史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

市原 Ⅱ

2017年08月26日 | 千葉県
(上総国分寺)
 国分寺は、天平十三年(741)、聖武天皇の詔(みことのり)によって全国六十余国に造営された僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)からなる国立の寺院である。全国の国分寺を統括する寺として、奈良東大寺を総国分僧・尼寺とし、ここに律令国家の目指した日本全土を仏法に護られた地にするという仏教国家が確立した。崇高な理想とは裏腹に造営事業は困難を極め、その完成には民衆の労役と地方豪族の協力を得て、二十年近くの歳月を要した。全国に建造された国分寺も、民衆の支持を得られず、律令国家の崩壊とともにその多くが運命をともにした。国分寺の多くは廃れてしまったが、その一部は法華宗などによって再興され、現在まで存続している例もある。上総国分寺はその一例である。

 墓地内にスネくらいの高さの小さな墓石があり、正面に「軍中討死諸」という文字が見える。側面の文字は「慶応四年戊辰閏四月七日」「勝地利三」と読めるが、少なくとも「幕末維新全殉難者名鑑」に該当する人物は見当たらない。被葬者のことは不明であるが、徳川方兵士として戦死した者と思われる。


上総国分寺


軍中討死諸

 「義軍中討死諸霊墓」の他の文字が読み取れなくなってしまったものだろうか。

(深城共同墓地)


義顯盛戦信士(森田栄之助の墓)

 深城の共同墓地に森田栄之助の墓がある。墓碑によれば慶応四年(1868)閏四月八日の没。栄之助は畑木付近で交戦して、重傷を負い、兄の介抱を受けながらこの付近まで逃れた。しかし、空腹と疲労のため動けなくなり、兄の介錯で自刃。森田栄之助についても「幕末維新全殉難者名鑑」に記載が見当たらない。

(宝寿院)
 「千葉県の歴史散歩」(山川出版社)によれば、「上高根小勝山団地の北すみに宝寿院の墓地がある。墓地内には幕末の力士で、上高根出身の大関小柳常吉の墓がある」という。しかし、小勝山団地の「北すみ」をいくら探しても墓地らしきものは見当たらない。宝寿院の墓地があるのは、宝寿院から真っ直ぐ数百メートル南下した辺りである。


宝寿院


妙法常正院詣山日猛居士(阿武松常吉の墓)

 小柳常吉は、文化十四年(1817)の生まれ。文政十年(1827)、十一歳のとき、江戸に出て力士阿武松の弟子となった。初名を緑松慶治郎といい、文政十二年(1829)には御前相撲にて時の将軍家斉より賞された。天保六年(1835)、幕下十一枚目となり、翌年には緑松常吉と改名、さらに天保八年(1937)、小柳常吉と改名した。天保十年(1839)、入幕。嘉永三年(1850)春、関脇、同五年(1852)大関に進み、安政三年(1856)十一月、引退して年寄阿武松を襲名した。因みに、現在元益良雄が親方を務める阿武松部屋は江戸時代に起源を持つ由緒ある相撲部屋なのである。数年前の賭博事件でこの部屋から多数の逮捕者が出たのは残念至極であった。
安政元年(1854)、米使ペリーが来航した時、横浜で彼らに相撲を披露した。その折、小柳はアメリカ水兵三人を一度に手玉にとったという。安政五年(1858)、四十二歳で没。

(本泰寺)


本泰寺

 下野(しもの)の本泰寺本堂のすぐ横に真坂左一郎の顕彰碑と真坂家の墓が並んで置かれている。左一郎は、姫路藩儒の家に生まれ、戊辰戦争に参戦後、当地の農家真坂家を継いだ。維新後は学校の校長などを務めた。


真坂左一郎顕彰碑(左)
真坂家の墓(右)


