史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「武士の娘」 杉本鉞子著 大岩美代訳 ちくま文庫

2016年03月27日 | 書評
著者杉本鉞子は長岡藩家老稲垣平助の娘に生まれ、のちにアメリカに渡ってコロンビア大学で日本文化史の教鞭をとった。「未開の封建国から来た女性が、アメリカ社会でキリスト教と西洋文化に接して覚醒した」というストーリーがアメリカ人に受け、本書は往年のベストセラーとなった。さらにドイツ、フランス、デンマーク、スウェーデンなど七か国語に翻訳され、絶賛を博した。
前半は、著者の幼少期の記憶が語られる。今となっては想像もつかないが、明治の生活は現代人の目にはやや退屈に見える。そんな中でも、正月や盂蘭盆、ひな祭りなど、季節ごとにイベントがあり、家族が集まって昔語りをする。その都度、幼い著者は、「ときめき」を覚えたという。そうやって著者は、鋭敏な感受性を養っていったのであろう。「栴檀は双葉より芳し」というが、その譬えがピタリと当てはまる女性であったように思う。
著者は結婚を機に米国に渡るが、武士の娘として育てられ、身に着けたものを失ったわけではない。「女は一度嫁すと、夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任をもつ」よう教育を受けた彼女としては、米国の婦人らが、夫の目を盗んで靴下の内にお金を貯える(つまり「へそくり」)だとか、友達から金を借りたりする行為には、合点がいかなかったようである。
著者は「日本人というものは感情を出さない国民」と語る。「おかしい時には、袂のかげで笑い、子供が怪我をしても、涙をのんで「泣いちゃいけないよ」といいながら、すすり泣くのです。母がその死を告げるにも、失望のかげさえ見せず、微笑んでおり(中略)内心困りはてていながらも、なお、それと反対の面持ちでいるものです」。武士の娘の目には、人前で接吻をするような欧米式の愛の表現はどうにも理解ができなかったようである。
感情を表に出さないという国民性は、今でも日本人社会に根付いている。事故や犯罪で肉親を失ったときの遺族の対応を見ると、明らかに欧米や或はお隣の中国、韓国とも様相が異なる。日本人にとって、人前で泣き喚いたり、大声で怒鳴ることは、ハシタナイことなのである。
「思うこと」の最後に年老いた庭職人が紹介されている。この職人は、庭石をほんの二三寸動かしてはやり直しをしていた。お金にならないことなど気にも留めず、芸術的満足を得られるまで時間を費やした。この逸話も、日本人の精神性を表す典型例である。
本書は期せずして、日米の比較文化論となっている。つまり風俗や風習、ものの考え方などの違いが著者の体験を通じて浮き彫りにされているのである。著者が生きた時代から二代三代と世代を重ねるにつれて、彼我の風俗風習の差は小さくなってきた。本書は、この時代でこそ、そして武士の娘としての躾をたたきこまれた著者でこそ書き残すことができた名作といえる。
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「明治を作った密航者たち」 熊田忠雄著 祥伝社新書

