

西郷どんの道

 

 小林市真方の魚や鮨まるぼうずの近くに西郷どん(せごどん)の道を解説した説明板と「西郷どんの道」と書かれた木柱が建てられている。

 明治十年(1877)八月二十七日、須木からこの道を経て鹿児島に帰ったのである。

 

(下の馬場)

 

西郷どんの道

 

 先ほどの「西郷どんの道」から五百メートルほど国道265号線を小林方面に行くと、「下の馬場」バス停の手前にもう一つ「西郷どんの道」碑がある。この背後の小山は、小林城跡である。

 

(真方)

 

西郷どんの道

 

藩校文行堂跡

 

 「下の馬場」のバス停を過ぎて次の交差点を右に入ると、石垣と生垣が連なり、ちょっと旧藩時代の風景を思わせる一画がある。そこに三つ目の「西郷どんの道」碑がある。

 さらに道沿いに百メートルほど進むと、藩校文行堂跡がある。

 

(地頭屋敷跡)

 

地頭仮屋敷跡

 

当地にあった地頭仮屋敷は、西南戦争にて焼失したとされる。

一国一城令により小林城が廃城となると、代わって小林の治所として設けられたのが、地頭仮屋である。薩摩藩では、外城と呼ばれる藩内約百二十か所に地頭仮屋を設け、そこに家臣団を派遣し、各地を統治した。以来、明治四年(1871)の廃藩置県まで政治の中心として機能していた。

西南戦争では、小林の地頭仮屋敷に西郷軍が本営を置いたとされる。しかし、明治十年(1877)七月十一日、官軍が小林に進入するに及び、西郷軍は、官軍の進路を遮断する目的で、町に火を放った。その時、地頭仮屋に保管されていた公文書その他の古文書がことごとく灰となり、藩政時代の貴重な歴史史料を失うことになった。

 

(浄信寺)

現在、浄信寺のあった辺りで西郷軍が銃器製造所を置いたとされる。残念ながら、案内板も石碑も何もないが、浄信寺の写真だけ掲載しておく。

 

浄信寺

 

(時任家)

 

西郷隆盛宿陣之地

 

 この石碑が建つ小林市細野は、JR小林駅にも近く、小林市の中心街と言っても良い。

 西郷隆盛は明治十年(1877)の西南戦争時に時任為英宅に二度宿泊している。一度目は、人吉本営が陥落する前の五月二十九日のことで、いち早く小林に入り、時任家に一泊したのち、宮崎に向かった。

 二度目は、延岡の和田越決戦で敗北し、解散命令を出した後、山中を逃げ須木の川添源左衛門宅で一泊した後、八月二十八日に再び宿泊している。

 時任為英は、当時十七歳で、西郷軍に参加した小林の若者である。時任為英は、命からがら生き延びて郷里に帰っていた一人であった。西郷は、二度目の宿泊の際、御礼として座布団の下に身に付けていた金時計を置いて、鹿児島に向かったとの逸話も残されている。

 

 ここは薩摩藩領である。西郷には、鹿児島まであと少しという気持ちが高まっていたであろう。

 

(緑ヶ丘公園)

 

緑ヶ丘公園

 

招魂塚

 

 緑ヶ丘公園は、その名前のとおり、広い緑地のある気持ちのいい公園である。その一画に立派な忠霊塔があり、その傍らに戦没者慰霊碑が並べられている。一番端に西南戦争の戦没者を慰霊する招魂塚がある。明治四十年(1907)の建立。堤地区の招魂塚は三松にあるが、その九名を除く四十五名の名前が刻まれている。

 

(旧岩間橋)

 

永仁の碑

 

旧岩間橋

 

 旧岩間橋は、大正十四年(1925)に上武構造の建て替えが行われた。橋脚や橋台には、明治二十五年(1892)当時に築かれた石造構造物がそのまま使用されているので、橋脚部分は明治二十五年(1892)製、鉄骨トラス部は大正十四年(1925)製ということになる。歴史的には、貴重な文化財であるが、流石に現在、この橋を自動車で通ることは禁止されている。

 明治十年(1877)七月十一日、官軍が小林に進軍すると、西郷軍は、高原・野尻方面に後退した。その際に岩瀬川に架かる岩瀬橋も焼き落としたと言われる。七月十四日には川を挟んで砲撃戦となり、西郷軍は川沿いの岩牟礼城跡に陣を構え官軍を迎え撃ったが、高原が陥落したとの報せを受け、陣を棄てて東方へ後退した。

 

(岩牟礼城跡)

 

岩牟礼城跡

 

 西郷軍が陣を置いた岩牟礼城跡である。岩牟礼城は、市内でも最も高い場所にある山城跡である。築城年代は不明であるが、当初は伊東氏、天正四年(1576)の高原城陥落以降は、島津氏の領有となり、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

 今も岩牟礼城跡では、西南戦争時の塹壕跡などが確認できるという。

 

(三松公民館・三松保育園) 

 

招魂碑

 

 小林市堤の三松公民館、三松保育園に招魂碑がある。この招魂塚は当初三松小学校校庭にあったが、のちに三松公民館敷地内に移されたもので、堤地区出身者を祀った慰霊碑である。背面に九名の氏名と、それぞれが戦死した場所が刻まれている。ほかに日清・日露出征記念碑や日中。太平洋戦争忠霊碑、御即位大典記念碑などが並ぶが、特徴的なのは、関ヶ原記念碑である。