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姉ヶ崎 Ⅱ

2017年08月26日 | 千葉県
(永津共同墓地)
永津共同墓地(市原市畑木)に近澤岩五郎の墓地がある。この人物のことも「幕末維新全殉難者名鑑」に記載がないが、徳川義軍に参加して慶応四年(1868)閏四月七日、死亡した。
 同じ墓地の海上家の墓に合葬されている。


義勝院放香道身居士(近澤岩五郎墓碑)

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五井 Ⅱ

2017年08月26日 | 千葉県
(青柳北共同墓地)
 青柳の共同墓地に徳川方の戦死者の墓が四基ある。それぞれ墓石には「齊藤庄之助 純教居士霊位」「土屋勘次郎光朝 純理居士霊位」「吉岡恒太郎 純行居士霊位」「渡邉氏 純證居士霊位」と刻まれているのが確認できるが、「幕末維新全殉難者名鑑」に彼らに一致する名前を見出すことはできない。没年月日は、いずれも慶応四年(1868)閏四月七日である。


青柳北共同墓地
徳川方戦死者の墓


(松ヶ島)
 菅原神社の北、松ヶ島の共同墓地にやはり出津付近の戦闘で戦死した青野虎之助の墓がある。
 青野虎之助が戦死したのは、慶応四年(1868)閏四月七日。松ヶ島で官軍の砲弾を受けて戦死したといわれる。行年三十八。やはり「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はない。


徳川義軍 青野虎之助の墓

(出津村古戦場跡)


出津村古戦場跡

 養老橋西詰を百メートルほど北上したところに、平成十八年(2006)に出津史跡保存会が建てた古戦場の石碑が建っている。
 慶応四年(1868)閏四月七日、徳川義軍と官軍が養老川を挟んで戦ったことを記したものである。

(龍昌寺)


龍昌寺

 飯沼の龍昌寺墓地には、小倉由次郎の墓がある。墓碑によれば、慶応四年(1868)五月十七日、戦死とある。
 小倉由次郎は請西藩士。江戸詰。遊撃隊東軍第四軍に属し、箱根で戦死したとされる。


臣道誠忠居士(小倉由次郎の墓)

(飯沼共同墓地)
 この日は、市川のグラウンドで野球の練習に参加して汗を流した後、市原に移動して過去にチャレンジして行き当たらなかった、五井、姉ヶ崎周辺の史跡を回ることにした。野球の練習で十分汗だくになっていたが、炎天下に歩き回って、これ以上出ないというくらい汗をかいた。まだ梅雨明けは宣言されていないが、この夏一番の暑さを記録した。
 養老川に沿って南下して、日立化成飯沼寮の近くの飯沼共同墓地で徳川義軍の墓を訪ねた。ただし、この墓碑の下に眠る戦死者の名前は伝わっていない。


徳川義軍無名戦士之墓

 中央に新しい墓碑が建てられているが、恐らくその背後の石塊が古い墓石であろう。

(中瀬墓苑)
 六年前、探し当てられなかった「三士之墓」に再チャレンジである。前回も歩いた中瀬墓苑内を探す。無縁墓石の中に、「三士の墓」を発見した。


戊辰之役 三士之墓

 市原市文化財研究会刊「上総市原 第三号」(昭和五十四年十二月)と同じ文化財研究会の「義軍官軍むかしむかし」によれば、この墓は間者として撤兵隊に捕えられて拷問の末、処刑された官軍兵士の墓ということである。恐らく市原市内で唯一の官軍の墓である。彼らは厳しい拷問にも口を割らなかったため、出自も氏名も伝わっていない。

(下谷共同墓地)


岡村善六の墓

 下谷共同墓地を訪ねたのも二回目である。この墓地に百姓善六の墓がある。なかなか見つけにくい墓で、今回も墓地内を二周半くらい回ってようやく出会うことができた。岡村家の墓を目印にすると良い。
 岡村善六は、慶応四年(1868)閏四月七日、流れ弾に当たって死亡したといわれる。

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「明治国家をつくった人びと」 瀧井一博著 講談社現代新書

