(笠松神社)
笠松神社
新居浜に出張した帰路、ついでというには随分遠回りになるが、徳島に立ち寄ることにした。徳島市内を散策するのは、七~八年振りであるが、都会と違って町の風景はそれほど変わっていないように思った。
徳島城の少し西、すっかりビル街となっている一角に小さな祠がある。笠松神社といって、徳島藩の第一家老稲田家の屋敷跡である。稲田家屋敷には、枝ぶりの美しい松があって、傘を開いたように見えたことから、人々は笠松と呼んだという。明治初年に徳島城を撮影された古写真に笠松が写っている。
稲田家は、明治三年(1870)の稲田騒動(庚午事変)の主役となり、最後は北海道に移住させられている。
(徳島城東高校)
徳島県立城東高校
今回の徳島探訪では、関寛斎関係の史跡を訪ねる。関寛斎と徳島の関係は深い。文久二年(1862)、藩主蜂須賀斉裕の侍医となって、徳島に来たのが最初である。戊辰戦争では、新政府の要請により奥羽に出張して病院頭取として活躍したが、維新後、再び徳島に戻り徳島医学校の開設に尽力した。その後、山梨病院初代院長を務めた後、また徳島に戻って俸禄士籍を返還し、明治七年(1874)、城東の地に医院を開業した。現在の城東高校の一角に当たる。寛斎は、貧者からは治療費を取らず、自らは質素な生活を送り、庶民から「関大明神」を崇められた。この前の道は「関の小路」と呼ばれた。平成三年(1991)、「この地にゆかりの関寛斎の遺徳を偲び慈愛と進取のこころに学ぶべく」この慈愛進取の碑が建立された。
慈愛進取の碑
(中徳島河畔緑地公園)
中徳島河畔緑地公園
城東高校から歩いて直ぐ、助任川沿いに作られた中徳島河畔緑地公園に関寛斎の石像が置かれている。一見するとモアイ像のようだが、片手に医書を持ち、フランス式の軍服に身を包んだ寛斎の姿である。
寛斎が徳島城東の地で開業していたのは約三十年に及んだ。七十二歳にして廃業し、夫人を伴って北海道に移住した。開拓に老身を捧げたが、大正元年(1912)服毒して自らの命を絶った。
関寛斎像