 

招魂塚

 

 関ヶ原記念碑は、明治三十二年(1899)に、関ヶ原合戦三百年を記念して建立されたものである。

 

関ヶ原記念碑

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小林 須木

2022年09月10日 | 宮崎県

(西郷隆盛宿営の地碑)

 

西郷隆盛宿営之地碑

 

西郷南洲翁仮宿之地碑

 

 熊本方面における戦闘に敗れた西郷軍は、次第に後退し、肥後から日向へと追いやられた。延岡和田越での決戦に敗れた西郷は、手兵約三百を率いて可愛岳を突破、一路故山の鹿児島を目指して敗走を続けた。

 明治十年(1877)八月二十七日、九州山地を南下した西郷とその一隊は、下槻木を経て、本市堂屋敷に達した。そこから川沿いに下って、その日の夕刻、夏木中藪に至り、この地にあった川添源左衛門方とその周辺一帯に宿営した。

 家人の後日談によると、一丁の駕籠が着いて、中から出てきた西郷は、直ぐに奥の六畳間に入った。それから翌朝出発するまで、誰一人その姿を見た者はなかった。翌日、西郷の一隊は、九瀬から小妻木を経て小林に向かったとされる。

 

(大年神社)

 

大年神社

 

 須木中学校に隣接する大年神社境内に戦死追吊碑が建てられている。旧須木村域の戦死者を弔うために建てられたと言われているが、建立年月日も戦没者名も建立者名も記されていない。逆賊とされた西郷軍に加担した人たちを慰霊するものであったため、世間体をはばかったものと言われている。碑文も風化して損耗も激しかったため、平成元年(1989)、改修が施され、当時に新しく「西南戦争従軍者」の碑も併設された。須木地区から西郷軍に参加した人数は二十四名と記録されているが、ここには二十三名の名前が記されている。残る一名の「彦左衛門」は手掛かりがなく、不明な点が多いため、従軍者の碑には含まれていないという。

 

戦死追吊碑

 

西南戦争従軍者碑

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高原

2022年09月10日 | 宮崎県

(高原護国神社)

 

高原護国神社

 

 高原護国神社の下はグラウンドになっており、ちょうど小学校高学年か中学生くらいの年頃のチームが試合をしていた。見るともなく見ていたが、結構両軍ともレベルが高い。試合前のノックでも、外野からの中継プレーも流れが良く、確実である。我々の少年時代と比べれば、格段にレベルが上がっているように思う。

 

高原護国神社

 

招魂碑

 

 ここにも招魂碑が建てられている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飫肥 Ⅱ

2022年09月10日 | 宮崎県

(五百禩神社)

 

五百禩神社

 

 五百禩(いおし)神社の前身は、報恩寺といって、飫肥藩初代藩主伊東祐兵(すけたけ)のために建立された伊東家の菩提寺であった。明治五年(1872)の廃仏毀釈によって廃寺となり、その跡地に五百禩神社が建てられた。本殿が完成したのは、明治九年(1876)のことであった。報恩寺時代の庭園が今も残されている。

 

旧報恩寺庭園

 

平部嶠南墓

 

 平部嶠南(きょうなん)は、文化十二年(1815)の清武町中野の生まれ。幼年より秀才の誉れ高く、安井息軒の教えを受けた。天保四年(1833)、江戸に上って古賀侗庵の門に入り、帰途水戸の諸学者を訪れた。帰国して藩校振徳堂の教授となり、弘化元年(1844)、江戸桜田邸副留守居、のち家老となった。薩摩藩が討幕に成功し、飫肥藩は佐幕派とみられて攻められそうになったとき、嶠南が薩摩藩に行って弁解し事なきを得た。官を辞してから宮崎県内を実地調査し、八年かかって「日向地誌」(活版 千六百二十ページ)を著わした。明治二十三年(1890)、年七十六で没。

 

 伊東家累代墓地は、戦国大名伊東義祐をはじめとして、飫肥藩初代藩主伊東祐兵以下、歴代藩主および夫人や子女の墓がある。ただし江戸で没した十三代藩主伊東祐相の墓は東京の谷中霊園にある。

 

伊東家累代墓地

 

正八位伊東直記之墓

 

 伊東直記は、天保六年(1835)生まれ。日向飫肥藩の家老。明治二年(1869)、版籍奉還により同藩の権大参事、明治四年(1871)の廃藩置県後は郡長をつとめた。西南戦争では飫肥隊を編制して総裁となり、西郷軍に属して戦ったが政府軍に投降。懲役七年の刑を受けた。出獄後、南那珂郡長。明治三十六年(1903)、死去。年六十九歳。

 

伊東祐帰墓

 

 伊東祐帰(すけより)は、安政二年(1855)の生まれ。父は伊東祐相。明治二年(1869)、父の跡を継いで二代知藩事となった。明治十年(1877)の西南戦争勃発時には、飫肥士族に対し、西郷軍に加担しないよう手紙を送っている。明治二十七年(1894)、四十歳にて死去。

 

伊東祐弘墓

 

 伊東祐弘は、明治十三年(1880)、伊東祐帰の長男に生まれている。明治四十四年(1911)、貴族院議員に選出。昭和六年(1931)没。

 

小村寿太郎候之墓

 

侯爵小村寿太郎墓

 