2017年08月25日 | 書評
「明治国家をつくった人びと」と問われて誰の名前を思い浮かべるだろうか。明治国家をつくるという壮大な作業に携わった人は、十人や二十人ではないはずである。国家といっても、法制なのか、陸海軍なのか、学制なのか、地方自治なのか、芸術文化なのか、分野によって連想する顔と名前は様々である。筆者の専門は憲法史・国政史であり、自ずとこの分野に収束しているが、それでも本書で紹介される人々は多様である。
 まず幕末期に西欧と接触した例として、文久使節団や長州ファイブを紹介する。この記述で一番興味を引いたのが高杉晋作の上海渡航であった。高杉晋作は文久二年(1862)四月、密航して上海の惨状を目の当たりにする。「上海は中国領でありながら、英仏の土地といっても過言ではない。イギリス人やフランス人が町中を歩けば、中国の人はみな避けて道を譲る」という状況であった。高杉晋作は西欧文明の強大さに衝撃を受け、攘夷の不可を悟ったとされる。
 ところが帰国した晋作は、いきなり品川御殿山に幕府が建設していた公使館を焼討するのである。この飛躍した行動は、第三者には理解不能である。司馬遼太郎先生は、この理由を「晋作の戦好き」に求めた。
―――(戦争でなきゃ、どうにもならん)
と、思うほどこの青年は戦争が好きであった。
というのだが、それが長州藩をまるごと無謀な攘夷活動に投じる理由になるのだろうか、という疑問が残る。
 本書では、晋作が上海の惨状の原因を中国の人が「攘夷の心を失った」ことに見出したとする。だから帰国後の晋作は、以前にも増して過激な攘夷主義者になったというのである。御殿山公使館焼討前後の晋作の心理変化を初めて腹に落ちるかたちで解説してもらった気がする。
 本書後半では、明治憲法を作った人々が登場する。伊藤(博文)が明治憲法を作り、山県(有朋)が教育勅語や地方自治を作ったといわれるが、真の起草者は井上毅で、伊藤も山県も彼の掌中で立ち回っていたに過ぎないという見方も学会では根強い。彼こそ「明治国家形成のグランドデザイナー」と称する専門家もいるという。
本書最終章では、伊藤と井上の論争を解説する。明治憲法制定の過程で、伊藤と井上の間では天皇と内閣の政治的地位をめぐって激しい論争が展開された。
井上は、伊藤の起草した夏島草案は行政権の主体としての内閣を強調しすぎている、天皇の行政大権を冒すことになっていると主張し、夏島草案の内閣規定をことごとく削除するよう求めた。井上がここまで天皇親政にこだわった背景には、天皇親政が明治維新の基本理念という強い信念があったのであろう。明治維新の主体となった長州に属する伊藤博文が連帯責任制の内閣という規定を憲法に導入しようとしていたのに対し、藩閥外の肥後出身の井上毅が「絶対的君主の信任とそれに対する責任を負った政治のあり方」を主張したというのが、誠に興味深い。
井上には議会に対する絶望的な不信感があったという。「議会は必ずしも国民全体の社会的利害関係の真の代表たり得ないことを喝破」した。議会政治に慣れた我々にしてみれば、そこまで議会を否定するのもどうかという印象を受けるが、翻って現代の議会の有様を見れば、果たして議会は社会の利害関係を反映する鏡となっていると言えるのだろうか。井上の不信感もあながち的外れとはいえないのではないかという気がするのである。
 本書では伊藤博文、山県有朋、井上毅、穂積八束、金子堅太郎、大鳥圭介、加藤弘之、渡辺洪基、箕作麟祥、栗本鋤雲、ジョセフ彦、玉虫左太夫ら、明治国家創成に関わった様々な人物を紹介する。彼らに共通するのは「明治の政治家たちはみな比類なき知性の働きに支えられて」いることである。端的にいえば、国家のために非常によく勉強しているということであり、国家のことを案じて真剣に熱い議論を交わしていたことが、残されている資料や膨大な蔵書からも伝わってくる。現在、ワイドショーの餌食となっている政治家の言道の軽いことを思うと、隔世の感を否めない。

