史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛紀行」 橋川文三著 文春ライブラリー

2016年05月28日 | 書評
読み始めてから気が付いたが、この本は昔読んだことがある。書棚を探したら、朝日選書で出版された同名の本があった。内容はまったく同じであるが、中身は記憶がなかったので、改めて最初から読んでみた。著者橋川文三氏の専門は日本近代政治思想史で、西郷隆盛にも終生並々ならぬ興味を持ち続けた。昭和五十八年(1983)に亡くなられているので、もう没後三十年以上が経っている。
西郷隆盛は謎に満ちている。最大の謎が征韓論論争である。西郷は何故征韓論を主張したのか。明治六年(1873)、西郷が朝鮮に渡ったら歴史はどうなっていたのか。この問題を取り扱えるのは、もはや歴史家ではなく、想像力豊かな小説家か心理学者の領域かもしれない。西郷隆盛の遺書でも発見されない限り、永久に謎のままになってしまうだろう。
以前紹介したように、川道隣太郎先生は「死処説」を採用される。状況証拠に照らしても、説得力のある主張だと思う。西郷自身も朝鮮に渡れば半分は現地で殺される覚悟はしていただろう。自分はもはや時代遅れの役立たずだが、死ぬくらいは人並み以上にできる、と自負していたかもしれない。
橋川先生は、西郷が遠島処分を受けた沖永良部島に渡り、西郷の気持ちの変化を探測する。それ以前、奄美大島から帰還命令を受けたときは大喜びしていた西郷が、意外と喜んでいない。この時点でヤマトの政治に熱意や興味を失っていたのではないかと橋川先生は推察している。そう考えれば、死処説は俄然説得力を増すのである。
ただ私は、殺されずに朝鮮を説得し、友好裡に開国に繋げる自信もあったのではないかという気がしている。元治元年(1864)の長州征伐の終戦交渉の際、単身敵のふところに飛び込み、五卿の大宰府移転や征長軍の解兵を決めた。当時長州藩は薩摩憎しで固まっており、その象徴的存在である西郷が下関で暗殺される可能性は十分にあった。命知らずの行動、そして相手を感服させる人格的魅力で西郷は困難な交渉を解決に結び付けた。
西郷は、その師である島津斉彬の教えを信奉しており、日中韓が連携してロシアの脅威に対処する必要を感じていた。朝鮮にわたった西郷がそこで何を話したかは永遠の謎であるが、交渉がうまくいけばその後の不幸な日中韓の歴史は変わったものになっていたのではないかという気がしてならない。

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高円寺 Ⅴ

2016年05月27日 | 東京都
(宗延寺)


宗延寺

 宗延寺は、天正年間に小田原城下で開創されたといわれる。天正十九年(1591)、江戸に移り、下谷車坂(現・台東区東上野)の地に寺地を賜り、江戸中期には塔頭五坊をおく大寺に発展したといわれる。維新後、火災などで本堂、客殿、庫裡を失い、大正八年(1919)、区画整理のため現在地に移転した(杉並区堀ノ内3‐52‐19)。


穀里馬場先生之墓

 宗延寺墓地に蘭学者馬場穀里の墓がある。宗延寺墓地は、宗延寺の境内から少し離れた場所にある。この墓地さえみつかれば、馬場穀里の墓はすぐ分かる。
 馬場穀里は、天明七年(1787)、長崎の生まれ。父は和蘭陀通詞栖谷馬場敬平。佐十郎と称し、穀里は雅号である。オランダ語を志筑忠雄(中野柳圃)に学んだ。文化五年(1808)、天文方に地誌御用の一局が設けられると、江戸に招請され、世界地図編纂の調査にあたった。文化八年(1811)には「厚生新編」の訳述にあたるなど西洋学術書の翻訳に従事した。文化十年(1813)、魯西亜辞書取扱取調掛となり、松前に拘束されていたロシア人ゴローニンからロシア語を学んだ。また、文化十一年(1814)には師・柳圃のオランダ文法書を改編し、オランダ文法の基礎を築いた。文政五年(1822)、三十六歳で亡くなったが、短い生涯にかかわらず多くの著書、訳書を残した。

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外苑前 Ⅱ

2016年05月27日 | 東京都
(青山熊野神社)


青山熊野神社

 青山熊野神社は、もと紀州徳川家の屋敷内(現在、赤坂御所)にあったもので、正保元年(1644)現在地に移遷したものである(渋谷区神宮前2‐2‐22)。

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水天宮前 Ⅲ

2016年05月27日 | 東京都
(水天宮)