2016年03月27日 | 書評
予防接種を受けていたというのにインフルエンザに罹患してしまい、三日間寝室で軟禁状態となった。その間、ヒマに任せてこの本を読破した。高熱を忘れるくらい面白い本であった。
海外渡航は国禁とされていた幕末、それでも危険を冒して密航を企てる者が続出した。吉田松陰のように、失敗して無念の涙を流した者も少なくない。本書では密航者を「グループ密航者」と「単独密航者」に大別し、それぞれのドラマを紹介している。
グループ密航者で取り分け有名なのは、薩摩と長州の密航者であろう。中でも長州藩の五人は「長州ファイブ」と呼ばれ、いずれも「我が国○○の父」と称される存在となった。
長州ファイブと時期も重なり、雄藩による集団密航という意味では共通する薩摩藩の密航者については、五代友厚が提案して実現したものである。長州藩との大きな違いは経済的なバックアップの手厚さであった。この時期、欧米への密航には、渡航費と初年度の学費、生活費を合わせて一人千両が必要とされた。一両は現在価値に直すと概ね一万円とされ、だとするとざっと一千万円である。長州藩の五人は、五人分五千両を捻出するのに四苦八苦したらしい。一方、薩摩藩では、十年分の留学費用として二十万両(つまり二十億円)を支給されたという。薩摩藩は二年続けて二十五人もの留学生を海外に送り込んだ。これだけの財政的基盤があったからこそ、遠く離れた京都に軍隊を長期間駐留させ、戊辰戦争では東北から蝦夷地にまで兵を送り続けることが可能であった。薩摩藩が幕末をリードできた背景には、圧倒的な財政力があったことを改めて思い知らされる。
長州藩の一人山尾庸三は、「金欠」に悩んだ末、恥を忍んでロンドン在住の薩摩藩留学生に借金を申し込んでいる。同じ年、日本国内では薩長同盟が結ばれ、外地でも両者の間に信頼関係が生まれていた。薩摩留学生は、一人一磅(ポンド)をカンパすることになり、合計十六磅(日本円にして約十両)が集まった。山尾は大感激して、造船業を学ぶためグラスゴーへ旅立った。
グループ密航と比べると、単独密航はよりスリリングである。本書では橘耕斎や新島襄などを紹介しているが、やはり脱国当日の場面は最大の山場である。橘耕斎の脱国手段については諸説あるようだが、大きな櫃に入れられて船まで運ばれたとか、いや樽だったといわれる。ロシア人が樽のフタを開けたとき、耕斎は両脚を上にしていた。搬出からずっとその姿勢だったらしい。
新島襄の出国の際も、船底の貨物室の中でじっと息を潜め、役人による積み荷の点検が通り過ぎるのを待った。脱国が成功するかどうか、というより生きるか死ぬかの瀬戸際であった。
欧米への密航となると日数もそれにかかる費用も莫大になるが、行先が上海となると、かなり身近なものだったようである。今でも上海出張の際に飛行機の窓から景色を眺めていると、九州の島々が見えなくなったと思ったら、もう上海への着陸は近い。長崎の人たちにしてみれば、江戸に行くより上海はずっと手近な存在だったに違いない。
土佐藩の谷干城は後年西南戦争において、薩軍の猛攻に耐えた熊本城の守将として有名になった人だが、慶応二年(1866)、藩庁から長崎および上海への出張を命じられた。谷に課された任務は、長崎に滞在している後藤象二郎の身上調査であり、もう一つは上海での海外事情探索であった。当時、後藤は会合や遊興のため藩の公金を散財しているとの噂が高知城下まで聞こえており、その事実確認を谷に命じたのである。長崎に着いた谷は、早速後藤と面談して公金乱費の疑惑について詰問したが、後藤は直ちに否定して谷はそれを了とした。要するに言いくるめられたのである。その後、上海密航の先輩である後藤から経験談や密航手段などを伝授され、両者はすっかり意気投合して連日酒宴に興じた。
上海に着いた谷は、後藤に教えられたとおり、赤い袴を着用して街に出たが、そのような格好をした人間は一人もいない。このとき初めて後藤にはめられたことを知り、苦笑いしたという。
この頃には上海には多くの日本人が居住していた。谷の上海滞在はわずか四日に過ぎないが、その間に阿波の人(姓名不明)や八戸順叙、名倉予阿人(浜松)のほか、西洋人の妾となった長崎の元遊女なども見かけた。当時の上海には、すでに合法非合法を問わず、さまざまな日本人が頻繁に訪れ、街の中で出会っても何の違和感もないような状態になっていたのである。
海外密航前夜の気分を井上馨はこのように書き残している。
「空しく隔靴掻痒の嘆を抱く秋(とき)にあらず、寧ろ一躍外国に渡り、其物情を視察し、其技術を実習し、以て速やかに国家の急に応ず可き」
個人の海外留学が最終的には国家を利するという思考は、幕末や明治にして通用する気分であり、なかなか現代の若者に同じように考えろといっても無理があるかもしれない。今や日本と欧米の格差は、大騒ぎするほど大きくない。わざわざ海外に行かなくても日本で十分学べるというのも一理あるかもしれない。国内にいながら海外の情報が手に入る現代で、何も危険を冒して海外に渡航する動機を見出せないのも分からないわけではないが、やはり実際に行ってみないと分からないことも多い。内向き志向が強いといわれる若者に是非読んでもらいたい一冊である。