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熊谷 Ⅴ

2017年08月18日 | 埼玉県
(報恩寺)
 熊谷市大原の報恩寺は、広大な境内を持つ寺である。少し離れた場所に墓地があるが、市街地にありながら、これもまたとてつもなく広い。その入口に近いところに梁田の戦闘で負傷死亡した長州藩伊藤十郎の墓がある。


報恩寺


官軍先鋒伊藤十郎藤原定利墓

 伊藤十郎は長州藩装条銃足軽。第一大隊。慶応四年(1868)三月九日、下野梁田で負傷。同月十七日、武蔵熊谷にて死亡。三十四歳。

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前橋 Ⅴ

2017年08月18日 | 群馬県
(前橋公園)


楫取素彦・楫取夫人寿子
新井領一郎・星野長太郎像

 大河ドラマで「花燃ゆ」が放送されたのは、平成二十七年(2015)のことであるが、放送が終了した昨年の八月、「楫取素彦と松陰の短刀」をテーマとした銅像が完成した。いかにも時期を逸したような話だが、除幕が遅れたのは寄附金の集まりが思うように進まなかったことが背景にあったようである。
 銅像のモデルは、県令楫取素彦、その夫人寿子、星野長太郎と生糸の直輸出を目指して渡米しようとする新井領一郎(星野の実弟)の四人である。松陰の実妹である寿子が、新井領一郎に松陰の短刀を渡して奮起を促す場面を再現したものである。大河ドラマでも取り上げられた。
 この銅像のかたわらには、ポケモンゴーに興ずる初老の集団が陣取っていて、なかなか写真を撮らせてもらえなかった。良い年してポケモンゲームなんて…と思ったが、他人の趣味をとやかくいうのも野暮なんで、何もいうまい。


宮崎有敬翁紀功之碑

 銅像の傍らには、以前高浜公園にあった楫取素彦功徳碑や宮崎有敬翁紀功之碑が移設されている。

(臨江閣)
 臨江閣は、明治十七年(1884)、迎賓館として建設された。当時の県令楫取素彦や下村善太郎ら地元有志や銀行などの企業の寄附によってつくられた。木造二階建ての数寄屋風の建物である。私が訪れた時、ちょうど大がかりな改修工事中で、残念なことに建物の中を拝観することはできなかった。


臨江閣

 臨江閣の庭園内に茶室畊堂庵(こうどうあん)がある。臨江閣とともに明治十七年(1884)に建てられたものである。創建当時は特別な名称は無かったが、平成二十年(2008)、楫取素彦の号「畊堂」に因んで、畊堂庵と命名された。


臨江閣茶室
畊堂庵


星野翁碑

 臨江閣庭園内の巨大な石碑は、星野長太郎の顕彰碑である。星野長太郎は、弘化二年(1845)生まれ。上野水沼村(現・群馬県黒保根村)の出身。明治七年(1874)、水沼製糸所を創業。村内の座繰り糸の仕上げ工程を共同化して、生糸の大量出荷とアメリカでの直接販売をこころみた。明治十三年(1880)、上毛繭糸改良会社を創立し頭取に就任。明治三十七年(1904)衆議院議員となった。明治四十一年(1908)死去。六十四歳。

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渋川

2017年08月18日 | 群馬県
(吉田芝渓の墓)