水天宮

 安産や子授けの神として庶民の尊崇を集める水天宮は、久留米有馬家の上屋敷に勧請された邸内社で、維新後一時赤坂に移ったが、明治五年(1872)に現在地に移転した(中央区日本橋蛎殻町2‐4‐1)。長らく改修工事中であったが、この春(平成二十八年四月)、新しい社殿や神札所、待合室が完成した。これまで戌の日には境内を取り囲むように行列ができていたらしいが、快適な待合室が整備され、利用者には有り難い改善であろう。ただし、長い歴史は感じられない。

(有馬小学校)


有馬小学校

 現在、有馬小学校周辺が久留米藩邸跡地である(中央区蛎殼町2‐10‐23)。隣接する蛎殻町公園前に近くで発掘された大名庭園で景石として使用されていた石が置かれている。出土した場所から、伊予大洲藩加藤家の屋敷のものと推定されている。


大名庭園の景石
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新座

2016年05月27日 | 埼玉県
(平林寺)


平林寺総門

 八王子から新座に向かう途中、架線に異物がひっかかるトラブルのため中央線がとまってしまい、長い時間、国立駅で待たされた。辛抱し切れずに下車してバスで移動しようと思った途端、運転が再開されたため、結局、もともと乗っていた電車が行ってしまい、次の電車が来るまで随分待たされた。何もなければ五十分くらのはずだが、一時間以上余分にかかってしまった。
 風の強い日で、盛りを過ぎた桜の花が一気に散ってしまった。


山門

 新座の駅から平林寺(へいりんじ)までバスで十分くらいのものであるが、天気も良かったので歩いてみた。凡そ二十分で平林寺の総門前に至った。
 平林寺は、周囲を豊かな自然林に取り囲まれているのが特徴である。もとをたどれば岩槻に創建された寺であるが、大河内松平家の霊廟となった縁で、この地に移された。


肥州島原對死亡霊等(島原の乱供養塔)

 平林寺境内には、大河内松平家の墓所のほか、島原の乱の供養塔、戦国時代の武将増田長盛(豊臣秀吉晩年の五奉行の一人。関ヶ原で西軍についたため、領地を没収され、武蔵岩槻に配流。大阪夏の陣で子の盛次が大阪方となったため、自殺を命じられた)や武田信玄の二女見性院の墓などもある。私のお目当ては、大河内家の墓に眠る幕末の大名である。


増田右衛門少尉長盛之墓

 本堂の裏に大河内家の廟所約三千坪が広がる。私の知る限り、大名家の墓所としては、関東一の規模であろう。その中心に「智恵伊豆」と称され、大河内家の中興の祖である松平信綱の墓がある。


大河内家墓地


松林院殿乾徳全梁大居士(松平信綱の墓)

 松平信綱は、慶長元年(1596)、幕府の代官である大河内金兵衛久綱の長男に生まれた。久綱の弟で徳川一門である松平正綱の養子となり、慶長九年(1604)、徳川家光が生まれると、召し出されてその小姓となった。元和六年(1620)、養父正綱に実子が生まれたため、大河内松平家を興した。同年五百石、同九年小姓組番頭となり、加増されて八百石を知行。同年七月、家光が伏見において三代将軍となると、従五位下伊豆守に叙任した。さらに寛永元年(1624)、二千石となり、同四年には一挙に八千石の加増を受けて一万石を領した。将軍家光の絶大な信頼を得て、寛永十年(1633)には一万五千石の加増の上、武蔵忍領主となり三万石を領し、阿部忠秋、堀田正盛とともに老中に就いた。寛永十四年(1637)、島原の乱が起こると、信綱が将として派遣され、これを鎮定した。その功により寛永十六年(1639)、川越城に転封され、六万石を領した。信綱は旗本から幕閣へ、最終的には七万五千石の一国一城の主として異例の出世を遂げたのである。三代将軍家光、四代家綱の老中として辣腕を振るい、幕府初期政治の基礎を固め、名相と称えられた。また、川越城主としては川越の街の基礎を築き、川越街道の整備などにも尽くしている。所領の野火止村(現・新座市)では、野火止用水を引き、野火止台地に生活用水を供給し、荒野の開発を行った。寛文二年(1662)、六十七歳で逝去。初め岩槻の平林寺に葬られたが、遺命により平林寺の伽藍と墓石は全て現在地に移建された。
 信綱の子輝綱の家系は伊豆守を称し、三河吉田藩主となった。やはり信綱の子信興の家系は右京大夫家と称し、上野国高崎藩主として八万二千石を領した。また、信綱の弟正信は大多喜家を興し、上総国大多喜藩主(二万石)となった。
 平林寺には、吉田藩主、高崎藩主、大多喜藩主となった三家の大河内家の墓があるため、大規模な廟所となっている。