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桑名 Ⅳ

2016年03月26日 | 三重県
(大福田寺)
 伊賀上野から伊賀鉄道にて伊賀神戸(かんべ)に出て、そこから近鉄を乗り継いで桑名に出る。桑名では駅前の桑名市物産観光案内所にて自転車を貸してくれる。これまで何度か桑名に立ち寄っているが、いずれも年末年始の休業日に当たっていたため自転車を調達できなかった。今回初めて自転車を借りて市内を探索することができた。遠距離を移動するので、電動自転車を選んだ(借りるときに保証料千円を支払うが、返却時に戻ってくる。つまり実質無料である)。市内の大福田寺、仏眼院、晴雲寺を回ったが、実に快適であった。


大福田寺


藤原廣蔭墓(鬼島広蔭の墓)

 大福田寺に富樫(鬼島)廣蔭の墓がある。墓石には藤原廣蔭と刻まれている。
 鬼島廣蔭は、寛政五年(1793)、和歌山に生まれた。文政四年(1821)、二十八歳のとき、本居大平に神典・歌道を学び、翌年、その嗣となり、松坂で本居春庭に学んだ。さらにその翌年、多病により本居氏の嗣を辞し、曾祖母の富樫家を継ぎ、再び松坂で春庭について語学・歌書・神典など国学を究めた。文政十一年(1828)、春庭の没後、遺子、弟子の指導に当たり、小津久足に後事を託した。翌年、多度神社神主、桑名の中臣神社の祀官を兼ね、鬼島家を継ぎ、国学を子弟に教授した。安政二年(1855)、上京して従五位下に叙せられた。古典に明らかで語法に詳しく、音義に新設をたて、その門人約千七百人を教えた。門下に竹内南淵、吉川楽平、堀秀成、落合直澄、長尾名島、富樫広厚、山本資胤などの人材を出した。明治六年(1873)、八十一歳で没。

(佛眼院)


佛眼院

 佛眼院は桑名藩主の祈願所であり、規模・格式ともに領内において最も有力な寺院の一つであった。佛眼院が残した『公私用留記』には鳥羽伏見戦争の勃発から桑名開城に至る切迫した状況が記録されている。また『公私用留記』では赤報隊が安永村晴雲寺に入った様子が記録されている。「悪党共之様子ニ十分相見へ候」「大方奕徒」と表現されており、「怪しい一軍」と受け止めていることが見て取れる。

(晴雲寺)


晴雲寺

 安永の晴雲寺には赤報隊が宿泊した。「相楽総三とその同志」(長谷川伸著 中公文庫)によれば、一行は綾小路俊実の隊に合流するため、慶応四年(1868)一月二十八日、晴雲寺に入った。その報が亀山藩に届くと、「偽ものの公卿と強盗どもが泊った」と受け取り、進藤百助率いる藩兵は直ちに晴雲寺を包囲した。彼らを偽物と信じて疑わない亀山藩士らは滋野井公寿らを生け捕り東征軍本営に引き渡した。このとき激しく抵抗したのは赤木小太郎のみだったと伝えられる。赤木は亀山藩士に組み伏せられ捕えられた。捕えられた川喜多真彦(亀山藩士)、赤木、綿引富蔵の三人は三滝川(御嶽川)の河原に引き出され、首を刎ねられた。