吉田芝渓の墓

 江戸の末期から明治にかけて、渋川の地に渋川郷学(きょうがく)と呼ばれる学問が開花した。渋川郷学は、知行合一、尊王開国を説くものであった。渋川郷学の祖といわれるのが、吉田芝渓である。吉田芝渓は、宝暦二年(1752)に中ノ町で農業のかたわら糸繭商を営む吉田甚兵衛の長男に生まれ、名を友直といった。弟翠屛(すいへい)とともに北牧村の山崎石燕に学び、のち江戸に出て昌平黌の聴講生となって、天明五年(1785)には渋川村に来遊した平沢旭山に師事した。寛政五年(1793)には弟の翠屛や小作人とともに芝中の地へ移住し、五町歩余を開拓。この間に木暮足翁をはじめ多くの子弟を教育し、芝中の先生と呼ばれた。芝渓の実学の学風は足翁、高橋蘭斎、堀口藍園へと受け継がれた。著書に「養蚕須知」「開荒須知」等がある。文化八年(1811)、六十歳で没した。
 吉田芝渓の墓は、折原十二社のバス停のある交差点から南に二百メートルの場所で、弟の翠屛の墓と並んでいる。
 そこから百メートルほど東の、セメント工場の正門前にも吉田家の墓がある。こちらの墓地はすっかり雑草で覆われており、その中に埋もれるように墓石が点在しているが、どれが芝渓のものかはっきり分からなかった。


吉田芝渓の墓


吉田芝渓の墓?

(堀口藍園の墓)
 市役所通りの上郷交差点から東に百メートルほど入ったところに墓地があり、そこに堀口藍園(らんえん)夫妻の墓がある。樹齢約六百年といわれる大きなケヤキが目印である。


堀口藍園の墓

 堀口藍園は、文政元年(1818)に裏宿の紺屋堀口柳蔵の長男に生まれた。木暮足翁、高橋蘭斎、僧周林らに学び、また江戸から関西を遊歴し、尊王の志士、学者、文人と交わって識見を養い、学問(儒学)、徳行、家業、芸術の調和を図った。家業のかたわら塾を開き、実学の精神をもって門弟を教育し、門下生の中から明治・大正期の地方指導者を多数輩出した。明治維新後の大変革に際し名主になったり、上野総鎮撫使より群馬、勢多、利根、吾妻四郡の天領の総長や村童教授に任じられたり、熊谷県令より学区取締に任じられて行政教育に大きな貢献をした。明治二十四年(1891)、七十四歳にて没。

(堀口藍園生誕地)


堀口藍園生誕之地

 堀口藍園は、渋川宿の染物業堀口枡蔵の長男に生まれた。生家跡には、生誕之地と大きく書かれた看板が建てられている。

(真光寺)
 真光寺の墓地に木暮足翁の墓がある。


真光寺


木暮足翁の墓

 木暮足翁は、渋川南町に完成元年(1789)に生まれた。通称を五十槻、名は賢樹という。吉田芝渓、竹渓、屋代弘賢などに学んだ足翁は、子弟の教育にあたり、「横町の先生」と呼ばれた。医学を紀州の華岡青洲に学び、天然痘の予防接種を行うなど、地域医療に貢献した。高野長英に蘭学の教えを受けた。文久二年(1862)、七十四歳で没した。

(偏照寺)


偏照寺

 木暮足翁の墓がある真光寺と高橋蘭斎の墓のある偏照寺は、背中合わせとなっている。周囲は住宅で囲まれ、細い一方通行の道路を行かなくてはいけないが、両寺院とも駐車場が完備されているのが嬉しい。


高橋蘭斎の墓

 偏照寺の古い方の墓地のちょうど中央に高橋蘭斎の墓がある。今回、蘭斎の墓の場所について、事前に渋川市文化財保護課に問い合わせ、ご教示いただいた。
 高橋蘭斎は、寛政十一年(1799)に渋川村裏宿に生まれ、通称を茂右衛門、号を可度、勇魚ともいった。木暮足翁に和漢を、さらに巡遊してきた近江の人大寂庵立鋼(りっこう)に和歌を学んだ。農家で馬問屋を兼ね、名主も務めたが、医師を志して江戸に出、宇田川榕庵に蘭医学を学んだ。その後、帰郷し医業のかたわら塾を開き、堀口藍園ら多くの門弟を養成した。明治十五年(1882)、八十四歳にて没。