大河内正和の墓

 大河内正和(まさとも)は大多喜藩大河内家の第八代藩主。文久二年(1862)、四十歳で死去した。


泰嶺院殿賢翁梅僲大居士(大河内正質の墓)

 大河内正質(まさただ)は、弘化元年(1844)、鯖江藩主間部詮勝の五男に生まれ、大多喜藩主大河内正和の養子となり、その娘を室とした。文久二年(1862)、封を継ぎ、従五位下備前守に叙任され、のち弾正忠を称した。慶応二年(1866)から若年寄となり豊前守を称し、慶応三年(1867)十二月、老中格に進んだ。慶応四年(1868)正月、旧幕軍を率いて入京しようとしたが、鳥羽伏見の戦いに敗れた。少なくともここまでは、この時期において幕閣の中でも対薩長強硬派の一人であった。しかし、徳川慶喜に従って江戸に帰ると、官位を奪われて大多喜城に謹慎した。東海道先鋒副総督柳原前光はその態度が曖昧であると罪を責めたので、家臣とともに城外の寺院に籠って謹慎の意を表した。同年閏四月、副総督が大多喜城に入り、正質は下総佐倉藩に幽居させられ、領地は宗家の吉田藩大河内信古が保管した。同年八月、罪を許され封地も復せられた。明治二年(1869)、版籍奉還により大多喜藩知事に任じられた。明治三年(1870)、上書して城郭を廃し、七月には免官となった。のち陸軍歩兵少佐に任じられ、宮内省出仕。また東京麹町区長を長く務めた。祖先以来の松平氏を称していたが、明治以降は本姓に復し大河内姓を名乗った。明治三十四年(1901)、五十八歳で没。雅号は墓碑の法名にある梅僊。


松平桂閣君墓碑(大河内輝声の墓)

 大河内輝声(てるな)は、高崎藩九代藩主松平輝聴の長男。万延元年(1860)家督を継いだ。元治元年(1864)、天狗党の乱には出兵してこれを鎮圧しようとしたが、三十六名の戦死者を出して敗走した。慶応二年(1866)甲府城代、翌慶応三年(1867)奏者番、陸軍奉行並に任じられた。維新後は、松平から本姓である大河内に復し、版籍奉還に際して高崎藩知事に任じられた。のちに大学南校で英語を学び、東京に英学校を開設した。明治十五年(1882)、三十三歳で死去。墓碑の篆額は三条実美によるものである。


興輝院殿俊屋義運大居士(松平輝聴の墓)

 松平輝聴(てるとし)は、文政十年(1827)の生まれ。高崎藩大河内松平家十代。上総大多喜藩の家に生まれたが、同族の高崎藩の養嗣子に迎えられ、弘化三年(1846)家督を継いだ。幕府の要職である奏者番や寺社奉行を歴任したが、万延元年(1860)、三十二歳で世を去った。


大心院殿文叟方丘大居士(松平輝充の墓)

 松平輝充(てるみち)は、文政五年(1822)生まれ。高崎藩大河内松平家九代。美濃高富藩の出身。文久二年(862)、四十一歳で死去。法名にある方丘は隠居後の号。


瑞雲院殿松峰宗秀大居士(大河内信古の墓)

大河内信古は文政十二年(1829)、鯖江藩主間部詮勝の二男に生まれ、嘉永二年(1849)、吉田藩主松平信璋の養子となり、遺領七万石を継いだ。安政六年(1859)、寺社奉行となり、文久二年(1862)には大阪城代に転じたが、前の老中間部詮勝の実子であることから、勅使大原重徳の強い反対を受けた。しかし、松平春嶽らはこれを容れなかったので、そのまま大阪に赴任した。元治元年(1864)、伊豆守を改め刑部大輔を称し、翌慶応元年(1865)二月、大阪城代を免ぜられて溜間詰めとなった。慶応三年(1867)十二月、速やかに大阪に上り将軍を保護せよとの幕命に接し、急ぎ海路大阪に赴いたが、程なく将軍慶喜が密かに江戸に帰ったことを知ると、わずかに従者二名を連れて吉田に帰った。翌日、城中で開いた大評定の席で、祖先以来の情義に従い徳川家と存亡をともにするというこれまでの意見を改め、国老西村治右衛門らの説く大義名分論に従うことに一決した。明治二年(1869)六月、版籍奉還により吉田藩知事に任じられ、八月に豊橋藩と改称、明治四年(1871)の廃藩により豊橋藩知事を免じられた。明治二十一年(888)、六十歳で死去。

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芝公園 Ⅳ

2016年05月21日 | 東京都
(日本女子会館)


