読み始めてから気が付いたが、この本は昔読んだことがある。書棚を探したら、朝日選書で出版された同名の本があった。内容はまったく同じであるが、中身は記憶がなかったので、改めて最初から読んでみた。著者橋川文三氏の専門は日本近代政治思想史で、西郷隆盛にも終生並々ならぬ興味を持ち続けた。昭和五十八年(1983)に亡くなられているので、もう没後三十年以上が経っている。
西郷隆盛は謎に満ちている。最大の謎が征韓論論争である。西郷は何故征韓論を主張したのか。明治六年(1873)、西郷が朝鮮に渡ったら歴史はどうなっていたのか。この問題を取り扱えるのは、もはや歴史家ではなく、想像力豊かな小説家か心理学者の領域かもしれない。西郷隆盛の遺書でも発見されない限り、永久に謎のままになってしまうだろう。
以前紹介したように、川道隣太郎先生は「死処説」を採用される。状況証拠に照らしても、説得力のある主張だと思う。西郷自身も朝鮮に渡れば半分は現地で殺される覚悟はしていただろう。自分はもはや時代遅れの役立たずだが、死ぬくらいは人並み以上にできる、と自負していたかもしれない。
橋川先生は、西郷が遠島処分を受けた沖永良部島に渡り、西郷の気持ちの変化を探測する。それ以前、奄美大島から帰還命令を受けたときは大喜びしていた西郷が、意外と喜んでいない。この時点でヤマトの政治に熱意や興味を失っていたのではないかと橋川先生は推察している。そう考えれば、死処説は俄然説得力を増すのである。
ただ私は、殺されずに朝鮮を説得し、友好裡に開国に繋げる自信もあったのではないかという気がしている。元治元年(1864)の長州征伐の終戦交渉の際、単身敵のふところに飛び込み、五卿の大宰府移転や征長軍の解兵を決めた。当時長州藩は薩摩憎しで固まっており、その象徴的存在である西郷が下関で暗殺される可能性は十分にあった。命知らずの行動、そして相手を感服させる人格的魅力で西郷は困難な交渉を解決に結び付けた。
西郷は、その師である島津斉彬の教えを信奉しており、日中韓が連携してロシアの脅威に対処する必要を感じていた。朝鮮にわたった西郷がそこで何を話したかは永遠の謎であるが、交渉がうまくいけばその後の不幸な日中韓の歴史は変わったものになっていたのではないかという気がしてならない。
西郷隆盛は謎に満ちている。最大の謎が征韓論論争である。西郷は何故征韓論を主張したのか。明治六年(1873)、西郷が朝鮮に渡ったら歴史はどうなっていたのか。この問題を取り扱えるのは、もはや歴史家ではなく、想像力豊かな小説家か心理学者の領域かもしれない。西郷隆盛の遺書でも発見されない限り、永久に謎のままになってしまうだろう。
以前紹介したように、川道隣太郎先生は「死処説」を採用される。状況証拠に照らしても、説得力のある主張だと思う。西郷自身も朝鮮に渡れば半分は現地で殺される覚悟はしていただろう。自分はもはや時代遅れの役立たずだが、死ぬくらいは人並み以上にできる、と自負していたかもしれない。
橋川先生は、西郷が遠島処分を受けた沖永良部島に渡り、西郷の気持ちの変化を探測する。それ以前、奄美大島から帰還命令を受けたときは大喜びしていた西郷が、意外と喜んでいない。この時点でヤマトの政治に熱意や興味を失っていたのではないかと橋川先生は推察している。そう考えれば、死処説は俄然説得力を増すのである。
ただ私は、殺されずに朝鮮を説得し、友好裡に開国に繋げる自信もあったのではないかという気がしている。元治元年(1864)の長州征伐の終戦交渉の際、単身敵のふところに飛び込み、五卿の大宰府移転や征長軍の解兵を決めた。当時長州藩は薩摩憎しで固まっており、その象徴的存在である西郷が下関で暗殺される可能性は十分にあった。命知らずの行動、そして相手を感服させる人格的魅力で西郷は困難な交渉を解決に結び付けた。
西郷は、その師である島津斉彬の教えを信奉しており、日中韓が連携してロシアの脅威に対処する必要を感じていた。朝鮮にわたった西郷がそこで何を話したかは永遠の謎であるが、交渉がうまくいけばその後の不幸な日中韓の歴史は変わったものになっていたのではないかという気がしてならない。