 小村寿太郎は、安政二年(1855)、飫肥藩士小村寛、梅夫妻の長男に生まれた。文部省留学生として渡米し、ハーバード大学を卒業した。明治十三年(1880)帰国して、司法省に入り、明治十七年(1884)、外務省に転じた。明治二十六年(1893)、清国に赴任。日清開戦外交をリードした。戦後は外務省の実力者として韓国問題の処理にあたり、明治二十九年(1896)、小村・ウェーバー協定を締結した。のち外務次官、駐米・駐清大使を経て、明治三十四年(1901)、外務大臣に就任し、日英同盟締結、日露開戦外交を主導した。明治三十八年(1905)、全権としてポーツマス条約に調印。明治四十一年(1908)、再び外相に就任。明治四十三年(1910)、韓国併合にあたり、明治四十四年(1911)には関税自主権回復を実現した。同年、侯爵に叙されたが、この年五十六歳にて死去。

 

 小村寿太郎といえば、何といっても吉村昭の小説「ポーツマスの旗」である。「ねずみ公使」と揶揄されるほど小柄でありながら、ロシア全権のウィッテを相手に堂々と渡りあう姿は痛快ですらある。

 

小村寛墓(右から二つ目)

小村梅墓(左から二つ目)

 

小村家の墓

 

(西公園)

 

招魂社

 

 五百禩神社の上の西公園(上城公園とも)に西南戦争戦没者墓地、いわゆる招魂社がある。西南戦争以降、日清日露戦争の戦没者を祀っている。

西南戦争に飫肥隊として参戦したのは五百余名、うち六十六名が戦死している(招魂社の台座には小倉處平ほか六名の氏名と「外七十柱」とある)。その中に「飫肥西郷」とも称された小倉處平の墓もある。小倉處平は、明治初年に大学改革として貢進生制度を提唱し、飫肥藩出身者として初めてイギリス留学を果たしたが、西南戦争が勃発すると、官を辞して飫肥隊を率いて薩軍に身を投じた。

 

西南役紀念碑

 

飫肥隊墓所

 

嗚呼小倉處平之墓

 

 小倉處平は、弘化三年(1846)、飫肥藩士長倉喜太郎の次男として生まれた。十八歳のとき、小野家の婿養子となり小倉に改姓した。元治元年(1864)、藩命をおびて京都へ赴き、藩外交に当たった。帰藩後、藩校振徳堂の句読師となった。慶應三年(1867)、句読師を辞して、江戸の息軒塾(三計塾)で学び、陸奥宗光らと交流を得た。明治二年(1869)、小村寿太郎らを引率して長崎に遊学。さらに東京に出て大学南校に入った。明治三年(1870)、貢進生制度を政府に建議し、翌明治四年(1871)、官名により英国へ留学。征韓論に敗れた西郷が下野すると、處平に帰国命令が下った。明治七年(1874)、佐賀の乱ののち、江藤新平が飫肥に来たのを匿い、一行を外ノ浦から土佐へ逃した。明治十年(1877)、西南戦争が起こると、飫肥隊を編成して西郷軍に加わった。處平は奇兵隊軍監として参戦したが、八月十五日の和田越の戦いで銃創を負い、八月十八日、高畑山の中腹で自刃した。享年三十二。

 墓石には、「嗚呼小倉處平之墓」と刻まれている。「嗚呼」という感嘆詞に飫肥の人達の嘆きが込められている。處平は、飫肥の士風といわれる「誠」を信条として、信念に生き大義に殉じた生涯を貫いた。

 

日清戦争戦没者墓所

 

 長年、訪れたいと渇望していた飫肥の探訪はこれまで。滞在時間はわずか二時間余りであったが、まずまず満足すべき成果であった。機会があれば、またゆっくり歩いてみたい、と思わせる街であった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飫肥 Ⅰ

2022年09月10日 | 宮崎県

(本照寺)

 翌日、つまり今回の旅行の最終日、まだ夜の明けない五時前に起床し、ホテルをチェックアウトして、まだ暗い都城市を離れた。国道222号線をひたすら飫肥に向けて車を走らせた。前後を走る車も、すれ違う車もなく、信号もない道である。都城市街地から飫肥まで五十キロメートルほど距離があるが、一時間ほどで到着した。

 最初の目的地は本照寺である。本照寺では、落合雙石(飫肥藩藩儒・藩主侍読)の墓が目当てであったが、行ってみると本照寺は無住となっているようで、いくつか残されている墓所もほとんど手入れがされていないようである。とても落合雙石の墓を探せる状態ではなかった。気を取り直して飫肥城に引き返すことにした。

 

本照寺

 

(飫肥城跡)

 飫肥は戦国時代には代々島津一族が城主であったが、天正十五年(1587)に飫肥藩初代伊東祐兵が豊臣秀吉によって封じられて以降、明治時代まで伊東氏の居城となった。

 

飫肥城大手門

 

 飫肥城大手門は、明治の初期に取り壊されてしまったが、昭和五十三年(1978)に飫肥城復元事業の一環として復元建設されたものである。

 

旧本丸跡

 

 飫肥城は、本丸、松尾、中ノ城、今城、西ノ丸、北ノ丸など大小十三の曲輪や犬馬場などからなる広大な城である。現在、本丸跡には飫肥小学校があるが、かつて旧本丸には藩主の御殿が置かれていた。旧本丸は、三度の大きな地震で地割れが生じ、移転することになったという。旧本丸跡は、今飫肥杉が林立する空間となっている。全国の城跡に桜を植えている例は多いが、杉は珍しい。

 

飫肥杉

 