(後藤家)


後藤家


小栗上野介日記及び家計簿

 渋川市内の後藤家に小栗上野介の日記および家計簿が伝えられている。小栗の日記は二冊、家計簿は四冊。日記は慶應三年(1867)と同四年のもので、慶応四年(1868)に烏川で斬首された四日前までの百二十日分で、幕末の慌ただしい中で、大官名士の往来の状況が記されているという。家計簿は嘉永三年(1850)から文久三年(1863)までのもので、幕末旗本の経済状況を知る貴重な資料となっている。

(渋川八幡宮)


渋川八幡宮


堀口藍園翁碑
手前は堀口藍園贈位碑

 渋川八幡宮に堀口藍園の顕彰碑とその前に贈位記念碑がある。
 堀口藍園は、吉田芝渓から始まる渋川郷学の流れの終着点に位置付けられる人物である。維新後は渋川宿にて金蘭吟社を開いて後進の指導にあたったが、門弟は千人を越えたといわれた。

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沼田 Ⅱ

2017年08月18日 | 群馬県
(穴原)
 関越自動車道を沼田ICで降りて二十分ほど山奥に向かって進むと、穴原という小さな集落に行き着く。朝五時に八王子を出て、穴原に着いたのは午前七時前であった。


剱士中澤貞祇墓

 今年(2017)の一月、黒木メイサ主演で「花嵐の剣士~幕末を生きた女剣士・中澤琴」がNHKで放映された。女剣士が牛若丸ばりのチャンバラを繰り広げる、一見すると荒唐無稽な時代劇であったが(マイケル・ジョーダンだって助走なしで二階に飛び上がることはできまい)、実は中澤琴やその実兄中澤貞祇(さだまさ)は実在の兄妹で、時代劇で描かれたように新徴組に属して江戸市中警護を担当した剣士であった。穴原の集落の真ん中辺りに中澤家の墓地があり、そこに中澤貞祇、琴の墓がある。これまで数多の墓を見てきたが、墓石に「剣士」「女剣士」という肩書きは初めてであった。


女剣士 中澤琴墓

 中澤琴の墓は、NHKの放映と前後して建てられたらしく、真新しいものである。墓の側面に「昭和二年十月十二日没 一相貞参大姉位 推定行年八十八才」とある。

 中澤貞祇を継いで三代目の養武館道場主となった中澤栄太郎(昭和三年(1928)、六十九歳にて没)は中央の比較的新しい中澤家の墓に葬られている。


養武館道場址

 中澤家の墓地の向い側に、代々中澤家が道場主を務めた法神流養武館跡を示す、石碑がある。初代は中澤孫右衛門、二代が中澤貞祇、三代は中澤栄太郎。道場は大正初期に焼失してしまったそうで、今はただ草っぱらが広がるのみである。

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外苑前 Ⅲ

2017年08月11日 | 東京都
(梅窓院)

 山脇金太郎は、郡上藩凌霜隊。慶応四年(1868)八月三十一日(墓碑によれば九月朔日)、会津大内峠にて戦死。十七歳。


山脇金太郎橘正廉墓

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本郷三丁目・東大前 Ⅳ

2017年08月11日 | 東京都
(西教寺)
 西教寺表門は、酒井雅楽頭の屋敷から明治七年(1874)に移設されたものである。酒井雅楽頭家は、井伊家と並んで大老を務める重臣の家柄である。大正十二年(1923)の関東大震災の折、被害を受け、重量軽減のため瓦葺きから銅板葺きに改める等、一部修理が施されている(文京区向丘2‐1‐10)。


西教寺山門


松濤権之丞墓

 西教寺墓地に松濤権之丞の墓がある。
 松濤権之丞は、慶応四年(1868)三月二日、手附となり脱走兵を鎮撫した。同年閏四月六日、上総姉ヶ崎にて撤兵隊幹部に斬殺された(隊規違反か)。

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