和宮像

 「銅像歴史散歩」(墨威宏著 ちくま新書)によれば、芝の日本女子会館に和宮像があるという。事前に日本女子会館に連絡をしておけば、見学させてもらえる。昼休みに日本女子会館まで往復して、和宮像を拝見してきた。
 この和宮像は、神戸の篤志家で、県会議員なども務めた中村直吉氏が、日本女子会館の創立時に寄贈したものである。日本で最初の宿泊を伴う女子の研修施設として日本女子会館が建てられたのは戦前昭和十二年(1937)のことであるが、その後昭和四十九年(1974)に現在の建物に建て替えられた。その際に和宮像は移設され、現在も事務所に置かれている。
 中村直吉氏は二宮尊徳を尊崇しており、神戸周辺で三十体以上もの二宮尊徳像を寄付したという。和宮像も「日本女性の鑑」として数体が作成され、そのうちの一つが日本女子会館に寄贈されたということらしい。

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新宿 Ⅳ

2016年05月21日 | 東京都
(花園神社)


花園神社

 新宿区新宿5‐17‐3の花園神社は、江戸時代以前からあったという記録が残っているが、寛政年間(1624~1644)に尾張藩下屋敷の庭の一部であった現在地に遷座した。庭にはたくさんの花が咲き乱れており、このため花園神社と呼ばれるようになったといわれる。

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上野 Ⅷ

2016年05月21日 | 東京都
(水月ホテル鴎外荘)


森鴎外居住之跡

 森鴎外は、明治二十二年(1889)、時の海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの場所に移り住んだ。屋敷は今もこのホテルの中庭に残されている。この頃、鴎外は「於母影(おもかげ)」を発表し、文学評論「しがらみ草子」を創刊、さらに「舞姫」を「国民之友」に発表するなど充実した文学活動を展開していた。一方、軍医としては陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍するなど充実した時期を迎えていた。しかし、私生活では長男於菟(おと)が生まれた直後、登志子と離婚し、明治二十三年(1890)、千駄木に転居した。
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浅草 Ⅴ

2016年05月21日 | 東京都
(願流寺)


願流寺

 願流寺には柳河春三(しゅんさん)の墓がある(台東区西浅草1‐2‐16)。墓碑は宇都宮三郎の書。


柳河春蔭先生之墓

 柳河春三は天保三年(1832)、尾張国名古屋に生まれた。墓に刻まれている春蔭は諱。ほかに朝陽、暾とも。蘭学を伊藤圭介、上田帯刀に学び、医を業とし、安政五年(1858)、和歌山藩寄合医師。英仏語にも通じ、元治元年(1864)、開成所教授となり、国学、和歌書の分野にも造詣が深かった。文久三年(1863)から開成所の洋学者たちが、横浜の英字新聞を「日本貿易新聞」「日本新聞」などの題下に翻訳して、当路者の参考に供し、のちにはその控本を回覧する会訳社も組織されたが、この仕事の中心になったのが柳河春三であった。慶応三年(1867)創刊の「西洋雑誌」は日本における最初の雑誌であり、翌年発刊された「中外新聞」は日本人の手になる純日本新聞の嚆矢であった。明治二年(1869)、新政府により大学少博士に任じられたが、まもなく免職となった。つとに仮名文字論者でもあり、洋学者たちとの交流範囲の広さとともに多芸多才の人であった。明治三年(1870)、年三十九にて死去。

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永田町

2016年05月21日 | 東京都
(参議院議長公邸)


華族女學校遺蹟碑

 参議院議長公邸の門前に華族女学校遺跡碑が建てられている(千代田区永田町2‐18‐2)。
 華族女学校は、現・学習院中、高等科の前身で、明治二十二年(1889)から大正七年(1918)に青山に移転するまでこの地にあった。女子学習院が現在の牛込戸山に移転したのは第二次世界大戦後のことである。

(衆議員議長公邸)


東京女学館発祥の地

 明治十九年(1886)、当時あまり顧みられることがなかった女子高等教育の必要性を痛感した内閣総理大臣伊藤博文が創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」がつくられた。創立委員には、伊藤博文のほか、渋澤栄一、岩崎彌之助、外山正一ら、当時の政財官界の有力者によって構成されていた。その翌年、北白川能久親王を会長に戴き、女子教育奨励会が発足した。明治二十一年(1888)、同会が「諸外国の人々と対等に交際できる国際性を備えた、知性豊かな気品ある女性の育成」を目指して永田町御用邸雲州屋敷に設立したのが東京女学館である(千代田区永田町2‐18‐1)。現在、衆議員議長公邸があるこの場所は、当時雲州屋敷(越前松平系の旧松平出羽守邸。のちに閑院宮邸)であった。その後、虎ノ門、さらに現在地の広尾に移転した。

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