(豫章館)

 

豫章館

 

 豫章館は、伊東家の家臣伊東主水の屋敷だったこの地に明治二年(1869)、第十四代飫肥藩主伊東祐帰(すけより)が飫肥藩知事に任命されて城内より移り住んだ場所である。主屋は明治元年(1869)に作られた飫肥藩の典型的な武家屋敷で、邸内にあった樹齢数百年の大楠にちなんで豫章館と名付けられた。

 私が飫肥を訪ねたのは早朝六時のことだったので、当然ながら豫章館も小村寿太郎記念館も、藩校振徳堂も開館前であった。

 

(小村寿太郎生家)

 

小村寿太郎候誕生之地

 

小村壽太郎候誕生之地(東郷平八郎書)

 

 小村寿太郎は、安政二年(1855)にこの地に生まれた。父は町役人(別当職)小村寛(ひろし)で、禄高十八石の徒士席という下級武士であった。維新後、小村寛は、旧飫肥藩の専売事業を引き継いだ飫肥商社の社長に就任した。しかし、その経営を巡る裁判によって小村家は破産した。土地、建物は隣家の山本猪平に売却された。昭和八年(1933)、山本家が土地を寄附するとともに、旧飫肥藩関係者の寄附によって「小村寿太郎翁誕生之地」と刻まれた石碑が建てられた。東郷平八郎の揮毫、背面には寿太郎の友人であった杉浦重剛の詩が刻まれている。

 

 なお、小村家には文化七年(1810)四月二十七日、伊能忠敬以下十七名の幕府御用測量方が宿泊して、天文観測を行っている。

 

(旧藩校振徳堂)

 

旧藩校振徳堂

 

 飫肥藩では享和元年(1801)に学問所ができたが規模の小さいものであったが、天保元年(1830)、藩主祐相(すけとも)の時に着工し、翌年完成。藩校振徳堂として開校した。

 振徳堂の名称は、「孟子」の「又従而振徳之」の章に由来し、開校と同時に安井滄州、安井息軒父子を教授、助教に招き、高山信濃、落合雙石を助教に迎えた。

 

小村寿太郎胸像

 

小倉處平顕彰之碑

 

 振徳堂に着いた時刻はまだ朝の七時にもなっておらず、当然、振徳堂の門は固く閉ざされていた。中には入れない。望遠レンズを使って外から小村寿太郎の胸像と小倉處平顕彰碑を写真に収めるのが精一杯であった。

 

 小倉處平は、振徳堂で学んだ門下生の一人である。明治三年(1870)、文部権大丞となった處平は、貢進生制度を設け、英才を全国から集めた。生誕地は振徳堂の前の道を七〇メートルほど西へ行った突き当りにある。

 

(小村寿太郎記念館)

 

小村寿太郎記念館

 

 国際交流センター小村記念館は、平成五年(1993)一月、小村寿太郎の没後八十年を記念して開館した施設である。小村寿太郎の縁で、日南市は米国ポーツマス市(ニューハンプシャー州)と姉妹都市提携を結んでいるが、この施設の完成をきっかけにポーツマス市をはじめとした国際交流が一層推進されることになった、と説明されている。

 

(小村寿太郎生家跡)

 

小村寿太郎生家

 

小村寿太郎生家

 

 平成十六年(2004)、小村寿太郎生誕地より生家が移築されて公開されている。

 

(飫肥武家屋敷)

 

飫肥武家屋敷

 

 飫肥城大手門から伊東伝左衛門家や藩校振徳堂に至る道は、馬場通りと名付けられているが、飫肥藩士屋敷の姿を色濃く伝えている。各屋敷も一戸平均約九百坪という広さを維持している。昭和五十二年(1977)、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。

 

(旧伊東伝左衛門家)

 

旧伊東伝左衛門家

 

 伊東伝左衛門家は、上級藩士の武家屋敷で、建築様式から十九世紀の建物と推定されている。庭園や石垣も往時の姿をよくとどめている。

 伊東伝左衛門家は、享保六年(1721)に家老伊東祐周の次男が分家創設した家系である。伝左衛門は、嘉永五年(1852)、江戸藩邸表役を命じられている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都城 庄内

2022年09月03日 | 宮崎県

(庄内小学校)

 

庄内小学校

 

 庄内小学校の構内にある遺徳之碑は、三島通庸を顕彰するものである。

 三島通庸は、鹿児島に生まれ、明治二年(1869)九月、三十四歳のとき、都城地頭として赴任したが、旧領主を慕う領民の反感を受けたため、この庄内に地頭館を置いて行政の任に当たった。まず行政区画を上荘内郷(庄内)、下荘内郷(都城)、梶山(三股)の三郷に改め、旧郷の耕地を総割り替えして暮らしの安定を図った。ついで安永の麓、三股の山王原に住宅街を作り、中心となる街並みを作った。また、道路建設、堤防修築、産業、教育の振興に力を注ぐとともに、石峯稲荷の整備を図り、母智丘(もちおか)神社と命名し、鎮守の社とするなど、領民の生活安定に尽くした。明治四年(1871)十一月、西郷隆盛の要請を受けて上京するまで僅か二年余りの在任であったが、その業績は今日の地域発展の基盤となっている。

 

遺徳之碑(三島通庸顕彰碑)

 

(南洲神社)

 

南洲神社

 