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伊賀

2016年03月26日 | 三重県


伊賀鉄道

 京都から八王子に戻る途中、今回は三重県の伊賀上野と桑名に立ち寄ることにした。朝七時過ぎに実家を出て、七時四十一分発の近鉄急行に乗車する。祝園でJRに乗り換え、木津、加茂、伊賀上野を経て十時半に伊賀市の上野に行き着いた。ほぼ三時間を要したが、そのうち一時間半は待ち時間であった。JRの乗り換えは実に効率が悪い。特に加茂で関西本線への乗り継ぎでは三十分以上を待たされた。利用者を増やしたければ、もう少し利用者の利便を考慮したもらいたいものである。
 JRの伊賀上野駅は市街地の北の外れにある。そこから伊賀鉄道という典型的なローカル線に乗って上野市駅を目指す。
 伊賀上野は忍者の街であり、松尾芭蕉の出身地でもある。駅前で芭蕉像が出迎えてくれる。


芭蕉像

(上野城)
 伊賀上野城は、別名を白鳳城という。天正十三年(1585)、伊賀の国を平定した筒井定次が三層の天守を築き、北に表門を構えた。豊臣秀吉の没後、徳川幕府が開かれると、慶長十三年(1608)、定次を失政を理由に改易。藤堂高虎が伊賀・伊勢の城主として伊予今治から移り、筒井故城を拡張した。しかし、五層大天守は竣工直前暴風雨で倒壊し、直後に大阪夏の陣で豊臣方が敗亡したため、城普請は中止となり、その後城代家老が執政することになった。


上野城

 現在の上野城大天守・小天守は、昭和十年(1935)、当時の衆議院議員川崎克氏の尽力により再建されたもので、必ずしも創建当時の天守閣を参考にしたものではないが、それでも街から仰ぎ見る白亜の天守は美しい。シンボル・タワーとして存在感を放っている。


川崎克胸像

(上野高校)
 上野高校のシンボル的建物が、明治三十三年(1900)に建設された明治校舎である。今も現役で使用されているというのがとにかく素晴らしい。


上野高校 明治校舎

(旧崇廣堂)
 崇廣堂は、文政四年(1821)、伊勢津第十代藩主藤堂高兌の時代に伊賀、大和、山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため、津藩校有造館の支校として建てられたものである。


崇廣堂御成門


旧崇廣堂

 開設から約三十年を経た嘉永七年(1854)、伊賀地方を中心とした大地震(安政の伊賀大地震)により、講堂を除く多くの建物が倒壊した。翌年から復興され、今も創建当時の講堂、表門、御成門、玄関棟のほか、北控所、母屋等がよく保存されている。


講堂

(藤堂新七郎屋敷跡)


藤堂新七郎屋敷跡

 伊賀鉄道上野駅近くに藤堂新七郎屋敷跡と記された石碑がある。藤堂新七郎家は、藤堂高虎の祖父良隆の孫(つまり高虎とは従兄弟)に当たる藤堂良勝を祖とする家である。良勝は高虎の股肱の臣として仕え、たびたび戦功を挙げた。その後、藤堂新七郎家は、代々伊賀上野の城代家老などを務めた家である。松尾芭蕉もこの家に仕えていたことを知られている。
 文久三年(1863)の天誅組の変では、紀州藩や彦根藩とともに津藤堂藩も出兵を命じられているが、藤堂藩兵を率いていたのは、藤堂新七郎であった。
 同年九月朔日、吉村寅太郎は、紀州藩家老水野大炊頭忠幹宛てに書状を出した。「貴藩が大軍を出して我らに発砲しているのは、どういう間違いか」と糺している。さらに追ってきた津藩兵約千二百を率いる藤堂新七郎に対し、「貴藩はかねて勤王の志があると承知しているが」「然るにこの度五條に出兵したというのが、官軍に敵対するに等しい。一度お会いして存念をお伺いしたい」と皮肉たっぷりに問い詰めている。
 この時、使者にたったのが、下館藩士渋谷伊豫作であった。津藩では、渋谷を酒食でもてなし、眠ってしまったところを取り押さえたという。
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岡崎 Ⅸ

2016年03月19日 | 京都府
(知恩院)