 庄内の南洲神社は、西南戦争から五十周年にあたる昭和二年(1927)、庄内町を中心とした、旧庄内郷関係者に、西郷南洲の遺徳をしのび、合わせて翁と死をともにした旧庄内郷戦没者の霊を祀り、これを後世に伝えようという機運がたかまった。これを受けて、重軍関係者や有志の協議で浄財を募り、神社を創建することになった。折から、諏訪神社の改築があり、古い社を譲り受け、この地に社殿を竣工させた。鹿児島の南洲神社に分霊を請願して、昭和四年(1929)、遷座が行われた。昭和五十三年(1978)に失火により社殿が焼失し、現在の社殿は昭和五十五年(1980)に再建されたものである。

 南洲神社に祭祀されているのは、庄内郷戦没者五十六名である。

 

明治丁丑之役従軍記念碑

 

 境内には記念碑と招魂碑が並べて建てられている。

 

記念碑および招魂碑

 

(関之尾滝)

 今回の五月連休中の旅では、観光スポットと呼べるような場所はほとんど行くことはなかったが、数少ない例外が関之尾の滝であった。

 関之尾滝は、大淀川の支流庄内川にあり、日本の滝百選に選ばれる名瀑である。幅四十メートル、落差十八メートルの大滝と、明治時代に岩を掘って作られた人工の滝男滝(おだき)と女滝(めだき)の三つの滝からなっている。

 

庄内川

 

関之尾滝

 

歐穴群

 

 滝の上流へ向かって二〜三分ほど歩くと、目の前に広がるのは一風変わった光景に出会う。これは「関之尾甌穴群」と呼ばれるものである。「甌穴」とは河底や河岸の岩石面上にできる円形の穴のことで、三十四万年前に加久藤火砕流でできた溶結凝灰岩層に霧島山地から清流が流れ込み、長い年月をかけて小さな石や岩石の破片が回転することによって関之尾甌穴群は形成されたという。ゴツゴツとした岩が集まったようにも見えるが、実はすべて繋がった一枚の岩盤なのである。甌穴群としての規模は世界一といわれている。

 

川上神社

 

明治二十二年(1889)、坂元源兵衛が滝上三百メートルの左岸の岩盤をくりぬくことに成功し、庄内川左岸の土地まで広く潤すことに成功した。その後、坂元源兵衛の遺志を継いだ前田正名が明治三十五年(1902)、谷頭までの通水に成功した。川上神社は、関之尾住民たちにより島津久理公、坂元源兵衛、前田正名の御霊を出水神様と一緒に祀ることとしたものである。現在の社殿は、昭和三十七年(1962)に昔から水神様の祀ってあった地に建てられた。

 

(母智丘神社)

 

母智丘神社

 

母智丘(もちお)神社は、往時よりこの場所にあったが、社殿が荒れているのを見た三島通庸が明治三年(1870)に再興した神社である。

 境内には三島通庸の名前も刻まれている上荘内郷役館の碑がある。

 

上荘内郷役館碑

 

 この石碑は、明治三年(1870)、三島の命により母智丘神社が再興された際に建てられた神社再興碑である。理由不明ながら、碑面の上半分が空白のままで、下段には地頭三島通庸以下四十三名の郷役職氏名のみが刻まれている未完の碑である。

 社殿の上の方に展望台が設けられていて、庄内の街を見渡すことができる。

 

展望台からの眺望

 

(有村次左衛門寓居の地)

 

史跡 桜田門外の変 有村次左衛門寓居の地

 

 南横市町の民家の前に有村次左衛門寓居の地と記された標柱が建てられている。

 万延元年(1860)三月三日の桜田門外の変に薩摩藩士として唯一人参加し、井伊大老の首を落とした有村次左衛門が、幼少の頃から変の前年まで父母とともに過ごした場所である。

 

 この日の史跡探訪はここまで。都城市内に戻って宿泊する。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都城 Ⅱ

2022年09月03日 | 宮崎県

(旧仁厳寺墓地)

 

二嚴寺趾

 

 手もとの「明治維新人物辞典」(吉川弘文館)によれば、大館四郎(晴勝)の墓は、都城市興金寺にあるとされている。しかし、興金寺という寺は存続していない(おそらく廃物棄釈で廃寺となったのだろう)。そこで都城島津邸に大館四郎の墓の在り処を問い合わせた。数日して都城島津邸の方から、写真付きでご丁寧な返信を頂戴した。

 

大館晴勝(四郎)墓

 

 以下、都城島津邸から得た回答である。

「大館家の現在の墓所は西墓地と仁厳寺(にごんじ)にあります。西墓地は仁厳寺にあった歴代の墓を寄せ墓し移したものです。仁厳寺の墓所には歴代の墓石等が残されています。その中に晴勝のものもあります。※晴勝の墓石は写真を添付しておきます。上記は大館家御当主からの情報提供です。」

 これだけの情報があれば十分である。

 

 仁巌寺は廃寺になって墓地だけが残されている。従って、ほとんど維持の手が入っていないので仕方ないことかもしれないが、墓地は荒れ放題であった。その中で大館家の墓所は、奥深い場所にあったが、そこにあった墓石は、晴勝の者も含め、総て横倒しになっていた。これが幕末の都城郷を主導した人物の墓の有様かと、暗澹たる気持ちになった。

 