男爵前田正名記念碑

知恩院の駐車場(ちょうど連月茶屋の向い辺り)に前田正名の顕彰碑がある。
前田正名は薩摩藩士。フランス留学、パリ万国博事務官等の後、農商務省官僚として殖産興業に尽くした。明治十八年(1875)、官を辞すると行脚と称して全国を巡回し、地方の産業の育成を指導した。
この碑は、前田正名の没後、知人友人らの手によって建立されたもので、富岡鉄斎の描いた行脚中の前田正名の姿と、明治四十三年(1910)、前田正名が欧州視察時に鉄斎が送った七言絶句が刻まれている。

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大津 Ⅱ

2016年03月19日 | 滋賀県
(五本桜墓地)


含秀院正節定義居士
妙空院蓮室慈照大姉
(川瀬太宰夫妻墓)

 最寄駅は、京阪京津線の上栄町。ここから小関越えと呼ばれる旧街道を歩く。大津から京都に入る道は、逢坂越えが一般的であるが、どの北側を走る裏道である。新光寺や等正寺の大きな墓地が右手に広がるが、それを無視して進むとやはり右側に五本桜墓地が現れる。その入口近くに川瀬太宰夫妻の連名墓がある。墓石によれば、川瀬太宰の没月日は慶應二年(1866)六月六日、妻幸は慶應元年(1865)六月十六日となっている。新選組に自宅に踏み込まれた太宰の妻は、その場で自刃。捕えられた太宰も投獄され、一年後に斬首された。

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伏見 Ⅶ

2016年03月18日 | 京都府
(月桂冠情報センター)


伏見土佐藩邸跡

 少し見ぬ間に伏見寺田屋周辺はみなと公園などが整備され、史跡を表わす石碑が建てられ、観光地として整備されたようである。酒蔵には大型バスが駐車できる広い駐車場も整備され、連日観光客が運ばれてくる。集客には一定の効果があったようである。
 せっかくなので、新しく建てられた(といっても平成二十一年(2009)のことなので随分時間が経っているが)石碑を訪ね歩いてみたい。

 月桂冠情報センターの敷地内には伏見土佐藩邸を示す石碑が建てられている(伏見区南浜町248‐4)。この辺りには、幕府の公用や船着き場に関連した人や物資の輸送を担った伏見伝馬所があった。また、木津屋与左衛門や大津屋小兵衛宅などが本陣として利用され、その周辺には旅籠が建ち並んでいた。土佐藩では家臣の生活や労働の場として伏見に藩邸を置いていた。
 慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、土佐藩兵は警備には就いていたが、山内容堂より「このたびの戦争は、薩長と会津・桑名の私闘であるから、沙汰をするまでは戦争に加わることは禁ずる」と告げられていた。しかし、藩大目付の乾退助は「京都でことが起これば、黙って薩摩と行動を共にせよ」と密命を出していたため、藩士の一部は、藩主の命令を無視して参戦した。結果的に土佐藩は「復古討賊に大功あり」として、朝廷から称賛を受けることになった。

(伏見土木事務所)


伏見長州藩邸跡

 伏見土木事務所辺りが、伏見長州藩邸跡となる(伏見区表町578)。
 元治元年(1864)七月十九日未明、長州藩家老福原越後は、伏見長州藩邸から武装した約五百の兵とともに京へ進発した。その途中、伏見街道の稲荷附近から竹田街道を守る大垣、会津、桑名、鯖江の藩兵と衝突し、禁門の変が勃発した。福原率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出たが、彦根藩ほかの連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃し、このため伏見長州藩邸は焼け落ちた。

(京橋)


京橋

 京橋辺りが往時の伏見港の中心である。京橋のたもとに「伏見口の戦い激戦地跡碑」が建てられている。慶応四年(1868)一月二日、鳥羽伏見戦争の前日夕刻、会津藩の先鋒隊約二百が大阪から船で伏見京橋に上陸し、伏見御堂(現・東本願寺伏見別院)を宿陣として戦った。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面に敗走したので、この辺りの多くの民家が焼かれ、甚大な被害を受けた。


伏見口の戦い激戦地跡

(伏見みなと公園)
 淀川の水運は、古くは京・大阪を結び、また琵琶湖を経て、遠く東海道、北陸とも連絡する交通の大動脈であった。慶長年間(1596~1615)、角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着き場として大いに栄えた。当時この付近には数十軒の船宿が建ち並んでいたというが、明治に入って京・大阪間に鉄道が開通すると、次第にさびれて、今は有名な寺田屋がわずかに昔の名残をとどめているに過ぎない。


伏見みなと公園

 最近になって、この付近が伏見みなと公園(伏見区表町574)として整備され、少し昔の風情を取り戻している。



 この公園の一画に「龍馬とお龍、愛の旅路」像が置かれている。この銅像が設置されたのは平成二十三年(2011)のことで、その前年大河ドラマで放映された「龍馬伝」に便乗したものであろう。気のせいかこの坂本龍馬像は実物より男前で、本人より福山雅治に似ている。


「龍馬とお龍、愛の旅路」像

 帰宅して分かったことであるが、これ以外に「坂本龍馬が避難した材木小屋の跡」とか「会津藩駐屯地跡」(現・東本願寺伏見別院)といった石碑も新設されているらしい。日を改めて訪問することとしたい。

(宝塔寺)


宝塔寺

 文久三年(1863)八月の禁門の変の際、御所付近における戦闘が始まる数時間前、深草周辺で武力衝突があった。当時、伏見街道守備の任にあたっていた大垣藩は、伏見に駐屯していた長州藩兵が夜半に進軍するとの報に接し、宝塔寺に一隊を集めた。八月十九日の午前一時頃、伏見街道を北上する長州藩福原越後隊は、大垣藩兵と遭遇した。会津、桑名、彦根藩からも応援が駆け付け、隊長福原越後が被弾落馬したこともあり、長州藩兵は入洛を果たせず伏見藩邸に引き返した。


亡洋山本先生之墓

 宝塔寺墓地には、本草学者山本亡洋を産んだ山本家の墓地や、大丸創業者下村家の墓地、孝明天皇の侍医をつとめた伊良子家の墓などがある。

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鞍馬口 Ⅱ

2016年03月18日 | 京都府
(上善寺)


正二位勲二等伯爵鷲尾隆聚之墓

 連休二日目、朝一番で上善寺を訪ねた。住職に鷲尾家の墓を詣でたいと伝えると、こころよくご案内いただけた。上善寺は、鷲尾家のほか、菊亭家、四条家、冷泉家、西四辻家、室町家、高倉家、高丘家など、旧華族の墓が多数ある。鷲尾家の墓は、墓地南西隅の長州人首塚に近いところにある。
 鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)は、天保十三年(1842)、鷲尾隆賢(たかます)の第二子に生まれた。嘉永三年(1850)、元服して昇殿を許され、文久二年(1862)侍従に任じられたが、その後朝譴を蒙って差控を命じられた。つとに勤王の大義を唱えて討幕の志を抱き、文久年間には上京した諸藩勤王の志士たちを糾合、寺院に寄託して時機を待った。慶応三年(1867)十二月、差控を許されるや、直ちに内勅を奉じて高野山に登り、檄を四方に飛ばして政府軍の糾合に努めた。このとき集まったのは千余人に及び、隠然たる勢力を形成した。ついで京都の同志と相呼応して大阪城の攻略等を企図し、慶應四年(1868)一月七日、錦旗を授けられ、ついで高野山より入京、新政府参与に人事、軍務事務局親兵掛を兼ねた。閏四月免じられたが、同年六月奥羽追討総督を拝命し、さらに東征大総督府参謀に転じ、七月二派奥羽追討白河口総督を命じられた。官軍を率いて東北各所を転戦して功があったが、病を得て総督、参謀を辞した。明治二年(1869)、三等陸軍将に任じられ、戊辰の戦功により賞典禄二百石を永世下賜され、八月陸軍少将に転じた。以降、五條県知事、若松県知事(のち若松県令)、愛知県令等地方官を歴任した。明治十五年(1882)、元老院議官。大正元年(1812)、年七十一にて没。