 大館四郎は、文政七年(1824)の生まれ。諱は晴勝。雅号に添山、あるいは桐園。藩校明道館で漢学を修め、のち国学を新納時昇に受けた。家は世々連歌師であった。天保十三年(1842)、京に赴き、連歌、和歌、国学を学び、弘化元年(1844)、帰郷、物頭役となった。文久二年(1862)二月、領主の命を受け、京、江戸の状勢を探るとともに、平野國臣と交わった。明道館学頭となったところで、文久三年(1863)五月、誠忠派幽閉の難にあった。慶應元年(1865)、再び明道館学頭となり、慶応四年(1868)、老職に進み、戊辰戦争では在郷して領主後見島津久本を補佐した。のちに鹿児島藩民事奉行となった。明治四年(1871)、年四十八で没。

 

(都城島津邸)

 

都城島津邸

 

 都城島津邸のある場所は、芳井崎と呼ばれていた。明治以降、都城島津家当主の邸宅となり、よく旧態を今に伝えている。観覧料百十円。

 

都城島津邸庭園

 

昭和天皇宿泊の部屋

 

 昭和天皇がご使用になった部屋、浴室が当時のまま保存されており、当時の食事のレプリカと調度品も展示されている。寝室や浴室などは今でも一流ホテルの部屋として通用しそうな高級感である。

 帰り際に受付で「大館四郎や隈元陳貫の墓の場所を問い合わせた者です。ここに来る前に寄ってきました。御担当によろしくお伝えください」と御礼をお伝えした。残念ながら、回答を送っていただいた方は不在であった。

 

(旭丘神社祖霊社)

 この場所は維新前龍峰寺があった。維新後、廃寺となり、祖霊社が置かれたが、龍峰寺の都城島津家の墓地などはそのまま残されている。

 

旭丘神社祖霊社

 

義烈塔

 

 義烈塔は、安政五年(1858)十一月、二十五代島津久静(ひさなが)によって建立されたものである。都城島津家の元祖北郷資忠(ほんごうすけただ)から十二代の忠能に至る間に、戦死、殉死した家臣五百五人の名が刻まれている。彼らの霊を慰めるとともに、先祖の領主に対する忠誠を顕彰することで、現在および将来の家臣が、ますます都城の発展のために忠勤を尽くすことを願って建てられたものである。

 

都城六烈士殉難慰霊碑

 

 都城六烈士とは、慶応三年(1867)の末、本藩に従い都城島津家でも、島津私領一番隊として出兵した。大阪より伏見に移り警護をする中、六人の隊士が任務遂行の途中、佐幕派諸士と遭遇した際、戦うことなく復命したことを誹謗された。彼らは自らの命をもって、任務の正当性と武士の誇りを貫き、全員割腹を選んだ。内藤利徳、大峰兼武、安藤利次、野邊盛次、坂元正備、横山貞明の六名である。彼らの墓は京都にあるが、平成二十九年(2019)十二月、帰郷叶わなかった彼らの霊を慰めるため、この慰霊碑が建てられた。

 

元帥陸軍大将従一位大勲位功二級

子爵上原勇作墓

 

 上原勇作は、安政三年(1856)、薩摩藩領都城の生まれ。陸軍軍人。明治十四年(1881)よりフランス留学。日清戦争に出征の後、工兵監、第七師団長などを経て、大正元年(1912)、第二次西園寺内閣では陸相となり、陸軍内反長州派の期待を集めたが、同年十二月、二個師団増設問題の責任を負って辞職。大正政変のきっかけを作った。その後も、第三師団長、教育統監を歴任して、参謀総長に昇った。袁世凱政権打倒工作やシベリア出兵など侵略的な大陸政策を推進し、政友会や長州閥とも対立的関係あった。昭和八年(1933)、東京にて没。故郷である都城に分骨墓が設けられた。

 

都城島津家墓地

 

仁量院(島津久統の墓)

 

功山義融大居士(島津久倫の墓)

 

贈従四位 高顯院殿傑心泰道大居士

(島津久静の墓)

 

 島津久静(ひさなが)は、天保三年(1832)の生まれ。父は島津久本。安政三年(1856)六月、家を継ぐと同時に東目(大隅・日向地方)海岸防御総取となった。安政六年(1859)、肥田景正をして京・江戸の情勢を探らせた。同年閏三月、勇壮を選出して三隊とし、さらに馬廻一隊を備えた。文久二年(1862)二月、島津久光上京に先立ち大館四郎、木幡量介、隈元陳貫ら六士に命じて情勢を探らせ、同年四月、兵三百を率いて伏見に至り、五月二十二日、久光の東下に替って禁闕を警衛中、にわかに病を発して伏見に没した。年三十一。北郷資雄、同資知らは喪を秘して責任を全うした。

 

恭徳久寛主命(島津久寛の墓)

 

 島津久寛は安政六年(1859)の生まれ。父は島津久静。文久二年(1862)八月、四歳で家を継ぎ、祖父久本が後見した。慶應元年(1865)三月、宗藩の命により太宰府の三条実美ら五卿を護衛した。慶應三年(1867)、兵制改革により小銃二一小隊、大砲一隊を編成、七月に禁闕守護に一小隊を派遣。都城一番隊と称した。慶應四年(1868)正月、鳥羽伏見の報至るや、飫肥、高鍋、延岡藩の動静に備え陣を細島におき、ついで戊辰戦争には都城一番隊、二番隊を出軍させ、各地で戦績を挙げた。明治二年(1869)七月、采邑を宗藩に奉還して世禄千五百石を受け、鹿児島に移居。明治十二年(1879)、都城に再任し、当地で没した。年二十六。明治二十四年(1891)の養嗣子久家の受爵(男爵)は久寛の功による。

 

豐徳久本主命奥津城(島津久本の墓)

 

 島津久本は享和三年(1803)の生まれ。父は島津久統。天保五年(1834)十一月、百姓寄合田の制を設け、民間救恤の資とした。天保十一年(1840)以来、洋式剣銃隊を編成。武器工場を置き、嘉永二年(1849)、領民に牛痘をうえさせ、安政元年(1854)、宗藩主島津斉彬より東目(大隅・日向地方)海岸防禦総頭取を命じられ、安政二年(1855)、諸庫の旧貸金四万四千両を免じて領内家政の緩和を図り、四千八百両をもって貧民に土地を与えた。木幡量介を大阪に派遣して篠崎小竹に学ばせたほか、領内の稽古館を明道館と改称して、学業を奨励した。安政三年(1856)、家督を久静に譲って隠居したが、子久静、孫久寛の幕末維新時の活躍は、久本の治績に拠るところが大きい。文久二年(1862)以降は、久寛の後見となった。明治元年(1868)、年六十六で没。

 

(明道小学校)

 明道館は、安永七年(1778)に稽古所として設立されたが安政三年(1856)に明道館と改称された。明道館には坂本正衡が定めた学制三章があり、今も校舎の壁に高々と書かれている。

  • 人倫を明らかにすること(人として守るべき秩序を認識すること)
  • 礼儀をもって先とすること(礼儀を重んじること)
  • 自ら行うこと(自ら率先して行うこと)をもって主となすこと

 

明道館跡

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都城 Ⅰ

2022年09月03日 | 宮崎県

(東墓地)

 都城市の東墓地には、前賢の墓地と呼ばれる一画がある。「前賢」とは、幕末から明治初期に活躍し、都城の近代を開いた先覚者のことである。藤崎公寛、坂本正凭(まさたか)、坂元正衡(まさひら)、大河原義軌(よしのり)、荒川元、曽我祐臣、肥田景粛、立山時常、清水晴国、木幡栄周、隈本棟貫、山下盛徳、古垣俊雄といった前賢者の墓が北西の一角に集められている。

 

正七位隈元棟貫大人之墓

 

 隈元棟貫(むねつら)は、文政十二年(1829)の生まれ。日向都城の生まれ。通称は仲介、苔の屋と号した。人となりは沈毅にして精悍、決断力に富んでいた。嘉永二年(1849)、歩行横目。勤王の志があり、都城誠忠組の一人として肥田景正、大館四郎(晴勝)らと事を謀ったが、保守派のために禁固された。戊辰の役には奥羽に転戦。帰途、明治二年(1869)、東京府観察を命じられた。明治六年(1873)、宮崎県少属、明治十年(1877)、鹿児島臺百五大区長。西南戦争では思うところがあって薩軍に投ぜず、ために郷党の反感を買い、斬られそうになったが、棟貫の人物を惜しんだ桐野利秋のとりなしで事なきを得た。その後、二十四年に渡って、田野村ほか七か所で総段別千九百五十町歩の開田をし、そのために借財に苦しんだ。明治三十一年(1898)、年七十で没。

 

荒川家(荒川元の墓)

 

榕斎藤崎伯裕之墓

 

肥田景粛之墓

 

鶴水木幡先生墓(木幡量介の墓)

 

贈従五位木幡榮周先生榮錫記念碑

 

 木幡量介は、文政八年(1825)の生まれ。諱は栄周、雅号は鶴水。木幡家は、代々修験道の家で、慶応末年、還俗して量介と号した。長じて儒学を篠崎小竹に、国学を八田知紀に学び、京・江戸において諸藩の志士と交遊し、大いに郷党にも尊王論を鼓吹した。文久三年(1863)五月、誠忠派幽閉の難に遭い、元治元年(1864)六月、宗藩主の審問により蟄居を解かれた。同年十二月、家格も旧に復した。慶應四年(1868)、戊辰戦争では、奥羽に出陣して功あり、明治二年(1869)、近習役、領主島津久寛の傳となり、また宗藩造士館の都講に挙げられた。明治四年(1871)の廃藩後、宮崎学校、鹿児島女子師範学校の監事、明治九年(1876)、都城学校長となり、宮崎県教育界のために尽瘁した。明治十三年(1880)、年五十六にて没。

 

大河原家先祖代々之墓

雲松軒瑞山一豫居士

 

 大河原義軌は天明六年(1786)の生まれ。義軌は諱。通称は隆作。雅号は霧洲。幼時貧困のうちにあって学に励み、文政二年(1819)、頼山陽の門下となり、文政四年(1821)、帰国。邑校稽古館の学頭となった。速見晴文、肥田影正、木幡栄周、大館四郎らはその門下であって、都城に尊王論を主唱したのは、大河原隆作であった。文久三年(1863)、都城誠忠組幽閉の事件にあたり、「訴衷篇」を当局に提出、これを弁護した。また経済にも長じ、土木にも精通していたといわれる。慶應元年(1865)、年八十で没。

 

坂元旭先生墓

 

 坂元正衡は、都城島津家の家臣で漢学者。高山彦九郎が都城を訪れたときに交流した。

 

清水晴國大人之碑

 

山下盛徳之墓

 

 山下盛徳は、都城の養蚕業の発展に尽くした人。次女の山下ムラも父を継いで養蚕業に尽力した。

 

(神柱宮)