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御所

2016年03月11日 | 奈良県
(榎本医院)


榎本医院

 我が国草創期の女医といえば、シーボルトの娘楠本イネとか、荻野吟子らが有名であるが、彼女らより少し早い時期に活躍していた女医がいる。榎本住(すみ)である。現在も榎本家は病院を経営している。病院前に榎本住を顕彰する石碑が建てられているが、これは住が存命中の明治二十六年(1893)に建立されたものである。


女醫榎本住紀念碑

 榎本住は、その医術「妙訣、神の如し」ともいわれ、診察を請う者は後を絶たなかった、背が高く早口で、男勝りの性格であったが、診察は非常に丁寧親切であった。最後は肺炎で寝ていたところ、往診を請われ、人に背負われて診察に行き、帰って息を引き取ったという。
榎本住は、重傷を負った吉村寅太郎の措置を施したといわれる。高取藩との初戦に敗れた天誅組は、高取城に夜襲をかけることを決し、吉村寅太郎はその場で人数を集めて決死隊を結成し、高取城下に向かった。重阪(へいさか)村の庄屋西村清右衛門宅で夜になるのを待ち、夜七時頃同家を出た。十時頃、薩摩村木の辻にて警戒に当たっていた高取藩軍監役浦野七兵衛と出会い、吉村寅太郎は浦野と槍で渡りあった。そのとき後方から十津川郷士が放った猟銃が狙いを外れ、寅太郎の股の付け根辺りに命中してしまった。浦野はこの隙に逃走したが、天誅組一行も進軍を諦め戸毛村まで引き返すことになった。そこで女医榎本住の門を叩いて、銃創の応急措置を受けた。

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橿原

2016年03月11日 | 奈良県
(谷三山旧宅跡)
 谷三山の旧宅跡であり、私塾興譲館跡である。表札を見ると、今も谷家の方々が居住しているようで、歴史と伝統を感じる住宅である。嘉永六年(1853)四月五日、吉田松陰もこの家を訪ね、三山と意見を交わしたと伝えられる。松陰は聾唖の三山と筆談で意見を交わし「谷三山は天下の奇人というべし」「昌平(三山)の学逢ふ毎に之を奇とす」と、三山の学識と人となりに深い感銘を受けている。帰郷後も上方をめざす村塾生に、大和八木に立ち寄り三山に学ぶように盛んに勧めた。


谷三山旧宅跡

 谷三山は、享和二年(1802)、大和高市郡八木(現・奈良県橿原市)に生まれた。幼年より多病で、十五、六歳のころより聾となったため、もっぱら正史経伝の研究に没頭した。やがて家塾興譲館を起し、門人は千人に及んだ。嘉永二年(1849)、高取藩主植村家興は扶持を賜い士籍に列せしめた。三山の学は、経学を主とし、また経国済世に志あり、藩政あるいは攘夷や山陵修復などについて上書した。頼山陽も三山に敬服し、かたみとしてその大理石の印を贈ったという。老年失明し、慶應三年(1867)、六十六歳で没。

(今井まちなみ交流センター華甍)


今井まちなみ交流センター華甍

 橿原市の今井地区では、古い街並みをよく保存している。その一角に今井まちなみ交流センター「華甍」がある。この建物は、明治三十六年(1903)、高市郡教育博物館として建設されたもので、その後今井町役場としても使用されていた。現在は今井町の歴史を知るための史料や図書などを集めた地域交流センターと活用されている。


三山谷先生碑

 今井まちなみ交流センター華甍の前に谷三山顕彰碑がある。建立は大正五年(1916)。植村家壺の篆額。碑の前の谷三山の紹介文に、頼山陽が三山に贈った大理石の印の陰影を見ることができる。
 このあと「松陰の歩いた道」(海原徹著 ミネルヴァ書房)の「谷三山の墓は、晩成小学校の南側の墓地にある」という記述を頼りに、三山の墓を探したが、見つけられず。

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