 

神柱宮

 

 都城市街地のほぼ中心部に鎮座する神柱宮は、長く島津荘総鎮守として崇敬を集めたが、明治六年(1873)市内梅北町から現在地に遷座した。遷座にあたり、周辺は神柱公園として整備されている。

 

高山彦九郎遺跡

 

 寛政四年(1792)六月、高山彦九郎は都城を訪れている。年見川のほとりで、坂元正衡と酒宴を開き、痛飲歓談した。彦九郎が飫肥に旅立つにあたって、両者は和歌と漢詩を交換した。この石碑は、高山彦九郎歌碑と呼ばれている。

 

桂久武寄贈の手水鉢

 

 明治六年(1873)、神柱宮が遷座した際、時の都城県参事桂久武が寄進した手水鉢が残されている。

 

戊辰之役 戦死者

 

 この石碑には都城から戊辰戦争に出陣した従軍者名と、戦死した十二名の名前が刻まれている。戦死者の先頭に名前のある肥田景直(雄太郎)は、肥田景正の長男。小銃第十二隊小頭。慶應四年(1868)一月五日、鳥羽伏見の戦いにおいて、淀川堤で戦死したといわれる。享年二十六。

 

 

(都城招魂塚)

 

招魂塚

 

 都城郷招魂塚は、明治十年(1877)の西南戦争で、薩軍に従軍して戦病死した都城郷一番隊々長東正胤以下、百三十四柱の御霊を祀る慰霊碑である。薩摩からの援軍要請を受けて、都城から千五百五十六名が出陣し、田原坂、隈本、八代、人吉を転戦した。

 明治十二年(1879)、戦没者遺族と従軍生存者が協力して招魂塚建立を企図し、翌年四月竣工した。

 招魂塚の題字は、川口雪蓬の書。

 

勝海舟詩碑

 

 勝海舟詩碑は、東京在住の従軍者一同の懇請により、海舟が作詩した漢詩である。その掛軸も都城市教育委員会に保存されている。

 

 惨丁丑秋 階層一酸辛

 屍化故山土 凛乎存精神

 

 辛巳仲秋者南州翁死後五周之秋也

 思往時不堪疇昔之感也

海舟勝安房

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三股

2022年09月03日 | 宮崎県

(別納家)

 三股町も西南戦争では激戦地となっている。明治十年(1877)七月二十四日、薩軍を追って政府軍は都城郷に進撃した。政府軍の激しい攻撃を受け、薩軍の一部は三股郷梶山に撤退した。翌二十五日未明には、山田川を挟んで砲火が交わされた。敗れた薩軍は、板谷(現・日南市)を目指して敗走。途中、薩軍は官軍の宿舎とさせないため、梶山の一部の家に火を放った。同日、三股郡内では馬が六頭紛失したという記録も残っている。一連の戦闘の結果、薩軍は三股郷、都城郷から撤退し、この地域は政府軍の掌握するところとなった。

 

鍋ふさぎの墓

 

 田上地区には鍋ふさぎの墓と呼ばれる墓がある。薩軍は、炊事用の鍋釜の修理をさせるため、田畑一町歩を与えるという条件で、鍋ふさぎ(鍋釜の修理工)の一家を連れてきた。しかし、戦況が悪化し、この地を撤退する際、秘密漏洩を恐れた薩軍は一家を殺害し、田上の山中に埋葬した。

 この墓は、別納(べつのう)家により代々見守られている。

 

別納家

 

 自軍に協力させた非戦闘員を自分の都合で殺害するという行為は、全く正当化できないであろう。今、ウクライナで起こっているロシアの非人道的行為、戦争犯罪を例にひくまでもなく、殺人を日常化させる戦争は人の思考を麻痺させる。鍋ふさぎの墓は、西南戦争でも非人道的行為が行われていた事実を物語っている。

 

(山王原稲荷神社)

 

山王原稲荷神社

 

西南役 従軍碑

 

 山王原稲荷神社境内の西南役従軍碑である。大正十二年(1923)十月の建碑。三股の西南戦争従軍者によって建立された。三股から薩軍として従軍した四百五人の名前が確認できる。題字は、正六位勲四等西郷菊次郎の書。

 

招魂塚

 

 従軍碑の隣にある招魂塚は、明治十二年(1879)九月の建立。西南戦争で亡くなった薩軍・官軍従軍者二十名の名前が刻まれている。

 

早馬神社

 

(薩軍本営跡)

 薩軍が三股で本営を置いたのが、梶山地区の榎田邸であった。当時、池辺吉十郎が本営に詰めていたとされる。

この近くの交差点に薬師堂があり、その背後に無名兵士の墓がある。

 

薩軍本営跡

 

(薬師堂)

 

薬師堂

 

無名戦士の墓

 

 明治十年(1877)七月二十五日、山田川を挟んで両軍が戦闘を開始したとき、薩軍本営は梶山にあった。ほかにも野戦病院や仕立て場(炊き出し場)等があったという。

 梶山での戦闘で官軍は戦死者五名、負傷者二十名を出した。薩摩側の戦死者、負傷者は不明であるが、官軍以上に被害は大きかったと推測される。梶山薬師堂の裏手には、戦死した兵士の墓が残されている。

 

(御崎神社)

 

御崎神社

 

一番隊出兵者の燈籠

 

 御崎(みさき)神社には、薩軍として出征した長田地区の人たちの武運を祈り、奉献された石灯籠がある。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする